ウラジーミル・イワノフ

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ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦の政治家
ウラジーミル・イワノヴィチ・イワノフ
Владимир Иванович Иванов
Vladimir Ivanov.svg
生年月日 1893年3月11日
出生地 ロシア帝国の旗 ロシア帝国トゥーラ県ロシア語版トゥーラ郡トゥーラ
没年月日 1938年3月15日(満45歳没)
死没地 Flag of the Russian SFSR (1937-1954).svg ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国モスクワコムナルカ射撃場ロシア語版[1]
出身校 モスクワ大学医学部ロシア語版卒業
所属政党 ボリシェヴィキ

Uzbek flag 01.gif ウズベキスタン共産党(ボ)中央委員会
第一書記
在任期間 1925年2月12日 - 1927年9月21日

在任期間 1931年3月27日 - 1937年2月5日

Flag of the Soviet Union (1923-1955).svg 全連邦共産党(ボ)北カフカース地方ロシア語版委員会
第二書記
在任期間 1927年4月 - 1931年4月

Flag of the Soviet Union (1923-1955).svg ソビエト連邦林業人民委員
在任期間 1936年10月1日 - 1937年10月31日
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ウラジーミル・イワノヴィチ・イワノフВладимир Иванович Иванов1893年3月11日 - 1938年3月15日)は、ロシアの革命家、ソビエト連邦の政治家。

生涯[編集]

1893年3月11日に、ロシア帝国トゥーラ県ロシア語版トゥーラで鍛冶屋・製図工の息子として生まれた[2]ロシア人[1]トゥーラ中等学校ロシア語版に進んで1909年から1910年に学生ストに参加し、1912年から社会民主主義運動に関わるようになった[2]。父は入党しなかったが社会民主主義者であり、3人の兄弟姉妹はいずれもボリシェヴィキの党員となっている[2]。ウラジーミル自身は1915年にボリシェヴィキとなった[2]。中等学校卒業後は1912年にモスクワ大学医学部ロシア語版に進んだが、1916年に逮捕され、同年に釈放されるも大学を放校された[3]。教師・書記・医療助手・樵・人夫など職を転々としていたが[2]、復学し1918年に医学部を卒業した[3]

二月革命が発生すると、1917年2月から7月までボリシェヴィキのモスクワ市ハモヴニキ地区英語版委員会書記を務め、地区議会のメンバーにも選出された[2]。11月にはバスマンノエ地区ロシア語版軍事革命委員会英語版メンバーおよび赤衛隊ロシア語版参謀を務め[3]、7月から翌1918年8月までは党バスマンノエ地区委書記を務めた[2]。同時期にはモスクワ市ソビエトロシア語版幹部会メンバーや党モスクワ委メンバーでもあった[2]。1918年8月に党サラトフ県ロシア語版カムィシン郡ロシア語版委メンバーおよび前線チェーカー議長、10月まで郡チェーカー議長、12月まで第1カムィシン師団参謀政治委員、9月から翌1919年まで郡ソビエト執行委議長を務めた[2][3]。同年初頭からモスクワ委局メンバーおよびモスクワ・ソビエト執行委メンバー、春から翌1920年末まで党バスマンノエ地区委執行書記[2]。1919年9月18日から11月16日までは共和国革命軍事会議フェルガナ戦線 (ru) メンバー、1921年1月から6月まで党ヤロスラヴリ県ロシア語版委執行書記、同年から1924年までモスクワ市委組織部副部長および部長を務めた[3]

1924年5月から10月まで党モスクワ県統制委議長、5月31日から中央統制委 (ru) メンバー、6月2日から中央統制委幹部会メンバー候補を翌1925年12月18日まで務め、1924年11月5日から1925年2月6日まではウズベキスタン共産党臨時組織局第一書記、1924年11月18日から1925年2月13日まではウズベク社会主義ソビエト共和国革命委員会メンバー、1925年2月12日から1927年9月21日まではウズベキスタン共産党中央委第一書記であった[3]。1925年12月31日から全連邦共産党中央委メンバー候補となり、1934年2月10日から1937年8月12日まで中央委メンバーであった[3]。1927年4月から1931年4月まで北カフカース地方ロシア語版委第二書記、1931年3月27日から1937年2月5日まで北部地方ロシア語版委第一書記、1936年10月1日から1937年10月31日まで連邦林業人民委員でもあった[3]

連邦中央執行委ロシア語版メンバーでもあったが[2]、1937年11月1日に右翼トロツキスト陰謀事件に連座して逮捕され[1]ニコライ・ブハーリンの命令によって北カフカースで反ソ活動を行っていたと「認めた」[4]。そして翌1938年3月13日に最高軍法会議ロシア語版によって死刑を宣告され、同月15日に銃殺された[1]。その後、1959年6月に名誉回復ロシア語版がなされた[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e Иванов Владимир Иванович”. Сахаровский центр英語版. 2016年9月6日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k ИВАНОВ Владимир Иванович”. ЦентрАзия. 2016年9月6日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h Иванов Владимир Иванович”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. 2016年9月6日閲覧。
  4. ^ 『反ソヴィエト「右翼=トロツキー派ブロック」の公判記錄』 外務省調査部、1938年(原著1938年)、839-840頁。NDLJP:1880904NCID BN08206399
党職
先代:
なし
Uzbek flag 01.gif ウズベキスタン共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会第一書記
1925年2月12日 - 1927年9月21日
次代:
クプリアン・キルキシュ
先代:
セルゲイ・ベルガヴィノフ
Flag of the Soviet Union (1923-1955).svg 全連邦共産党(ボリシェヴィキ)北部地方委員会第一書記
1931年3月27日 - 1937年2月5日
次代:
ドミトリー・コントリン
先代:
ミハイル・イワノフ
Flag of the Russian SFSR (1918-1920).svg ロシア共産党(ボリシェヴィキ)ヤロスラヴリ県委員会執行書記
1921年1月 - 6月
次代:
イワン・ネフスキー
先代:
なし
Flag of the Russian SFSR (1918-1920).svg ロシア共産党(ボリシェヴィキ)モスクワ県統制委員会議長
1924年5月 - 10月
次代:
ゲオルギー・コロステリョフ
先代:
ニコライ・ギカロ
Flag of the Soviet Union (1923-1955).svg 全連邦共産党(ボリシェヴィキ)北カフカース地方委員会第二書記
1927年4月 - 1931年4月
次代:
ヴィタリー・ラーリン
公職
先代:
セミョーン・ロボフ
Flag of the Soviet Union (1923-1955).svg ソビエト連邦林業人民委員
1936年10月1日 - 1937年10月31日
次代:
ミハイル・ルィジョフ