ウォリック伯

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ウォリック伯爵(第4期)
Earl of Warwick

ウォリック伯グレヴィル家の紋章
創設時期1759年11月30日
創設者ジョージ2世
貴族グレートブリテン貴族
初代フランシス・グレヴィル
現所有者ガイ・グレヴィル(9代伯)
相続人チャールズ・グレヴィル(ブルック卿)
付随称号ブルック伯爵
ブルック男爵
旧邸宅ウォリック城
モットーVix ea nostra voco
(ラテン語 英訳"I scarcely call these things our own")[1]

ウォリック伯爵(ウォリックはくしゃく、: Earl of Warwick)は、イギリス伯爵位の一つ。過去に4回創設されており、第1期から3期のウォリック伯爵位はイングランド貴族、第4期のウォリック伯爵位はグレートブリテン貴族である。現存している第4期のウォリック伯爵位は初代ブルック伯爵・第8代ブルック男爵英語版フランシス・グレヴィル1759年に叙位されたのに始まる。第3期を除くウォリック伯爵家はウォリックシャー州ウォリック城を所有していたが、現在は所有を離れている。

ウォリック城

歴史[編集]

第1期 ボーモント家・ビーチャム家等[編集]

ボーモント家(ニューバラ家)の紋章

オーデリック・ヴィタリス英語版によれば、第1期のウォリック伯に叙位されるヘンリー・ド・ボーモント(ヘンリー・ド・ニューバラ)英語版(?-1119)は、フランスノルマンディール・ヌーブルフランス語版の領主でウィリアム征服王の1068年の遠征に従軍してウォリック城の城守(constable)を任せられた人物というが、これを裏付ける出典はない。ほとんどの期間をノルマンディーで過ごしていた人物と見られる[2][3]1088年の反乱英語版の鎮圧でウィリアム2世を助けた功績で、1088年7月から12月の間にウォリック伯爵位を与えられている[4][5]

ウォリック伯爵位は6代伯トマス・ド・ボーモント英語版(1208頃-1242)までボーモント家(ニューバラ家)の男系男子で続き、その間ウォリック城は木造から石造りの城へ改築され、城下には栄えた市場が生まれた[6]

6代伯トマス・ド・ボーモントが男子後継者なく死去すると、妹のマーガレット(?-1253)が7代ウォリック女伯位とウォリック城を相続したが、ジョン王は彼女が一人で相続するのにふさわしいと考えていなかったので、ジョン・デュ・プレシ英語版(1242頃-1263)と結婚させられることになった。だが夫妻は憎み合い、数回しか会うことがなかったので子供はできず死去した[6]。ついでマーガレットの従兄妹(4代伯ワレラン・ド・ボーモント英語版の娘アリスとその夫ウィリアム・モーデュイの間の子)であるウィリアム・モーデュイ英語版(1221頃-1268)が8代伯を継承した。彼は第2次バロン戦争で王党派に属したのでジョン・ジファード英語版によりウォリック城は攻撃を受けた。身代金を支払ってウォリック城に帰還している[6]

ビーチャム家の紋章

1268年1月8日に8代伯が死去すると、彼の妹イザベル・ド・モーデュイとウスターシャーのシェリフ英語版であるウィリアム・ド・ビーチャム英語版の間の子であるウィリアム・ド・ビーチャム英語版(1240頃-1298)が9代伯を襲爵した。以降ビーチャム家によって世襲される爵位となった[5][7]。9代伯はエドワード1世に軍事指揮官として仕え、ビーチャム家の影響力を拡大させた[6]

その息子の10代伯ガイ・ド・ビーチャム(1272頃-1315)は、ランカスター伯爵トマスと共にエドワード2世の寵臣政治に反対し、1312年には国王寵臣の初代コーンウォール伯爵英語版ピアーズ・ギャヴィストンを誘拐して殺害した[8]

その息子の11代伯トマス・ド・ビーチャム(1313頃-1369)は、フランスとの百年戦争が始まった頃に成人し、エドワード3世に忠実なイングランド軍指揮官として1346年クレシーの戦い1356年ポワティエの戦いに参戦。ガーター騎士団員となった最初の人物の一人でもある。フランスでの戦闘による身代金の獲得でかなりの財産を築き、ウォリック城の改築を行った[6]

その息子の12代伯トマス・ド・ビーチャム(1339頃-1401)は、1388年リチャード2世の側近たちを弾劾した訴追派貴族の一人であり、1397年にリチャード2世の反撃を受けてロンドン塔に投獄され、それに由来してロンドン塔内の要塞の一つがビーチャム塔(Beauchamp Tower)と名付けられている[7][3]。その後の裁判の結果、土地や称号をはく奪されてマン島へ流されたが[6]1399年8月にリチャード2世が王位を追われて同じ訴追派貴族の仲間だったヘンリー・ボリングブルックがヘンリー4世として即位したために釈放されて復権を果たした[9]

その息子である13代伯リチャード・ド・ビーチャム(1382-1439)は、ビーチャム家の当主の中でも最も著名な人物と思われる[6]百年戦争後期にヘンリー5世に従ってイングランド軍指揮官としてフランスに出征し、トロワ条約締結の環境整備に尽力した。ヘンリー6世即位後はその教育係となり、ルーアン総督やフランス総督となった[10]ジャンヌ・ダルクが捕虜になり、イングランドに引き渡された後にはルーアン総督として彼女の裁判と処刑の監督を行っている[6]

その息子である14代伯ヘンリー・ド・ビーチャム(1425-1446)は、ヘンリー6世の遊び仲間として育ち[6]1439年に母イザベル・ディスペンサー英語版からバーガーシュ男爵英語版を継承し、1444年4月2日には筆頭伯爵(Premier Earl)の称号を受け、1445年4月5日にはウォリック公爵(Duke of Warwick)に叙位された。これはおそらく父の功績によるものと見られる[3]。14代伯が若くして死去した後、男系男子に限定されるウォリック公爵と筆頭伯爵の称号は廃絶したと考えられるが、ウォリック伯爵とバーガーシュ男爵は14代伯の唯一の娘アン・ド・ビーチャム英語版(1443-1449)が継承した。しかし彼女は5歳で死去した[6]。彼女の死とともに王冠に戻ったと見られる[3]。一方でウォリック伯爵位も14世紀半ば以降男子相続人に限定される爵位になっていたとして14代伯の死とともに廃絶したとみなす見解もある[5]

所領は14代伯の妹にあたるアン・ビーチャム英語版(1426-1492)の夫リチャード・ネヴィル(1428-1471)の手に渡っており、アンとリチャードには1450年3月2日に16代ウォリック伯爵位が与えられている(14代伯の死とともに第1期は廃絶したとみなす見解ではリチャードは妻の権利英語版による16代伯になっておらず新規の初代伯と考えられる)[3][11]。リチャード・ネヴィルは妻の権利で第5代ソールズベリー伯爵を襲爵していたリチャード・ネヴィルの子であり、薔薇戦争期にその動向が二度にわたって国王の即位や復位を左右したので「キングメーカー」と称されたことで著名である。彼ははじめはヨーク派に属して1461年エドワード4世ヘンリー6世を追ってヨーク朝を開くのに貢献し、没収されたランカスター派貴族の所領を続々と与えられてイングランド最有力貴族となったが、次第にエドワード4世と対立を深め、ランカスター派に転じてエドワード4世を追い、1470年にはヘンリー6世を一時的に復位させた。しかし翌1471年には体勢を立て直したエドワード4世の反撃でバーネットの戦いに敗れて敗死した[10]

リチャード・ネヴィルとアンが受けたウォリック伯位は夫妻の死後にアンの子、それがないときはアンの異母妹であるシュルーズベリー伯爵夫人マーガレット・ビーチャム英語版およびその男系男子が継承することになっていた。そのため、1492年にアンが死去した時、アンとリチャードの娘イザベル・ネヴィルクラレンス公ジョージ・プランタジネット(エドワード4世の弟)の間の子であるエドワード・プランタジネット(1475-1499)が継承した[3][11]。彼はヨーク派の有力な王位継承権者として王位が不安定なテューダー朝の初代国王ヘンリー7世に警戒され、1485年以来ロンドン塔に投獄されていた。この間の1487年にはヨーク派の聖職者や貴族たちにより美少年の民間人ランバート・シムネルが「ウォリック伯エドワード」を名乗らされて反乱の旗頭に担がれたため、焦ったヘンリー7世は本物のエドワードをロンドン塔から引きずり出して市中引き回しにしている[12]。その後、エドワードは1499年に処刑され、ウォリック伯爵の称号も剥奪された[3]。彼の財産は姉にあたるソールズベリー伯爵夫人マーガレット・ポール(1473-1541)に相続されたが、彼女も1541年ヘンリー8世により処刑されている[3]

第2期 ダドリー家[編集]

ダドリー家の紋章

2期目のウォリック伯爵位は初代ライル子爵英語版ジョン・ダドリー(1502-1553)1547年2月16日に叙位されたのに始まる[13]。彼は第1期の13代ウォリック伯の娘シュルーズベリー伯爵夫人マーガレットの子孫にあたる[3]。ウォリック城も一緒に与えられているが、ダドリー家はウォリック城をほとんど使用しなかった[5]。ウォリック伯となったジョン・ダドリーは幼君エドワード6世時代に摂政の初代サマセット公爵エドワード・シーモアを失脚させて国政を主導する立場となり、1551年10月11日にはノーサンバーランド公爵に叙され、プロテスタント政策を遂行したが、エドワード6世崩御後にカトリックメアリーの即位を防ぐためにジェーン・グレイを女王に擁立しようとしたことでメアリー即位後に処刑・爵位剥奪された[13][14]

しかし保有爵位のうちウォリック伯爵についてはその三男ジョン・ダドリー英語版(1527頃-1554)が、父がまだ生存中の1553年1月9日議会の議決によって継承していた。彼は1554年10月に釈放されたものの同月中に死去し、彼の死でウォリック伯爵位は一度廃絶した[15]

初代伯の四男アンブローズ・ダドリー英語版(1529頃-1589)は、サン・カンタンの戦い英語版に参戦したことで名誉を回復し[3]1561年12月25日にライル男爵(Baron Lisle)、その翌日にはウォリック伯爵に叙位された。この爵位は弟のロバート・ダドリー(レスター伯)を特別継承者(special remainder)とし、かつてのウォリック伯位の優先順位と所領を定めていた。しかし彼も、彼に先立って死去した弟のロバート・ダドリーも嫡出子の男子がなかったため、爵位は彼の死とともに廃絶した[16]

ダドリー家のウォリック伯爵位が終わったとき、ウォリック城は荒廃した状態にあり、1603年ジェームズ1世は城の破却を計画したが、貴族の支持を得る目的で結局サー・ファルク・グレヴィル英語版に与えられた[6]。彼は1621年に初代ブルック男爵英語版に叙され、その子孫のブルック男爵グレヴィル家は代々ウォリック城を相続し、1759年に至って4期目のウォリック伯爵に叙されることになるが、その間にウォリック伯爵位はウォリック城の所有権と分離してリッチ家に与えられる[6]

第3期 リッチ家[編集]

リッチ家の紋章

第3期は1618年8月6日に第3代リッチ男爵英語版ロバート・リッチ英語版(1559-1619)が叙位されたのにはじまる[17]。彼は大法官の初代リッチ男爵リチャード・リッチ英語版の孫にあたる[3]

その息子の2代伯ロバート・リッチ(1587-1658)は、イングランド内戦で議会軍の海軍司令官として活躍した[18]。彼の死後、2人の息子ロバート・リッチ英語版(1611-1659)チャールズ・リッチ英語版(1619-1673)が襲爵するもいずれも男子を残せなかったため、初代伯の次男である初代ホランド伯爵英語版ヘンリー・リッチ英語版の長男である2代ホランド伯爵ロバート・リッチ(1620-1675)が5代伯を継承した[3]。その後、彼の息子エドワード・リッチ(1673-1701)が6代伯、さらにその息子エドワード・ヘンリー・リッチ 1697-1721)となったが、7代伯が子供を残さなかったため、7代伯の死後には初代ホランド伯の四男の孫にあたるエドワード・リッチ(1695-1759)が8代伯を継承した。しかし彼も男子を残さなかったため、彼の死とともに第3期のウォリック伯爵は廃絶した[17][3]

第4期 グレヴィル家[編集]

現存する第4期のウォリック伯爵位に叙されるフランシス・グレヴィル(1719-1773)は、1727年7月28日に父の死によりイングランド貴族爵位の第8代ブルック男爵英語版位とウォリック城を相続し、1746年7月7日グレートブリテン貴族ブルック伯爵(Earl Brooke)に叙位された。そして第3期ウォリック伯爵が廃絶した二か月後の1759年11月30日にグレートブリテン貴族として第4期のウォリック伯爵に叙位された[3][19]。彼は第1期のウォリック伯爵のビーチャム家の分流にあたる[3]。初代伯はウォリック城を近代化してカントリー・ハウス化させ、ランスロット・ブラウンに庭園の創設を依頼した[6]

その息子の2代伯ジョージ・グレヴィル英語版(1746-1816)は襲爵前にウォリック選挙区英語版から選出されてトーリー党庶民院議員を務めている。しかし1803年に破産し、ウォリック城の周辺の地所を売却することを余儀なくされた。1815年には家計の立て直しのために城を観光用に一般公開した[6]

その息子の3代伯ヘンリー・リチャード・グレヴィル英語版(1779-1853)も襲爵前にウォリック選挙区選出のトーリー党の庶民院議員を務めた。3代伯は襲爵後に寝室侍従長英語版侍従たる貴族院議員英語版(与党院内幹事)を務めている[19]

その息子の4代伯ジョージ・ガイ・グレヴィル英語版(1818-1893)も襲爵前にサウス・ウォリックシャー選挙区英語版選出の保守党の庶民院議員を務めた。彼の代の1871年にウォリック城が火災に遭い、再建のために巨額の公的資金が投入された[6]

その息子の5代伯フランシス・リチャード・チャールズ・グレヴィル英語版(1853-1924)も襲爵前に保守党の庶民院議員を務めている。ウォリック市長(Warwick Mayor)やフリーメイソンイングランド連合グランドロッジの副グランドマスター(Deputy Grand Master)も務めた[19]。彼の妻デイジー・グレヴィル英語版は、週末にヴィクトリア朝の上流階級を集めて催していたスキャンダラスな社交パーティーで有名となった[6]

その息子の6代伯レオポルド・ガイ・フランシス・メイナード・グレヴィル英語版(1882-1928)は准将まで昇進した陸軍軍人だった。第2次ボーア戦争に従軍し、日露戦争にはロイターの特派員として派遣された。第一次世界大戦では海外派遣軍の参謀将校司令部に副官として勤務した後、第4カナダ歩兵旅団や第12カナダ歩兵旅団の指揮を執った[19]1924年1月15日に父の死により襲爵するも、第一次世界大戦後に砲弾ショックで苦しみ、アルコール中毒となっており、襲爵から4年後の1928年1月31日には死去した[19][6]

その息子の7代伯チャールズ・ガイ・ファルク・グレヴィル英語版(1911-1984)は、ハリウッド映画俳優への進出を狙い、1938年のハリウッド映画『ザ・ドーン・パトロール英語版』に出演したが、大根役者だったのですぐに俳優としてのキャリアは終わった[6]1951年から1952年にかけてはウォリック市長を務めた[19]

彼の死後、その息子のデイヴィッド・ロビン・フランシス・ガイ・グレヴィル(1934-1996)が8代伯を襲爵した。彼の代にウォリック城の費用捻出は限界に達し、1978年タッソー・グループ英語版にウォリック城を売却した[6]

彼の死後にはその息子ガイ・デイヴィッド・グレヴィル(1957-)が9代伯を襲爵した。2020年現在の当主も彼である[19]

現当主の保有爵位[編集]

現当主ガイ・グレヴィルは以下の爵位を保有している[19][20]

歴代当主一覧[編集]

ウォリック伯 第1期 (1088年)[編集]

第1期16代ウォリック伯リチャード・ネヴィル

ウォリック伯 第2期 (1547年)[編集]

第2期初代ウォリック伯ジョン・ダドリー(初代ノーサンバーランド公爵)

ウォリック伯 第3期 (1618年)[編集]

ウォリック伯 第4期 (1759年)[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ Debrett's Peerage, 1968, p.1132
  2. ^ George Edward Cokayne, edited by Geoffrey H. White (1959). The Complete Peerage Vol. 12 part 2, p.358
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Warwick, Earls of" . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 28 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 338.
  4. ^ Thompson 2002, p. 50.
  5. ^ a b c d Heraldic Media Limited. “Warwick, Earl of (E, 1088 - 1446)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2020年4月14日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s マーリン・エンターテイメンツ. “History of Warwick Castle” (英語). Warwick Castle. 2020年4月14日閲覧。
  7. ^ a b ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「ウォリック(伯家)」”. コトバンク. 2020年4月14日閲覧。
  8. ^ 青山吉信(編) 1991, p. 288.
  9. ^ Round, J. H. (1885). "Beauchamp, Thomas de" . In Stephen, Leslie (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 4. London: Smith, Elder & Co.
  10. ^ a b 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 799.
  11. ^ a b Heraldic Media Limited. “Warwick, Earl of (E, 1450 - forfeited 1539)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2020年4月14日閲覧。
  12. ^ 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 690.
  13. ^ a b Heraldic Media Limited. “Northumberland, Duke of (E, 1551 - 1553)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2020年4月16日閲覧。
  14. ^ 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 528-529.
  15. ^ Lundy, Darryl. “John Dudley, 2nd Earl of Warwick” (英語). thepeerage.com. 2020年4月16日閲覧。
  16. ^ Heraldic Media Limited. “Warwick, Earl of (E, 1561 - 1590)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2020年4月16日閲覧。
  17. ^ a b Heraldic Media Limited. “Warwick, Earl of (E, 1618 - 1759)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2020年4月16日閲覧。
  18. ^  この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Warwick, Sir Robert Rich, 2nd Earl of". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 28 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 349.
  19. ^ a b c d e f g h Heraldic Media Limited. “Warwick, Earl of (GB, 1759)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2020年4月16日閲覧。
  20. ^ Lundy, Darryl. “Guy David Greville, 9th Earl of Warwick” (英語). thepeerage.com. 2020年4月16日閲覧。

参考文献[編集]