ウォン・カークイ

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ウォン・カークイ
出生名 黄家駒
生誕 1962年6月10日
香港の旗 イギリス香港
死没 (1993-06-30) 1993年6月30日(満31歳没)
日本の旗 日本 東京都女子医科大学病院
ジャンル ロック
職業 シンガーソングライター
担当楽器 ボーカル、ギター
活動期間 1983年 - 1993年
レーベル FUN HOUSE
事務所 ソニー・ミュージックエンタテインメント

ウォン・カークイ(黄家駒、Wong Ka Kui、コマ・ウォン、Koma Wong、1962年6月10日 - 1993年6月30日)は香港ミュージシャンロックバンドBEYONDのリーダーである。

来歴[編集]

日本での死亡 (香港での活動については黄家駒を参照)

1993年6月24日午前1時15分、フジテレビの吉田正樹がディレクター及びプロデューサーを務める『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』(フジテレビ)に端役として出演した。黄家駒が香港でのトップスターの地位をなげうって日本に滞在していた目的は、当時日本に比べると香港では未成熟だったロック音楽の造詣を深めることであり、このようなお笑いバラエティー番組に出演することを黄家駒は非常に嫌がっていた。しかし日本での所属レベルであったソニーミュージックエンタテイメントが日本市場の開拓も商業的に視野に入れていたこともあり、日本のテレビ局との関係を円滑に保つため、不本意ながらこの番組に出演した。番組ではスタジオに組まれた狭いゴンドラのようなセットが約3メートルの高さに釣り上げられ、当時現場にいた関係者によればそのセットは水浸しになっていた。黄家駒はセットから足を滑らせて転落、スタジオのコンクリートの床に頭を強打。セットの下に緩衝材を設置するなどの安全対策は何らとられていなかった。意識不明のまま病院に救急搬送されたが6月30日午後4時15分、東京女子医科大学病院で死亡。31歳の誕生日から20日後だった。一時代を代表するトップスターであった家駒の死と、フジテレビの家駒に対する配慮なき扱いは香港社会で非常に大きな怒りと衝撃を持って受け止められた。[1][2][3]

香港で行われた葬儀には香港各界の要人2,000人が出席、家駒の棺を乗せた霊柩車が火葬場に向かう沿道には10,000人以上の慟哭するファンが詰めかけた。

2008年5月、香港の芸能人協会はテレビ・ラジオ局などと協力し、四川大地震被災者に向けた応援ソング「承諾」をレコーディングした。「承諾」は家駒が作曲した「海闊天空(日本語版タイトル:遥かなる夢に~Far away~)」に、アンディ・ラウが新たに歌詞をつけたものである[4]。2008年6月10日、家駒の誕生日、逝去15周年を記念して、香港コンベンション&エキシビジョンセンターでコンサートが開かれた[5]。同日、「BEYOND黄家駒・没後15年記念展」が香港で開催され、収益金は家駒名義で募金された。スティーブ・ウォン(家駒の実弟でBEYONDのメンバー)は「このコンサートでは、兄の歌声を真似て未発表曲すべてを歌いたい」と語った。メンバーの黄貫中(ポール・ウォン)と葉世栄(ウィング・イップ)にも出演を呼びかけるという。ささやかれる不仲説については「確かにメンバー同士の揉め事があって、それはお互いに矛盾点を感じているから。すぐに解決できるとは思わないけど、20年以上も共に活動した音楽仲間には変わりない」と語った[6]

日本語アルバム[編集]

代表歌[編集]

日本語[編集]

  • 遥かなる夢に~Far away~、くちびるを奪いたい、君には僕が(1993年7月
  • The Wall~長城~、手紙(1992年9月

広東語[編集]

  • 遙遠的paradise,祝您愉快(1994年6月)(紀念黃家駒,分別由黃貫中,黃家強所演唱)
  • 海闊天空、情人、爸爸媽媽、命運是你家,我是憤怒,和平與愛,無無謂(1993年5月
  • 長城、遙望、早班火車,農民,不可一世,可否衝破(1992年8月
  • Amani、不再猶豫,誰伴我闖蕩,堅持信念,係要聽rock'n roll(1991年9月
  • 光輝歲月、戰勝心魔,俾面派對,送給不知怎麼保護環境的人(包括我)(1990年9月
  • 無悔這一生,歲月無聲,午夜怨曲(1989年12月
  • 真的愛妳(1989年7月
  • 大地、喜歡你(1988年9月
  • 舊日的足跡,昔日舞曲,孤單一吻(1988年3月

出演作品[編集]

香港出演の映画[編集]

テレビドラマ[編集]

脚注[編集]

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