ウィリアム・ヒントン

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ウィリアム・ハワード・ヒントンWilliam Howard Hinton1919年2月2日 - 2004年3月15日)は、アメリカ農学者、ジャーナリスト中国共産党の施策についての著作で知られる。

妹のジョアン・ヒントン原子爆弾の開発にかかわった物理学者で、後に中国に移住して酪農研究者となった。娘のカーマ・ヒントンはドキュメンタリー監督で、映画『天安門』の共同監督の一人である。昆虫学者のハワード・エベレスト・ヒントンはいとこ(父の兄の息子)で、ハワードの息子の計算機科学者・認知心理学者ジェフリー・ヒントンは従甥である。

来歴[編集]

イリノイ州シカゴ生まれ。父は弁護士、母は教育者だった。

1937年にはじめて中国を訪問する。ハーヴァード大学で2年間学んだのちに、コーネル大学で農学を学び、1941年に卒業する。

1945年に再度訪中し、重慶会談に出席した毛沢東と対面した。その後は、1947年から国連救済復興機構(UNRRA)のトラクター技師として、1953年まで中国に滞在した。国民党の腐敗に失望して、中国共産党の支持者となる。1948年には山西省の農村に滞在し、中国共産党の農地改革をフィールドワークする。この体験を、帰国後に彼の代表作『翻身』にまとめた。

1953年の朝鮮戦争の終結後に、アメリカに帰国する。だが、マッカーシズムの吹き荒れる中、職につくことができず、母の残した農園で農業を営みながら著作活動を行う。

1971年には文化大革命のさなかの中国を再訪問した。文革の目的自体は支持しながらも、清華大学での紅衛兵どうしの権力闘争を批判的に描いた『百日戦争』を執筆した。

その後、1975年には「米中人民友好協会」(The U.S.-Chaina Peoples Freindly Associataion)を結成した。

1980年代に、ポスト毛沢東政権が人民公社を撤廃しても、ヒントンは中国共産党を支持した。しかし、1989年の天安門事件はヒントンを失望させた。

1995年に、ヒントンの妻のキャサリン・チウがユニセフの職員としてモンゴルに赴任した際、ヒントンも同行し、モンゴルで農学の指導にあたった。

日本語訳された著書[編集]

  • 『翻身 ある中国農村の革命の記録』 Fanshen 1966(加藤祐三春名徹訳、平凡社、1972年)
  • 『鉄牛 中国の農業革命の記録』 Iron Oxen 1970(加藤祐三,赤尾修共訳、平凡社、1976年)
  • 『百日戦争 清華大学の文化大革命』 Hundred Day War 1972(春名徹訳、平凡社、1976年)
  • 『中国文化大革命 歴史の転轍とその方向』 Turning Point in China 1972(藤村俊郎訳、平凡社、1974年)
  • 『大逆転 鄧小平・農業政策の失敗』 The Great Reversal 1989(田口佐紀子訳、亜紀書房 1991年5月)

注釈[編集]