ウィリアム・ドゥ・ラ・ポール (サフォーク公)

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初代サフォーク公・初代サフォーク侯・第4代サフォーク伯ウィリアム・ドゥ・ラ・ポール(William de la Pole, 1st Duke of Suffolk, 1st Marquess of Suffolk, 4th Earl of Suffolk, 1396年10月16日 - 1450年5月2日)は、百年戦争期のイングランドの主要な司令官の一人であり、後に王室侍従長として国王ヘンリー6世に仕えた貴族である。第2代サフォーク伯マイケル・ドゥ・ラ・ポールとキャサリン・ドゥ・スタフォード[1]の次男として、サフォークのコットン(Cotton)で生まれた。

若い頃から百年戦争の主戦場であるフランスに従軍しており、1415年アルフルール包囲戦で重傷を負い、この時に父も戦死した。同じ年のアジャンクールの戦いで兄の第3代サフォーク伯マイケル・ドゥ・ラ・ポールも戦死したため、ウィリアムは爵位を継いで第4代サフォーク伯になった。

1428年オルレアン攻略の際に総司令官ソールズベリー伯トマス・モンタキュートが戦死すると、ウィリアムはその後任として総司令官に昇進する。この包囲網は翌1429年5月にジャンヌ・ダルクらの活躍で壊滅し、ウィリアムはジャルジョー(Jargeau)まで後退するが、攻勢に転じたフランス軍は逆に6月11日からジャルジョー攻城戦を展開し、6月12日に城は陥落、ウィリアムはフランス軍の捕虜になってしまう。1431年に多額の身代金を払って解放されるまでの2年以上もの間、彼はフランス王シャルル7世に捕らえられていた。

保釈されて帰還した彼は国王の侍従になり、当時イングランド国政の中心にいてローマ教皇の信任も厚かったヘンリー・ボーフォート枢機卿と連携するようになる。この時期のウィリアムの最大の功績は1444年ヘンリー6世の妃としてマーガレット・オブ・アンジューを迎えるための交渉をまとめ上げた事だろう。この年、彼はサフォーク侯に昇進する。ウィリアム自身は1430年11月11日[2]にアリス・チョーサー[3]と結婚した。これが縁で1445年に生前義父が務めていたウォリングフォード城[4]の城主に就任した。

1447年グロスター公ハンフリーとボーフォート枢機卿が亡くなると、残ったウィリアムがヘンリー6世政権の陰の実力者になった。さっそく彼は自分自身を王室侍従長や海軍司令長官等の要職に任命した。また、彼は1447年にペンブルック伯に列せられ、さらに1448年にはサフォーク公に列せられた。事実上政権を掌握したウィリアムだが、続く3年間の北フランス戦線は完敗状態であり、ノルマンディー方面の重要拠点ルーアンもフランス軍の猛攻を前に1449年12月4日に陥落してしまった。この大敗戦によるウィリアムの権威失墜は免れず、1450年1月28日に彼は逮捕されロンドン塔に収監される。後に彼は5年間追放の刑に処されたが、追放先に向かうフランスへの船旅の最中に待ち伏せによって暗殺された。この殺害がイングランド内の反ウィリアム派によるものなのか、それともフランス軍によるものなのか、事実は謎のままである。

遺体はサフォーク州のウィンフィールドに返還され、ウィンフィールド大学の教会内に埋葬された。ウィリアムの死後、サマセット公エドムンド・ボーフォートが代わってヘンリー6世の側近となったが、戦況を覆せず、百年戦争はイングランドの敗戦となり、側近政治の不満もあって薔薇戦争が勃発した。一人息子ジョンは後に第2代サフォーク公になった。

脚注[編集]

  1. ^ キャサリン・ドゥ・スタフォード - スタフォード伯ヒュー・スタフォードの娘
  2. ^ この時点でウィリアムはまだフランスで囚われの身であり、日付はあくまで結婚の認可が得られた日付である。
  3. ^ アリス・チョーサー(1404年 - 1475年) - トマス・チョーサー(庶民院議長)の娘であり、詩人のジェフリー・チョーサーの孫娘である。彼女にとってはこれが3回目の結婚である。
  4. ^ ウォリングフォード城(Wallingford Castle)、現オックスフォードシャー、ウォリングフォード
公職
先代:
エクセター公
海軍司令長官
Lord High Admiral

1447年 - 1450年
次代:
エクセター公
先代:
-
王室侍従長
Lord Chamberlain

1447年 - 1450年
次代:
-
イングランドの爵位
先代:
新設
サフォーク公
1448年 - 1450年
次代:
ジョン・ドゥ・ラ・ポール
先代:
マイケル・ドゥ・ラ・ポール
サフォーク伯
1415年 - 1450年