ウィリアム・クライトン (第2代ダンフリーズ伯爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

第2代ダンフリーズ伯爵ウィリアム・クライトン英語: William Crichton, 2nd Earl of Dumfries PC1605年以降 – 1691年)は、スコットランド貴族枢密顧問官英語版[1][2]名誉革命の後の1690年9月10日に爵位を一旦返上して、同年11月3日にウィリアム3世による再叙爵を受けた[1]。息子を2人もうけたが、2人ともに先立たれたため、爵位は孫ウィリアムが継承した[3]

生涯[編集]

初代ダンフリーズ伯爵ウィリアム・クライトン英語版と1人目の妻ユーフェミア(Euphemia、1630年までに没、ジェームズ・セトンの娘、パトリック・ハミルトンの未亡人)の長男として生まれた[3]

生まれた時点でサンカー英語版周辺に多くの地所を所有したが、スコットランド王ジェームズ6世(イングランド王としてはジェームズ1世)が1617年にスコットランドを訪れたとき、その祝いに向けた多額の支出により財政難になり[4]、1642年までにサンカーでの資産を売却してカムノック英語版に転居した[3]

1642年/1643年に父が死去すると、ダンフリーズ伯爵位を継承した[3]

1686年、カヴェナンターアレクサンダー・ペデン英語版の死体がソーン城英語版から掘り起こされてカムノックに運ばれ、死後の絞首刑が行われようとした[5]。ダンフリーズ伯爵は妻の要請を受けて死後処刑を止めたという[4]

名誉革命の後の1690年9月10日に爵位を一旦返上して、同年11月3日にウィリアム3世による再叙爵を受けた[1]

1691年に死去、孫ウィリアムが爵位を継承した[3]

家族[編集]

1618年8月29日、ペネロープ・スウィフト(Penelope Swift、1605年以降 – 1686年以降、ヨークシャー州長官英語版サー・ロバート・スウィフトの娘)と結婚[1]、2男3女をもうけた[3]

出典[編集]

  1. ^ a b c d Cokayne, George Edward, ed. (1890). "Dumfries". The Complete Peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain, and the United Kingdom Extant, Extinct, or Dormant. The Complete Peerage (英語). Vol. III. London: George Bell & Sons. p. 194. オープンアクセス
  2. ^ "Dumfries, Earl of (S, 1633)". Cracroft's Peerage (英語). 2021年2月5日閲覧
  3. ^ a b c d e f g h i j k Paul, James Balfour, Sir, ed. (1906). The Scots Peerage (英語). Vol. III. Edinburgh: David Douglas. pp. 234–236.
  4. ^ a b Warrick, John (1899). The History of Old Cumnock (英語).
  5. ^ "Parish of Old Cumnock: Civil History: Eminent Men". The New Statistical Account of Scotland. Statistical Accounts of Scotland (英語). Vol. V. Edinburgh: William Blackwood and Sons. 1845. pp. 480–482. オープンアクセス

外部リンク[編集]

スコットランドの爵位
先代
ウィリアム・クライトン英語版
ダンフリーズ伯爵
1642年/1643年 – 1691年
次代
ウィリアム・クライトン