ウィリアム・カニンガム・グリーン

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サー・ウィリアム・カニンガム・グリーン(William Conyngham Greene、KCB, GCMG, 枢密顧問官1854年10月29日 - 1934年6月30日[1]英国外交官1912年から1919年まで、東京で駐日英国大使を務めた。ミドルネームをとって、カニンガム・グリーンと呼ばれることも多い。

経歴[編集]

1854年10月29日 生まれ。ハロー校からオックスフォード大学に進み、1877年に文学士、1880年に文学修士を取得した。

在学中の1877年に外務省外交部門に入省し、1880年からアテネシュトゥットガルトダルムシュタットハーグブリュッセルテヘランに勤務した。1896年、代理公使としてプレトリアに赴任した。そこでは、英国とトランスヴァール共和国の間の問題を外交的に解決しようとしたが、これには成功せず、ボーア戦争が勃発した。

1900年、駐スイス公使に任命され、その後ブカレストコペンハーゲンと転勤した後、1912年大正元年)12月1日、駐日英国大使に就任した。

当時日英間には日英同盟があったが、中国での権益をめぐって両国間の利害が衝突を始めていた。外務大臣エドワード・グレイはその歴史的な背景から満州における日本の特殊権益はある程度認めるつもりであったが、中国本土における日本の野望は頓挫させなければならないと考えていた。1913年、中国で第二革命が勃発し、日本は反袁世凱グループを支援したが、袁世凱は反乱の鎮圧に成功した。この事件対し、北京で代理公使を務めていたビールビー・オーストンが、この援助に関する日本の動機に嫌疑があるとして、本国に日本批判文を提出した。グリーンはこれに対して反論を行った。とは言うものの、グリーンは日本は満州の経営に専念すべきであり、揚子江領域の英国権益に日本は手を出すべきではないとの考えであった。

1914年8月、第一次世界大戦が勃発した。英国はその貿易ルートをドイツ東洋艦隊から守るため、大日本帝国海軍の協力を必要としていた。このため、グリーンは8月6日日本に戦争支援を要請した。この時、日本の宣戦布告はオーストラリアニュージーランド米国の疑念を招くことを心配したグリーンは、日本に対し正式参戦を控え、限定された軍事行動をとることを希望した。しかし、これは日本に英国に対する不信感を抱かせる結果となってしまい、グリーンはその後関係の修復に苦労することとなった。

その後の対華21ヶ条要求はグリーンに日本への失望感を与えるものであった。1919年4月、グリーンは東京を去ったが、日英同盟を「日本人の感情を害することなく、かなりの礼節を持って葬り去らねばならない」と考えていた。1920年、グリーンは日英同盟の将来を検討する小委員会の委員となった。1921年1月、小委員会は「日英同盟は廃棄し、そのかわり日英米参加国による三国協約を結ぶ」との結論を出しが、首相のロイド・ジョージはこの意見を採用せず、日英同盟の維持を求めた。しかし、アメリカ大統領ウォレン・ハーディングが率先して開催されたワシントン会議により、日英同盟の廃棄が決定された。

著作[編集]

グリーンが書き残したもののうちいくつかは、死後に出版されている[2]

  • Foreign Office files for Japan and the Far East (1991)

脚注[編集]

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

外交職
先代:
クロード・マクドナルド
Flag of the United Kingdom.svg 駐日英国大使
2代大使:1912 - 1919
次代:
チャールズ・エリオット