インゴ・シュトイアー

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インゴ・シュトイアー
Ingo Steuer
インゴ・シュトイアー
インゴ・シュトイアー
2014年撮影
選手情報
生年月日 (1966-11-01) 1966年11月1日(57歳)
出生地 カール=マルクス=シュタット
身長 173cm
元パートナー マンディ・ベッツェル
マヌエラ・ラントグラフ
元コーチ モニカ・シャイベ
所属クラブ Eislaufverein Chemnitz
引退 1998年
指導者情報
元指導選手 アリオナ・サフチェンコ/ロビン・ゾルコーヴィ
獲得メダル
フィギュアスケート
オリンピック
1998 長野 ペア
世界選手権
1993 プラハ ペア
1996 エドモントン ペア
1997 ローザンヌ ペア
欧州選手権
1993 ヘルシンキ ペア
1995 ドルトムント ペア
1996 ソフィア ペア
1997 パリ ペア
グランプリファイナル
1995/96 パリ ペア
1996/97 ハミルトン ペア
1997/98 ミュンヘン ペア
世界ジュニア選手権
1984 札幌 ペア
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インゴ・シュトイアードイツ語: Ingo Steuer1966年11月1日 - )は、ドイツケムニッツ出身の男性フィギュアスケート選手。1998年長野オリンピックペア銅メダリスト。1997年世界フィギュアスケート選手権ペアチャンピオン。パートナーはマンディ・ベッツェルなど。コーチとして、アリオナ・サフチェンコ/ロビン・ゾルコーヴィ組を5度の世界チャンピオンに導いた。

経歴[編集]

東ドイツカール=マルクス=シュタット(現在のケムニッツ)に生まれ、幼少期にスケートを始めた。マヌエラ・ラントグラフ(Manuela Landgraf)とペアを組んで1984年の世界ジュニア選手権で優勝、同選手権初のドイツ人優勝者となる。1988-1989シーズンよりイネス・ミュラーとペアを組み、欧州選手権で7位になる。

1992-1993シーズンからマンディ・ベッツェルとペアを組み、1995年の欧州選手権に続いて1996-1997シーズンのISUグランプリファイナルおよび世界選手権で優勝。1997年、膝の手術や交通事故に遭うトラブルを経るも、翌年の長野オリンピックで銅メダルを獲得、のちプロに転向した。

コーチとしてはアリオナ・サフチェンコ/ロビン・ゾルコーヴィ組を指導した。同ペアのトリノ五輪出場前、シュトイアーは東ドイツ時代にシュタージ秘密警察)に協力していたという告発を受けた。一旦は代表チームから外されたが、大会直前になってベルリン地裁の処分撤回命令を受けてチームに復帰する[1]。その後もシュトイアーとドイツスケート連盟との確執は続き、サフチェンコとゾルコーヴィはコーチの変更を迫られ、これを拒否したため国からの財政支援を打ち切られるなどしたが、2007年5月、ドイツスケート連盟がシュトイアーを同ペアのコーチとして正式に認めたことにより、騒動は収束した[2]

2014年の秋に、長年指導していたアリオナ・サフチェンコとの師弟関係を解消してアメリカコーラルスプリングスのフロリダパートナーズアイスデンに移籍し、ジョン・ジマーマンのチームに加わった。給与の未払いと過去のシュタージの関係によりスケート連盟からの援助を受けられないことを理由としている[3]。さらには2018年平昌オリンピックに向けて結成された、韓国初の2組のペアのコーチも担当する[4]

主な戦績[編集]

大会/年 1989-90 1990-91 1991-92 1992-93 1993-94 1994-95 1995-96 1996-97 1997-98
オリンピック 8 棄権 3
世界選手権 2 4 5 2 1
欧州選手権 7 7 6 2 5 1 2 2
ドイツ選手権 4 2 1 1 1 1
東ドイツ選手権 3
GPファイナル 3 1 2
GPラリック杯 3 2
GPネイションズ杯 5 1 2 1 2 1 1
GPスケートカナダ 5 1 1
GPロシア杯 1
GP NHK杯 3 2
ピルエッテン 1

脚注[編集]

  1. ^ <トリノ五輪>シュトイアー、ドイツ五輪チームへ復帰”. AFP BB (2006年2月9日). 2007年11月21日閲覧。
  2. ^ Flade, Tatjana (2007年7月10日). “Mission accomplished” (英語). Golden Skate. 2007年11月21日閲覧。
  3. ^ Steuer joins Zimmerman to train Denney, Frazier
  4. ^ 피겨 페어스케이팅 국가대표

外部リンク[編集]