イルマリネン (海防戦艦)

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竣工時の「イルマリネン」
艦歴
艦種 海防戦艦
発注 クライトン・フルカン社トゥルク造船所
起工 1929年
進水 1931年7月
就役 1933年9月
除籍
その後 1941年9月に戦没
性能諸元
排水量 基準:3,900トン
常備:4,100トン
全長 93.0m
水線長 90.0m
全幅 16.9m
吃水 4.5m
機関 クルップ・ゲルマニア式ディーゼル機関4基+電気モーター2軸推進
最大出力 単機875kW、最大3,500kW
(約4,700hp
最大速力 16.0kt
航続性能 10ノット/700海里
燃料 重油:93トン(満載)
乗員 平時:330名
戦時:410名
兵装 ボフォース 25.4cm(46口径)連装砲2基
ボフォース 10.5cm(50口径)連装両用砲4基
ヴィッカース 4cm(39口径)連装機関砲1基、同単装機関砲1基
マドセン 2cm単装機銃2基
装甲 甲板:50~55mm(水線部)
甲板:20mm(主甲板)
主砲塔:100mm(最厚部)
司令塔:120mm(最厚部)

イルマリネン(Panssarilaiva Ilmarinen)はフィンランド海軍海防戦艦イルマリネン級海防戦艦の一隻。1929年9月起工、1931年7月9日に進水した。就役は1934年4月17日である。艦はフィンランドトゥルクにあるクライトン・フルカン社造船所で建造され、フィンランドの民族叙事詩カレワラに登場する英雄イルマリネンにちなんで命名を受けた。イルマリネンは1933年5月1日から沈没の1941年9月13日まで海軍の旗艦だった。

経緯[編集]

ヴァイナモイネン級海防戦艦の105mm砲。

戦間期の早期、フィンランド海軍は以前ロシアに属していた約30隻の艦艇で構成されており、これらの多くはフィンランド内戦に続く戦利品だった。海軍の必要とする物としては全く理想的でなく、これらの艦は一般に旧式かつ貧弱な状態だった。1925年、悲惨な事故が海軍の劣弱な状態に光を当てた。旧式魚雷艇が1隻、乗員全53名とともに大嵐の中で失われた。熱心な論争が始まり、激しいロビー活動によって1927年に新しいフィンランド海軍の決議が採択されるに至った。

第二次世界大戦前、艦隊の近代化計画により、5隻の潜水艦、4隻の魚雷艇、2隻の海防戦艦の取得もしくは建造に至った。艦種としては最後期のヴァイナモイネンとイルマリネンは、建造された中では最も集約的な2隻の艦砲部隊だった。これらの艦はオランダの企業であるNV Ingenieurskantoor voor Scheepsbouwによって設計され、またバルト海の群島での作戦において最も有効活用された。これらの艦は、浅い乾舷と極めてコンパクトな設計を艦に与えるという指示により、外洋での性能を重視していない。

海防戦艦北欧諸国で特に人気があり、20世紀初頭にはデンマークスウェーデン、そしてノルウェーで就役が始まっていた。これらの艦は普通、高火力と良好な装甲防御を持つものの、速力が比較的遅かった。こうした艦の大きさはおよそ4,000トンで、主兵装は210mmから240mmの主砲から構成され、防御は装甲巡洋艦に相当した。また速力は15ノットから18ノットである。海防戦艦は巡洋艦モニターの間に位置する。巡洋艦よりは遅いが良好に防御され、モニターよりは軽快であるが砲兵装が小さい。海防戦艦もまた、それ自体が多様である。これらの艦の幾つかは巡洋艦に近く、フィンランド海軍のそれはモニターに近い。

1933年7月9日、同級の中で二番目となったイルマリネンはトゥルクの造船所で進水した。この艦は最終試験を経て1934年4月17日にフィンランド海軍に引き渡された。姉妹艦であるヴァイナモイネンはイルマリネンに約2年先行していた。

これらの艦はコンパクトな設計を有し、高いマスト、そして主砲及び副砲用の大型の砲塔を装備する。艦に対する海外の意見は洒落から賞賛まで多岐に渡った。外洋での作戦のために設計されたものではないこれらの艦は、穏やかな海域でさえ旋回が遅く、要する距離も広かった。これらの艦の航行は快適では無いものの安全と考えられた。追加の竜骨が後に装着され、状態を幾ばくか改善した。

ヴァイナモイネン及びイルマリネンの排水量は3,900tであり、全長は93m、喫水は4.50mである。速力と航続距離の必要性は、これらの艦が駐留泊地の近くで作戦を行う想定であることから緩和されていた。両艦とも4基のディーゼルエンジンを装備し、2基の電動エンジンを駆動した。これらは総計4,800馬力を出力した。また、より小型の100馬力補助ディーゼルエンジンが2基備えられていた。最大速力は14.5ノットで、またこれらの艦は重油93tの容量しか持たなかったことから航続能力がさらに制限された。

艦の大きさに対して4門のボフォース製254mm砲は強大であり、またこれらは225kgの砲弾を射程31kmまで撃ち出した。副砲はボフォース製105mm両用砲で、4基の砲塔に8門を備えた。こうした兵装は主に高速魚雷艇や航空機に対して防御を行うものだった。加えて、これらの艦は当初4基のイギリス製ポンポン砲を装備しており、後の冬戦争中に劣性能であることからボフォース製の機銃と交換された。また2挺の20mmマドセン機銃を装備し、後には8挺に増強された。

海防戦艦の任務は揚陸作戦の抑止、そして死活に関わる海上通商に脅威をもたらす洋上封鎖である。ツァーリによる統治の時代に巨大な防御システムが構築されたおかげで、フィンランドは定位置に強固な沿岸砲台を持っていた。こうした防御兵力は、不穏な時期には地雷原で補われることとされていた。海軍の主要な目的の1つは、内海の島々に配備された地上部隊のために時間を稼ぐことだった。こうした限られた領域において、254mm主砲で武装した海防戦艦は、同時代のどのような艦艇であっても手ごわい敵となった。

ソビエトのバルチック艦隊は明白な脅威であり、フィンランド海軍の艦艇はより大きなソ連軍艦艇の阻止を意図していた。戦艦マラート、戦艦ガングート、また巡洋艦キーロフはフィンランドの海岸に大胆に肉薄していた。

戦歴[編集]

最初の年の間、イルマリネンは幾度かフィンランドの諸所の港へ航海し、ヴァーサ近海で一度座礁を起こした。冬戦争が勃発した時、イルマリネンと姉妹艦であるヴァイナモイネンは、侵攻の可能性に対する防衛命令によりオーランド諸島へ派遣された。国際連盟の決定により、平時のオーランド諸島は非武装化されていた。衝突が起こった際、フィンランド海軍はそこへ物資を輸送した。

オーランド諸島に対する脅威は、1939年12月に分厚い板氷がバルト海を覆った後に遠のいた。2隻の海防戦艦はトゥルク港へ航行し、そこでこれらの艦は、市街のために対空防御の支援につくこととなった。2隻はソ連爆撃機の搭乗員に艦を識別されないよう白く塗装されたが、幾度かの状況では航空機に照準され、1名の戦死者と数名の負傷者を出す結果となった。

継続戦争中の1941年7月から11月にかけ、この2隻の艦はハンコ半島にあるソビエト側の基地を5回砲撃した[1]。1941年7月12日、イルマリネンはタックトムのソ連軍飛行場に向けて砲弾20発を発射した。この飛行場は以前にもドイツのJu88から編成される飛行部隊、「Kustenfliegergruppe 806」によって爆撃を受けていた。

ヴァイナモイネン級海防戦艦の254mm砲。

1941年9月13日、2隻のフィンランド軍海防戦艦はノルトヴィント作戦Operation Nordwind (1941)に参加した。これはドイツ軍部隊がエストニアの島々、サーレマー島ヒーウマー島を奪取するための作戦だった。フィンランド及びドイツの艦艇からなる一団が、囮としてソビエト艦隊を戦闘に引き込む陽動作戦に投入された。この艦隊は南からやってくる本物の侵攻部隊から離れた位置にあった。またさらに別のドイツ軍艦隊には巡洋艦エムデン、ケルンおよびライプツィヒが含まれており、もしソビエト軍が反転した際には戦闘参加するため、さらに遠方で待機していた。しかしながら北方の艦隊は敵から無視されたままに置かれ、またもし艦隊がウトの南25海里の地点に到達した際には帰還するよう命令が与えられた。この艦隊は掃海艦に率いられていたが、幾つかの機雷が掃海から漏れていた。イルマリネンの乗員達は曳航しているパラベーンの索に適度な注意を払わなかった。艦はパラベーン内に一発か二発の機雷を取り込んだようである。それから艦が旋回した際に機雷は船体の底部に当たって炸裂した。爆発は艦に大きな破孔を開け、すぐに強い傾斜が生じて転覆した。この艦はたった7分で沈没した。乗員のうち132名のみが生存し、271名が戦死しており、こうした人々の多数は艦の内部に閉じ込められていた。57名は警備艇VMV 1によって救助されており、艇は転覆した船体へと向かい、イルマリネンの乗員をできる限り多く拾い上げた。艇は救助中、もしイルマリネンの弾薬庫が発火した場合には自らも吹き飛ばされるという非常な危険にさらされていた。

生存者は後に「イルマリネンの水泳チーム」として知られた。彼らの中には後々著名な建築士となるViljo Revell大尉が居た。

イルマリネンの喪失は現在でもフィンランド海軍にとり一度にこうむった最大の損害である。軍司令部は喪失の秘密を保持しようと努めたが、しかしスウェーデンの新聞はすぐにこの事故を報告し、またフィンランドの新聞に出た多数の水兵の死亡告示もまたソビエトへの警報となり、この国もすぐに喪失を報告した。

この艦は1990年に位置がつきとめられた。艦は転倒した状態で発見され、泥に深く埋没し、70mの深度で停止している。この艦は戦没碑に類別されている。また1994年に沈没した貨客船エストニアの残骸が約15km離れた位置で発見された。

脚注・参考文献[編集]

  1. ^ Finnish Navy in World War II: Finnish coast defence ships
  • 「木俣滋郎 欧州海戦記」(光人社NF文庫、2000年)

外部リンク[編集]

座標: 北緯59度27分 東経21度05分 / 北緯59.450度 東経21.083度 / 59.450; 21.083