イブラーヒーム・ローディー

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イブラーヒーム・ローディー
ローディー朝君主
Sultan-Ibrahim-Lodhi.jpg
在位 1518年 - 1526年

死去 1526年4月21日
王朝 ローディー朝
父親 シカンダル・ローディー
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イブラーヒーム・ローディー(Ibrahim Lodi, 生年不詳 - 1526年4月21日)は、北インドデリー・スルターン朝ローディー朝の君主(在位:1518年 - 1526年)。

生涯[編集]

イブラーヒーム・ローディーのコイン
イブラーヒームの宮廷

ローディー朝の君主シカンダル・ローディーの息子として生まれた。

1518年11月21日、父シカンダル死亡した。貴族たちは彼の2人の有能な息子イブラーヒーム・ローディーとジャラール・ローディーが、それぞれ領土を分割して統治することを決定した。それはつまり、年上のイブラーヒームはアーグラを都とし、年下のジャラールはジャウンプルを都とするという王国を二分するものであった[1]

こうして、父王の死の翌日にイブラーヒームはアーグラで即位し、ローディー朝の君主となった[2]。また、弟のジャラールは彼の即位と同時にジャウンプルへと向かった。

だが、イブラーヒームはその後すぐ、領土の分割統治は貴族の陰謀であると考え、自分の威信が王国の全土に届くよう試みた。彼はジャラールには説得策を用いたが、ジャウンプル周辺の貴族らにはジャラールに忠誠を尽くしてはならないとし、その他兄弟をみな拘束したため、折り合いがつかなかった[3]

1517年12月30日、イブラーヒームは再度の即位式を挙げた。その後、ジャラール を力ずくで服従させようとし、1518年にはその巧みな交渉術でカールピー周辺の領土の保有を条件に、王の象徴たる傘とティンパニーを引き渡させた[4]

だが、イブラーヒームは合意を守るつもりはなく、ジャラールをいかにして抹殺できるかを考えていた[5]。そのため、ジャラールは身の危険を感じ、ラージプートグワーリヤル王国へと逃げた。

イブラーヒームはすぐさまグワーリヤル王国と戦端を開いた。そして、父シカンダルが何年も攻め落とすことが出来なかったその首都グワーリヤルを占領した[6]。だが、ジャラールはグワーリヤルを逃げ、インド中部に避難しようとしていた[7]

しかし、ジャラールはイブラーヒームの好意を得ようとしていたゴンド族の王サングラーム・シャーに捕まってしまい、アーグラへと送り届けられた[8]。イブラーヒームは宮廷にジャラールが届けられると、その後すぐに毒殺を命じた[9]

同年、イブラーヒーム・ローディーはメーワール王国サングラーム・シング(ラーナー・サンガー)とも戦端を開いた[10]。だが、ローディー朝の軍勢は打ち破られたばかりか[11]、結果としてメーワールの勢力がアーグラ付近にまで到達した[12]

そのうえ、1519年に貴族らが領土の東部で反乱を起こした。イブラーヒームは父代からの貴族を多く殺害・監禁したり、そうでなくとも激怒させていたからである[13]。この反乱は鎮圧には成功したものの、双方でそれぞれ1万人の戦死者を出す激戦となった。だが、その後も引き続き忠実ではないと思われる貴族を粛清したため、再度東部で反乱が発生した[14]

そのため、イブラーヒームはパンジャーブ総督のダウラト・ハーン・ローディーを味方にしようと使者を送った[15]。だが、彼はアーグラへは赴かず、1523年にアフガニスタンのカーブルを拠点としていたバーブルにインドに侵入するよう要請した[16]。また、メーワール王も同様にバーブルに侵入を要請した。

1525年11月、バーブルはカーブルを出発し、インダス川を越えて北インドに侵入した[17]。そして、1526年4月21日、イブラーヒームは100,000の大軍と象軍1000とバーブルの軍12,000はデリー近郊のパーニーパットで交戦した(第一次パーニーパットの戦い[18]

しかし、圧倒的優勢だったイブラーヒームの軍勢はバーブルの火器を駆使した戦術に敗れ、イブラーヒームは戦死し、ローディー朝は滅亡した[19][20][21][22]。イブラーヒームの死を以て、1206年から320年間続いたデリー・スルターン朝の支配は終わりを告げ、新たにムガル帝国(ムガル朝)の時代が始まった[23]

脚注[編集]

  1. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.161
  2. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.161
  3. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、pp.161-162
  4. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.162
  5. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.162
  6. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.162
  7. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.162
  8. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.162
  9. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.162
  10. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』年表、p.32
  11. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』年表、p.32
  12. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.214
  13. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.162
  14. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.162
  15. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.162
  16. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.163
  17. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.163
  18. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.163
  19. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.163
  20. ^ Tomb of Ibrahim Lodi
  21. ^ Ibrahim Lodi's Tomb
  22. ^ The tale of the missing Lodi tomb The Hindu, Jul 04, 2005.
  23. ^ SULṬĀN ĪBRAHĪM BIN SULṬĀN SIKANDAR LODĪ”. 'The Muntakhabu-’rūkh by ‘Abdu-’l-Qādir Ibn-i-Mulūk Shāh, known as Al-Badāoni, translated from the original Persian and edited by George S. A. Ranking, Sir Wolseley Haig and W. H. Lowe. Packard Humanities Institute 1884–1925. 2012年11月18日閲覧。

参考文献[編集]

  • フランシス・ロビンソン、月森左知訳 『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)』 創元社、2009年。 
  • 小谷汪之 『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』 山川出版社、2007年。 
  • サティーシュ・チャンドラ、小名康之、長島弘訳 『中世インドの歴史』 山川出版社、2001年。 

関連項目[編集]