イニーアス・マッキントッシュ

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イニーアス・ライオネル・アクトン・マッキントッシュ
A man, fresh-faced with dark, brushed-back hair, seated among a group. He is wearing a naval officer's uniform with a high, stiff collar
生誕 Aeneas Lionel Acton Mackintosh
(1879-07-01) 1879年7月1日
イギリス領インド帝国ベンガル・プレジデンシー、ティアハット
(現在のインドビハール州
死没 1916年5月8日(1916-05-08)(36歳)
南極、マクマード入江
教育 ベッドフォード・モダーン・スクール
職業 イギリス商船海軍士官、南極探検家
配偶者 グラディス(旧姓キャンベル)
子供 娘2人
アレクサンダー・マッキントッシュ、アニー・マッキントッシュ

イニーアス・ライオネル・アクトン・マッキントッシュ: Aeneas Lionel Acton Mackintosh、1879年7月1日 - 1916年5月8日)は、イギリス商船海軍士官であり、南極探検家である。アーネスト・シャクルトン卿の帝国南極横断探検隊(1914年-1917年)の一部としてロス海支隊を指揮した。ロス海支隊の任務は、シャクルトンの提案する南極大陸横断行を支援するために、行軍ルートの後半に物資補給所を設置することだった。打ち続いた挫折と実行の困難さに直面しながら、マッキントッシュの隊は任務を果たしたが、マッキントッシュと他の2人の隊員が帰還中に死んだ。

マッキントッシュにとって初めての南極体験は、1907年から1909年にかけての二等航海士時代に参加したシャクルトンのニムロド遠征だった。南極大陸に到着してまもなく、マッキントッシュは船上の事故で右目を失い、ニュージーランドに送り返されるも、1909年には遠征の後半に参加するために復帰した。逆境に立ち向かう意思と覚悟はシャクルトンの感銘を呼び、1914年のロス海支隊参加につながった。

マッキントッシュが率いるロス海支隊は、南極で多くの問題に直面した。マッキントッシュが発する命令は混乱した曖昧なもので、シャクルトンの提案する行軍の行程について不確かであることを意味していた。その問題は、隊の船SYオーロラが大風の間に係留地から吹き流され、戻ってこられなくなったことで複雑になった。装備、物資、人員を失ったにも拘わらず、マッキントッシュと上陸部隊は、物資を置きに行くという任務をやり遂げた。マッキントッシュ自身は、その命を仲間の行動に救われ、苦難を何とか生き延びることができた。安全な所に戻って来たあとで、マッキントッシュと仲間1人が遠征隊のベースキャンプまで、不安定な氷の海を渡って帰ろうとした。彼らは行方が分からなくなり、氷の海に落ちて死んだと考えられた。

マッキントッシュの能力と指導力は極地歴史家によって疑問視されている。シャクルトン自身は、マッキントッシュとその仲間の仕事を称賛しており、彼らが犠牲になったことを第一次世界大戦の塹壕で犠牲になった者達に比類している。同時にマッキントッシュの組織力については批判的であった。シャクルトンの息子エドワードは、マッキントッシュを同行者のアーネスト・ジョイスとディック・リチャーズとともに遠征隊の英雄として称えている。

初期の経歴[編集]

マッキントッシュは1879年7月1日にインドのティアハットで生まれた。父はスコットランド出身のアイ栽培農園主だったアレクサンダー・マッキントッシュであり、クラン・チャッタンの首領の子孫だった。マッキントッシュはその5人の息子と1人の娘、6人兄弟の1人だった。普通ならば首領の後継者となり、それにともなって首都であるインヴァネスに行っているはずだった[1]。マッキントッシュがまだ幼い頃、母のアニーが突然子供たちを連れてブリテンに戻った。この家庭内不和の理由は不明だが、それが継続したことは明らかである[1]。マッキントッシュはベッドフォードシャーの家からベッドフォード・モダーン・スクールに通った。その後はアーネスト・シャクルトンが5年前に辿ったのと同じ道を進み、16歳で学校を卒業すると海に出た。商船士官の厳しい修業時代を経た後にPアンドOラインに入り、暫くこの会社に在籍していた。1907年、シャクルトンのニムロド遠征に応募し、南極に向けて出港することになった[1]。その遠征隊の出発前に、マッキントッシュはイギリス海軍予備役の中尉に任官された[2]

ニムロド遠征[編集]

 Man with hair centre-parted, wearing high white collar with tie, and a dark jacket. His facial expression is serious
アーネスト・シャクルトン、ニムロド遠征の指導者

1907年から1909年に行われたニムロド遠征は、アーネスト・シャクルトンが率いた3度の南極探検のうち、最初のものだった。その目的についてシャクルトン自身が書き残したところでは、「ロス海から南極へ進み、地理上の南極点南磁極への到達を目指す」となっていた[3]。マッキントッシュはPアンドOラインからシャクルトンに適切な士官として推薦され[4]、間もなくシャクルトンの信頼を勝ち取り、仲間の士官にはその意思と決断力で印象を与えた[5]。遠征隊がニュージーランド滞在中に、シャクルトンはマッキントッシュを陸上部隊に加え、南極行の候補のような形にしていた[6]

事故[編集]

1908年1月31日、ニムロドが南極海のマクマード入江に到着して間もない頃、マッキントッシュは船上の橇を運ぶの手伝っているときに、甲板のフックが振れて右目を直撃し、事実上その目を破壊した。即座に船長の部屋に連れて行かれ、その日遅くには遠征隊の医者エリック・マーシャルが、一部急造の外科手術道具を使って目の除去手術を行った[7]。マーシャルは「誰もあれ以上には耐えられない」と言ってマッキントッシュの不屈の精神に深く印象付けられた[5]。この事故でマッキントッシュは陸上部隊から外され、さらなる治療のためにニュージーランドに送り返されることになった。この遠征の主要部分には参加できなかったが、1909年1月にはニムロドに戻って、遠征の最終段階に参加した。シャクルトンはそれ以前に船長のルパート・イングランドと不仲になっており、この航海ではマッキントッシュをニムロドの船長にしたいと思ったが、目の傷がまだ完治はしておらず、この抜擢はできなかった[8]

氷の海での漂流[編集]

1909年1月1日、ニムロドは遠征隊の岸の基地であるケープ・ロイズまでまだ25マイル (40 km) の位置で、氷に閉ざされた。マッキントッシュはその氷を徒歩で渡る決断をした。歴史家のボー・リッフェンバーグはその後の旅について「この遠征全体の中で最も思慮の足りない部分」と表現している[9]

マッキントッシュと3人の水夫で構成された隊は1月3日朝に船を離れた。物資と大きな郵袋を載せた橇を引いていた。直ぐに2人の水夫が船に戻り、マッキントッシュともう1人の水夫が先に進んだ。その夜は氷の上で宿営し、翌朝目覚めると自分たちの周りの氷が壊れているのを発見した[10]。動いている浮氷に飛び乗り、何とか小さな氷舌にたどり着くことができた。彼らはそこで宿営し、数日間雪盲が収まるのを待った。視界が回復するとケープ・ロイズは見える範囲にあったが、そこに行くまでの海の氷が無くなっており、間には海しかなかったので近づけなかった。陸路伝いに進むしか選択の余地はなく、それは適切な装備と経験が無ければ危険なものだった[11]

1月11日、彼らは出発した。その後の48時間、深いクレバスや不安定な雪原のある険しい地形と格闘した。間もなく装備や物資の全てを見失ってしまった[11]。ある時点では、前進するために3,000フィート (900 m) も上らねばならず、その後では雪の斜面を麓まで滑り降りた。最終的に霧の中を何時間もうろついた挙句、陸上部隊であるバーナード・ディと出逢う幸運に恵まれた。そこは小屋から直ぐの位置だった[12]。船は後に放棄された装備を回収した。当時ニムロドの一等航海士だったジョン・キング・デイビスは「マッキントッシュはいつも100分の1の幸運に恵まれている男だ。この時もそれを生かした」と語っていた[13]

マッキントッシュは後にアーネスト・ジョイス達の隊に加わり、ロス棚氷からミナブラフへ旅し、シャクルトンの南極行隊のために物資を置いた。シャクルトン隊は南に進んでおり、その帰還が待たれていた[12]。3月3日、マッキントッシュはニムロドの甲板で見張りをしている時に、炎を見てそれがシャクルトンとその部隊の無事な帰還の合図だと判断した。シャクルトンは目標としていた南極点の少し手前、南緯88度23分まで行って戻って来ていた[14][15]

2つの遠征の間の期間[編集]

 island outline with some marked features including the locations of two shipwrecks in an area identified as Wafer Bay
太平洋のココ島の地図、マッキントッシュは1911年にここで宝を探した

マッキントッシュは1909年6月にイングランドに戻った。PアンドOラインに出社すると、視力が損なわれたので、解雇すると告げられた[1]。直ぐに雇用される見込みもなかったので、1910年初期には、ダグラス・モーソンに同行してハンガリーに行き、シャクルトンが魅力ある事業の基盤になると期待していた金鉱原を探った[16]。モーソンはニムロド遠征にも参加した地質学者であり、後にオーストラリア南極遠征隊を率いることになった。モーソンの報告書は期待させるものだったが、この調査からは何も出てこなかった。マッキントッシュは後に太平洋岸のパナマ沖にあるココ島に宝探し遠征を行ったが、このときも手ぶらで帰って来た[1]

1912年2月、マッキントッシュはグラディス・キャンベルと結婚し、リヴァプールのインペリアル・マーチャント・サービス・ギルドに秘書補佐として事務の仕事を得た。この安全なルーティンワークは彼を満足させなかった。「私はこの仕事で生存しており、汚い事務所で息が詰まっている」とニムロドの元の船員仲間に書き送っていた。「私はいつも最初に始めたことを完遂できていないと感じている。良きにしろ悪しきにしろ最終段階まで行ってみたいものだ!」と続けていた[1]

ロス海支隊[編集]

初期の諸問題[編集]

シャクルトンの帝国南極横断探検隊には2つの異なる部隊があった。ウェッデル海を本拠にした本隊から、シャクルトンの率いる6人が南極点を経由して大陸を横切ることになっていた。これを支援するロス海支隊は大陸の反対側、マクマード入江にあって、ロス棚氷を越えて補給物資を置き、大陸を横断してくる部隊の最終段階を支援することになっていた。マッキントッシュは当初、シャクルトンの大陸横断部隊に入ることになっていたが[17]、ロス海支隊の指揮官指名の際に問題が生じた。ニムロド遠征の時から医師を務めるエリック・マーシャルがその指名を断り、ジョン・キング・デイビスも同様だった[18][19]。シャクルトンは海軍本部の軍人からこの任務にあたる要員を得ようとしたが、断られた[20]。ロス海支隊指導者の地位は、最終的にマッキントッシュに提案され、受容された[18]。その乗艦はSYオーロラとなり、後にモーソンのオーストラリア南極遠征にも使われ、この時ははオーストラリアで係留されていた。シャクルトンはロス海支隊の任務は型どおりのものであり、その実行に特別の難しさはないと見ていた[21]

マッキントッシュは1914年10月にオーストラリアに到着し、その任務に向かったが、直ぐに大きな困難さに直面することになった。シャクルトンはロス海支隊の割り当て資金を、何の断りも予告もなしに、2,000ポンドから1,000ポンドに半減していた。マッキントッシュはその差額を寄付金を懇願して補い[22]、さらに資金を作るために遠征につかう船を抵当にいれるよう指示されていた。さらに続いてオーロラはその購入の法的手続きが終わっていなかったので、それを抵当に入れるのも遅れた[23]。またオーロラは広範なオーバーホールをしなければ、南極海での活動に向けられなかった。これにはイライラしているオーストラリア政府との協業が必要だった[23]。限られた時間の中で、これらの困難さを扱わねばならなかったマッキントッシュは大きな不安を抱くようになり、オーストラリアの大衆の目には様々な混乱のある遠征隊に否定的なイメージを作ることになった[24]。隊員の中には諦める者もおり、解任された者もいた。隊員と科学面のスタッフを集めることで最後の瞬間まで使われ、隊の全体では南極に対する経験の乏しいものになった[25]

シャクルトンは、1914年から1915年の南極のシーズンに横断が可能になるなら行動に移るという思惑をマッキントッシュに伝えていた。シャクルトンはウェッデル海を出発する前にこの予定の実効可能性について考え方を変えた。マッキントッシュは計画の変更について何も知らされなかった。この意思の疎通を欠いたことが、1915年1月から3月の準備不足で混乱時状態に近い補給物資を置くための旅に繋がることになった[26]

補給所設置、最初のシーズン[編集]

オーロラは1914年12月24日にやっとタスマニア州ホバートを出港した。1915年1月16日、部隊はマクマード入江で上陸し、ロバート・スコット大佐が以前に本部にしたエバンス岬にマッキントッシュがベースキャンプを設置した[27]。シャクルトンがウェッデル海から既に行軍を始めた可能性があると考え、補給物資を置く任務を直ぐにも始めるべきと判断した。隊員のアーネスト・ジョイスは1901年から1904年に行われたスコットのディスカバリー遠征に参加し、またニムロド遠征に加わったことで、南極での経験が最も豊富な者だった。そのジョイスが環境への順応と訓練のために少し時間が必要だと言って抵抗したが、否定された[28]。ジョイスはその拒絶にショックを受けた。橇のことに関してはマッキントッシュが自分に譲ってくると予測しており、「ここにシャクルトンが居たならば、私は彼に論点を見せることができたのだが」と日記に記していた[29]。補給所設置の旅は一連の災難と共に始まることになった。まずブリザードのために出発が遅れ[30]、数マイル進んだだけでモーター付き橇が壊れた[31]。マッキントッシュとそのグループは、エバンス岬とハット・ポイントの間にある氷の海で行き先を見失ってしまった[30]。棚氷の状態は、訓練も経験も無い隊員には厳しかった。棚氷に持って入った物資の多くは、負荷を減らすために途中で捨てられ、補給所まで届けられなかった[32]。ジョイスが強く反対したにも拘わらず、マッキントッシュが固執して連れてきた犬たちは南緯80度までは行ったが、帰り道で全て死んだ[33]。凍傷にかかり疲れ切った隊員は3月24日にハット・ポイントにあったディスカバリー遠征隊の小屋に到着したが、安全ではない海氷によって船からもエバンス岬の基地からも遮断されたまま、3か月近くもそこで何もせずに待つしかなくなった[34]。このような経験をした後、マッキントッシュの指導力に対する信頼が無くなり、言い争いが増えた[35]

オーロラの喪失[編集]

マッキントッシュと補給所設置部隊が6月半ばにやっとエバンス岬に到着したとき、オーロラが強風の時に冬の係留場所から流されたことを知った。オーロラには18人の隊員が乗船したままであり、陸上部隊の物資と装備の大半も積んだままだった。マクマード入江の氷の状態が船を呼び戻すことを不可能にしていた。陸上部隊10人は事実上孤立し、物資も劇的に枯渇していた[36][37]。しかし、補給庫に必要な物資の大半は揚陸していた。それ故にマッキントッシュは次のシーズンも任務を実行できると考えた。物資はロス棚氷を越えてベアドモア氷河まで運ばれることになっていた。この部隊は以前の遠征で残された物資を回収することで、物資と装備の不足を補おうとした。特にスコット大佐がエバンス岬に滞在した時のものがあった。隊の全体はこの任務の支援を約束したが、それを成し遂げるために南極行という記録破りの功績を必要とした、とマッキントッシュは記していた[38]。しかし、マッキントッシュにとって長い準備期間というのは難しかった。隊で唯一の士官として隊員と密接な関係を造りだすのが難しいことが分かった。その立場は次第に孤立し、特にジョイスから公然と批判されるようになった[39]

マウントホープへの行軍[編集]

1915年9月1日、3人ずつチームになった9人が約5,000ポンド (2,300 kg) の物資を、エバンス岬の基地からロス棚氷に移す任務を始めた。これはベアドモア氷河の麓にあるマウントホープまで、緯度にして1度(60海里、110 km、69法廷マイル)ずつに物資を置いて行くための最初の行程だった。北緯79度の直ぐ北のブラフ補給所に大型の前進基地が設けられ、そこからマウントホープまで最後の行軍が1916年初期にも始められる予定だった。この初期行程の間に、その方法についてマッキントッシュは何度もジョイスと衝突した。11月28日にあった山場では、自分の言う方法よりも文句なしに効率の良いジョイスの方法の証拠を見せられ、マッキントッシュはジョイスとリチャーズが書いた改定計画を受け入れざるを得なくなった。ジョイス自身のコメントは「人を働かせるためにこれほど愚かなことに出くわしたことは、わたしの経験ではなかった」としていた[40]

ブラフ補給所から南に向かう主たる行軍は1916年1月1日に始まった。それから数日のうちに3人組の1つが、ストーブの故障に続いて基地に戻らざるを得なくなった。他の6人は先を続けた。マッキントッシュ、ジョイス、アーネスト・ワイルド、ディック・リチャーズ、アーノルド・スペンサー・スミス、ジョン・ヘイワードの6人だった。南緯80度に前年に置いた補給所を補強し、81度と82度では新しい補給所が作られた。隊がマウントホープに近づくに連れて、マッキントッシュと、遠征隊の写真家であるスペンサー・スミスが足を引きずるようになった。南緯83度を過ぎると直ぐに、スペンサー・スミスが倒れてテントに残され、他の者で残り数マイルを進んだ。マッキントッシュは、病人と一緒に留まるべきという提案を拒否し、全ての補給所を完成させるのが自分の任務であると主張した[41]。1月26日、マウントホープに達し、最後の補給所が設置された[42]

 A loaded sledge being pulled across an icy surface by two figures and a team of dogs
橇に乗せられて運ばれるスペンサー・スミスとマッキントッシュ

帰還の道ではスペンサー・スミスを橇に載せる必要があった。マッキントッシュの体調は急速に衰えていた。橇を引くことができずに、その横でよろめき、壊血病がひどくなって足を引きずっていた[43]。マッキントッシュはその状態が悪くなると、何度も何度もスペンサー・スミスと共に橇の乗客になった。橇を引くメンバーが凍傷、雪盲、さらには壊血病という重荷を負った中で、その旅は生き残りのための大変な闘争だった。3月8日、マッキントッシュがテントに残ることにし、他のメンバーがスペンサー・スミスを連れて比較的安全なハット・ポイントまで運ぶことになった。スペンサー・スミスは翌日死んだ[44]。リチャーズ、ワイルド、ジョイスが、次に倒れたヘイワードをハット・ポイントまで運び、その後にマッキントッシュを救出に戻って来た。3月18日までに残った5人全員がハット・ポイントで体力を回復させていた。シャクルトンの伝記作者であるマージョリーとジェイムズ・フィッシャーは、「南極探検の歴史において、最も注目すべき、かつ明らかに不可能な、忍耐の功績」が完了したことになった[44]

失踪と死[編集]

 aerial view of a frozen bay, with a long peninsula of ice protruding from a snow-covered shoreline
凍ったマクマード入江、マッキントッシュとヘイワードは1916年5月8日にハット・ポイント(A点)を出発し、あるいてエバンス岬(B点)を目指した。C点付近で足取りが絶えた

ハット・ポイントでは壊血病の被害を止める新鮮なアザラシの肉があったので、生存者たちは緩り体力を回復させた。マクマード入江の海氷の状態が安定せず、エバンス岬基地までの残りの行程を阻んでいた[45]。ハット・ポイントの状態は薄暗くて鬱陶しく、単調な食事ばかりであり、慰みも無かった[46]。特にマッキントッシュは小屋のみすぼらしさを耐え難く思い、ハット・ポイントに居たままでは帰りの船に乗り遅れる可能性を心配した[47]。1916年5月8日、海氷の状態を偵察した後で、マッキントッシュは、自分とヘイワードが歩いてエバンス岬まで行く危険を冒す用意があると宣言した[48]。仲間たちは頻りに止めようとしたが、二人は軽い物資だけを担いで出発した[49]

ハット・ポイントの視界から外れて間もなく、厳しいブリザードが吹き荒れて2日間続いた。それが収まったとき、ジョイスとリチャーズが氷の上にまだ残っていた足跡をたどっていったが、大きなクラックの所で足跡が消えていた[50]。マッキントッシュもヘイワードもエバンス岬に到着してはおらず、ジョイスが広範な捜索を行ったにも拘わらず、その足跡も見つからなかった。ジョイスに続いてリチャーズとワイルドは6月にエバンス岬に到着することができた[51]

1917年1月にオーロラがやっとエバンス岬に戻って来たあと、さらに捜索が行われたが、やはり無駄だった[52]。マッキントッシュとヘイワードが氷の間に落ちたことを示す兆候や、彼らが歩いていた氷は、ブリザードの間に海に吹き流されていた[50]

評価[編集]

スコット極地研究所が保管しているマッキントッシュが記した遠征日誌には、1915年9月30日までの記録が残されているが、非公開である。[53]。一方で、ロス海支隊の主要メンバー二人から当時の体験を記した本が出版されている。ジョイスは1929年に日記を"The South Polar Trail"(『南極の道』)として、ディック・リチャーズは"The Ross Sea Shore Party 1914–17"(『ロス海支隊 1914–17』)を出版した。マッキントッシュの評価は、どちらでもあまり良くない。とりわけジョイスの日記では、ジョイスの視点から「自己拡大の多い叙事詩」として記されている[54]。ジョイスは概してマッキントッシュの指導力を酷評しており、リチャーズはさらに単刀直入である。リチャーズの著書が発表されたのはかなり後年であり、そのとき遠征隊で生き残っているのは彼一人となっていた。リチャーズは1985年に91歳で死んだ。マッキントッシュの補給所設置の旅は「恐ろしく感傷的であり」、「その神経を完全に失っており」、最後の氷上の歩行は「自殺」だったと言っている[55]

マッキントッシュの死の状況は、批評家がその衝動性と無能性を強調することになる[56]。しかし、この彼に関する否定的な見方は、仲間内では一致していない。ロス海支隊の主任科学者だったアレクサンダー・スティーブンスは、マッキントッシュが「信念があり、信頼できた」と見ており、マッキントッシュの疲れを知らぬ推進力が無ければ、ロス海支隊はあまり功績を残せなかっただろうと考えていた[57]。ジョン・キング・デイビスもマッキントッシュの献身を称賛し、補給所設置の旅は「素晴らしい功績だ」と言っていた[58]。シャクルトンはあまりはっきりと発言していない。その著書『South(邦題:エンデュアランス号 奇跡の生還)』の中で、マッキントッシュとその隊員はその目的を達成したことを認め、隊の忍耐強さと自己犠牲の精神を称賛し、マッキントッシュは母国のために死んだと主張している[59]。一方で母国に送った手紙の中ではかなり辛辣であり、「マッキントッシュは訓練や組織という概念が無かったように見える」と記している[60]。しかし、シャクルトンはニュージーランドを短期間講演旅行し、それから上がった利益をマッキントッシュの家族を支援するために使った[61]。その息子であるエドワード・シャクルトンは、遠征隊についてかなり後に評価し、「特に3人の男が英雄として現れた。イニーアス・マッキントッシュ大佐、ディック・リチャーズ、およびアーネスト・ジョイスである」と記した[62]

マッキントッシュに2人の娘がいた。2人目は彼がオーストラリアでオーロラの出発を待っている間に生まれた[1]。1916年2月にロス氷棚を戻るとき、死を予期したマッキントッシュは、スコット大佐に倣って感動的な別れのメッセージを書いていた。「もし神の意思ならば我々の生命を諦めねばならない。我々の伝統に従ったイギリスのやり方で、面目にかけて死ぬことになる。さよなら、友よ。私の愛する妻と子供たちが無視されないことを確信する。」と締め括られていた[63]。1923年、グラディス・マッキントッシュは、オーロラの一等航海士であり、後に船長になったジョセフ・ステンハウスと再婚した[64]

マッキントッシュはニムロド遠征での働きにより、銀極章を受けていた。また座標南緯74度20分 東経162度15分 / 南緯74.333度 東経162.250度 / -74.333; 162.250 (Mount Mackintosh)の山はマッキントッシュ山と名付けられている[2]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g Tyler-Lewis, pp. 35-36
  2. ^ a b Meet the Crew of Shackleton's Nimrod Expedition”. Antarctic Heritage Trust. 2009年9月5日閲覧。
  3. ^ Riffenburgh, p. 103
  4. ^ Huntford, p. 196
  5. ^ a b Tyler-Lewis, p. 22
  6. ^ Riffenburgh, p. 141
  7. ^ Riffenburgh, p. 159
  8. ^ Riffenburgh, p. 170
  9. ^ Riffenburgh, pp. 266-268
  10. ^ Riffenburgh, p. 266
  11. ^ a b Riffenburgh, p. 267
  12. ^ a b Riffenburgh, p. 268
  13. ^ Tyler-Lewis, p. 108
  14. ^ Shackleton, Heart of the Antarctic, p. 339
  15. ^ Riffenburgh, p. 231
  16. ^ Huntford, pp. 323-327
  17. ^ Fisher, p. 300
  18. ^ a b Tyler-Lewis, p. 27
  19. ^ Fisher, p. 302
  20. ^ Huntford, pp. 371-373
  21. ^ Shackleton, p. 242
  22. ^ Fisher, pp. 397-400
  23. ^ a b Fisher, p. 398
  24. ^ Fisher, p. 399
  25. ^ Tyler-Lewis, pp. 48-53
  26. ^ Tyler-Lewis, pp. 214-215
  27. ^ Tyler-Lewis, p. 64
  28. ^ Tyler-Lewis, pp. 67-68
  29. ^ Tyler-Lewis, p. 68
  30. ^ a b Tyler-Lewis, pp. 71-72
  31. ^ Tyler-Lewis, p. 84
  32. ^ Tyler-Lewis. pp. 104-105
  33. ^ Tyler-Lewis, p. 97
  34. ^ Tyler-Lewis, pp. 99-100
  35. ^ Tyler-Lewis, pp. 105-106
  36. ^ Bickel, pp. 72-74
  37. ^ オーロラは氷の中で9か月間漂流し、ロス海を北に動き、最後は南洋に達した。1916年2月に氷から離れ、1か月後にニュージーランドに戻った。Shackleton (South), pp. 307-333
  38. ^ Tyler-Lewis, pp. 135-137
  39. ^ Tyler-Lewis, pp. 138-144
  40. ^ Tyler-Lewis, pp. 145-162
  41. ^ Tyler-Lewis, pp. 163-171
  42. ^ Fisher, p. 408
  43. ^ Tyler-Lewis, pp. 184-185
  44. ^ a b Fisher, p. 409
  45. ^ Bickel, pp. 205-207
  46. ^ Bickel, pp. 206-207
  47. ^ Tyler-Lewis, p. 195
  48. ^ Bickel, p. 209
  49. ^ Bickel, pp. 212-213
  50. ^ a b Bickel, p. 213
  51. ^ Shackleton, pp. 302-303: Joyce's report
  52. ^ Shackleton, pp. 335-336
  53. ^ Tyler-Lewis, p. 346
  54. ^ Tyler-Lewis, p. 259-260
  55. ^ Arrow, Michelle. “Ross Sea Party”. Australian Broadcasting Corporation. 2008年4月13日閲覧。
  56. ^ Huntford, pp. 413-414, pp. 450-451
  57. ^ Tyler-Lewis, p. 259
  58. ^ Tyler-Lewis, p. 260
  59. ^ Shackleton, pp. 241-242 and p. 340
  60. ^ Tyler-Lewis, p. 252
  61. ^ Fisher, p. 423
  62. ^ Bickel, p. viii
  63. ^ Bickel, pp. 169-171
  64. ^ Tyler-Lewis, p. 271

参考文献[編集]

和訳:『エンデュアランス号 奇跡の生還』 奥田祐士訳、ソニー・マガジンズ〈ヴレッジブックス〉、2001年ISBN 4-7897-1782-8
  • Shackleton, Ernest (1911). The Heart of the Antarctic. London: William Heinemann. 
  • Tyler-Lewis, Kelly (2006). The Lost Men. London: Bloomsbury Publications. ISBN 978-0-7475-7972-4. 
和訳:『シャクルトンに消された男たち』 奥田祐士訳、文藝春秋、2007年ISBN 978-4-16-369390-3

外部リンク[編集]