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イグナティウス・アチャンポン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
イグナティウス・アチャンポン
Ignatius Acheampong


任期 1975年10月9日 1978年7月5日
副議長 フレッド・アクフォ英語版

任期 1972年1月13日 1975年10月9日

出生 (1931-09-23) 1931年9月23日
英領ゴールド・コースト
死去 (1979-06-16) 1979年6月16日(47歳没)
ガーナの旗 ガーナ アクラ
配偶者 ファウスティナ・アチャンポン
宗教 キリスト教
イグナティウス・アチャンポン
Ignatius Kutu Acheampong
所属組織 ガーナの旗ガーナ陸軍
軍歴 1951年 - 1978年
最終階級 大将
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イグナティウス・クツ・アチャンポン英語: Ignatius Kutu Acheampong1931年9月23日 - 1979年6月16日)は、ガーナ軍人政治家キリスト教徒クーデターで政権を握り、ガーナの第6代の国家元首となった。

1972年1月13日、アチャンポンは無血クーデターを起こし、文民政権のコフィ・ブシア首相を追放して軍事政権を樹立した。大義名分はブシアの経済失政とアカン人中心主義に対する反発だった[要出典]

アチャンポンは国家救済評議会 (NRC) を設置し、議長に就任。軍政をひいて混乱を収拾しようとしたが、逆に政治の私物化が行われ、腐敗が横行。「泥棒政治」といわれる状況に陥った。ガーナ経済はどん底に落ち込み、アチャンポンへの批判が高まった[要出典]

1975年10月9日、国家救済評議会は最高軍事評議会 (SMC) へと改編され、アチャンポンは市民も入れた連合政権を提案。1978年3月30日の国民投票で60.11%の支持を得たものの、1978年7月5日フレッド・アクフォ中将のクーデターにより失脚[要出典]。その後アクフォによって釈放されたものの、1979年6月16日ジェリー・ローリングスのクーデターによって処刑された[1]

私生活

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アチャンポンはファウスティナ・アチャンポンと結婚した。二人いる孫のうちの一人は、アメリカン・フットボール選手のチャーリー・ペプラである。もう一人の孫は身長6フィート9インチ(205.74 cm)で、フラムFCのストライカーを務めるヤキニ・アチャンポンである。[2]

彼はカトリックの信徒として育てられたが、統治期間中、1972年7月の「スピリチュアルな教会」の集会と、1973年12月1日のプラ川の神のためのシャナにおける「牛屠殺の儀式」という異教の儀式の両方で演説をした。双方のイベントで、彼のコメントはそれらの宗教への信仰を表明した。[3]

脚注

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  1. 「元国家元首を処刑 ガーナ」『朝日新聞』1979年6月17日、朝刊、6面。
  2. Crouse, Karen (6 February 2011). “To the Super Bowl via Ghana: A Packer Family's Journey”. The New York Times. p. SP1.
  3. Mbogoni, Lawrence Ezekiel Yona (2013). Human Sacrifice and the Supernatural in African History. Dar es Salaam, Tanzania: Mkuki na Nyota Publishers. pp. 41–43

外部リンク

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公職
先代
エドワード・アクフォ=アド英語版
ガーナの旗 ガーナ共和国国家元首
第6代:1972-1978
次代
フレッド・アクフォ英語版