アーヴィング対ペンギンブックス・リップシュタット事件

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アーヴィング対ペンギンブックス・リップシュタット事件(英:Irving v Penguin Books and Lipstadt)は、イギリス人作家デイヴィッド・アーヴィングがアメリカ人作家デボラ・リップシュタットと出版社ペンギンブックスを訴えたイギリスの裁判。アーヴィングは、リップシュタットが著書の中で彼をホロコースト否認論者と呼び中傷していると主張した。イギリス高等法院は、アーヴィングがわざと歴史的証拠を歪めたとするリップシュタットの主張が相当程度に真実(substantially true)であるとして、名誉毀損法(English defamation law)とホロコースト否認に関わるアーヴィングの主張は正当でないと判断した。

歴史[編集]

1993年、フリープレス社がデボラ・リップシュタットの著作『ホロコーストの否定:真実と記憶への増大する攻撃』(英:Denying the Holocaust: the Growing Assault on Truth and Memory)を出版。この本の中で彼女はホロコースト否認の現象を描写、非難し、主要な否認論者の一人としてデイヴィッド・アーヴィングに言及した。後にアーヴィングが異議を唱えた文章の一つ[1]は次のようなものだった。

アーヴィングはホロコースト否認論の最も危険なスポークスマンの一人だ。彼は歴史的な証拠に精通してはいるが、それを自分の思想的傾向と政治的路線に一致するよう歪曲している。彼はイギリスの著しい衰退がドイツとの戦争を決定したことによって加速されたと確信しており、的確な情報を伝えつつそれを彼自身の結論に一致させることにかけては非常に達者だ。彼の近著『チャーチルの戦争』(英:Churchill's War)に対するニューヨーク・レビュー・オブ・ブックスの書評は、証拠のダブルスタンダードを適用する彼の試みを正確に分析した。彼はドイツが犯した罪の証明のことになると「完全に証拠書類に基づく証明」を要求するが、一方で連合国を非難するときには高度に状況的な証拠に依存している。この的確な描写はアーヴィングだけの戦術というわけではなく、ホロコースト否認論者一般に当てはまるものである。[2]

1994年11月、アーヴィングはアトランタのデカルブ・カレッジ(後のジョージア・パリミター大学)で初めてリップシュタットと対面した。その時ちょうどリップシュタットはホロコースト否認論について講義している最中だった[3]。アーヴィングは講堂で彼女の講義を聴いていたが、それが終わると、討論を挑みかけ、沢山の紙幣をはためかせて、「ヒトラーによるホロコーストの命令書を見つけることができた者には1000ドルをやろう」と言ってリップシュタットを邪魔しようとした[3]。彼は何度も討論に引きずりこもうとしたものの、彼女は彼を無視した[4]。講義が終わった後、アーヴィングは「リップシュタットが討論を拒否し、1000ドルの支払いを約束したにもかかわらずヒトラーのホロコースト命令書を提示しなかったことは、『ホロコーストの否定』における自分への批判が不当であることを証明している」と言って、彼女の聴講生たちに自身が書いたヘルマン・ゲーリングの伝記のコピーを配って回った[4]

名誉毀損訴訟[編集]

1996年9月5日、アーヴィングはリップシュタットの著書について名誉毀損の訴訟をイギリス裁判所に提起した。訴えはリップシュタットとペンギンブックス(著書の英国版はペンギングループのプラム社が出版していた)に対するものだった[5]。また同時に彼は1996年4月21日にオブザーバー紙上に掲載された彼に関する記事「ヒトラーに傾倒するとき」(英:Spin Time for Hitler)が名誉毀損だとしてホロコースト歴史家のギッタ・セレニーも訴えたが[6][7]、こちらは法廷には持ち込まれずに終わった[8]。さらに1997年10月25日と28日の手紙の中でアーヴィングはアメリカの歴史学者ジョン・ルカーチに対し、もしもルカーチの著作『ヒトラーの歴史』(英:The Hitler of History)をアーヴィングの活動への痛烈な批判箇所を削除せずに出版すれば名誉毀損で訴えると脅した。『ヒトラーの歴史』の米国版は1997年に該当箇所を削除せず出版されたが、英国版の出版はアーヴィングの法的圧力によって2001年まで見送られることとなった[9]。そしてこの英国版は出版社によってアーヴィングの歴史的手法への批判が含まれる文章が削除されていたため、多くの評者を失望させた[10][11]

リップシュタットは著書の中で、アーヴィングをホロコースト否認論者、捏造者、偏見の持ち主と呼び、現実の文書を巧みに操作し歪曲していると書いた。アーヴィングは、リップシュタットによってホロコースト否認論者という不当なレッテル張りをされ、証拠を捏造あるいはわざと誤った解釈をしたと不当に主張され、歴史家としての彼判を中傷されたと主張した[12]。著者のリップシュタットはアメリカ人であったが、アーヴィングはイギリスの高等法院に訴訟を提起した。アメリカ裁判所では名誉毀損の立証責任が原告側にあるが、イギリス裁判所では名誉毀損の立証責任は被告側にあった。彼がイギリスにおいて訴訟を提起できたのは、『ホロコーストの否定』がイギリスで出版されていたからだった(イギリス名誉毀損法はイングランドとウェールズにおいてなされる名誉毀損の疑いがある行為にしか適用されないため、1996年以前であれば、アーヴィングがリップシュタットを訴えるためにはアメリカにおいて法的措置を取る必要があった)。この事件を担当したチャールズ・グレイ判事は以下のように説明している。

……被告側の正当性を立証する責任は出版者にある。イギリス法において中傷的な言論は真実でないと推定される。これは出版された中傷的言論の全ての詳細な部分について真実であると証明する義務を被告に課すものではない。証明されなければならないのは原告に関して出版された中傷的な非難が相当程度に真実(substantial truth)だといえることである。

法的問題点[編集]

アーヴィングがイギリス裁判所への訴訟提起を決定したことは立証責任の転換という点で彼を優位にした。アメリカ名誉毀損法では、中傷されていると主張する公人が、問題の言論が中傷的であり、表現者が間違っており、表現者が真実性・虚偽性について現実的悪意(actual malice)か未必の故意(reckless disregard)を抱いていることを立証しなければならない。さらに、信頼できる情報源に依拠していることは(たとえ虚偽だと証明しても)被告にとって有効な防御となる。これとは対照的に、イギリス名誉毀損法は原告にその言論が中傷的であることを示すことしか要求していない。その言論が相当程度に真実(ubstantially true))あることを証明する立証責任は被告側に課されており、情報源に依拠していることは何の意味も持たない[13]

リップシュタットの著述は明らかに中傷的であり、被告側は自分たちが誤解されたとは主張することができなかった[14]。したがって、もし被告側が著述の中傷的内容が真実であると証明できなかった場合、彼らは名誉毀損により有罪になることとなった。リップシュタットはそのような評決がアーヴィングの主張に正当性を与えることを恐れ、自身を弁護せずにはいられないと感じた[15]。このような状況に至って、あるコメンテーターは、当初はアーヴィングが「無視されるかもしれない」との意見を出していたものの[16]、後に「リップシュタットは法廷で自分を弁護するしかなくなった」と書いている[17]

被告側が立証に成功するためには、リップシュタットがアーヴィングに行った中傷的な主張の全てが相当程度に真実であると証明する必要があった。判事が理解した真実性を証明すべき主張内容は以下の通りだった[18]

  1. アーヴィングはヒトラー一派の弁解者であり、ヒトラーの罪を免れさせヒトラーがユダヤ人に対して同情的であったかのように描写するという目的のために、証拠の歪曲、文書の操作と曲解、データの不当表示と証拠へのダブルスタンダードの適用を用いている。
  2. アーヴィングはホロコースト否認論の最も危険なスポークスマンの一人であり、彼は数多くの場で、ナチスがユダヤ人抹殺の意図的な計画に従事していたことを否定し、そのようなユダヤ人抹殺遂行の手段としてアウシュビッツでナチスが毒ガス室を用いたというのはユダヤ人の欺瞞だと主張している。
  3. アーヴィングはホロコーストの存在を否定する中で、証拠を誤って述べ、情報源を間違って引用し、統計を偽造し、情報の解釈を誤り、歴史的証拠を自身のネオ・ファシスト的な政治路線とイデオロギー的信条に合致するように捻じ曲げている。
  4. アーヴィングはあらゆる過激かつ反ユダヤ主義的な団体代表あるいは個人と同盟しており、あるときにはテロ組織の代表が発言することになっている会議への出席に同意している。
  5. アーヴィングは自らが結んだ契約に違反して許可なしにゲッベルスの日記のいくつかのマイクロフィルムを取り去り国外に輸送し、それによって資料を現実的な損傷の危険に晒した。
  6. アーヴィングは歴史家としては信用に値しない。

判決[編集]

判事は事実認定を以下のように要約した。

アーヴィングは彼自身のイデオロギー的理由から、歴史的証拠を持続的かつ故意に間違って解釈し操作しており、同じ理由から、彼は主としてユダヤ人に対するヒトラーの態度や責任の面で、ヒトラーを不当に好意的な人物のように見せかけており、彼は積極的なホロコースト否認論者であり、反ユダヤ主義者、差別主義者であり、ネオ・ナチズムを推進する右翼の過激主義者たちと協力しており、[19][20]…… したがって被告の立証は成功している……[21] その結果として被告を支持する判決が下されなければならないということになる。[22]

脚注[編集]

  1. ^ Irving v Lipstadt (2000), Section 2
  2. ^ Lipstadt (1994), page 181
  3. ^ a b Guttenplan 2001, p. 39.
  4. ^ a b Guttenplan 2001, pp. 39-40.
  5. ^ Pelt (2002), page 63
  6. ^ Evans (2001), page 27
  7. ^ Sereny, Gitta (21 April 1996). "Spin Time for Hitler". The Observer. p. 1.
  8. ^ Tim Adams (24 February 2002). "Memories are made of this". The Observer. London. Retrieved 28 September 2010.
  9. ^ Evans (2001), page 27
  10. ^ Adams, Tim (24 February 2002). "Memories are made of this". London: Observer. Retrieved 21 December 2008.
  11. ^ Lipstadt (2005), page 293
  12. ^ Holocaust Denial and the 2000 Libel Trial in the U.K. Emory University
  13. ^ Lipstadt (2005), page 31-32
  14. ^ Lipstadt (2005), page 31
  15. ^ Lipstadt (2005), page 31
  16. ^ Freedland, Jonathan (1 March 2000). "The History Men". The Guardian. London: Guardian News and Media Limited. Retrieved 17 July 2009.
  17. ^ Freedland, Jonathan (12 April 2000). "Let's Close the Book". The Guardian. London: Guardian News and Media Limited. Retrieved 17 July 2009.
  18. ^ Irving v Lipstadt (2000), Paragraph 2.15
  19. ^ Irving v Lipstadt (2000), Paragraph 13.167
  20. ^ "Jews have a bigger worry than the vile nutter David Irving: Ahmadinejad's Iran". The Daily Telegraph. London. 24 September 2010.
  21. ^ Irving v Lipstadt (2000), Paragraph 13.168
  22. ^ Irving v Lipstadt (2000), Paragraph 14.1

参考文献[編集]

  • Guttenplan, D. D. (2001). The Holocaust on trial. New York: Norton. ISBN 0-393-02044-4.
  • Evans, Richard J. (2001). Lying about Hitler: history, Holocaust, and the David Irving trial. New York: Basic Books. ISBN 978-0-465-02152-9.
  • Lipstadt, Deborah E. (1994). Denying the Holocaust: the growing assault on truth and memory. New York: Plume. ISBN 0-452-27274-2.
  • Lipstadt, Deborah E. (2005). History on trial: my day in court with David Irving. New York, N.Y: ECCO. ISBN 0-06-059376-8.
  • Pelt, Robert Jan van (2002). The case for Auschwitz: evidence from the Irving trial. Bloomington: Indiana University Press. ISBN 978-0-253-34016-0.