アン・ジャーヴィス

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アン・ジャーヴィス
生誕アン・マリー・リーヴス(Ann Maria Reeves)
(1832-09-30) 1832年9月30日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 バージニア州カルペパー
死没1905年5月9日(1905-05-09)(72歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ペンシルベニア州フィラデルフィア
著名な実績南北戦争時代の社会活動家、コミュニティ組織者、そして母の日の霊感を与えた母親、母の日運動の創始者

アン・マリー・リーヴス・ジャーヴィス (Ann Maria Reeves Jarvis、1832年9月30日 - 1905年5月9日)は、社会活動家で、独立戦争時代のコミュニティ組織者であった。彼女は、母の日の霊感を与えた母親として、そして母の日運動の創始者として認められ、彼女の娘アンナ・ジャーヴィス(1864年 - 1948年)は、アメリカ合衆国の母の日休日の創設者として認められている。

伝記[編集]

アン・マリー・リーヴス・ジャーヴィスは、1832年9月30日にヴァージニア州カルペパー(Culpeper)に、ジョサイア・ワシントン・リーヴス(Josiah Washington Reeves)とナンシー・ケンパー・リーヴス(Nancy Kemper Reeves)の娘として生まれた[1]。 アン・リーヴス・ジャーヴィスは、家族とともに(ウェスト)ヴァージニア、バーバー郡(Barbour County)、フィリッピ(Philippi)に移ったが、そのときメソジストの聖職者である父親はその町に転任させられた[2]

1850年にアン・リーヴスは、バプテストの牧師の息子グランヴィル・ジャーヴィス(Granville Jarvis)と結婚し、彼は近くのテーラー郡(Taylor County)の成功した商人となった[3]。 2年後、1852年に、カップルはウェブスターに移り、そこでグランヴィル・ジャーヴィスは利益目当ての仕事を立ち上げた[4]

1800年代半ばの多くの家のように、ジャーヴィス家は、しばしばの悲劇と喪失を経験した。ジャーヴィスは17年間に11ないし13子を生んだ。これらの子のうち、たった4人が生き延びて成人した。残りは、テーラー郡のアパラチアのコミュニティーでふつうな、麻疹、腸チフス、そしてジフテリアの流行のような病気で死亡した。これらの喪失は、ジャーヴィスに、彼女のコミュニティが小児病および非衛生的な条件とたたかうのを助ける行動をとる霊感を与えた[5]

ミセス・ジャーヴィスはダイナミックな女性で、コミュニティーの需要が見え、それを満たす方法がわかった。1858年に、第6子を妊娠ちゅう、ジャーヴィスは、母の日ワーク・クラブを、グラフトン、プランティタウン(Pruntytown)、フィリッピ、フェッターマン(Fetterman)、そしてウェブスターで始め、健康衛生条件を改善した。彼女と他の地域の女性らは、合衆国の成長しつつある公衆衛生運動に加わった[6]。ジャーヴィスのクラブは、病気と幼児死亡数を減らす目的で、家庭に助力と教育を提供しようと努めた。これらのクラブは、金銭を工面して、薬を買い、母親が結核やその他の健康問題家庭で働く女性を雇った。

彼らは、州の必要物があるずっと前にミルクを検査する計画を仕上げた。クラブのメンバーは、家庭を訪れ、母と家族に衛生と健康全体を教育した。クラブは、ジャーヴィスの兄弟のドクター・ジェーム・スリーヴスの助言から利益を得たが、彼はヴァージニアの北西部の腸チフスの流行で仕事で知られた[7]

アメリカ南北戦争中(1861年 - 1865年)、ヴァージニア西部の感情は、北と南のあいだで鋭く分けられた。1863年に、これは頂点に達して、そのとき州西部はヴァージニアから抜け出てウェスト・ヴァージニアという新たな州を形成したが、これはユニオンに忠実であった。ヴァージニア西部は、南北戦争の最初の複数の衝突の場所となった。ジャーヴィスの母の日ワーク・クラブは、使命を変え、戦争によって引き起こされた変化しつつある需要を満たした。

アン・ジャーヴィスは、クラブに、中立を宣言し、コンフェデレートとユニオンの両者の兵士を援助するように迫った[8]。 ジャーヴィスは、中立にとどまり、メソジスト教会の南と北の支部への、提案された分離を支持することを断ることによって双方を援助する決心を例解した[9]。そのうえ、彼女は、他の人々が断ったとき、地域でコンフェデレートによって殺された最初のユニオンの兵士ソーンズベリー・べーリー・ブラウン(Thornsbury Bailey Brown)のために長い祈りを捧げたとされる[10]。彼女の指導の下に、クラブは、地域に駐屯させられた双方の兵士に衣食を供給した。 軍事キャンプで腸チフスと麻疹が発生したとき、ジャーヴィスと彼女のクラブのメンバーらは、司令官の依頼で双方の負傷兵士を看護した[11]

南北戦争が終わったのち、コミュニティを団結させておこうとするジャーヴィスの努力は、続いた。戦闘が終わったのち、戦後のたたかいを取り除く方法をさがしている公務員は、ジャーヴィスに助けてくれるように求めた。彼女と彼女のクラブのメンバーらは、治療過程を促進するためにプランティタウンのテーラー・カウンティ・コートハウス(Taylor County Courthouse)で双方の兵士らと家族のために「マザーズ・フレンドシップ・デー」("Mothers Friendship Day")を計画した。暴力の脅迫にもかかわらず、ジャーヴィスは1868年にイヴェントをステージで上演し成功した。彼女は、古参兵らと、統一および和解のメッセージを共有した。複数のバンドは、「ディキシー」と「星条旗」を演奏し、イヴェントは北も南もだれもがひとつになって「オールド・ラング・サイン」を歌って終わった。この効果的な感動的なイヴェントは、多くの人に涙を流させた。コミュニティに、敵意は破壊的で、終わらねばならないことが示された[12]

南北戦争の終わり近く、1864年に、ジャーヴィス家は、グランヴィル・ジャーヴィスの旅館の主人および土地相場師としての冒険的事業をたすける目的で、グラフトンに移った。アン・リーヴス・ジャーヴィスは、社会活動ワークを続けた。生涯を通じて、ジャーヴィスは日曜学校で教え、メソジスト教会とふかく関わった。グラフトンで、ジャーヴィスは、アンドリュース・メソジスト監督教会(Andrews Methodist Episcopal Church)の建築にかかわり、したがってそこで日曜学校で教えた。彼女は、25年間、プライマリー・サンデー・スクール・デパートメント(Primary Sunday School Department)の監督者として役だった[13]

ジャーヴィスは、また人気のある話し手で、しばしば地元の協会と組織で、宗教、公衆衛生、そして文学の範囲の主題で聴衆のために講義した。 彼女の講義には、「"Literature as a Source of Culture and Refinement"」、「"Great Mothers of the Bible”」、「“Great Value of Hygiene for Women and Children”」、そして「"The Importance of Supervised Recreational Centers for Boys and Girls”」がふくまれた[14]

アン・ジャーヴィスは、1902年の夫グランヴィルの死亡まで、グラフトンにとどまった。 彼の死亡ののち、ジャーヴィスはフィラデルフィアに移り、彼女の息子らおよび2人の娘と暮らした。 彼女の娘アンナ・ジャーヴィスは、アン・リーヴス・ジャーヴィスを世話し、彼女の健康は心臓問題のためにたえまなく衰えた。 アン・リーヴス・ジャーヴィスは1905年5月8日にフィラデルフィアで、4人の生き残っている子らに囲まれて死亡した[15]

生涯を通じて、ジャーヴィスは、母親らをたたえ、助けようと努力した。 彼女の娘アンナ・マリー・ジャーヴィスは、1876年に日曜学校の課業のあいだに母らを記憶したたえる日をだれかが始めるように祈ったのを思い出した[16]。 アン・ジャーヴィスの死亡の第一記念日に、アンナ・ジャーヴィスは、友人らに会い、翌年、自分の母を記憶する記念的礼拝の計画を知らせた。 1907年5月に、プライヴェーとな礼拝はアン・ジャーヴィスをたたえておこなわれた[17]。 翌年、1908年に、アンナ・ジャーヴィスは、母の死亡の記念日が迫って、母の日の最初の公式の儀式を組織した。 アンドリュース・メソジスト教会でアン・リーヴス・ジャーヴィスは25年間、日曜学校で教えたが、そこで1908年5月10日午前に最初の公的な礼拝が行なわれた。 アンナ・ジャーヴィスは礼拝に出席しなかったが、しかし出席者全員のために500の白いカーネーションの寄付を贈った。 午後に、15000人は、別の礼拝に出席したが、これはアンナ・ジャーヴィスがフィラデルフィアで組織し、ワナメーカー・ストア・オーディトリアム(Wanamaker Store Auditorium)で開かれた[18]

最初の儀式に続く年々に、アンナ・ジャーヴィスの新たな休日は、多くの国で認識を得て、多くの国に広まった[19]。 アンナ・ジャーヴィスは、また、合衆国で母の日を公式に認識された休日にする使命に着手した。 ウッドロー・ウィルソン大統領は、公式に5月の第2日曜日を国家的母の日にし、アメリカ人に旗を広げて見せてることによって認識するように要求する議会の決議に署名したとき、彼女は成功した[20]

脚注[編集]

  1. ^ West Virginia State Archives, “Anna Maria Reeves Jarvis,” West Virginia Archives and History [1].
  2. ^ Howard H. Wolfe, Mother’s Day and the Mother’s Day Church (Kingsport, TN: Kingsport Press, 1962), 175.
  3. ^ West Virginia State Archives, “Anna Maria Reeves Jarvis,” West Virginia Archives and History [2], Marie Tyler-McGraw, “Mother’s Day Revisited: ‘But After All Was She Not a Masterpiece as a Mother and a Gentlewoman…’” Goldenseal (Spring 1999): 10-15.
  4. ^ Katherine Lane Antolini, Memorializing Motherhood: Anna Jarvis and the Struggle for Control of Mother’s Day” (PhD diss., West Virginia University, 2009), 34.
  5. ^ Katherine Lane Antolini, Memorializing Motherhood: Anna Jarvis and the Struggle for Control of Mother’s Day” (PhD diss., West Virginia University, 2009), 25-27, Marie Tyler-McGraw, “Mother’s Day Revisited: ‘But After All Was She Not a Masterpiece as a Mother and a Gentlewoman…’” Goldenseal (Spring 1999):10.
  6. ^ West Virginia State Archives, “Anna Maria Reeves Jarvis,” West Virginia Archives and History [3], Katherine Lane Antolini, Memorializing Motherhood: Anna Jarvis and the Struggle for Control of Mother’s Day” (PhD diss., West Virginia University, 2009), 28-29.
  7. ^ Katherine Lane Antolini, Memorializing Motherhood: Anna Jarvis and the Struggle for Control of Mother’s Day” (PhD diss., West Virginia University, 2009),29, Howard H. Wolfe, Mother’s Day and the Mother’s Day Church (Kingsport, TN: Kingsport Press, 1962), 181-182.
  8. ^ Katherine Lane Antolini, Memorializing Motherhood: Anna Jarvis and the Struggle for Control of Mother’s Day” (PhD diss., West Virginia University, 2009), 30-31, Howard H. Wolfe, Mother’s Day and the Mother’s Day Church (Kingsport, TN: Kingsport Press, 1962), 182-183.
  9. ^ Marie Tyler-McGraw, “Mother’s Day Revisited: ‘But After All Was She Not a Masterpiece as Mother and a Gentlewoman…’” Goldenseal (Spring 1999):11.
  10. ^ Katherine Lane Antolini, Memorializing Motherhood: Anna Jarvis and the Struggle for Control of Mother’s Day” (PhD diss., West Virginia University, 2009), 30-31, Howard H. Wolfe, Mother’s Day and the Mother’s Day Church (Kingsport, TN: Kingsport Press, 1962), 182-183.
  11. ^ Katherine Lane Antolini, Memorializing Motherhood: Anna Jarvis and the Struggle for Control of Mother’s Day” (PhD diss., West Virginia University, 2009), 30-31, Howard H. Wolfe, Mother’s Day and the Mother’s Day Church (Kingsport, TN: Kingsport Press, 1962), 182-183.
  12. ^ Katherine Lane Antolini, Memorializing Motherhood: Anna Jarvis and the Struggle for Control of Mother’s Day” (PhD diss., West Virginia University, 2009), 32-33, Howard H. Wolfe, Mother’s Day and the Mother’s Day Church (Kingsport, TN: Kingsport Press, 1962), 180-181.
  13. ^ Katherine Lane Antolini, Memorializing Motherhood: Anna Jarvis and the Struggle for Control of Mother’s Day” (PhD diss., West Virginia University, 2009), 36-37.
  14. ^ Marie Tyler-McGraw, “Mother’s Day Revisited: ‘But After All Was She Not a Masterpiece as a Mother and a Gentlewoman…’” Goldenseal (Spring 1999):12, Katherine Lane Antolini, Memorializing Motherhood: Anna Jarvis and the Struggle for Control of Mother’s Day” (PhD diss., West Virginia University, 2009), 37-38.
  15. ^ Katherine Lane Antolini, Memorializing Motherhood: Anna Jarvis and the Struggle for Control of Mother’s Day” (PhD diss., West Virginia University, 2009), 78-79.
  16. ^ Katherine Lane Antolini, Memorializing Motherhood: Anna Jarvis and the Struggle for Control of Mother’s Day” (PhD diss., West Virginia University, 2009), 25.
  17. ^ Marie Tyler-McGraw, “Mother’s Day Revisited: ‘But After All Was She Not a Masterpiece as a Mother and a Gentlewoman…’” Goldenseal (Spring 1999): 14.
  18. ^ Katherine Lane Antolini, Memorializing Motherhood: Anna Jarvis and the Struggle for Control of Mother’s Day” (PhD diss., West Virginia University, 2009), 80.
  19. ^ Katherine Lane Antolini, Memorializing Motherhood: Anna Jarvis and the Struggle for Control of Mother’s Day” (PhD diss., West Virginia University, 2009), 80-81.
  20. ^ Marie Tyler-McGraw, “Mother’s Day Revisited: ‘But After All Was She Not a Masterpiece as a Mother and a Gentlewoman…’” Goldenseal (Spring 1999): 14.

参照[編集]

  • Antolini, Katherine Lane. “Memorializing Motherhood: Anna Jarvis and the Struggle for Control of Mother’s Day.” PhD diss., West Virginia University, 2009. [4].
  • Kendall, Norman F. Mother’s Day: A History of its Founding and its Founder. Grafton, WV: D. Grant Smith, 1937.
  • Kreiser, Christine M. "Anna Jarvis." e-WV: The West Virginia Encyclopedia. 2 March 2012. Accessed 24 March 2014. [5]
  • "Mother's Day: A Celebration rooted in a Germanna mother's life" Culpeper Star Exponent, May 14, 2012
  • Mother’s Day for Peace article from May 12, 2013; retrieved at zinnedproject.org on March 12, 2014
  • Tyler-McGraw, Marie. “Mother’s Day Revisited: ‘But After All Was She Not a Masterpiece as a Mother and a Gentlewoman…’” Goldenseal (Spring 1999): 10-15.
  • West Virginia State Archives. “Anna Maria Reeves Jarvis.” West Virginia Archives and History. Accessed 24 March 2014. [6]
  • Wolfe, Howard H. Mother’s Day and the Mother’s Day Church. Kingsport, TN: Kingsport Press, 1962.

読書案内[編集]

  • LEIGH Eric Schmidt (1997). Princeton University Press. ed. Consumer Rites: The Buying and Selling of American Holidays (reprint, illustrated ed.). pp. 256–275. ISBN 0-691-01721-2. https://books.google.com/books?id=maF8mTPsJqsC 

外部リンク[編集]