アンナ・ジャーヴィス
アンナ・ジャーヴィス | |
---|---|
![]() | |
生誕 | アンナ・マリー・ジャーヴィス 1864年5月1日 ![]() |
死没 | 1948年11月24日(84歳没)![]() |
国籍 | ![]() |
著名な実績 | アメリカの母の日の創設者 |
アンナ・マリー・ジャーヴィス(Anna Marie Jarvis、1864年5月1日 - 1948年11月24日)は、母の日の創設者である。
伝記[編集]
家庭と前半生[編集]
アンナ・マリー・ジャーヴィスは、1864年5月1日に、アメリカ合衆国ウエストヴァージニア州テーラー郡(Taylor County)ウェブスター(Webster)に、グランヴィル E.(Granville E.)(1829〜1902)とアン・マリー(旧姓リーヴス(Reeves))・ジャーヴィス(Ann Maria (née Reeves) Jarvis)を両親として、11子の第9子として生まれた。彼女の同胞(きょうだい)のうち7人は幼児期または幼年時代前半に死亡した[1][2][3]。 彼女の生誕地は、こんにちアンナ・ジャーヴィス・ハウス(Anna Jarvis House)として知られるが、1979年以来、国家歴史登録材(National Register of Historic Places)のリストに載せられている[1]。一家は、ウエスト・ヴァージニア州グラフトン(Grafton)に、またテーラー郡に、彼女の子供時代後期に、移った[4]。
アン・リーヴス・ジャーヴィスは、社会活動家で、母の日ワーク・クラブ(Mothers’ Day Work Clubs)の創設者であった[5]。自分の信念によって定義される女性としては、彼女は、アンドリュース・メソジスト監督教会(Andrews Methodist Episcopal Church)のコミュニティのなかでたいへん活動的であった。彼女の娘アンナ・ジャーヴィスが、祈りで課業を終えたとき母の日の霊感を受けたのは、1876年の日曜学校の課業のひとつのなかで、こう述べた:
わたしは希望し祈ります、だれかが、いつか、あらゆる生活分野で人類に比類の無いサーヴィスを与える母を記念する記念の母の日をつくる。彼女はその権利があります。—アン・リーヴス・ジャーヴィス[6]
母に激励されて、アンナ・ジャーヴィスは、カレッジに通い、ヴァージニア州スタントン(Staunton)のオーガスタ女性セミナリー(Augusta Female Seminary)の2年間のコース・ワークの修了の学位記を授与されたが、こんにちではメアリー・ボールドウィン大学(Mary Baldwin University)として知られる[7]。ジャーヴィスはグラフトンに戻り、パブリック・スクール・システムで働き、そのうえ活動的な教会メンバーとして母に加わり、母とのつながりを保った[7]。
おじドクター・ジェームス・エドマンド・リーヴス(Dr. James Edmund Reeves)が彼女にテネシー州チャタヌーガに移るように説得したのち、彼女は1年間、銀行の金銭出納係としてそこで働いた[8]。翌年、ジャーヴィスはふたたび移り、母親がグラフトンに戻るように迫ったにもかかわらず、今度はペンシルヴェニア州フィラデルフィアの兄弟と暮らした[9]。ジャーヴィスはフィラデルフィアで成功し、フィデリティー・ミューチュアル・ライフ保険会社(Fidelity Mutual Life Insurance Company)に地位を得て、そこで彼女はエージェンシーの最初の女性のリテラリーと広告のエディターになった。もうひとつの達成は、兄弟の仕事であるクウェーカー・シティー・キャブ・カンパニー(Quaker City Cab Company)の出資者になったことである[9]。
グラフトンを離れているあいだでさえ、アンナ・ジャーヴィスは母親と親密な文通を保った。アン・リーヴス・ジャーヴィスは娘の達成が誇りで、手紙それじたいが母と娘をかたく結びつけるのに役だった[10]。1902年のジャーヴィスの父親グランヴィルの死亡ののち、彼女は母親にフィラデルフィアに移り、自分および兄弟のところに留まるように迫った。兄弟も姉妹ともに母の健康を心配していたが、結局、アン・リーヴス・ジャーヴィスは、1904年には、心臓疾患の療養のため必要となり、フィラデルフィアに移ることに同意した[11]。アン・リーヴス・ジャーヴィスの心臓が衰えるにつれて、ジャーヴィスは時間の大部分を母の世話に費やした。アンは1905年5月9日に死亡した[12]。
母の日にむけての運動[編集]
母の死亡の3年後、1908年5月10日に、ジャーヴィスは、ウェスト・ヴァージニアのグラフトンで自分の母とアンドリュースメソジスト監督教会、こんにちの国際母の日シュライン(The International Mother's Day Shrine)、のすべての母をたたえる記念式を催し、母の日の最初の公式の儀式を祝賀した[13]。国際母の日シュラインは、1992年10月5日以来、指名された国定歴史建造物(National Historic Landmark)である[14]。
ジャーヴィスはこの礼拝に出席しなかったけれども、彼女は、礼拝の出席者全員のために500の白いカーネーションのみならず日の重要性を記述する電報を送った。彼女がフィラデルフィアのワナメーカーズ・ストア・オーディトリアム(Wanamaker's Store Auditorium)で話したとき、彼女は聴衆をスピーチの力で動かした[15]。
商業化、闘争、そして後半生[編集]
国民的な宣言は、彼女の努力の公的な有効化をあらわしたけれども、ジャーヴィスはつねに自分は記念日の指導者であると信じ、したがって、すべての母および母性をたたえる日のセンチメンタルな重要性に対する確立した信念をたもった。ジャーヴィスは、白いカーネーションのエンブレムのような触知可能な品物のシンボリズムを評価したが、彼女は次のように説明した:
その白さは母の愛の真実、純粋、広い慈善をシンボライズする。その匂い、彼女の記憶、そして彼女の祈り。カーネーションは花弁を落とさず、それが枯れる(die)ときその中心(heart)にそれらをくっつけ、それだから、そのうえ、母は子を胸(heart)に抱きしめ、母の愛は決して死な(die)ない。わたしがこの花を選んだとき、わたしは白いセキチクの母のベッドを思い出していた。—アンナ・ジャーヴィス[16]
ジャーヴィスは、その日のセンチメンタルな心を保つように努力しながら、しばしば母の思い出に言及し、いっぽうで休日の創設者としての自身の役割を保った。休日の創設者として位置と認識を保とうとする努力にくわえて、ジャーヴィスは、オリジナルのメッセージを圧倒する商業化の力と激闘した。これらの力のなかには、菓子、花卉、グリーティング・カード産業があった[17]。白いカーネーションのような、彼女がそのセンティメンタリティーゆえに評価したシンボルは、容易に商品化され、商業化された。
1920年代までに、花卉産業は白いカーネーションの価格を引き上げ続け、それから花の需要をみたすように赤いカーネーションを導入したので、アンナ・ジャーヴィスのオリジナルなシンボルは、赤いカーネーションが生きている母を表わし、白いカーネーションが亡き母をたたえるように、ふたたび割り当てられるようになった[18]。彼女はこれらの商業的な力の攻撃にこたえ、白いカーネーションの、より短命な代替物として母の日のエンブレムのバッジを作った[19]。彼女のこれらの商業的な力の否定的な意見は、同時代のつぎのようなコメントに明白である:
印刷されたカードは、あなたがあまりに怠惰で、世界でだれよりもあなたのためにしてくれた女性あてに書くことができないということ以外の何も意味しません。そしてキャンディー!あなたは母親にひと箱、取って - それから大部分は自分で食べるのです。かわいらしい感情。
しかしながら、日のもともとの意味にしがみつこうとする努力は、彼女自身の経済的困窮につながった。ほかの人々は日から利益を得たのにジャーヴィスはそうしなかったし、彼女は晩年を姉妹リリー(Lillie)と過ごした。1943年に彼女は母の日を救う請願を組織し始めた[22]。しかしながら、これらの努力は、彼女がペンシルヴェニア州ウェスト・チェスターのマーシャル・スクウェア・サナトリウム(Marshall Square Sanitarium)に入れられたとき、いったん停止した[23]。ひとびとは、花卉およびグリーティングカード産業と関係し、勘定を支払ってサナトリウムの彼女を守った[22]。
アンナ・ジャーヴィスは1948年11月24日に死亡し、ペンシルヴェニア州ベラ・カヌイド(Bala Cynwyd)の、フィラデルフィア近くの、ウェスト・ローレル・ヒル・セメタリー(West Laurel Hill Cemetery)で、母、兄弟、姉妹のとなりに埋葬された[24][25]。
アンナ M. ジャーヴィス委員会(Anna M. Jarvis Committee)は彼女を支え、健康の衰えつつある彼女の運動を続けるように助けたけれども、彼女自身はけっして結婚しなかったし子が居なかったので、ジャーヴィス家の墓所は、地所の唯一の相続人である彼女の甥姪の娘、彼女の長兄の孫娘の管理を受けるという確信とともに、結局、解散した。
注釈[編集]
- ^ a b Anatolini, p. 74.
- ^ Anatolini, p. 26.
- ^ Wolfe, p. 175.
- ^ Ann Marie Reeves Jarvis profile, wvgenweb.org (archived); accessed March 7, 2017.
- ^ Anatolini, pp. 27, 30, 32.
- ^ Anatolini, p. 25.
- ^ a b Anatolini, p. 75.
- ^ Anatolini, pp. 75–6.
- ^ a b Anatolini, p. 76.
- ^ Anatolini, p. 77.
- ^ Anatolini, p. 78.
- ^ Anatolini, p. 79.
- ^ Anatolini, p. 1.
- ^ “Andrews Methodist Episcopal Church”. National Historic Landmark summary listing. National Park Service. 2007年10月13日閲覧。
- ^ Anatolini, p. 80.
- ^ Anatolini, p. 82.
- ^ Anatolini, p. 103.
- ^ Anatolini, pp. 115–6.
- ^ Anatolini, p. 116.
- ^ Forbes, Malcolm S.; Bloch, Jeff (1991). Women Who Made a Difference. Simon & Schuster. p. 135. ISBN 0-671-74866-1
- ^ Arnold Gingrich, David A. Smart, ed., “Unknown Title”, Coronet 18 2017年3月7日閲覧。
- ^ a b “Take A Second To Salute Anna Jarvis, The Mother Of Mother's Day”. NPR.org. 2016年5月9日閲覧。
- ^ Anatolini, p. 267.
- ^ “Anna Jarvis and Mother's Day”. West Virginia Division of Culture and History. West Virginia Division of Culture and History. 2013年12月28日閲覧。
- ^ Anatolini, p. 272.
主なる参照先[編集]
- Anatolini, Katherine Lane (2009). Memorializing Motherhood: Anna Jarvis and the Struggle for Control of Mother's Day (PhD Diss). West Virginia University. ISBN 978-1-124-17972-8. OCLC 610042090
- Wolfe, Howard H. (1962). Mother's Day and the Mother's Day Church. Kingsport, TN: Kingsport Press. OCLC 5506405
読書案内[編集]
- Leigh, Eric Schmidt (1997). Princeton University Press. ed. Consumer Rites: The Buying and Selling of American Holidays (reprint, illustrated ed.). pp. 256–75. ISBN 0-691-01721-2 How Jarvis fought the commercialization of the holiday.
- Kendall, Norman F. (1937), Mothers Day, A History of its Founding and its Founder
- Taylor, Louisa. “Battling the Mother's Day monster”. Ottawa Citizen. p. A6 2008年5月11日閲覧。