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アンドレス・ヒメノ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アンドレス・ヒメノ
Andres Gimeno
アンドレス・ヒメノ
基本情報
フルネーム Andrés Gimeno Tolaguera
国籍 スペインの旗 スペイン
出身地 同・バルセロナ
生年月日 (1937-08-03) 1937年8月3日
没年月日 (2019-10-09) 2019年10月9日(82歳没)
身長 185cm
体重 89kg
利き手
バックハンド 片手打ち
殿堂入り 2009年
生涯獲得賞金 2,500 アメリカ合衆国ドル
4大大会最高成績・シングルス
全豪 準優勝(1969)
全仏 優勝(1972)
全英 ベスト4(1970)
全米 4回戦(1969・72)
優勝回数 1(仏1)
4大大会最高成績・ダブルス
全仏 準優勝(1960)
全英 ベスト8(1959)
全米 準優勝(1968)

アンドレス・ヒメノ・トラゲーラAndrés Gimeno Tolaguera, 1937年8月3日 - 2019年10月9日[1] )は、スペインバルセロナ出身の元男子プロテニス選手。1972年全仏オープン男子シングルス優勝者で、この大会で「34歳10ヶ月」の男子最年長優勝記録を持つ選手である。1969年全豪オープン決勝でロッド・レーバーに敗れた準優勝もある。ヒメノのテニスは、堅固なグラウンド・ストロークや機転のきくボレーなどを持ち味とした。

来歴

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アンドレス・ヒメノの競技経歴は1956年から始まり、彼は1960年まで「アマチュアテニス選手」として活動した。アマチュア選手時代の戦績は、1959年全豪選手権1960年全仏選手権で2度のベスト8がある。その後、ヒメノは「プロテニス選手」に転向した。当時の4大大会は出場資格がアマチュア選手に限定され、プロ選手たちには別の大会群があった。1968年にテニス界は「オープン化措置」を実施し、プロ選手たちの4大大会出場を解禁する。こうして、プロ選手のヒメノにも4大大会に戻る道が開かれた。その新制度のもとで行われた最初の大会は、1968年の「全仏オープン」である。ヒメノはその大会でケン・ローズウォールとの準決勝まで勝ち進んだが、この時はすでに30歳を迎えていた。全仏オープンウィンブルドン → 「全米オープン」の後、翌1969年に最初の「全豪オープン」が行われる。1969年全豪オープンで、31歳5ヶ月のヒメノは決勝でロッド・レーバーに 3-6, 4-6, 5-7 のストレートで敗れ、最初のチャンスでは優勝を逃した。レーバーはこの勝利から始まって、1969年に自身2度目の「年間グランドスラム」を達成した。

1970年のヒメノは、ウィンブルドンジョン・ニューカムとの準決勝に進出し、芝生の大会で自己最高成績を出した。レーバーに全豪決勝で敗れてから3年後、アンドレス・ヒメノは1972年全仏オープンで大会最年長優勝を飾る。準々決勝でアメリカスタン・スミス、準決勝でソ連アレックス・メトレベリを破って勝ち進んだヒメノは、決勝で地元フランスのパトリック・プロワジーを 4-6, 6-3, 6-1, 6-1 で破り、「34歳10ヶ月」で初優勝を果たした(スペインのテニス選手による4大大会男子シングルス優勝は、1960年代に4勝を挙げたマニュエル・サンタナ以来2人目)。

1973年全仏オープンで大会前年優勝者のヒメノは2回戦敗退に終わり、これが彼の最後の4大大会出場となる。1973年7月、オランダ・ヒルバーサム大会の決勝でオランダトム・オッカーに敗れた準優勝を最後に、テニス界の第一線から退いた。

2009年1月16日、ヒメノの国際テニス殿堂入りが決定した。スペイン人男子選手の国際テニス殿堂入りは、マニュエル・アロンソマニュエル・サンタナに次いで史上3人目となった。

4大大会優勝

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大会 対戦相手 試合結果
1972年 全仏オープン フランスの旗 パトリック・プロワジー英語版 4-6, 6-3, 6-1, 6-1

脚注

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参考文献

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外部リンク

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