アレクサンドル・ルカシェンコ
アレクサンドル・ルカシェンコ ベラルーシ語: Алякса́ндр Рыго́равіч Лукашэ́нка ロシア語: Александр Григорьевич Лукашенко | |
![]() | |
任期 | 1994年7月20日 – |
---|---|
任期 | 2000年1月26日 – |
出生 | 1954年8月30日(64歳)![]() ![]() |
政党 | ![]() 民主主義のための共産主義者(1991年 - 1992年[2]) 無所属 |
配偶者 | ガリーナ・ルカシェンコ |
アレクサンドル・グリゴリエヴィッチ・ルカシェンコ(ベラルーシ語: Алякса́ндр Рыго́равіч Лукашэ́нка アリャクサーンドル・ルィホーラヴィチ・ルカシェーンカ、ロシア語: Александр Григорьевич Лукашенко、Alexandr Grigor'evich Lukashenko、1954年8月30日 - )は、ベラルーシの政治家で大統領(1994年 - )。また、ベラルーシ・ロシア連合国家の初代最高国家評議会議長(2000年 - )でもある。欧米からは「ヨーロッパ最後の独裁者」と呼ばれる[3][4]。
1994年にロシア連邦との関係強化を掲げ初当選し、1996年には任期を延長、2001年に再選、2004年には憲法の3選禁止条項を撤廃し2006年に3選、2010年に4選、更に2015年に5選を果たした。なお、1999年12月8日にロシア連邦とベラルーシとの間で調印されたベラルーシ・ロシア連合国家創設条約の発効に伴い、翌2000年1月に「連合国家」の初代「最高国家評議会議長(国家元首)」に就任した。名の日本語表記は、「ルカシェンコ」が一般的だが、専門家がベラルーシ語からの表記である「ルカシェンカ」と書く場合もある[5][注 1]。昨今ではロシアとウクライナ・欧米との間で対立が深まっており、ベラルーシはその調停役を担うことも多いが、ルカシェンコ自身は民族的にはウクライナ人である。彼のウクライナ語読みでの名前は「オレクサンドル」(ウクライナ語: Алекса́ндр Григо́рович Лукаше́нко オレクサンドル・フルィホーロヴィチ・ルカシェンコ)である。
来歴[編集]
1954年8月30日当時のソビエト連邦白ロシア共和国のヴィテブスク州オルシャンスク地区コピィシ(コプイシ)村で生まれたとされるが、生い立ちには不明な点もある。両親はルカシェンコが1歳の時に離婚している。
1975年モギリョフ教育大学歴史学部を卒業。通信教育で農業アカデミー経済学部を卒業。1990年ソフホーズの支配人から、白ロシア共和国最高会議代議員選挙に立候補し当選する。独立後、ベラルーシは国内が混乱し政府も腐敗していた。そんな中、ルカシェンコは1993年汚職追及委員会議長に就任し、政治家達の汚職を糾弾し、有権者の支持を獲得する。
1994年ベラルーシ大統領選挙に立候補。大衆迎合的な選挙公約を掲げ、他の候補に圧勝、初代大統領に就任する。
2004年9月7日、ルカシェンコは、大統領の多選を禁じる憲法を改正し、多選を可能とする国民投票の実施を発表。翌10月17日の国民投票の結果、8割弱の賛成で3選への道を開く。これを受け2005年、アメリカ合衆国大統領に再選を果たしたばかりのジョージ・ブッシュは、打倒すべき独裁国家のひとつとしてベラルーシを挙げた。ブッシュはまた、ベラルーシを「最悪の独裁国家」と批判している。2006年3月19日に行われた任期満了に伴う大統領選挙では、得票率82.6%(公式発表)で圧勝し3選を果たしたが、この選挙に関しては得票率改竄の疑惑や、野党候補及びその支持者への妨害などの不正が行われていたとの証言[6]が存在する。
2010年12月19日投開票の大統領選挙で4選を果たしたが(得票率79.7%)、やはり不正選挙であるという指摘がなされている[7]。 ルカシェンコの四選直後からベラルーシ経済は未曾有の危機に陥り、ロシアによるインフラを担う国営企業などが掌握される可能性が出てきており、ベラルーシが事実上ロシアに吸収合併(乗っ取りとも言える)される可能性も現実味を帯びている。2011年5月27日、ルカシェンコは政府関係者を集めた会議の席上、「ギャングども(ロシアのこと)に我々の国を売り払いなどしない!」などと述べ、感情を露にした[8]。ロシアはかねてからベラルーシの吸収合併を狙っていた。
2009年に入ってベラルーシは西側への接近を強め(ルカシェンコ自身「我々は西側との関係を正常化する」と言明している)、ロシアとの関係が悪化している。ロシアから約束されていた5億ドルの支援が棚上げになったことに立腹し、「ロシアに泣きついて頭を下げることはない」と述べ、欧米への接近を図った[9]。これに対し、ロシアは対抗措置としてベラルーシ産の乳製品を輸入禁止にした。連合国家構想もこのような点や、またもはや双方ともにやる気がないとの見方もある[10]。しかし、金銭面での支援を得るためにEUへ接近したものの独裁体制などを理由に支援を却下され、これにルカシェンコは立腹し、ロシア、EU双方を「わが国の主権を侵害している」と非難した。ベラルーシの国家財政の基盤だった他国からの援助が得られず、ルカシェンコは国際社会から孤立した。ロシアの財務相であるアレクセイ・クドリンはベラルーシが市場改革や財政面での見直しを行っていないため、近い将来ベラルーシは財政破綻するとの見方を示している。しかし、2009年11月にはロシアからの経済支援を引き出すため、アブハジアと南オセチアの独立を承認することを検討している[11]。このように、ルカシェンコはロシアとEUを天秤にかけ、双方から経済支援を引き出す外交を展開している。このような外交手腕には、専門家も舌を巻いている[12]。また、ロシアとの関係改善のメドがついたことで、2009年12月には連合国家の最高国家評議会も行われる運びとなった。
2010年6月にロシアの天然ガスをめぐる紛争が発生。紛争自体は数日で解決を見たが、両国関係には大きな傷がついたと思われた。しかし、ルカシェンコはすぐにロシア・カザフスタン・ベラルーシの三カ国で発足する予定だった関税同盟に参加を表明。関係修復を素早く行なった。「国を売らない」と公言していたルカシェンコであったが、ベラルーシ国内の反政府運動の激化と、ロシアとの対立で国家財政の重要な収入源である天然ガスの国内通過料が得られなくなる可能性が出てきたため、2011年12月、ユーラシア連合構想への参加を表明(後にユーラシア経済連合に加盟する)。それと引き換えに天然ガスをロシアがベラルーシに「統合割引価格」で提供、そして、ロシアがベラルーシ国内のガスパイプラインを買い取るという協定を結んだ。これにより、ベラルーシ経済はロシアに掌握された格好となった[13]。
2013年にはロシアは国営企業の民営化の遅れなどを理由にベラルーシへの資金援助を打ち切ったため、ルカシェンコは欧州進出を画策していた中華人民共和国と15億ドルの経済投資協定を締結してベラルーシは財政破綻を回避した[14]。同時期には蘇州工業園区に倣った中国-ベラルーシ工業園区も開設された。
2014年に表面化したロシアとウクライナの紛争では、両国の間に入って調停役に回っている[15]。
2015年4月2日には、国家財政の体力強化のため、半年間無職で納税しなかった人間に約360万ベラルーシ・ルーブル(約3万円)の罰金の支払いと、支払い命令に従わなかった場合は拘束され、強制的に社会奉仕活動をさせられるという、旧東ドイツを彷彿とさせる政策の大統領令に署名した。ただ、高齢者や障害者、学生などは対象外である[16]。
2015年8月の中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年記念式典に出席し、天安門広場を行進するベラルーシ軍を閲兵した[17]。
2015年10月11日投開票の大統領選挙で得票率83.49%を得て5選[18]。
2016年9月の下院選では野党への締め付けを緩め、20年ぶりに政権に批判的な野党系候補が2人当選した。欧米への配慮によるものとされる[19]。
2017年5月には中国の一帯一路をテーマとした一帯一路国際協力サミットフォーラムに出席した[20]。
政策[編集]

ルカシェンコ自身は共産党員[1][2]だったソ連時代を除いて特定の政党に所属していないものの、ベラルーシ人民戦線とベラルーシ共産党(KPB)などが政権を支持する事実上の与党である。特に共産党とは「ソ連の復活」で一致し、レーニン像を保護するなど旧ソ連への懐古を強く打ち出す政策を採っている。大統領に就任すると、国旗もかつての白ロシア・ソビエト社会主義共和国の国旗に変更し、それまでの国旗は使用禁止となった。また、政府庁舎に掲げられていた国章も鎌とハンマーがあしらわれている白ロシアの国章に付け替えた(現在はそれを一部修正した現行のベラルーシの国章が付けられている)。また、ロシア語を公用語であるベラルーシ語と同等とし、強いロシア語化政策およびベラルーシ語の迫害政策を敷いている(国営テレビ放送や、大統領就任式などの国家行事でもベラルーシ語ではなく、ロシア語が使われている)。このため、ベラルーシ語自体が絶滅の危機に瀕しているとされる。
ロシア連邦との「連邦国家」の実現による両国の政治・経済・軍事などの各分野での両国の統合構想を強く推進し、1999年12月8日には、当時のボリス・エリツィン・ロシア連邦大統領との間でベラルーシ・ロシア連合国家創設条約に調印しているが、その後、彼に代わってロシア連邦大統領に就任したプーチンらが提唱するロシアによる事実上のベラルーシ併合発言に反発し、両国の統合構想は行き詰ったままである。
一方、経済面ではソ連崩壊後の経済危機を乗り切り、国内総生産の成長や工業生産の回復など一定の成果を収めており、ベラルーシの1人当たり国民所得は中所得国水準を維持しており、特に農村部に多くの支持者がいる。
グルジア紛争でのロシアの旧ソ連諸国との軍事的な対立や、ベラルーシのロシアへの併合への圧力をかけるための天然ガスの値上げなどの諸政策を受け、再度欧米への接近を図っているとも伝えられるが、欧米およびロシアとはバランスを保った関係を維持し、自らの権力を維持しようとしているという見方もある。ロシア連邦軍とはザパド2017を行うなどロシアとの軍事的な同盟関係を続けつつ、ベラルーシを上海協力機構に加盟させ、ベラルーシの軍事パレードではソ連時代のジルの代わりに中国のパレードカー紅旗を使ってロシア軍とともに中国人民解放軍をベラルーシ軍と行進させ[21][22]、中国製武器の購入[23][24]や弾道ミサイルを中国と共同開発[25][26]するなどベラルーシを財政破綻の危機から救った中国とも軍事的経済的に密接な関係を築いた。そして、2008年9月の下院選に監視団を受け入れることで、これを機に西側との関係改善を図ろうとしたが、10月6日にプーチン首相がベラルーシを訪問。連邦国家実現へ向けての政策を実行することを確認した。これは、ロシアに西側への接近を引き止められたといえる。しかしながら、同月EUが民主化の兆しと下院選を評価し、制裁が一部解除されることとなった。制裁の解除により、2009年3月26日にはローマ法王ベネディクト16世との会談が実現した。ただし、ルカシェンコは無神論者である[27])。
人物[編集]
私生活[編集]
妻帯、ヴィクトルとドミトリーという2人の息子がいる。このほかにもニコライという2004年に生まれた婚外子がいる[28]。妻は公式の場に姿を見せない。ルカシェンコはニコライを大変かわいがっているようで、北京オリンピックの開会式や2009年と2010年の軍事パレード、ベネディクト16世との会談時、中国の抗日式典など、ありとあらゆる行事にニコライを同席させている。
タバコは吸わず、酒もほとんど飲まない。趣味はスポーツで、特にサッカーとアイスホッケーを好む。アイスホッケーに関しては自身も選手として参加しており、ベラルーシ国内にミンスク・スポーツ宮殿やミンスク・アリーナなどといったアイスホッケー場を多数建設するよう命じている。1998年2月の長野オリンピックの際に公式来日を希望したが、警備上の理由で拒否され競技見たさに非公式で来日した[12]。
ベネズエラのウゴ・チャベス大統領と友好的であり、よく会談していた。
発言・主張[編集]
ヨシフ・スターリンと手を結んでポーランド領だったブレストをベラルーシ領にしたアドルフ・ヒトラーを「彼のおかげで(ドイツは)残骸から立ち直った」と賞賛し、「ユダヤ人は、ボブルイスク(ベラルーシ国内の一都市)を豚小屋に変えた」など、反ユダヤ的発言をしている(ベラルーシには約7万人ほどのユダヤ系住民がいる)。そして、「ドイツの歴史はベラルーシの歴史のコピーだ」と発言している[29]。
「ベラルーシには美人がたくさんいる。しかし私が毎日通る道の交差点にクチャクチャな顔をしたフランス人の顔が写っている。とんでもないことだ」と発言し、広告の撤去を命令、さらにベラルーシ国内の広告に国外女性モデルの使用を禁じた[12]。ちなみに、かつてベラルーシではベラルーシ人女性の人身売買・海外売春が問題になった。そこで、現在ではそれを防ぐためにベラルーシ人女性の出国を一部規制する法律が存在している[12]。
「プレジデントは自分一人で十分」との理由で、大統領職以外の会社社長などに「プレジデント」を別名として使用することを禁じた[12]。
自身の三選について、「私が大統領選に参加できない理由などありません」と述べ、また、「独裁者」との批判については「私は国民に与えられた権限しか行使していない」と反論している[12]。
野党が議席を確保できなかった2008年の下院選について、「これでも非民主的と言うのなら、彼ら(EU)との対話を絶つ」と強硬な主張をした。
色の革命について、「ベラルーシではピンクだの、オレンジだの、バナナだのといった革命はありえない」と発言している。
2010年4月14日、ワシントンD.C.での核安全保障サミットにベラルーシが招待されなかったことに対し、「(自分を招待しなかった奴らは)脳みそが足りない」と過激な発言をした[30]。
また、NATOによるリビアへの軍事介入を「ナチスより最悪だ」と2011年11月に評している[31]。
2012年3月には、ドイツのギド・ヴェスターヴェレ外相がベラルーシを「独裁国家」と批判したことに対し、「ゲイより独裁者のほうがマシだ」とヘイトスピーチをした[32]。
フランスのニコラ・サルコジ前大統領の不正資金疑惑(大統領に当選した2007年に、当時のリビアの最高指導者ムアンマル・カッザーフィーから5000万ユーロを受け取ることを合意していたというもの)について、「カッザーフィー本人からサルコジに1億ドルを渡したと聞いた」と証言し、大きな波紋を呼んだ[33]。
服装[編集]
普段はスーツを着用しているが、国の重要行事では軍服を着用することもある(階級は元帥である)。また、軍の視察に訪れる際には迷彩柄の野戦服姿の時もある。
人物像[編集]
権力欲が非常に強い人物として知られる[34]。連合国家構想ももともとは自らが旧ソ連圏の最高指導者になりたいが故に発案したものであった。事実、連合国家構想は、初め国力が低下し混乱していたロシアとは対照的に、1994年以来の自らの独裁政治により国力を増したベラルーシがイニシアチブを握っていた[34]。性格的には気難しい人物とされ、過激な発言も多く、アメリカだけではなく、友好国であるはずのロシアをも激しく批判するその姿勢から、「奇人」とも評されている[35][36]。
ロシアのドミートリー・メドヴェージェフは大統領時代にルカシェンコを「外交的規範どころか、人間としての基本的礼儀さえわきまえない」と嫌悪感を露にしている[37]。
その他[編集]
ルカシェンコを支持する人々からは、ルカシェンコは「バトゥカ」(「父」の意)と呼ばれ、尊敬(個人崇拝)されている。「ルカモール」などと揶揄される「ベラルーシ共和国青年団」というコムソモールを真似た青少年組織も存在する。
2013年、「公共の場で拍手喝采することを違法にしたことに対して」(フラッシュモブのデモ活動を『反体制行為』と見做しての処置)、イグノーベル平和賞を「受賞」した。
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ a b Александр Лукашенко (рус.), vedomosti.ru..
- ^ a b http://library.fes.de/pdf-files/bueros/belarus/07073.pdf
- ^ Rausing, Sigrid (7 October 2012). "Belarus: inside Europe's last dictatorship". The Guardian (London). Retrieved 7 August 2014.
- ^ "Belarus's Lukashenko: "Better a dictator than gay"". Berlin. Reuters. 4 March 2012. "...German Foreign Minister's branding him 'Europe's last dictator'"
- ^ 廣瀬陽子「旧ソ連諸国の権力維持の構造」 2010年9月7日 SYNODOS JOURNAL。
- ^ 服部倫卓「2006年ベラルーシ大統領選特報」 服部倫卓のロシア・ウクライナ・ベラルーシ探訪、2006年3月20日。
- ^ “ベラルーシの大統領選、現職4選確定” (日本語). 読売新聞. (2010年12月20日). オリジナルの2010年12月22日時点によるアーカイブ。 2010年12月20日閲覧。
- ^ “Lukashenko warns Belarus not for sale” (英語). ユーロニュース. (2011年5月28日) 2011年5月31日閲覧。
- ^ http://sankei.jp.msn.com/world/europe/090530/erp0905301051005-n1.htm
- ^ http://www.svobodanews.ru/content/transcript/1741981.html
- ^ http://www.asahi.com/international/update/1122/TKY200911220188.html
- ^ a b c d e f 日本テレビ 「緊急!ビートたけしの独裁国家で何が悪い!」 2008年9月17日放送。
- ^ “【ソ連崩壊20年-解けない呪縛-】第6部 帝国再興の野望(2) 「欧州最後の独裁者」降伏” (日本語). 産経新聞. (2011年12月9日) 2012年2月20日閲覧。
- ^ 『中国に急接近の独裁国家ベラルーシ 「スラブの兄弟」露はいらだち』産経新聞2013年7月3日
- ^ “露・ウクライナ大統領が同席し首脳級会合 停戦へ歩み寄り難しく”. 産経新聞. (2014年8月24日) 2014年9月23日閲覧。
- ^ 半年無職なら罰金3万円! ベラルーシ産経新聞 2015年4月18日
- ^ “Alexander Lukashenko takes part in WWII military parade in Beijing”. 2016年8月22日閲覧。
- ^ “ベラルーシ大統領選挙 ルカシェンコ氏5選”. スプートニク. (2015年10月12日) 2016年8月7日閲覧。
- ^ http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM13H2T_T10C16A9000000/ ベラルーシで20年ぶり野党議席 政権、欧米に配慮か] 日本経済新聞 2016年9月13日
- ^ “Lukashenko partakes in Belt and Road Forum in Beijing”. 2017年5月17日閲覧。
- ^ “Independence Day parade in Minsk” (2018年7月3日). 2018年7月4日閲覧。
- ^ “中国のパレードカー、ベラルーシの閲兵式に登場” (2015年7月5日). 2016年8月21日閲覧。
- ^ “ベラルーシ、中国製ロケット砲を公開” (2016年7月1日). 2018年5月7日閲覧。
- ^ “The Belarusian Army Is Using A Lot Of Chinese Hardware” (2017年7月9日). 2018年5月7日閲覧。
- ^ “Belarus Tests Secretive Rocket Launcher System in China” (2015年6月16日). 2017年6月22日閲覧。
- ^ “Belarusian defence industries: doubling exports and launching ballistic missile production” (2018年4月30日). 2018年5月7日閲覧。
- ^ http://www.russiatoday.com/Top_News/2009-04-27/What_has_Aleksandr_Lukashenko_told_Benedict_XVI.html
- ^ 外部リンク webcache.googleusercontent.comからのアーカイブ
- ^ "Bigotry in Belarus" THE JERUSALEM POST, October 20, 2007.
- ^ “「脳みそが足りない」 ベラルーシ大統領、核サミットに招待されず恨み節”. 産経新聞. (2010年4月15日) 2010年4月15日閲覧。
- ^ “Libya: Belarusian President Lukashenko says NATO ‘did worse than the Nazis’”. Channel 6 News. (2011年11月6日) 2011年11月12日閲覧。
- ^ “‘I’d rather be a dictator than gay’: Lukashenko to German FM”. Russia Today. (2012年3月4日) 2012年3月5日閲覧。
- ^ “「カダフィ大佐から聞いた」=サルコジ氏の資金疑惑-ベラルーシ大統領”. 時事通信. (2012年5月12日) 2012年5月12日閲覧。
- ^ a b http://sankei.jp.msn.com/world/europe/071214/erp0712142103010-n2.htm
- ^ “ベラルーシ:高濃縮ウラン放棄せず 核サミット参加拒否”. 毎日新聞. (2010年4月15日). オリジナルの2010年4月17日時点によるアーカイブ。 2010年4月15日閲覧。
- ^ “「ガス戦争」欧州に広がったロシアへの不信感”. 読売新聞. (2010年6月24日) 2010年6月24日閲覧。
- ^ “ロシア大統領、ベラルーシのルカシェンコ氏を非難 不支持明確に”. 産経新聞. (2010年10月4日) 2010年10月4日閲覧。
外部リンク[編集]
- President's official site (英語) (ロシア語) (ベラルーシ語)
- BBC - Profile: Alexander Lukashenko
- Statement at the 60th Session of the UN General Assembly
公職 | ||
---|---|---|
先代: (建国) |
![]() 初代:1994 - |
次代: (現職) |
先代: (創設) |
![]() 最高国家評議会議長 初代:2000 - |
次代: (現職) |