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アレクサンドル・ブリューロフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アレクサンドル・ブリュローフ
Александр Брюллов
カール・ブリューロフによる肖像画 (c.1804)
生誕 (1798-12-10) 1798年12月10日
ロシア、サンクトペテルブルク
死没 1877年2月2日(1877-02-02)(78歳没)
ロシア、サンクトペテルブルク
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アレクサンドル・パヴロヴィチ・ブリュローフロシア語: Александр Павлович Брюллов, ラテン文字転写: Alexander Pavlovich Bryullov1798年12月10日 - 1877年2月2日)は、フランス人の父親を持つロシアの建築家、画家である。サンクトペテルブルクの帝国美術アカデミーの教授を務めた[1][2][3]。画家としては水彩で風景画や肖像画を描いた。

略歴

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フランス人画家、ポール・ブリュロー(Paul Brioullo: 1760-1833)の息子としてサンクトペテルブルクで生まれた[2]。弟のカール・ブリューロフ(1799-1852)も画家になった。1809年から弟とともに帝立芸術アカデミーで学び、アレクサンドル・ブリューロフは1810年から1820年の間は建築を学んだ。学んだ教師には、アンドレヤン・ザハーロフアンドレイ・ヴォロニーヒン、アンドレイ・ミハイロフ(Андрей Михайлов)らがいた[2]

1822年、兄弟は帝国芸術奨励協会の6年間の留学奨学金を得てミュンヘンへ留学した後、1823年5月にローマへ向かい、ローマでアレクサンドル・ブリューロフは古代遺構を研究した。ロシア皇后のマリアのためにローマ・コロッセオの水彩画を描いた。1824年には建築家のニコライ・リヴォーフシチリアを訪れ、その後ポンペイを訪れた。ナポリでは、王族や有力なロシアの外交官のイオアニス・カポディストリアスや有名な詩人プーシキンの妻ナターリア・プーシキナの肖像画も描いた。

1826年にパリに移り、イタリアで描いた図版を版画にして出版し、付属のフランス語の解説文は1829年に出版した。パリ大学で機械工学や建築史を学び、シャルトルやイギリスなどの都市を訪れ、1830年にサンクトペテルブルクに戻った。ポンペイ浴場の研究などにより、各国の建築学会や美術アカデミーの会員に選ばれた。ロシア皇帝ニコライ1世の肖像画も描いた。

建築家としては、1831年から1832年にかけて建設されたサンクトペテルブルクのミハイロフスキー劇場などで知られている。

作品

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建築作品

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絵画作品

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脚注

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  1. ^ Brjullow Alexander Pawlowitsch in der Großen Sowjetischen Enzyklopädie (BSE), 3. Auflage 1969–1978 (russisch)
  2. ^ a b c Прогулки по Санкт-Петербургу: Брюллов Александр Павлович (abgerufen am 19. September 2017).
  3. ^ “Брюллов (Александр Павлович)”, Brockhaus-Efron, 1907

参考文献

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  • С. Н. Кондаков (1915). Юбилейный справочник Императорской Академии художеств. 1764-1914 (in Russian). Vol. 2. pp. 298–299.