アルマンド・カリネスク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
アルマンド・カリネスク
Armand Călinescu
Armand Calinescu.jpg
1939年
ルーマニア王国の旗 ルーマニア王国 第39代首相
任期
1939年3月7日 – 1939年9月21日
君主カロル2世
前任者ミロン・クリスティヤ英語版
後任者ゲオルゲ・アルジェシャヌ英語版
個人情報
生誕1893年6月4日
Flag of Romania.svg ルーマニア王国ピテシュティ
死没 (1939-09-21) 1939年9月21日(46歳没)
Flag of Romania.svg ルーマニア王国ブカレスト
政党農民党英語版(1926年)
国民農民党英語版(1926年-1937年)
国家復興戦線英語版(1938年-1939年)
配偶者アデラ・カリネスク
出身校ブカレスト大学
パリ大学
専業経済学者

アルマンド・カリネスク(ルーマニア語:Armand Călinescu、1893年6月4日 - 1939年9月21日)は、ルーマニア経済学者、政治家。彼は1939年3月から同年9月に暗殺されるまでの6か月間、ルーマニアの第39代首相を務めた。彼は鉄衛団に対して断固反対の姿勢で臨み、カロル2世の独裁政権下でも権力を維持し続けていた。彼は幾度もの暗殺未遂を切り抜けてきたが、ナチス・ドイツの協力もあって、ついに鉄衛団のメンバーによって暗殺された。

来歴[編集]

入党まで[編集]

アルマンド・カリネスクは、ピテシュティルーマニア王国陸軍のベテラン兵だったミハイ・カリネスクと、その妻エカテリナの間に生まれた[1]。ミハイ・カリネスクは地主で、比較的裕福な家庭であった[2]

カリネスクは、中学・高校とピテシュティにあるイオン・ブラティアヌ高等学校へ通った。その後パリ大学にて、経済学政策科学の分野でドクター・オブ・フィロソフィーの学位を与えられ[1]、1912年から1918年にかけてブカレスト大学にて、法律と哲学を研究した。

農民党と国民農民党[編集]

カリネスクは初め、国内で有力だった国民自由党に参加することを考えていたが、彼の政治観点は国民自由党の党首であったイオン・ブラティアヌ英語版から否定されてしまった[3]。その代わりに彼は、当時興隆していた対立政党の農民党英語版へ参加し、党首のイオン・ミハレイク英語版に多大な影響を受けた[2][4]。彼は1926年に農民党から選出された38人の議員の一人(この年にカリネスクは初めて選出された)で、彼らは当時結成されていたアレクサンドル・アヴェレスク内閣に反対していた。その後1937年まで彼は選挙のたびに選ばれ続けていった[2][3]

農民党がルーマニア国民党英語版と合併して国民農民党英語版が新たに結成された際、カリネスクは党内の左翼側に立った。同じ思想側に立った党員にはミハイ・ラレア英語版、エルンスト・イェネ、ミハイル・ゲルメギェアヌ英語版ペテル・アンドレイ英語版ニコラエ・ルプ英語版などがいた[2][5][6]。カリネスクは国民農民党のアルジェシュ県担当リーダーとなり[4]、1928年のユリウ・マニウ英語版内閣の下で勢力を拡大していく中で、ミハレイクによって農林水産省の第一秘書に任命され[4]、その後にはアルジェシュ県の県知事英語版となった。そして1930年には、アレクサンドル・ヴァイダ=ヴォエヴォド英語版の下で内務次官を務めた[2][4][6]

内務次官に就いたカリネスクは、違法化されたルーマニア共産党の動向を監視していた。1929年にルペニフネドアラ県にある鉱山町)にて鉱山労働者のストライキ英語版が発生した際は、ルーマニア王国陸軍に命じて疑いのある運動家の逮捕を行ったり、1933年にグリヴィツァ英語版にて鉄道員のストライキ英語版が発生している最中には、軍に命じてストライキ参加者を殺害させていた[4]

また彼は同様に、1931年に非合法的に結成されたファシズム政党の鉄衛団にも注意を向けていた[6][7]が、この行動は結果として1933年のヴァイダ=ヴォエヴォド内閣の崩壊に繋がってしまった。

国民自由党のゲオルゲ・タタレスク内閣と対立する中で、カリネスクはタタレスクらの鉄衛団に対する寛容な姿勢に警戒を抱くようになり[8]、特に1933年12月のイオン・デュカ英語版の殺害や、1936年のイオン・デュカ記念碑の冒涜によって一層警戒が深まった。

カロル2世の治世[編集]

フランスイギリスの同盟を支持し、ルーマニア国内における鉄衛団の活動に反対するカリネスクは、カロル2世の鉄衛団迫害の動きを支持していた。当時彼は、国民農民党の党首が鉄衛団との選挙協定を結んでいたことで、国民農民党の党首と対立していた[1][9]。1937年の選挙の後に、彼は内務大臣英語版として、キリスト教国民党英語版を率いたオクタヴィアン・ゴガ英語版の内閣に入ったことで国民農民党に対して一層反抗し[10][11][12]、その後すぐに彼は国民農民党から追放された[12]

カリネスクは鉄衛団と対峙する覚悟を決めるようになった。1938年5月の選挙が準備されていく一方で、彼は鉄衛団のプロパガンダの制限へと歩を進め、鉄衛団と繋がっていた出版社の閉鎖を行った(これにはプロパガンダ制限に動く政権の活動と、それに対抗した鉄衛団との間の武力闘争が影響していた)[11][12][13]

カリネスクは1937年にカロル2世による王室独裁が開始されるまで内務大臣を務め、その後はミロン・クリスティヤ英語版首相の下で副首相を務めた。歴史研究家のジョゼフ・ロスチャイルドによると、カリネスクは政府内でも大きな権力を握っていたという[14]。また、彼は1938年12月にルーマニア王国唯一の政党として新たに結成された国家復興戦線英語版の創立メンバーの一人で、カロル2世と非常に近しい間柄であるとよく見られた[11][15]。一方で彼は歴史研究家のニコラエ・ヨルガ英語版との論争にも関わるようになっていった。ヨルガは、カロル2世が社会学者やルーマニア・アカデミーの会員に対して異なる様々な制服を着用することを定めた法律を制定したことに対し、厳しく批判する書籍を発行していた[16]。ヨルガは皮肉を込めて「私は国家復興戦線の制服を決める覚悟を決めている。だが私はあのピッケルハウベだけは被りたくない。なぜって、あれは内務大臣を務める者が被るか串刺しをするためのものだからだよ」と述べた[17]。後にヨルガは政府からの熱い要望によって、彼らを支援する側に回った[18]

1938年5月、ナチス・ドイツによるアンシュルスを知ったカリネスク[19]は、コルネリウ・コドレアヌを始めとする鉄衛団の指導陣や党員、さらにはその支持者(ナエ・イオネスク英語版ミルチャ・エリアーデなどが有名)の逮捕や処刑に動き出した[20][21][22]。コドレアヌら鉄衛団指導者は、「脱走を図ったことによる死刑」と称して[23]合計300人以上[24]が処刑され[25]、その他の党員に対しても、離党宣言の署名を強制させた。逮捕を逃れたホリア・シマなどの鉄衛団指導者は、その多くがドイツへと亡命した[21][26]

1939年3月7日に、当時厚生大臣英語版教育大臣英語版を務めていたカリネスク[1][11]は、クリスティヤが死亡したことで首相に就任した。当時、彼が鉄衛団の興隆の阻止やドイツが起こしかねない戦争からの中立保持を行ってくれると考えられていたのが理由の一つであった[2][27]。とはいうものの、彼はクリスティヤが病床に就いた2月ごろから実質的に首相の権利を保有していた[28]。同時に、彼は内務大臣英語版防衛大臣英語版にも就任した。同年9月、ナチス・ドイツによってポーランド侵攻が開始。その際に、鉄衛団の党員は「カリネスクとカロル2世はイギリス秘密情報部と共謀してプラホヴァにある油田を爆破し、ドイツが石油を利用できないようにしようと計画している」と強く主張した。カリネスクは、ポーランド亡命政府ポーランド国民に対してルーマニア国内への亡命を許可し、ルーマニア国内の鉄道会社に対して、ポーランド国内の重要文化財の保護を目的に文化財をルーマニアへ移送させ、後にそれらの文化財はコンスタンツァ港からイギリスへと輸送、この行為に対してナチス・ドイツは非常に憤慨していた[29]

暗殺[編集]

カリネスクは、ニコラエ・ティトゥレスクディヌ・ブラティアヌ英語版ガブリエル・マリネスクルーマニア語版将軍らと同時に秘密裏にブラックリスト入りされ[27]ホリア・シマ(当時ドイツのシュテーグリッツ英語版へ亡命していた)からの命令を受けた鉄衛団党員によって、ブカレストにて暗殺された。この暗殺事件は、過去に幾度か実行された計画の最後の一つであった[26][30](過去にルーマニア学術研究所英語版の攻撃や、ドゥンボヴィツァ川に架かる橋での爆破事件も行われたが、この両方とも警察によって摘発されていた)[31]

この事件は、ナチス・ドイツの賛同や支援の下で実行されたと考えられている[32][33]。9月1日に、ナチ党国家ファシスト党鉄衛団の各党代表はコペンハーゲンにて会合を実施(この会合には、ルーマニアのデンマーク大使で熱心なシマのシンパだったミハイル・ストゥールザ英語版も参加していた)、カリネスクの殺害について議論を交わした[34][35](その後の計画についての詳細に関しては、鉄衛団を裏切ったメンバーであったミハイ・ヴルフレアヌによってルーマニア政府に密告された[36])。カリネスクを殺害するための専門部隊も結成され、その中には弁護士であったドゥミトル・ドゥミトレスク(彼はゲシュタポで訓練を積み、ハンガリーを経由してルーマニアへと帰国していた)[31][34]や、学生だったチェザー・ポペスク、トライアン・ポペスク、イオン・モルドヴェアヌ、更には計画者であったイオン・ヴァシリューもいた[34]。各メンバーはプロイェシュティ周辺の地域で連絡を取り合い、初めのうちはカリネスクだけでなくカロル2世やマリネスクをまとめて殺害する計画を立て、プラホヴァ谷英語版にて計画を実行する予定だった[34][37]

9月21日、ブカレスト市内のコトロチェニ・パレス英語版から帰宅中だったカリネスクの高級車は、暗殺団に待ち伏せされ、カリネスク、ボディーガードのラドゥ・アンドン、運転手のミティ・ドゥミトレスクら三人が射殺された(ドゥミトレスクは軽馬車が突如衝突してきたために停車、アンドンは車両を降りた直後に射殺され、車両後方座席で待機していたカリネスクからは12発以上もの弾丸が摘出された)[38][39]。8月に違法的に国境を越えていたシマ[35][40]は、その光景を近くで見るために女装をしていたのだと主張した[40]。また他の情報源では、マリン・スタンクレスクなる人物が密かにスーパーバイザーとして活動していたとある[41]。皮肉にも、カリネスクは自身の乗っていたキャデラックの安全性を一度も信じたことがなく、ガヴリラ・マリネスクに対して何度も防弾車英語版の使用を要請していたのだった[41]

暗殺チームは警察が現場に到着する前に車から離れ、ルーマニア・ラジオ放送局英語版に乱入、従業員を脅してワルツの放送を切り詰め、トライアン・ポペスクが自身らによって首相が暗殺されたことを告げた[40][42]。だがこの放送は公表されることはなかった。それは暗殺団のあずかり知らぬ間に、放送局スタッフによって放送が中断されていたからだった[40]

その後[編集]

カリネスク暗殺事件について、ドイツのメディアを除けば、大多数の情報ではカリネスクの暗殺の背後にナチス・ドイツが関わったと説明している。ドイツのメディアは、ポーランドイギリスの政権がルーマニアの中立性を放棄させる圧力をかけることを目的に、暗殺を支援したと報道し、この情報にはハンス・フリッチェを始めとした支持者がいた[33][43]

タタレスク暗殺事件の後、臨時首相に就任したゲオルゲ・アルジェシャヌ英語版によって更に強力な鉄衛団抑止政策が取られるようになった。暗殺者たちは逮捕後に即時処刑され、暗殺現場での遺体の晒し上げが数日に亘って続けられた[39][44][45]。また現場にはプラカードが設置され、そこには「これより先、国への裏切りを行うものはこうなる定めであると知れ(ルーマニア語原文:De acum înainte, aceasta va fi soarta trădătorilor de ţară.)」と記載されていた。同時に、ブカレスト市内のいくつかの高校に対しては、暗殺現場への訪問を義務化させた(この義務化には、学生に暗殺現場の惨状を見させて鉄衛団への加入を思いとどまらせる目的があった)[46]。著名な鉄衛団活動家の処刑は、ブカレスト以外の地域にも伝達・指令され、合計で253人が裁判を経ずに処刑されることになった[47]。カリネスクの職は、内務大臣英語版ガブリエル・マリネスクルーマニア語版が、防衛大臣英語版をイオアン・イルクシュが引き継いだ。

1年後の1940年に、鉄衛団によって政府は再編され、ルーマニア国家軍団英語版が新たに樹立。同年9月にその政府の下で、マリネスクやアルジェシャヌは他の政治家たちと共にジラヴァ英語版で処刑された。また同時期に、クルテア・デ・アルジェシュにあったカリネスク一家のクリプトは爆破され[44][45][48]、未公開であったカリネスクの銅胸像は、鎖に縛られてピテシュティの通り中を引きずり回されることになった[44]。彼の妻であったアデラ・カリネスクは彼に関する情報を全て引き渡すように命じられ、当時の国家指導者イオン・アントネスクに宛てた手紙の中で、シグランツァの諜報員によって幾度も攻撃されていると告げた[49]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d チョバヌ、P.55
  2. ^ a b c d e f サヴ、P.61
  3. ^ a b チョバヌ、P.54, 55
  4. ^ a b c d e チョバヌ、P.54
  5. ^ オルネア、P.119, 295
  6. ^ a b c ヴェイガ、P.191
  7. ^ サヴ、P.62-63
  8. ^ オルネア、P.305;サヴ、P.63-66
  9. ^ サヴ、P.65
  10. ^ オルネア、P.312
  11. ^ a b c d サヴ、P.66
  12. ^ a b c スコルト、P.25
  13. ^ ヒッチンス、P.415;オルネア、P.208
  14. ^ ジョゼフ・ロスチャイルド (1990). East Central Europe Between the Two World Wars. University of Washington Press. p. 311. ISBN 0-295-95357-8 
  15. ^ ヒッチンス、P.417;オルネア、P.312-313;トゥレア、P.44, 47
  16. ^ トゥレア、P.44
  17. ^ トゥレア、P.44(ヨルガの発言)
  18. ^ トゥレア、P.46-47
  19. ^ サヴ、P.67-68
  20. ^ オルネア、P.314-318;ヴェイガ、P.248-251
  21. ^ a b サヴ、P.68
  22. ^ オルネア、P.208-209, 240
  23. ^ The Romanian Iron Guard: Its Origins History and Legacy. 14. The Occidental Quarterly. (2014). p. 90. https://www.academia.edu/7695200/The_Romanian_Iron_Guard_Its_Origins_History_and_Legacy 
  24. ^ オルネア、P.322
  25. ^ ヒッチンス、P.416;オルネア、P.320-321;サヴ、P.68-69;ヴェイガ、P.257
  26. ^ a b チョバヌ、P.56-57, 58
  27. ^ a b チョバヌ、P.56
  28. ^ “Shifts in Rumanian Cabinet Extend Authoritarian Rule”. クリスチャン・サイエンス・モニター: 7. 
  29. ^ クリスティアン・パウネスク. “Bucurestiul Cultural, nr. 95 - Aurul polonez la Banca Naţională a României (1939–1947)”. Revista 22. 2018年9月19日閲覧。
  30. ^ イグナット, マテイ、P.71, 72, 75;サヴ、P.69-70
  31. ^ a b イグナット, マテイ、P.72
  32. ^ チョバヌ、P.57, 58, 59;イグナット, マテイ、P.71-73;サヴ、P.69
  33. ^ a b ヴェイガ、P.262
  34. ^ a b c d チョバヌ、P.58
  35. ^ a b イグナット, マテイ、P.73
  36. ^ チョバヌ、P.57;イグナット, マテイ、P.71-72
  37. ^ イグナット, マテイ、P.71, 72, 73
  38. ^ チョバヌ、P.58-59;イグナット, マテイ、P74-75
  39. ^ a b ヴェイガ、P.261
  40. ^ a b c d チョバヌ、P.59
  41. ^ a b イグナット, マテイ、P.74
  42. ^ イグナット, マテイ、P.71
  43. ^ イグナット, マテイ、P.76
  44. ^ a b c チョバヌ、P.60
  45. ^ a b イグナット, マテイ、P.75
  46. ^ ヴェイガ、P.261-262
  47. ^ ヨルダチ、P.39
  48. ^ “Rumania Tries Arms Maker in Guard Revolt”. ワシントン・ポスト. (1941年1月29日) 
  49. ^ Magazine Istoric

出典[編集]

  • "Din arhiva Armand Călinescu" ("From the Armand Călinescu Archive"), in Magazin Istoric(ルーマニア語)
  • イオアン・スコルト, "La originea sistemului de autoritate monarhică a lui Carol al II-lea. Lovitura de stat din 10 februarie 1938" ("At the Origin of Carol II's Regime of Monarchic Authority. The Coup d'État of 10 February 1938"), in Dosarele Istoriei, 1/IV, 1999
  • キース・ヒッチンス, România, 1866-1947, Humanitas, Bucharest, 1998 (translation of the English-language edition Rumania, 1866-1947, Oxford University Press, USA, 1994)
  • ゲオルゲ・サヴ, "Armand Călinescu contra Gărzii de Fier" ("Armand Călinescu versus the Iron Guard"), in Magazin Istoric, October 1967
  • コンスタンティン・ヨルダチ, "Charisma, Religion, and Ideology: Romania's Interwar Legion of the Archangel Michael", in John R. Lampe, Mark Mazower (eds.), Ideologies and National Identities: The Case of Twentieth-century Southeastern Europe, Central European University Press, Budapest, 2004
  • ジグ・オルネア, Anii treizeci. Extrema dreaptă românească ("The 1930s: The Romanian Far Right"), Ed. Fundaţiei Culturale Române, Bucharest, 1995
  • ニコラエ・チョバヌ, "Armand Călinescu: Jertfă pentru liniştea şi independenţa ţării. «Omul de oţel» împotriva Gărzii de Fier" ("Armand Călinescu: A Sacrifice for the Country's Peace and Security. The «Man of Steel» versus the Iron Guard"), in Dosarele Istoriei, 6/IV (1999)
  • フランシスコ・ヴェイガ, Istoria Gărzii de Fier, 1919-1941: Mistica ultranaţionalismului ("History of the Iron Guard, 1919-1941: The Mistique of Ultra-Nationalism"), Humanitas, Bucharest, 1993
  • ペテル・イグナット, Gheorghe Matei, "Asasinarea lui Armand Călinescu" ("Armand Călinescu's Assassination"), in Magazin Istoric, October 1967
  • ペテル・トゥレア, "Vodă da, Iorga ba" ("Yes Says the Ruler, No Says Iorga"), in Magazin Istoric, February 2001(ルーマニア語)

外部リンク[編集]