アルベルト・エデルフェルト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
アルベルト・エデルフェルト
Albert Edelfelt-Självporträtt.jpg
アルベルト・エデルフェルトの自画像、1887年から1890年頃
生誕 アルベルト・グスタフ・アリスティデス・エデルフェルト
1854年7月21日
ロシアの旗 フィンランド大公国ポルヴォー
死没 1905年8月18日
ロシアの旗 フィンランド大公国、ポルヴォー
国籍 フィンランド
職業 画家

アルベルト・グスタフ・アリスティデス・エデルフェルトフィンランド語: Albert Gustaf Aristides Edelfelt1854年7月21日 - 1905年8月18日)はフィンランド画家[1]。彼はフィンランド大公国に住み、完全独立する前のフィンランドからフィンランド文化を世界に発信した[2]

生涯[編集]

1854年、建築家カルル・アルベルト・エデルフェルトフランス語版とアレクサンドラ・ブラント(Alexandra Brandt)の間の息子として、ポルヴォーで生まれた。両親ともスウェーデン系フィンランド人だった。1869年からフィンランド美術協会の絵画学校で学び、その後は1871年から1873年までアドルフ・フォン・ベッカー英語版の下で学んだ。1873年から1874年までアントウェルペン美術アカデミーで歴史画を勉強した後、1874年から1878年までパリエコール・デ・ボザールジャン=レオン・ジェロームの学生になった。パリではアメリカ出身のジュリアン・オールデン・ウィアーとスタジオを共用、ウィアーはエデルフェルトをジョン・シンガー・サージェントに紹介した。その後、1881年から1882年までサンクトペテルブルクで学んだ。1888年にエラン・ド・ラ・シャペル女男爵(Ellan de la Chapelle)と結婚、1人の子供をもうけたが[3]、エデルフェルトはほかにも多くの愛人を抱えた[2]

画家として[編集]

海岸で遊ぶ男の子たち、1884年。

エデルフェルトは国際的な評判を得た最初のフィンランド人美術家の1人だった。彼はパリで成功を収め、1889年パリ万国博覧会で金メダルを授与された。彼はルイ・パスツールアイノ・アクテロシア帝国王家(ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家)など有名人の肖像画を描いた[2]

エデルフェルトはフィンランドにおける写実主義の始祖の1人であった。彼は当時の若いフィンランド人画家に影響を与え、同僚のアクセリ・ガッレン=カッレラグンナル・ベルントソン英語版がパリでブレイクするのを助けた。学生の1人にレオン・バクストがいた。ルイ・パスツールの肖像画がパリのサロンで展示されると、エデルフェルトはレジオンドヌール勲章を授与された[4]

エデルフェルトは一家の友人であった詩人ユーハン・ルードヴィーグ・ルーネベリを崇拝していた。ルーネベリはエデルフェルトに深く影響、後にエデルフェルトの作品にフィンランドの歴史シーンが多く現れる結果となった。エデルフェルトはルーネベリの史詩ストール旗手物語英語版を題材に絵画を描いた。

2004年、エデルフェルトの誕生150周年記念として100ユーロ記念コインが作られた[5]

作品[編集]

ギャラリー[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Albert Edelfelt”. artrenewal.org. 2015年4月2日閲覧。
  2. ^ a b c Reitala, Aimo (1997年). “Edelfelt, Albert (1854 - 1905)”. 100 Faces from Finland – a Biographical Kaleidoscope. Biographical Centre of the Finnish Literature Society. 2017年2月4日閲覧。
  3. ^ Albert Edelfelt, master of plein air”. finland.fi. 2015年4月2日閲覧。
  4. ^ Louis Pasteur Albert Edelfelt”. musee-orsay.fr. 2015年4月2日閲覧。
  5. ^ -Painters I should have known about”. articlesandtexticles.co.uk. 2015年4月2日閲覧。
  6. ^ Louis Pasteur Albert Edelfelt”. musee-orsay.fr. 2015年4月2日閲覧。

外部リンク[編集]