アルプテギーン
アルプテギーン الپتگین | |
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ガズナ朝初代君主 | |
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在位 | 962年 - 963年 |
出生 |
925年? |
死去 |
963年 |
子女 |
イブラーヒーム ボリティギーン 娘(ビルゲティギーンの妻) 娘(サブク・ティギーンの妻) |
王朝 | ガズナ朝 |
アルプテギーン(ペルシア語: الپتگین Alp Tegīn、925年?[1] - 963年[1])は、ガズナ朝の建国者(在位:962年 - 963年)。サーマーン朝のグラーム(テュルク系の軍人奴隷)の出身[2]。
生涯
[編集]アルプテギーンはサーマーン朝の宮廷で近衛兵を務めており[1]、ヌーフ1世治世下には軍のアミールとなった[5]。そして、ヌーフの子でアミールのアブド・アル=マリク1世治世下では、彼の近衛隊長に取り立てられた[1][6]。アルプテギーンは宮廷で強い発言力を持ち、アブー・アリー・バルアミーを宰相の地位に推薦した[1]。サーマーン朝に仕えていた時代のアルプテギーンが500の村、1,000,000頭の羊、馬・ラバ・ラクダ100,000頭、騎兵30,000を所有し、国内各地の主要都市に宮殿、庭園、ハンマーム(浴場)、宿舎を持っていたことが、セルジューク朝のニザームルムルクが著した『統治の書』に記されている[1]。
アブド・アル=マリク1世はアルプテギーンを宮廷に置くことを望まず、961年(962年[1])に彼をサーマーン朝の軍人の最高位であるホラーサーン地方の総督に任命した[1]。同年にアブド・アル=マリク1世の弟であるマンスール1世がアミールに即位することとなった。アルプテギーンは、アブド・アル=マリク1世の息子が先代の後を継ぐものと考え、マンスールの即位に反対したため、ヌーフ2世によってホラーサーン総督の地位を解任された[1][4]。
配下らを連れてバルフに逃れたアルプテギーンはフルムへ向かい、同地の峡谷において、ブハラサーマーン朝が派遣した討伐隊に勝利し[5]、さらに南下してガズナに向かった。ガズナの支配者であるアブー・アリー・ラウイークを追放して町を占領し、独立した政権(ガズナ朝)を建てた。
独立後は外征に積極的な姿勢を示さず[6]、963年に没した。
アルプテギーンの没後は、彼の奴隷であったサブク・ティギーンが後継者となり、以降世襲となったため、史料ではサブク・ティギーンがガズナ朝の創始者として扱われる[4]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i 勝藤 1980, pp. 262–263.
- ^ 濱田正美「イスラーム化と「テュルク化」」『中央ユーラシア史』収録(小松久男編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2000年10月)、157頁
- ^ 「アルプテギン」『旺文社世界史事典 三訂版』旺文社 。コトバンクより2025年2月22日閲覧。
- ^ a b c 清水宏祐「アルプティギーン」『改訂新版 世界大百科事典』平凡社 。コトバンクより2025年2月22日閲覧。
- ^ a b 稻葉穰 (1994年1月31日). “ガズナ朝の王都ガズナについて” (PDF). 京都大学学術情報リポジトリ (KURENAI). p. 235. 2025年2月22日閲覧。
- ^ a b 蒲生 1959, pp. 119–120.
参考文献
[編集]- 勝藤猛「アルプ・テギン」『世界伝記大事典 世界編 1 (ア-ウア)』桑原武夫 編、ほるぷ出版、1980年12月。
- 蒲生礼一「アルプティギーン」『アジア歴史事典 1 ア-エ』平凡社、1959年。
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