アルフレート・ポルガー

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アルフレート・ポルガーAlfred Polgar1873年10月17日 - 1955年4月24日)は、ウィーンで活躍したジャーナリスト批評家。「カフェ文士」のひとりでもある。本名はポラク(Alfred Polak)。

生涯[編集]

『ターゲ・ブーフ』(Das Tage-Buch)1924年7月5日号

アルフレート・ポルガーは1873年、ウィーンのレオポルトシュタットピアノの塾を経営していたヨーゼフ・ポラクの子として生まれた。高校と職業学校を卒業したあと新聞社に記者として入社。文芸欄も書くようになり、演劇評論家として高く評価されるようになった。同時期のウィーンの文学者シュニッツラーホーフマンスタールペーター・アルテンベルクエゴン・フリーデル、批評家カール・クラウス[要曖昧さ回避]、音楽家ブルックナーマーラー、画家クリムト、建築家アドルフ・ロースなど、文化人・芸術家の多くはカフェハウスに出入りしたが、ポルガーもそうしたひとりであった。

1905年、ポルガーはヨハン・シュトラウス2世オペレッタにちなんで命名されたカバレット(文学キャバレー)「こうもり」(Die Fledermaus)の管理者のひとりとして働いた。共同管理者はエゴン・フリーデルであった。風刺劇『ゲーテ』(Goethe) の戯曲をフリーデルと共同で著し、これは全ドイツ語圏で評判を呼ぶこととなった。この時期のポルガーはユーモアと機知にあふれた散文を数多く残している。

第一次世界大戦をむかえて時代批判的な傾向を強め、週刊誌『ヴェルトビューネ』(世界舞台 Die Weltbühne)[1](1918年-1933年)や「民主主義の偉大な闘士のひとり」[2]と呼ばれたレーオポルト・シュヴァルツシルトが編集長も務めた『ターゲ・ブーフ』(日記 Das Tage-Buch)[3]誌(1920-1933 年)によく寄稿した[4]

1929年にエリーゼ・ローウィと結婚。1933年、ウィーンを出発してプラハパリチューリヒを転々とし、第二次世界大戦ではアメリカに亡命した。ハリウッドでは台本作家としてMGM(メトロ・ゴールドウィン・メイヤー)で働いた。1943年にはアメリカ市民権を得てニューヨークに住み、1949年にはヨーロッパに戻ってチューリヒに定住。1955年、同地で亡くなった。

カフェ礼賛[編集]

ウィーンの「カフェ・ツェントラル」(Café Central)の内部 (2004)

「カフェ文士」のひとりでもあったポルガーは、ウィーンのカフェハウスについても多くの言葉を残している[5]

カフェ・ツェントラルは、孤独の子午線上、北緯ウィーンに位置する。その住人のほとんどは、人間嫌いと人恋しさが昂じるあまり、ひとりでいることを切望しつつ仲間を求めずにはいられないのである。

これはときに「カフェ・ツェントラルの理論」と称されるものである。

10年来、2人は毎日カフェハウスへ行って何時間もじっと座っている。素晴らしい結婚だって? とんでもない! 素晴らしいカフェハウスなのだ。

著作[編集]

評論集としては『この機会に』(1930年)がある。戯曲の代表作『ゲーテ』は1908年の作品。また短編小説『すみれの君』(Veilchen)(池内紀訳)は、『心にのこった話』(筑摩書房)、『ウィーン世紀末文学選』(岩波書店)に収載されている。没落貴族の男が意地でもダンディーを通す話として、日本でも甘美で優雅な佳品として知られている。

脚注[編集]

  1. ^ ジークフリート・ヤーコプゾーンde:Siegfried Jacobsohn)によって創刊された、反戦平和主義で知られる週刊誌。
  2. ^ Fritz J. Raddatzによる評。
  3. ^ シュテファン・グロースマン(de:Stefan Großmann)によって創刊された週刊誌。『ヴェルトビューネ』のライバル誌で読者・寄稿者を分け合った。
  4. ^ 竹本(2006)
  5. ^ オーストリア政府観光局公式サイトより。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 竹本真希子『ヴァイマル共和国期の平和主義者と外交―週刊誌"ヴェルトビューネ"と"ターゲ・ブーフ"から―』「現代史研究会例会報告」、2006.11
  • 池内紀監修『読んで旅する世界の歴史と文化 オーストリア』新潮社、1995.5、ISBN 4-10-601840-3
  • 池内紀『ウィーン世紀末文学選』、岩波書店<岩波文庫>、1989.10.、ISBN 4003245415

外部リンク[編集]