アルチャル

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アルチャルモンゴル語: Alčar、生没年不詳)は、モンゴル帝国に仕えた将軍の一人で、拓跋氏の出身。『元史』における漢字表記は按札児(ànzháér)。

概要[編集]

どのような経緯を経てモンゴル帝国に仕えるようになったかは不明であるが、チンギス・カンに取り立てられて金朝との戦いに起用されるようになる。第一次金朝遠征においてチンギス・カンは金朝領の各地で金軍を破り、掠奪をはたらき、モンゴル帝国に有利な形で講和を結んで一度引き上げたが、金朝方面に駐屯するモンゴル軍の指揮権は「四駿」の一人のムカリに委ねられた。ムカリの配下にはコンギラト部イキレス部マングト部ウルウト部ら帝国左翼の有力部族と漢人契丹人女真人ら現地徴発兵が集められ、この軍勢の「先鋒/前鋒」として抜擢されたのがココ・ブカ、ボロト、セウニデイ、ブルガイ・バアトル、そしてアルチャルら「五部将」であった[1][2][3][4]

1219年河中府を降したムカリ軍は一度北還したが、アルチャルが「前鋒総帥」を率いて平陽に駐屯していたため、アルチャルの威名を恐れる金軍は北上するムカリ軍に手出しできなかったという[5]

1222年、河北一帯の制圧を終えたムカリは陝西方面の進出を計画し、道中の要衝の河中府は石天応に守らせることした。ところが、石天応は金朝の侯小叔の奇襲を受けて敗北し、河中府を失陥したムカリ軍は敵中に孤立する危機的状況に陥った。この時、アルチャルは再度河中府を急襲して「斬首数万級、逃れた者は僅か数十人」という大勝利を挙げ、河中府を奪還したムカリ軍は無事退却することができた[6]。この「河中府の戦い」は当時有名だったようで、『金史』『元史』など複数の史書に言及がある[7]

「河中府の戦い」の後、1223年にムカリは亡くなり、その後を継いだボオルにアルチャルらは引き続き仕えた。1230年にはボオルの衛州攻囲に加わったが、金軍の奇襲を受けて妻の奴丹氏が捕虜となってしまった。金の皇帝はアルチャルを寝返らせるために奴丹氏を利用としたが奴丹氏は応じず、アルチャルの説得を受け容れた演技をしてモンゴル軍の下に帰還することに成功したので、第2代皇帝オゴデイから厚く褒賞を受けている。その後、アルチャルはオゴデイ自ら率いる本隊に従軍して潞州鳳翔攻略に加わり、対金朝遠征最大の激戦となった三峰山の戦いでも活躍した[8]

三峰山の戦いの翌年(1232年)にオゴデイ率いる本隊は北還したが、テムデイ・コルチの下でアルチャル軍は引き続き開封攻囲に加わった(開封攻囲戦[9]。城中の民はアルチャルの旗を見て、「アルチャルの妻は勇と義に溢れた女性である。ましてやその夫はより優れた人物であろう」と語り合ったという。1234年に金朝が完全に滅ぶと、アルチャルは自らが駐屯する平陽に投下領を与えられ、それから間もなく亡くなった[10]

アルチャルには忙漢と拙赤哥という2人の息子がいた。拙赤哥は李璮の乱鎮圧の際に若くして戦死したが、忙漢はナヤンの乱カイドゥの乱討伐などに活躍し1311年まで存命であった[11]

タンマチ「五部将」[編集]

※ブルガイ・バアトルは後にケレイテイと交替する。

脚注[編集]

  1. ^ なお、この時既に「五部将」が「タンマチ」を率いていたとする史料も存在するが、『モンゴル秘史』ではタンマチは第2代皇帝オゴデイの治世に創始されたと明記されること、その他の史料では「タンマチ軍」ではなく単に「先鋒軍」「蒙古軍」などと記されることが多いことなどから、この時ココ・ブカらがタンマチを率いていたとするのは誤りであると考えられる。但し、この時「五部将」が率いていた軍勢が後のタンマチ軍の原型となり、後述するようにオゴデイの治世に「五部将」が正式にタンマチ軍の指揮官とされたのは事実である(松田1996,162-163頁)。
  2. ^ 『元史』巻98兵志1,「三年三月、詔『真定・彰徳・邢州・洺磁・東平・大名・平陽・太原・衛輝・懐孟等路各処、有旧属按札児・孛羅・笑乃帯・闊闊不花・不里海抜都児等官所管探馬赤軍人、乙卯歳籍為民戸、亦有僉充軍者。若壬寅・甲寅両次僉定軍、已入籍冊者、令随各万戸依旧出征』」
  3. ^ 『元史』巻99兵志2 右都威衛の条,「国初、木華黎奉太祖命、収札剌児・兀魯・忙兀・納海四投下、以按札児・孛羅・笑乃帯・不里海抜都児・闊闊不花五人領探馬赤軍。既平金、随処鎮守」
  4. ^ 『元史』巻122列伝9按札児伝,「按札児、拓跋氏、嘗扈従太祖南征。歳丙子、復従定諸部有功、命領蒙古軍為前鋒、時木華黎曁博爾朮為左右万戸長、各以其属為翊衛。太祖命木華黎為太師国王都行省承制行事、兵臨燕・遼・営・青・斉・魯・趙・韓・魏、皆下」
  5. ^ 『元史』巻122列伝9按札児伝,「歳己卯、河中府降、兵北還、以按札児領前鋒総帥、仍統所部兵屯平陽以備金、摂国王事。時金将紇石烈牙吾塔擁兵数為辺患、然畏按札児威名、不敢軽犯其境」
  6. ^ 『元史』巻122列伝9按札児伝,「歳壬午、元帥石天応守河中府、屯中条山、金侯小叔率昆弟兵十餘万夜襲河中、天応遣驍将呉沢権府事、率五百兵出東門、伏両谷間。諭之曰『俟其半過、即翼撃之、俾腹背受敵、即成擒矣』。呉沢酔、敵至、声援弗継、城遂陥、天応死焉、遂燔其城、屠其民。将趨中条、按札児進兵撃之、斬首数万級、逃免者僅十数」
  7. ^ 萩原1977,84-85頁
  8. ^ 『元史』巻122列伝9按札児伝,「歳癸未春、至聞喜県西下馬村、木華黎卒、詔以子孛魯襲其爵、時平陽重地、令按札児居守。歳庚寅、孛魯由雲中囲衛州、金将武仙恐、退保潞東十餘里原上、孛魯馳至沁南、未立鼓、紇石烈牙吾塔引兵襲其後、孛魯戦失利、輜重人口皆陥没、按札児妻奴丹氏亦被獲、拘於大梁。金主聞按札児威名、召奴丹氏見、奴丹氏色荘言正、不為動。金主因謂之曰『今縦爾還、能偕爾夫来、当厚賞爾』。奴丹氏佯諾之、遂得還。太宗聞而義之、召見、褒賚甚厚、遂詔預其夫前鋒事。帝率従弟按只吉歹・口温不花大王・皇弟四太子曁国王孛魯征潞州・鳳翔。至鈞州三峰山、金将完顔合達引兵十五万来戦、俘其同僉移剌不花等、悉誅之」
  9. ^ 牧野2012,966-967/1096頁
  10. ^ 『元史』巻122列伝9按札児伝,「明年壬辰春、三月、帝班師北還、命偕都元帥唆伯台囲汴。城中識按札児旗幟、懼曰『其妻猶勇且義、況其夫乎』。歳甲午、金亡、詔封功臣、賜平陽戸六百一十有四・駆戸三十・猟戸四。未幾、以疾卒」
  11. ^ 『元史』巻122列伝9按札児伝,「子忙漢・拙赤哥。至元十五年、忙漢為管軍千戸。二十四年、従征乃顔。二十六年、従征海都。二十七年、宣授蒙古侍衛親軍千戸、佩金符。元貞元年、有旨命領探馬赤軍、偕哈伯元帥従宗王出伯西征、改授昭信校尉・右都威衛千戸。大徳元年、召還。至大四年卒。子乃蛮襲。拙赤哥入宿衛、従世祖征鄂漢、以功賜白金。至元三年、従征李璮、戦死之。子闊闊朮為御史台都事。至元三十一年、国王速渾察之子拾得既没、其家有故璽、王将鬻之、命闊闊朮以示中丞崔彧・御史楊桓、辨其文曰『受命於天、既壽永昌』。蓋秦璽也。彧請献之徽仁裕聖皇后、後以鈔二千五百貫賜拾得家、金織文段二賜闊闊朮。成宗即位、近臣以其事聞、授闊闊朮漢中廉訪僉事、仕至湖南廉訪使」

参考文献[編集]

  • 萩原淳平「木華黎王国下の探馬赤軍について」『東洋史研究』36号、1977年
  • 藤野彪/牧野修二編『元朝史論集』汲古書院、2012年
  • 松田孝一「宋元軍制史上の探馬赤(タンマチ)問題 」『宋元時代史の基本問題』汲古書院、1996年
  • 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年
  • 元史』巻122列伝9