アラウィー派

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アラウィー派 (العلويةal-‘Alawīya) は、イスラム教イスラーム)の一派。ただし、イスラームのなかではきわめて異端的な立場にある特殊な宗教であり、主にシリアの山岳地帯に分布する[1]。アラウィーはアラビア語で「アリーに従う者」に意味し、9世紀のシーア派の活動家イブン・ヌサイルの名からヌサイリー派ともいう。2014年現在、シリアのアサド政権との関係が深い。

概略[編集]

アラウィー派は一般に、シーア派の系統に属すとされるが、同派のどこから分派したかは明らかではない[1]。また、輪廻転生説を取り入れるなど他の宗派と大きく異なった教義を持ち、イスラムと「異教」との境界線上にあるとする意見もある[1][2]トルコにはトルコ語アレヴィー派と呼ばれる同一系統の名称をもったグループがいるが、シリアのアラウィー派との関連については不明な点が多い。

にもかかわらず、シリアのアラウィー派がシーア派とされるのは、シリアのレバノン侵攻(1976年)の際、アラウィー派が自らをシーア派として認めるようレバノンのシーア派指導者に対し、強く求めたからである[1]

シリアではアラウィー派は人口の1割強にすぎないが、哲学者のザキー・アル=アルスーズィー、大統領のハーフィズ・アル=アサドバッシャール・アル=アサド父子をはじめとしてバアス党や軍部の有力者を数多く輩出している。そのため現代のシリアは、しばしばアラウィー派コミュニティに支配されていると見なされる[3]

後述のように、アラウィー派はイスラーム世界にあっては教義も特殊で、基本的にコミュニティ内でのみ結婚関係をむすぶ閉鎖的なコミュニティであり、アラブ社会では伝統的に差別を受けてきた[1]

教義[編集]

Adolescent boy standing in front of younger children
アラウィー派の少年(1938年のアンティオキア

アラウィー派はイスマーイール派マズダク教マニ教キリスト教シリア地方の土着宗教の要素があわさったと考えられる独特の教義を持つ。特にキリスト教からは大きな影響を受けた(後述)[1][3]。4代目カリフ正統カリフ)にして初代イマームアリー・イブン・アビー・ターリブを崇敬しているという点ではシーア派と通底している。

アラウィー派では両親ともにアラウィー派の男子だけが教義を学ぶことができる。16歳以降に教義を習得し、その教義を外に漏らしたものは殺されるなど神秘主義の色彩が強い。女性にはないとされるため宗教儀礼からは排除される[1]サウム断食)・サガート喜捨)・ハッジ巡礼)といった五行を行わず、特にハッジを偶像礼拝として否定している。モスクを使わず、礼拝は宗教指導者の家に集まって行われることが多い。シリア北西部に独自の神殿をもつ[3]。シーア派と同じく自らの信仰を隠すタキーヤが認められており、しばしば権力者や多数派と同じ宗教に属するかのようにふるまっていた[3]

「正統派」イスラムとは異なり、生前に善行を積めば死後ほかの人間に、悪行を重ねれば動物に生まれ変わるというインド輪廻に似た転生思想や、キリスト教から取り入れたと考えられる祝祭なども他のイスラム教宗派との大きな相違点である。

キリスト教的側面[編集]

アラウィー派はキリスト教と似ているとされている。パンとワインを用いる聖餐に似た宗教儀礼があり、クリスマスイースターペンテコステといったキリスト教と共通の祭日を祝っている。また、聖ゲオルギオス聖バルバラ聖カタリナといったキリスト教徒の聖人たちを崇拝している[3]

神(アッラーフ)は人間の姿をとって現れることがあるとする(アリーは神が地上に現した最後の姿として神格化している)。また、アリーは「本質」を意味し、「名」(宣教者)であるムハンマドと「門」(解釈者)であるサルマーンという不可分の要素である2名の人物とともに地上に現れたのだとする三位一体的な思想を持ち、それぞれを太陽天空になぞらえて信仰する。

歴史[編集]

シリアはローマ帝国東ローマ帝国)・十字軍モンゴル帝国テュルク族など様々な勢力が入り乱れてきた。7世紀にはイスラム勢力が侵略し、イスラム教の中心地のひとつとなる。

859年頃、イブン・ヌサイリーが自らを「バーブ」であると宣言し、新たな教義を立て上げ、簡易な実践で信徒を増やしていった[3]

迫害[編集]

Man holding a falcon, in the centre of a group of people
アラウィー派の鷹匠(第二次世界大戦中にFrank Hurleyがシリアのバニヤースで撮影)

アラウィー派はスンニ派やシーア派からは憎まれ続けた。11世紀の神学者ガザーリーはアラウィー派を「イスラムから逸脱している」とみなし、「彼らを殺すことはムスリムの義務である」とまで主張していた。12世紀の神学者イブン・タイミーヤもアラウィー派を激しく糾弾しする。彼は、アラウィー派が異教徒よりも不敬虔であり、ムスリムにとって「最悪の敵」で、彼らを罰することは最も敬虔で重要な義務であると主張した[3]

11世紀から12世紀にかけて、セルジューク朝ザンギー朝アイユーブ朝の支配を得て、シリアの都市部・平野部におけるスンニ派優位が確立する。これらの王朝はスンニ派有力者を庇護・招聘し、ファーティマ朝時代に力を持っていたシーア派名望家を排除した。スンニ派名望家は民衆にスンニ派を浸透させ、13世以降アラウィー派は地中海沿岸部に逃れて住むようになった[3]。この地域は長い間キリスト教国の東ローマ帝国十字軍国家の支配下にあった。そのためイスラム化(スンニ派化)が比較的進んでおらず、シーア派・ドゥルーズ派・キリスト教徒・ユダヤ教徒なども多く、他の中東地域より宗教的多様性があった[4][注釈 1][5]

1317年1516年にはアラウィー派への大量虐殺が行われた。16世紀初頭、オスマン帝国がシリアを支配する。アラウィー派は沿岸山脈に封じ込められ、行政機構からは排除された[5]

19世紀に入るとヨーロッパからキリスト教の宣教師たちが訪れるようになる。彼らはアラウィー派に注目し、友好関係を築いた。これに危機感を覚えたオスマン帝国はアラウィー派のためにモスクを建設し、指導者に圧力をかけてイスラム化を図ったがほとんど効果はなかった[3]。また、この頃オスマン帝国の衰退に危機感を覚えたスンニ派名望家たちはアラウィー派に対して激しい迫害を加えるようになった[5]

フランス委任統治[編集]

Multicoloured map
フランス委任統治領(1921–22年)。紫がラタキア自治国
タラキア自治国の旗

第一次世界大戦後、フランスがシリアの国際連盟委任統治を担当した際、スンニ派による統治を嫌っていたアラウィー派は即座に親フランス的な姿勢を見せた。フランスはアラウィー派に対して自治権を与え(ラタキア自治国)、現地の軍事組織および治安組織にアラウィー派を多数登用した(他にドゥルーズ派なども登用された)。これは、スンナ派による多数派統治が独立運動などにつながりかねないことを危惧したもので、住民の離間策としても機能した[1][注釈 2]

1926年の総選挙ではスンニ派がボイコットしたためアラウィー派は多くの議席を獲得した。フランスが創設したレヴァント特別部隊でもアラウィー派が多数を占め、アラウィー派はフランス統治に力を貸すことで大きな政治力を手に入れた。また、伝統的に貧困であったアラウィー派の人々にとって、フランスの開設した無料の軍学校は教育の機会を与える場に、軍務による給与は経済的基盤となった。多数派を占めるスンニ派の人々に差別を受けた貧しいアラウィー派の住民には、軍務に就きフランスの統治に協力することが社会的上昇のための道を開くものであった[3]

1936年、ラタキア自治国がシリアに併合されそうになると、スレイマン・アサド(ハーフェズ・アル=アサドの祖父)などアラウィー派指導者はフランス首相レオン・ブルムに手紙を書き、自治権の維持を要求した。結局、自治権はシリアに吸収されるがアラウィー派に有利な行政システムは残された。1939年、アラウィー派のスレイマン・アル=ムルシードは反乱を起こし、スンニ派勢力の影響がラタキア自治国に及ぶことを防いだ[3]

シリア独立以後[編集]

ザキー・アル=アルスーズィー

1946年、シリアが独立するとスンニ派名望家が主導権を握った。アラウィー派はラタキアが宗教的に寛容なレバノンヨルダンに併合されることを望み、ムルシードは反乱を起こすが鎮圧され処刑された。ラタキア自治国はシリアに併合され、アラウィー派部隊は解散、アラウィー派は議会から締め出され、同化政策が採られた[3]

差別され貧しいアラウィー派の若者は、依然として実力主義の軍隊に入り、軍におけるアラウィー派の影響力は強まっていった。また、この頃アラウィー派のザキー・アル=アルスーズィーらが参画したバアス党に多くのアラウィー派が入党した。バアス党は社会主義世俗主義を掲げており、貧困層が多く宗教的差別を受けいていたアラウィー派にとって魅力的な政策だった。軍内のアラウィー派を通じてバアス党は軍部にも影響力を及ぼすようになる。ハーフィズ・アル=アサドも軍に入隊し、バアス党に入党した若者の1人だった[3]

一方、この頃の政治・軍部におけるスンニ派名望家は権力闘争に明け暮れており、失脚したスンニ派将校たちの後任をアラウィー派将校が埋めて行った[3]

1963年、隣国イラクでバアス党がクーデター(ラマダーン革命)を起こし、バアス党政権が誕生する。それに触発されたシリアのバアス党も軍事クーデターを起こし政権を獲得した。これに対し、イスラム主義を掲げるムスリム同胞団が反乱を起こすなど、バアス党政権の基盤は不安定だった。党内でも激しい権力闘争が行われるがこの過程で、アラウィー派のサラーフ・ジャディードが権力を握る。ただし、ジャディードは表に出ず、党地域指導部副書記に留まった[6]

アサド政権[編集]

Formal family portrait, with parents seated in front and five grown children (four sons and a daughter) standing
アル=アサド家。前列右がハーフィズ、後列左から二人目がバッシャール。

1967年、シリアは第三次中東戦争でイスラエルに惨敗し、ゴラン高原を失う。国防相に就任していたハーフィズ・アル=アサドはイスラエルの領土拡大に脅威を感じ、経済・外交政策で悪手を打ち続けるジャディードに代わってシリアの支配者となることを決意した。彼は軍の主導権を握り、1970年に無血で軍事クーデターを起こし、大統領に就任する[7]。アラウィー派が権力の座に就くことは、ユダヤ人がツァーリに、不可触民マハーラージャになるようなものだと評された。こうして誕生したアサドは30年もの長きにわたってシリアを統治し、アラウィー派は貧困から脱して政治・軍事において重要な地位を獲得していく[3]。しかし、多数派を占めるスンニ派の反発は大きく、ムスリム同胞団はアラウィー派有力者を次々と暗殺していった。アサドは同胞団を武力で対抗し、その迫害は1982年のハマー虐殺でピークを迎えた[8]

2000年、死去したハーフィズ・アル=アサドに代わって、次男のバッシャール・アル=アサドが大統領に就任する。バッシャールもアラウィー派だが、政権内のアラウィー派色は先代と比べ薄まった[9]

シリア騒乱[編集]

アサド支持派によるデモ(2011年のラタキア)

2011年チュニジアから中東全域にアラブの春が波及し、シリア騒乱が勃発する。

スンニ派の武装勢力であるヌスラ戦線アルカイダ系)やISILイスラム国)はアラウィー派に改宗を迫る構えを見せており、アラウィー派はアサド政権を支持して反政府勢力と戦う構えを見せている[10]。キリスト教徒やドゥルーズ派の大多数も、世俗主義(非イスラム主義)なアサド政権を支持しているとされている[11][12]。また、イランのシーア派政権やイラクのシーア派民兵、レバノンのシーア派武装勢力ヒズボラなどがアサド政権を支援している[13]サウジアラビアなどスンニ派諸国は、アサド政権がスンニ派住民を大量虐殺したとして反政府勢力を支援している[14]

分布[編集]

アラウィー派の分布地域

前述のように、アラウィー派はシリアの地中海沿岸部を中心に分布している。2012年における世界のアラウィー派人口は130万人とされ、そのうちシリアには100万人が住んでいると見積もられている。シリアのアラウィー派のうち4分の3がラタキア県に住んでおり、ラタキア住民の3分の2がアラウィー派であるとされている[3]

シリア以外ではレバノンやトルコにもアラウィー派が居住している。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 特にレバノンはシーア派・キリスト教マロン派など20もの宗教・宗派が共存しており、「宗教の博物館」(アーノルド・J・トインビー)と呼ばれている[1]
  2. ^ スンナ派はムスリムの多数派。シリア国民の約7割、イスラーム世界全体の約85パーセントがスンナ派である。

出典[編集]

関連項目[編集]

参考文献[編集]

外部リンク[編集]