アブドゥルアズィーズ・イブン・サウード

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イブン・サウード
ابن سعود
ナジュド国王ヒジャーズ国王
サウジアラビア国王
Ibn Saud.jpg
イブン・サウード
在位 1902年 - 1932年9月23日(ナジュド国王)
1926年1月8日 - 1932年9月23日(ヒジャーズ国王)
1932年9月23日 - 1953年11月9日(サウジアラビア国王)
全名 عبد العزيز بن عبد الرحمن بن فيصل آل سعود
アブドゥルアズィーズ・ビン・アブドゥルラハマーン・ビン・ファイサル・アール・サウード
出生 1880年
Flag of the First Saudi State.svg ナジュドリヤド
死去 1953年11月9日
Flag of Saudi Arabia (1938 to 1973).svg サウジアラビアターイフ
埋葬 サウジアラビアの旗 サウジアラビアリヤドウード墓地
王家 サウード家
父親 アブドゥルラハマーン・イブン・ファイサル・アール・サウード
母親 サラ・ビント・アフマド・アール・スダイリー
宗教 イスラム教ワッハーブ派
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アブドゥルアズィーズ・ビン・アブドゥルラハマーン・ビン・ファイサル・アール・サウードアラビア語: عبد العزيز بن عبد الرحمن بن فيصل آل سعود‎, ラテン文字転写: Abdulaziz bin Abdulrahman bin Faisal Al Saud1880年 - 1953年11月9日)は、ワッハーブ派イマーム(在位:1902年 - 1953年)、ヒジャーズ国王(在位:1926年1月8日 - 1931年)[1]ナジュド国王(在位:1927年 - 1931年)[1]ナジュド及びヒジャーズ国王(1931年 - 1932年)[1]、初代サウジアラビア国王(在位:1932年 - 1953年)。アブドゥルアズィーズ・イブン・サウード、またはイブン・サウードの名で知られる。ワッハーブ派イマームとしてはアブドゥルアズィーズ2世、サウジアラビア国王としてはアブドゥルアズィーズ1世と呼ばれる。

生涯[編集]

アラビア中部のリヤド周辺にまで縮小し、且つラシード家英語版のムハンマド・イブン・アブドゥッラーに実権を奪われていたサウード家の出身である。ワッハーブ派イマームである父が第二次サウード王国の実権を握っていたラシード家の勢力をリヤドから排除することに失敗し、1891年に一族とともに放浪した果てにクウェートに亡命。これにより、分裂して衰退していた第2次サウード王国は完全に滅亡する。

1901年、クウェートのムバーラク大首長ジャバル・シャンマル王国のラシード家との戦いに参加し、別働隊としてリヤド攻略を担当するも、本隊の大敗により陥落することが出来なかった。

1902年、22歳[2]のときに40人の兵力でマスマク城に居を構えていたアジュラーン総督を討ち取りリヤドを奪還した(リヤドの戦い英語版)。1914年から第一次世界大戦が始まると、連合国の1国であるイギリスに協力して力を蓄える。1919年にサウード家の勢力拡大が自身の独立に影響を与えると考え、ラシード家を影で支援していたクウェートのサリーム首長に業を煮やしたアブドゥルアズィーズはクウェートに侵攻するが、イギリスは空軍を派遣してけん制したために、彼はクウェート侵攻を諦めている。この様にイギリスはサウード家の勢力拡大に全面協力していたわけでなく、またサウード家を支援したのは専らイギリスでもジョン・フィルビーの所属したインド総督府であり、アラビアのロレンスが所属するイギリスのカイロ領事はハーシム家を支援していたが、アブドゥルアズィーズはイギリスとの戦力差をわきまえており、反抗することはなかった。1920年にはそのイギリスの支援を背景にして中部アラビアを支配下に置いた。

1921年にはラシード家を滅ぼし、1925年にはヒジャーズ王国をハーシム家より奪い、1927年にはイギリスとジッダ条約英語版を結んでナジュド王国の独立を認めさせると共にイギリスとなおも友好関係を維持した。

1931年にはナジュド及びヒジャーズ王国の建国を宣言して、自らマリク(王)となり、翌1932年には、サウジアラビア王国と国名を変えている。

アメリカ合衆国のフランクリン・ルーズベルト大統領らと会談するイブン・サウード

1939年に勃発した第二次世界大戦においては、常にイギリスやアメリカ合衆国などと同じく連合国側の一員として行動する。

大戦末期の1945年にはアラブ連盟に加盟する。1948年にはパレスチナ戦争が起こり、アブドゥルアズィーズもサウジ軍を派遣するが、国境を接しておらず、また米英との戦力差を熟知している故に米英のゴーサインが出ない紛争には介入しない方針だったために、パレスチナ問題にはあまり積極的ではなく、さらに自身同様にアラブ圏のリーダーを自認するエジプト王国シリア、宿敵のハーシム家のアブドゥッラー1世が君臨するヨルダン・ハシミテ王国やファイサル2世が君臨し、元ヒジャーズ王族のアブドゥルイラーフが摂政であるイラク王国と歩調が合うはずもなくアラブ連合軍は敗北し、アラブ圏に自由将校団を中心とするアラブ民族主義共和制派の台頭を招くことになる。

これより先の1924年にホームズ少佐にアル=ハサ地方の石油利権を与え、1928年の赤線協定が施行され、1933年にホームズ少佐からガルフ石油に移行した石油利権がカルフォニア=アラビアン・スタンダード石油に移って以降、アメリカ合衆国との関係が深まり、1938年にはアラムコにより、サウジアラビア初の油田が発見され、メッカ・メディナの2大聖地巡礼に代わる財源を確保。パレスチナ戦争後はアメリカ合衆国との協調関係がさらに進み、アメリカ合衆国から新鋭機械を導入するなどして自国内の油田開発に当たった。

宗教においても自身がイマームを勤めるワッハーブ派イスラム教(最も厳正で復古主義的)を国教として定めるなどして、サウジアラビア王国の基礎を築き上げた。

1953年、狭心症により74歳で死去した。500リヤル紙幣に肖像が使用されている。

人物[編集]

  • 身長2メートルの大男かつ怪力の持ち主で、武勇にも秀でていた。
  • リヤドのサウード家がラシード家のムハンマド・イブン・アブドゥッラーに追われてクウェートにいたが、同じ頃、当時のクウェート首長のムハンマドの弟で、インドボンベイから帰ってきていた後のムバラク大首長はアブドゥルアズィーズ・イブン・サウードの才能に目を付け、彼に教育を施し、のちに秘書としたという。また、ムバラクはサウード家に好意的であったという。
  • 当時サウジアラビアでは厳格なワッハーブ派を国教としていたこともあり、イスラム教の刑罰に基づき泥棒は右手首を切り落とすという厳罰をとっていた。アメリカ人はこの厳罰を止めるように度々諫言するが、「罪を償わせるために何年も牢屋に入れるのと、いましめのために手首を斬って釈放するのと、果たしてどちらが個人の自由を尊重しているのか?」と答えて、刑法を改めることはなかった。
  • 晩年、顧問官のユーフス・ヤシンから、歴史書を読むことを薦められたとき、「私は史書を紐解いたりはしない。私の額には歴史そのものが刻まれているからだ。」と言ったという。
  • 血縁をことのほか重視するアラブ社会において有力部族の部族長の娘に子どもを産ませるため、100回以上の結婚を余儀なくされた[3]

家族[編集]

父母[編集]

  • 父:アブドゥルラハマーン・イブン・ファイサル・アル・サウード(第二次サウード王国最後の王。1928年死去)
  • 母:サラ・スデイリー(ダワシールの首長、アハマド・スデイリーの娘)

兄弟[編集]

  • ファイサル(1870年 - 1890年)
  • ファハド(1875年 - ?)
  • ムハンマド(1880年 - 1903年)
  • サアド(? - 1916年)
  • アブドゥッラー(1900年 - ?)
  • アハマド(1917年 - ?)
  • アブドゥル・ムスフィン(1910年代 - ?)
  • ムサイード(1922年 - ?)
  • サアド(1920年代 - ?)

妻妾[編集]

当時のアラビア半島のイスラム社会では、女性は家系図などにも記載されないことが一般的であり、また、妻は原則としてハレムの奥に控えて公式の場に出ないため、妻に関しては記録が乏しい部分が多く、人数についても諸説ある。同様の理由により娘の人数と名前も記録が乏しい。

当時のアラビア半島のイスラム社会では、異教徒たる配偶者は妻ではなく妾として扱われたこと、奴隷制の下で女奴隷である女性が存在していたこと[4]、権利義務関係について条件付きの婚姻であるミシャー婚が存在していたこと、東部州ではシーア派独自のムトア婚英語版が認められていたこと、部族ごとに異なる部族習慣法に基づく婚姻とイスラム法に基づく婚姻とが混在していたことなどから、婚姻にかかる事実関係が複雑であった。また、歴史研究家によってはミシャー婚の相手を妾と呼ぶ場合もある。これらの事情から、どこまでの範囲の人物を妻と呼ぶことができるのかは必ずしも明確ではない。

一説には41人の妻がいるとされるが、そのうち8人は奴隷の身分で出自や本名不明が明確ではなく、妻のうち12人は後に離婚しているとされる。その一方で、4人の妻と4人の妾と4人の女奴隷がいたとする資料もある[5]。有力部族の部族長の娘に子どもを産ませるため、100回以上の結婚を余儀なくされたとも言われているため百数十にも及ぶ主要部族全てに妻が居たとすれば百数十人の妻が居たことになる。

記録が明確なのは後の国王と王位継承者達を産んだ4人の妻であり、彼女たち4人を正妻と見る場合もある。

以下では記録が明確な妻を挙げる。

子息[編集]

子供は89人いるとされ、うち男子は52人、女子は37人とされる。そのうちの36人の男子が王位継承権を持っている[6]

  1. トルキー(1900年 - 1919年)
  2. サウード(1902年 - 1964年) 第2代サウジアラビア国王
  3. ハーリド(1903年、夭折)
  4. ファイサル(1905年 - 1975年) 第3代目サウジアラビア国王
  5. ムハンマド(1910年 - 1919年)
  6. ハーリド(1912年 - 1982年) 第4代サウジアラビア国王
  7. ナーセル(1920年 - )
  8. サアド(1920年 - )
  9. ファハド(1921年 - 2005年) 第5代サウジアラビア国王、スデイリ・セブン
  10. マンスール(1922年 - 1951年)
  11. アブドゥッラー(1922年 - ) 第6代サウジアラビア国王 兼 首相
  12. バンダル(1923年 - )
  13. ミシュアル(1925年 - )
  14. アブドゥルムフスィン(1925年 - )
  15. ムサイード(1926年 - )
  16. スルターン(1927年 - 2011年) スデイリ・セブン、生前は皇太子の地位にあった。
  17. ムトイブ(1928年 - )
  18. ミシャーリー(1930年 - )
  19. アブドゥッラフマーン(1931年 - ) スデイリ・セブン
  20. タラール(1931年 - ) 王位継承権を放棄
  21. バドル(1933年 - )
  22. ナーイフ(1933年 - 2012年) スデイリ・セブン、生前は皇太子の地位にあった。
  23. ナウワーフ(1933年 - )
  24. トルキー(1934年 - ) スデイリ・セブン
  25. サルマーン(1936年 - ) スデイリ・セブン、皇太子 兼 副首相 兼 国防大臣
  26. マジード(1936年 - )
  27. アブドゥル・イラーフ(1938年 - )
  28. サミール(1938年 - 1958年)
  29. アフマド(1940年 - ) スデイリ・セブン
  30. マムドゥーフ(1940年 - )
  31. アブドゥルマジード(1941年 - )
  32. ハズルール(1942年 - )
  33. マシュフール(1942年 - )
  34. サッターム(1943年 - )
  35. ムクリン(1945年 - ) 第2副首相
  36. ハムード(1947年 - )

[編集]

子息が36人超いるとされるため、ここでは特に有名な人物についてのみ記載する。

  • ハーリド(1940年 - ) ファイサルの子、メッカ州知事
  • サウード(1941年 - ) ファイサルの子でハーリドの弟、外務大臣
  • バンダル(1950年 - ) スルターンの子、元駐米大使
  • ムトイブ(1952年 - ) アブドゥッラーの子、国務大臣 兼 国家警備隊隊長
  • アル・ワリード(1955年 - ) タラールの子、キングダム・ホールディング・カンパニーオーナー
  • ムハンマド・ビン・ナーイフ(1959年 - ) ナーイフの子、内務大臣
  • サウード・ビン・ナーイフ ナーイフの子でムハンマドの弟、東部州知事
  • ファイサル・ビン・サルマーン サルマーンの子、マディーナ州知事
  • ハーリド・ビン・バンダル バンダルの子、リヤド州知事
  • アブドルゥアズィーズ(1971年 - ) ファハドの子

曾孫についても孫の項目同様に特に有名な人物のみ記載する。

  • ハーリド(1978年 - ) アルワリードの子

脚注[編集]

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  1. ^ a b c 「世界歴代王朝王名総覧」(1998年、東洋書林)参照
  2. ^ 正確な生年月日が不明のため年齢は推測であり、資料によっては21歳となっている物もある。
  3. ^ 大島(1981)p.19
  4. ^ サウジアラビアにおける奴隷制度は1962年まで存続していた。
  5. ^ サウジアラビア現代史
  6. ^ 「サウジアラビア王朝史」383頁参照。娘については、女性は系図に掲載されていないために同書にも記載がないため、省略した。

参考文献[編集]

  • 大川周明『亜細亜建設者』(1941年)
  • 牟田口義郎『石油に浮かぶ国 クウェートの歴史と現実』(1965年、中央公論社
  • ジョン・フィルビー著、岩永博、富塚俊夫訳『サウジアラビア王朝史』(法政大学出版局
  • ブノアメシャン著、牟田口義郎、河野鶴代訳『砂漠の豹 イブン・サウード』(筑摩書房
  • 「世界歴代王朝王名総覧」(1998年9月30日、東洋書林)
  • 大島直政『イスラムからの発想』講談社<講談社現代新書>、1981年。ISBN 4-06-145629-6

関連項目[編集]