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アブドゥッラー (ヤルカンド・ハン国)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アブドゥッラー
عبد الله/ʿAbd Allāh
ヤルカンド・ハン国第11代ハン
在位 1638年 - 1669年

出生 1618年
死去 1675年
ヨルバルス
子女 ヌールッディーン、ヨルバルス
家名 チャガタイ家
父親 コライシュ・スルタン
宗教 イスラム教
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アブドゥッラー(Abudallah、1618年 - 1675年)は、今の中国西北部新疆ウイグル自治区にあったヤルカンド・ハン国の第11代ハン。

生涯

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コライシュ・スルタンの長男、アブドゥッラシード・ハン1世の孫。

ムハンマド・ハンの死後の混戦・内乱のなか、アブドゥッラーが統治するハン国の東部トルファンは相対的に安定しており、次第に強大化していった[1]。1638年、アブドゥッラーは本家プラド・ハンの統治するカシュガルを攻略した。プラド・ハンはホージャ・シャーディー[注釈 1]がアブドゥッラーに暗黙の支持を与えたのを見て大勢が決したと判断し、ヤルカンドから国外に逃れた[2]。

アブドゥッラー・ハンが在位した30年間、ハン国はやや強勢を取り戻し、ハン国の境域も初期の状態に回復し、中興を果たした[2]。

1655年、アブドゥッラー・ハンは清朝に使節を送り朝貢している[2]。しかし、在位の後半には黒山党と白山党の争いがますます熾烈となり、オイラトやキルギス(柯爾克孜)の貴族も衝突に巻き込まれ、ハン国の危機がおとずれた[2]。アブドゥッラー・ハンは長子ヌールッディーンを後継者に指名していたが、幼子ヨルバルスは白山党の支持を得て継承権を要求した[2]。のちヌールッディーンは毒殺され、ヨルバルスは兵を起こしてヤルカンドに進攻した[2]。この時には、アブドゥッラー・ハンには抵抗する力がなかったため、ハン位を放棄してメッカ巡礼に赴いた[2]。

1668年、ヨルバルスは政権の座につくと、ただちに黒山党およびその追随者に対する虐殺を行なった[2]。黒山党も失敗に甘んじることなく、各地で抵抗を続け、オイラトのソンゲ・タイジ(僧格台吉)と気脈を通じて、1670年ヨルバルス・ハンを殺害した[2]。

1675年、アブドゥッラーは67歳で死去し、アグラに埋葬された。

脚注

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注釈

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  1. ↑ ホージャ・イスハーク・ワリーの子ホージャ・ムハンマド・ヤフヤーのこと

出典

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  1. ↑ 丸山 2014, p. 53.
  2. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 丸山 2014, p. 54.

参考資料

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  • 丸山鋼二「ヤルカンド・ハン朝の建国と「聖戦」: 新疆イスラム教小史⑦」『文教大学国際学部紀要』第24巻第2号、文教大学、2014年1月、47-64頁、CRID 1050001338027025664、ISSN 0917-3072、NAID 120006420345。 
先代
アブー・アル=アフマド・ハージ・ハン
ヤルカンド・ハン国のハン
第11代
1638年 - 1669年
次代
ヨルバルス