アブドゥッラフマーン・バダウィー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

アブドゥッラフマーン・バダウィーアラビア語: عبد الرحمن بدوي‎, ラテン文字転写ʿAbd al-Rahḥmān Badawī; 1917年2月17日ディムヤート県シャラーバスアラビア語版生 - 2002年7月25日カイロ歿)は、エジプトの哲学者、詩人[1]。エジプトにおける実存主義哲学の祖と言われる[2]。百科事典中の項目75項を含めて150編以上の著作があり、母語のアラビア語をはじめとして英語、スペイン語、フランス語、ドイツ語で執筆し、古代ギリシア語、ラテン語、ペルシア語の文献を読めた[3]

バダウィーはカイロのフアード1世大学(現在のカイロ大学の前身)を1938年に卒業し、ルイ・マシニョンフランス語版の下で学んだ。アレクサンドル・コイレの指導の下で Le Problème de la mort dans la philosophie existentielle という題の論文を書いた。この論文はエジプトの知識人や思想家に対して長く続く影響を与えた。その後の1940年に出版した著書 Greek Heritage in Islamic Civilisation において、バダウィーは文明の衝突が不可避であり解決困難であると予言した。また、バダウィーは、イスラーム文明の精髄を解明する能力をギリシア文明が持たず、イスラーム文明がギリシア文明に対してどのように応答したかを評価することなくイスラーム文明の本質を理解することはできないと考えた。

バダウィーは1967年からリビアの大学の哲学科の主任を務めたが、1973年4月にムアンマル・カッザーフィー大佐により辞めさせられた。カッザーフィーはバダウィーの著作を公衆の面前で焼却し、バダウィーを逮捕した。アンワル・サダトの働きかけにより解放されるまでの17日間、バダウィーは刑務所に拘束された。バダウィーはその後の1975年からクウェートの大学で教授になり、1982年まで教えた。

バダウィーは、イブン・イスハークの『預言者伝』をフランス語に翻訳し出版した(Ibn Ishaq, Muhammad, introduction et notes par Abdurrahmân Badawî, éditions Al Bouraq (28 septembre 2001) : tome 1, 654 pages, ISBN 978-2-84161-153-9 ; tome 2, 608 pages, ISBN 978-2-84161-154-6. )。イブン・ヒシャームの『預言者伝』は19世紀中葉にヴュステンフェルトの校定翻訳があったが(Ferdinand Wüstenfeld, parue en 1858-1859)、イブン・イスハークのものは(フランス語へは)初めてであった。

出典[編集]

  1. ^ "Abdel Rahman Badawi - Egyptian Philosopher". Encyclopaedia Britannica. 2020年5月11日閲覧
  2. ^ Mona Mikhail (1992) (英語). Studies in the Short Fiction of Mahfouz and Idris (NYU Press ed.). p. 28 .
  3. ^ Abdurrahmân Badawî” (英語). thefreelibrary.com. 2020年5月10日閲覧。.