アッピウス・クラウディウス・カウデクス

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アッピウス・クラウディウス・カウデクスラテン語: Appius Claudius Caudex)は、共和政ローマ元老院議員。パトリキ系のクラウディウス氏族の出自、父はガイウス・クラウディウス・ケント、祖父はアッピウス・クラウディウス・カエクスアッピア街道の建設者)である[1]紀元前264年執政官を務めた。第一次ポエニ戦争の口火を切った人物である。

経歴[編集]

シケリア(シチリア)北東のメッセネ(現在のメッシーナ)は紀元前288年以降カンパニア人の傭兵部隊マメルティニが占領していた[2]紀元前265年シュラクサイ僭主ヒエロン2世はメッセネを攻撃し、マメルティニからの奪還を試みた。マメルティニはシケリアのカルタゴ艦隊に救援を求めヒエロンの攻撃を撃退したが、カルタゴ軍はそのまま彼らの支配下の地域に留まった。このため、マメルティニは居座るカルタゴ軍を一掃するためにローマに助力を依頼した。

この動きに執政官に就任していたアッピウス・クラウディウスは、元老院の反対を押し切り、ローマ市民を説得してシケリアに派兵を行った。これはローマ最初の海外遠征であった。ローマは自前の海軍を有していないため、南イタリアの同盟ギリシャ都市国家に船を提供させ、昼間にシケリアへの渡海を試みたが、カルタゴ海軍に補足され失敗した[3]。カルタゴ軍の司令官であったハンノはこれを鹵獲した船をローマに返してローマの介入をさけようとしたが[4]、ローマ軍は夜間に渡海を試み成功した。

ローマ軍が上陸に成功すると、カルタゴ軍はマメルティニの説得に応じ、ほとんど抵抗せずメッセネから撤退した。しかしマメルティニがアッピウス・クラウディウスにメッセネを明け渡すと、カルタゴ軍はメッセネ奪還のために引き返し、ヒエロン2世もメッセネ近郊に陣を構えた。アッピウス・クラウディウスは戦闘を避けるべく、特使をカルタゴ側、シュラクサイ側に派遣するが無視された。このため、ヒエロン2世のシュラクサイ軍に攻撃をかけ撃破、その夜にシュラクサイ軍は退却した。翌日、カルタゴ軍にも攻撃をかけ、長時間の戦闘となったがこれにも勝利した。クラウディウスはその後エケトラ(en)を包囲したが、敗北してメッセネに撤退した[5]

これらの軍事行動により第一次ポエニ戦争が始まった。

ドレパナ沖の海戦の敗将である、プブリウス・クラウディウス・プルケル紀元前249年の執政官)はアッピウス・クラウディウスの兄弟である。

参考資料[編集]

  1. ^ H. Lindsay, Suetonius: Tiberius (London: Bristol Classical Press, 1995), 58
  2. ^ Goldsworthy, Adrian (2007-04-01). The fall of Carthage: the Punic Wars, 265-146 BC. Cassell. p. 66. ISBN 978-0-304-36642-2. http://books.google.com/books?id=tDXcOAAACAAJ 2010年6月23日閲覧。. 
  3. ^ Ioannes Zonaras, An Epitome Of The Lost Books Of Dio, 11.8
  4. ^ Ioannes Zonaras, An Epitome Of The Lost Books Of Dio, 11.9
  5. ^ Diodorus Siculus, Biblioteca Historica, 23.1

関連項目[編集]


公職
先代:
クィントゥス・ファビウス・マクシムス・グルゲス
ルキウス・マミリウス・ウィトゥルス
ローマ執政官(コンスル)
紀元前264年
同僚
マルクス・フルウィウス・フラックス
次代:
マニウス・オタキリウス・クラッスス
マニウス・ウァレリウス・マクシムス・メッサッラ