アダウベルト・デス
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名前 | ||||||
カタカナ | アダウベルト・デス | |||||
ラテン文字 |
Adalbert Deșu Béla Dezső (出生名) | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ルーマニア王国 | |||||
生年月日 | 1909年3月24日 | |||||
出身地 | オーストリア=ハンガリー帝国 ティミショアラ・ガタイア | |||||
没年月日 | 1937年6月6日(28歳没) | |||||
身長 | 175cm[1] | |||||
体重 | 70kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
代表歴 | ||||||
1929-1930 | ルーマニア | 6 | (3) | |||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
アダウベルト・デス(ルーマニア語: Adalbert Deșu,ハンガリー語: Béla Dezső(出生名), ハンガリー語発音: [ˈbeːlɒ ˈdɛʒøː]、1909年8月14日 - 1937年6月6日)は、オーストリア=ハンガリー帝国のティミショアラ出身のサッカー選手。ルーマニア代表草創期の名選手であり、FIFAワールドカップ史上、最初に最短時間得点を樹立した選手としても知られる。
経歴
[編集]1909年8月14日にオーストリア=ハンガリー帝国のティミショアラ・ガタイアで生まれた[2]。サッカー選手としてのキャリアは地元でスタートした。
1928年にリーガ1のUDレシツァに入団。翌1929年秋にはルーマニア代表にも招集され、9月15日のブルガリア戦との親善試合(ソフィアで開催)で初出場ながら決勝ゴール(3-2で勝利)を挙げ、一躍有名になった。1930年のFIFAワールドカップ第1回大会のメンバーにも選出され、グループリーグ3・初戦のペルー戦(エスタディオ・ポシトス〈モンテビデオ〉)で開始僅か50秒、先制ゴールを挙げた。これはW杯におけるルーマニア代表史上初のゴールでもあり、同時にワールドカップ史上、最初の最短時間得点記録[3]でもあった。しかし、UDレシツァのオーナーだったヴォルフガング・オースシュニット(Wolfgang Auschnit)がワールドカップ期間中の給料を支払う事を拒否したため、怒ったデスはワールドカップ終了後、UDレシツァを退団した。直後にリーガ2所属だった地元チーム・バナト・ティミショアラと契約したが、肺炎を患い、1933年に24歳で引退を余儀なくされた。
その後、療養に努めたが、肺炎が完治する事はなく、1937年6月6日に28歳で死去した。
所属クラブ
[編集]脚注
[編集]- ^ 169cm説もある。
- ^ Gál, László (2010). Montevideótól Johannesburgig - Érdekességek a futball vb-k világából. Budapest: Aposztróf. p. 154. ISBN 9786155056024
- ^ 次の1934年イタリアW杯・3位決定戦で、エルンスト・レーナー(ドイツ)が開始25秒で得点を挙げて更新。2015年現在の記録は2002年日韓W杯で、ハカン・シュキュル(トルコ)が3位決定戦の韓国戦で挙げた10.8秒。