ゆっくり急げ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search
アウグストゥスの鋳造した金貨の図案。動きのはやい蝶と動きの遅い蟹の組み合わせで「ゆっくり急げ」を意味する。
アルドゥスのプリンターズ・マーク。錨にからみつくイルカは、上図と同様「ゆっくり急げ」の図案化である

ゆっくり急げ」(ゆっくりいそげ、:Festina lente)は、ヨーロッパで古くから用いられている格言である。良い結果により早く至るためにはゆっくり行くのが良い、という意味で[1]、もとはギリシャ語σπεῦδε βραδέως(スペウデ・ブラデオース)と言い、ラテン語でFestina lente(フェスティーナ・レンテ)と訳されたものが普及した。アウグストゥスがこの言葉を好みモットーとしていたことが知られており、彼以降もウェスパシアヌスティトゥスメディチ家コジモ1世などさまざまな人物がモットーとして用いている。近年ではバラク・オバマ大統領がこの言葉を愛好しているという[2]

歴史[編集]

スエトニウスの『皇帝伝』によれば、アウグストゥスは軍事的な指導者が性急さを持つことを嫌い、次の3つの格言を愛好していた。すなわち「ゆっくり急げ」「大胆な指揮官よりは慎重な指揮官のほうがましだ」「立派にできたのであれば、それは十分早くできたことになる」で、最初の2つはギリシャ語、3つめはラテン語であった[3][4][2] 。アウグストゥスが造らせた金貨の一部に、裏面がに捉まるの図案になっているものがあるが、これはこの「ゆっくり急げ」の格言を図案化したものである[5][6] 。この格言の同様の図案としては、他に「錨にからみつくイルカ」「蝸牛の殻にはいる野兎」「カメレオンと魚」「ダイヤの指輪と葉」といったものがあり[7][8]、コジモ1世は背に帆を貼った亀の絵をこの格言を表す図案として用いていた[9]

「錨にからみつくイルカ」は、ウェスパシアヌスの銀貨の裏面に使われていた図案であったが、のちに初期の出版者アルドゥス・マヌティウスが自身のプリンターズ・マークとして用いている。マヌティウスと親交のあったエラスムスは自身の『格言集』の中でこの格言を解説しており、これがアリストファネスの『騎士』にある「speude tacheos」(急いで急げ)が変化して生まれた言葉ではないかと推測している。エラスムスはまた、マヌティウスが持っていたウェスパシアヌス銀貨(ピエトロ・ベンボが贈ったという)を見せてもらったことに触れてヒエログリフからこの図案を解説し、これをプリンターズマークとしたマヌティウスに世辞を送っている[10][11][2]

ルネサンス時代においてポピュラーな格言であり、シェイクスピアは自作のなかで繰り返し用いている。キア・イーラムによれば、『恋の骨折り損』のアーマードとモスは、「蟹と蝶」であらわされる「ゆっくり急げ」の舞台上における表象である[12]。17世紀にはニコラ・ボアロー=デプレオーがその著書『詩法』のなかで詩人の心構えのひとつとして言及しているほか[13]ラ・フォンテーヌは著名な『寓話』中の「兎と亀」で、亀を「思慮深い知恵をもってゆっくり急いだ」と記している[14]。18世紀にはゲーテが『ヘルマンとドロテーア』の中で "Eile mit Weile"というドイツ語で引用している[15]

「ゆっくり急げ」 (festina lente) はオンズロー伯爵家英語版モットーでもあるが、これは家名の「オンズロー」(On-slow)とかけた駄洒落で付けられたものである[16](カンティング・モットーという)。

出典[編集]

  1. ^ フェスティーナレンテ、デジタル大辞泉、2016年9月閲覧
  2. ^ a b c 浦上雅司 「FESTINA LENTE」 福岡大学人文学部文化学科、2014年7月14日
  3. ^ Suetonius, John Carew Wolfe, “Lives of the Caesars”, Suetonius, 1, ISBN 978-0-674-99570-3, https://books.google.com/books?ei=iHn3TKaeCouShAeWmbHnAg&ct=result&id=Vu5nAAAAMAAJ 
  4. ^ C. Suetonius Tranquillus, translated by Alexander Thomson. “THE LIVES OF THE TWELVE CAESARS”. Project Gutenberg. 2015年2月3日閲覧。
  5. ^ W. Deonna (1954), “The Crab and the Butterfly: A Study in Animal Symbolism”, Journal of the Warburg and Courtauld Institutes (The Warburg Institute) 17 (1/2): 47–86, JSTOR 750132, http://jstor.org/stable/750132 
  6. ^ Gabriele Simeoni (1559), Le Imprese Heroiche et Morali, ISBN 978-1-149-36798-8, https://books.google.com/books?id=V_erSQAACAAJ 
  7. ^ Gary M. Bouchard (2000), “Colin Clout's "Stayed Steps"”, Colin's campus: Cambridge life and the English eclogue, ISBN 978-1-57591-044-4, https://books.google.com/books?id=mnGUUZbWS40C&pg=PA68 
  8. ^ Aleta Alekbarova (20 June 2010), “M. Durmius’ Aureus”, L'Age d'Or de la Poésie latine, http://golden-age.over-blog.com/article-m-durmius-aureus-52629759.html 
  9. ^ Hope B. Werness (2006), “Turtle”, The Continuum encyclopedia of animal symbolism in art, ISBN 978-0-8264-1913-2, https://books.google.com/books?id=iBSDddO-9PoC&pg=PA416 
  10. ^ Desiderius Erasmus, William Watson Barker (2001), The adages of Erasmus, University of Toronto Press, ISBN 0-8020-4874-9, https://books.google.com/books?id=VmJn6IFMyicC 
  11. ^ “Some rare or unpublished Roman gold coins”, The Numismatic Chronicle and Journal of the Numismatic Society (Royal Numismatic Society) 7-8: 225, https://books.google.com/books?id=yNsEAAAAYAAJ&pg=RA1-PA225 
  12. ^ John McMichaels, “Allegories of Rhetoric and Dialectic in Shakespeare's Plays”, Allegoria Paranoia, http://allegoriaparanoia.com/shakespeare/balklogic/appendix2.html 
  13. ^ Charles Dudley Warner (ed.), A Library of the World's Best Literature, Vol. V, New York: The International Society, 1896, reprint 2008 by Cosmo Classics, p. 2144. The translator originally chose "Gently make haste", here turned back to "Slowly make haste", which is more faithful to the French "lentement".
  14. ^ Jean de la Fontaine, The Fables of La Fontaine, trans. Elizur Wright Jr., London: William Smith, 1842, p. 36.
  15. ^ Scottish notes and queries, D. Wyllie and son, (1895), p. 104, https://books.google.com/books?id=MaxuNRdw7VIC 
  16. ^ Mark Antony Lower (1860), “Onslow”, Patronymica Britannica, https://books.google.com/books?id=00cBAAAAQAAJ&pg=PA249 

関連文献[編集]

  • 柳沼重剛編 『ギリシア・ローマ名言集』 岩波文庫、2003年
  • 柳沼重剛 『語学者の散歩道』 岩波現代文庫、2008年

関連項目[編集]