もく星号墜落事故

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
日本航空 301便
Aircraft accident of Mokusei-go.JPG
墜落したもく星号
出来事の概要
日付 1952年4月9日
概要 原因不明
現場 日本の旗 日本伊豆大島
乗客数 34
乗員数 3
負傷者数
(死者除く)
0
死者数 37(全員)
生存者数 0
機種 マーチン2-0-2
運用者 日本航空
機体記号 N93043
出発地 日本の旗 羽田飛行場
経由地 日本の旗 伊丹空港
目的地 日本の旗 福岡空港
テンプレートを表示
在りし日のもく星号

もく星号墜落事故(もくせいごうついらくじこ)は、1952年4月9日伊豆大島に旅客機が墜落した航空事故である。事故機を運行していたのは日本航空であったが、当時の日本は太平洋戦争敗戦による被占領中で日本人による自主的航空運営が認められていなかったため(日本国との平和条約が締結され占領が解かれたのは月末)[1]、営業面のみを担当し、航空機の整備と運用はノースウエスト航空に運航を委託していた[1]。この委託運航に使われたマーチン2-0-2型機のうち事故機(機体記号:N93043)の愛称が「もく星号」であった[2]

事故の概要[編集]

1952年4月9日、大阪を経由し福岡に向かう[2]予定の「もく星号」は、羽田飛行場を日本航空301便[3]、として午前7時42分に離陸した。客室乗務員は日本人であったが、前述の事情により機長(当時36歳)と副操縦士(当時31歳)はアメリカ人であった[3]。また航空管制官も全てアメリカ人だった。

アメリカ当局が日本政府に提出した交信記録(タイプ)によれば、羽田飛行場の管制官は、ジョンソン基地(現在の入間基地)にある航空管制センターの指示に基づいて[3]、米軍機が10機飛行していたことから「大阪までの飛行高度は6000フィート。羽田から館山房総半島南部)上空まで2000フィートを計器飛行、館山南方10分間飛行高度を2000フィートにて保持、次いで(巡航高度の)6000フィートに上昇」との指示を出発前に与えていた[3]。この指示に対し機長と運行主任は館山から大島まで約7分の距離である上、規定高度も4000フィートであると抗議した[3]。これは航空路に標高2474フィート(754メートル)の三原山があり[4]、2000フィートでは三原山を越せないのは確実であった。そのため、航空管制官は航空管制センターの指示は誤りであるとして、館山ではなく羽田出発後10分間は高度2000フィートを維持、その後6000フィート」と訂正した[3]

午前7時57分に「もく星号」から「館山通過、高度6000フィートで雲中飛行、8時7分大島上空予定」と報告した[3]。だが直後の午前7時59分ごろ伊豆大島上空で消息を絶った[2]。当時は暴風雨と濃霧という気象だった。直ちに大規模な捜索が行われたが、翌日の朝に捜索活動を行っていた同僚機の「てんおう星号」(ダグラス DC-4)によって、伊豆大島の三原山噴火口の東側1Kmの御神火茶屋付近[3]の山腹に墜落しているのが確認され[1]、乗客・乗務員37名全員死亡という当時としては大規模な航空事故となった。

この当時、旅客機は他の公共交通に比べ運賃が非常に高く、乗客も社会的地位が高い人物ばかりであった。活弁士・漫談家の大辻司郎八幡製鐵社長の三鬼隆などの著名人[1]を含め、日本自由党の元衆議院議員であった森直次日立製作所取締役石川島重工役員ハワイホテル支配人、炭鉱主、国家公務員などが犠牲となった。なお、講談師の五代目一龍斎貞丈も大辻と同じ仕事のため飛行機で向かう予定であったが、東京での仕事があって出発が1日遅れとなったことから難を逃れた[5]。また、ロイヤル社長の江頭匡一も、東京での仕事が長引いて出発が1日遅れたことで事故に巻き込まれることを免れた[6]

情報の錯綜[編集]

しかし、消息を絶ってから残骸となって発見されるまでの間は、マスコミ警察等の関係当局も情報をほとんど手に入れることができず、そのため多くの未確認情報が錯綜し[2]、「海上に不時着」、「アメリカ軍機が生存者を発見」、「乗客全員無事」などの誤報が次々に打たれた。

特に長崎県の地方紙『長崎民友新聞』は事故の翌日の紙面で「危うく助かった大辻司郎氏」という写真付きの記事を掲載。「漫談の材料が増えたよ――かえって張り切る大辻司郎氏」という見出しで大辻の談話を載せた。

これは、上記の「乗客全員無事」という「ニュース」を知った大辻の秘書が、同新聞に連絡する際に気を利かせすぎて捏造した話だったという(実際には前述の通り大辻だけでなく全員が死亡)。なお大辻は長崎民友新聞が開催する「長崎平和復興博覧会」の会場内の劇場で漫談を披露する予定だった。

墜落原因[編集]

当時はまだフライトレコーダーボイスレコーダーが装備されていなかった[7]上、当時の航空管制や事故捜査は連合国軍(実質的には米占領軍)の統制下にあったため、墜落事件の詳細は今もって不明な点が多い。調査の結果、気象やエンジンなどの機体については問題はなく、後述の航空管制誘導の誤りか操縦者のなんらかの過失による墜落との推定がされている[1]

航空管制ミス説によれば、前述の「館山上空を6000フィートで飛行」の通信であるが、これは航空管制センターが文書で提供した数値であり、政府事故調査会が入手した、航空管制センターの通信を同時モニターしていた「東京モニター」[3]による通信記録[4]によれば「館山上空2000フィート、計器飛行、館山南方10分間飛行高度2000フィートを保持し、次いで上昇する」となっていた。そのため航空管制センターは羽田飛行場の管制官が高度の訂正を行った経緯を知らずに、2000フィートを指示した可能性もあるが、交信テープのオリジナルを日本政府に提供しなかったため真相は明らかではない[4]

館山から大島への航空機の誘導は伊豆大島南側の差木地にある大島航空標識の無線標識が行っていた。そのため政府事故調査会の報告書の記述では「操縦者が航法上何らかの錯誤を起こし」、指示された高度2000フィートで飛行したものの、なんらかの理由で幅16kmの航空路の中心線を北側に逸脱し、時速200マイルで水平飛行中の機体が三原山に接触し墜落したとされた[4]

なお、事故の慰霊碑は事故現場に近い三原山裏砂漠側バス停すぐの山上にある[4]

脚注・引用[編集]

  1. ^ a b c d e 事件・犯罪大事典 2002, p. 634.
  2. ^ a b c d 事件・犯罪大事典 2002, p. 633.
  3. ^ a b c d e f g h i 事故全史 2007, p. 42.
  4. ^ a b c d e 事故全史 2007, p. 43.
  5. ^ 木下華声 『芸人紙風船』 大陸書房1977年、216頁。
  6. ^ 私の履歴書 (PDF)”. ロイヤルホールディングス. 2016年1月13日閲覧。ちなみに、江頭のキャンセル待ちで搭乗して犠牲になった乗客は、後にロイヤルホストの出店用に購入した土地の地主の親族であった。
  7. ^ 義務付けられるようになったのは1966年の全日空羽田沖墜落事故を教訓として。

参考文献[編集]

関連作品[編集]

  • 松本清張 『風の息』(1974年、朝日新聞社)
  • 松本清張 『一九五二年日航機「撃墜」事件』(1992年、角川書店)(『風の息』の改稿)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]