はな寛太・いま寛大
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はな寛太・いま寛大(はな かんた・いま かんだい)は、漫才コンビである。所属事務所は松竹芸能。
概要[編集]
松竹新喜劇の役者出身コンビ。1968年にコンビ結成。藤山寛美が名付け親。
東京浅草の木馬館でデビュー。「ちょっと待ってね」のギャグで人気者になる。
ゆっくりとしたテンポとベタなネタ、わざと間を外したボケやツッコミが何とも言えないおかしさを誘う漫才スタイルが特徴で、島田紳助曰く「ヘタうま漫才」と評されていた(「EXテレビ」出演時)。
1970年、夢路いとし・喜味こいしの勧めで大阪に戻り活躍。
最初は大宝芸能に所属し東宝系のトップホットシアターに出演。同劇場閉鎖後に松竹芸能に移籍し、道頓堀角座等の松竹の劇場に上がる、在阪放送局のお笑い番組で人気者となる。
2005年でデビュー35周年、そしてNHKの『上方演芸ホール』で、師匠・こいしの前で本人の往年の漫才ネタを披露した。
2007年、いと・こいの往年のネタ「親子丼」「ジンギスカン」を現在風に改作して継承、2代目いとし・こいし襲名話も進んでいたが、同年5月15日、寛太が食道がんのため死去。
2009年6月15日に行なわれた関西演芸協会主催の「法善寺寄席」に、寛大は若井ぼんとコンビを結成し出演。
メンバー[編集]
- 兵庫県加西市出身、血液型はA型。師匠は、松竹新喜劇時代は藤山寛美、漫才時代は夢路いとし・喜味こいしに師事。趣味は筋トレでボディビルのコンテストでの受賞もあり、土居まさる司会のテレビクイズ番組「ほんものは誰だ?!」や関西のお笑い番組のコントでも肉体を披露し胸をピクピクさせ、還暦を過ぎても筋トレに励んでいた。2007年5月15日、食道がんのため死去。61歳没。公式サイトの画像の、小柄な方である。コンビを解消していた頃「加西立身」のペンネームで漫才作家をしていた。
- 大阪府大阪市出身、血液型はO型。師匠は、松竹新喜劇時代は曽我廼家十吾、漫才時代はいとし・こいしに師事。ふぐ調理師免許を持っており、芸人によくふぐ料理を振舞っている。また趣味が骨董収集で古物商許可証の資格も持っている。現在喜劇俳優で活躍する曽我廼家文童とは同じ一門。「ちょっと待ってね」のギャグの他に、英語版として「ジャスト・モーメント・プリーズ」というギャグも披露している。公式サイトの画像の、大柄な方である。
エピソード[編集]
- いとし・こいしとの出会いは名古屋の富士劇場で寛太・寛大が漫才をしているのを見て弟子入りさせたという。
- 生前のこいしから「夢路いとし・喜味こいし」の名を譲られる予定だった。その襲名の準備でいとし・こいしのネタを積極的に演じていた。
- デビュー当時はコンビ名を「かんてん・かんぴょう(表記不明)」と名乗っていた時期がある。その他にも寛美はたくさんの名前の候補を用意していた。
- 寛大は博多座で仕事があったため、寛太の葬儀に参加できなかった。
- 所属事務所は異なるが西川のりおは、「僕ら(西川のりお・上方よしお)とカンカン(寛太・寛大)のコンビとは仲が良い」と語っていた。
- 初代B&Bのボケの方であった萩原芳樹は、新人賞レースでライバルにあった寛太・寛大をトップホットシアターで観て「これは勝てん、と感じた」と回想している。
- まだ売れていない時代には、ストリップ劇場の前座で漫才をやっていたこともあった。その際に、とある踊り子の準備に時間がかかりすぎて漫才のネタが尽き、せかしたところ出てきたセリフが、彼らの代表的なギャグともなった「ちょっと待ってね~」だった(2012/12/23 読売テレビ放送分「漫才Lovers」中川礼二の話より)。
- 吉本新喜劇に入って間もない頃の池乃めだかを、寛大が漫才師として誘おうとし、一年がかりのつきあいで、コンビを組もうとめだかから切り出されたが、吉本側がめだかを副座長に抜擢しようとしたため、丁重にめだかが断り、殴られる覚悟があったのを、寛大が見て、快諾した。(2014/1/12 ABCテレビ放送分「なるみ・岡村の過ぎるTV」の話より)。
受賞[編集]
- 1973年 第3回NHK上方漫才コンテスト 最優秀話術賞
- 1973年 第8回上方漫才大賞 新人賞
- 1999年 大阪舞台芸術賞 奨励賞
- 2003年 第32回上方お笑い大賞 特別賞
- 2004年 第59回文化庁芸術祭 演芸部門 芸術祭大賞(関西参加公演の部)
テレビ出演[編集]
- 新・なにわの源蔵事件帳 第2話「人力車は往く」(1983年11月9日、NHK)寛大のみ