にんべん

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株式会社にんべん
NINBEN Co.,Ltd.
にんべん 本社が入る室町ちばぎん三井ビルディング
にんべん 本社が入る室町ちばぎん三井ビルディング
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
103-0022
東京都中央区日本橋室町1-5-5
室町ちばぎん三井ビルディング12F
北緯35度41分10.3秒 東経139度46分27.8秒 / 北緯35.686194度 東経139.774389度 / 35.686194; 139.774389座標: 北緯35度41分10.3秒 東経139度46分27.8秒 / 北緯35.686194度 東経139.774389度 / 35.686194; 139.774389
本店所在地 103-0022
東京都中央区日本橋室町2-3-1
COREDO室町1・1F
北緯35度41分12.9秒 東経130度46分29.4秒 / 北緯35.686917度 東経130.774833度 / 35.686917; 130.774833
設立 1918年大正7年)11月20日
(創業:1699年元禄7年))
業種 食料品
法人番号 7010001053907 ウィキデータを編集
事業内容 鰹節および加工食品の製造・販売
代表者 代表取締役社長 髙津伊兵衛
資本金 8800万円
従業員数 260人(2023年4月現在)
外部リンク www.ninben.co.jp
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株式会社にんべん東京都中央区日本橋室町に本社を置く主に削り節ふりかけ調味料を製造する水産加工品メーカーである。元禄12年(1699年)の創業と非常に長い歴史を誇り、業界では最古参にあたる企業の一つでもある。首都圏や東日本では高いブランド力を持つ。

鰹節の種類[編集]

にんべんなどの江戸鰹節問屋は、本節を要求していた。荒節の1ヵ月前後とくらべ、本節・本枯節は4~6ヵ月前後の加工期間を要する。

  • 荒節 水分量が20%前後と多く、削ったものは花鰹
  • 裸節 荒節のタールを削り落としたもので、関西ではこれを鰹節と呼ぶ
  • 上枯節 一番カビ付けされた「一番枯」
  • 本節 三番カビ付けされたもの
  • 本枯節 五番カビ付けし水分が14%前後となった最高級のもの

関東では、本枯や本鰹節を「鰹節」と称し、東西の味文化の差を生み出している[1]

社名の由来[編集]

にんべんの商標である“イ”の文字は創業時の屋号である「伊勢屋伊兵衛」に因み、堅実な商売を意味する鉤型と合わせている。「にんべん」という商標は江戸時代から使われていたといい、当時の町人らが親しみを込めて「伊勢屋伊兵衛」のことを「にんべん」と呼び始めたのが始まりだという。

また贈答品や高級品には「ミツカネにんべん」という“イ”を3つ重ねた商標があり、これはお客様、創る人、商いする人を指す。

歴代の社長は就任時に伊兵衛を襲名している。

沿革[編集]

前史[編集]

  • 寛永年間:高津家の家祖与次(治)兵衛が尾張国より伊勢国三重郡四日市中町(現・三重県四日市市中町)へ移り、雑穀・油・干鰯商を営む。
  • 延宝7年(1679年3月17日:創業者・初代高津伊兵衛(幼名:伊之助)、二代目髙津与次兵衛の次男として生まれる。にんべんではこの日を創業記念日とする。
  • 元禄4年(1691年):伊之助単身江戸に出て、日本橋小舟町一丁目(現・二丁目北西部)の雑穀商油屋太郎吉へ年季奉公に入る。
  • 元禄12年(1699年):独立し、青物町(現・日本橋一丁目11番、12番)甚右衛門の出店衆として、四日市河岸(現・日本橋一丁目9番)土手蔵前に戸板2,3枚を並べ、鰹節や塩干の販売を行う。にんべんはこれを以て創業とする。
  • 宝永元年(1704年):5年間で200両を貯め、江戸一の問屋街であった小舟町三丁目(現・一丁目南西部)に鰹節問屋を設ける。
鰹節のにんべん」 元禄12年(1699年)、初代高津伊兵衛が、日本橋四日市で、鰹節や塩干の販売を行ったのが始まりの鰹節問屋。代々当主は伊勢屋伊兵衛を名乗り、カギ印に「イ」の字の暖簾を掲げ「にんべん」と称した。天保(1830 - 44)の頃には国内初の商品券を発行。明治37年(1904年)、鰹節の供給を一手に引き受けるようになった。鰹節と書かれた熨斗袋(熨斗と紅白の水引が添えられている)の絵あり。瀬戸物町鰹節問屋高津伊兵衛」と書かれた紙片が書き写されている。 — 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「鰹節のにんべん」より抜粋[2]

初代(1705年 - 1724年)[編集]

  • 宝永2年(1705年):屋号を伊勢屋と定め、伊兵衛を名乗る。
  • 伊勢屋仁兵衛に資金を貸与する代わりに加賀藩前田綱紀の干肴御用を譲り受ける。
  • 宝永5年(1708年):前田綱紀三女敬姫と池田吉泰の婚礼・前田吉徳徳川綱吉養女松姫(因幡御前)の婚礼に際し、御用を与る。
  • 享保3年(1718年):大坂の須磨屋三郎右衛門・岩田屋喜兵衛からの仕入ルートを開拓する。
  • 享保5年(1720年)春:瀬戸物町(現在地)に出店、支配人に源兵衛を置く。
  • 越後屋などと同様「現金掛け値なし」商法を取り入れる。
  • 享保6年(1721年12月10日:大火で類焼し、土蔵造りに建て替える。以降関東大震災まで焼失を免れる。
  • 同業問屋4軒・仲買65名が結託して仕入の妨害を試みるが、予め大坂と熊野に在庫を取置き対抗する。
  • 享保7年(1722年):瀬戸物町店を本店と定め、小舟町店は源兵衛に与える。
  • 享保8年(1723年):前田吉徳の家督相続に際し、御用を与る。
  • 前田綱紀養女長姫(神田御前)と酒井忠寄の婚礼に際し、御用を与る。
  • 享保9年(1724年5月9日:初代伊兵衛が前田綱紀葬儀のため前田家中屋敷(現・文京区本駒込)に向かう途中中風に倒れる。以降経営が傾き始める。

二代(1724年 - 1749年)[編集]

  • 享保9年(1724年)5月:初代伊兵衛の急病を受け、長男長太郎が二代伊兵衛を襲名する。
  • 享保14年(1729年):初代伊兵衛が没する。
  • 享保15年(1730年1月3日:因幡御より、新年の進物用生鯛の値段付が悪いとして御用を外される。
  • 享保16年(1731年)2月:神田橋御門に出店し、大番頭清兵衛に委任する。
  • 元文元年(1736年)5月:売掛金回収が捗らず、清兵衛は賄賂で解決を図るが失敗し、二丁目の家守役に左遷される。
  • 元文2年(1737年6月15日:前田家から売掛金支払いの証文を取り付ける。
  • 元文5年(1740年):神田御前の生肴御用に復し、9月に前田宗辰松平正容娘の婚礼、冬に前田利章養女斐姫(広尾御前)と南部利雄の婚礼で御用を与る。
  • 寛保2年(1742年):経営分析を行い、店卸惣金高が最盛期の2割に縮小していることが判明する。
  • 番頭利兵衛はこれを受け、支出を27品目に分け各々限度額を設定した「冗長節約計画書」を定め、倹約に徹する。
  • 寛保3年(1743年3月11日:赤字の神田橋御門店を閉店する。
  • 延享2年(1745年):前田宗辰の家督相続に際し、御用を与る。
  • 寛延2年(1749年8月7日:二代伊兵衛死去。

三代(1749年 - 1777年)[編集]

  • 寛延2年(1749年)8月:二代伊兵衛の弟茂兵衛が三代伊兵衛を襲名する。
  • 宝暦10年(1760年)2月:宝暦の大火の被災者支援に大量の鏡餅を寄進し、福岡藩黒田継高より「二重石餅」の紋を下賜される。
  • 明和元年(1764年5月4日:伊勢屋のこれまでの業歴を『追遠訓』に纏める。
  • 安永2年(1773年):三代伊兵衛、遺言・後世への家訓として『遺囑』を著す。
  • 安永4年(1777年)4月:三代伊兵衛死去。

四代(1777年 - 1814年)[編集]

  • 安永4年(1777年)4月:三代伊兵衛の長女紋の入婿伊七が四代伊兵衛を襲名する。初めての血縁のない跡継ぎとなる。
  • 文化11年(1814年1月22日:四代伊兵衛死去。次男の太郎兵衛が五代伊兵衛を襲名する。

五代(1814年 - 1814年)[編集]

  • 文化11年(1814年)1月:四代伊兵衛の次男太郎兵衛が五代伊兵衛を襲名する。
  • 文化11年(1814年)5月9日:五代伊兵衛が襲名3ヶ月余りで急死する。

六代(1814年 - 1837年)[編集]

文化11年5月:急遽、奉公人で伊勢髙津家朝の婿佐兵衛が六代伊兵衛を襲名する。

  • 文化11年(1814年)6月:就業規則を詳細に規定した『見世取締仕㳒書』を制定する。
  • 文化12年(1815年):『家内年中行事』制定。
  • 天保元年(1830年)ごろ:国内初の商品券「預かり証」を発行(世界最古ともいわれる)。
  • 天保8年(1837年4月4日:六代伊兵衛死去。

七代(1837年 - 1849年)[編集]

  • 天保8年(1837年)4月:五代伊兵衛の長男太郎吉が七代伊兵衛を襲名する。
  • 天保15年(1844年5月18日江戸城本丸再建に際し幕府に千両を上納する。
  • 弘化3年(1846年):『新板大江戸長者鑑』で前頭中位とされる。
  • 嘉永2年(1849年6月9日:七代伊兵衛死去。

八代(1849年 - 1881年)[編集]

  • 嘉永2年(1849年)6月:七代伊兵衛の娘愛の婿吉憲が八代伊兵衛を襲名する。
  • 勘定奉行池田頼方より御用商人に取り立てられ、仙波太郎兵衛・中井新右衛門・鹿島清左衛門・後藤長左衛門と並び徳川五人衆と称される。
  • 安政元年(1854年):幕府に1500両を上納する。
  • 安政7年(1860年):『見世取締仕㳒書』下巻制定。
  • 明治維新により重要な顧客であった幕府や大名が解体し、苦境を迎える。
  • 明治14年(1881年12月8日:八代伊兵衛死去。

九代(1881年 - 1899年)[編集]

  • 明治14年(1881年)12月:八代伊兵衛の長女あやの婿善紹が九代伊兵衛を襲名する。

十代(1899年 - 1907年)[編集]

十一代(1907年 - 1970年)[編集]

  • 明治40年(1907年)4月:十代伊兵衛の長男義和が幼少にして十一代伊兵衛を襲名する。
  • 大正7年(1918年11月20日法人組織の「株式会社高津商店」となる。初代社長には十代伊兵衛の弟六平が就任する。
  • 大正10年(1921年) - 高津信託株式会社設立。
  • 大正12年(1923年9月1日関東大震災により、享保以来築200年以上の店舗が六代目の蒐集した書画諸共焼失する。
  • 大正12年(1923年)10月:社長高津六平が欧米視察から帰国し、現・文京区千石で営業を再開する。
  • 大正13年(1924年):瀬戸物町の店舗を再建し、制服を洋装とする。
  • 昭和6年(1931年):十一代伊兵衛が慶應義塾大学法学部を卒業し、第二代社長に就任。
  • 昭和16年(1941年):水産物配給統制規則が公布され、配給制となる。
  • 昭和19年(1944年):戦災により、店舗を焼失する。
  • 昭和23年(1948年3月17日:罹災した店舗を再建する。商号も「株式会社にんべん」とする。
  • 昭和26年(1951年):十一代伊兵衛が健康を損ね、八代伊兵衛の長男龍五郎の次男致道が第三代社長に就任する。
  • 昭和30年(1955年):十代伊兵衛の長女あさの婿農夫也が第四代社長に就任する。
  • 昭和30年(1955年)4月:伊勢丹本店志にせ街に出店。以降全国各地の百貨店に出店する。
  • 昭和37年(1962年2月15日工場竣工。
  • 昭和38年(1963年):十一代伊兵衛の妻倫子の弟照五郎が第五代社長に就任する。
  • 昭和38年(1963年):百貨店部門と問屋部門を分離する。
  • 昭和39年(1964年):つゆの素を開発。
  • 昭和44年(1969年5月1日:フレッシュパックを業界に先駆けて開発する。
  • 昭和45年(1970年4月4日:十一代伊兵衛死去。

十二代(1970年 - 2014年)[編集]

主な商品[編集]

スポンサー番組[編集]

  • めんつゆひとり飯 - 2023年4月期にBS松竹東急で放送されたテレビドラマ。OLがめんつゆを使用した時短レシピを開発し、劇中に主力商品の「つゆの素」が実名で登場する[4]

※過去にスポンサー提供した番組

日本橋だし場[編集]

「本物のだしの美味しさ」提供をテーマとし、汁物や料理を提供する飲食店日本橋だし場(にほんばし だしば)を運営している。2015年現在、日本橋本店イートインスペースを中心に計4店が展開されている[5]

出典[編集]

  1. ^ にんべん 大坂と江戸
  2. ^ 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「鰹節のにんべん」国立国会図書館蔵書、2018年2月11日閲覧
  3. ^ 高津伊兵衛氏が死去 にんべん会長 日本経済新聞 2014年2月17日
  4. ^ だし素材1.5倍使用したプレミアムタイプのめんつゆ「つゆの素ゴールド」発売20周年 CM・ドラマ・ Twitterキャンペーンスタート|ニュース|株式会社にんべん”. 株式会社にんべん. 株式会社にんべん (2023-03-014). 2023年4月11日閲覧。
  5. ^ 日本橋だし場|日本橋本店、株式会社にんべん、2015年9月5日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]