そごう徳島店

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
そごう徳島店
SOGO Tokushima
Tokushima Sogo02s3200.jpg
店舗概要
所在地 770-8511
徳島県徳島市寺島本町西一丁目5番地
座標 北緯34度4分24.6秒 東経134度32分56.8秒 / 北緯34.073500度 東経134.549111度 / 34.073500; 134.549111座標: 北緯34度4分24.6秒 東経134度32分56.8秒 / 北緯34.073500度 東経134.549111度 / 34.073500; 134.549111
開業日 1983年10月1日
施設所有者 株式会社そごう・西武
施設管理者 株式会社そごう・西武
商業施設面積 26,738 m²
前身 徳島そごう(旧称)
外部リンク そごう徳島店
SOGO
2階入口

そごう徳島店(そごうとくしまてん)は徳島県徳島市で営業する百貨店。株式会社そごう・西武が運営している。

そごうグループ破綻前の店名から、一般的には徳島そごうと呼ばれる。

徳島駅前再開発ビルアミコビル」のキーテナントとして入居している。

概要[編集]

徳島県内で唯一の百貨店である。そして、2013年3月にセブン-イレブン香川県と徳島県に出店するまではセブン&アイ・ホールディングスの店舗として唯一、四国にある店舗であった。

セブン&アイはこれまで四国に出店する方針ではなかったが、当時、そごうと西武百貨店を傘下に収めていたミレニアムリテイリングを買収した結果、すでに出店済みだったために自動的に店舗を所有することになった。

関西への消費流出による売り上げ減を食い止めるために、品揃えで太刀打ちできない嗜好的な高級品よりも、関西にわざわざ買いに行くのが面倒な「日常使い」の商品を充実させる戦略に出ている。

また、隣接するそごう神戸店との商品の連携を深めることで、関西に負けない商品やサービスの充実、コスト削減に取り組んでいる。

館内[編集]

  • RF - ペット用品と子どものフロア・ゲームセンター
  • 9F - 水の流れるレストラン街
  • 8F - こども服と文具・玩具のフロア・無印良品とくしまCITYからの移転)
  • 7F - 住まいと呉服のフロア
  • 6F - 紳士服飾と宝石・時計・めがねのフロア
  • 5F - エレガントな婦人服とスポーツのフロア
  • 4F - コンテンポラリーな婦人服のフロア
  • 3F - コンテンポラリーな婦人服のフロア
  • 2F - おしゃれ雑貨のフロア・徳島名店街への連絡通路
  • 1F - ヤングファッションのフロア・正面入口
  • B1F - 大フードセンター
  • B2F - 駐車場

歴史[編集]

1983年JR徳島駅前に「徳島そごう」として開店。店舗面積は約26,738m2で、百貨店として四国最大の規模を誇り、開店時のキャッチフレーズは「徳島が生んだ四国一の百貨店」であった(しかしその後いよてつそごう(現伊予鉄高島屋・松山市)や高松三越(高松市)の大規模な増床により、現在は四国第3位の面積となっている)。

当時、徳島県内に百貨店は徳島市には東新町の「丸新百貨店」と元町の「つぼみや」(1986年に閉店。その後「徳島ビブレ」を経て、「ラスタ徳島」(複合商業ビル)となったが、2003年に閉店、しばらく空ビルとなっていたが、解体され現在は駐車場)という地元資本による店舗があったが、店舗面積はそれぞれ7,898m2、9,415m2と小規模であり、商品・サービスも大手百貨店に比べると見劣りするものであった。

徳島そごうの開店は徳島市、徳島県内の商業施設の充実、関西や香川県への消費流出の減少をもたらしたが、一方で既存の地元資本の店舗に打撃を与え、丸新とつぼみやは閉店に追い込まれた。また、徳島市の中心市街地にも大きな変化を及ぼし、それまで丸新、ダイエーなどが立地し県内一の商業集積地として賑わいを見せた東新町は衰退し、徳島駅前の方が賑わうようになった。

開店以来、これまで特に大規模な改装等は行われてこなかったが、1998年の明石海峡大橋開通以降、関西方面への消費流出が顕著になってきたことから、2006年春より半年に1回のペースで各フロアの全面改装を開始。2007年11月には、2 - 5階の全フロアと地下1階の一部フロアの改装が完了した。

売上のピークは1992年(444億円)である。(2006年には半減している)

開店までの経緯[編集]

アミコ専門店街のある徳島駅前西地区にはかつて徳島市立内町小学校が広大な面積を有して立地していた。そのため商業施設が少なく県都の表玄関である徳島駅前にしては賑わいに欠け、歩行者通行量(午前8時 - 午後6時、1973年、徳島商工会議所調査)では東地区の元町商店街が18,000人に対して、駅前通りを挟んだ西地区の元町商店街は2,500人しかなかった。

1963年、内町小を移転し、その跡地に再開発ビルを建設するという計画が徳島市や地元地権者の間で持ち上がった。1972年に徳島商工会議所がまとめた徳島商業近代化計画で、中心市街地を駅前地区と新町地区を2つの核として整備、発展させるという「2眼レフ構想」が立てられ、駅前西地区の再開発が現実味を帯びてくる。

1977年、山本潤造市長は再開発事業を最重要施策に位置付け、その後市を中心とした地権者が徳島駅西地区市街地再開発準備組合を設立、さらに79年冬には徳島都市開発株式会社が創立し、キーテナント探しや地元商業者との折衝が行われた。このときの計画では、ビルは地下3階、地上15階建て、延べ床面積は90,560m2と、現ビルの倍近い規模のものであった。のちの調査で地盤が軟弱であることが分かり、縮小された。キーテナントのデパートの面積は約20,000m2が想定された。

地元商業者からは計画への反対意見が相次いだものの、徳島県消費者団体連合会の意識調査で、回答者の79%が再開発事業に賛成で、デパート希望者の83%が都市型有名デパート誘致を望んでいるという結果が出て、消団連は再開発ビル早期建設を訴え市長に陳情した。地権者の大半も有名デパート誘致に積極的になった。

地元の丸新百貨店は、有名デパートの進出に危機感を覚え、もし進出すれば経営基盤が揺らぎかねないとして、1978年秋から組合に対して再開発ビルにキーテナントとして入居する意向を示した。しかし、権利金や内装費など、入居までには総額100億円ほどの投資が必要であるうえ、入居後の売上が年間200億円はなければ採算ベースに乗らないことが予想され、年商100億円ほどの丸新にとって単独での出店は負担が大きすぎた。さらに有名デパート入居を求める声が高まっていたため、大手百貨店との共同出店を検討することとなった。

丸新は関係の深かった大丸(現:大丸松坂屋百貨店)に共同出店を要請したが、当時大丸は大阪駅前の大規模な再開発計画に参画しており、徳島へ投資する余裕はないとしてこれを拒否。再開発ビルへの単独出店を目指していたそごうに共同出店するよう求め、仲介役を山本市長が担った。

そごうと丸新の交渉は1979年4月に始まり、店名は徳島そごう、営業権はそごうが取ることで合意したが、両者が出資比率の過半数を取りたいと主張したため対立、山本市長は両者に最終斡旋案を示したものの、その案でも丸新の出資比率は49%と過半数を取れていなかったため、丸新側が斡旋案を拒否し、交渉は決裂。7月にそごう単独出店が決定した。丸新の西谷社長は「そごうに迎合した斡旋案で、これを認めれば永年かけて築いてきた地盤が大手資本に乗っ取られる。市側はそごうに断られると後がないと言っているが、そごう以外の都市型デパートに広く出店を求めたことがあるのか。最初からそごうにのめりこみ、そごうからいいなりの条件を提示されたとしか考えられない。」と市や市長を批判した。これに対し市長は「市民が都市型デパートを望んでいる限り、そごう有利の条件を提示せざるを得ない。」と主張した。

丸新はその後、西武百貨店(現・そごう・西武)との提携、テナントの一新など、徳島そごうに対抗して様々な戦略に出たが、売り上げは減り続け、1995年3月に閉店した。閉店年度1994年度の売り上げはそごう出店前のほぼ半分の約50億円になっていた。

そごう開店日の買い物客は約15万人、売り上げは3億5000万円にのぼった。開店後しばらくの間は波及効果が駅前の商業施設だけでなく新町地区にも及び、郊外店の増加を受けて減少を続けていた通行量も一時的に増加した。しかし、効果は長続きせず、結局は丸新の閉店などで衰退に拍車がかかっただけだった。東新町の通行量(丸新前)はそごう開店前の1979年の平日に約16,000人、休日に約30,000人あったものが、平成19年の調査では平日約2,000人、休日約1,600人にまで減少している。

参考文献[編集]

  • かずかずの出会いに感謝をこめて 徳島そごう15年のあゆみ 徳島そごう、平成10年10月1日発行
  • 徳島新聞朝刊昭和54年3月5日付
  • 徳島新聞朝刊昭和54年3月12日付
  • 徳島新聞朝刊昭和54年7月17日付

外部リンク[編集]