ぜんじろう

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ぜんじろう
本名 金谷 善二郎[1]
(かなたに ぜんじろう)
生年月日 (1968-01-30) 1968年1月30日(50歳)
出身地 日本の旗 日本兵庫県姫路市
血液型 B型
身長 170cm
言語 日本語
最終学歴 大阪芸術大学芸術学部
デザイン学科中退
師匠 上岡龍太郎
出身 NSC5期生
コンビ名 月亭かなめ・ぜんじろう1988年 - 1989年
グループ名 しねしね団(後の吉本印天然素材
事務所 吉本興業
活動時期 1986年 -
同期 辻本茂雄
前田勝(ティーアップ)
木村祐一
東野幸治
公式サイト ZENJIRO.COM
受賞歴
1998年:第5回 L.A.Comedy Store Stand Up Competition 第2位及びモストユニーク賞受賞

ぜんじろう1968年1月30日 - )は、日本お笑いタレント。本名、金谷 善二郎(かなたに ぜんじろう)。

兵庫県姫路市出身吉本興業所属。兵庫県立姫路南高等学校卒業、大阪芸術大学芸術学部デザイン学科中退。上岡龍太郎弟子

来歴[編集]

デビュー前[編集]

高校在学時、「親元から離れたい」という思いがあり、仕送りを貰いながら、独り暮らしのできる生活環境を望んで、大学進学を希望。大阪芸術大学デザイン学科を受験したが、高校時の成績は、451人中451番であった為、本人も合格するとは真剣に思っておらず、入試の日まで、大学がどこにあるのかも知らなかった。その為か、入試会場に遅刻する事になる。 花瓶を描くという実技試験の内容に対し、「なんかどうでもええわ。ようわからんし、適当に描いとこ」と花瓶のみならず、教室全体までも絵にして提出した。だが、この適当な行為が良い方向に転じる。

面接試験時、その絵を観た面接官教授から「なぜ、周りの風景も書いたのか?」と問われ、「見る物全てが芸術ですから」と、咄嗟に、適当なそれらしい言葉でかえした。 すると、その答えに納得した様子の教授から「いつから、絵を?」と尋ねられ、「2の時スペインに行ってからです」という嘘で答えた。 教授は「私と同じだ!」と驚き、面接試験は合格となり、同校の入学試験に合格したという。

しかし、この口ひとつで勝ち取った大学合格も、同校を入学後、わずか2日で退学している。

本人のインタビューによると、「ハナからデザインに興味などないので、大学に通う気はなかったんです。大阪芸大が、あんな山の中にある事に驚きましたしね。親が大学に支払う授業料も欲しくなって、自分の懐に入るように細工してました。おかげで、仕送りも含めて、結構なお金を持ってたんです。親にバレるまで、悠々自適の生活でした。ヒドイ話ですけどね」との事である。

その悠々自適生活の時期、大阪にて友人と遊んでいた時、偶然上岡龍太郎を見かけたのだが、ぜんじろうとその友人は、上岡を浜村淳と間違えていた。 上岡をチラチラと見ながら「浜村淳や」「あれ? 浜村淳とちゃうんちゃうか?」などと言っているうちに、その様子を見かねた上岡の方から「君ら、僕と握手したいんか?」と声を掛けてきた。これが上岡との初めての出会いであった。

その後また偶然上岡に会う機会があり、「また君か。これは何かの縁やな」とお茶に誘われ、一緒にお茶を飲む事になる。極限の緊張の中、ウケ狙いで上岡に「弟子にして下さい」と言った所、上岡は「ええよ」と承諾した。 「断られるだろうと思って言ったのに、何も知らん僕みたいなのを受け入れてくれた。感激して、そのまま、本当に弟子にして頂いたんです」というのが、ぜんじろうの語る“上岡の弟子になった経緯”である。 

若手時代[編集]

弟子修行時代を経て、吉本興業に所属。関西ローカルテレビ番組『気分はジャマイカ』に出演。この当時は、自分を吉本にスカウトした人物からの指示でラッキーぜんじろうと名乗らされていた。

その後、ぜんじろうに改名し、同事務所の月亭かなめと漫才コンビかなめ・ぜんじろうを結成。コンビ結成から、わずか4日後に開催された1988年、第9回今宮子供えびすマンザイ新人コンクールに出場し、福笑い大賞を受賞した。

翌年の1989年芸人登竜門である第10回ABCお笑いグランプリに出場。優勝候補大本命だった130R板尾創路ほんこん)を押しのけて、最優秀新人賞を受賞し、突如、関西若手芸人のトップグループに位置した。 林正之助吉本興業会長が、この生放送の彼らの漫才を観て「エンタツアチャコの再来じゃ!」とまでに絶賛した。 1989年第24回上方漫才大賞 新人奨励賞を受賞。なお、この年度の上方漫才大賞受賞者はダウンタウンで、奨励賞はトミーズであった。更に、同年の第18回上方お笑い大賞では、銀賞を受賞するなど、芸人として大きく期待される存在となった。

だが、程なくして、かなめ・ぜんじろうは解散してしまう。解散理由は、急激に成功した反動のプレッシャーで、かなめが神経を疲労させた為であった。かくして、ぜんじろうは、再びピン芸人としての活動を開始する。

コンビ解散後のぜんじろうは、深夜のラジオ番組の仕事をメインに活動を行うが、当時レギュラーだった深夜ラジオ番組『ぜんじろうの真夜なかん!かん!』にて、ぜんじろうは、自分独自の過激な笑いを追及し、何度も暴走を続けてしまう。結果、番組共演者や制作スタッフ達に疎んじられ、彼らに番組を辞められてしまう事態を招き、ぜんじろうは、事務所から得ていた好評価を急激に落としてしまった。

このラジオ番組の仕事と並行して、心斎橋筋2丁目劇場ステージにも出ていたが、当時のこの舞台は、関西若手芸人にとって難しい舞台だった。2丁目劇場の客層筋は、主に若い女性達だったが、彼女達は、”ダウンタウンと、ダウンタウンと絡む事が多い芸人達”を観る事だけを目当てに来場しており、ダウンタウンと絡む事がない芸人の出番に対しては、あからさまに失礼な態度をとった。出番と同時にトイレに立ち上がる、お菓子を食べながら漫画や文庫本を読み出す、隣人とお喋りをはじめるなどの行為である。このように、彼女達は舞台上に出てきた”ダウンタウンと関係のない芸人達”を徹底的に冷遇した。ぜんじろうも、この「彼女達に無視をされる」芸人の一人であった。

この女性客達の態度に憤慨したぜんじろうは、出番上で不遇の扱いを受けた芸人同士によるユニットしねしね団を発案、結成する。これが後に、ナインティナイン雨上がり決死隊など、テレビ界を席巻する人気者達のいた集団吉本印天然素材へと発展する流れになっていくのだが、このユニットを、いずれダンスがメインのアイドル芸人グループとして売り出そうと考えた事務所の方針に異議を唱えた結果、ユニット発案者のぜんじろうが、ユニットのメンバーから外されてしまった。

その後は、再びラジオ番組の仕事のみという活動状況に戻り、主だったテレビや舞台の仕事もなく、事務所との溝も埋まらずじまいのままであった。ぜんじろうの不遇状況を見かねた大崎洋の薦めにより、ぜんじろうは、以後しばらくラッパーとして活動する。 月亭可朝コミックソング嘆きのボイン」のカバーに携わったり、ラジオ番組のヘビーリスナーに、外国人タレントを呼ぶイベント会社の人物がいた関係から、アイス・キューブ前座を務めたりするなど、稀有な経験をしている。

全国区進出[編集]

1992年、突如毎日放送から関西ローカルのテレビ番組『テレビのツボ』の司会の話が持ちあがり、ぜんじろうは、大桃美代子藤岡久美子とコンビを組んで、司会者として活動を開始する。 有名どころでは、若き日の藤井隆も出演していたテレビのツボは、「放送時間はド深夜」「超低予算の手作りセット」「破格に安いギャラ」という悪条件が揃っていたが、徐々に若者人気を博していき、結果、テレビのツボは、関西一円での人気番組となった。 このテレビのツボの成功によって、毎日放送は、月曜日から金曜日の夕方16時~17時の時間帯にて、ぜんじろうをメイン司会に起用し、同じく大桃美代子・藤岡久美子とコンビを組ませて、屋台の目ぇという情報番組を開始した。

この結果、ぜんじろうは、「関西地方ローカルにて、毎日、夕方と深夜にテレビ出演しているタレント」となり、抜群の知名度を得て、人気タレントの仲間入りを果たし、やしきたかじんや島田紳助といった超大物が仕切る関西ローカル番組に呼ばれる事が多くなっていった。 島田紳助からは直々に「ぜんじろう君、聞いてくれ。今の俺には、若者を惹きつける力が足りない。だから、君の力が必要なんや」と、自身が司会を務める人間マンダラへのレギュラー出演依頼を口説かれるほどであった。 もっとも、紳助はすぐにぜんじろうのタレント資質を見抜いたようで、人間マンダラの草野球企画にて、ぜんじろうがライト前に打球がポトリとおちるポテンヒットを放つと、紳助は「ぜんじろう!お前が芸能界を生き抜くのも、それしかない!短く持って、ライト前へポテンヒットや!」と笑いながら叫んでいたが。

だが、ぜんじろうのブレイクは大きいもので、吉本興業と毎日放送から「平成の明石家さんま」という触れ込みで大々的に売り出された。全盛時のレギュラー本数は17本。彼の知名度が関西で異様に高いのは、この時の活躍が華々しかったからである。 かくして1995年から、関西ローカルの仕事を少し減らし、『超天才・たけしの元気が出るテレビ!!』や『ぜぜぜのぜんじろう』など全国ネットの仕事を何本かレギュラーで持つようになった。 その為に、大阪吉本から東京吉本へと移籍し、主に東京での仕事をメインに考え、関西ローカルの仕事がある時だけ、大阪へ戻るというスタイルを取るようになった。

この判断が、後々、ぜんじろうのタレント運命を大きく分ける事になる。

東京の業界人が求めるものと、ぜんじろうの資質との間には元々大きなギャップがあったことから[2]、東京で抱えた番組は全て降板する事になった。 「関西で成功したぜんじろうに、東京のテレビマンは、何をさせたらいいのかよくわからなかった」のである。「関西で司会者として大成功しているらしい」という前評判だけがあり、ぜんじろうのスタイルがわからなかった。 「平成の明石家さんま」という触れ込みから、さんまのように上手に回していくMCスタイルなのだろうと思われ、その手の仕事を割り振られたものの、うまくいかなかった。 「上岡龍太郎の弟子」なのだから、知性のある毒舌スタイルなのだろう、とそういう役割を期待された仕事もあったが、それもハマらなかった。

当時のぜんじろうには「あかん。仕事がうまくいかへん」という自覚が強くあったが、東京吉本に移籍してきて結果を出したい焦りと、自分についたマネージャーが新人だったという事もあり、自分に来た仕事を全て受けてしまった。 関西のぜんじろうは「気さく、明るく、よく喋る、親近感のあるお兄ちゃんキャラ」だが、これが東京では「馴れ馴れしい、はしゃぎすぎ、うるさい人」という低評価になり、ぜんじろう自身、東京に対するアウェー感も拭えず、空回りを続けた。

東京進出も最終的には、ぜんじろうは、テレビ局に入ると、すぐに楽屋入りして、ひたすら1人で引きこもり、出番までは誰とも一切コミュニケーションをとらないように行動し、出番を終えたら、すぐに帰宅して自宅に引きこもるという状態に陥る。 やがて、ナインティナイン・ロンドンブーツ1号2号という、若者を強力に引き寄せる人気者が現れ、ぜんじろうは、東京のテレビから消えた。

1998年以降の活動[編集]

アメリカに一生住んでジャパニーズ・アメリカンになってもいい覚悟で1998年からは活動の場を海外へと移した。向かった先は、まずは、ニューヨークロサンゼルス、その後シカゴのChicago Comedy Festivalでプロデューサーに見い出されシカゴに拠点を置く。

1999年、NewZealand Comedy Festivalに正式招待。

2000年NHK教育はじめよう英会話 松本茂のスタンダード40』がスタート。また、映画『PP兄弟』に出演し、スティーヴン・セガールの実子・剣太郎セガールとともに兄弟漫才コンビ役を演じた。この映画は、翌2001年サンダンス映画祭などに出品された。

2001年、この頃から日本に戻って仕事をし、海外での仕事は日本から出向く。

2002年北米コメディフェスティバルJust for Laughsに正式招待。TV Galaに出演する。

2003年には海外のComedy festivalの経験を日本に輸入し、フジテレビ主催のTokyo International Comedy Festivalの企画を推薦。(2年で終了) オランダのテレビ番組『laynsman is late』やアメリカのTVHBOの番組『Stand up night』に出演、台湾で『善二郎公演』の単独ライブも行う。

2004年には。アメリカ人のコメディアン マイケル・ネイシュタットと日米合作コンビ、すしぶらざーずで漫才なども行う(現在相方のマイケルはロサンゼルスのSecond Cityという即興のコメディーグループでコメディアンとして活動中の為すしぶらざーずの活動は、2008年より一旦休止)。また、Sweden TV『late night』にゲスト出演。

日本国内では毎月1回の定期公演を開催したり、吉本興業主催のピン芸コンクールR-1ぐらんぷりに出場したりしている。また、高校時代の後輩でもある種浦マサオとともに、芸人・ミュージシャンと、枠を超えた活動を展開。

2005年からは「外に出向く事より日本の内に向けた事」に興味が湧き、インターネットからデジゼンといったWeb上のトークも個人発信する。NEC製の自立型のパーソナルロボットPaPeRo 2005パペじろうと漫才を始める。それによって障害者ニュースにも取り上げられる。

2006年頃からはロボットと漫才をする事により「笑いのシステム」や「間と空気」などアカデミックな活動に興味を持ち、学会や研究発表にも国内外を問わず参加。 オーストリアシンガポールオーストラリア韓国フランスなどからオファーをうけ、ロボットとの公演や「笑いとロボット」などの講演を行っている。

2009年には村上ショージややウケちょいウケなるコンビを結成して活動。

ブログTwitterYouTubeなどのインターネットメディアを活用することも多く、現在、日々の活動内容の一般公開はこれらを通じて行っている。また毎週土曜日の12時〜自宅よりzenjiro showという番組をUstreamより生配信している。

受賞歴[編集]

月亭かなめ・ぜんじろうとして

ピン芸人として

出演[編集]

テレビ番組[編集]

海外でのテレビ番組[編集]

  • Gala(1999年)New zealandTV ニュージーランド - ネタ出演。
  • Stand up night(2001年)Chicago CATV アメリカ - ネタ出演。
  • Lee Evans show (2002年)Ireland TV アイルランド - ネタ出演。
  • Comedy night(2003年)Channel2 オーストラリア - ネタ出演。
  • Comedy olympic(2003年)Channel4 イギリス - ネタ出演。
  • Raymond Is Laat(2003年)Dutch TV4 オランダ - ネタ出演。
  • stand up night(2003年)HBO アメリカ - ネタ出演
  • late night(2005年)SwedenTV スウェーデン - すしぶらざーずで出演。
  • Japanorama(2006年)BBC イギリス - ロボットと出演。
  • Comedy zone(2006年)Denmark channel2 デンマーク - ゲスト出演。
  • World of comedy(2006年)Sweden TV スウェーデン - ゲスト出演。
  • Republic of Singapore(2007年)CH2 シンガポール - インタビュー出演。
  • ASTROBOY A ROBOLAND(2008年)フランス マルク・キャロ監督 - ロボットと出演。
  • Turning Japanese(2011年)BBC5 イギリス - Justin Collins showと共演。

ラジオ番組[編集]

映画[編集]

Vシネマ[編集]

CM[編集]

国内CM[編集]

海外CM[編集]

アニメ[編集]

ゲーム[編集]

新聞[編集]

楽曲[編集]

ディスコグラフィ[編集]

コーラス参加[編集]

詩提供[編集]

著書[編集]

自著[編集]

寄稿[編集]

脚注[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]