じゃじゃ馬ならし

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『じゃじゃ馬ならし』 オーガスタス・エッグ英語版

じゃじゃ馬ならし』(英原題The Taming of the Shrew)は、ウィリアム・シェイクスピアによる喜劇。シェイクスピアの初期の戯曲の1つであり、1594年に執筆されたと考えられている。

しばしば「インダクション」と呼ばれる導入部分がついた枠物語としてはじまる芝居であり、ここではいたずら好きな貴人がクリストファー・スライという名の酔っ払った鋳掛屋をだまして、スライ自身が実は貴族なのだと信じさせようとする。この貴人はスライの気晴らしのために芝居を上演させる。

主筋はペトルーチオがかたくなで強情なじゃじゃ馬キャタリーナに求愛する様子を描くものである。最初はキャタリーナはこの関係に気乗りがしないが、ペトルーチオは食べさせない、眠らせないといったさまざまなやり方で相手を心理的に苦しめて、キャタリーナを望ましく従順でおとなしい花嫁にする。脇筋はキャタリーナの妹で「理想的な」女性に見えるビアンカをめぐる求婚者たちの争いを描く。この芝居がミソジニー的かそうでないかについては、とくに現代の研究者、観客、読者のあいだでも非常に議論がある。

『じゃじゃ馬ならし』は何度も映画、オペラ、バレエ、ミュージカルなどに翻案されている。最も有名なのはおそらくコール・ポーターの『キス・ミー・ケイト』と、エリザベス・テイラーリチャード・バートンが主演した1967年の映画版『じゃじゃ馬ならし』である。1999年に作られた高校を舞台にするコメディ映画『恋のからさわぎ』もこの戯曲を翻案したものである。

登場人物[編集]

2003年にフォレスト・シアターで行われたカーメル・シェイクスピア・フェスティヴァルの上演におけるペトルーチオ(ケヴィン・ブラック)とキャタリーナ(エミリー・ジョーダン) 。
  • キャタリーナ (ケイト)・ミノーラ - タイトルロールの「じゃじゃ馬」
  • ビアンカ・ミノーラ – キャタリーナの妹
  • バプティスタ・ミノーラ - キャタリーナとビアンカの父
  • ペトルーチオ – キャタリーナの婚約者
  • グレミオ – ビアンカの求婚者
  • ルーセンシオ – ビアンカの求婚者
  • ホーテンシオ – – ビアンカの求婚者、ペトルーチオの友人
  • グルーミオ – ペトルーチオの召使い
  • トラーニオ – ルーセンシオの召使い
  • ビオンデッロ – ルーセンシオの召使い
  • ヴィンセンシオ – ルーセンシオの父
  • 寡婦 – ホーテンシオが求婚している相手
  • 教師 – ヴィンセンシオのふりをする男
  • 帽子屋
  • 仕立屋
  • カーティス – ペトルーチオの召使い
  • ナサニエル – ペトルーチオの召使い
  • ジョセフ – ペトルーチオの召使い
  • ピーター – ペトルーチオの召使い
  • ニコラス – ペトルーチオの召使い
  • フィリップ – ペトルーチオの召使い
  • 役人

導入部に登場するキャラクター

  • クリストファー・スライ – 酔っ払いの鋳掛け屋
  • 居酒屋のおかみ
  • 貴族 – スライにいたずらを仕掛ける人物
  • バーソロミュー – 貴族に使える小姓
  • 猟犬係
  • 役者たち
  • 召使い
  • 使者

あらすじ[編集]

第1幕の前に、クリストファー・スライという名の酔っ払いを中心人物として、この芝居は「昔の出来事」であると解説する導入部分が語られる。スライは飲み代を払わないために酒場から蹴り出され、外で寝込んでいるところに悪戯好きの領主が通りかかる。この領主は、哀れな酔っぱらいに、スライ自身が領主であると思い込ませようと巧妙な悪戯を仕掛ける。その最中で劇中劇が演じられ、それが以下の部分となるが、この導入部分はあまり上演されない。

エドワード・ロバート・ヒューズによる「じゃじゃ馬ならし」(1898)

タイトルにもなっている「じゃじゃ馬」は、パドヴァの商人バプティスタ・ミノーラの長女カタリーナ・ミノーラを指している。彼女は極端に熱しやすい性格で、誰も彼女を制御することはできなかった。例えばある場面では、彼女は妹を椅子に縛り付けているし、別の場面では音楽の先生を楽器で殴りつけている。

対して、妹のビアンカ・ミノーラは美しくて大人しい性格で、街の貴族の男たちの人気者である。バプティスタはカタリーナが結婚するまではビアンカを結婚させないと誓う。ビアンカには何人かの求婚者がいたが、そのうちの2人が結託し、ビアンカを自由に取り合いできるよう、姉のカタリーナを結婚させてしまおうと画策する。一方の求婚者グレミオは年を取っていて陰鬱、もう一方のホルテンシオは若くて威勢がいい。

この作戦は、2人のよそ者ペトルーキオとルーセンシオが街に現れたことで複雑になる。ルーセンシオはピサの裕福な商人の息子で、ビアンカに一目ぼれする。一方ヴェローナの紳士ペトルーキオはお金しか眼中にない。

バプティスタがビアンカには先生が必要だと言ったとき、2人の求婚者がその願いをかなえるべく、競って先生を探す。グレミオは、ビアンカを口説く目的で知識人を装っていたルーセンシオに行き会う。ホルテンシオは自分自身で音楽家に変装し、音楽教師としてバプティスタの前に現れる。こうしてルーセンシオとホルテンシオは教師のふりをして、彼女の父に隠れてビアンカを口説こうとする。

その頃ペトルーキオは、カタリーナと結婚したときに持参金として手に入る広大な土地のことを求婚者たちから聞かされる。彼は乱暴者のカタリーナを口説き、彼女の意志は無視して、ケイトと呼び、結婚とその持参金を決めてしまう。と同時に、彼は新妻を「馴らし」始める。彼女から睡眠を取り上げ、食事をさせない理由をでっち上げ、美しい服を買い与えてはズタズタに切り裂いてしまう。カタリーナはその体験にあまりに動揺したので、ビアンカの結婚式のためにパドヴァへ戻ろうと聞かされたときには、あまりに幸せで返事ができないぐらいであった。彼らがパドヴァに着くまでに、カタリーナの調教は完了しており、もはや彼女はペトルーキオに逆らうことはなかった。彼女は、ペトルーキオがそうしろと言えば太陽を月と呼び、月を太陽と言って、完全に服従したことを示した。

(ルーセンシオが先生をしている間、彼の召使いが主人の振りをするといった複雑な挿話のあと)ビアンカはルーセンシオと結婚することになる。ホルテンシオはビアンカを諦め、金持ちの未亡人と結婚。宴会の間に、ペトルーキオは自分の妻を、以前は手が付けられなかったが今では従順だと言って自慢した。ペトルーキオは、それぞれの妻を呼びに召使いを遣って、妻が最も従順にやってきたものが賭け金を取るという賭けを申し出た。バプティスタは、じゃじゃ馬のカタリーナが従順になったとは信じなかったので、賭け金に加えて巨額の追加の持参金を申し出た。

カタリーナはただ一人呼び出しに応じて、ペトルーキオに追加の持参金を勝ち取らせた。劇の終わりに、他の2人の妻が呼び出された後、カタリーナは妻は常に夫に従うべきだという演説をする。

 執筆年代[編集]

1631年に刊行されたA Wittie and Pleasant Comedie Called The Taming of the Shrewの第一クォートのタイトルページ。

この戯曲の執筆年代を特定するための努力はなされているが、ほとんど同じプロットで台詞やキャラクターの名前が異なるA Pleasant Conceited Historie, called the taming of a Shrew(以下『ジャジャ馬ならし』と表記)という芝居があるため、確定が困難になっている[1]。『じゃじゃ馬ならし』と『ジャジャ馬ならし』の正確な関係はわかっていない。さまざまな説があり、『ジャジャ馬ならし』が『じゃじゃ馬ならし』の上演を記憶で再現したテクストであるという仮説、『じゃじゃ馬ならし』が『ジャジャ馬ならし』の原典ではないかという仮説、『ジャジャ馬ならし』が『じゃじゃ馬ならし』の初期原稿(おそらくは記憶で再現されたもの)ではないかという仮説、『ジャジャ馬ならし』が『じゃじゃ馬ならし』の翻案ではないかという仮説などがある[2]。『ジャジャ馬ならし』は1594年5月2日に書籍出版業組合記録に登録されている[3]。これは2つの戯曲の関係がどのようなものであれ、『じゃじゃ馬ならし』はおそらく1590年(シェイクスピアがロンドンに着いた頃)から1594年(『ジャジャ馬ならし』の登録の時期)までに書かれたことを示唆している[4]

しかしながらもっと年代を絞ることも可能である。ト書きに「サイモン」("Simon")への言及があり、おそらく1592年8月21日に埋葬された役者サイモン・ジェウェルを指していると考えられるため、『ジャジャ馬ならし』が書かれた可能性がある最も遅い時期は1592年8月であると考えられる[5]。さらにアンソニー・シュートのBeauty Dishonoured, written under the title of Shore's wife(1593年6月発行)に『じゃじゃ馬ならし』のケイトに言及したと思われる箇所があるため、『じゃじゃ馬ならし』は1593年より前に書かれたと考えられる[6]。じゃじゃ馬の戯曲2本ともに、著者不明の芝居『悪党を見分けるコツ』(A Knack to Know a Knave、1592年にローズ座で初演)に似た言葉遣いが見受けられ、また『じゃじゃ馬ならし』にしかないいくつかのパッセージを借用している。このため、『じゃじゃ馬ならし』は1592年6月より前に初演されたと考えられる[5]

1982年のオックスフォード版シェイクスピア全集におさめられた『じゃじゃ馬ならし』について、H・J・オリヴァーはこの芝居は1592年までに書かれたと示唆している。これは『ジャジャ馬ならし』のタイトルページで、劇がペンブルック伯一座により「何度も」演じられたと書かれていることをもとにしている。ロンドンの劇場は1592年6月23日にペストの流行で閉鎖されており、ペンブルック伯一座はバースとラドローに地方巡業に行っていた。従業は金銭的な損失をもたらし、劇団は9月28日にロンドンに戻ってきたが結局破産してしまった。それから3年の間に、ペンブルック伯一座の名前をタイトルページにつけた戯曲が4本刊行された。クリストファー・マーロウの『エドワード2世』(1593年7月にクォート版で刊行)、シェイクスピアの『タイタス・アンドロニカス』(1594年にクォート版で刊行)、『ヨーク公リチャードの真の悲劇』(1595年にオクターヴォ版で刊行)、『ジャジャ馬ならし』(1594年5月にクォート版で刊行)である。オリヴァーはこうした刊行物が、ツアー失敗の後に破産したペンブルック伯一座のメンバーにより売却されたと考えるのが「自然な推定」だと述べている。オリヴァーは『ジャジャ馬ならし』は『じゃじゃ馬ならし』の記憶により再現だと考えている[7]

アン・トンプソンは1984年及び2003年の『じゃじゃ馬ならし』ニュー・ケンブリッジ版シェイクスピアで、『ジャジャ馬ならし』は記憶に頼った再現だという考えを述べている。1592年6月23日の劇場閉鎖に注目し、「サイモン」についてのト書き、アンソニー・シュートによる言及、『悪党を見分けるコツ』との類似などを理由に、『じゃじゃ馬ならし』は1592年6月より前に描かれ、このせいで『ジャジャ馬ならし』ができたのだと主張している[8]。スティーヴン・ロイ・ミラーは1998年のニュー・ケンブリッジ版シェイクスピアにおさめられた『ジャジャ馬ならし』で、1591年末から1592年初頭という執筆年代推定に賛同し、『じゃじゃ馬ならし』が『ジャジャ馬ならし』に先んずると考えているが、翻案や書き直しだという説をとり、記憶に頼った再現だという説は否定している[9]

しかしながらキア・イーラムは、シェイクスピアがおそらくアブラハム・オルテリウスの『世界の舞台』第4版におさめられたイタリアの地図と、ジョン・フローリオの『第二の果実』を種本に用いたと考え、この2冊が出版された1591年を『じゃじゃ馬ならし』が書かれた可能性がある最も早い時期だと主張している[10]。第一に、シェイクスピアはパドヴァヴェネト州ではなくロンバルディア州だとする間違いをおかしており、これはおそらくイタリアの北部全体に「ロンバルディア」と書かれているオルテリウスの地図を使ったためのものである。第二に、イーラムはシェイクスピアが台詞の一部をフローリオによるイタリアの言語と文化のバイリンガル入門書『第二の果実』からとってきたと示唆している。

 テクスト[編集]

1623年のファースト・フォリオに入っている『じゃじゃ馬ならし』の最初のページ。

1594年、印刷業者のピーター・ショートが『ジャジャ馬ならし』のクォート版を出版者のカスバート・バービーのため印刷した[11]。1596年に同じ印刷業者と出版者により再版された[11]。1607年には印刷業者ヴァレンタイン・シムズが出版者ニコラス・リングのためこのテクストを印刷した[12]。『じゃじゃ馬ならし』は1623年にファースト・フォリオが出るまで印刷されたことはなかった[13]。『じゃじゃ馬ならし』唯一のクォート版は1631年に印刷業者のウィリアム・スタンズビーが出版者ジョン・スメズウィックのため印刷したもので、1623年のフォリオ版に基づいたA Wittie and Pleasant comedie called The Taming of the Shrewという書籍であった[14]。書誌学者のW・W・グレッグは、著作権においては『ジャジャ馬ならし』と『じゃじゃ馬ならし』 は同一テクストと見なされていたこと、つまり片方のテクストの権利保持者がもう片方の権利も持っていたことを示している。すなわち、スメズウィックが1609年にファースト・フォリオに入っていたほうの戯曲を印刷する権利をリングから買った際、リングは『じゃじゃ馬ならし』ではなく『ジャジャ馬ならし』の権利を譲っていた[15][16]

分析[編集]

ペトルーキオがカタリーナを食べさせない、眠らせないといった手法で従順な女に変身させるという筋はフェミニスト批評の文脈で批判されることが多いが、それ以前から既に本作の暴力性、ミソジニーは注目されていた[17]。リンダ・ブースは、ジョン・フレッチャー1611年に本作の続編『女の勝利、またの名じゃじゃ馬馴らしが馴らされて』(The Tamer Tamed)を発表したことなどに着目し、『じゃじゃ馬ならし』はシェイクスピアの時代の基準からしても必ずしも観客にとって居心地が良い芝居ではなかった可能性を指摘している[18]。本作における性差別的な側面に対する批判の急先鋒がジョージ・バーナード・ショーであり、この芝居について「まともな感情を持った男であれば、賭けや女性自身の口から発せられる演説に示されている、偉ぶった男どものモラルに強く恥じ入ることなしには、女性とともに芝居を終わりまで見ていることなどできるわけがない」と述べ、『じゃじゃ馬ならし』への批判を反映する戯曲『ピグマリオン』を執筆したほどである[19]

一方で、ペトルーキオがカタリーナを変身させるために非常に苦労したことを強調したり、ペトルーキオに調子を合わせたカタリーナのほうが一枚上手であるということに着目することで、本作が性差別的作品であるという分析に論駁する批評もあり、こうしたポジティヴな解釈に基づく上演も存在する[20]。キャロル・トーマス・ニーリーはカタリーナとペトルーキオの関係性に関して、暴力性よりは2人の間に愛が介在していることを強調する分析を行っている[21]。また、カタリーナとペトルーキオが両方とも世間に居場所がなく問題をかかえた孤独な若者であり、2人が心を通わせるまでの課程が重要であると考える批評や上演も存在する[22]。しかし、こうした解釈に対してバーバラ・ホジドンは、どのような演出を行っても、最後の場面が観客に「幸せな強姦とでもいうような場面」と受け取られる可能性があることを念頭におかなければならないと指摘している[23]

派生作品[編集]

後世、数多くの作品が『じゃじゃ馬ならし』から派生した。コール・ポーターのミュージカル『キス・ミー・ケイト』、ヴォルフ=フェラーリのオペラ『スライ』、及び2000年のブラジルのテレビドラマ『O Cravo e a Rosa』などがある。

映画化も何度もされており、1908年にD・W・グリフィスがサイレント作品として映画化したのが最初とされている。1929年には当時の大スター、メアリー・ピックフォードダグラス・フェアバンクス主演で制作された(邦題『じゃじゃ馬馴らし』)。1967年にはフランコ・ゼフィレッリ監督、エリザベス・テイラーリチャード・バートン主演で映画化(邦題『じゃじゃ馬ならし』)。1999年には舞台をアメリカのハイスクールに置き換えた『恋のからさわぎ』(10 Things I Hate About You)がヒットしている。

連続テレビドラマ『こちらブルームーン探偵社』でも、主な登場人物が「じゃじゃ馬ならし」の喜劇的なパロディーを演じる回("今宵はシェークスピア")があった。

ジョン・フレッチャーによる続編『女の勝利、またの名じゃじゃ馬馴らしが馴らされて』は1611年に書かれ、2004年にロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの手により再演されている。

日本語訳[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Wentersdorf (1978), p. 202.
  2. ^ For more information on A Shrew see Morris (1981), pp. 12–50, Oliver (1982), pp. 13–34 and Miller (1998), pp. 1–57
  3. ^ Thompson (2003), p. 1.
  4. ^ Taylor (1997), p. 110.
  5. ^ a b Thompson (2003), p. 3.
  6. ^ Moore (1964).
  7. ^ Oliver (1982), pp. 31–33.
  8. ^ Thompson (2003), pp. 4–9.
  9. ^ Miller (1998), pp. 31–34.
  10. ^ Elam (2007), pp. 99–100.
  11. ^ a b Miller (1998), p. 31.
  12. ^ Miller (1998), p. 32.
  13. ^ Thompson (2003), p. 2.
  14. ^ Oliver (1982), p. 14.
  15. ^ Greg, W.W. (1955). The Shakespeare First Folio: Its Bibliographical and Textual History. Oxford: Clarendon. ISBN 978-0-19-811546-5. 
  16. ^ Morris (1981), p. 13.
  17. ^ E. K. Chambers, Shakespeare: A Survey. 1925. Harmondsworth: Penguin Books, 1965, p. 38.
  18. ^ Linda E. Boose, “Scolding Brides and Bridling Scolds: Taming the Woman’s Unruly Member", Shakespeare Quarterly 42 (1991): 179-213, p. 179.
  19. ^ George Bernard Shaw, Shaw on Shakespeare. Ed. Edwin Wilson. London: Cassell,1961, p. 180.
  20. ^ Coppelia Kahn. Man’s Estate: Masculine Identity in Shakespeare. Berkeley: U of California P, 1981, pp. 82 -118; Marianne Novy. Love's Argument: Gender Relations in Shakespeare. Chapel Hill: North Carolina P, 1984, pp. 43 - 62 ; 河合祥一郎『シェイクスピアの男と女』、中央公論社、2006年、p. 85;
  21. ^ Carol Thomas Neely. Broken Nuptials in Shakespeare's Plays. New Haven: Yale UP, 1985, 28 - 21.
  22. ^ 小林かおり『じゃじゃ馬たちの文化史―シェイクスピア上演と女の表象』南雲堂、2007、pp. 305 - 11。
  23. ^ Barbara Hodgdon. The Shakespeare Trade: Performances and Appropriations. Philadelphia: U of Pennsylvania P, 1998, p. 8

外部リンク[編集]