「親愛なるボスへ」の手紙

「親愛なるボスへ」の手紙(「しんあいなるボスへ」のてがみ、英:Dear Boss letter)は、1888年にイギリス・ロンドンで起きた切り裂きジャック事件(ホワイトチャペル殺人事件)に関する書簡。1888年9月25日付でロンドンのセントラル・ニュース・エージェンシーに届いたものであり、差出人は当時ホワイトチャペル周辺で起こっていた猟奇殺人事件の犯人を自称していた[1]。差出人は切り裂きジャック(ジャック・ザ・リッパー、Jack the Ripper)を名乗り、以降、この名前が定着することになる。当時、犯人を名乗る手紙が数多く捜査当局やメディアに送られており、信憑性については諸説あるものの[2]、一般には切り裂きジャック本人が署名した最初の書簡とされる[3]。
内容
[編集]

「親愛なるボスへ」(Dear Boss)で始まるこの手紙は赤インクで2ページに渡って書かれており、いくつか綴りや句読点に誤りがみられる。手紙を書いた動機については、警察の捜査状況をからかい、将来の殺人を仄めかすことにあったことは明確である[4]。実際の文面は次の通り。
Dear Boss,I keep on hearing the police have caught me but they wont fix me just yet. I have laughed when they look so clever and talk about being on the right track. That joke about Leather Apron gave me real fits. I am down on whores and I shant quit ripping them till I do get buckled. Grand work the last job was. I gave the lady no time to squeal. How can they catch me now. I love my work and want to start again. You will soon hear of me with my funny little games. I saved some of the proper red stuff in a ginger beer bottle over the last job to write with but it went thick like glue and I cant use it. Red ink is fit enough I hope ha. ha. The next job I do I shall clip the ladys ears off and send to the police officers just for jolly wouldn't you. Keep this letter back till I do a bit more work, then give it out straight. My knife's so nice and sharp I want to get to work right away if I get a chance. Good Luck.
Yours truly
Jack the Ripper
Dont mind me giving the trade name
PS Wasnt good enough to post this before I got all the red ink off my hands curse it. No luck yet. They say I'm a doctor now. ha ha
(日本語訳)
親愛なるボスへ
警察が私を捕まえたという話をよく聞くが、私を捕まえられないだろう。賢しげに捜査は順調に進んでいるなどと話しているのを聞くと笑えてくるよ。「革のエプロン」についてのジョークには心底笑わせてもらった。 私は娼婦どもを嫌悪しているし、捕まるまでは切り裂きをやめるつもりもない。前回の仕事は素晴らしい出来だった。女に悲鳴を上げる暇も与えてやらなかったんだ。今さらどうやって私を捕まえられるだろうか。 私は仕事が好きだから、またすぐにでもやりたいと思ってる。すぐにでも私の楽しいゲームの話を聞くことになるだろう。前回の仕事のときに手紙を書くように本物の赤い血をジンジャービアの瓶に入れておいたんだが、糊のように固まってしまい使えなくなってしまった。赤いインクで十分だと願っているよ、ハハッ。 次の仕事では女の耳を切り落として、戯れに警察に送ろうと思うがどうかな。この手紙はもう少し仕事を終えるまではしまっておけ、それで一気に公表しろ。私のナイフはすごく切れ味がいいから、機会があればすぐにでも仕事に取り掛かりたい。幸運を祈るよ。敬具(Yours truly)
切り裂きジャックより
私の通り名を使うのは気にしないでくれ
追伸:手についた赤インクを全部落とすまでに投函できなかった。忌々しいよ。まだ運がないようだ。みんなは今、私のことを医者だと言っている。ハハッ
— Casebook: Jack the Ripper article on the Ripper letters
当初、この手紙は犯人によるものとされる多くのいたずらの手紙の一つにすぎないと考えられていた[5]。しかし、その後9月30日にキャサリン・エドウズの遺体がマイター広場で発見された際、捜査当局は彼女の右耳の耳介と耳たぶの一部が切除されていることに着目した[6]。これは、手紙の著者による「女性の耳を切り落とす」という約束に信憑性を与えた。これを受けて、ロンドン警視庁は、国民の誰かが著者の筆跡を認識することを期待し、この手紙と「生意気なジャッキー」のはがきの両方の複製を含む多数のビラを配布した[注釈 1]。多数の地方紙や全国紙も、「親愛なるボスへ」の手紙の全文または一部を再掲載した。これらの努力は、重要な手がかりを生み出すには至らなかった[9]。
本書簡と「生意気なジャッキー」のはがきの公開は、世界に衝撃をもたらした。今日に知られる「切り裂きジャック」という通称が最初に用いられた事例であり、多くの人々の想像力を掻き立てることとなった。この結果、数週間後には警察や報道機関に切り裂きジャックを名乗る数百通ものイタズラの手紙が届くことになり、それらのほとんどはこれら書簡のフレーズを模倣したものであった[3]。
真贋論争
[編集]事件から数年後、警察は「親愛なるボスへ」も「生意気なジャッキー」も、地元記者による捏造だと強く疑っていた[注釈 2]しかし、こうした疑念は世間に公表されず、大衆は従来通り、謎の殺人犯が警察を挑発する目的で、予告を伴う多数の手紙を送りつけたという新聞の報道を信じ、このことは現在でも信じられている伝説となった。一方で、真相究明を試みる現代の学者や専門家、著述家の間でも多くの書簡は個別に真贋論争が続けられている。特に本書簡と「生意気なジャッキー」、そして「地獄より」の手紙の3通は、本物とみなす説が根強い。これらを本物とみなす者は、自説の根拠として筆跡サンプルから真犯人を断定しようと試みてきた[3]。
事件に関する多くの書類と同じく、事件の発生から数年後に「親愛なるボスへ」の手紙も紛失した[11]。一説には捜査官の一人が記念に持ち帰ったとされていた。1987年11月、匿名の者によって手紙はロンドン警視庁に返還された。これをきっかけにスコットランド・ヤードは、国立公文書館となっていた公共記録局からホワイトチャペル殺人事件に関するすべての書類を回収した[12]。
記者による告白
[編集]1931年、『ザ・スター』紙のフレッド・ベスト(Fred Best)なる記者が、同僚のトム・ブレン(Tom Bullen)[注釈 3]と共に「親愛なるボスへ」の手紙と「生意気なジャッキー」のはがき、また他数通を犯人からの書簡として捏造したと報じた[14]。
彼らはホワイトチャペル殺人事件に対する社会の強い関心を維持させ、ひいては新聞の売上を伸ばすために、自ら「切り裂きジャック」を名乗ったと述べている[15]。
筆跡と言語分析
[編集]2018年にマンチェスター大学を拠点とする法言語学者アンドレア・ニーニ(Andrea Nini)は本書簡と「生意気なジャッキー」は同一人物による生成物である可能性が高いと指摘した[8]。ニーニは「私の結論はこの2つの書簡が同一人物によって書かれたという非常に強い言語学的根拠に基づく。過去にも筆跡の類似性から同様の暫定的結論を述べる者はいたが、確実性を持って立証されるまでには至っていなかった」と述べている[16]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 「生意気なジャッキー」のはがきは、1888年10月1日の消印で同じくセントラル・ニュース・エージェンシー宛に送られた「切り裂きジャック」を名乗る者の書簡である。一般に「親愛なるボスへ」と「生意気なジャッキー」は同一人物によって書かれたものとみなされている[7][8]。
- ^ この2通以外に、事件の目撃者(現代では不明だが、イスラエル・シュワルツまたはジョセフ・ロウェンデと推定される)に送られた3通目も同一人物によるものと考えられている。この書簡は同じく赤インクで書かれ、切り裂きジャックの署名がある。内容としては警察に捜査協力した場合、殺害すると脅迫しているものであり、最後に「追伸:お前の住所を知っている(PS You see I know your address)」で終わっている[10]。
- ^ 1913年のジョン・リトルチャイルド主任警部の証言として、スコットランド・ヤードの上級捜査官たちが一連の手紙を書いたのはトマス・J・ブリング(Thomas J. Bulling、=トム・ブレン)という男だと「一般に推定していた」ことが知られている[13]。
出典
[編集]- ^ “Jack the Ripper Letters Suggest Newspaper Hoax”. BBC News. (2018年2月1日) 2020年1月27日閲覧。
- ^ “Did Francis Craig Write the Famous Jack the Ripper Letters?”. The Telegraph. (2015年7月31日) 2020年1月27日閲覧。
- ^ a b c Sugden, Philip (2002). The Complete History of Jack the Ripper. New York: Carroll & Graf. pp. 260–270. ISBN 978-0-7867-0932-8
- ^ “Treasures from The National Archives: Jack the Ripper”. nationalarchives.gov.uk (2009年1月1日). 2020年1月31日閲覧。
- ^ Jack the Ripper: An Encyclopedia ISBN 978-1-553-45428-1 p. 159
- ^ Jack the Ripper: An Encyclopedia ISBN 978-1-844-54982-5 p. 56
- ^ Jack the Ripper: Case Solved? ISBN 978-1-326-38968-0 pp. 56-57
- ^ Sex, Lies, and Handwriting: A Top Expert Reveals the Secrets Hidden in Your Handwriting ISBN 978-0-743-28810-1 p. 25
- ^ Jack the Writer: A Verbal & Visual Analysis of the Ripper Correspondence ISBN 978-1-608-05751-1 p. 50
- ^ Jack the Ripper: The Definitive Casebook ISBN 978-1-445-61786-2 p. 85
- ^ “Jack the Ripper Letters | Dear Boss Letter | From Hell Letter | Saucy Jack Postcard”. whitechapeljack.com. 2010年10月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年12月30日閲覧。whitechapeljack.com
- ^ “A Look at Some of the Known Letter Writers”. jack-the-ripper.org (2010年4月2日). 2023年8月5日閲覧。
- ^ The Dreadful Acts of Jack the Ripper and Other True Tales of Serial Murder ISBN 978-1-981-58780-3 p. 4
- ^ Joe Nickell, Real or Fake: Studies in Authentication, University Press of Kentucky, Lexington, 2009. pp.44-7.
- ^ “Jack the Ripper Letter Mystery Solved by Manchester Researcher”. manchester.ac.uk (2018年1月29日). 2020年1月28日閲覧。
参考文献
[編集]- Begg, Paul (2004). Jack the Ripper: The Facts. United States of America: Barnes & Noble Books. pp. 197–216. ISBN 978-0-760-77121-1
- Begg, Paul; Fido, Martin (2015). The Complete Jack The Ripper A-Z - The Ultimate Guide to The Ripper Mystery. Marylebone: John Blake Publishing Ltd. ISBN 978-1-844-54797-5
- Evans, Stewart; Skinner, Keith (2001). Jack the Ripper: Letters From Hell. Stroud, Gloucestershire: Sutton Publishing. ISBN 978-0-7509-2549-5
- Gibson, Dirk C. (2013). Jack the Writer: A Verbal & Visual Analysis of the Ripper Correspondence. Bentham Science Publishers. ISBN 978-1-608-05751-1
- Sugden, Philip (2002). The Complete History of Jack the Ripper. New York: Carroll & Graf. ISBN 978-0-7867-0932-8
- Trow, M. J. (2019). Interpreting the Ripper Letters: Missed Clues and Reflections on Victorian Society. Barnsley: Pen & Sword Books Limited. ISBN 978-1-526-73929-2
- Whittington-Egan, Richard (2013). Jack the Ripper: The Definitive Casebook. Stroud: Amberley Publishing. ISBN 978-1-445-61786-2
外部リンク
[編集]- The "Dear Boss" letter at casebook.org
- Jack the Ripper letters: "Dear Boss" at whitechapeljack.com
- "Dear Boss" letter: How Jack the Ripper got his name Archived 14 July 2017 at the Wayback Machine. at britishnewspaperarchive.co.uk