彗星 (航空機)

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空技廠 D4Y 彗星

彗星一二型

彗星一二型

彗星(すいせい)は、大日本帝国海軍艦上爆撃機。機体略号はD4Y。連合国軍のコードネームは「Judy」。太平洋戦争後半の日本海軍主力機となり、特攻機としても投入された。

概要

彗星三三型

単発複座の高速艦上爆撃機として設計された彗星は、艦上爆撃機としてはかなりの小型機で、零式艦上戦闘機とほぼ同サイズである。機体下部の爆弾倉と中翼配置、空力を重視した平滑な機体外形が採用されており、特に水冷エンジン独特の先細りの機首を持つ前~中期生産型は、空冷エンジンがほとんどだった日本の軍用機の中では特徴的な外見をしている。

海軍の航空技術研究機関である海軍航空技術廠(以下、空技廠と略)で開発された本機は、量産性よりも性能を追求した研究機的な性格を持ち、高性能を実現するために当時の最新技術が多数盛り込まれた。それらは彗星自身の高性能化に貢献しただけではなく、本機で採用された機構は後に開発される彩雲晴嵐といった海軍機の多くにも採用された。しかし彗星の複雑な構造、特に水冷エンジンは日本の生産・運用事情に適しているとは言い難く、トラブルが続出し稼働率が低かった。のちに水冷エンジンの生産が機体の生産数に追いつかず、生産性・信頼性の高い空冷エンジンへの換装へ開発・生産が優先されることになり、この空冷エンジン搭載機は後半戦の主力となった。

水冷エンジン搭載機に関しては当時の日本の生産設備・資源物資供給能力では手に余る機体と言え、配備後も整備が十分に行き渡らなかったこともあってか、そのポテンシャルを発揮する事は極一部の例外を除いてかなわなかった。そのため水冷エンジン搭載機は評価の分かれる機体であり、仮定の話を含めて議論の的となる事も多い。

開発は空技廠だが、生産は民間の愛知航空機で行われた(後に第十一航空廠でも水冷型を転換生産)。

開発経緯と名称

日本海軍はロンドン海軍軍縮条約により、戦艦巡洋艦と同様、英米海軍に対する航空母艦の保有数の不利を打開するため、艦上爆撃機の主任務を敵航空母艦に対する先制攻撃とし、それを可能とするために「敵艦上機より長大な攻撃半径」、「迎撃してくる敵艦上戦闘機を振り切ることが可能な高速力」の二点を求めるようになった。

このため、昭和11年(1936年)にHe 118ドイツから輸入したものの、性能的に要求に満たず不採用となった。この機体の資料を参考に、新機構を盛り込んだ航空機を新たに開発することとなり、空技廠(当時は航空廠)の山名正夫中佐らに“十三試艦上爆撃機”の開発が命じられた。要求性能は概ね以下のようなものであったとされる。

最高速度
280ノット(約519km/h)
巡航速度
230ノット(約426km/h)
航続力
爆撃正規800海里(約1,482km)
爆撃過荷1,200海里(約2,222km)
その他
過荷重装備として五十番(500kg)爆弾の装備を可能にすること

設計の特徴

彗星の操縦席

「敵艦上機より長大な攻撃半径」と「敵戦闘機を振り切る高速性能」という2つの要求性能を満たすため、彗星は空気抵抗の軽減に重点を置き、新機軸を多く盛り込んだ設計が施され、試作機は要求以上の性能を発揮している。彗星で実用化された翼型や急降下制動板、動翼システムは後に開発された陸上爆撃機銀河、特殊攻撃機晴嵐、艦上攻撃機流星、艦上偵察機彩雲等でも採用され、技術開発の面では高い成果を挙げたと言える。

高速性を買われて開発開始から4年後の昭和17年(1942年)に二式艦上偵察機として実戦配備が開始されたものの、艦爆型の実戦配備は新機構に起因する不具合により開発開始から5年後の昭和18年(1943年)にずれ込んだため、開発開始時に目標とされた「迎撃してくる敵艦上戦闘機を振り切る」ほどの高速機ではなくなっていた。とはいえ、単発複座爆撃機としては世界的に見てもかなりの高速機で、九九式艦上爆撃機零式水上偵察機月光などから乗り換えた搭乗員の多くはその高速性能を褒めている。

しかしアツタ製エンジンの問題(後述)に代表されるように故障が多く整備が難しいため、前線では嫌われることも多かったと言われている。また空母隼鷹飛鷹龍鳳に所属した第六五二海軍航空隊に至っては九九艦爆と彗星を同時に運用することになり、マリアナ沖海戦では九九艦爆が先に発進、彗星が後から追いかけるという複雑な運用を行っている[1]

胴体

前面投影面積の小さい水冷エンジンの直径に合わせて胴体を細く絞り込み、風防を可能な限り低くするために背負式落下傘の新規開発まで行われている。風防を低くしたため視界がやや悪くなり、特に偵察機としての運用時に敵戦闘機の奇襲を受けやすいと評価されている。

また日本製艦上爆撃機としては初となる爆弾倉を採用するだけでなく、爆弾倉扉を胴体内側に畳み込む方式とすることで、爆装時のみならず爆撃時における空気抵抗の増加を防いだ。また、He 118を参考にラジエーターと潤油冷却器を爆弾倉の前に配置することで機首下面を滑らかに成形している。

主翼

主翼の翼型は内翼側に層流翼翼型を採用し、外翼側は翼端失速しにくい通常の翼型にすることで、空気抵抗を増やすことなく捻り下げと同様の翼端失速防止効果を得ている。空力的な面と爆弾倉との兼ね合いのため中翼配置とし、高速を得るために主翼面積は最小限に抑えられた。また折り畳み機構を省略するために空母のエレベーターに合わせて翼幅を11mに抑え、セミ・インテグラル式燃料タンクを内蔵して長大な航続力に必要な、大量の燃料の搭載を可能にした。

空母からの短距離離陸を可能とするため、高揚力装置としての能力の高いセミ・ファウラー式フラップを採用した他、補助翼急降下制動板を補助フラップとしても使用可能なものとした。但し、フラップの幅が翼幅の60%に及んだことから補助翼の長さを十分にとることが出来ず、艦爆としては許容範囲内の効きを確保したが、後に夜戦として採用された際は効きの不足が指摘された。このように設計上様々な工夫を凝らしたものの、過荷重時の離陸滑走距離は長く、翔鶴型以上の大型高速空母でなければ多数機の同時運用は困難だった。

その他

十二試陸上攻撃機(一式陸上攻撃機)から採用され始めた各部の電動化を全面的に採用し、脚の出入やフラップ・爆弾倉扉の開閉に使用した。電気駆動技術が未熟であったため艤装に不適切な部分があり、またモーター出力やバッテリー容量の不足もあって従来の油圧駆動式と比較し故障や不具合が多く信頼性に劣った。

アツタ製エンジン

空気抵抗の面で有利と試算されたことから発動機は水冷のアツタ製エンジンが搭載された。このエンジンは当時同盟関係にあったドイツのダイムラー・ベンツから購入したDB601Aをライセンス生産した物である。

精密なDB601エンジンの国産化にあたっては、水冷エンジン生産に必要な資源物資もままならず、精密パーツの生産に必要な最新の工作機械を導入できなかった日本では、本国の設計図に書かれてある原材料の確保や部品の精度を維持することができず、設計図通りの水冷エンジンを大量生産することは不可能であった。このため大量生産に向けて設計の改変や部品精度のデチューンが行われ、結果的にこれがエンジントラブルの頻発やエンジン品質の低下を招いた。また、当時の日本製航空機は空冷エンジンを搭載した機体がほとんどで、前線の整備員にとって水冷エンジンは馴染みが薄く、上記の事情もあいまって整備員にとってはトラブルの多い非常に扱いづらい難エンジンとの印象を与えてしまった。もっともアツタ製エンジンの整備について教育を受けた整備員は、エンジントラブルは多くても(故障箇所自体はほぼ特定されており)特に整備に困難を覚えていないことから、これは講習や整備マニュアルの不足による整備員の知識不足が大きな要因と言える。が、戦況の悪化もあって有効な対策をとることが出来なかった。

アツタ製エンジンは、オリジナルのDB 601Aが冷却液にエチレングリコールを使うのに対して、資源不足や物資の行き届きにくい前線での整備を考慮して、普通の水を冷却液として採用した。そのためこのままでは沸点が100℃とオーバーヒートを起こしやすいので、加圧することによって沸点を最高125℃まで引き上げた。が、これにより循環器系に負担がかかり水漏れトラブルを頻発させた(エンジン稼働率の低下原因の一つとなった)。

ただし、ニッケルの使用禁止で部品強度の落ちていた[2]川崎ハ四〇系に比べると、製造工程で強度低下を抑えていたアツタ製エンジンは全体的に状態が良かったと言われる(ハ四〇で多発したクランクシャフト折損のトラブルが無い)。また、比較的早くから二式艦偵を運用していた第三艦隊沖縄戦での活躍で知られる芙蓉部隊では、豊富な予備部品とアツタ製エンジンに熟知した整備兵を揃える(メーカーで専門教育を受けた整備兵を教官にして自隊で教育する等)ことで、高い稼働率(芙蓉部隊では8割以上)を達成している。

なお、陸軍もまた海軍とは別にDB601Aエンジンのライセンスを購入し、国産化したハ四〇/ハ一四〇エンジンを三式戦「飛燕」に搭載している。統合名称(アツタ二一型 ~ 三二型とハ四〇・一四〇両者)をハ六〇と称した。同一スペックの双方のエンジンの互換性については、双方が互いに連携なしに生産したため互換性が無く、三式戦がハ一四〇の不調のためエンジンの変更を検討した際にアツタ製エンジンを搭載することができないことが調査で判明している(アツタはハ四〇/ハ一四〇ほど生産量が多くなく、三式戦に回すだけの余裕がなかったともいわれている)。

実戦

試作機による審査と実戦投入

離陸準備中の二式艦偵一一型
  • 昭和15年(1940年)11月1日、AE2A(DB 600Gのライセンス生産型)を搭載した十三試艦爆試作一号機が完成した。その後、不調のAE2Aを十三試ホ号(アツタ二一型の試作名)に換装して試験が続けられ、当時の海軍機最高速度となる551.9km/h/4,750mと偵察過荷重にて3,780kmという長大な航続力を記録、五号機まで試作機が製作された。
  • 既存の九八式陸上偵察機九七式艦上攻撃機零式水上偵察機に代わる高速偵察機の必要性を感じていた海軍は、海軍機最高速度と大航続力を記録した十三試艦爆に目を付け、開戦直前の昭和16年(1941年)11月に十三試艦爆40機を偵察機として次年度生産分に追加発注した。これに先立って試作二、三、四号機を爆弾倉にカメラを搭載した偵察機に改造、昭和17年(1942年)1月に四号機が第三航空隊に貸与されたが、不調のため前線に到着するのに半月以上を要した上に実戦投入されずに終わっている(後に再整備の後、第三艦隊翔鶴に配備され、南太平洋海戦で実戦投入されている)。
  • 昭和17年(1942年)5月、偵察機に改造された試作二、三号機が開戦前から高速偵察機の配備を要望していた第一航空艦隊第二航空戦隊所属の空母蒼龍に配備された。うち1機はミッドウェー海戦にて米機動艦隊を発見したが、無線機故障のため報告は空母飛龍に帰還してからとなり、後に飛龍ごと沈没、残る1機も喪われている。戦闘詳報では十三試艦爆の偵察を『敵機動部隊情況不明なりし際、極めて適切に捜索触接に任じ、その後の攻撃(飛龍の反撃)を容易にならしめたり。功績抜群なり』と評価している[3]

二式艦上偵察機

  • 昭和17年(1942年)8月15日、試作五号機が飛行試験中に空中分解し、艦爆としては機体の強度が不足しているため改修が必要と判断されたが[4]、通常の飛行には差し支えないことから、海軍は爆弾倉内蔵式増加燃料タンクやカメラを搭載した機体を二式艦上偵察機一一型(D4Y1-C)として採用した。昭和17年末から配備の始まった二式艦上偵察機の運用は比較的良好で搭乗員の評判も良く、後継の艦上偵察機彩雲と共に大戦後半における日本海軍の眼として働いた。

艦上爆撃機型の配備とエンジン換装

飛行中の彗星三三型
  • 昭和18年6月から、機体強度を向上させた艦上爆撃機型も彗星一一型(D4Y1)として量産に移り、昭和18年後半のソロモン戦から実戦投入された。マリアナ沖海戦時には母艦航空隊、基地航空隊とも艦爆隊の主力を占める様になったが、制空権が米軍の手に握られていた上に、彗星自体の稼働率も低かったため目立った戦果はあげられなかった。[要出典]
  • 昭和18年5月に出力と整備性を向上させたアツタ三二型に換装した性能向上型の彗星一二型(D4Y2)試作一号機が完成した。しかしアツタ三二型の生産開始からまもなく生産時の工作不良が判明、その対策のため多数の「首無し機」(エンジンの無い機体)が工場外に並ぶという事態になってしまった。そこで一二型試作機完成から約半年後の昭和18年12月から、比較的供給に余裕があり出力の若干高い空冷エンジン金星六二型に換装した彗星三三型(D4Y3)の開発が始まり、完成後は一二型と平行生産された。直径のやや大きな金星を装備した三三型は「首」が太くなり、水冷型の流麗な胴体形状は失われたものの、金星はアツタに比べて出力が大きい上軽量だったため最高速度は若干の低下にとどまった。一二型は艦上爆撃機または夜間戦闘機、三三型は陸上爆撃機という棲み分けの元に配備が行われているが、三三型は特攻に用いられるものも多かった。
  • 昭和19年(1944年)10月24日、レイテ沖海戦にて基地航空隊の彗星1機が軽空母プリンストンに命中弾を与え、艦上機・弾薬庫の誘爆により火災鎮火の見込みが無くなったプリンストンは味方駆逐艦により雷撃処分された。単機、1発の爆撃でプリンストンを撃沈したこの彗星が誰の乗機であったかは現在も判明していない。なおプリンストンの救援作業に当たっていた軽巡バーミンガムも誘爆の巻き添えにより上層構造物が破損、大破している。
  • 最終量産型は昭和20年(1945年)から投入された三三型を改修した四三型(D4Y4)で、操縦席に防弾設備を増設する一方で後部座席と機銃類を廃し、爆弾倉に800kg爆弾を装備可能とした特攻仕様機であった。第五航空艦隊司令長官宇垣纒中将が終戦当日に沖縄沖の米艦隊に特攻出撃した際、複座型の四三型に搭乗(操縦員席に中津留大尉、偵察員席に宇垣中将)したことでも知られる。

夜間戦闘機への転用

  • 戦闘機に準じた機体強度と高速性能を持つことから、旧式化した夜間戦闘機月光の後継機として一二型に20mm斜銃を追加装備(試作機のみ30mm機銃)した一二戊型が三〇二空、三三二空、三五二空等の本土防空部隊に配備され、主にB-29の夜間迎撃に投入された。終戦間際には三三型に20mm斜銃を追加装備した三三戊型も開発され、少数が実戦配備されている。
  • 沖縄戦では、美濃部正少佐率いる芙蓉部隊所属の一二戊型が一二型と共に米軍に占領された嘉手納飛行場や沖合の艦隊に対して夜間銃爆撃を粘り強く続けたことで知られる。1945年6月10日には、芙蓉部隊所属の中川義正上飛曹-川添普中尉機(一二戊型)がP-61ブラック・ウィドウと思われる米軍夜間戦闘機の撃墜という希有な戦果も報じている。

保存機等

遊就館にアツタ三二型と展示されている彗星一二型。機番は「鷹-13」
  • 昭和47年(1972年)にカロリン諸島ヤップ島の旧滑走路脇のジャングルで発見された一二型が、昭和55年(1980年日本テレビの協力で回収され、陸上自衛隊木更津駐屯地において飛行機愛好家らの手により復元された。修復の模様はテレビ番組で放映された。現在は靖国神社遊就館に奉納展示されている。テレビ番組の限られた予算と日数、専門技術を持たない愛好家の手による修復のため状態は良いとはいえないが、世界で唯一完全な形を保つ実機として貴重である[5]
  • 北マリアナ連邦ロタ島の空港駐車場脇に、アツタ二一型エンジン1機がプロペラが付いた状態で、零戦の栄二一型3機、天山の火星二五型1機とともに展示されている。展示といっても、コンクリートの台の上に雨ざらしで置かれているだけで、柵や解説等も全くない。以前は、零戦の機体の残骸も置かれていたが現在はない。展示というよりも放置に近い状況であるが、その分、自由に触れることもできる。戦後に同地を訪れた、元ロタ島守備隊員の証言によると、マリアナ沖海戦の際にF6Fヘルキャット戦闘機に追われてロタ島の海軍航空基地(現ロタ国際空港)に不時着した機体のものであるという。実際、1944年6月19日に、空母「隼鷹」を発進した彗星1機(阿部善朗大尉・中島米吉少尉)が1時間近くF6Fに追跡され、かろうじて滑走路に着陸している[6]
  • パラオ共和国の本島、バベルダオブ島のパイナップル工場跡前に彗星のエンジンと水平尾翼、他部品が設置されている。又この尾翼は稼働し自由に触ることも可能。

派生型

十三試艦上爆撃機(D4Y1)
DB 601Aエンジンを搭載した試作型。生産数5機。
二式艦上偵察機一一型(D4Y1-C)
偵察用カメラと爆弾倉内蔵式増加燃料タンクを追加した艦上偵察機型。
二式艦上偵察機一二型(D4Y2-C/R)
エンジンをアツタ三二型に換装した艦上偵察機型。後方旋回機銃を13mm機銃に強化した一二甲型(D4Y2-Ca/Ra)も生産された(文献では主にD4Y2-Rが使われているが、陸上基地からの運用が多かった事からであり、D4Y2-Cも誤りではない)。
彗星一一型(D4Y1)
艦上爆撃機型としては最初の量産型。
彗星一二型(D4Y2)
エンジンをアツタ三二型に換装した艦上爆撃機型。二式艦偵一二型同様、後方旋回機銃を13mm機銃に強化した一二甲型(D4Y2a)も生産された。
彗星一二戊型(D4Y2-S)
一二型の偵察員席後方に20mm斜銃を追加した夜間戦闘機型。三〇二空を始めとする本土防空部隊と芙蓉部隊に配備。
彗星二二型(D4Y2改)
航空戦艦に改装された伊勢型戦艦搭載用に機体を強化してカタパルト射出可能とした機体。一一型または一二型から改造(一一型は熱田三二型への換装を含む)。
彗星三三型(D4Y3)
エンジンを金星六二型(離昇1,560馬力)に換装した陸上爆撃機型。試作機を除き着艦フック無し。一二型同様、後方旋回機銃を13mm機銃に強化した三三甲型(D4Y3a)も生産された。
彗星三三戊型(D4Y3-S)
三三型の偵察員席後方に20mm斜銃を追加した夜間戦闘機型。大戦末期、一二戊型の代替として三〇二空などに少数機が配備。
彗星四三型(D4Y4)
後席廃止(一部は複座型に戻されている)、防弾装備強化、爆弾倉扉廃止などの改修を施した簡易型。800kg爆弾1発の搭載が可能。一般的には特攻仕様として認知されることが多い。増速ロケットの追加も検討され、実際に胴体下部にロケット装着用の切り欠きが作られたが実際には未装備(ロケットを装備すると空気力学的な問題が生じ、性能が低下する恐れがあるため)。
彗星五四型(D4Y5)
エンジンを一二型(離昇1,825馬力)に換装した型。計画のみ。

諸元

制式名称 彗星一一型 彗星一二型 彗星三三型
機体略号 D4Y1 D4Y2 D4Y3
全幅 11.50m
全長 10.22m 同左[注 1]
全高 3.175m 3.069m
主翼面積 23.6m2
自重 2,510kg 2,635kg 2,501kg
過荷重重量 3,960kg 4,353kg 4,657kg
発動機 アツタ二一型(離昇1,200馬力) アツタ三二型(離昇1,400馬力) 金星六二型(離昇1,560馬力)
最高速度 546.3km/h(高度4,750m) 579.7km/h(高度5,250m) 574.1km/h(高度6,050m)
上昇力 高度5,000mまで9分28秒 高度5,000mまで7分14秒 高度6,000mまで9分18秒
航続距離 1,783km(正規)~2,196km(過荷) 1,517km(正規)~2,389km(過荷) 1,519km(正規)~2,911km(過荷)
武装 機首7.7mm固定機銃2挺(携行弾数各600発)
後上方7.7mm旋回機銃1挺(97発弾倉×6)
機首7.7mm固定機銃2挺(携行弾数各400発)
後上方7.7mm旋回機銃1挺(97発弾倉×6)[注 2][注 3]
機首7.7mm固定機銃2挺(携行弾数各400発)
後上方7.92mm旋回機銃1挺(75発弾倉×3)[注 3]
爆装 胴体250kgまたは500kg爆弾1発 胴体250kgまたは500kg爆弾1発
翼下30~60kg爆弾2発
胴体250kgまたは500kg爆弾1発[注 4]
翼下250kg爆弾2発[注 5]
乗員 2名
  1. ^ 愛知の資料では10.24m。
  2. ^ 一二型の後期生産型は、三三型と同じく7.92mm旋回機銃を搭載。
  3. ^ a b 一二甲型と三三甲型は、いずれも、後上方旋回機銃を13mm機銃に換装。
  4. ^ 一二戌型は後上方旋回機銃を廃止し、20mm斜銃(携行弾数250発)を装備(三三戊型も同様)。
  5. ^ 翼下に250kg爆弾2発装備の場合は胴体も250kg爆弾1発。

脚注

  1. ^ #艦爆隊長p.168
  2. ^ 渡辺洋二『液冷戦闘機 飛燕 日独合体の銀翼』(文春文庫、2006年) ISBN 4-16-724914-6 p156~p157。
  3. ^ 「昭和17年6月1日~昭和17年6月30日 ミッドウエー海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」
  4. ^ 山名正夫「海軍航空技術の粋を集めた 艦爆「彗星」」その2(鳥養鶴雄 監修『知られざる軍用機開発』上巻(酣燈社、1999年) ISBN 4-87357-049-2 p40~p41、初出:酣燈社『航空情報』1955年7月号)
  5. ^ 発見当時、本機は胴体後部が折損し一部が失われ、尾翼部分は分離していたものの、両主脚と胴体後部切断面で三点自立していた。が、輸送機へ積載する為に両主翼を付け根付近でガスで切断した事により、日本での再生時に繋ぎ直した主翼が強度不足となり、同機から降ろして再生したエンジンの再搭載に主翼接続部が耐えられず、エンジンは別展示となった。胴体後部の欠損部分は、パイプ等で機体全長が合うように組み付けられている為、オリジナル通りではない。また、失われていたスピナーキャップは国内の個人から寄贈されたものである
  6. ^ #艦爆隊長p.174

参考文献

  • 雑誌「丸」編集部 編『軍用機メカ・シリーズ11 彗星/九九艦爆』
(潮書房保存版、1994年) ISBN 4-7698-0681-7
(潮書房ハンディ判、2000年) ISBN 4-7698-0920-4
  • 阿部善朗『艦爆隊長の戦訓 体験的/新説太平洋海空戦』光人社、1997年。ISBN 4-7698-0834-8 
  • 世界の傑作機 No.69 海軍艦上爆撃機「彗星」』(文林堂、1998年) ISBN 4-89319-066-0

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