中世

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聖ミカエル聖堂

中世(ちゅうせい、英語:middle ages)は、広義においては世界史の、狭義においては西洋史時代区分の一つで、古代よりも後、近世よりも前の時代を指す。

概要

イタリアルネサンスの時代には、栄光の古代ギリシャローマが衰退したのちに、ゲルマン民族が支配する「暗黒時代」となり、ルネサンスというその名のとおり復興の時代を通って現在=啓蒙主義の時代に至ると考えられた。よって暗黒時代は古代と現代の過渡期として中世と呼ばれた。そこから古代-中世-近代の三時代区分法が生まれ、西洋史の大きな枠組みとして広く使われるようになった。生産関係に重点を置くマルクス主義歴史学(唯物史観)の5時代区分論(原始共産制・古代奴隷制・封建制資本主義制・共産主義制)においても基本的には同様で、中世は封建制農奴制社会とされる。ただし唯物史観においては古代から退化して現代にいたるのではなく、生産手段の継続的な進歩という進化論的視点がとられる。

古代・中世・近代という区分自体、もともとヨーロッパ社会をモデルとする歴史学の発想であるが、文明開化以降日本の近代歴史学でも同様の区分が考えられた。日本の場合はヨーロッパの騎士に対応する武士が統治した封建時代が存在するなど西洋史と類似点が多く、天皇が直接政権を握っていた王朝時代飛鳥時代奈良時代平安時代)を古代として、鎌倉時代以降を中世とした。しかし、江戸時代は中世と近代のどちらにも当てはまらないため「近世」とされた。ヨーロッパ史においても、近代と前近代の枠組みの見直しの機運が生まれ、ルネサンスから絶対王政の時代を近世として、市民革命期以後を近代と考えることが多くなっている。ただし、この考えを4000年以上の歴史を持つ中国の歴史に当てはめる際には問題が生じ、中国史における中世・近世の枠組みは必ずしも明確ではない。

最近では、東洋史において西洋史の概念を当てはめることに対する適切性、さらに西洋史においては中世=暗黒・後退の時代という史観に対する見直しなどが起こっているため、中世という時代の枠組みは歴史学で現在も使われているが、かつての中世暗黒史観を前提とした議論はされなくなっている。[要出典]

ヨーロッパ

西洋では中世の観念が早くも17世紀初頭には定着していたと見られ、その文献における初見は1610年代にまでさかのぼる[1]

その西洋では「中世」という用語を「西洋史における時代区分」と明確に定義している[2][3]。したがって我々が「中世日本」と呼ぶ時代のことを、西欧言語、例えば英語では通常「feudal Japan」(封建日本)と呼び、「medieval Japan」とは決して呼ばない。

伝統的な西洋史の時代区分における中世は、一般に5世紀から15世紀、歴史的大事件で捉えるならば西ローマ帝国滅亡(476年)のあたりから東ローマ帝国滅亡(1453年)のあたりとし、ルネサンスから宗教改革以降を近世とする。ただしルネサンスは国によって時期が大幅に前後することもあって、これを中世に含めるかどうかについては古くから議論があった。

中世はさらに、ゲルマン民族の大移動(蛮族の侵入)からマジャール人ノルマン人の侵入が収まるまでの中世初期(early middle ages、500年頃から1000年頃)、十字軍により西欧が拡大し、汎ヨーロッパ的な権力を巡って教皇権が世俗王権と争う中世盛期(high middle ages、1000年頃から1300年頃)、ルネサンスの興隆や百年戦争の争乱を経て絶対王制に向かいはじめる中世後期(last middle ages、1300年頃から1500年頃)に分類される。

西ヨーロッパの中世は ペストの流行、異端審問などに象徴される暗黒時代という見方をされていたが、新たな文化を生み出した時期でもある(例えば12世紀ルネサンス)として、歴史学の分野では再評価が行われている。しかし一般的には中世を暗黒時代とみなす風潮はなお根強い。また、12世紀になるまでは経済力・文化などの面などでイスラム東ローマ帝国の後塵を拝していたのも事実である。

時代が下ると、西ローマ帝国の滅亡から東ローマ帝国の滅亡までという歴史的大事件の枠にはまった従来の中世観を見直して、より包括的な社会人類学の視点から中世を定義することが行われるようになった。すなわち、ゲルマン民族大移動が収拾して定住化が進み、それと共にキリスト教が大衆へ浸透し、封建制社会が確立していった9世紀から10世紀頃をもって本格的な中世の開始とし、官僚と常備軍をもって地方分権的領主を次第に圧迫していった国王が国内統一を成し遂げ、絶対王政による強大な中央集権国家を築き上げた16世紀末頃をもってその終焉とするものである。(このような見直しに伴う8世紀以前の時代区分については、古代末期を参照。)

近年では、これまでの古代 → 中世 → 近代の三時代区分に新たに近世(early modern period)という時代区分を加え、ルネサンスから絶対王政の終焉までをこの近世として、それ以降を近代と考えることが主流となりつつある。

アジア

日本

日本の歴史においては、20世紀はじめに歴史学者の原勝郎が初めて中世の歴史区分を用いた。

一般的には、平氏政権の成立(1160年代)から安土桃山時代戦国時代末期)までが「中世」と目される。南北朝時代を挟んで「中世前期」と「中世後期」に区分される。なお、中世に続く「近世」の始期については、(1)織田信長の上洛(1568年)、(2)豊臣秀吉による全国統一(1590年)、(3)江戸幕府の成立(1603年)の3説があるため、それによって中世の終期が異なることになる。

政治史的には、武家による支配を特徴としており、武家政権による支配の開始によって古代と区別され、また強力な中央政権(或いは連邦政権)の未成立によって近世と区別される。土地制度的には、地頭による国衙領の蚕食や守護大名の成長で荘園制度の崩壊が進んでゆく過程である。太閤検地により荘園は完全に解体する。この太閤検地を「中世」と「近世」の境として、織田政権までを中世とする定義もある。この定義では、織田政権による日本全土の統一未完を根拠にして、強力な中央政権が未成立であると見なされる。

かつては鎌倉幕府の成立(1192年)以降を中世とする定義が通説であったが、あまりに政治史的な定義であるとして近年では見直されつつある。また、近年では鎌倉幕府の成立時期や平家政権の評価についても異論が出されており、従来の通説自体が成り立たなくなっている。律令制が瓦解して荘園制、摂関政治に移行し、国風文化武士の起こった平安時代中期(10世紀)頃を中世の発端とする説もある。少なくとも平安時代後期院政以降を中世初期に含める考えは広がりつつあるようである(平安時代を古代と中世のどちらに分類するかはいまだに議論があり、曖昧さを避けるため古くから文学史で使われた「中古」という語が用いられることもある)。

なお、近代以前には末法思想を背景とする三時代区分論(正法・像法・末法)が存在していた。

中国

中国の歴史における中世の概念は、内藤湖南の『支那近世史』(内藤1909 - 1919)に始まる。内藤は後漢の中ごろまでを上古、魏晋南北朝時代から中期までを中古、以降を近世とする。上古・中古はそれぞれ古代・中世と言い換えて間違いは無い。この観点は主に京都大学出身者によって作られる京都学派によって発展を遂げる。その代表を挙げるとすれば宮崎市定である。

これに対して戦後、前田直典によって唐の中期までを古代、宋以降を中世とする論が出され、大きな論戦を引き起こした(中国史時代区分論争)。唐中期までを古代とする論はその後、西嶋定生堀敏一らの歴史学研究会を中心とする東京学派の手によって発展していき、京都学派との長い論戦が続いた。

しかし1970年代ごろからは実証主義的な立場からこのような「大きな物語」に対する批判が生じ、分野の細分化が進み、時代区分論争のような大きな枠組みの研究は少なくなった。

朝鮮半島

朝鮮半島の中世は、高麗の成立(936年)から崩壊(1392年)までとされている。

イスラム世界

前出の「中世イスラム」とは、ファーティマ朝成立(909年)やブワイフ朝バグダッド入城(945年)、セルジューク朝の帝国成立(1055年のバグダッド入城)など、アッバース朝の形骸化によりいわゆるイスラム帝国という世界帝国が瓦解した時期から、オスマン帝国トルコの地域国家を超えてイスラム世界帝国を確立した時期(1517年マムルーク朝の滅亡)までを指すことが多い。

脚注

参考文献

中国史

関連項目

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