上原浩治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

上原 浩治うえはら こうじ1975年4月3日 - )は大阪府寝屋川市出身のプロ野球選手(現役期間 1999年 - )セントラル・リーグ読売ジャイアンツ所属の投手背番号19 。右投右打。186cm、86kg、B105 W87 H108。血液型 B型。

クイックモーションから投げられるノビのある直球と落ち幅の違う2種類のフォークボール、キレのあるスライダー、そして高い制球力とスタミナを武器にしたテンポの良い投球が持ち味。

なお、他球団の略称方法と異なるが「読売ジャイアンツ」は「巨人」という略称でこれを指すのが一般的であるためここではそれに従う。(参照

経歴

プロ入り前

中学校では野球部が無かった為に陸上部に所属。その後東海大学付属仰星高等学校に合格し念願の野球部に入部したものの、建山義紀の控えもしくは外野手としての出場が多かったため、高校時代は全く無名の選手であった。当時注目を集めていた大阪の高校生投手にはPL学園松井和夫(後の稼頭央)がいた。1浪して大阪体育大学に進学後は投手に専念し、阪神大学リーグにおいてリーグ優勝5回(1年春、2年春秋、3年秋、4年春)に貢献するなど、4年間で36勝4敗、最優秀投手賞4回、特別賞2回という圧倒的な成績を挙げ、大学4年次には一気にドラフト注目の的となっていた。彼の名を一躍轟かせたのは、大学3年時に日本代表に選ばれた1997年のインターコンチネンタルカップ決勝で、当時国際大会151連勝中だったキューバ相手に先発して勝利投手となったことである。以降松坂大輔と並ぶドラフトの目玉とみなされ多くの球団が獲得に乗り出すが、学生時代からメジャー志向が強かったゆえ各球団とも早々に手を引いた。最終的には大リーグのアナハイム・エンゼルス読売ジャイアンツでの争奪戦となったが、結局周囲の説得などもあり1998年ドラフトで読売ジャイアンツに1位指名(逆指名)され、入団する。

プロ入り後

ルーキーイヤーの1999年から先発ローテーションの一角を担うこととなる。1999年4月4日阪神タイガース戦でプロ初登板。同年4月13日広島東洋カープ戦でプロ初勝利。5月16日横浜ベイスターズ戦でプロ初完投。9月14日中日ドラゴンズ戦でプロ初完封。5月30日から9月21日までで記録したシーズン15連勝は歴代4位タイ。新人投手の記録としては1966年堀内恒夫が記録した13連勝を33年ぶりに更新する。最終的には20勝4敗の成績を上げ、両リーグを通じて新人投手としては1980年木田勇以来19年ぶり1990年斎藤雅樹以来9年ぶりの20勝投手となる。この年最多勝利最優秀防御率最多奪三振最高勝率の投手主要4部門を制し、史上9人目新人としては史上3人目の投手4冠を達成する。また、新人王沢村賞も受賞する。

2000年から2006年からは7年連続開幕投手を務める。2000年7月2日広島東洋カープ戦で右太もも肉離れを起こし登録抹消。事故や転倒なども重なり9勝7敗に終わる。2001年4月13日阪神タイガース戦で今度は左太ももの肉離れで離脱。早期復帰を果たすも万全でなく、後半戦では右ひざの故障もあって低迷、10勝7敗に終わる。2002年は1年を通してローテーションを守りチームの優勝、日本一に貢献。自身が目標としていた200イニング登板を達成(204イニング)し17勝5敗の成績で最多勝、沢村賞、ベストナインを獲得。2003年も2年連続で200イニング登板を達成し16勝5敗。2004年長嶋ジャパンの一員として、アテネオリンピック野球日本代表に選出。日の丸を背負って金メダル獲得に挑み、銅メダルを獲得した。その間チームを離れていた事もあり、最終成績は13勝5敗に留まる。同年の9月14日に元モデルの山﨑美穂と結婚。2005年は年間を通して不調に苦しみ、9勝12敗で初めてのシーズン負け越しとなる。

入団当初からメジャーへの希望を持ち続けており、2004年2005年オフにもポスティング移籍を直訴してきたが断念。(参照

2006年ワールド・ベースボール・クラシック日本代表として3戦2勝の活躍。米国打線とも互角に渡り合い、大一番となった準決勝の韓国戦でも完璧な投球を見せ、日本の優勝に貢献した。国際試合の成績は大学時代から数えて21戦12勝無敗である。

プロ時代の戦歴

年度別成績(2005年シーズン終了時)

年度 所属 試合数 勝数 敗数 セーブ 先発 奪三振 防御率 失点 自責点 勝率 投球回数
1999年 巨人 25 20 4 0 13 179 2.09 49 46 .833 197(2/3)
2000年 20 9 7 0 14 126 3.57 53 52 .563 131
2001年 24 10 7 0 18 108 4.02 66 62 .588 138(2/3)
2002年 26 17 5 0 18 182 2.60 65 59 .773 204
2003年 27 16 5 0 16 194 3.17 76 73 .762 207(1/3)
2004年 22 13 5 0 20 153 2.60 54 47 .722 163
2005年 27 9 12 0 21 145 3.31 73 69 .429 187(1/3)
通算 171 94 45 0 120 1087 2.99 436 408 .676 1229
  • 2005年まで。
  • 各年度の太字はリーグ最高。

タイトル

1999年
1999年、2002年
1999年、2004年
1999年、2003年
1999年、2002年
1999年、2002年
1999年、2003年

エピソード

  • 自分自身を雑草に喩えた「雑草魂」という言葉は、松坂大輔の「リベンジ」と共に、1999年流行語大賞に選ばれた。「雑草魂」は鈴木啓示の座右の銘「草魂」のモディファイである。同様に「リベンジ」も松坂だけの言葉ではなかった。余談だが鈴木啓示自身も「投げたらアカン」で流行語大賞を受賞している。
  • 入団以来一度もリリーフ登板がないという印象が強いが、実は2001年9月に2度リリーフ登板を経験している。
  • 直球は一時MAX150km/hに手が届こうかという速さだったが、フォームを現在のものに改造してからは140km/h前後が限界になった。しかしノビが良いので打者には150km/h前後に感じると言う。
  • 川上憲伸とは互いを認め合う中でから川上はカットボール、上原はフォークとお互いの勝負球の握り方などの情報を交換し合っている。
  • ヤクルト戦に強く、対セ・リーグ5球団で通算防御率や通算勝利数、完投勝利数、完封勝利数のいずれも一番の成績を残している。実際のところ対ヤクルトの21勝8敗(勝率.724)に対し対広島で20勝8敗(.714)、もっとも数値が低い対阪神でも15勝9敗(勝率6.25)とヤクルトのみに強いわけでない(2005年までの成績)。それもあってか本人は「たまたまそういう結果を残しているだけ」とあまり気にしていない。
  • 彼の投げる試合は早く終わることでも有名である。2005年5月10日オリックス・バファローズ戦では2時間7分で完投勝利を挙げた。
  • 巨人を逆指名しているがメジャー志向から巨人へのこだわり、ひいては日本プロ野球へのこだわりは強くない。相応の結果を出していることから球団にも言いたいことをはっきり言う。

涙の敬遠

ルーキーイヤーの1999年10月5日、上原はヤクルトとの最終戦に登板した。すでに中日の優勝が決まった後の消化試合であり、注目はタイトル争い。松井秀喜が41本、ペタジーニが42本と本塁打王を激しく争っていた。上原自身も中日の野口茂樹と最多勝を争い、この試合に20勝目がかかっていた。この年ペタジーニを無安打に押さえ込んでいた上原は、1・2打席目では勝負して打ち取ることに成功する。しかしこの間松井が一貫して敬遠気味の四球で歩かされ続けたことで、7回裏にペタジーニの3打席目を迎えたところでベンチから敬遠の指令を受ける。指示に従いストレートの四球で歩かせたが、勝負できない悔しさからマウンドの土を蹴り上げ、目に浮かんだ涙をユニホームの袖で拭っていた。9回の4打席目では再び勝負し適時打を浴びたものの、上原は2失点で完投勝利し20勝目を挙げる。その話題性とも相まってこの涙はニュース等で大きく取り上げられ、タイトル争い、四球合戦の正当性について議論を巻き起こした。

人身事故

プロ入り後2度、自家用車で人身事故を起こしている。

  • 2000年7月27日、川崎市内で自家用車を運転中にオートバイ運転中の男性をはね、重傷を負わせた。この事故について、球団から厳重注意の上謹慎10日間の処分を受けた。また、業務上過失傷害で書類送検され罰金30万円の略式命令を受けている。
  • 2006年3月23日、東京都内で自家用車を運転中に清掃車に追突。運転中の男性に軽傷を負わせた。業務上過失傷害と道交法違反の疑いで書類送検され、起訴猶予処分となった。

関連項目

出演

外部リンク