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「大江広元」の版間の差分

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2007年12月25日 (火) 22:21時点における版

大江広元の墓。隣には毛利季光島津忠久の墓がならぶ

大江 広元(おおえ の ひろもと、久安4年(1148年) - 嘉禄元年6月10日1225年7月16日))は、最初は朝廷に仕える下級貴族のいわゆる官人であったが、関東に下り鎌倉幕府に仕え、政所初代別当(長官)となった。備後守護長井氏の始祖であり、江戸時代栄えた酒井氏の先祖でもあるといわれる。また毛利氏も末流にあたる。官位正四位下行陸奥守京都の生まれ。

大江は本姓であり苗字ではないため、「大江広元」は“おおえ・の・ひろもと”と読むのが正しく、“おおえ・ひろもと”ではない。

略歴

広元は藤原光能の息子であると言われている。母の再婚相手である中原広季のもとで養育されたため、中原広元(なかはら の ひろもと)と呼ばれることもある。後に学問の大家であると言われた大江維光の養子となって、そのもとで太政官の書記を務めたという。広元はこのような経緯から知恵者として育っていったのである。

広元には兄の中原親能がいた。親能は源頼朝と親しく、その縁から元暦元年(1184年)に広元も召しだされて頼朝の家臣となり、政所の前身である公文所別当として辣腕を振るった。文治元年(1185年)に頼朝が守護地頭を設置したのも、全ては広元の献策によるものであると言われている。

正治元年(1199年)の頼朝の死後は、北条義時北条政子と協調して幕政に参与する。承久の乱のときも、長男 大江親広が官軍側につき、親子相克するも、広元はあくまで幕府軍の側に立って朝廷との一戦に慎重な御家人を鼓舞、主戦論を唱えた北条政子に協調して幕府軍を勝利に導いた影の功労者のひとりとなった。

年譜

※日付=旧暦
  • 1148年久安4)、京都にて誕生。中原氏を称する。
年月不詳  明経得業生となる。
  • 1168年仁安3年)12月13日、縫殿允に任官。
  • 1170年嘉応2年)12月5日、権少外記に遷任。
  • 1171年承安元年)1月18日、少外記に転任。
  • 1173年(承安3年)1月5日、従五位下に叙位。
月日不詳、九条兼実の政務に関与。
  • 1183年寿永2年)4月9日、従五位上に昇叙。
  • 1184年元暦元年)、相模国鎌倉に下向。源頼朝の家政機関たる公文所別当に就任。
9月17日、因幡守に任官。
4月3日、正五位下に昇叙。因幡守如元。
4月27日、源頼朝公卿に列するに伴い、公文所を政所と改め、引き続き別当留任(異説として公文所・政所の両所並存・別当兼務説がある)。
6月29日、因幡守辞任。
4月1日、明法博士兼左衛門大尉に任官。検非違使にも補任。
11月5日、明法博士辞任。
  • 1192年(建久3年)2月21日、検非違使・左衛門大尉両官職辞職辞任。
  • 1196年(建久7年)1月28日、兵庫頭に任官。
  • 1199年正治元年)12月9日、掃部頭に遷任。
  • 1200年(正治2年)5月、大膳大夫に転任。
  • 1203年建仁3年)、大膳大夫辞任。
  • 1206年建永元年)、鎌倉幕府政所別当辞職。
  • 1213年建保元年)1月5日、従四位上昇叙。
  • 1214年(建保2年)1月5日、正四位下昇叙。
  • 1216年(建保4年)1月27日、陸奥守に任官。
閏6月1日、大江の氏に改めるに付き、朝廷認可。
8月、鎌倉幕府政所別当に復職。
  • 1217年(建保5年)11月10日、陸奥守辞任。出家し覚阿を号する。(陸奥守の後任は、鎌倉幕府執権北條義時となる)
  • 1225年嘉禄元年)6月10日、入寂。

末裔

広元の死後、大江氏は鎌倉幕府から備後の守護として派遣され栄えた、このさい長井氏と称するようになった。庶家の毛利氏は、1247年宝治合戦毛利季光三浦泰村に協力したために、一族のほとんどを誅殺されて衰退してしまう。しかしこのときに生き残った子孫が、後の戦国大名となる安芸国毛利氏や、三河国海東氏酒井氏越後国北条氏(きたじょうし)・安田氏出羽国寒河江氏などの祖につながることになるのである。この他にも因幡国因幡毛利氏も広元の末裔と称している。また、出雲国多胡氏もその様な大江氏流とする見方がある。

「広島」の由来

広島」の地名は、広元の子孫・毛利輝元天正17年(1589年広島城築城の鍬入れの時に、毛利家の祖先である広元から一字を採って命名したといわれている(諸説あり)。

大江広元を演じた俳優

伝記

  • 上杉和彦『大江広元』(吉川弘文館人物叢書、2005年) ISBN 4642052313

関連

外部リンク