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*[http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/100.htmlwww.example.com 品川弥二郎 | 近代日本人の肖像] |
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*[http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/kensei/shinagawayajirou1.html 品川弥二郎関係文書(その1) | 国立国会図書館] |
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2007年12月20日 (木) 09:26時点における版
品川 弥二郎(しながわ やじろう、1843年11月20日(天保14年閏9月29日) - 1900年(明治33年)2月26日)は、日本の武士・長州藩士、政治家。子爵。名は省吾、弥吉。号は扇洲。別称に橋本八郎、松本清熊などがある。
経歴
1843年、萩藩の足軽・弥市右衛門の長男として生まれた。1857年、松下村塾に入門して吉田松陰から教えを受けるが、1859年の井伊直弼による安政の大獄で松陰が刑死すると、高杉晋作と行動を共にし、尊王攘夷運動に加わった。1864年の禁門の変では八幡隊の隊長として参戦したが、敗れて帰国する。帰国後は山田顕義らと協力して御盾隊を組織した。
1865年、木戸孝允(桂小五郎)と共に上京し、薩長同盟の連絡役となった。そして同盟成立後、薩摩藩の人質となっている。戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀として活躍する。
明治維新後の1870年、渡欧して普仏戦争を視察した。帰国後は内務少輔、農商務大輔などを歴任し、1891年に成立した第1次松方正義内閣のもとで内務大臣となった。しかし、松方の命で次官の白根専一とともに内務省管轄下にあった警察を動員して、強力な選挙干渉を行なって死者まで出した経緯を国民から非難され、引責辞職を余儀なくされてしまった。
その後は西郷従道(西郷隆盛の弟)と協力して国民協会を組織する。これは国権主義的な政治団体である。また、獨逸学協会学校(現在の獨協学園)や旧制京華中学校(現在の京華学園)の創立、信用組合の設立にも貢献した。1900年、58歳で死去。
戊辰戦争のとき、新政府軍が歌った「トコトンヤレ節」(「宮さん宮さん」)は、弥二郎が作詞者であると言われている。
系譜
- 品川氏
弥一右衛門━━弥二郎━━弥一━━清太郎
外部リンク
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