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アルトゥル・ショーペンハウアー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アルトゥール・ショーペンハウアー
Arthur Schopenhauer
アルトゥール・ショーペンハウアー
1859年
生誕 (1788-02-22) 1788年2月22日
ポーランド・リトアニア共和国グダニスク
死没 (1860-09-21) 1860年9月21日(72歳没)
自由都市フランクフルト・アム・マイン ドイツ連邦
時代 19世紀の哲学
地域 西洋哲学
学派 観念論
実存主義
厭世主義ペシミズム
研究
研究分野 自然哲学生理学現象学
形而上学認識論存在論
倫理学道徳
美学色彩論芸術
数学論理学
言語哲学言語学
宗教哲学聖書
魔術
超常現象
概念 意志
意志としての世界と表象としての世界
生きんとする意志の肯定と否定
意志と知性
厭世観
署名
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アルトゥール・ショーペンハウアー: Arthur Schopenhauer,1788年2月22日 - 1860年9月21日)は、ドイツ哲学者[1]。主著は『意志と表象としての世界』(Die Welt als Wille und Vorstellung 1819年)[1]

生涯

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幼少時代

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少年時代のショーペンハウアー。

アルトゥール・ショーペンハウアーは1788年、富裕な商人であった父ハインリヒと、名門トロジーネル家の出身であった母ヨハンナ・ショーペンハウアーの長男としてダンツィヒに生まれる[2]

1793年(アルトゥール5歳)、ダンツィヒがプロイセンに併合された際に一家はハンブルクへ移住、妹アデーレが生まれた1797年(9歳)には当時の国際語であったフランス語習得のため、ルアーヴルの貿易商グレゴアール・ド・ブレジメール家に2年間預けられる[2][3]。以後長く友情が続くこととなる、グレゴアールの息子でアルトゥールと同年であったアンティームと親交を結び、この地で幸福な時間を過ごす[2][3]

ハンブルクに帰った1799年(11歳)より約4年間、商人育成のためのルンゲの私塾に通学[2][4]。アルトゥールはギムナジウムへの進学を希望したが、息子を商人にしようとする父に反対される[4]。結局後に商人になるという約束のもとで2年間のヨーロッパ周遊の途にのぼることとなる[4]

1800年(12歳)、家族とともに3か月のプラハ旅行へ、1803-1804年(15-16歳)にはやはり家族と連れ立ってヨーロッパ周遊大旅行(オランダ、イギリス、ベルギーフランス、オーストリア、シュレージェン、プロイセン)へ出ている[4][3]。これらの旅行は父の商用旅行を兼ねておこなわれており、アルトゥール自身の旅日記が残されているが、上流階級との交流や劇場、美術館訪問などが記されていると同時に、路上の物売り、大道芸人、みすぼらしい旅館や居酒屋、旅人たちの労苦、民衆の貧窮、過酷な強制労働、絞首刑の場面など社会の底辺の悲惨と苦しみにも目が向けられ、しばしば激しい衝撃を受けていたことが窺われるが、その多くの感想には早くも厭世主義的な気分や判断がみられる。ただし、「厭世主義」といった言葉は一度たりとも彼の著作には見られない用語であり、厳密に言えば正確ではない[3][4][5]

学問の道へ

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ハンブルクに帰ってきた翌年の1805年(17歳)1月、商業教育を受けるために当時のハンブルクで最も優れた実業家にして、ハンブルク市参事(閣僚に相当)であったイェニッシュの商会に入ったが、4月に父が不慮の死を遂げる[4][6]。1806年(18歳)、伝統あるショーペンハウアー商会が解散すると、義務的に続けられる商業教育と精神的な仕事への渇望との板挟みに会い苦しむようになったが[注釈 1]、原稿を書店に渡した後イタリアに旅立つ[8]。翌1807年(19歳)、既にワイマールに移住していた母からの手紙で、学問の道に進むことへの助言と励ましを与えられ、これがアルトゥールの将来を決定することになる[7][9]。6月にハンブルクを去りゴータのギムナジウムに入り、12月にはワイマールのギムナジウムに転じる[7]。1808年(20歳)、ギムナジウムの校長で優秀なラテン語学者であるレンツにラテン語の会話を習う[7][注釈 2]

1809年(21歳)、ゲッティンゲン大学に入学し医学部に籍をおきながら、最初の哲学の師となるゴットリープ・シュルツェのもとで哲学を学び、翌1810年(22歳)には哲学部へ移る[7][10][11][12]。かねてよりシェリングに傾倒していた若きショーペンハウアーにシュルツェは、今後の勉強の目標はカントプラトンであり、この二人を十分会得するよう忠告する[13][12][10]。1811年(23歳)、復活祭の休暇にヴィーラントの招きでワイマールを訪れる[12][注釈 3]。秋にベルリン大学に移り、ドイツの国民的哲学者であったフィヒテのもとで本格的な哲学研究を始めると、この時期からさまざまな思索を書き留めるようになる[12][14][15]

博士論文から『意志と表象としての世界』へ

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『意志と表象としての世界』完成の三年前、27歳頃の肖像。L・S・ルール画
ゲーテ。1813年、ゲーテ64歳、ショーペンハウアー25歳のときに母ヨハンナのワイマールにあったサロンにて二人は出会う[16]。ショーペンハウアーの才能を高く評価し、「色彩論」の研究を依頼した際には必要な器具も貸与している[17][16]

1812年(24歳)、ベルリン大学でのフィヒテとシュライエルマッヘルに対する尊敬が軽蔑と否定に変わり、これに反し古典文献学者ヴォルフを学者としても人間としても高く評価する[12]。1813年(25歳)春、戦争の危険を感じ第四学期の済まないうちにベルリンを去りワイマールの母のところへ帰ったが間もなく母と気まずくなり、ルードルシュタットのホテルにこもって博士学位論文『根拠の原理の四つの根について』を完成、イエナ大学に提出し、10月18日に哲学博士の学位を得る[12][17][18]。刊行された論文の最初の読者となったゲーテはその才能を高く評価し、自身の指導のもとに色彩現象を研究するよう懇請する[17][16][注釈 4]

1814年(26歳)5月に母と完全に仲たがいしてドレスデンに移住するまでに、東洋学者フリードリヒ・マイヤーを通じて古代インド哲学、とくに『ウプネカット』を知るようになり、これによってショーペンハウアーの来るべき全思想が決定づけられることとなる[17]。1815年(27歳)、色彩論『視覚と色彩について』を完成、翌1815年(28歳)これが刊行され、ゲーテに送る[注釈 5][17][8]。1817年(29歳)、主著『意志と表象として世界』に対する準備工作が、3月から始めた「全体を、関連する論説でもって人々に把握させ得るようにすること」の範囲では終了し、翌1818年(30歳)5月、『意志と表象としての世界』完成、6月にゲーテにその旨を手紙で知らせ[注釈 6]、原稿を書店に渡した後イタリアに旅立つ[8]

1819年(31歳)初め、『意志と表象としての世界』がブロックハウス書店で刊行されたが、商業的には不成功に終わる[8][注釈 7][注釈 8]。6月にミラノにて父の遺産の一部を預けておいたダンツィヒの銀行が倒産したの報を受け、この事件の整理にワイマールに戻る[8][20][注釈 9]。1820年(32歳)3月、ベルリン大学にて「原因の四つの異なった種類について」というタイトルで教職に就くための試験講義を行い、講師の地位を得ると「哲学総論、あるいは世界の本質および人間の精神の学説について」というテーマで毎週5回講義するも、ショーペンハウアーは自分の講義を故意にヘーゲルの主講義の時間に合わせたため、聴講者が集まらず失望する[20]。「イエナ文学新聞」に『意志と表象としての世界』への批判的議論が載り、反駁として『虚偽の引用に対するやむを得ざる告発』を書く[20][注釈 10]。1821年(33歳)、いわゆるマルクェト事件[注釈 11]が起こり、翌1822年(34歳)5月にはスイスを経て第2回のイタリア旅行に出る[20][21]。1823年(35歳)5月、帰国しミュンヘンへ赴くと、この地でほぼ1年間病気に苦しみ、右耳が聞こえなくなる[21]。憂愁が深まる中、翌1824年(36歳)5月29日から6月19日まで治療のためガシュタインに滞在、9月にはドレスデンへ赴く[21]

『意志と表象としての世界』以降

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1825年(37歳)、再びベルリンへ戻り、改めてベルリン大学で講義を行なおうと試みると、講義への聴講届は多かったものも、相変わらず理解されない[21]。しかし、『意志と表象としての世界』は詩人ジャン・パウルにより『小書評』にて輝かしく批評される[21]。1828年(40歳)には『意志と表象としての世界』第2版を意図し、「わが父の霊に」という献辞を書き、また1829年(41歳)にはカントの主著を英訳して出版することを計画している[21]。1830年(42歳)、『視覚と色彩について』をラテン語に書き改めた『生理学的色彩論』Theoria colorum physiologicaを『眼科学的著述小全集』(ライプツィヒ、レオポルト・フォス社刊)第3巻の巻頭論文として発表、同じ年バルタザール・グラシャンの人生智三百則よりなる『神秘必携と処世術』を翻訳、しかしこれは死後に公刊された[21][22]。このころ結婚の計画を考えたり打ち捨てたりしている[22]

隠遁生活へ

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1831年(43歳)8月、コレラの流行を怖れてベルリンを逃れ、9月初めにフランクフルト・アム・マインに移るが[注釈 12]、1832年(44歳)にマンハイムへ移住し丸1年滞在する[22]。1833年(45歳)6月、フランクフルト・アム・マインに戻りついに定住、隠遁生活に入る[22]。『意志と表象としての世界』第2版に載せるつもりの序文を書く[22]。1834年(46歳)、『意志と表象としての世界』を加筆再版する代わりに「補足的な諸考察」Ergänzende Betrachtungenというタイトルのもとに別の追加巻を出版する計画を立てると、1835年(47歳)5月、『意志と表象としての世界』の売れ行きについてブロックハウスに2回目の照会[注釈 13]をする[22][23]。「著書の需要全然なく、在庫は大部分反故に。僅少部数のみ残してある」と前回より屈辱的な回答を受け、独立の論文とするつもりの「補足的な諸考察」の一部を『自然における意志について』Über den Willen in der Naturというタイトルのもとに書き改める[23]。8月、ライン河に沿って4日間コープレンツへ旅行するが、以後フランクフルトを離れなかったため最後の旅行となる[23]

1836年(48歳)、『自然における意志について』がジークムント・シュメルベル書店から刊行[23]。1837年(49歳)、フランクフルト市に作られた「ゲーテ記念像建立委員会」に対しゲーテの記念像を胸像にすべきよう意見書を出す[23]。また、『カント全集』が編纂されることにも関与、『純粋理性批判』は第2版ではなく第1版を採用すべきことを論じる[23]。1838年(50歳)、母ヨハンナ死去。ノルウェー王立学士院(アカデミー)の懸賞募集に応じた論文『意志の自由について』をドロントハイムに送り、同時にデンマークアカデミーに懸賞論文『道徳の基礎について』(募集テーマは「道徳の基礎」)を書き始める[23]。1839年(51歳)2月、『意志の自由について』が入賞、『道徳の基礎について』の原稿をコペンハーゲンに送るも、1840年(52歳)1月、こちらは受賞資格なしと決定する[23][24]。1841年(53歳)、上の2つの懸賞論文を1冊にまとめ、『倫理学の二つの根本問題』としてヨハネス・クリスチアン・ヘルマン書店より刊行[24]。1842年(54歳)、『意志と表象としての世界』の「続編」の仕事を続ける[24]

『意志と表象としての世界・続編』から晩年へ

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1843年(55歳)、『意志と表象としての世界』の続編が完成[24]。この年、フリードリヒ・ドルグードが自著『観念的実在論の誤れる根拠』で、世界歴史上の重要な思想家としてショーペンハウアーの名をあげている[24]。1844年(56歳)、『意志と表象としての世界』正編第2版ならびに『続編』がブロックハウス書店より、書店側はショーペンハウアーに原稿料を払わないとすることで刊行される[24]。ヴィースバーデンの弁護士ヨーハン・アウグスト・ベッカーがショーペンハウアーと哲学的な文通を始め、ショーペンハウアーの学説の支持者となると、1845年(57歳)、フリードリヒ・ドルグードが『真理に立つショーペンハウアー』なる著書をあらわす[24]。同年ショーペンハウアーは『余録と補遺』Parerga und Paralipomenaを書き始め、翌1846年(58歳)7月より哲学博士ユリウス・フラウエンシュテットとの親密な交際が始まる[24][25]。1847年(59歳)、学位論文『根拠の原理の四つの根について』の「著しく改正かつ増補した」第2版がヘルマン書店から刊行される[25]。1848年(60歳)、フリードリヒ・ドルグードが『統一としての世界』という論文を発表し、その中でショーペンハウアーの体系が「一つの教訓詩の形であらわされている」と述べている[25]

再評価と死去

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1849年(61歳)8月、ボンにて妹アデーレ死去。司法官試補アダム・フォン・ドスとの交際が始まり、ドスはショーペンハウアー哲学の信奉者となる[25]。1850年(62歳)、6年間にわたって続けた『余録と補遺』が完成し、フラウエンシュテットの尽力により翌1850年(62歳)11月にベルリンのA・W・ハイン書店から全2巻として、このときも原稿料なしで刊行される[25]。1852年(64歳)、哲学博士エルンスト・オットー・リンドナーとの交際が始まる[25]。1853年(65歳)、『ウェストミンスター・レヴュー』4月号にジョン・オクセンフォードが『ドイツ哲学における偶像破壊』という論文を発表、終始ショーペンハウアーを論じたもので、ショーペンハウアーをはじめて外国人に注目させる役割を果たす[25][26]。1854年(9月)、『自然における意志について』を改訂増補した第2版がヘルマン書店から、12月には『視覚と色彩について』の第2版がハルトクノッホ書店から刊行される[26]。フラウエンシュテットは『ショーペンハウアー哲学に関する書簡集』を発表する[26]リヒャルト・ワーグナーはその詩作『ニーベルングの指輪』に、自筆の「思慕と感謝の心より」という献辞を添えて送ってき、これに対しショーペンハウアーは、ワーグナーは音楽家としてよりも詩人としての才能をもっている、と言っている[26]。さらにこの年、ショーペンハウアーの最初の伝記作家となり、また遺言執行人ともなるヴィルヘルム・グヴィナー法学博士と親しく交際する[26]

1855年(67歳)、フランスの画家ジュール・ルンテシュッツが油彩の肖像を描く[26]。1883年に「ショーペンハウアーについてのわが想い出」を書くことになるワーグナーの弟子で若い作曲家のローベルト・フォン・ホルシュタインとの交際が始まる[26]。1856年(68歳)、ベルリンのザクセ商会からルンテシュッツの描いた肖像画が華麗な石版画となって売り出される[26]。ライプツィヒ大学哲学部が「ショーペンハウアー哲学の真髄の解説と批判」というテーマで懸賞論文を募集する[26]。カール・G・ベールという学生がこれへの応募のため、4月にショーペンハウアーを訪れ、翌1857年(69歳)、2等賞を得る[26][27]。この論文は『ショーペンハウアー哲学の概要ならびに批判的解説』として出版され、ショーペンハウアーはベールに「卓越した書」と記した令状を出す[27]。同年ボン大学でクノートが、ブレスラウ大学ではG・W・ケオルバーがショーペンハウアー哲学に関する、大学でのはじめての講義を行っている[27]

1858年(70歳)、2月22日に70回目の誕生祝いが催され、ベルリン王立学士院がその会員にショーペンハウアーを推薦したがショーペンハウアーはこれを拒否した[27]。8月、主著第2版が売り切れ、ブロックハウス書店よりの第3版を刊行したいとの申し入れを受けて9月に第3版刊行の準備にかかる[27]。1859年(71歳)、画家アンギルベルト・ゲーベルが油彩の肖像を描き、それからエッチングを作る。7月1日ジェーネ・アウスジヒト17番地の16年にわたって間借していた住居を出、同16番地の隣家に移る[27]。女流彫刻家エリザベート・ネイが大理石の胸像を造る[27]。11月、主著第3版が、続編とともに刊行される[27]

1860年(72歳)、ゲーテの義妹オッティーリエが主著第3版へ祝辞を寄せる[27]。『倫理学における二つの根本問題』の第2版への準備を始める[27]。9月9日肺炎にかかり、9月18日遺言執行人ヴィルヘルム・グヴィナーと最後の会見をすると9月21日金曜の朝に死去[27]。9月26日フランクフルト市の墓地に埋葬され、その遺志に従って墓石には彼の姓名だけが刻まれた[27]

思想・影響

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カント直系を自任しながら、世界を表象とみなして、その根底にはたらく「盲目的な生存意志」を説いた[1]。この意志のゆえに経験的な事象はすべて非合理でありこの世界は最悪、人間生活においては意志は絶えず他の意志によって阻まれ、生は同時に苦を意味し、この苦を免れるには意志の諦観・絶滅以外にないと説いた[1][28]。この厭世観的思想は、19世紀後半にドイツに流行し、ニーチェを介して非合理主義の源流となった[1]。当時支配的であったヘーゲル哲学に圧倒されてなかなか世間に受け入れられなかったが、彼の思想は後世の哲学者や文学者、とりわけニーチェワーグナートーマス=マンたちに大きな影響をあたえている[29]

根本思想

ショーペンハウアーの思想は、主著[意志と表象としての世界]に描かれている。彼の哲学は、イマヌエル・カントの直系を自任しながらも、世界を現象としての「表象」(Vorstellung)とみなし、その根底には理性や目的を持たない「意志[30](Wille zum Leben)が働いていると説いた。この意志の概念こそが、彼の提示する厭世観的世界観の核心をなしている。[31]

生存意志と苦痛の必然性

ショーペンハウアーによれば、世界の本質である意志は、自己目的のない盲目的な力であり、その客観化、すなわち個々の現象として現れた経験的世界は、絶え間ない闘争と苦痛に満ちたものとなる。[32]この意志の絶え間ない自己肯定の結果、経験的な事象はすべて非合理であり、この世界は可能な限りの最悪の世界であると彼は断言した。生存意志の顕れである人間の生は、本質的に「欠乏」と「苦痛」を意味し、意志は絶えず他の意志によって阻まれる。たとえ一時的に欲望が満たされ苦痛から解放されたとしても、それはすぐに**「倦怠」(退屈、Langeweile)**へと変わり、人間は苦痛と退屈という二つの極の間を揺れ動き続けることになる。[33]

救済の道:意志の否定

この苦痛に満ちた世界において、人間が苦を免れる道は、根源的な生存意志を一時的または究極的に「否定」(Verneinung)することに尽きる[34]

一時的な救済としては美的な観照[35](Aesthetische Kontemplation)が挙げられる。これは、利害関心に基づく通常の認識から離れ、純粋に客観的な立場から事物を観照することで、プラトン的な「イデア」(原型)を認識する状態である。この観照によって、人は一時的に個人の欲望と苦痛から解放され、静寂を得る。特に、音楽[36]は、イデアの単なる模写である他の芸術とは異なり、意志の客観化の最も直接的な現れ、すなわち意志そのものを直接写し出すものとして最高の地位を与えられた。

しかし、美的な観照は一時的な逃避にすぎず、究極的な救済は「生への意志の否定」(Willensverneinung zur Leben)を通じて達成される。その第一歩となるのが倫理的な行為である。倫理の根源は、自らのエゴイズムを克服し、他者の苦痛を自らのものとして感じ取る「同情(Mitleid)」[37]に求められる。この同情は、すべての現象が根源的に一つの生存意志の客観化であるという認識から生じ、意志の「否定」へと向かう道を開く。最終的な解放のためには、禁欲、清貧、性の否定といった苦行的な生活を通じ、個体内に働く生存意志の力を絶滅させる必要がある。この意志が絶えた後に残るのは、東洋哲学の涅槃(ニルヴァーナ)に近い、人間的な認識を超えた「無」あるいは「空」の境地であると説かれた[38]

語録

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  • 賢さの次には勇気が私たちにとっての甚だ大切な特質である[39]
  • 何かしらあるものを待たなければならないとき、つまり、用事がなくて座っているときにちょうど彼の手に入るもの、例えば、杖やナイフやフォークや或いはその他のものであれ、すぐに拍子をとって叩いたり、ガタガタ音をたてたりしない人こそ百人の中から選ばれた一人として尊敬に値する人物であると思う。恐らく、そのような人は何かを考えている。然るに多くの人にあたっては、眼で見ることが全く思考に取って代わっている。でなければ彼らはガタガタいわせることによって自分の存在を意識しようと努めるのだ。……これらの理由からやはり、彼らは絶えず彼らの周囲に起こる総てのことに対して、全く眼であり耳であるだけなのだといえる[40]
  • 極めつけの戯言を山ほど積み上げ、これ迄は精神病院でしか耳にしなかったような無意味で錯乱した言葉の織物を書きなぐるという最大の厚顔無恥が、ついにヘーゲルにおいて登場し、それが未だかつてその例を見ない乱暴極まる欺瞞の道具となったのである。……その間、ジャン・パウルは《教壇での哲学的馬鹿騒ぎと劇場での文学的馬鹿騒ぎへの高い評価》(『美学補講』)という見事な数節を書いたが、徒労に終わった。ゲーテも既に次のように書いていたが、やはり徒労だったのだ。「平然とああしてお喋りしたり教えたりしているが、誰がああいう阿呆と付き合おうと思うだろう。普通人間は、言葉さえ聞けば、やはり何かしら考えさせられるものがあると思う筈だが。」(『ファウスト第一部』2563-66行)[41]
  • 真の功績に対するこうした尊大な構えは、言うまでもなく徒歩、馬上を問わずあらゆる職種のいかさま師がよく使う術策だが、頭の弱い連中にはまだその効果を失っていない。……自分の言葉の楼閣の高みから尊大で、気難しげな、下品で、嘲笑的な表情で見下し、そうすることで実際、彼のチンプンカンプンの呪文に包まれたその学識共々ドイツの大衆の間に高い評判を呼んだのである。そのドイツの大衆はこう思うのだ。「彼等は横柄で、気難しげだ。高貴な生まれの人らしい。」(『ファウスト第一部』2177-78行)[42]
  • この男の顔に自然はこの上なく読みやすい文字でお馴染みの《凡人》と書き記していた筈である[43]
  • 新しい思想を生み出す能力のない者は、せめて新しい言葉を売りに出そうとする[44]
  • 新聞は歴史の秒針である。だがそれは大抵他の二針よりも一段と卑しい金属で出来ている……動くものさえあれば忽ち見境なくキャンキャン吠え立てる子犬に似ている[45]
  • 誇りというものがどれ程ひっきりなしに非難され、罵倒されていようと、私に言わせれば、そうした非難や罵倒の火元は主として誇り得るなにものも持ち合わせていない連中であるに違いない。……何某かの才能を持っている者は須く、その才能が完全に忘れられてしまわぬよう、しっかりと自分の眼で見守ってゆかねばならない[46]
  • 自ら業績のある人間は他人の業績を認めるに吝かであろうはずがなく、ましてやそれが噓偽りのない本物の業績ならばなおのこと、これは自明の理だからである[47]
  • ろくでなしは皆哀れな程に人付き合いがよい。これに反してある人間が高貴であるということの何よりの証拠は、彼がその他大勢の人々に飽き足らず、やがてそうした人間達の社会よりも孤独を好むようになり、そのうちに段々と、稀な例外を除けばこの世には孤独か俗悪かの二者択一しかないという洞察に達するのである[48]
  • 謙譲の美徳はろくでなしにとってまことに結構な発明といえよう。何故ならこの美徳に従えば、誰もが自分についてまるで自分もろくでなし仲間の一人であるかのように語らねばならず、その結果、世の中はろくでなしだけになってしまい、きれいさっぱり万民平等となるからである[49]
  • 愚か者や間抜け共に対して自分の知性のほどをはっきり見せつけてやるには、ただひとつの方法しかないことが分かるだろう。その方法とは、彼等と口を利かないことである[50]
  • 教義が入り乱れ、雑多で、複雑なものになればなるほど、ますます神話的になる。このことを最もよく理解しているのがヨーガの行者やサニアッシなる隠遁者であり、彼等は自分の方法を修正、模索しながら、感覚の全てを身の内へ引き戻し、世界全体を忘却し、更に自己自身をも忘却してゆく。こうして彼の意識に残存するものは、根源的存在だけとなる。もっとも、言うは行うよりやすしだが[51]
  • 自然は貴族的だ。どんな封建制やカースト制も及ばぬ程に貴族的なのだ[52]
  • 太陽系でさえ君主的である。これに対して共和的体制は、人間にとって自然に反すると共に、高次の精神生活、つまり、芸術や学問にとっては不都合である[53]
  • 最上層の身分の人々にしてなお言えることは《自分達の幸福は全く自分自身の外部に依存しており、その依存の場所は他人の頭の中だ》ということである[54]
  • 外面の利得のために内面の損失を招くこと、すなわち、栄光、顕職、豪奢、称号、名誉のために心の平安、ゆとり、独立の全てを、少なくともその大部分を犠牲にすることは、もってのほかの愚行である[55]
  • 他人から高い評価を得ようとするなら、たとえどれ程名文句が浮かんできても、それを口にするより沈黙を守っている方が、ずっと容易に、しかも確実に目的に達するものだ[56]
  • 不必要な騒音、例えば、扉を不作法かつ乱暴に叩きつけて閉める時のあの恐ろしい大音響等に対して世間が寛大なのは、連中の頭が鈍感で空っぽの証拠である[57]
  • 私はかねがね実感として、ある人が平然と我慢出来る騒音の量はその人の精神力に反比例し、従ってそれは精神力のおおよその尺度とみなすことが出来るという意見を抱いている[58]
  • 娯楽がないと、頭の悪い人間は手当たり次第に何かを摑んで打ったり叩いたりしてその場をしのごうとする[59]
  • 人は考えなくなればなる程、それだけ彼方此方に眼を走らせることになる。見ることが考えることに取って替わるのだ[60]
  • ある体制が覆された時には、軍隊が撃破された時と同様、真っ先に脱走する者が一番の利口者である[61]
  • 財産は海水に似ている。飲めば飲む程、渇きは増す。同じ事が名声についても言える[62]
  • 髭は人間にとって自然なものだといわれている。正にその通り。だから髭は自然状態の人間にはまことに似合っている。しかし文明化された状態にある人間は、逆に髭を剃り落とすことの方が望ましい[63]
  • 肉欲の歓びの瞬間が訪れた時の二人を見るがよい。あらゆる戯れ、あの穏やかな優美さの全ては不意に影を潜め、行為が始まるに及んで一挙にかき消え、深い真面目さに席を譲る。それはどんな真面目さだろうか。動物の真面目さである。動物達は笑わない[64]
  • 理性は女性的な性質のものだ。それは迎え入れた後でしか与えることが出来ない[65]
  • 真理は自分を激しく求めもしない相手の首っ玉に齧り付くような娼婦ではない。それどころか、全てを捧げて尽くす者さえもその籠を得たと確信させてもらえない程つれない美女なのである[66]
  • 知性は外延的な量ではなく、内包的な量である。だから一人をもってよく万人に匹敵し得るものだし、愚者が何千人集まろうと、ただ一人の賢者にも及ばないのである[67]
  • 若者があまり早い時期から世渡りの勝手を知り、すぐさまそれに馴染み、まるで用意万端整えていたかのようにそこへ踏み込んでゆくのは、知的な点でも道徳的な点でも感心できない徴候である。それは卑俗さの証である。これに反して、同じ世間の営みに対してどこか馴染めない、戸惑った、ぎこちない、片意地な態度でのぞむような若者には、ある高貴な本性を暗示するものがある[68]
  • 多くの人間にとって哲学者は自分達の眠りを妨げる煩わしい夜更かし連中である[69]
  • 小説家の使命は大事件を物語ることではなくて、些細な出来事を興味深いものに仕立てることである[70]
  • 音楽であれ、哲学であれ、絵画であれ、詩作であれ、天才の作品は実用の具ではない。無用であるということが天才の作品の性格の一つである。それは天才の作品の叙爵書である[71]
  • 楽しそうな人間は常にその理由がある。つまり、楽しいということが、他ならぬその理由なのである。……だから我々は、快活さがいつ現れてもいいように、門戸を開け放っておくべきである[72]

人物・エピソード

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愛犬「アートマン
  • イエナ大学ベルリン大学で私講師をしていた際、同大学で生徒から絶大な人気を誇っていたヘーゲルを「酒場のおやじのような顔」と嫉妬心から批難し、ヘーゲルの講義を自分の講義と同時間帯に設定したが、ヘーゲルの講義は満員でショーペンハウアーの講義はガラガラであった。これが原因で半年後に私講師を辞職した。
  • 本人は「仏陀エックハルト、そしてこの私は、本質的には同じことを教えている」と述べている[73]
  • ショーペンハウアーは芸術論・自殺論が有名であるが、むしろ博学で、法律学から自然学まであらゆるジャンルを網羅した総合哲学者としての側面が強い。
  • 仏教精神そのものといえる思想と、インド哲学の精髄を明晰に語り尽くした思想家[74]であり、日本でも森鷗外をはじめ、堀辰雄萩原朔太郎筒井康隆[75]など多くの作家に影響を及ぼした。
  • フィヒテシェリングの哲学は、この哲学史上およそ例のないみじめな似非哲学のさきがけと批判した[76]

著作

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  • 根拠律の四つの根についてÜber die vierfache Wurzel des Satzes vom zureichenden Grunde (1813年)
  • 視覚と色彩についてÜber das Sehen und die Farben (1816年)
  • 意志と表象としての世界Die Welt als Wille und Vorstellung (正編・1819年) (続編・1844年)
  • 『生理学的色彩論』 Theoria colorum physiologica (『見ることと色とについて』をラテン語でまとめたもの、1830年)
  • 『自然のうちなる意志について』 Über den Willen in der Natur (1836年)
  • 『倫理学の二大根本問題』 Die beiden Grundprobleme der Ethik (1841年)
  • 『余録と補遺』 Parerga und Paralipomena (副題 哲学小品集)(1851年)
    • 『余録と補遺』は第1巻、第2巻に分かれている。その第1巻に含まれる『生活の知恵のためのアフォリズム』は、日本ではエッセイ集『幸福について』として親しまれている。この他に『自殺について』『読書について』なども『余録と補遺』の一編である。アフォリズム、およびエッセイ的内容から、邦題では『随感録』とされることがある。

日本語訳

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※は電子書籍も刊

脚注

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注釈

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  1. ^ このころ性的な葛藤と精神的な危機が訪れる。[7]
  2. ^ この年カロリーネ・ヤーゲマンに恋情を燃やす。[7]
  3. ^ この際には、「哲学はまだちゃんとした専門学科とはなっていない……」とのヴィーラントの話に対して、「生きるということは困難なことです。わたしは、その困難さについて探求するために一生を送ろうと思います」と答えている。[14][15]
  4. ^ 母のサロンで会ってからしばしばショーペンハウアーと親しい交渉をもったゲーテであったが、ある会合で二、三の若い女性がショーペンハウアーについて「まるで面白くなさそうなマジメ人間ね」などと批評しているのを小耳にはさむと、「かわいいみなさん、彼をそっとしてあげなさい。彼はわたしたち全員の頭を越して倍ほどにも成長する人です」とたしなめたという。[8][19]
  5. ^ 論文の立脚点はゲーテから出発したものの、その方向はゲーテとは反対だったため、彼に純粋な喜びを与えるわけにいかなかった。[8]
  6. ^ ゲーテの返事には、「お知らせのあった著書を私は必ずや満腔の関心を寄せながら読むでしょう」とある。[8]
  7. ^ 3月ミラノにて受け取った妹アデーレよりの手紙には、「ゲーテさんはあなたの著作を喜んで受け取り、またたく間に読み始めました。……その後オッティリーさん(ゲーテの息子の嫁)のお話によると、ゲーテさんはあの本をいままでけっして見かけなかったような熱心さで読んでいるようです。なかでもお気に召したのは、表現と文体の明朗さだということです」とある。[20]
  8. ^ ヴェネチアである婦人と恋に陥り、なまめかしい関係がショーペンハウアーを悩殺する。[8]
  9. ^ この際に再会しているゲーテはこのときのショーペンハウアーについて、「多くの人から見誤られている、しかも知るにむずかしい立派な業績をもつ若い人――ショーペンハウアー博士の訪問は私を刺戟し交互の啓蒙へと進ませる」(『年代記』)と記している。[20]
  10. ^ この年から多分カロリーネ・リヒター(別名メドン)との愛人関係が始まる。[20]
  11. ^ 裁縫女マルクェトに怪我をさせ、裁判の結果彼女の終身扶養の義務を負わせられる。[20]
  12. ^ このコレラにより、生涯最大の敵手だったヘーゲルが11月24日に急逝。[22]
  13. ^ 第一回の照会は1828年(40歳)。初め750部印刷のうち150はまだ売れず、売れ行き「はなはだしく不良」、数年前に「相当な部数」反故処分、との返事。[21]

出典

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  1. ^ a b c d e 岩波小辞典哲学 P96 岩波書店 1958年
  2. ^ a b c d 西尾幹二訳『意志と表象としての世界 Ⅱ』、P333 年譜。中央公論新社〈中公クラシックス〉、2004年
  3. ^ a b c d 西尾幹二訳『意志と表象としての世界 Ⅰ』、P6。鎌田康男解説「ショーペンハウアーの修業時代」中央公論新社〈中公クラシックス〉、2004年
  4. ^ a b c d e f 『意志と表象としての世界 Ⅱ』、P334 年譜。中公クラシックス、2004年
  5. ^ 『意志と表象としての世界 Ⅰ』、P7。鎌田康男解説「ショーペンハウアーの修業時代」、中公クラシックス、2004年
  6. ^ 『意志と表象としての世界 Ⅰ』、P14。鎌田康男解説「ショーペンハウアーの修業時代」、中公クラシックス、2004年
  7. ^ a b c d e f 『意志と表象としての世界 Ⅱ』、P335 年譜。中公クラシックス、2004年
  8. ^ a b c d e f g h i 『意志と表象としての世界 Ⅱ』、P338 年譜。中公クラシックス、2004年
  9. ^ 『意志と表象としての世界 Ⅰ』、P15-16。鎌田康男解説「ショーペンハウアーの修業時代」、中公クラシックス、2004年
  10. ^ a b 『意志と表象としての世界 Ⅰ』、P18。鎌田康男解説「ショーペンハウアーの修業時代」、中公クラシックス、2004年
  11. ^ 『意志と表象としての世界 Ⅰ』、P20。鎌田康男解説「ショーペンハウアーの修業時代」、中公クラシックス、2004年
  12. ^ a b c d e f 『意志と表象としての世界 Ⅱ』、P336 年譜。中公クラシックス、2004年
  13. ^ ヴィルヘルム・グヴィナー「身近に接したショーペンハウアー」-『全集 別巻 ショーペンハウアー生涯と思想』より(白水社)
  14. ^ a b 『意志と表象としての世界 Ⅰ』、P24。鎌田康男解説「ショーペンハウアーの修業時代」、中公クラシックス、2004年
  15. ^ a b 『意志と表象としての世界 Ⅰ』、P25。鎌田康男解説「ショーペンハウアーの修業時代」、中公クラシックス、2004年
  16. ^ a b c 「ショーペンハウアー全集1」白水社、P335。『根拠率の四つの根について』生松敬三訳、『視覚と色彩について』金森誠也訳。各・訳者あとがき、1972年
  17. ^ a b c d e 『意志と表象としての世界 Ⅱ』、P337 年譜。中公クラシックス、2004年
  18. ^ 『意志と表象としての世界 Ⅰ』、P28。鎌田康男解説「ショーペンハウアーの修業時代」、中公クラシックス、2004年
  19. ^ 「全集1」白水社、P336。『根拠率の四つの根について』生松敬三訳、『視覚と色彩について』金森誠也訳、各・訳者あとがき、1972年
  20. ^ a b c d e f g h 『意志と表象としての世界 Ⅱ』、P339 年譜。中公クラシックス、2004年
  21. ^ a b c d e f g h 『意志と表象としての世界 Ⅱ』、P340 年譜。中公クラシックス、2004年
  22. ^ a b c d e f g 『意志と表象としての世界 Ⅱ』、P341 年譜。中公クラシックス、2004年
  23. ^ a b c d e f g h 『意志と表象としての世界 Ⅱ』、P342 年譜。中公クラシックス、2004年
  24. ^ a b c d e f g h 『意志と表象としての世界 Ⅱ』、P343 年譜。中公クラシックス、2004年
  25. ^ a b c d e f g 『意志と表象としての世界 Ⅱ』、P344 年譜。中公クラシックス、2004年
  26. ^ a b c d e f g h i j 『意志と表象としての世界 Ⅱ』、P345 年譜。中公クラシックス、2004年
  27. ^ a b c d e f g h i j k l 『意志と表象としての世界 Ⅱ』、P346 年譜。中公クラシックス、2004年
  28. ^ 広辞苑 新村出編〈岩波書店〉1992年第四版
  29. ^ 『倫理用語集』濱井修監修 P83〈山川出版社〉1986年
  30. ^ 『意志と表象としての世界I』中公クラシックス、2004年8月10日、219頁。 
  31. ^ Wicks, Robert (2024), Zalta, Edward N.; Nodelman, Uri, eds., Arthur Schopenhauer (Spring 2024 ed.), Metaphysics Research Lab, Stanford University, https://plato.stanford.edu/archives/spr2024/entries/schopenhauer/ 2025年11月21日閲覧。 
  32. ^ 『意志と表象としての世界II』中公クラシックス、2004年9月10日、325頁。 
  33. ^ 『意志と表象としての世界III』中公クラシックス、2004年10月10日、3頁。 
  34. ^ a b 旧訳版は斎藤信治訳、岩波文庫、改版1979
  35. ^ Wicks, Robert (2024), Zalta, Edward N.; Nodelman, Uri, eds., Arthur Schopenhauer (Spring 2024 ed.), Metaphysics Research Lab, Stanford University, https://plato.stanford.edu/archives/spr2024/entries/schopenhauer/ 2025年11月21日閲覧。 
  36. ^ Wicks, Robert (2024), Zalta, Edward N.; Nodelman, Uri, eds., Arthur Schopenhauer (Spring 2024 ed.), Metaphysics Research Lab, Stanford University, https://plato.stanford.edu/archives/spr2024/entries/schopenhauer/ 2025年11月21日閲覧。 
  37. ^ 『意志と表象としての世界III』中公クラシックス、2004年10月10日、155頁。 
  38. ^ 『意志と表象としての世界III』中公クラシックス、2004年10月10日、163頁。 
  39. ^ 『幸福について』石井正・石井立 訳 創元文庫1951, P.247
  40. ^ 『幸福について』石井正・石井立 訳 創元文庫1951, P.205
  41. ^ ラルフ・ヴィーナー編著、酒田健一訳『笑うショーペンハウアー』白水社、1998年、p.180
  42. ^ 酒田(1998年)p.200
  43. ^ 酒田(1998年)p.194
  44. ^ 酒田(1998年)p.20
  45. ^ 酒田(1998年)p.259
  46. ^ 酒田(1998年)p.106
  47. ^ 酒田(1998年)p.96
  48. ^ 酒田(1998年)p.103
  49. ^ 酒田(1998年)p.99
  50. ^ 酒田(1998年)p.102
  51. ^ 酒田(1998年)p.287
  52. ^ 酒田(1998年)p.282
  53. ^ 酒田(1998年)p.269
  54. ^ 酒田(1998年)p.272
  55. ^ 酒田(1998年)p.107
  56. ^ 酒田(1998年)pp.156-157
  57. ^ 酒田(1998年)p.149
  58. ^ 酒田(1998年)p.150
  59. ^ 酒田(1998年)p.160
  60. ^ 酒田(1998年)p.293
  61. ^ 酒田(1998年)p.258
  62. ^ 酒田(1998年)p.249
  63. ^ 酒田(1998年)p.249
  64. ^ 酒田(1998年)p.232
  65. ^ 酒田(1998年)p.212
  66. ^ 酒田(1998年)p.212
  67. ^ 酒田(1998年)p.260
  68. ^ 酒田(1998年)p.159
  69. ^ 酒田(1998年)p.118
  70. ^ 酒田(1998年)p.149
  71. ^ 酒田(1998年)p.147
  72. ^ 酒田(1998年)p.294
  73. ^ 酒田(1998年)p.100
  74. ^ ショーペンハウアーとウスペンスキー - ウェイバックマシン(2001年11月23日アーカイブ分)
  75. ^ 筒井康隆『漂流 本から本へ』P74~76(朝日新聞社、2011年)
  76. ^ ショーペンハウアー; 鈴木芳子訳 (2013). 読書について. 光文社古典新訳文庫 

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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