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|caption= [[ソ連国家保安委員会|KGB]]議長時代のアンドロポフ<br />(1974年撮影)
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'''ユーリ・ウラジーミロヴィチ・アンドロポフ'''({{lang-ru|'''Ю́рий Влади́мирович Андро́пов'''}}、[[ラテン文字化|ラテン文字表記]]:{{Lang|en|Yurii Vladimirovich Andropov}}、[[1914年]][[6月15日]] - [[1984年]][[2月9日]]<ref>{{Kotobank|アンドロポフ}}</ref>)は、[[ソビエト連邦]]の[[政治家]]、[[軍人]]。[[レオニード・ブレジネフ|ブレジネフ]]の死後は[[ソビエト連邦共産党書記長|ソ連共産党中央委書記長]]、[[最高会議幹部会議長]]として同国の[[ソビエト連邦の指導者の一覧|最高指導者]]の地位にあった。党中央委第二書記、[[ソ連国家保安委員会|国家保安委員会(KGB)]]議長、駐[[ハンガリー人民共和国]]ソ連大使を歴任。軍の階級は[[上級大将 (ソ連)|上級大将]]。[[詩人]]としても知られている
'''ユーリ・ウラジーミロヴィチ・アンドロポフ'''({{lang-ru|'''Ю́рий Влади́мирович Андро́пов'''}}、[[ラテン文字化|ラテン文字表記]]:{{Lang|en|Yurii Vladimirovich Andropov}}、[[1914年]][[6月15日]] - [[1984年]][[2月9日]]<ref>{{Kotobank|アンドロポフ}}</ref>)は、[[ソビエト連邦]]の[[政治家]]、[[軍人]]。[[レオニード・ブレジネフ|ブレジネフ]]の死後は[[ソビエト連邦共産党書記長|ソ連共産党中央委書記長]]、[[最高会議幹部会議長]]として同国の[[ソビエト連邦の指導者の一覧|最高指導者]]の地位にあった。党中央委第二書記、[[ソ連国家保安委員会|国家保安委員会(KGB)]]議長、駐[[ハンガリー人民共和国]]ソ連大使を歴任。軍の階級は[[上級大将 (ソ連)|上級大将]]。


長らく[[秘密警察]]のトップたるKGB議長を務めた。書記長に就任後はブレジネフ時代に蓄積された停滞と腐敗の一掃・労働規律の強化に乗り出したものの、就任半年後に病に倒れ十分な成果を収められなかった。しかしアンドロポフの構想の一部は、自らが目を掛けて引き立ててきた同郷の後輩でもある[[ミハイル・ゴルバチョフ]]に引き継がれた。
長らく[[秘密警察]]のトップたるKGB議長を務めた。書記長に就任後はブレジネフ時代に蓄積された停滞と腐敗の一掃・労働規律の強化に乗り出したものの、就任後に病に倒れ十分な成果を収められなかった。しかしアンドロポフの構想の一部は、自らが目を掛けて引き立ててきた同郷の後輩でもある[[ミハイル・ゴルバチョフ]]に引き継がれた。


== 来歴 ==
== 来歴 ==
=== 生い立ち ===
=== 生い立ち ===
アンドロポフは、1914年6月15日、[[スタヴロポリ地方|スタヴロポリ州]]に、ナグツカヤの鉄道職員を父として生まれる<ref name = "medvedev_P40">[[#メドベージェフ|メドベージェフ(1983年)]]、40頁</ref><ref name = "kimura_P362">[[#木村|木村(1985年)]]、362頁</ref><ref name = "shinkai_P41">[[#新開|新開(1983年)]]、41頁</ref><ref name = "baron1984_P17-18">[[#バロン(1984年)|バロン(1984年)]]、17-18頁</ref>。16歳でコーカサスの[[南オセチア|オセット自治共和国]]の[[モズドク|モズドク市]]で労働者として働き始め、[[コムソモール]]に参加<ref name = "medvedev_P40"/><ref name = "shinkai_P41">[[#新開|新開(1983年)]]、41頁</ref><ref name = "solovyov_P112">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、112頁</ref>。その後、[[ヴォルガ川]]運輸局船員、電信技術者、映写技術者も務める<ref name = "medvedev_P40"/><ref name = "kimura_P362"/><ref name = "shinkai_P41"/><ref name = "solovyov_P112"/><ref name = "baron1974_P156-157">[[#バロン(1974年)|バロン(1974年)]]、156-157頁</ref><ref name = "baron1984_P17-18"/>。1932年又は1933年以降、[[ヤロスラヴリ|ヤロスラフ地区]]の[[ルイビンスク]]水上輸送技術専門学校に所属、1936年に卒業後、アンドロポフはルイビンスクのボロダルスキー造船所内のコムソモール専従書記になる<ref name = "medvedev_P40"/><ref name = "kimura_P362"/><ref name = "solovyov_P112"/><ref name = "tozen_P30">[[#杜漸|杜漸(1983年)]]、30頁</ref><ref name = "shinkai_P43">[[#新開|新開(1983年)]]、43頁</ref><ref name = "medvedev_P40-41">[[#メドベージェフ|メドベージェフ(1983年)]]、40-41頁</ref>。アンドロポフの公表されている学歴は、高等教育修了とされ、学業は振るわなかった<ref name = "medvedev_P40"/><ref name = "solovyov_P112">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、112頁</ref>。大学卒業相当の学歴になるが、16歳で働きに出ているところを見ると、学業の修了は、7~8年かかり、大学相当の教育機関への入学資格はなかったとみられる<ref name = "medvedev_P40"/>。しかし、[[ソ連国家保安委員会|KGB]]に就職後、大学相当の教育課程を修了していた可能性がある<ref name = "medvedev_P40"/>。
公式記録によると、アンドロポフは[[1914年]][[6月15日]]、[[ロシア帝国]][[スタヴロポリ地方]]ナグツカヤで生まれた。アンドロポフの家族に関する情報は謎めいており、明らかになっていない点も多い。父は[[ドン・コサック]]の家系の鉄道労働者であり、アンドロポフが幼少の頃の[[1919年]]に[[チフス]]に罹患し亡くなったとの説もある。[[1936年]]、ルイビンスク水運技術専門学校を卒業。ヴォルガ蒸気船などに勤めた。[[1939年]]、[[ソ連共産党]]に入党。ソ連共産党中央委員会附属高等党学校を卒業後の[[1940年]]からカレリアの[[コムソモール|コムソモール(共産主義青年同盟)]]第一書記を務め、[[フィンランド]]と国境を接する[[カレリア共和国|カレリア自治共和国]]を担当する。[[独ソ戦]]が始まるとカレリアで[[パルチザン]]活動に入り、[[1944年]]にその首都[[ペトロザボーツク]]が解放されたのちは同市での党活動に移る。[[1947年]]、カレリア党第二書記に就任。住民に[[フィン人]]([[カレリア人]])を多く抱え、[[ソ連・フィンランド戦争]]で一時フィンランド軍の占領を受けるなど複雑な事情を抱えていた地域で指導者として政治的力量を認められた。

アンドロポフは、この時点では共産党員ではなかったものの、1938年までに[[ヤロスラヴリ州]]の党委員会のコムソモール第一書記に昇進<ref name = "medvedev_P40-41"/><ref name = "kimura_P362"/><ref name = "shinkai_P43"/><ref name = "solovyov_P22">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、22頁</ref><ref name = "solovyov_P113">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、113頁</ref><ref name = "volkogonov_P140-141"/>。1939年、ソ連共産党に入党<ref name = "solovyov_P22"/><ref name = "tozen_P30"/>。1940年には、[[カレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国]]の[[第一書記]]になる<ref name = "medvedev_P40-41"/><ref name = "kimura_P362"/><ref name = "shinkai_P43"/>。公式記録では、1940年から1944年まで[[カレリア|カレリア地区]]書記となっている<ref name = "medvedev_P40-41"/><ref name = "volkogonov_P140-141">[[#ヴォルコゴーノフ|ヴォルコゴーノフ(1997年)]]、140-141頁</ref><ref name = "kimura_P319">[[#木村|木村(1985年)]]、319頁</ref>。第一書記になるには、党規則により、5年以上の党員歴が必要であり、異例とも言える出世スピードであったが、これには、スターリンによる粛清により、役職に空白ができていたためである<ref name = "solovyov_P22"/><ref name = "medvedev_P41">[[#メドベージェフ|メドベージェフ(1983年)]]、41頁</ref><ref name = "solovyov_P113"/>。[[冬戦争|ソフィン戦争]]の結果、フィンランドは一部の領土をソ連に割譲した<ref name = "medvedev_P40-41"/><ref name = "baron1984_P17-18"/>。[[ヴィボルグ]]のソ連化がアンドロポフの任務であった<ref name = "medvedev_P40-41"/><ref name = "baron1984_P17-18"/>。ただ、このソ連化に関しては、フィンランド人がほとんど逃げていたため困難な任務というわけではなかった<ref name = "baron1984_P17-18"/>。

[[独ソ戦]]開戦後、アンドロポフは、カレリアでパルチザンとして活動する<ref name = "medvedev_P42-43">[[#メドベージェフ|メドベージェフ(1983年)]]、42-43頁</ref><ref name = "kimura_P319"/><ref name = "shinkai_P43"/><ref name = "baron1974_P156-157"/><ref name = "tozen_P30"/><ref name = "baron1984_P18">[[#バロン(1984年)|バロン(1984年)]]、18頁</ref>。アンドロポフは、ドイツとフィンランドが占領していない[[ペトロザヴォーツク]]の北方にいたと見られる<ref name = "medvedev_P42-43"/>。アンドロポフはパルチザン作戦の組織の策定に携わっており、実戦に参加していないと見られる<ref name = "medvedev_P42-43"/>。ソ連軍がペトロザヴォーツク市を奪還した1944年には、同市の党第二書記に就任する<ref name = "shinkai_P43"/><ref name = "tozen_P30"/><ref name = "kimura_P362"/><ref name = "medvedev_P43">[[#メドベージェフ|メドベージェフ(1983年)]]、43頁</ref>。

第二次世界大戦後、1947年にカレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国の第二書記になり、ソ連化を推し進め、[[フィンランド共産党]]の創設者の一人で当時第一書記であった[[オットー・クーシネン]]にヴィボルグのソ連化の功績が認められ、1951年、党中央委員会に転属する<ref name = "kimura_P362"/><ref name = "shinkai_P43"/><ref name = "volkogonov_P140-141"/><ref name = "baron1984_P18"/>{{refnest | group = * |文献によっては中央委員会の検査官ないし監査官や<ref name = "medvedev_P43"/><ref name = "shinkai_P43"/><ref name = "volkogonov_P140-141"/>、同委員会の国際部<ref name = "kimura_P362"/>、同委員会の行政的なポストに就いた<ref name = "baron1984_P18"/>という表記があり不明なところが多いため、党中央委員会と記載した。}}。1951年から1953年まで、ペトロザヴォーツク大学に学ぶが、中退<ref name = "kimura_P362"/><ref name = "shinkai_P43"/><ref name = "tozen_P30"/>。共産党中央委員付属高級党学校にも所属したが{{refnest | group = * |学校の名称については、ソ連共産党中央委員会付属軍政学校、党中央委員会付属高等学校、党中央委員会附属最高党学校など様々な記載が存在している<ref name = "volkogonov_P140-141"/><ref name = "shinkai_P43"/><ref name = "solovyov_P113"/>。}}、こちらについては文献によっては卒業と記載されていたり、卒業していないとする文献がある<ref name = "solovyov_P113"/><ref name = "shinkai_P43"/><ref name = "volkogonov_P140-141"/>。


=== 外交官として ===
=== 外交官として ===
====駐ハンガリー大使====
====駐ハンガリー大使====
1953年、外交方面に進み、外務省第四欧州部長(チェコ・ポーランド担当)を経て、1953年駐ハンガリー参事官、1954年同国大使に昇進する<ref name = "kimura_P362"/><ref name = "tozen_P30"/><ref name = "volkogonov_P140-141"/><ref name = "baron1984_P18"/><ref name = "medvedev_P43"/><ref name = "kimura_P166">[[#木村|木村(1985年)]]、166頁</ref><ref name = "shinkai_P44-45">[[#新開|新開(1983年)]]、44-45頁</ref><ref name = "solovyov_P4-5">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、4-5頁</ref>。一見、順調なキャリアに見えるが、他国の大使館勤務になるということは、モスクワの中枢部にて勤務できないことになり、うまく昇進したとしても外務次官止まりか、[[西側諸国|西側]]の大使で一生を終えることを意味していた<ref name = "solovyov_P4-5"/>。アンドロポフが[[ハンガリー]]に赴任することになったのは、当時[[ニキータ・フルシチョフ]]がスターリン時代の党員の配置転換を行なっており、それに巻き添えを受けたためであった<ref name = "solovyov_P4-5"/>。また、1953年には、[[ベルリン暴動]]を現場で目撃している<ref name = "solovyov_P8">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、8頁</ref>。
[[1951年]]に[[オットー・クーシネン]]の推薦でソ連共産党の国際活動・外交及び諜報部門に活動の場を移し、[[1954年]]7月には駐ハンガリー大使に任命された。2年後の[[1956年]]に[[ハンガリー動乱]]が勃発。ハンガリー国民は蜂起し社会主義の打倒を目指した。アンドロポフはこの事件を「反革命、反社会主義の暴動」と非難し、ソ連の指導部と連絡を取りつつ軍隊を派遣してハンガリーの社会主義政府を支援すべきだと考える。彼は軍事介入に消極的だった[[ニキータ・フルシチョフ]]第一書記を説得し、[[ソ連軍]]の派兵を実現させた。結果的には動乱鎮圧に成功したものの、その過程で2500人以上が死亡し、ハンガリーの指導者は逮捕され、同国首相の[[ナジ・イムレ]]は処刑された。その冷酷な弾圧手法が故に、アンドロポフは西側諸国に「[[ブダペスト]]の虐殺者」として知られることになった。


大使館時代は、パーティーなどでハンガリーの歌を歌うなどしており、1957年にモスクワに帰任以降も個人的にハンガリーを旅行することがあった<ref name = "solovyov_P5">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、5頁</ref>。ハンガリー赴任時には結婚していたようである<ref name = "solovyov_P5"/>。
====共産党中央委へ====
[[1957年]]、アンドロポフは[[モスクワ]]に戻り、党中央委員会の社会主義諸国共産党・労働者党連絡部長に任じられる。また中ソ会談代表として[[中ソ論争]]に深い関わりを持つ。アンドロポフは、その職責の中にあってもハンガリーでの出来事を忘れることはなかった。ソ連の外交官オレグ・トロヤノフスキーによると、アンドロポフはハンガリー動乱について「あなた方は、それがどんな様子だったか到底想像できまい。何十万人もの人々が街にあふれ、完全に制御不能になっていた。」と語り、その後も折に触れ話し続けたという。その様子とは怒り狂った群衆が警官を殺害していた様子である。アンドロポフは、ソ連でそうした光景を目にすることを恐れ、それを防ぐために全力を尽くしていたと言われている。[[1961年]]の第22回党大会以降は中央委員となった。[[1962年]]には中央委員会書記に昇進した。


== KGB議長として ==
=== ハンガリー動乱 ===
{{Main|ハンガリー動乱}}
[[File:RIAN archive 101740 Yury Andropov, Chairman of KGB.jpg |thumb|230px|left|KGB議長時代のアンドロポフ<br />(1974年撮影)]]
[[1967年]]に中央委員会を離れ、[[ミハイル・スースロフ]]の推薦で[[ソ連国家保安委員会|国家保安委員会(KGB)]]議長に就任し、1982年に書記に復帰するまで以後15年の長きにわたって同職を務めることとなる。KGB議長就任と同時に政治局員候補となり、[[1973年]]に投票権のある正規の政治局員となる。[[秘密警察]]の責任者が政治局に入るのは[[ラヴレンチー・ベリヤ]]以来のことであった。これはベリヤ追放後にフルシチョフの発意で、軍と秘密警察を党の統制下に置くため、国防相と同じくKGB議長の政治局入りを禁止してきたのを、ブレジネフが解禁した結果であった。1973年には[[アンドレイ・グレチコ]]国防相も政治局員となっている。


当時ハンガリーでは、[[ラーコシ・マーチャーシュ]]が首相を務めていた<ref name = "tozen_P23">[[#杜漸|杜漸(1983年)]]、23頁</ref>。しかし、フルシチョフはラーコシを首相から解任し、[[ナジ・イムレ]]を首相にしたいと考えていた<ref name = "tozen_P23"/>。この時、フルシチョフはアンドロポフを通じて、ラーコシの辞任を迫っていた<ref name = "tozen_P23"/>。ラーコシは、ソ連の圧力に耐えかねて首相を辞任する<ref name = "tozen_P23"/>。そして、1956年10月23日、ハンガリー民衆はソ連との関係を見直すデモ活動を行い、ナジを担ぎ出し、一方のフルシチョフも、厄介者であったラーコシを排除することと、ナジをソ連の傀儡になりうる人物と見なし、アンドロポフを通じて、ナジが首相になるよう迫る<ref name = "tozen_P24">[[#杜漸|杜漸(1983年)]]、24頁</ref>。だが、ナジは、むざむざソ連の傀儡になるのを望まず、暴徒と化した市民の前で演説を行なう<ref name = "tozen_P24"/>。この時、市民が集まった広場で銃撃事件が発生し、これが[[ハンガリー動乱]]の引き金となる<ref name = "tozen_P24"/>。翌日10月24日午前8時13分、ナジの首相任命がラジオで報道され、ナジは戒厳令を発令し、更には同日、ソ連に軍の派遣を要求した<ref name = "tozen_P24"/><ref name = "shinkai_P44-45"/>。10月25日、午後2時ソ連軍の戦車が[[ブダペスト]]に到着し、戦闘状態に陥る<ref name = "tozen_P24"/><ref name = "shinkai_P44-45"/>。なお、このソ連軍の戦車には、[[アナスタス・ミコヤン]]と[[ミハイル・スースロフ]]がおり、彼らはナジと会談し、ナジの政治改革に好印象を持つ<ref name = "solovyov_P10">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、10頁</ref>。10月26日、ナジはソ連軍の即時撤退の要求とハンガリー市民の戦闘停止を命じた<ref name = "tozen_P25-26">[[#杜漸|杜漸(1983年)]]、25-26頁</ref>。10月28日、ミコヤンはブダペストにいるアンドロポフと打合わせし、ソ連軍が撤退することを確認した<ref name = "tozen_P25-26"/>。しかし、10月30日、フルシチョフは密かに軍の再出動を決定するも、一方でミコヤンとスースロフは社会主義諸国間の平等と内政不干渉を約束するソ連の声明を携えブダペストに向かった<ref name = "tozen_P25-26"/><ref name = "solovyov_P10"/>。これを受けて、10月31日ナジはラジオ放送で、ソ連軍が撤退し始めたことを報告する<ref name = "solovyov_P10"/>。
KGB議長としては外交面での[[米ソデタント|緊張緩和(デタント)]]がソ連国内でイデオロギーを弛緩させることに関して警戒し、峻厳な治安政策をとった。


しかし、11月1日午後に、ソ連軍の増援部隊がブダペストに向かっていることがわかり、同日又は11月2日、ナジはアンドロポフにソ連軍の即時撤兵を要求し、それが受け入れられなければ[[ワルシャワ条約機構]]からの脱退とハンガリーの中立国化を宣言すると通告した<ref name = "baron1984_P19">[[#バロン(1984年)|バロン(1984年)]]、19頁</ref><ref name = "tozen_P25-26"/><ref name = "tozen_P26-27">[[#杜漸|杜漸(1983年)]]、26-27頁</ref><ref name = "shinkai_P44-45"/>。
===反体制派の抑圧===
アンドロポフは、KGB議長の任にあった間、「人権のための闘争はソビエトの国家基盤を弱体化させる[[帝国主義]]の陰謀である」と主張し、反体制派の弾圧に取り組んだ。[[1967年]][[7月3日]]にアンドロポフは[[イデオロギー]]に関する政治犯に対処するためKGBに第5総局を設立する提案をし、同月末に設立された。[[1969年]]1月のブレジネフ暗殺未遂事件後、アンドロポフは、拘束された狙撃犯ヴィクトル・イリインの尋問を主導。イリインを「狂人」と断定し、精神病院に強制収容させた<ref>{{cite web |title=Eurasian Secret Services Daily Review |url=http://www.axisglobe.com/article.asp?article=1742 |publisher=Axis Information and Analysis (AIA)|accessdate=29 April 2011|date=25 January 2009}}</ref><ref>{{cite book|last=McCauley|first=Martin |title=The Rise and Fall of the Soviet Union |year=2014 |publisher=Routledge |isbn=978-1-31786-783-8|page=354}}</ref>。同年[[4月29日]]、アンドロポフは党中央委員会に対し、反体制派から「ソビエト政府及び[[社会主義]]秩序」を守るための[[精神病院]]のネットワーク構築計画を提出。さらに、アンドロポフの提案が聞き入れられる形で、反体制派との闘争に[[精神医学]]が利用されるようになった。その後、数十人の反体制派が「精神病」を口実にして精神病院に収容され、さらに数十人がソ連国外に追放された。その中で、[[アレクサンドル・ソルジェニーツィン]]を国外追放とし、[[アンドレイ・サハロフ]]を[[ニジニ・ノヴゴロド|ゴーリキー]]に流刑にするなど反対派の弾圧に辣腕を振るった。一方で、KGB議長としてソ連内外の情報を管理・知悉する立場から、[[レオニード・ブレジネフ|ブレジネフ]]政権時代の後半の'''「停滞の時代」'''にあって危機意識を強め、体制内改革を志向するようになっていった。汚職の摘発にも辣腕をふるい、ブレジネフの親族の逮捕にも大鉈を振るった。KGB議長が政治局に入ることを禁止したフルシチョフの措置を解禁させたブレジネフであったが、その措置によって強大な権力を得たアンドロポフに求心力を削がれていくという皮肉な結果になっていった。


この10月30日から11月1日のソ連軍の動きについては、アンドロポフによる働きによるところがあり、彼は絶えずブダペストの情勢について、モスクワと連絡を取り合っていた<ref name = "solovyov_P11">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、11頁</ref>。当時のブタペストの実際の状況は不明であるが、ブダペストには、群衆の凶悪行為であったり、大量リンチが横行しているといった電報をモスクワに送り続けていた<ref name = "solovyov_P11"/>。これにより、ブダペストへのソ連軍派兵が決定した<ref name = "solovyov_P11"/>。
[[1975年]]7月<ref>{{cite web|url=http://www.bukovsky-archives.net/pdfs/sovter75/pb75-1.pdf|title=Пост. ЦК КПСС № П185.34 от 4 августа 1975 г.|accessdate=2014-02-18}}</ref>、アンドロポフは[[ロシア皇帝]]だった[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]とその家族が1918年7月に[[ロマノフ家の処刑|殺害]]されるまで幽閉されていた[[イパチェフ館|家]]が[[聖地|聖地化]]していた現状を危惧し、ブレジネフに同家の撤去を進言。政治局の承認により、[[1977年]]9月に[[スヴェルドロフスク州]]党第一書記の[[ボリス・エリツィン]]の指揮の下で取り壊された。

11月1日から11月2日にかけて、ナジはアンドロポフに対して、ソ連軍の撤退を執拗に要求したが、アンドロポフの回答は、ソ連軍は数個師団が交替しているため増派しているように見えるだけである、などと言った回答や、ブダペストは混乱の最中にあり、ソ連軍が包囲している空港には病人や戦傷者がいるため彼らの保護が必要である、と言ったいい加減な回答を行い、時間稼ぎを行なった<ref name = "solovyov_P12-15">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、12-15頁</ref>。だが、一方でアンドロポフはナジを懐柔するため、10月30日の、社会主義国間の平等保障とソ連の内政不干渉を約した声明は有効であることを確約していた<ref name = "solovyov_P12-15"/>。ただ、アンドロポフの本心としては、ナジはソ連にとっては裏切り者であり、摘発することを考えていた<ref name = "solovyov_P12-15"/>。

アンドロポフはソ連軍撤退合意に向けた会談を提案し、同会談は11月3日に開催された<ref name = "solovyov_P17-18">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、17-18頁</ref><ref name = "tozen_P26-27"/>。会談は、ハンガリー側にとっては意外なことに、順調に進み、ソ連軍の撤退日について合意を残すのみとなった<ref name = "tozen_P26-27"/>。しかし、同日の夜、KGB工作員が乱入し、ハンガリーの代表団を逮捕してしまう<ref name = "tozen_P27-28">[[#杜漸|杜漸(1983年)]]、27-28頁</ref><ref name = "solovyov_P17-18"/><ref name = "baron1984_P19"/>。ソ連側の代表団は、KGBのこの行為について抗議を行なうも、聞き入れられなかった<ref name = "tozen_P27-28"/>。[[カーダール・ヤーノシュ]]は、この逮捕事件を聞き、アンドロポフの勧告に従い、ナジを見限り、新政権を率いることを決断する<ref name = "tozen_P28">[[#杜漸|杜漸(1983年)]]、28頁</ref>。

こうして、ハンガリー動乱は下火になり、11月4日早朝にソ連軍の戦車1000両が、ブダペストに侵入し、11月6日にブダペストは陥落した<ref name = "tozen_P28"/>。3万5000人が逮捕され、2万人が死亡し、4万人がシベリアに追放され、3000人が死刑、15万人が亡命した<ref name = "tozen_P28"/><ref name = "shinkai_P44-45"/>。

ナジは情勢が悪化したのを鑑みて11月3日に、[[ユーゴスラビア]]大使館に避難していたが、アンドロポフはカーダール・ヤーノシュに身の安全を保障することを約束した書面を持たせ、ナジに渡させた<ref name = "solovyov_P16">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、16頁</ref><ref name = "baron1984_P19"/><ref name = "tozen_P28"/><ref name = "umezu1983_P19-20">[[#梅津(1983年)|梅津(1983年)]]、19-20頁</ref>。それを真に受けた、ナジはユーゴ大使館から自宅へ向かう道中、KGBによって逮捕され、まずルーマニアに送還され、18か月後の1958年6月15日、反逆罪の廉によりモスクワで処刑された<ref name = "solovyov_P16"/><ref name = "baron1984_P19"/><ref name = "shinkai_P44-45"/>。

=== KGB議長に就任するまで ===
アンドロポフはハンガリーでの功績によって、モスクワに帰任する<ref name = "tozen_P29">[[#杜漸|杜漸(1983年)]]、29頁</ref>。1957年夏、中央委員会国際局の局長に就任し、ユーゴスラビア、ブルガリア、ポーランド、アルバニアなどの東欧諸国や、モンゴル、中国、北朝鮮、北ベトナムを監視し、これらの国を歴訪した<ref name = "medvedev_P54">[[#メドベージェフ|メドベージェフ(1983年)]]、54頁</ref><ref name = "solovyov_P21">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、21頁</ref><ref name = "tozen_P31">[[#杜漸|杜漸(1983年)]]、31頁</ref><ref name = "baron1984_P19">[[#バロン(1984年)|バロン(1984年)]]、19頁</ref>。この歴訪に関しては、フルシチョフと同行することもあったり、フルシチョフ失脚後は、ブレジネフやコスイギンと同行することもあった<ref name = "solovyov_P21"/>。後年、アンドロポフが書記長に就任した際は、歴代の書記長と比較して、外国への訪問経験が豊かな書記長と言われた<ref name = "solovyov_P21"/>。ただし、アンドロポフが歴訪した国は、東側の国ばかりで西側諸国を歴訪することはなかった<ref name = "solovyov_P21"/>。また、国際局の局長に就任したことから、政治局の会議に参加するようになる<ref name = "baron1984_P19"/>。

1961年の第22回党大会では、中央委員会の委員に選出され、1962年には中央委員会書記局の書記に任命される<ref name = "medvedev_P59">[[#メドベージェフ|メドベージェフ(1983年)]]、59頁</ref>。なお、通常であれば、中央委員会の委員候補に選出されてから委員に選出されるのが通例であるが、ハンガリー動乱の功績によるものか、中央委員会国際局の功績によるものとされる<ref name = "solovyov_P22-23">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、22-23頁</ref>。1963年1月13日から1月20日にかけて、ソ連最高会議代表団長として北ベトナムを訪問する<ref name = "asahi_P255">[[#朝日|朝日(1963年)]]、255頁</ref>。1963年5月15日に、スースロフ党中央委員会幹部会員兼書記を団長として、アンドロポフも党中央委員会書記として、中国を訪問し、中ソ論争に加わった<ref name = "asahi_P67">[[#朝日|朝日(1963年)]]、67頁</ref><ref name = "tozen_P31"/>。

== KGB議長時代 ==
[[File:Bundesarchiv Bild 183-F0417-0001-028, Berlin, VII. SED-Parteitag, 1.Tag.jpg|thumb|left|200px|[[レオニード・ブレジネフ]]らと共に、[[ドイツ社会主義統一党|SED]]の来賓として。一番左側の人物(1967年)]]
=== KGB議長に就任 ===
1967年5月19日、アンドロポフは[[ソ連国家保安委員会|KGB]]議長に就任する<ref name = "medvedev_P72">[[#メドベージェフ|メドベージェフ(1983年)]]、72頁</ref><ref name = "solovyov_P24">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、24頁</ref><ref name = "tozen_P29">[[#杜漸|杜漸(1983年)]]、29頁</ref>。そして1か月後のソ連共産党の機関紙[[プラウダ]]で、アンドロポフが政治局局員候補に選出されたことが報道される<ref name = "solovyov_P24"/>{{refnest | group = * |但し、1971年に亡命したアンドロポフの息子であるイーゴリの友人の情報によるとKGB議長就任の祝賀会が1964年か1965年に行われたと証言しているため、実際の就任の年はこの1964年か1965年とみる向きもある。}}。[[ラヴレンチー・ベリヤ]]以来となる、秘密警察機関の長官にあたる人物が政治局員候補入りした<ref name = "solovyov_P24"/><ref name = "kimura_P166"/><ref name = "kimura_P262">[[#木村|木村(1985年)]]、262頁</ref><ref name = "kimura_P362"/><ref name = "solovyov_P24"/><ref name = "solovyov_P84">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、84頁</ref>。アンドロポフはKGB議長となり、軍人になり、階級は1976年9月時点では上級大将となった<ref name = "medvedev_P30”>[[#メドベージェフ|メドベージェフ(1983年)]]、30頁</ref><ref name = "kimura_P261”>[[#木村|木村(1985年)]]、261頁</ref><ref name = "kimura_P313-314">[[#木村|木村(1985年)]]、313-314頁</ref><ref name = "kimura_P318”>[[#木村|木村(1985年)]]、318頁</ref>。ただし、KGB議長時代は書記長になることを見据え、一度も軍服を着用しなかった<ref name = "medvedev_P30”/><ref name = "kimura_P313-314"/>。就任後、218人の外国人をKGBにスカウトし、その内64人は対アメリカへの諜報活動が可能な状態にまで訓練し、資本主義諸国からの暗号入手と9,000件以上の技術情報を[[ソビエト連邦共産党中央委員会|党中央委員会]]に提出するなど、対外諜報で成果を上げた<ref name = "volkogonov_P148”>[[#ヴォルコゴーノフ|ヴォルコゴーノフ(1997年)]]、148頁</ref>。

=== ブレジネフ暗殺未遂 ===
1969年1月、ブレジネフの暗殺未遂事件が発生する<ref name = "solovyov_P61">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、61頁</ref>。暗殺犯のイリインは、KGBによって逮捕され、アンドロポフはイリインを非公開裁判にかけて、精神病と断定し、特別精神病院送りにした<ref name = "solovyov_P61"/><ref name = "volkogonov_P37”>[[#ヴォルコゴーノフ|ヴォルコゴーノフ(1997年)]]、37頁</ref><ref name = "tozen_P20-21”>[[#杜漸|杜漸(1983年)]]、20-21頁</ref>。ブレジネフ暗殺未遂事件後、アンドロポフはブレジネフが居住するアパートの一つ上の階に居住するようになる<ref name = "solovyov_P64">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、64頁</ref><ref name = "tozen_P20-21”/><ref>{{cite web |title=Eurasian Secret Services Daily Review |url=http://www.axisglobe.com/article.asp?article=1742 |publisher=Axis Information and Analysis (AIA)|accessdate=29 April 2011|date=25 January 2009}}</ref><ref>{{cite book|last=McCauley|first=Martin |title=The Rise and Fall of the Soviet Union |year=2014 |publisher=Routledge |isbn=978-1-31786-783-8|page=354}}</ref>。

=== 反ユダヤ主義 ===
1969年、アンドロポフはKGBに反体制派を取り締まるために第五管理本部を創設する<ref name = "baron1974_P181”>[[#バロン(1974年)|バロン(1974年)]]、181頁</ref>。第五管理本部傘下には、ユダヤ人局が創設され(1971年)、ユダヤ人も取り締まり対象となった<ref name = "baron1974_P183” >[[#バロン(1974年)|バロン(1974年)]]、183頁</ref>。1970年夏、レニングラード州の空港で、KGB工作員が12人のユダヤ人をハイジャック未遂罪として逮捕したり、1972年終わりごろ、ユダヤ人に対しての監視活動を強化するよう命令を出す<ref name = "myagkov_P157” >[[#ミヤコフ|ミヤコフ(1978年)]]、157頁</ref><ref name = "solovyov_P50” >[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、50頁</ref>。1976年11月15日、『いわゆるソ連邦で[[ヘルシンキ宣言 (全欧安全保障協力会議)|ヘルシンキ合意]]を実現する協力グループの敵対行動について』という題のメモには、反体制派のメンバーの民族的出自(=ユダヤ人)を記載するなどして、反ユダヤ主義として報告を行ない、当該グループの信用失墜や、敵対行動阻止のために海外のソ連大使館に指示を行なっていた<ref name = "volkogonov_P41-42” >[[#ヴォルコゴーノフ|ヴォルコゴーノフ(1997年)]]、41-42頁</ref>。1977年には、反体制派のユダヤ人の逮捕や、反ユダヤ主義の出版物を許可するなど大学からユダヤ人を一掃するなど、徹底した反ユダヤ主義者であった<ref name = "solovyov_P50”/>。アンドロポフが反ユダヤ主義になったのは、ユダヤ人はソ連では御法度とされているアメリカへの出国を試みたり、(ユダヤ人は)経済的地位がロシア人より高いなどと言ったことが理由として考えられている<ref name = "solovyov_P51” >[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、51頁</ref>。

=== 汚職との戦い ===
当時、ソ連の権力組織は、汚職や賄賂が当たり前になっていた<ref name = "shinkai_P52-53”>[[#新開|新開(1983年)]]、52-53頁</ref>。アンドロポフは、これら汚職の撲滅を徹底するため、1969年、アゼルバイジャン共和国の国家保安委員の[[ヘイダル・アリエフ]]をアゼルバイジャン共産党中央委員会第一書記に任命する<ref name = "solovyov_P67-68”>[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、67-68頁</ref>。この任命はブレジネフの権力を無視したものであった<ref name = "solovyov_P67-68”/>。大抜擢されたアリエフは、アゼルバイジャン共和国の汚職を役職にかかわらず摘発し、解雇ないし強制引退をするなど綱紀粛正を行なった<ref name = "solovyov_P67-68”/>{{refnest | group = * |アリエフが解雇した政府要人には、同国の内相もいたのだが、解雇理由は統計データが楽観的過ぎるというものであった<ref name = "solovyov_P70-71”>[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、70-71頁</ref>。しかし、当のアリエフもモスクワに報告する統計データは都合の良いものに書き換えて報告していた<ref name = "solovyov_P70-71”/>。その数字は、1970年の工業生産は前年比の10 %増、労働生産性は2倍増であるというありえない内容でブレジネフからは信用されず、ブレジネフ存命中、アリエフは、政治局員候補どまりであった<ref name = "solovyov_P70-71”/>。}}。

そして、1970年には、KGBは汚職を摘発し、レニングラード州の第一書記を解任においやった<ref name = "shinkai_P52-53”/>。1972年には、グルジアの第一書記{{日本語版にない記事リンク|ヴァシリ・ムジャワナーゼ|en|Vasil Mzhavanadze}}の夫人の悪行を掴み、ブレジネフに解任を迫り、同年8月解任に成功する<ref name = "solovyov_P72-75”>[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、72-75頁</ref>。

アンドロポフの汚職摘発は徹底しており、それはブレジネフの側近や血縁者とて例外ではなかった。一例として、ブレジネフの旧友である[[クラスノダール]]地区党書記の[[セルゲイ・メドノフ]]を、1972年報道機関を使って、メドノフの汚職を報道させたが、この時はうまくいかなかった<ref name = "solovyov_P150-151">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、150-151頁</ref>。しかし、メドノフが管轄するクラスノダールは保養地である[[ソチ]]があり、ここではホテルの部屋の予約ですら賄賂が必要という有様で、アンドロポフはあきらめずに[[ミハイル・ゴルバチョフ|ゴルバチョフ]]にメドノフの素行を資料として収集させた<ref name = "solovyov_P150-151"/>。こうして、メドノフの不正を訴える投書が各紙に行われ、党内において処分が科せられた<ref name = "solovyov_P150-151"/>。ただ、メドノフはブレジネフの強力な保護下にあったため、ブレジネフ存命中は処分は科せられず、解任されたのはブレジネフ死去後の1983年6月である<ref name = "solovyov_P150-151"/><ref name = "kimura_P315-316">[[#木村|木村(1985年)]]、315-316頁</ref>。ブレジネフの血縁者もスースロフ死去後に、逮捕ないし左遷を行なった<ref name = "solovyov_P236">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、236頁</ref><ref name = "shinkai_P58-59">[[#新開|新開(1983年)]]、58-59頁</ref><ref name = "kimura_P284-285">[[#木村|木村(1985年)]]、284-285頁</ref><ref name = "solovyov_P194">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、194頁</ref>。

[[2013年]]に機密解除された文書には、KGB議長たるアンドロポフが[[ジョン・レノンの殺害|ジョン・レノンの死]](1980年12月)を追悼する無許可の集会の開催を防ぐよう指示した旨が記されている<ref>{{cite web|url=https://digitalarchive.wilsoncenter.org/document/113935|title=Memorandum from the KGB Regarding the Planning of a Demonstration in Memory of John Lennon |publisher=Wilson Center Digital Archive|date=20 December 1980|accessdate=16 August 2013}}</ref>。

=== 出世と栄典 ===
アンドロポフは、KGB議長就任後次々と成果を挙げていった。そして、1973年4月の[[ソ連共産党政治局|党中央委員会総会]]において、アンドロポフを政治局に加え、晴れて政治局員になる<ref name = "kimura_P164-165”>[[#木村|木村(1985年)]]、164-165頁</ref><ref name = "solovyov_P65”>[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、65頁</ref><ref name = "solovyov_P84”>[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、84頁</ref><ref name = "solovyov_P110”>[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、110頁</ref>。アンドロポフは秘密警察機関としてはベリヤ以来の政治局員となった<ref name = "solovyov_P84/>。1974年6月24日には、ソ連共産党と国家の内外の政策に対しての貢献により、[[レーニン勲章]]と[[社会主義労働英雄]]が授与された<ref name = "shinkai_P206”>[[#新開|新開(1983年)]]、206頁</ref><ref name = "solovyov_P84”>[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、84頁</ref>。一見順調に思えたキャリアであったが、これ以上の出世は望めないであろうと考えられていた<ref name = "solovyov_P110”/>。その理由としては、従来の政治局員からするとアンドロポフはKGBからの新参者であり、KGBが政治局員に入って、高級指導者になった例が極めて稀であったこと、政治局内でもアンドロポフが個人的に親しい人物がほとんどおらず、派閥に所属していなかったことがあげられる<ref name = "solovyov_P110”/>。

=== 政治局入り後のKGBとしての活動 ===
1973年12月5日[[1936年ソビエト連邦憲法|憲法記念日]]に、人権擁護運動を行っていた15人ほどのグループが、モスクワで沈黙の抗議活動を行なう<ref name = "volkogonov_P153”>[[#ヴォルコゴーノフ|ヴォルコゴーノフ(1997年)]]、153頁</ref>。アンドロポフは、このグループの14人の市民権をはく奪し、国外追放を行なった<ref name = "volkogonov_P153”/>。1974年には、[[ノーベル文学賞]]の授与経験のある[[アレクサンドル・ソルジェニーツィン]]を国外追放に処した<ref name = "volkogonov_P153”/><ref name = "umezu1983_P23”>[[#梅津(1983年)|梅津(1983年)]]、23頁</ref><ref name = "shinkai_P48”>[[#新開|新開(1983年)]]、48頁</ref>。アンドロポフが行っていた汚職摘発は、1970年代中期には、ソ連共産党の官僚たちに向けられていくようになる<ref name = "solovyov_P110”>[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、110頁</ref>。

[[1975年]]7月<ref>{{cite web|url=http://www.bukovsky-archives.net/pdfs/sovter75/pb75-1.pdf|title=Пост. ЦК КПСС № П185.34 от 4 августа 1975 г.|accessdate=2014-02-18}}</ref>、アンドロポフは[[ロシア皇帝]]だった[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]とその家族が1918年7月に[[ロマノフ家の処刑|殺害]]されるまで幽閉されていた[[イパチェフ館|家]]が[[聖地|聖地化]]していた現状を危惧し、ブレジネフに同家の撤去を進言。政治局の承認により、[[1977年]]9月に[[スヴェルドロフスク州]]党第一書記の[[ボリス・エリツィン]]の指揮の下で取り壊された。
{{See also|イパチェフ館#館の解体}}
{{See also|イパチェフ館#館の解体}}


1977年1月には、アメリカ合衆国では[[ジミー・カーター]]が大統領となり、人権外交を掲げる一方、アンドロポフはお構いなしにソ連に対しての反体制派活動を行う人物を次々に国外追放に処した<ref name = "solovyov_P94-95”>[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、94-95頁</ref>。同年には、モスクワの地下鉄でテロが発生し、アンドロポフは根拠もなく、反体制派の犯行であると断定し、アメリカ人3人を起訴した<ref name = "solovyov_P100”>[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、100頁</ref>。
アンドロポフの反体制派抑圧計画の中には、[[1961年]]に亡命したダンサーの[[ルドルフ・ヌレエフ]]を殺傷する計画も含まれていた。一方、[[フョードル・クラコフ]]や[[ピョートル・マシェーロフ]]らソ連の政治家の突然死の黒幕はアンドロポフであると考える人もいる。[[2013年]]に機密解除された文書には、KGB議長たるアンドロポフが[[ジョン・レノンの殺害|ジョン・レノンの死]](1980年12月)を追悼する無許可の集会の開催を防ぐよう指示した旨が記されている<ref>{{cite web|url=https://digitalarchive.wilsoncenter.org/document/113935|title=Memorandum from the KGB Regarding the Planning of a Demonstration in Memory of John Lennon |publisher=Wilson Center Digital Archive|date=20 December 1980|accessdate=16 August 2013}}</ref>。
1977年頃にもなると、ブレジネフの健康状態は悪化しはじめ、アンドロポフはブレジネフに代わり治安維持の面で権力を持ち始める<ref name = "solovyov_P131-133”>[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、131-133頁</ref>。アンドロポフは反ブレジネフの動きがあるとでっち上げ、最高会議幹部会議長[[ニコライ・ポドゴルヌイ]]を罠にはめる<ref name = "solovyov_P131-133”/>。国家元首であるポドゴルヌイがアフリカ諸国を歴訪している間に、ソ連国内はアンドロポフが実権を握り、ポドゴルヌイがソ連帰国後に最高会議幹部会議長の地位をはく奪した<ref name = "solovyov_P131-133”/>。1970年代末には、アンドロポフはモスクワを舞台として、汚職追放を積極的に行ない、政敵を次々に排除していった<ref name = "solovyov_P65”/>。1979年8月31日には[[十月革命勲章]]を授与される<ref name = "solovyov_P108”>[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、108頁</ref>。


1979年12月26日には、アンドロポフは核物理学者[[アンドレイ・サハロフ]]の悪行を政治局に告発する<ref name = "volkogonov_P100”>[[#ヴォルコゴーノフ|ヴォルコゴーノフ(1997年)]]、100頁</ref>。アンドロポフによると、サハロフは1972年から1979年の間にモスクワ駐在の資本主義諸国の大使館を80回訪問し、外国人と600回以上も会い、記者会見も150回以上を行なったこと、そして、サハロフの資料に基づいて、西側の放送局は約1200回以上にわたって反ソ連放送を行なったとのことだった<ref name = "volkogonov_P100”/>。これを受けて、政治局は1980年1月3日、サハロフを裁判にかけ、すべての称号をはく奪し、外国人の訪問を禁止している[[ニジニ・ノヴゴロド|ゴーリキー市]]に移住させることを決定した<ref name = "volkogonov_P100”/><ref name = "solovyov_P102”>[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、102頁</ref><ref name = "kimura_P362"/><ref name = "shinkai_P48”>[[#新開|新開(1983年)]]、48頁</ref><ref name = "solovyov_P102”>[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、102頁</ref><ref name = "umezu1983_P23”>[[#梅津(1983年)|梅津(1983年)]]、23頁</ref>。
===プラハの春===
[[1968年]]の[[プラハの春]]に際しては、[[チェコスロバキア]]に対して取られている「極端な」措置を支持した。KGB工作員によって[[ワシントンD.C.|ワシントン]]からもたらされた「[[CIA]]も他の機関もチェコスロバキアの改革運動に関与していないことを証明する確かな資料を手に入れた」との報告も、アンドロポフの考えていた陰謀論と矛盾していたため聞き入れられなかった。アンドロポフは、[[チェコスロバキア共産党]]第一書記の[[アレクサンデル・ドゥプチェク]]ら同国の改革者に対して「革新作戦」と称される積極的な措置を命じた。


1980年、ソ連の衛星国である[[ポーランド]]で[[レフ・ヴァウェンサ|レフ・ワレサ]]率いる、[[独立自主管理労働組合「連帯」|「連帯」]]が力を持ち始め、ソ連に対して共産主義体制の反対運動が起きる<ref name = "volkogonov_P73-75”>[[#ヴォルコゴーノフ|ヴォルコゴーノフ(1997年)]]、73-75頁</ref>。
===アフガニスタン侵攻での役割===
[[グダニスク]]でストライキが発生し、アンドロポフはポーランドに関するニュースをソ連国内に流入しないように遮断する。ソ連国内では、[[ボイス・オブ・アメリカ|VOA]]をはじめとする外国語放送も聴けないよう措置を取った<ref name = "solovyov_P154”>[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、154頁</ref>。アンドロポフは直ちに、ポーランドに対して、軍事行動を取るべきだと主張する<ref name = "solovyov_P155”>[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、155頁</ref><ref name = "volkogonov_P73-75”/>。こうして、1980年12月には、ポーランド国境にソ連軍五個師団が配置され、臨戦態勢が敷かれた<ref name = "solovyov_P160-161”>[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、160-161頁</ref>。しかし、ポーランド軍はソ連に対して潤沢に兵力を充てることができ、ソ連と同等の戦力を保有しており、[[ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ]]が、ソ連軍が国境を侵略した場合は、即座に戦闘命令を行なう用意があるという警告が功を奏し、軍事衝突は回避された<ref name = "solovyov_P160-163”>[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、160-163頁</ref>。
[[アフガニスタン民主共和国]]への軍事介入の是非が議題となった[[1979年]]3月の政治局会議の時点でアンドロポフは介入に反対していた。国際社会からの批判や今後予定されていたアメリカの[[ジミー・カーター]]大統領との[[戦略兵器制限交渉]]に影響を与えるのではないかと懸念したためである。しかし同年10月にアフガン革命評議会議長の[[ヌール・ムハンマド・タラキー]]が暗殺され[[ハフィーズッラー・アミーン]]が権力を掌握するとその考えを改めた。アンドロポフはアミーンを[[CIA]]の[[工作員]]とみなし、アミーンの下にアフガンに親米政権が樹立されソ連に対する脅威となる事態は避けたいと考えた。そして「いかなる状況でもアフガニスタンを失うことはできない」と、[[ドミトリー・ウスチノフ]]国防相と共に軍事介入を主張し、同年[[12月24日]]にソ連軍はアフガニスタン侵攻を開始した。同侵攻は結果としてアンドロポフの懸念通り、[[1980年]]の[[モスクワオリンピック]]への西側諸国のボイコットを招き、一部には[[ソビエト連邦の崩壊]]に繋がったと考える人もいる。


こうして、アンドロポフの権勢は一時衰え、1981年3月の第26回党大会では、自身の腹心ともいえる、ヘイダル・アリエフを政治局員に加入させることに失敗した<ref name = "solovyov_P165”>[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、165頁</ref><ref name = "umezu1983_P23”/>。
===ポーランド民主化運動===
[[1980年]]の[[ポーランド民主化運動]]発生後、[[ポーランド人民共和国|ポーランド]]の[[ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ]]国防相(後に同国大統領を務める)と面会。[[1981年]][[12月10日]]、ポーランドの連帯運動に直面したアンドロポフは、スースロフ、ヤルゼルスキと共に、ブレジネフに対しポーランドに[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]を派遣すべきでは無いと進言した。アンドロポフは、ソ連が「プラハの春」の二の舞を演じることを恐れていた。したがって、ポーランドの鎮圧にはヤルゼルスキ以下ポーランド軍がこれに当たることになり、これをもって[[制限主権論|ブレジネフ・ドクトリン]]は事実上終焉したものと捉えられる(ブレジネフ・ドクトリンが正式に否定されたのは[[ミハイル・ゴルバチョフ]]政権下での[[新ベオグラード宣言]]でのこと)。


しかし、KGB議長としての活動実績は目覚ましく、1981年3月時点では、先進資本主義諸国の経済、科学技術の重要な問題の資料やサンプルの入手に成功し、軍需産業では、1万4000件の資料と2000タイプのサンプルの入手に成功した<ref name = "volkogonov_P150-151”>[[#ヴォルコゴーノフ|ヴォルコゴーノフ(1997年)]]、150-151頁</ref>。
==最高指導者==
=== ポスト・ブレジネフを巡る権力闘争 ===
アンドロポフは、ブレジネフの指導力が低下するに連れ、外相の[[アンドレイ・グロムイコ]]、国防相の[[ドミトリー・ウスチノフ]]とともに[[トロイカ体制|トロイカ]]を組み、ソビエトの政策決定に大きな役割を果たすようになる。[[1982年]]1月、ブレジネフ政権を支え続けた[[ミハイル・スースロフ]]が死去。2月になるとスースロフの死を待っていたかのようにブレジネフ一族のスキャンダルがモスクワ中に広まった。摘発の黒幕は他でもなくアンドロポフだったという。彼はブレジネフ一族及びブレジネフの贔屓で指導部に入り込んだ[[アンドレイ・キリレンコ (政治家)|アンドレイ・キリレンコ]]、[[コンスタンティン・チェルネンコ]]、[[ウラジーミル・シチェルビツキー]]ら側近の乱脈な生活ぶりを苦々しく思っていたという。ブレジネフの追い落としまでは考えないが、いずれ来るその死去の際には、ブレジネフの意中の人物とりわけチェルネンコを後継者の座に就かせないことが狙いだとされた。5月にスースロフの後任として中央委員会イデオロギー担当書記に就任し、第二書記としての地位を確立。ブレジネフの最側近で後継者と目されたチェルネンコを追い上げていった。


=== その他のKGBの実績や実情について ===
===書記長就任===
アンドロポフは、KGB議長として汚職や腐敗、反体制派に対して厳しく当たった。KGB議長就任直後より、文化活動に厳しい統制を課し、体制批判の火消しを行なっていた<ref name = "shinkai_P48”/>。言論の自由も厳しく統制し、ソ連経済に対しての批判論文を「プラウダ」に投稿した者や、平和運動の組織者、女性の地位向上を訴えた出版を行なった者を投獄ないし精神病院に収容するなどした<ref name = "solovyov_P101” >[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、101頁</ref>。政治犯も裁判開始前の禁錮期間を長くし、時には無期限にしたり、囚人の親類縁者の逮捕や同一人物の重複逮捕を行うなど、犯罪に対して厳しい姿勢で挑んだ<ref name = "solovyov_P101-103” >[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、101-103頁</ref>。
[[1982年]][[11月10日]]、ブレジネフが死去した。アンドロポフは葬儀委員長に就任し、大勢を決した。共産党の官僚組織を背景とするチェルネンコに対し、アンドロポフの背景には、長く議長を務めたKGBと、政治局員、ウスチノフを始めとする軍があった。後継書記長を決める政治局会議ではウスチノフがアンドロポフを推薦したとされる。一方、正式の会議の前には根回しが済んでおり、自身の不利を悟ったチェルネンコは「第二書記」としての処遇を受けることと引き換えに、自らアンドロポフを推薦したとの説もある<ref>[[ドミトリー・ヴォルコゴーノフ]]『七人の首領』(下巻)</ref>。[[11月12日]]、ソ連共産党中央委員会書記長に就任。アンドロポフの書記長就任は、元KGB議長という肩書とハンガリー動乱でのアンドロポフの役割に鑑み、西側諸国からは警戒感をもって受け止められた。[[1983年]]6月からは憲法上の国家元首である[[ソビエト連邦最高会議幹部会議長|最高会議幹部会議長]]も兼任、更には、国防会議議長も兼ねた。


宗教組織や地下出版に打撃を与え、6箇所の印刷所と19ヶ所の出版所を摘発した<ref name = "volkogonov_P150-151”/>。そして1万5557人のソ連市民を『矯正』した<ref name = "volkogonov_P150-151”/>。矯正には、精神病院送りがあったのだが、1964年時点(アンドロポフがKGB議長に就任する前)では、精神病院は2つしかなかったのに対して、アンドロポフがKGB議長末期頃になると、このような精神病院は30以上を数えた<ref name = "solovyov_P102-103”>[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、102-103頁</ref>。反体制派の活動家を収容しただけでなく、軽微の政府批判を行なった市民も精神病院に収容するようにした<ref name = "solovyov_P102-103”/>。アンドロポフは、表面上は[[デタント]]を歓迎していたが、実際には、テロリストの育成を行ない、彼らが中米でテロ活動を行なうことで、アメリカが混乱に陥ることを意図していたり、デタントが推奨されるとKGBの実権が弱まることを危惧していた<ref name = "solovyov_P92” >[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、92頁</ref><ref name = "baron1984_P21 “>[[#バロン(1984年)|バロン(1984年)]]、21頁</ref>。アンドロポフは、私生活については慎ましい生活をおくっており、かたやそれ以外の政府高官は西側の政府要人と酒の飲み比べを行なうなど、アンドロポフにとってデタントは受け入れがたいものであった<ref name = "solovyov_P92”/>。アンドロポフは、KGBの力を使い、自殺に見せかけた暗殺を行なったり、犯罪摘発のために手段を選ばず、反体制派の活動拠点に麻薬や武器を運び込んで、犯罪として摘発するなどの不正も行なっていた<ref name = "solovyov_P104">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、104頁</ref><ref name = "solovyov_P100">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、100頁</ref>。
チェルネンコらはアンドロポフの書記長就任に当たり、前任のブレジネフの基本路線を踏襲することを求めた。これに対しアンドロポフは、基本的にはブレジネフ路線を継承しつつも直ちに軌道修正を図った。アンドロポフは、前述の通り、政敵のチェルネンコを第二書記として偶し、彼と政治局の職務を分担した。アンドロポフは政治局の活動を監督し、国防・内政・外交・対外貿易を担った。一方でチェルネンコは、KGB・内務省・政党機関・イデオロギー・プロパガンダ・文化・科学・高等教育などと多岐に渡る分野を所掌することとなった。


アンドロポフは一律に表現活動を禁止したわけではなく、KGBの工作員が活躍する小説やテレビドラマについては許容し、KGBのイメージ作りに一役買った<ref name = "solovyov_P114">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、114頁</ref>。そして、KGBは、[[モスクワ大学]]や[[レニングラード大学]]といったエリートを採用するようになり、また語学に堪能な学生や、外交官、ジャーナリスト、医師など各方面のプロフェッショナルを雇い入れた<ref name = "solovyov_P86">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、86頁</ref>。
アンドロポフはまた、若い世代の改革派を多用した。同郷で若手の党活動家だった[[ミハイル・ゴルバチョフ]](後、書記長、[[大統領]])を登用し<ref group="注釈">ゴルバチョフの昇進には、スースロフと並んでアンドロポフの力があずかったのは事実だが、ゴルバチョフの政治局員就任はブレジネフ在世中の1980年である。</ref>[[ペレストロイカ]]への道筋をつけた。政治局員には、[[ヘイダル・アリエフ]](後に[[アゼルバイジャン]]大統領)、[[ヴィタリー・ウォロトニコフ]]、書記には[[ニコライ・ルイシコフ]]と[[エゴール・リガチョフ]]を登用した。自身の古巣のKGB議長には[[ヴィクトル・チェブリコフ]]を任命した。


===アフガニスタン侵攻での役割===
しかし、この段階でアンドロポフ政権の権力基盤は、人事異動が主として現業部門の大臣・次官あるいは党中央委部長等のいわゆる中堅幹部クラスが中心であることに加え、アンドロポフ自身の健康状態が必ずしも良好でないこともあり、完全に確立しているとは言える状況に無かった。
当初アンドロポフは、アフガン情勢に介入するのは反対の姿勢であった<ref name = "umezu1983_P21">[[#梅津(1983年)|梅津(1983年)]]、21頁</ref>。しかし、[[アフガニスタン]]の情勢の安定化を図るためには、アフガン情勢への介入が必要であること、また、[[ハフィーズッラー・アミーン]]がアメリカの大学で教育を受けていたことから、[[CIA]]のエージェントであると断定し{{refnest | group = * | アミーンがCIAエージェントであったか否かは不明であるが、アンドロポフとしては、KGBのエージェントでないことが問題であった<ref name = "solovyov_P138-139">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、138-139頁</ref>。}}、アフガニスタンへの介入を支持する<ref name = "solovyov_P141">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、141頁</ref><ref name = "volkogonov_P66">[[#ヴォルコゴーノフ|ヴォルコゴーノフ(1997年)]]、66頁</ref>。1979年秋には、アンドロポフはアミーン殺害を承認し、暗殺計画を立案する<ref name = "baron1984_P15">[[#バロン(1984年)|バロン(1984年)]]、15頁</ref>。暗殺計画は料理人に変装したKGB将校がアミーンの料理人として潜入し、飲食物に毒薬を仕込むというものだった<ref name = "baron1984_P15"/>。しかし、警戒心の強いアミーンは引っかからず、アンドロポフは別の方法で暗殺を行うよう指示する<ref name = "baron1984_P15"/>。そして、1979年12月9日、軍所属がわからないように制服を偽装した500人の特殊部隊を派遣することを決定した<ref name = "volkogonov_P68-69">[[#ヴォルコゴーノフ|ヴォルコゴーノフ(1997年)]]、68-69頁</ref>。1979年12月27日、ソ連の特殊部隊が、アミーンが所在する大統領宮殿を襲撃し、アミーンの殺害に成功する<ref name = "baron1984_P15"/>。
アミーン殺害成功後、1980年1月にアンドロポフはアフガニスタンの首都、[[カブール]]を訪問し、アフガニスタンの状況を確認し、2月7日モスクワに帰任し、ブレジネフにアフガニスタンの状況改善が完了したことを報告する<ref name = "volkogonov_P70">[[#ヴォルコゴーノフ|ヴォルコゴーノフ(1997年)]]、70頁</ref>。アフガニスタン侵攻後、カーター大統領はアメリカのソ連に対する穀物輸出の一部禁輸を打ち出した<ref name = "solovyov_P93"/>。しかし、アメリカからの経済制裁があることを予期していたアンドロポフは、事前に[[カナダ]]、[[アルゼンチン]]、[[ブラジル]]から穀物を買い付けるよう指示していた<ref name = "solovyov_P93">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、93頁</ref>。


アンドロポフは1982年夏、東欧諸国を歴訪し、ソ連経済が危機的状況にあり、内政を整備するために、内政に専念したいと考えており、他の問題にはかかわることができないため、平和に努めてほしいと伝えた<ref name = "solovyov_P220">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、220頁</ref>。訪問した東欧諸国首脳は、アフガン情勢をどうするつもりかを確認すると、アンドロポフは、アフガン情勢については平和的解決を望んでおり、譲歩が可能であるが、名誉の譲歩が必要であると考えており、アフガンがソ連の管轄下にあるのであれば、撤退は可能である<ref name = "solovyov_P220"/>。しかし、西側が大きな譲歩をしなくてはならないとした<ref name = "solovyov_P220"/>。この頃のアンドロポフは党中央委員会には、政敵が数多くおり、独断で判断ができるほどの地盤はないため、西側がアフガン情勢に対応をすべきであると回答した<ref name = "solovyov_P220"/>。
===経済政策と腐敗撲滅キャンペーン===
アンドロポフは書記長就任後、汚職に対しての綱紀粛正に着手した。ソ連経済は莫大な軍事費によって不安定化し、問題を抱えているということをアンドロポフはよく知っていた。そこでアンドロポフは、それを正すために汚職と「闇経済」との闘いを始めた。闇経済はブレジネフ時代の後期に蔓延し出していた。アンドロポフは演説の中で「私たちは失った時間を取り戻さなければいけない」と強調した。ソ連経済の停滞に対する危機感をあらわにしたと同時に、強烈にブレジネフを批判したのである。ソ連経済立て直しのために抜本的な手を打たなければならないというのが経済関係者の共通の認識であった。そして、アンドロポフ政権発足とともに、かつて見られないほど経済改革を求める提案が出された。製品を入れる木箱や細々とした道具類まで作る巨大工場を細分化し、効率のよいミニ工場を目差すべきだとの論文から、[[タクシー]]等は個人経営を推奨すべきだとの意見まで公表された。[[共産主義]]建設の過程でソ連よりはるかに後方にいるはずの[[東ヨーロッパ]]各国、とくに[[ハンガリー人民共和国|ハンガリー]]を見習えと呼びかけた学者もいた。


=== ブレジネフ死去 ===
その一方で、アンドロポフは規律の強化によっても経済再建を成し遂げようとした。警察は勤務時間中に路上にいたり、酔っ払ったりした人々を拘束し始め、[[ウォッカ]]の値上げによる酒類追放で労働者の生産性向上を図ろうとした。アンドロポフの下で、初めて経済の停滞と科学技術の進捗の遅滞が公表され、後の「[[グラスノスチ]]」の先例となった。このような政策により産業生産高は4%増加し、[[ロボット工学]]など新技術への投資が拡大した。さらに[[五カ年計画]]が2期連続で達成されなかったことを指摘し、農業担当書記のゴルバチョフを重用して食糧問題解決に向けた食糧プログラムに取り組ませるなど事態の改善に努めた。アンドロポフの死後、[[アレクサンドル・ニコラエヴィチ・ヤコヴレフ|アレクサンドル・ヤコヴレフ]]は彼の改革について「要するに、燃料を使い果たした電車を磨き立てることで速度を上げようとするようなものだった」と評した。それは、アンドロポフが[[ヨシフ・スターリン]]の下で導入された[[計画経済]]からの転換を拒み続けたためである。
1982年4月22日、アンドロポフはレーニン生誕記念集会にて演説を行ない、西側のマスコミを驚かせた<ref name = "kimura_P313-314"/><ref name = "solovyov_P198">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、198頁</ref>。レーニン生誕記念集会の演説は、アンドロポフはこれで3回目であったが、一方ブレジネフですら、演説は2回しか行なったことがなかった<ref name = "kimura_P313-314"/>。最もこの頃ブレジネフは入院していた<ref name = "medvedev_P21">[[#メドベージェフ|メドベージェフ(1983年)]]、21頁</ref>。1982年5月にはKGB議長の座を降りて、党中央委員会総会で2度目の書記局入局を果たす<ref name = "kimura_P313-314"/><ref name = "medvedev_P320-321">[[#メドベージェフ|メドベージェフ(1983年)]]、320-321頁</ref>。これについては、アンドロポフがブレジネフの余命がいくばくも無いことを察知して、書記の地位を要求したと見られている<ref name = "kimura_P313-314"/>。ブレジネフは、1982年11月10日に死去する。時期が前後するが、1983年1月ロシア作家同盟機関誌『ノーヴィ・ミール』にブレジネフの回想録が掲載され、そこには、アンドロポフを党員としての謙虚さや人間性、実務能力を評価していたが、一方の[[コンスタンティン・チェルネンコ]]については、意志強固であるが、人との折衝能力も極めて優れているとアンドロポフと比較して最大限の賛辞を送っている<ref name = "kimura_P327-328">[[#木村|木村(1985年)]]、327-328頁</ref><ref name = "solovyov_P222">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、222頁</ref>{{refnest | group = * |しかし、この回想録はゴーストライターが書いたとされ、アンドロポフの評価については不自然な個所に挿入されており、チェルネンコを持ち上げるために挿入されたという見方がある<ref name = "kimura_P327-328"/><ref name = "solovyov_P222"/>。}}。そして、ブレジネフとチェルネンコは1950年から仕事上の付き合いがあり、1960年にブレジネフがソ連最高会議幹部会議長に就任すると、チェルネンコを事務局長に起用するなど、チェルネンコを重用していた<ref name = "volkogonov_P264">[[#ヴォルコゴーノフ|ヴォルコゴーノフ(1997年)]]、264頁</ref>。これらにより、ブレジネフ死去後の書記長は、チェルネンコが有力視されていた。しかし、チェルネンコは様々な理由や要因によって、書記長になれず、アンドロポフが書記長に就任した。これについては以下の理由や要因が指摘されている。


#チェルネンコは党内では影響力が大きかったものの、軍部からの支持が弱かった(一方アンドロポフは軍部からの支持が厚かった)<ref name = "kimura_P319-321">[[#木村|木村(1985年)]]、320-321頁</ref>。
===外交・国防政策===
#チェルネンコは古参のソ連共産党員ではあったが、政治局入りしたのは、アンドロポフよりも遅く1976年のことだった<ref name = "kimura_P325-326">[[#木村|木村(1985年)]]、325-326頁</ref>。一方のアンドロポフは、1962年から1967年まで書記を務め、1973年に政治局入りを果たしている<ref name = "kimura_P325-326"/>。また、同様の意見として、ブレジネフの秘書のようなポジションであったこと、これらにより、政治局内での支持基盤が弱かったのではないかという見方がある<ref name = "kimura_P325-326"/><ref name = "shinkai_P72-73">[[#新開|新開(1983年)]]、72-73頁</ref>。
[[ファイル:00595309(Andropov&Jaruzelski).jpeg|サムネイル|ポーランドのヤルゼルスキ首相と会談するアンドロポフ(1982年)|280x280ピクセル]]
#チェルネンコ自身がアンドロポフの支持に回ったこと<ref name = "umezu1983_P66">[[#梅津(1983年)|梅津(1983年)]]、66頁</ref>。これは、チェルネンコが保身を図ったためという見方ができる<ref name = "umezu1983_P66"/>。
#アンドロポフは健康状態が優れず、チェルネンコがそれを知りつつ、書記長在任期間が短いことを察知して、いったん権力闘争から降りたのではないかという見方<ref name = "umezu_P42-43">[[#梅津(1984年)|梅津(1984年)]]、42-43頁</ref>。
#政治局内で力の強かった国防相ドミトリー・ウスチーノフがアンドロポフを支持したために、チェルネンコが受け入れざるを得なかった可能性<ref name = "volkogonov_P134">[[#ヴォルコゴーノフ|ヴォルコゴーノフ(1997年)]]、134頁</ref><ref name = "kimura_P318">[[#木村|木村(1985年)]]、318頁</ref><ref name = "umezu_P13">[[#梅津(1984年)|梅津(1984年)]]、13頁</ref>。

こうして、1982年11月12日、アンドロポフはソ連共産党中央委員会特別総会で書記長に選出された<ref name = "shinkai_P72-73"/>。

== 書記長時代 ==
[[ファイル:00595309(Andropov&Jaruzelski).jpeg|サムネイル|[[ポーランド人民共和国|ポーランド]]の[[ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ|ヤルゼルスキ]]首相と会談するアンドロポフ(1982年)|280x280ピクセル]]
[[ファイル:1982 Ceausescu la Moscova la 60 de ani de la formarea URSS.JPG |サムネイル|ソ連邦成立60周年記念集会でチャウシェスクの演説を聴くアンドロポフ(1982年)|280x280ピクセル]]
[[ファイル:1982 Ceausescu la Moscova la 60 de ani de la formarea URSS.JPG |サムネイル|ソ連邦成立60周年記念集会でチャウシェスクの演説を聴くアンドロポフ(1982年)|280x280ピクセル]]
=== 人事政策 ===
アンドロポフは書記長就任後、アフガニスタンにおけるソ連軍の絶望的な状況や[[ポーランド人民共和国|ポーランド]]での民主化運動の激化など一連の厳しい外交状況に直面した。とりわけ最も大きな外交的苦難であったのは、アメリカの[[ロナルド・レーガン]]大統領によって開始された「[[新冷戦]]」の激化であった。レーガンはソ連を「[[悪の帝国]](Evil Empire)」と非難し、アメリカの強大な経済力を背景にソ連経済にダメージを与えることを画策していた。具体的には、アメリカが軍事に対し膨大な投資をすることで、ソ連が軍事支出を増加せざるを得ない状況を作り出し、既に衰退が始まっていたソ連経済を圧迫させることであった。これに対しアンドロポフは声明で「米ソの対話には賛成だが。対話のための対話や、力の立場からの対話には応じられない」と冷徹な返答を与えつつも、軍事予算を総予算の70パーセントまで引き上げることを余儀無くされた。更に東側陣営の盟主として[[シリア]]、[[バアス党政権 (イラク)|イラク]]、[[大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国|リビア]]、[[南イエメン]]、[[キューバ]]、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]、[[パレスチナ解放機構|パレスチナ]]に数十億ドル規模の軍事援助を行うことで新冷戦に対処した。アンドロポフの主たる目標は、あくまでも開戦を避けることだった。アンドロポフはソ連邦成立60周年記念集会で「米ソ双方が戦略兵器を25パーセント以上削減し、同数の運搬手段を持つこと」、「ソ連は英仏のミサイル保有数と同数まで長距離戦域ミサイルを削減する用意がある」などと提案。さらにアフガニスタンからの撤退を模索し始め、デタントの再構築を図ろうとしたものの、その間絶え間なく戦闘は続き、アンドロポフ在任中の撤兵は実現しなかった。
書記長に就任したアンドロポフであったが、1981年の第26回党大会で選出された中央委員は319人中、党の専従者=ブレジネフ派(つまりチェルネンコ派)は137人いるに対して、アンドロポフ派である軍人、外交官、KGB幹部らはわずか37人であり、アンドロポフの基盤は弱かったため、ブレジネフ派(チェルネンコ派)の勢力一掃にかかっていた<ref name = "kimura_P340">[[#木村|木村(1985年)]]、340頁</ref>。


また、西側はアンドロポフ派、チェルネンコ派(ブレジネフ派を継承)、中立の3派にわかれ、熾烈な権力闘争が繰り広げられるとみていた<ref name = "shinkai_P81">[[#新開|新開(1983年)]]、81頁</ref>。
[[1983年]][[3月23日]]、レーガンが[[戦略防衛構想|戦略防衛構想(スター・ウォーズ計画)]]を発表した際、アンドロポフは「この構想に対抗することは、無責任なだけではなく非常識なことだ」と述べた。


1982年11月22日、健康上の理由で辞表を提出した[[アンドレイ・キリレンコ (政治家)|キリレンコ]]政治局員を解任し、アゼルバイジャン共和国共産党第一書記の[[ヘイダル・アリエフ]]を政治局員へ昇格させ、同月23日から24日のソ連邦最高会議で、ソ連邦大臣会議の議長第一代理(第一副首相、議長が首相)に抜擢する<ref name = "shinkai_P83-84">[[#新開|新開(1983年)]]、83-84頁</ref>。アンドロポフは、石油を戦略資源として重要視していたことから、アゼルバイジャン出身のアリエフを抜擢したとみられる<ref name = "shinkai_P83-84"/>。また、アリエフは後にアンドロポフによって、ソ連経済、交通、輸送の立て直しの責任者に任命された<ref name = "kimura_P322-323">[[#木村|木村(1985年)]]、322-323頁</ref>。しかし、一方でブレジネフ派の筆頭であるチェルネンコを引き続き、要職に任命した<ref name = "volkogonov_P156">[[#ヴォルコゴーノフ|ヴォルコゴーノフ(1997年)]]、156頁</ref>。これについては、チェルネンコには支持者が多くいたためと、重責を課していずれは厄介払いする腹積もりであった可能性がある<ref name = "volkogonov_P156"/>。
同年8月、アンドロポフはソ連が[[宇宙空間]]における全ての軍事作業を停止していることを発表した。一方、欧米との中距離核戦力に関する軍備管理協議は11月にソ連によって中断され、年末までに全ての軍備管理協議は打ち切られた。


1982年12月17日、ブレジネフ派であった[[ニコライ・シチョーロコフ]]内相を解任し、後任に<ref name = "shinkai_P85">[[#新開|新開(1983年)]]、85頁</ref>KGB議長の[[ヴィタリー・フェドルチュク]]を抜擢する<ref name = "shinkai_P85"/><ref name = "hanai_P80">[[#花井|花井(1983年)]]、80頁</ref><ref name = "solovyov_P189">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、189頁</ref><ref name = "umezu_P10-11">[[#梅津(1984年)|梅津(1984年)]]、10-11頁</ref><ref name = "volkogonov_P161">[[#ヴォルコゴーノフ|ヴォルコゴーノフ(1997年)]]、161頁</ref>。
最高指導者としての短い在任期間中の最も著名な行為の1つに、アメリカの10歳の少女である[[サマンサ・スミス]]からの手紙に応答し、ソ連へ招待したというものがある。スミスは実際にソ連を訪問したものの、当のアンドロポフは病気が進行しており、面会は叶わなかった。


1983年3月、[[セルゲイ・アフロメーエフ]]ソ連軍参謀総長第一代理、[[セミョーン・クルコトキン]]国防次官、[[ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチ・ペトローフ]]国防次官をソ連邦元帥に任命する<ref name = "kimura_P321-322">[[#木村|木村(1985年)]]、321-322頁</ref>。
===大韓航空機撃墜事件===
[[1983年]][[9月1日]]、[[ソウル特別市|ソウル]]に向かって飛行中だった[[大韓航空|大韓航空機]]007便が、自動操縦システムの操作ミスによりソ連上空を領空侵犯し、故意の領空侵犯の疑いをかけられ[[樺太]]上空でソ連軍機によって撃墜された([[大韓航空機撃墜事件]])。


1983年11月26日の党中央委員会総会で政治局人事にメスをいれ、アンドロポフの意に沿う人物として、[[ミハイル・ソロメンツェフ]]党統制委員議長と、[[ヴィタリー・ウォロトニコフ]]ロシア共和国首相を政治局員候補から政治局員に選出<ref name = "kimura_P341">[[#木村|木村(1985年)]]、341頁</ref>。[[ヴィクトル・チェブリコフ]]KGB議長を中央委員から政治局員候補に昇格させる<ref name = "kimura_P341"/>。[[エゴール・リガチョフ]]中央委員組織・党活動部長を書記に抜擢する<ref name = "kimura_P341"/>。こうして、翌々日になると政治局の顔触れは変わり、政治局員13人中4人がアンドロポフが登用した人物で占められ、権力基盤が固まる<ref name = "kimura_P344">[[#木村|木村(1985年)]]、344頁</ref>。
当時書記長だったアンドロポフはこの事件に際して「事件はアメリカの特務機関が[[大韓民国|南朝鮮(韓国)]]を使って企んだ巧みな挑発で、その責任はアメリカにある」との内容の声明を3日後に発表。しかし「007便がアメリカのスパイ活動に協力していたという主張を裏付けることができない」というウスチノフ国防相の進言を受け、[[ブラックボックス (航空)|ブラックボックス]]の非公開を決め込んだ。なお冷戦終結後にブラックボックスは公開された。


アンドロポフは1984年2月までの在職期間中に34人の地方党第一書記、23人の党中央委員会部長級の幹部7人、約100人の閣僚中21人と次官約60人を更迭し、ブレジネフ色を薄れさせた<ref name = "kimura_P335">[[#木村|木村(1985年)]]、335頁</ref>。
== 死去と国葬 ==
===健康状態の悪化===
ようやく権力の頂点に登り詰めたアンドロポフであったが、持病の[[糖尿病]]による腎機能低下の障害は書記長就任後、アンドロポフの能力と政治的識見を発揮することへの阻害要因となった。当初、アンドロポフは多忙な政治日程をこなし、精力的な仕事ぶりをみせた。ブレジネフが夏に入ると早々と休暇をとり、1ヶ月から2ヶ月執務を離れたのとは対照的だった。[[1983年]]の夏も出ずっぱりといえるほどの忙しさで、「夏にめっぽう強いアンドロポフ」との評判さえも生まれた。しかしこの間も病気は進行し、7月から8月にかけて健康状態は悪化の一途を辿っていた。最高会議幹部会議長に選出された際の受諾演説は演壇まで歩ける状態になく、やむなく自席で行うありさまであり、[[西ドイツ]]の[[ヘルムート・コール]]首相との首脳会談の際も[[クレムリン]]に到着時、護衛の補助なしに車から降りることもままならなかった。そして[[9月1日]](奇しくも、[[大韓航空機撃墜事件]]が発生した日でもある)の政治局会議を司会したのを最後に公の席から姿を消し、党中央委総会もテクスト出席するなど、これ以降アンドロポフは亡くなるまで半年近くに渡って病床から政務を行った。


一方、権力基盤とは別に、アンドロポフはKGB時代と同様に汚職の撲滅に勤しんだ<ref name = "kimura_P315-316"/><ref name = "shinkai_P223-225">[[#新開|新開(1983年)]]、223-225頁</ref><ref name = "solovyov_P238">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、238頁</ref>。KGB議長時代には一切問題視していなかったどころか、国家に対して忠誠心があると評価した平和主義者の団体も摘発していった<ref name = "solovyov_P238"/>。
9月末には[[南イエメン]]の[[アリ・ナセル・モハメド]]最高人民会議常任幹部会議長との会談が報じられたが、会談がどこで行われたかは伏せられ、会談の写真も公表されなかった。[[10月15日]]からの予定だった[[ブルガリア人民共和国|ブルガリア]]訪問は直前になって延期された。ブルガリアの首都・[[ソフィア]]では歓迎準備が進められており、急遽の訪問取りやめによって改めて書記長の健康問題が関心を集めた。[[11月7日]]の革命66周年記念軍事パレードも欠席し、アンドロポフの政敵であるチェルネンコが本来そこに立つはずであったアンドロポフに代わり、[[レーニン廟]]上の雛壇中央を陣取ったのであった。


===死去===
=== 対外政策 ===
ソ連は、アンドロポフが書記長就任前のKGB議長時代の、1969年、[[中ソ国境紛争]]が勃発し、中国との関係は冷え込んでいた<ref name = "volkogonov_P180">[[#ヴォルコゴーノフ|ヴォルコゴーノフ(1997年)]]、180頁</ref>。
1月下旬、アンドロポフの健康状態は急激に悪化し意識混濁状態に陥った。そして1984年2月9日16時50分、腎不全により死去した。69歳没。政治局の多数のメンバーは、アンドロポフの死をその[[2月10日|翌日]]になって知らされた。そして、国営テレビやラジオを通してその死が公式発表された<ref>[https://www.ina.fr/ina-eclaire-actu/video/cab01027938/antenne-2-le-journal-de-20h-emission-du-10-fevrier-1984 Antenne 2 Le Journal de 20H : émission du 10 février 1984] - [[フランス国立視聴覚研究所|INA]]{{fr icon}}</ref><ref>{{YouTube|Esp2zTEXh84|JA2 20H : EMISSION DU 10 FEVRIER 1984}} - [[フランス国立視聴覚研究所|INA Actu]]{{fr icon}}</ref>。日本では、[[日本放送協会|NHK]]が午後7時48分に「“アンドロポフ死亡”との仏[[クロード・シェソン|シェイソン]]外相談」と速報を表示した<ref>{{NHKアーカイブス|A198402109999991300100|ニュース速報・字幕スーパー}}</ref>。アンドロポフの後任には、ライバルであったチェルネンコが就いた。アンドロポフ自身はゴルバチョフを後継に考えていたようであるが、病身ではその実現もままならなかった。


アンドロポフはソ連の軍事力で平和を実現することができると考えていたが、一方で、軍事費の増大が、国民に多額の負担を強いていると考えていた<ref name = "hanai_P146">[[#花井|花井(1983年)]]、146頁</ref>。彼は中ソ関係を改善することで、中ソの国境に配備している兵力を削減でき、それによって浮いた予算を軍事費の経済部門へと転用できる<ref name = "hanai_P146"/>。また、和解の姿勢を打ち出すことで西側諸国を動揺させることができるのではないかと考えた<ref name = "hanai_P146"/>。
4日間の服喪期間の後、[[2月14日]]正午から[[赤の広場]]で国葬が執り行われ、葬儀委員長を務めたチェルネンコの他、第一副首相兼外相の[[グロムイコ]]や国防相の[[ドミトリー・ウスチノフ|ウスチノフ]]らが追悼の辞を述べた<ref>{{YouTube|c6xFB3|Время. Эфир 14.02.1984}} - [[ソビエト連邦中央テレビ]]{{ru icon}}</ref>。日本の[[安倍晋太郎]][[外務大臣 (日本)|外務大臣]]やアメリカの[[ジョージ・H・W・ブッシュ|ブッシュ]]副大統領、イギリスの[[マーガレット・サッチャー|サッチャー]]首相など、西側諸国の要人も参列した。アンドロポフの遺体は、弔砲が鳴り響き[[ソ連国歌|国歌]]が演奏される中、[[レーニン廟]]裏の革命元勲墓に埋葬された。


そのため、アンドロポフは中国との関係改善に乗り出すも、中国は3つの条件を提出する<ref name = "volkogonov_P180"/>。その条件は[[ベトナム]]を[[カンボジア]]の国境紛争から手を引かせること、モンゴルからのソ連軍引き上げ、アフガニスタンからの撤退というもので、ソ連側にとっては飲めるものではなかった<ref name = "volkogonov_P180"/>。

アメリカは1981年に[[ロナルド・レーガン]]が大統領に就任する。1982年11月21日、[[キャスパー・ワインバーガー]]国防長官が[[北大西洋条約機構|NATO]]の会議に出席し、ソ連が核ミサイルの撤去に応じない場合は、アメリカは[[巡航ミサイル]]と[[MGM-31 (ミサイル)#パーシング II|パーシング II]]を572基を1983年秋にヨーロッパに配備することを通達する<ref name = "hanai_P161-162">[[#花井|花井(1983年)]]、161-162頁</ref>。アンドロポフは、中央委員に軍人を増やしたことがあだとなり、軍人の意向を無視した政策がとりにくかったものの、1982年12月、ソ連は[[イギリス|英]][[フランス|仏]]両国合計の量まで減らす用意があると演説する<ref name = "hanai_P165">[[#花井|花井(1983年)]]、165頁</ref><ref name = "umezu_P105">[[#梅津(1984年)|梅津(1984年)]]、105頁</ref><ref name = "umezu_P93">[[#梅津(1984年)|梅津(1984年)]]、93頁</ref>。しかし、アンドロポフは、752基の中距離ミサイルの展開を見合わせることを要求し、核兵器搭載可能な航空機をソ連と同等にまで減らすよう要求した<ref name = "hanai_P165"/>。英仏は、これらの要求を拒否した。1983年1月4日にプラハのワルシャワ条約機構政治諮問委員会に出席し、プラハ宣言を行う<ref name = "umezu1983_P180-181">[[#梅津(1983年)|梅津(1983年)]]、180-181頁</ref>。これはNATO加盟諸国に対して、武力行使の相互間の放棄を求めたものであるが、アメリカには不利な条約であった<ref name = "umezu1983_P180-181"/><ref name = "umezu_P62-63">[[#梅津(1984年)|梅津(1984年)]]、62-63頁</ref>。この条約の狙いは、アメリカの封じ込みを狙ったもので、共産主義者が国内で内乱を起こした場合、アメリカは武力介入できない<ref name = "umezu1983_P180-181"/><ref name = "umezu_P62-63">[[#梅津(1984年)|梅津(1984年)]]、62-63頁</ref>。また、このプラハ宣言では、国家主権に属さない国際法上の公海や、宇宙空間の通信妨害の禁止を含んでおり、つまり、公海における潜水艦の運航の禁止、人工衛星によるスパイ活動を禁止するというものであった<ref name = "umezu_P62-63">[[#梅津(1984年)|梅津(1984年)]]、62-63頁</ref>。この宣言では、ヨーロッパの中距離核ミサイルを平等に削減することを呼びかけていたが、これもアメリカにとっては不利なもので、ソ連は削減であって、廃棄することではなかったため移動させるだけで済むことになる<ref name = "umezu1983_P180-181"/>。アンドロポフは、プラハ宣言によって、中東・アフリカ・中南米の紛争を調停し、影響力を持ち、[[第三世界]]の支持を得ようと考えていた<ref name = "umezu_P199">[[#梅津(1984年)|梅津(1984年)]]、199頁</ref>。3月30日、今度はレーガンが、ソ連が西ヨーロッパ向けのSS-20(中距離ミサイル)を部分的に削減し、アメリカ側もそれに等しい基数を、西ヨーロッパに配備予定の中距離核ミサイルを削減するという提案を行なう<ref name = "umezu_P105"/>。しかし、ドイツへのミサイル配備を支持する[[ドイツキリスト教民主同盟]]が、選挙に勝利し窮地に陥る<ref name = "umezu_P18-19">[[#梅津(1984年)|梅津(1984年)]]、18-19頁</ref>。アメリカは、1983年12月、西ドイツとNATO加盟国にパーシングIIと巡航ミサイルを配備する<ref name = "umezu_P18-19">[[#梅津(1984年)|梅津(1984年)]]、18-19頁</ref>。こうして、[[中距離核戦力全廃条約|INF]]削減交渉は、1983年11月23日又は24日、ソ連より中止の申し出がなされ、アンドロポフ存命中は交渉が行われることが無かった<ref name = "umezu_P134">[[#梅津(1984年)|梅津(1984年)]]、134頁</ref><ref name = "umezu_P199">[[#梅津(1984年)|梅津(1984年)]]、199頁</ref>。

=== 国内政策 ===
アンドロポフが就任する前後の労働状況や経済状況は停滞ないし悪化の一途を辿っていた。軍事費は国家予算の70 %を占め、その金額は300億[[ルーブル]]ともされ、経済に活気がなくなっていた<ref name = "shinkai_P237">[[#新開|新開(1983年)]]、237頁</ref><ref name = "volkogonov_P241">[[#ヴォルコゴーノフ|ヴォルコゴーノフ(1997年)]]、241頁</ref>。労働状況については、前政権のブレジネフが長期間政権を握っており、その間汚職が横行していた<ref name = "kimura_P332">[[#木村|木村(1985年)]]、332頁</ref>。10年以上も官僚や経営幹部が同じ役職に居座り続けて、国家財産の流用や収賄などが当たり前になっていた<ref name = "kimura_P332"/>。職場も、無断で職場からの長時間の離脱や、勤務時間中の飲酒など風紀が乱れていた<ref name = "kimura_P332"/>。経済状況については、第四次五か年計画時(1946年から1950年)は、工業生産の年平均成長率は13.5 %であった<ref name = "kimura_P266-268">[[#木村|木村(1985年)]]、266-268頁</ref>。次第に成長率が下がり始め、1960年代からは同指標が年平均10 %を割ってしまう<ref name = "kimura_P266-268"/>。しかし、同期間の工業生産の年平均成長率は9 %の年もあったのだが、これが第十次五か年計画時(1976年から1980年)は、4.5 %にまで下がり、更には各種生産品目(電力やガスなど)の生産目標数量は、全て未達成であるのは勿論、ほぼ全ての品目が最低目標値にすら達しておらず、電力は下限の半分の値であった<ref name = "kimura_P266-268"/>。

==== 労働規律の強化並びに経済政策の実施 ====
アンドロポフは、怠慢、無断欠勤、遅刻、勤務中の飲酒を禁止させ、違反したものは厳罰に処した<ref name = "solovyov_P238">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、238頁</ref><ref name = "shinkai_P226">[[#新開|新開(1983年)]]、226頁</ref><ref name = "solovyov_P240"/>。検挙の場所は、映画館、カフェ、バー、商店、公共浴場(裸の状態のままで)でも検挙していた<ref name = "solovyov_P238"/>。刑罰を科すという脅しによって労働規律を強化し、これら労働に関する犯罪の概念を拡大し、アルコール中毒を含めるなどした<ref name = "solovyov_P238"/><ref name = "solovyov_P240">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、240頁</ref>。アンドロポフは、労働規律をチェックするため抜き打ちで視察を行うなどした<ref name = "kimura_P332-333">[[#木村|木村(1985年)]]、332-333頁</ref>。
そして、国民には、規律を乱す労働者を告発する投書を行なうよう呼びかけた<ref name = "kimura_P332-333">[[#木村|木村(1985年)]]、332-333頁</ref>。しかし、ただ厳しくするだけでなく優秀な労働者に対しては、住宅の優先配分や、休暇の延長、保養施設の優先利用、奨励金(免税の特典付き)などを認めた<ref name = "kimura_P346">[[#木村|木村(1985年)]]、346頁</ref>。1983年には労働集団法を成立させた<ref name = "umezu_P56-58">[[#梅津(1984年)|梅津(1984年)]]、56-58頁</ref><ref name = "kimura_P348-349">[[#木村|木村(1985年)]]、348-349頁</ref><ref name = "umezu_P161">[[#梅津(1984年)|梅津(1984年)]]、161頁</ref>。この法律の大まかな内容は下記の通りである。

#企業の生産計画や生産性向上のための措置に参加する<ref name = "kimura_P348-349"/>。
#企業の役職人事について意見表明し、自ら候補を推薦する<ref name = "kimura_P348-349"/>。
#賃金やボーナスが労働に見合った正当なものであるかをチェックする<ref name = "kimura_P348-349"/>。
#企業の福利厚生事業に対して発言する<ref name = "kimura_P348-349"/>。
#これら権限を行使するために、企業管理部に定期的に報告を求め、異議を表明し、あるいは別の提案をすることができる<ref name = "kimura_P348-349"/>。

しかし、この労働集団法も不完全なものであり、企業の所有権並びに経営権は不可侵であること、ストライキも規律強化のために禁止されており、労働者の自主管理を認めるものや経営参加に大きな権利を保障したものではなかった<ref name = "kimura_P348-349"/><ref name = "umezu_P58">[[#梅津(1984年)|梅津(1984年)]]、58頁</ref><ref name = "umezu_P56-58">[[#梅津(1984年)|梅津(1984年)]]、56-58頁</ref>。

科学技術の方にも方策を打ち出し、生産現場に技術開発を移譲させること、そして、新製品開発時の奨励金制度を設けた<ref name = "umezu_P151">[[#梅津(1984年)|梅津(1984年)]]、151頁</ref><ref name = "umezu_P195">[[#梅津(1984年)|梅津(1984年)]]、195頁</ref>。

1983年12月、経済活性化のために消費財の値下げと、工業部門における集団請負制を導入した<ref name = "umezu_P210-211">[[#梅津(1984年)|梅津(1984年)]]、210-211頁</ref>。工業部門の集団請負制とは、工場労働者が作業班を結成し、出来高に応じて賃金を受けられるというものである<ref name = "umezu_P210-211">[[#梅津(1984年)|梅津(1984年)]]、210-211頁</ref>。そして、トラック輸送の効率を高めるために、トラック運転手の賃金をガソリン消費量に応じて控除を行うようにした<ref name = "umezu_P210-211">[[#梅津(1984年)|梅津(1984年)]]、210-211頁</ref>。これは割り当てられたガソリンを超過した場合は罰金となり、逆に節約できた場合は、報奨金となるという制度である<ref name = "umezu_P210-211">[[#梅津(1984年)|梅津(1984年)]]、210-211頁</ref>。しかし、この政策の消費財の値下げについては、そもそもソ連の消費財は割高であり、生活必需品が値下げ対象でなかったことから、評判は悪かった<ref name = "umezu_P218">[[#梅津(1984年)|梅津(1984年)]]、218頁</ref>。

農業の方も停滞していたが、アンドロポフは農業も重要視しており、農業生産の増産を達成するためには、化学肥料や電力、トラクターといった重化学工業製品の需要を増大させることができると考えていた<ref name = "umezu1983_P126-128">[[#梅津(1983年)|梅津(1983年)]]、126-128頁</ref><ref name = "shinkai_P229">[[#新開|新開(1983年)]]、229頁</ref><ref name = "shinkai_P237-238">[[#新開|新開(1983年)]]、237-238頁</ref>。農業生産の停滞には、輸送システムの欠陥も一因としてあると考え、道路建設やトラックの充実に力をいれる<ref name = "shinkai_P237-238"/>。そして、増産させるための方策として、農産物の価格引き上げや、集団請負制の導入があった<ref name = "umezu1983_P126-128"/>。

ソ連の水準では穀物生産は2億 t以下が不作の水準となっていたが、穀物生産は五か年計画の目標としていた2億3800万 tに遠く届かず、1983年の穀物生産は2億 tに届いていなかった<ref name = "shinkai_P229">[[#新開|新開(1983年)]]、229頁</ref>。大体2億3000万 tが必要水準であり、いつしかソ連は穀物輸入国となっていた<ref name = "shinkai_P229"/><ref name = "shinkai_P229-230">[[#新開|新開(1983年)]]、229-230頁</ref>。穀物輸入国になった原因は、天災によるものではなく、非効率的なソ連の農業システムにあるとされた<ref name = "shinkai_P229-230"/>。1983年3月に、農業部門にも集団請負制を導入した<ref name = "kimura_P347">[[#木村|木村(1985年)]]、347頁</ref><ref name = "shinkai_P229">[[#新開|新開(1983年)]]、229頁</ref><ref name = "shinkai_P229-230"/><ref name = "shinkai_P237-238">[[#新開|新開(1983年)]]、237-238頁</ref>。農業部門の集団請負制の仕組みは、数人の農業労働者が[[コルホーズ]]や[[ソフホーズ]]の経営者と契約を結び、生産を請け負う<ref name = "shinkai_P229-230"/>。契約する際には、目標の収穫高と報酬が記載され、目標を達成した場合は、経営者側は報酬を支払う<ref name = "shinkai_P229-230"/>。目標が未達で且つその責任が労働者側にある場合は、労働者側が責任を被るというものであった<ref name = "shinkai_P229-230"/>。そして、もし天災による目標未達の場合であっても、未達成分の80 %を経営者側は労働者側に報酬として支払わなければならないという制度であった<ref name = "shinkai_P229-230"/>。

農業の方にも、奨励金制度を設け、目標を超過した場合は奨励金を支払い、品質が悪いものを生産した場合は罰金を科すようにした<ref name = "umezu_P157">[[#梅津(1984年)|梅津(1984年)]]、157頁</ref>。

=== 大韓航空機撃墜事件 ===
{{Main|大韓航空機撃墜事件}}

1983年9月1日、韓国のジャンボジェット機が南サハリン上空で墜落する<ref name = "shinkai_P10">[[#新開|新開(1983年)]]、10頁</ref>。墜落した飛行機はKAL007便で、ソ連領空を2時間半に渡って領空侵犯しており、ソ連軍が撃墜した<ref name = "shinkai_P10"/><ref name = "volkogonov_P183">[[#ヴォルコゴーノフ|ヴォルコゴーノフ(1997年)]]、183頁</ref>。しかし、アンドロポフをはじめとするソ連首脳は事態を軽視していた<ref name = "volkogonov_P184">[[#ヴォルコゴーノフ|ヴォルコゴーノフ(1997年)]]、184頁</ref>。軽視していた理由としては、第二次世界大戦後、領空侵犯を行なった飛行機の撃墜を行なっており、アメリカ側の調査では、ソ連による飛行機撃墜は未遂も入れて28件あり、民間の飛行機の撃墜はKAL007便を除いて4機撃墜、そして、軍人の被害は、42人が死亡し、28人が行方不明となっており、前例があることから事態を軽視していた<ref name = "shinkai_P20-21">[[#新開|新開(1983年)]]、20-21頁</ref><ref name = "volkogonov_P184"/>。翌日朝、ソ連首脳は会議を開き、KAL007便撃墜についての善後策を練るが、この時点では遺憾の意を示すことを提案する者はいなかった<ref name = "volkogonov_P194-195">[[#ヴォルコゴーノフ|ヴォルコゴーノフ(1997年)]]、194-195頁</ref>。会議での意見としては、戦闘機のパイロットは所定の手順に従い撃墜したのであって、[[曳光弾]]で警告射撃を行なったという結論に至る<ref name = "volkogonov_P195-196">[[#ヴォルコゴーノフ|ヴォルコゴーノフ(1997年)]]、195-196頁</ref>。ただし、曳光弾は実際には戦闘機に積載されていなかった<ref name = "volkogonov_P195-196"/>。会議の場ではゴルバチョフもおり、彼は如何にソ連が正しかったのかを釈明することを考えていた<ref name = "volkogonov_P197">[[#ヴォルコゴーノフ|ヴォルコゴーノフ(1997年)]]、197頁</ref>。こうして、9月2日時点では、ソ連が大韓航空機を撃墜したことを認めず、国際世論から想定外の批判の声が起きる<ref name = "volkogonov_P199">[[#ヴォルコゴーノフ|ヴォルコゴーノフ(1997年)]]、199頁</ref>。そして、9月7日又は9月9日、ソ連は記者会見を開き、大韓航空機の撃墜を認め、哀悼の意を示したものの、同機がスパイ行為と断定した<ref name = "volkogonov_P199"/><ref name = "umezu_P113">[[#梅津(1984年)|梅津(1984年)]]、113頁</ref>。また、ソ連は記者会見では大韓航空機は、南サハリン上空で、進路を右に変更し、ソ連の核ミサイル基地上空を通過してスパイ行為を行っていたと説明した<ref name = "umezu_P116">[[#梅津(1984年)|梅津(1984年)]]、116頁</ref>。ソ連側は警告射撃を行なったとしていたが、実際には行っていなかったとされ、進路変更についてもアメリカ側と日本側のレーダーでは、右に(南西に)変更したことは認められていない<ref name = "umezu_P116">[[#梅津(1984年)|梅津(1984年)]]、116頁</ref>。撃墜命令はアンドロポフが発令したのかという質問については否定したが、これについては軍の指揮系統を鑑みて、アンドロポフは撃墜命令を発令していないとして、フランスのマスコミも否定している<ref name = "umezu_P117-120">[[#梅津(1984年)|梅津(1984年)]]、117-120頁</ref>。飛行機の[[ブラックボックス (航空)|ブラックボックス]]も、ソ連が回収し、非公開を決め込んだ<ref name = "volkogonov_P200">[[#ヴォルコゴーノフ|ヴォルコゴーノフ(1997年)]]、200頁</ref>。対外的にはブラックボックスを見つけた後も2週間捜索作業を行い、見つけられなかった体でいた<ref name = "volkogonov_P200"/>。

== 死去 ==
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File:Reagan at the USSR Embassy.jpg|ワシントンの駐米ソ連大使館で記帳するアメリカのレーガン大統領(1984年2月13日)。
File:Reagan at the USSR Embassy.jpg|ワシントンの駐米ソ連大使館で記帳するアメリカのレーガン大統領(1984年2月13日)。
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アンドロポフは、KGB議長時代より健康状態がすぐれなかった。1982年11月時点でのCIAの情報では、アンドロポフは1966年には心臓発作を起こし、1970年代半ばには手術を受けて、10週間入院し、アンドロポフは健康面で重大な問題ありという報告が上がっていた<ref name = "kimura_P356-357"/>。1983年1月11日、アンドロポフはモスクワで[[ハンス=ヨッヘン・フォーゲル]]首相と面談したが、顔は青白く、足を引きずりながらテーブルに着くなど、まるで死人のようだったと会談の出席者は振り返っている<ref name = "kimura_P356-357"/>。1983年6月、[[マウノ・コイヴィスト]]フィンランド大統領の送り迎えは、空港ではなく、クレムリンで行なっていたのだが、これは無駄を省く意味合いがあったとみられていたが、実際には健康状態が悪かった<ref name = "kimura_P356-357"/>。この時の写真では、コイヴィストを見送るアンドロポフはボディーガードに両腕を支えられていた<ref name = "kimura_P356-357"/>。同月16日には、アンドロポフの演説は自席で座ったままで行われた<ref name = "kimura_P356-357"/>。1983年7月には、[[ヘルムート・コール]]首相との対談があったのだが、会談予定の日に急遽キャンセルし、翌日平然として会談を行なった<ref name = "kimura_P358-359"/>。そして、ドイツの週刊誌[[デア・シュピーゲル]]1983年7月11日号で、アンドロポフが腎臓の病気を患っており、人工透析を受けていることを報道する<ref name = "kimura_P358-359">[[#木村|木村(1985年)]]、358-359頁</ref>{{refnest | group = * |人工透析については、1983年2月に行ったとされる<ref name = "kimura_P360-361">[[#木村|木村(1985年)]]、360-361頁</ref>。}}。1983年8月18日には、アメリカの上院議員と会談をこなし、9月28日には、南イエメンの元首との会談を行なったとしているが、写真もなく、場所も不明であるため本当に行われたのかどうかはわかっていない<ref name = "kimura_P358-359"/><ref name = "umezu_P126">[[#梅津(1984年)|梅津(1984年)]]、126頁</ref>。世間でその姿が確認された最後の日付は1983年8月18日で9月以降の会議では姿を見せなかった<ref name = "umezu_P126">[[#梅津(1984年)|梅津(1984年)]]、126頁</ref><ref name = "volkogonov_P215">[[#ヴォルコゴーノフ|ヴォルコゴーノフ(1997年)]]、215頁</ref>。1983年11月7日の革命記念日の式典にはアンドロポフの姿はなかった<ref name = "kimura_P358-359"/><ref name = "umezu_P126">[[#梅津(1984年)|梅津(1984年)]]、126頁</ref>。そして、1983年12月26日から27日のソ連共産党中央委員会総会でも、姿を見せず、演説は代読によるものであった<ref name = "kimura_P356-357">[[#木村|木村(1985年)]]、356-357頁</ref><ref name = "umezu_P224">[[#梅津(1984年)|梅津(1984年)]]、224頁</ref>。この頃、政府はアンドロポフの重病説を否定し、体調不良は[[風邪]]によるものであるとしていたが、世間の[[アネクドート]]に下記のようなものがある<ref name = "umezu_P198">[[#梅津(1984年)|梅津(1984年)]]、198頁</ref>。
== その後 ==

<blockquote>
「アンドロポフがとうとう[[ギネスブック]]に載ったらしい。なぜか分かるかね。」

「風邪の世界最長記録だよ」
</blockquote><ref name = "kimura_P358-359"/>

時期は不明であるが、その他にも[[高血圧]]、[[肺炎]]、[[大腸炎]]、[[関節炎]]、[[心房細動]]、[[帯状疱疹]]などを患っていたり、あるいは患っていた<ref name = "volkogonov_P203">[[#ヴォルコゴーノフ|ヴォルコゴーノフ(1997年)]]、203頁</ref>。

こうして、アンドロポフは姿を見せないまま、腎不全により1984年2月9日死去<ref name = "kimura_P360-361">[[#木村|木村(1985年)]]、360-361頁</ref>。

== 死去後の評価 ==
[[File:Артимарка Юрий Андропов 2014.jpg|thumb|230px|2014年に発行されたアンドロポフを記念した切手。]]
[[File:Артимарка Юрий Андропов 2014.jpg|thumb|230px|2014年に発行されたアンドロポフを記念した切手。]]
アンドロポフは短命の書記長でありながら、改革派の指導者としてゴルバチョフ等の後代の指導者に与えた影響は大きく、特にKGB出身である[[ウラジーミル・プーチン]]はKGB議長経験者初の書記長を務めたアンドロポフを称賛し<ref>{{cite web|author =Mitsotakis, Spyridon|title=Remember Andropov? Putin does|url=http://www.breitbart.com/national-security/2014/03/06/remember-andropov/|publisher=Breitbart News|date=6 March 2014|accessdate=2016-08-31}}</ref><ref>{{cite news|author =Miletitch, Nicolas|title=Andropov birth centenary evokes nostalgia for Soviet hardliner|url=http://www.dailystar.com.lb/Arts-and-Ent/Culture/2014/Jul-29/265406-andropov-birth-centenary-evokes-nostalgia-for-soviet-hardliner.ashx|work=The Daily Star|date=29 July 2014}}</ref><ref>{{cite news|title=Putin puts Yuri Andropov back on his pedestal|url=http://www.irishtimes.com/news/putin-puts-yuri-andropov-back-on-his-pedestal-1.1145047|work=The Irish Times|date=16 June 2004}}</ref>、記念の執務室や銘板を復活<ref>ロイ・メドヴェージェフプーチンの謎現代思潮新社、2000年8月30日p.91</ref>させたり、[[サンクトペテルブルク]]市街地にアンドロポフの銅像を立てりと他のソ連の指導者とは別格として顕彰を行っている
アンドロポフは短命の書記長でありながら、改革派の指導者としてゴルバチョフ等の後代の指導者に与えた影響は大きく、特にKGB出身である[[ウラジーミル・プーチン]]はKGB議長経験者初の書記長を務めたアンドロポフを称賛し<ref>{{cite web|author =Mitsotakis, Spyridon|title=Remember Andropov? Putin does|url=http://www.breitbart.com/national-security/2014/03/06/remember-andropov/|publisher=Breitbart News|date=6 March 2014|accessdate=2016-08-31}}</ref><ref>{{cite news|author =Miletitch, Nicolas|title=Andropov birth centenary evokes nostalgia for Soviet hardliner|url=http://www.dailystar.com.lb/Arts-and-Ent/Culture/2014/Jul-29/265406-andropov-birth-centenary-evokes-nostalgia-for-soviet-hardliner.ashx|work=The Daily Star|date=29 July 2014}}</ref><ref>{{cite news|title=Putin puts Yuri Andropov back on his pedestal|url=http://www.irishtimes.com/news/putin-puts-yuri-andropov-back-on-his-pedestal-1.1145047|work=The Irish Times|date=16 June 2004}}</ref>、記念の執務室や銘板を復活させたり<ref>[[ロイ・メドヴェージェフ]] 著、海野幸男 訳『プーチンの謎現代思潮新社、2000年、91頁、{{ISBN2|9784329004130}}。</ref>{{R|藤谷}}させたり、[[サンクトペテルブルク]]市街地にアンドロポフの銅像を設置し<ref name="藤谷">藤谷昌敏 “[https://www.jfss.gr.jp/article/1726 世界に理解されないプーチン思想と論理 ―今も生きるソ連時代ゆがんだ理想―]”. 日本戦略研究フォーラム. 2023年9月29日(UTC)閲覧。</ref>
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== 人物・家族 ==
* 歴史学者の[[ロイ・メドヴェージェフ]]も、その著書『知られざるアンドロポフ』のなかでKGB議長在職中のアンドロポフについて「人々はKGB議長が彼であることをほとんど知らなかった。どの国でも、情報機関を率いる人は、有名になりたいなどと思わないし、そんなことは期待できない。とくにソ連のような国ではなおさらだ。」と著述している。
* ブレジネフの葬儀に参列した日本の[[鈴木善幸]]首相は「アンドロポフ氏は非常にソフトで温厚な感じだった。学者のように見受けられた。長い間、共産党の幹部として党の中枢で働き、また15年もああいう秘密警察(国家保安委員会=KGBを指す)の長官を務めたとの印象は受けなかった」と述べた。
* 中央委時代のアンドロポフの顧問や若い知識人は、しばしばアンドロポフを「リベラルな」リーダーとして回想する。「この部屋では、我々全員がまったくオープンに本音を話すことができる。しかしこの部屋を一歩出たら、規則に従ってプレーしなければならない。」政治学者のゲオルギー・アルバトフも、アンドロポフのこんな言葉を覚えている。この言葉の意味は、我々は自分たちの仲間内ではソビエト体制を批判することができるが、あくまでも国家に忠実であることを忘れるな、ということであるという。幾人かの歴史家は、西側との緊張緩和([[デタント]])の路線を発展させたのはアンドロポフだったとさえ述べている。[[ドイツ]]の歴史家スザンヌ・シャッテンベルクは「アンドロポフは、ブレジネフの対西側政策を構築した(1970年代末のいわゆる『デタント』のこと。当時、ソ連と西側との関係が多少改善された)」と語った。
* アンドロポフは出自を含め、自分の個人生活については常に寡黙だった。アンドロポフの祖父はユダヤ系の裕福な商人だったという噂が広まっていたが、アンドロポフはそれをいつも否定した。
* アンドロポフは、自分の家庭についても語らず、在任中は私生活は全く明らかにされなかった。5年間結婚生活を送り、息子をもうけたが離婚後は息子と元妻とはほとんど連絡を取らなかった。
* 西側メディアでは長年アンドロポフは男やもめであるとされ、葬儀の際には「夫人は9年前に死亡」と伝えられた。だが葬儀にはタチアナ夫人と子供2人が列席し、西側メディアを驚かせた<ref>[[木村明生]]「クレムリン 権力のドラマ」朝日選書、1985年</ref>。
* アンドロポフ自身語学に長けており、[[ロシア語]]の他、[[英語]]、[[ドイツ語]]、[[フィンランド語]]で意思疎通をとることができた。


== 語学力と親欧米派のイメージについて ==
== 脚注 ==
アンドロポフが書記長に就任する前後の西側諸国の報道では、アンドロポフは語学に長けており、[[英語]]はもちろんのこと、[[ハンガリー語]]、[[フランス語]]、[[フィンランド語]]、[[ドイツ語]]を話し、フランス語については、[[ミシェル・ド・モンテーニュ]]の著作を原語で読んだことがあるとされていた<ref name = "medvedev_P39">[[#メドベージェフ|メドベージェフ(1983年)]]、39頁</ref><ref name = "medvedev_P44">[[#メドベージェフ|メドベージェフ(1983年)]]、44頁</ref><ref name = "kimura_P355">[[#木村|木村(1985年)]]、355頁</ref><ref name = "shinkai_P40">[[#新開|新開(1983年)]]、40頁</ref><ref name = "shinkai_P65-66">[[#新開|新開(1983年)]]、65-66頁</ref><ref name = "hanai_P163">[[#花井|花井(1983年)]]、163頁</ref><ref name = "solovyov_P115">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、115頁</ref><ref name = "solovyov_P118">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、118頁</ref><ref name = "solovyov_P217-218">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、217-218頁</ref><ref name = "solovyov_P218">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、218頁</ref><ref name = "kimura1987_P145">[[#木村(1987年)|木村(1987年)]]、145頁</ref><ref name = "freemantle_P36">[[#フリーマントル|フリーマントル(1983年)]]、36頁</ref><ref name = "volkogonov_P139">[[#ヴォルコゴーノフ|ヴォルコゴーノフ(1997年)]]、139頁</ref><ref name = "baron1984_P17">[[#バロン(1984年)|バロン(1984年)]]、17頁</ref>。また、アメリカの[[ジャズ]]や[[フランスワイン]]を愛飲し、欧米の小説を愛読し、リベラルであるとされ、国際感覚に優れ、ようやく西側にとって、話せる人間が出てきたと報道された<ref name = "medvedev_P39"/><ref name = "kimura_P355"/><ref name = "shinkai_P40"/><ref name = "shinkai_P65-66"/><ref name = "hanai_P163"/><ref name = "solovyov_P115"/><ref name = "solovyov_P217-218"/><ref name = "kimura1987_P145"/><ref name = "kimura1987_P146">[[#木村(1987年)|木村(1987年)]]、146頁</ref><ref name = "baron1984_P17"/>。外国語について補足するとハンガリー語は、ハンガリーに赴任していた時に習得したと見られ、英語については、成人後に週に2度個人レッスンを受けて習得したであるとか、第二次世界大戦時に北海で船乗りとして、アメリカ船やイギリス船の乗組員とやり取りする際に習得したという証言がある<ref name = "solovyov_P218"/>。また、VOAを毎日聴取し、英字新聞も毎日読む、欧米の小説を愛読するといった情報もあり、英語に精通しているのは確かな情報とされた<ref name = "solovyov_P217-218"/><ref name = "kimura1987_P145"/><ref name = "baron1984_P17"/>。しかし、以下の点から外国語に精通していないと見られている。
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}


#ブレジネフ死去後、ブッシュ副大統領との会談では、英語を一言も喋らなかった<ref name = "solovyov_P218"/>
#ソ連駐在のアメリカ大使との意思疎通はロシア語でなされていた<ref name = "solovyov_P218"/>
#アメリカ政府要人と会話する際には通訳を通しており、英語を喋っているのを聞いたことがないという証言<ref name = "kimura1987_P146-147">[[#木村(1987年)|木村(1987年)]]、146-147頁</ref>
#アンドロポフの息子イーゴリは英語を学んだものの、アンドロポフは外国語を学んだことすらないとする証言<ref name = "solovyov_P117-118">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、117-118頁</ref>
#アンドロポフはモンテーニュの著作については、母国語であるロシア語ですら読んだことがないという証言<ref name = "solovyov_P115"/>

これらの情報から、アンドロポフは実際には、英語とそれ以外の外国語には精通していないとみられる。ただし、アンドロポフの部下は、英語を全くわからないというイメージを払しょくするため、執務室に英文法の本が確かにあったと証言するなどの火消しを行ったことがある<ref name = "solovyov_P218"/>。
アンドロポフが外国語に精通していることや欧米的な文化習慣を持ち、親欧米的な印象については、KGBによって作り出されたイメージである可能性が高い<ref name = "solovyov_P118"/><ref name = "solovyov_P217-218"/><ref name = "solovyov_P218"/>。

== 私生活 ==
アンドロポフは、ユダヤ人ではないかという説があった<ref name = "medvedev_P30">[[#メドベージェフ|メドベージェフ(1983年)]]、30頁</ref>。名前はユダヤ人らしい響きで、4分の1のユダヤ人の血が混じっているのではないかとされた<ref name = "medvedev_P30"/>。だが、アンドロポフの祖先はロシアに帰化したギリシャ人であり、父方の先祖の名前は、アンドロポウロスと言った<ref name = "solovyov_P209-210">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、209-210頁</ref>。ただ、結局のところユダヤ人の血を引くのかはわからずじまいであるが、ユダヤ人の血を引いているのであれば、そもそもKGB議長にはなれなかったと思われる<ref name = "solovyov_P209-210"/>。

アンドロポフは結婚し、子供が二人おり、息子のイーゴリは英語を学び、外務省に職を得ることができた<ref name = "solovyov_P188">[[#ソロビヨフ|ソロビヨフ(1984年)]]、188頁</ref>。

== 注釈 ==
{{reflist|group="*"}}

== 脚注 ==
{{Reflist|3}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=[[ジョレス・メドベージェフ]]|translator=[[毎日新聞|毎日新聞外信部]]|year=1983|title=アンドロポフ : クレムリン権力への道|publisher=[[毎日新聞社]]|doi=10.11501/12185134|ref=メドベージェフ}}
{{脚注の不足|date=2023年8月|section=1}}
*{{Cite book|和書|author=ジョレス・メドベージェフ|translator=毎日新聞社外信部|title=アンドロポフ : レムリン権力へ|publisher=新聞社|date=1983-08-20|id={{NDLJP|12185134}}}}
*{{Cite book|和書|author=[[新開徹夫 ]]|year=1983|title=ソ連もう一つの恐い顔 : アンドロポフ・ネットワークの|publisher=[[本経済通信]]|doi=10.11501/12183410|ref=新開}}
*{{Cite book|和書|author=V・ソロビヨフ、E・クレピコワ|translator=磯田定章|title=クレムリンの内幕 : ドロポの革命とその後|publisher=ダイヤモンド社|date=1984-04-12|id={{NDLJP|12185200}}}}
*{{Cite book|和書|author=[[木村明生]]|year=1985|title=クレムリン権力ドラマ : レーニからゴルバチョ|publisher=[[朝日新聞]]|doi=10.11501/12183013|ref=木村}}
*{{Cite book|和書|author=木村明生|title=クレムリン権力ドラマ : レーニンからゴルバチョフへ|series=朝日選書 ; 283|publisher=朝日新聞社|date=1985-07-20|isbn=4-02-259383-0|id={{NDLJP|12183013}}}}
*{{Cite book|和書|author=[[ドミートリー・ヴォルコゴーノフ]]|translator=[[田真司]]|year=1997|title=七人首領 : レーニンからゴルバチョフまで |publisher=[[朝日新聞社]]|isbn=4-02-257177-2|ref=ヴォルコゴーノフ}}
*{{Cite book|和書|author=木村明生|title=ソ連共産党書記長|series=[[講談社現代]]|publisher=講談社|date=1987-05-20|id={{NDLJP|11928575}}}}
*{{Cite book|和書|author=[[ブライアン・フリーマントル]]|translator=[[新庄哲夫]]|year=1983|title=KGB |publisher=[[新潮]]|doi=10.11501/11931318|ref=フリーマントル}}
*{{Cite book|和書|author=[[杜漸]]|translator=[[岸本弘]],[[木田洋]]|year=1983|title=KGB : ソ連支配権力の秘密 |publisher=[[亜紀書房]]|doi=10.11501/11931425|ref=杜漸}}
*[[ドミトリー・ヴォルコゴーノフ]]『七人の首領 下』(生田真司訳、朝日新聞社、1997年)、ISBN 4-02-257177-2
*{{Cite book|和書|author=[[ジョン・バロン]]|translator=[[リーダーズダイジェスト]]|year=1974|title=KGB : ソ連秘密警察の全貌 上巻 |publisher= 日本リーダーズダイジェスト社|doi=10.11501/12288432|ref=バロン(1974年)}}
*{{Cite book|和書|author=[[アレクセイ・ミヤコフ]]|translator=[[佐瀬俊三郎]]|year=1978|title=KGBの内幕 |publisher= [[日刊労働通信社]]|doi=10.11501/11931283|ref=ミヤコフ}}
*{{Cite book|和書|author=[[花井等]]|year=1983|title=アンドロポフvsレーガン : 米ソ新体制下の世界情勢 |publisher= [[学陽書房]]|doi=10.11501/11923608|ref=花井}}
*{{Cite book|和書|author=[[梅津和郎]]|year=1984|title=アンドロポフの失踪 : クレムリンの怪 |publisher= [[エムジー出版]]|doi=10.11501/12185056|ref=梅津(1984)}}
*{{Cite book|和書|author=[[梅津和郎]]|year=1983|title=アンドロポフの戦略 |publisher= [[経済往来社]]|doi=10.11501/12183561|ref=梅津(1983)}}
*{{Cite book|和書|author=[[ジョン・バロン]]|translator=[[入江眉展]]|year=1984|title=今日のKGB : 内側からの証言 |publisher= [[河出書房新社]]|doi=10.11501/11930120|ref=バロン(1984年)}}
*{{Cite book|和書|author=V.ソロビヨフ, E.クレピコワ|translator=[[磯田定章]]|year=1984|title=クレムリンの内幕 : アンドロポフの革命とその後 |publisher= [[ダイヤモンド社]]|doi=10.11501/12185200|ref=ソロビヨフ}}
*{{Cite book|和書|author=木村明生|year=1987|title=ソ連共産党書記長 |publisher= [[講談社]]|doi=10.11501/11928575|ref=木村(1987)}}
*{{Cite book|和書|author=朝日新聞社調査研究室|year=1963|title=中ソ論争 |publisher= 朝日新聞社|doi=10.11501/3027429|ref=朝日}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
{{commons|Category:Yuri_Andropov}}
{{commons|Category:Yuri_Andropov}}
*[[大韓航空機撃墜事件]]
*[[サマンサ・スミス]] - アンドロポフに手紙を送ったことがきっかけで親善大使となったアメリカの少女。
*[[サマンサ・スミス]] - アンドロポフに手紙を送ったことがきっかけで親善大使となったアメリカの少女。
*[[ジョージ・H・W・ブッシュ]] - KGB議長と比較されるCIA長官の経験者で初のアメリカの大統領。
*[[ジョージ・H・W・ブッシュ]] - KGB議長と比較されるCIA長官の経験者で初のアメリカの大統領。

2023年9月30日 (土) 01:57時点における版

ユーリ・アンドロポフ
Юрий Андропов
KGB議長時代のアンドロポフ
(1974年撮影)
ソビエト連邦共産党
中央委員会書記長
任期
1982年11月12日 – 1984年2月9日
中央委員会第二書記コンスタンティン・チェルネンコ
前任者レオニード・ブレジネフ
後任者コンスタンティン・チェルネンコ
ソビエト連邦
第8代最高会議幹部会議長
任期
1983年6月16日 – 1984年2月9日
第一副議長ヴァシリー・クズネツォフ
前任者ヴァシリー・クズネツォフ(代行)
後任者ヴァシリー・クズネツォフ(代行)
ソビエト連邦共産党
中央委員会第二書記
任期
1982年5月24日 – 1982年11月10日
中央委員会書記長レオニード・ブレジネフ
前任者コンスタンティン・チェルネンコ(代理)
後任者コンスタンティン・チェルネンコ
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
第4代国家保安委員会(KGB)議長
任期
1967年5月18日 – 1982年5月26日
閣僚会議議長アレクセイ・コスイギン
ニコライ・チーホノフ
前任者ウラジーミル・セミチャストヌイ
後任者ヴィタリー・フェドルチュク
ソビエト連邦共産党
第22-23期・第26期書記局員
任期
1962年11月23日-1967年6月21日(第22 - 23期)
1982年5月24日 – 1984年2月9日(第26期)
ソビエト連邦共産党
第24-26期政治局員
任期
1973年4月27日 – 1984年2月9日
ソビエト連邦共産党
第23-24期政治局員候補
任期
1967年5月21日 – 1973年4月27日
個人情報
生誕 (1914-06-15) 1914年6月15日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国
スタヴロポリ地方ナグツカヤ
死没1984年2月9日(1984-02-09)(69歳没)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
モスクワ
墓地ロシアの旗 ロシア
モスクワ クレムリン共同埋葬地
市民権ロシア人
政党 ソビエト連邦共産党
配偶者タチアーナ・アンドロポワ(1991年11月死去)
宗教無神論
署名
兵役経験
所属国ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
所属組織赤軍
ソビエト連邦軍
軍歴1939年1984年
最終階級上級大将
戦闘第二次世界大戦

ユーリ・ウラジーミロヴィチ・アンドロポフロシア語: Ю́рий Влади́мирович Андро́повラテン文字表記:Yurii Vladimirovich Andropov1914年6月15日 - 1984年2月9日[1])は、ソビエト連邦政治家軍人ブレジネフの死後はソ連共産党中央委書記長最高会議幹部会議長として同国の最高指導者の地位にあった。党中央委第二書記、国家保安委員会(KGB)議長、駐ハンガリー人民共和国ソ連大使を歴任。軍の階級は上級大将

長らく秘密警察のトップたるKGB議長を務めた。書記長に就任後はブレジネフ時代に蓄積された停滞と腐敗の一掃・労働規律の強化に乗り出したものの、就任後に病に倒れ十分な成果を収められなかった。しかしアンドロポフの構想の一部は、自らが目を掛けて引き立ててきた同郷の後輩でもあるミハイル・ゴルバチョフに引き継がれた。

来歴

生い立ち

アンドロポフは、1914年6月15日、スタヴロポリ州に、ナグツカヤの鉄道職員を父として生まれる[2][3][4][5]。16歳でコーカサスのオセット自治共和国モズドク市で労働者として働き始め、コムソモールに参加[2][4][6]。その後、ヴォルガ川運輸局船員、電信技術者、映写技術者も務める[2][3][4][6][7][5]。1932年又は1933年以降、ヤロスラフ地区ルイビンスク水上輸送技術専門学校に所属、1936年に卒業後、アンドロポフはルイビンスクのボロダルスキー造船所内のコムソモール専従書記になる[2][3][6][8][9][10]。アンドロポフの公表されている学歴は、高等教育修了とされ、学業は振るわなかった[2][6]。大学卒業相当の学歴になるが、16歳で働きに出ているところを見ると、学業の修了は、7~8年かかり、大学相当の教育機関への入学資格はなかったとみられる[2]。しかし、KGBに就職後、大学相当の教育課程を修了していた可能性がある[2]

アンドロポフは、この時点では共産党員ではなかったものの、1938年までにヤロスラヴリ州の党委員会のコムソモール第一書記に昇進[10][3][9][11][12][13]。1939年、ソ連共産党に入党[11][8]。1940年には、カレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国第一書記になる[10][3][9]。公式記録では、1940年から1944年までカレリア地区書記となっている[10][13][14]。第一書記になるには、党規則により、5年以上の党員歴が必要であり、異例とも言える出世スピードであったが、これには、スターリンによる粛清により、役職に空白ができていたためである[11][15][12]ソフィン戦争の結果、フィンランドは一部の領土をソ連に割譲した[10][5]ヴィボルグのソ連化がアンドロポフの任務であった[10][5]。ただ、このソ連化に関しては、フィンランド人がほとんど逃げていたため困難な任務というわけではなかった[5]

独ソ戦開戦後、アンドロポフは、カレリアでパルチザンとして活動する[16][14][9][7][8][17]。アンドロポフは、ドイツとフィンランドが占領していないペトロザヴォーツクの北方にいたと見られる[16]。アンドロポフはパルチザン作戦の組織の策定に携わっており、実戦に参加していないと見られる[16]。ソ連軍がペトロザヴォーツク市を奪還した1944年には、同市の党第二書記に就任する[9][8][3][18]

第二次世界大戦後、1947年にカレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国の第二書記になり、ソ連化を推し進め、フィンランド共産党の創設者の一人で当時第一書記であったオットー・クーシネンにヴィボルグのソ連化の功績が認められ、1951年、党中央委員会に転属する[3][9][13][17][* 1]。1951年から1953年まで、ペトロザヴォーツク大学に学ぶが、中退[3][9][8]。共産党中央委員付属高級党学校にも所属したが[* 2]、こちらについては文献によっては卒業と記載されていたり、卒業していないとする文献がある[12][9][13]

外交官として 

駐ハンガリー大使

1953年、外交方面に進み、外務省第四欧州部長(チェコ・ポーランド担当)を経て、1953年駐ハンガリー参事官、1954年同国大使に昇進する[3][8][13][17][18][19][20][21]。一見、順調なキャリアに見えるが、他国の大使館勤務になるということは、モスクワの中枢部にて勤務できないことになり、うまく昇進したとしても外務次官止まりか、西側の大使で一生を終えることを意味していた[21]。アンドロポフがハンガリーに赴任することになったのは、当時ニキータ・フルシチョフがスターリン時代の党員の配置転換を行なっており、それに巻き添えを受けたためであった[21]。また、1953年には、ベルリン暴動を現場で目撃している[22]

大使館時代は、パーティーなどでハンガリーの歌を歌うなどしており、1957年にモスクワに帰任以降も個人的にハンガリーを旅行することがあった[23]。ハンガリー赴任時には結婚していたようである[23]

ハンガリー動乱

当時ハンガリーでは、ラーコシ・マーチャーシュが首相を務めていた[24]。しかし、フルシチョフはラーコシを首相から解任し、ナジ・イムレを首相にしたいと考えていた[24]。この時、フルシチョフはアンドロポフを通じて、ラーコシの辞任を迫っていた[24]。ラーコシは、ソ連の圧力に耐えかねて首相を辞任する[24]。そして、1956年10月23日、ハンガリー民衆はソ連との関係を見直すデモ活動を行い、ナジを担ぎ出し、一方のフルシチョフも、厄介者であったラーコシを排除することと、ナジをソ連の傀儡になりうる人物と見なし、アンドロポフを通じて、ナジが首相になるよう迫る[25]。だが、ナジは、むざむざソ連の傀儡になるのを望まず、暴徒と化した市民の前で演説を行なう[25]。この時、市民が集まった広場で銃撃事件が発生し、これがハンガリー動乱の引き金となる[25]。翌日10月24日午前8時13分、ナジの首相任命がラジオで報道され、ナジは戒厳令を発令し、更には同日、ソ連に軍の派遣を要求した[25][20]。10月25日、午後2時ソ連軍の戦車がブダペストに到着し、戦闘状態に陥る[25][20]。なお、このソ連軍の戦車には、アナスタス・ミコヤンミハイル・スースロフがおり、彼らはナジと会談し、ナジの政治改革に好印象を持つ[26]。10月26日、ナジはソ連軍の即時撤退の要求とハンガリー市民の戦闘停止を命じた[27]。10月28日、ミコヤンはブダペストにいるアンドロポフと打合わせし、ソ連軍が撤退することを確認した[27]。しかし、10月30日、フルシチョフは密かに軍の再出動を決定するも、一方でミコヤンとスースロフは社会主義諸国間の平等と内政不干渉を約束するソ連の声明を携えブダペストに向かった[27][26]。これを受けて、10月31日ナジはラジオ放送で、ソ連軍が撤退し始めたことを報告する[26]

しかし、11月1日午後に、ソ連軍の増援部隊がブダペストに向かっていることがわかり、同日又は11月2日、ナジはアンドロポフにソ連軍の即時撤兵を要求し、それが受け入れられなければワルシャワ条約機構からの脱退とハンガリーの中立国化を宣言すると通告した[28][27][29][20]

この10月30日から11月1日のソ連軍の動きについては、アンドロポフによる働きによるところがあり、彼は絶えずブダペストの情勢について、モスクワと連絡を取り合っていた[30]。当時のブタペストの実際の状況は不明であるが、ブダペストには、群衆の凶悪行為であったり、大量リンチが横行しているといった電報をモスクワに送り続けていた[30]。これにより、ブダペストへのソ連軍派兵が決定した[30]

11月1日から11月2日にかけて、ナジはアンドロポフに対して、ソ連軍の撤退を執拗に要求したが、アンドロポフの回答は、ソ連軍は数個師団が交替しているため増派しているように見えるだけである、などと言った回答や、ブダペストは混乱の最中にあり、ソ連軍が包囲している空港には病人や戦傷者がいるため彼らの保護が必要である、と言ったいい加減な回答を行い、時間稼ぎを行なった[31]。だが、一方でアンドロポフはナジを懐柔するため、10月30日の、社会主義国間の平等保障とソ連の内政不干渉を約した声明は有効であることを確約していた[31]。ただ、アンドロポフの本心としては、ナジはソ連にとっては裏切り者であり、摘発することを考えていた[31]

アンドロポフはソ連軍撤退合意に向けた会談を提案し、同会談は11月3日に開催された[32][29]。会談は、ハンガリー側にとっては意外なことに、順調に進み、ソ連軍の撤退日について合意を残すのみとなった[29]。しかし、同日の夜、KGB工作員が乱入し、ハンガリーの代表団を逮捕してしまう[33][32][28]。ソ連側の代表団は、KGBのこの行為について抗議を行なうも、聞き入れられなかった[33]カーダール・ヤーノシュは、この逮捕事件を聞き、アンドロポフの勧告に従い、ナジを見限り、新政権を率いることを決断する[34]

こうして、ハンガリー動乱は下火になり、11月4日早朝にソ連軍の戦車1000両が、ブダペストに侵入し、11月6日にブダペストは陥落した[34]。3万5000人が逮捕され、2万人が死亡し、4万人がシベリアに追放され、3000人が死刑、15万人が亡命した[34][20]

ナジは情勢が悪化したのを鑑みて11月3日に、ユーゴスラビア大使館に避難していたが、アンドロポフはカーダール・ヤーノシュに身の安全を保障することを約束した書面を持たせ、ナジに渡させた[35][28][34][36]。それを真に受けた、ナジはユーゴ大使館から自宅へ向かう道中、KGBによって逮捕され、まずルーマニアに送還され、18か月後の1958年6月15日、反逆罪の廉によりモスクワで処刑された[35][28][20]

KGB議長に就任するまで

アンドロポフはハンガリーでの功績によって、モスクワに帰任する[37]。1957年夏、中央委員会国際局の局長に就任し、ユーゴスラビア、ブルガリア、ポーランド、アルバニアなどの東欧諸国や、モンゴル、中国、北朝鮮、北ベトナムを監視し、これらの国を歴訪した[38][39][40][28]。この歴訪に関しては、フルシチョフと同行することもあったり、フルシチョフ失脚後は、ブレジネフやコスイギンと同行することもあった[39]。後年、アンドロポフが書記長に就任した際は、歴代の書記長と比較して、外国への訪問経験が豊かな書記長と言われた[39]。ただし、アンドロポフが歴訪した国は、東側の国ばかりで西側諸国を歴訪することはなかった[39]。また、国際局の局長に就任したことから、政治局の会議に参加するようになる[28]

1961年の第22回党大会では、中央委員会の委員に選出され、1962年には中央委員会書記局の書記に任命される[41]。なお、通常であれば、中央委員会の委員候補に選出されてから委員に選出されるのが通例であるが、ハンガリー動乱の功績によるものか、中央委員会国際局の功績によるものとされる[42]。1963年1月13日から1月20日にかけて、ソ連最高会議代表団長として北ベトナムを訪問する[43]。1963年5月15日に、スースロフ党中央委員会幹部会員兼書記を団長として、アンドロポフも党中央委員会書記として、中国を訪問し、中ソ論争に加わった[44][40]

KGB議長時代

レオニード・ブレジネフらと共に、SEDの来賓として。一番左側の人物(1967年)

KGB議長に就任

1967年5月19日、アンドロポフはKGB議長に就任する[45][46][37]。そして1か月後のソ連共産党の機関紙プラウダで、アンドロポフが政治局局員候補に選出されたことが報道される[46][* 3]ラヴレンチー・ベリヤ以来となる、秘密警察機関の長官にあたる人物が政治局員候補入りした[46][19][47][3][46][48]。アンドロポフはKGB議長となり、軍人になり、階級は1976年9月時点では上級大将となった[49][50][51][52]。ただし、KGB議長時代は書記長になることを見据え、一度も軍服を着用しなかった[49][51]。就任後、218人の外国人をKGBにスカウトし、その内64人は対アメリカへの諜報活動が可能な状態にまで訓練し、資本主義諸国からの暗号入手と9,000件以上の技術情報を党中央委員会に提出するなど、対外諜報で成果を上げた[53]

ブレジネフ暗殺未遂

1969年1月、ブレジネフの暗殺未遂事件が発生する[54]。暗殺犯のイリインは、KGBによって逮捕され、アンドロポフはイリインを非公開裁判にかけて、精神病と断定し、特別精神病院送りにした[54][55][56]。ブレジネフ暗殺未遂事件後、アンドロポフはブレジネフが居住するアパートの一つ上の階に居住するようになる[57][56][58][59]

反ユダヤ主義

1969年、アンドロポフはKGBに反体制派を取り締まるために第五管理本部を創設する[60]。第五管理本部傘下には、ユダヤ人局が創設され(1971年)、ユダヤ人も取り締まり対象となった[61]。1970年夏、レニングラード州の空港で、KGB工作員が12人のユダヤ人をハイジャック未遂罪として逮捕したり、1972年終わりごろ、ユダヤ人に対しての監視活動を強化するよう命令を出す[62][63]。1976年11月15日、『いわゆるソ連邦でヘルシンキ合意を実現する協力グループの敵対行動について』という題のメモには、反体制派のメンバーの民族的出自(=ユダヤ人)を記載するなどして、反ユダヤ主義として報告を行ない、当該グループの信用失墜や、敵対行動阻止のために海外のソ連大使館に指示を行なっていた[64]。1977年には、反体制派のユダヤ人の逮捕や、反ユダヤ主義の出版物を許可するなど大学からユダヤ人を一掃するなど、徹底した反ユダヤ主義者であった[63]。アンドロポフが反ユダヤ主義になったのは、ユダヤ人はソ連では御法度とされているアメリカへの出国を試みたり、(ユダヤ人は)経済的地位がロシア人より高いなどと言ったことが理由として考えられている[65]

汚職との戦い

当時、ソ連の権力組織は、汚職や賄賂が当たり前になっていた[66]。アンドロポフは、これら汚職の撲滅を徹底するため、1969年、アゼルバイジャン共和国の国家保安委員のヘイダル・アリエフをアゼルバイジャン共産党中央委員会第一書記に任命する[67]。この任命はブレジネフの権力を無視したものであった[67]。大抜擢されたアリエフは、アゼルバイジャン共和国の汚職を役職にかかわらず摘発し、解雇ないし強制引退をするなど綱紀粛正を行なった[67][* 4]

そして、1970年には、KGBは汚職を摘発し、レニングラード州の第一書記を解任においやった[66]。1972年には、グルジアの第一書記ヴァシリ・ムジャワナーゼ英語: Vasil Mzhavanadzeの夫人の悪行を掴み、ブレジネフに解任を迫り、同年8月解任に成功する[69]

アンドロポフの汚職摘発は徹底しており、それはブレジネフの側近や血縁者とて例外ではなかった。一例として、ブレジネフの旧友であるクラスノダール地区党書記のセルゲイ・メドノフを、1972年報道機関を使って、メドノフの汚職を報道させたが、この時はうまくいかなかった[70]。しかし、メドノフが管轄するクラスノダールは保養地であるソチがあり、ここではホテルの部屋の予約ですら賄賂が必要という有様で、アンドロポフはあきらめずにゴルバチョフにメドノフの素行を資料として収集させた[70]。こうして、メドノフの不正を訴える投書が各紙に行われ、党内において処分が科せられた[70]。ただ、メドノフはブレジネフの強力な保護下にあったため、ブレジネフ存命中は処分は科せられず、解任されたのはブレジネフ死去後の1983年6月である[70][71]。ブレジネフの血縁者もスースロフ死去後に、逮捕ないし左遷を行なった[72][73][74][75]

2013年に機密解除された文書には、KGB議長たるアンドロポフがジョン・レノンの死(1980年12月)を追悼する無許可の集会の開催を防ぐよう指示した旨が記されている[76]

出世と栄典

アンドロポフは、KGB議長就任後次々と成果を挙げていった。そして、1973年4月の党中央委員会総会において、アンドロポフを政治局に加え、晴れて政治局員になる[77][78][79][80]。アンドロポフは秘密警察機関としてはベリヤ以来の政治局員となった[48]。1974年6月24日には、ソ連共産党と国家の内外の政策に対しての貢献により、レーニン勲章社会主義労働英雄が授与された[81][79]。一見順調に思えたキャリアであったが、これ以上の出世は望めないであろうと考えられていた[80]。その理由としては、従来の政治局員からするとアンドロポフはKGBからの新参者であり、KGBが政治局員に入って、高級指導者になった例が極めて稀であったこと、政治局内でもアンドロポフが個人的に親しい人物がほとんどおらず、派閥に所属していなかったことがあげられる[80]

政治局入り後のKGBとしての活動

1973年12月5日憲法記念日に、人権擁護運動を行っていた15人ほどのグループが、モスクワで沈黙の抗議活動を行なう[82]。アンドロポフは、このグループの14人の市民権をはく奪し、国外追放を行なった[82]。1974年には、ノーベル文学賞の授与経験のあるアレクサンドル・ソルジェニーツィンを国外追放に処した[82][83][84]。アンドロポフが行っていた汚職摘発は、1970年代中期には、ソ連共産党の官僚たちに向けられていくようになる[80]

1975年7月[85]、アンドロポフはロシア皇帝だったニコライ2世とその家族が1918年7月に殺害されるまで幽閉されていた聖地化していた現状を危惧し、ブレジネフに同家の撤去を進言。政治局の承認により、1977年9月にスヴェルドロフスク州党第一書記のボリス・エリツィンの指揮の下で取り壊された。

1977年1月には、アメリカ合衆国ではジミー・カーターが大統領となり、人権外交を掲げる一方、アンドロポフはお構いなしにソ連に対しての反体制派活動を行う人物を次々に国外追放に処した[86]。同年には、モスクワの地下鉄でテロが発生し、アンドロポフは根拠もなく、反体制派の犯行であると断定し、アメリカ人3人を起訴した[87]。 1977年頃にもなると、ブレジネフの健康状態は悪化しはじめ、アンドロポフはブレジネフに代わり治安維持の面で権力を持ち始める[88]。アンドロポフは反ブレジネフの動きがあるとでっち上げ、最高会議幹部会議長ニコライ・ポドゴルヌイを罠にはめる[88]。国家元首であるポドゴルヌイがアフリカ諸国を歴訪している間に、ソ連国内はアンドロポフが実権を握り、ポドゴルヌイがソ連帰国後に最高会議幹部会議長の地位をはく奪した[88]。1970年代末には、アンドロポフはモスクワを舞台として、汚職追放を積極的に行ない、政敵を次々に排除していった[78]。1979年8月31日には十月革命勲章を授与される[89]

1979年12月26日には、アンドロポフは核物理学者アンドレイ・サハロフの悪行を政治局に告発する[90]。アンドロポフによると、サハロフは1972年から1979年の間にモスクワ駐在の資本主義諸国の大使館を80回訪問し、外国人と600回以上も会い、記者会見も150回以上を行なったこと、そして、サハロフの資料に基づいて、西側の放送局は約1200回以上にわたって反ソ連放送を行なったとのことだった[90]。これを受けて、政治局は1980年1月3日、サハロフを裁判にかけ、すべての称号をはく奪し、外国人の訪問を禁止しているゴーリキー市に移住させることを決定した[90][91][3][84][91][83]

1980年、ソ連の衛星国であるポーランドレフ・ワレサ率いる、「連帯」が力を持ち始め、ソ連に対して共産主義体制の反対運動が起きる[92]グダニスクでストライキが発生し、アンドロポフはポーランドに関するニュースをソ連国内に流入しないように遮断する。ソ連国内では、VOAをはじめとする外国語放送も聴けないよう措置を取った[93]。アンドロポフは直ちに、ポーランドに対して、軍事行動を取るべきだと主張する[94][92]。こうして、1980年12月には、ポーランド国境にソ連軍五個師団が配置され、臨戦態勢が敷かれた[95]。しかし、ポーランド軍はソ連に対して潤沢に兵力を充てることができ、ソ連と同等の戦力を保有しており、ヴォイチェフ・ヤルゼルスキが、ソ連軍が国境を侵略した場合は、即座に戦闘命令を行なう用意があるという警告が功を奏し、軍事衝突は回避された[96]

こうして、アンドロポフの権勢は一時衰え、1981年3月の第26回党大会では、自身の腹心ともいえる、ヘイダル・アリエフを政治局員に加入させることに失敗した[97][83]

しかし、KGB議長としての活動実績は目覚ましく、1981年3月時点では、先進資本主義諸国の経済、科学技術の重要な問題の資料やサンプルの入手に成功し、軍需産業では、1万4000件の資料と2000タイプのサンプルの入手に成功した[98]

その他のKGBの実績や実情について

アンドロポフは、KGB議長として汚職や腐敗、反体制派に対して厳しく当たった。KGB議長就任直後より、文化活動に厳しい統制を課し、体制批判の火消しを行なっていた[84]。言論の自由も厳しく統制し、ソ連経済に対しての批判論文を「プラウダ」に投稿した者や、平和運動の組織者、女性の地位向上を訴えた出版を行なった者を投獄ないし精神病院に収容するなどした[99]。政治犯も裁判開始前の禁錮期間を長くし、時には無期限にしたり、囚人の親類縁者の逮捕や同一人物の重複逮捕を行うなど、犯罪に対して厳しい姿勢で挑んだ[100]

宗教組織や地下出版に打撃を与え、6箇所の印刷所と19ヶ所の出版所を摘発した[98]。そして1万5557人のソ連市民を『矯正』した[98]。矯正には、精神病院送りがあったのだが、1964年時点(アンドロポフがKGB議長に就任する前)では、精神病院は2つしかなかったのに対して、アンドロポフがKGB議長末期頃になると、このような精神病院は30以上を数えた[101]。反体制派の活動家を収容しただけでなく、軽微の政府批判を行なった市民も精神病院に収容するようにした[101]。アンドロポフは、表面上はデタントを歓迎していたが、実際には、テロリストの育成を行ない、彼らが中米でテロ活動を行なうことで、アメリカが混乱に陥ることを意図していたり、デタントが推奨されるとKGBの実権が弱まることを危惧していた[102][103]。アンドロポフは、私生活については慎ましい生活をおくっており、かたやそれ以外の政府高官は西側の政府要人と酒の飲み比べを行なうなど、アンドロポフにとってデタントは受け入れがたいものであった[102]。アンドロポフは、KGBの力を使い、自殺に見せかけた暗殺を行なったり、犯罪摘発のために手段を選ばず、反体制派の活動拠点に麻薬や武器を運び込んで、犯罪として摘発するなどの不正も行なっていた[104][105]

アンドロポフは一律に表現活動を禁止したわけではなく、KGBの工作員が活躍する小説やテレビドラマについては許容し、KGBのイメージ作りに一役買った[106]。そして、KGBは、モスクワ大学レニングラード大学といったエリートを採用するようになり、また語学に堪能な学生や、外交官、ジャーナリスト、医師など各方面のプロフェッショナルを雇い入れた[107]

アフガニスタン侵攻での役割

当初アンドロポフは、アフガン情勢に介入するのは反対の姿勢であった[108]。しかし、アフガニスタンの情勢の安定化を図るためには、アフガン情勢への介入が必要であること、また、ハフィーズッラー・アミーンがアメリカの大学で教育を受けていたことから、CIAのエージェントであると断定し[* 5]、アフガニスタンへの介入を支持する[110][111]。1979年秋には、アンドロポフはアミーン殺害を承認し、暗殺計画を立案する[112]。暗殺計画は料理人に変装したKGB将校がアミーンの料理人として潜入し、飲食物に毒薬を仕込むというものだった[112]。しかし、警戒心の強いアミーンは引っかからず、アンドロポフは別の方法で暗殺を行うよう指示する[112]。そして、1979年12月9日、軍所属がわからないように制服を偽装した500人の特殊部隊を派遣することを決定した[113]。1979年12月27日、ソ連の特殊部隊が、アミーンが所在する大統領宮殿を襲撃し、アミーンの殺害に成功する[112]。 アミーン殺害成功後、1980年1月にアンドロポフはアフガニスタンの首都、カブールを訪問し、アフガニスタンの状況を確認し、2月7日モスクワに帰任し、ブレジネフにアフガニスタンの状況改善が完了したことを報告する[114]。アフガニスタン侵攻後、カーター大統領はアメリカのソ連に対する穀物輸出の一部禁輸を打ち出した[115]。しかし、アメリカからの経済制裁があることを予期していたアンドロポフは、事前にカナダアルゼンチンブラジルから穀物を買い付けるよう指示していた[115]

アンドロポフは1982年夏、東欧諸国を歴訪し、ソ連経済が危機的状況にあり、内政を整備するために、内政に専念したいと考えており、他の問題にはかかわることができないため、平和に努めてほしいと伝えた[116]。訪問した東欧諸国首脳は、アフガン情勢をどうするつもりかを確認すると、アンドロポフは、アフガン情勢については平和的解決を望んでおり、譲歩が可能であるが、名誉の譲歩が必要であると考えており、アフガンがソ連の管轄下にあるのであれば、撤退は可能である[116]。しかし、西側が大きな譲歩をしなくてはならないとした[116]。この頃のアンドロポフは党中央委員会には、政敵が数多くおり、独断で判断ができるほどの地盤はないため、西側がアフガン情勢に対応をすべきであると回答した[116]

ブレジネフ死去

1982年4月22日、アンドロポフはレーニン生誕記念集会にて演説を行ない、西側のマスコミを驚かせた[51][117]。レーニン生誕記念集会の演説は、アンドロポフはこれで3回目であったが、一方ブレジネフですら、演説は2回しか行なったことがなかった[51]。最もこの頃ブレジネフは入院していた[118]。1982年5月にはKGB議長の座を降りて、党中央委員会総会で2度目の書記局入局を果たす[51][119]。これについては、アンドロポフがブレジネフの余命がいくばくも無いことを察知して、書記の地位を要求したと見られている[51]。ブレジネフは、1982年11月10日に死去する。時期が前後するが、1983年1月ロシア作家同盟機関誌『ノーヴィ・ミール』にブレジネフの回想録が掲載され、そこには、アンドロポフを党員としての謙虚さや人間性、実務能力を評価していたが、一方のコンスタンティン・チェルネンコについては、意志強固であるが、人との折衝能力も極めて優れているとアンドロポフと比較して最大限の賛辞を送っている[120][121][* 6]。そして、ブレジネフとチェルネンコは1950年から仕事上の付き合いがあり、1960年にブレジネフがソ連最高会議幹部会議長に就任すると、チェルネンコを事務局長に起用するなど、チェルネンコを重用していた[122]。これらにより、ブレジネフ死去後の書記長は、チェルネンコが有力視されていた。しかし、チェルネンコは様々な理由や要因によって、書記長になれず、アンドロポフが書記長に就任した。これについては以下の理由や要因が指摘されている。

  1. チェルネンコは党内では影響力が大きかったものの、軍部からの支持が弱かった(一方アンドロポフは軍部からの支持が厚かった)[123]
  2. チェルネンコは古参のソ連共産党員ではあったが、政治局入りしたのは、アンドロポフよりも遅く1976年のことだった[124]。一方のアンドロポフは、1962年から1967年まで書記を務め、1973年に政治局入りを果たしている[124]。また、同様の意見として、ブレジネフの秘書のようなポジションであったこと、これらにより、政治局内での支持基盤が弱かったのではないかという見方がある[124][125]
  3. チェルネンコ自身がアンドロポフの支持に回ったこと[126]。これは、チェルネンコが保身を図ったためという見方ができる[126]
  4. アンドロポフは健康状態が優れず、チェルネンコがそれを知りつつ、書記長在任期間が短いことを察知して、いったん権力闘争から降りたのではないかという見方[127]
  5. 政治局内で力の強かった国防相ドミトリー・ウスチーノフがアンドロポフを支持したために、チェルネンコが受け入れざるを得なかった可能性[128][129][130]

こうして、1982年11月12日、アンドロポフはソ連共産党中央委員会特別総会で書記長に選出された[125]

書記長時代

ポーランドヤルゼルスキ首相と会談するアンドロポフ(1982年)
ソ連邦成立60周年記念集会でチャウシェスクの演説を聴くアンドロポフ(1982年)

人事政策

書記長に就任したアンドロポフであったが、1981年の第26回党大会で選出された中央委員は319人中、党の専従者=ブレジネフ派(つまりチェルネンコ派)は137人いるに対して、アンドロポフ派である軍人、外交官、KGB幹部らはわずか37人であり、アンドロポフの基盤は弱かったため、ブレジネフ派(チェルネンコ派)の勢力一掃にかかっていた[131]

また、西側はアンドロポフ派、チェルネンコ派(ブレジネフ派を継承)、中立の3派にわかれ、熾烈な権力闘争が繰り広げられるとみていた[132]

1982年11月22日、健康上の理由で辞表を提出したキリレンコ政治局員を解任し、アゼルバイジャン共和国共産党第一書記のヘイダル・アリエフを政治局員へ昇格させ、同月23日から24日のソ連邦最高会議で、ソ連邦大臣会議の議長第一代理(第一副首相、議長が首相)に抜擢する[133]。アンドロポフは、石油を戦略資源として重要視していたことから、アゼルバイジャン出身のアリエフを抜擢したとみられる[133]。また、アリエフは後にアンドロポフによって、ソ連経済、交通、輸送の立て直しの責任者に任命された[134]。しかし、一方でブレジネフ派の筆頭であるチェルネンコを引き続き、要職に任命した[135]。これについては、チェルネンコには支持者が多くいたためと、重責を課していずれは厄介払いする腹積もりであった可能性がある[135]

1982年12月17日、ブレジネフ派であったニコライ・シチョーロコフ内相を解任し、後任に[136]KGB議長のヴィタリー・フェドルチュクを抜擢する[136][137][138][139][140]

1983年3月、セルゲイ・アフロメーエフソ連軍参謀総長第一代理、セミョーン・クルコトキン国防次官、ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチ・ペトローフ国防次官をソ連邦元帥に任命する[141]

1983年11月26日の党中央委員会総会で政治局人事にメスをいれ、アンドロポフの意に沿う人物として、ミハイル・ソロメンツェフ党統制委員議長と、ヴィタリー・ウォロトニコフロシア共和国首相を政治局員候補から政治局員に選出[142]ヴィクトル・チェブリコフKGB議長を中央委員から政治局員候補に昇格させる[142]エゴール・リガチョフ中央委員組織・党活動部長を書記に抜擢する[142]。こうして、翌々日になると政治局の顔触れは変わり、政治局員13人中4人がアンドロポフが登用した人物で占められ、権力基盤が固まる[143]

アンドロポフは1984年2月までの在職期間中に34人の地方党第一書記、23人の党中央委員会部長級の幹部7人、約100人の閣僚中21人と次官約60人を更迭し、ブレジネフ色を薄れさせた[144]

一方、権力基盤とは別に、アンドロポフはKGB時代と同様に汚職の撲滅に勤しんだ[71][145][146]。KGB議長時代には一切問題視していなかったどころか、国家に対して忠誠心があると評価した平和主義者の団体も摘発していった[146]

対外政策

ソ連は、アンドロポフが書記長就任前のKGB議長時代の、1969年、中ソ国境紛争が勃発し、中国との関係は冷え込んでいた[147]

アンドロポフはソ連の軍事力で平和を実現することができると考えていたが、一方で、軍事費の増大が、国民に多額の負担を強いていると考えていた[148]。彼は中ソ関係を改善することで、中ソの国境に配備している兵力を削減でき、それによって浮いた予算を軍事費の経済部門へと転用できる[148]。また、和解の姿勢を打ち出すことで西側諸国を動揺させることができるのではないかと考えた[148]

そのため、アンドロポフは中国との関係改善に乗り出すも、中国は3つの条件を提出する[147]。その条件はベトナムカンボジアの国境紛争から手を引かせること、モンゴルからのソ連軍引き上げ、アフガニスタンからの撤退というもので、ソ連側にとっては飲めるものではなかった[147]

アメリカは1981年にロナルド・レーガンが大統領に就任する。1982年11月21日、キャスパー・ワインバーガー国防長官がNATOの会議に出席し、ソ連が核ミサイルの撤去に応じない場合は、アメリカは巡航ミサイルパーシング IIを572基を1983年秋にヨーロッパに配備することを通達する[149]。アンドロポフは、中央委員に軍人を増やしたことがあだとなり、軍人の意向を無視した政策がとりにくかったものの、1982年12月、ソ連は両国合計の量まで減らす用意があると演説する[150][151][152]。しかし、アンドロポフは、752基の中距離ミサイルの展開を見合わせることを要求し、核兵器搭載可能な航空機をソ連と同等にまで減らすよう要求した[150]。英仏は、これらの要求を拒否した。1983年1月4日にプラハのワルシャワ条約機構政治諮問委員会に出席し、プラハ宣言を行う[153]。これはNATO加盟諸国に対して、武力行使の相互間の放棄を求めたものであるが、アメリカには不利な条約であった[153][154]。この条約の狙いは、アメリカの封じ込みを狙ったもので、共産主義者が国内で内乱を起こした場合、アメリカは武力介入できない[153][154]。また、このプラハ宣言では、国家主権に属さない国際法上の公海や、宇宙空間の通信妨害の禁止を含んでおり、つまり、公海における潜水艦の運航の禁止、人工衛星によるスパイ活動を禁止するというものであった[154]。この宣言では、ヨーロッパの中距離核ミサイルを平等に削減することを呼びかけていたが、これもアメリカにとっては不利なもので、ソ連は削減であって、廃棄することではなかったため移動させるだけで済むことになる[153]。アンドロポフは、プラハ宣言によって、中東・アフリカ・中南米の紛争を調停し、影響力を持ち、第三世界の支持を得ようと考えていた[155]。3月30日、今度はレーガンが、ソ連が西ヨーロッパ向けのSS-20(中距離ミサイル)を部分的に削減し、アメリカ側もそれに等しい基数を、西ヨーロッパに配備予定の中距離核ミサイルを削減するという提案を行なう[151]。しかし、ドイツへのミサイル配備を支持するドイツキリスト教民主同盟が、選挙に勝利し窮地に陥る[156]。アメリカは、1983年12月、西ドイツとNATO加盟国にパーシングIIと巡航ミサイルを配備する[156]。こうして、INF削減交渉は、1983年11月23日又は24日、ソ連より中止の申し出がなされ、アンドロポフ存命中は交渉が行われることが無かった[157][155]

国内政策

アンドロポフが就任する前後の労働状況や経済状況は停滞ないし悪化の一途を辿っていた。軍事費は国家予算の70 %を占め、その金額は300億ルーブルともされ、経済に活気がなくなっていた[158][159]。労働状況については、前政権のブレジネフが長期間政権を握っており、その間汚職が横行していた[160]。10年以上も官僚や経営幹部が同じ役職に居座り続けて、国家財産の流用や収賄などが当たり前になっていた[160]。職場も、無断で職場からの長時間の離脱や、勤務時間中の飲酒など風紀が乱れていた[160]。経済状況については、第四次五か年計画時(1946年から1950年)は、工業生産の年平均成長率は13.5 %であった[161]。次第に成長率が下がり始め、1960年代からは同指標が年平均10 %を割ってしまう[161]。しかし、同期間の工業生産の年平均成長率は9 %の年もあったのだが、これが第十次五か年計画時(1976年から1980年)は、4.5 %にまで下がり、更には各種生産品目(電力やガスなど)の生産目標数量は、全て未達成であるのは勿論、ほぼ全ての品目が最低目標値にすら達しておらず、電力は下限の半分の値であった[161]

労働規律の強化並びに経済政策の実施

アンドロポフは、怠慢、無断欠勤、遅刻、勤務中の飲酒を禁止させ、違反したものは厳罰に処した[146][162][163]。検挙の場所は、映画館、カフェ、バー、商店、公共浴場(裸の状態のままで)でも検挙していた[146]。刑罰を科すという脅しによって労働規律を強化し、これら労働に関する犯罪の概念を拡大し、アルコール中毒を含めるなどした[146][163]。アンドロポフは、労働規律をチェックするため抜き打ちで視察を行うなどした[164]。 そして、国民には、規律を乱す労働者を告発する投書を行なうよう呼びかけた[164]。しかし、ただ厳しくするだけでなく優秀な労働者に対しては、住宅の優先配分や、休暇の延長、保養施設の優先利用、奨励金(免税の特典付き)などを認めた[165]。1983年には労働集団法を成立させた[166][167][168]。この法律の大まかな内容は下記の通りである。

  1. 企業の生産計画や生産性向上のための措置に参加する[167]
  2. 企業の役職人事について意見表明し、自ら候補を推薦する[167]
  3. 賃金やボーナスが労働に見合った正当なものであるかをチェックする[167]
  4. 企業の福利厚生事業に対して発言する[167]
  5. これら権限を行使するために、企業管理部に定期的に報告を求め、異議を表明し、あるいは別の提案をすることができる[167]

しかし、この労働集団法も不完全なものであり、企業の所有権並びに経営権は不可侵であること、ストライキも規律強化のために禁止されており、労働者の自主管理を認めるものや経営参加に大きな権利を保障したものではなかった[167][169][166]

科学技術の方にも方策を打ち出し、生産現場に技術開発を移譲させること、そして、新製品開発時の奨励金制度を設けた[170][171]

1983年12月、経済活性化のために消費財の値下げと、工業部門における集団請負制を導入した[172]。工業部門の集団請負制とは、工場労働者が作業班を結成し、出来高に応じて賃金を受けられるというものである[172]。そして、トラック輸送の効率を高めるために、トラック運転手の賃金をガソリン消費量に応じて控除を行うようにした[172]。これは割り当てられたガソリンを超過した場合は罰金となり、逆に節約できた場合は、報奨金となるという制度である[172]。しかし、この政策の消費財の値下げについては、そもそもソ連の消費財は割高であり、生活必需品が値下げ対象でなかったことから、評判は悪かった[173]

農業の方も停滞していたが、アンドロポフは農業も重要視しており、農業生産の増産を達成するためには、化学肥料や電力、トラクターといった重化学工業製品の需要を増大させることができると考えていた[174][175][176]。農業生産の停滞には、輸送システムの欠陥も一因としてあると考え、道路建設やトラックの充実に力をいれる[176]。そして、増産させるための方策として、農産物の価格引き上げや、集団請負制の導入があった[174]

ソ連の水準では穀物生産は2億 t以下が不作の水準となっていたが、穀物生産は五か年計画の目標としていた2億3800万 tに遠く届かず、1983年の穀物生産は2億 tに届いていなかった[175]。大体2億3000万 tが必要水準であり、いつしかソ連は穀物輸入国となっていた[175][177]。穀物輸入国になった原因は、天災によるものではなく、非効率的なソ連の農業システムにあるとされた[177]。1983年3月に、農業部門にも集団請負制を導入した[178][175][177][176]。農業部門の集団請負制の仕組みは、数人の農業労働者がコルホーズソフホーズの経営者と契約を結び、生産を請け負う[177]。契約する際には、目標の収穫高と報酬が記載され、目標を達成した場合は、経営者側は報酬を支払う[177]。目標が未達で且つその責任が労働者側にある場合は、労働者側が責任を被るというものであった[177]。そして、もし天災による目標未達の場合であっても、未達成分の80 %を経営者側は労働者側に報酬として支払わなければならないという制度であった[177]

農業の方にも、奨励金制度を設け、目標を超過した場合は奨励金を支払い、品質が悪いものを生産した場合は罰金を科すようにした[179]

大韓航空機撃墜事件

1983年9月1日、韓国のジャンボジェット機が南サハリン上空で墜落する[180]。墜落した飛行機はKAL007便で、ソ連領空を2時間半に渡って領空侵犯しており、ソ連軍が撃墜した[180][181]。しかし、アンドロポフをはじめとするソ連首脳は事態を軽視していた[182]。軽視していた理由としては、第二次世界大戦後、領空侵犯を行なった飛行機の撃墜を行なっており、アメリカ側の調査では、ソ連による飛行機撃墜は未遂も入れて28件あり、民間の飛行機の撃墜はKAL007便を除いて4機撃墜、そして、軍人の被害は、42人が死亡し、28人が行方不明となっており、前例があることから事態を軽視していた[183][182]。翌日朝、ソ連首脳は会議を開き、KAL007便撃墜についての善後策を練るが、この時点では遺憾の意を示すことを提案する者はいなかった[184]。会議での意見としては、戦闘機のパイロットは所定の手順に従い撃墜したのであって、曳光弾で警告射撃を行なったという結論に至る[185]。ただし、曳光弾は実際には戦闘機に積載されていなかった[185]。会議の場ではゴルバチョフもおり、彼は如何にソ連が正しかったのかを釈明することを考えていた[186]。こうして、9月2日時点では、ソ連が大韓航空機を撃墜したことを認めず、国際世論から想定外の批判の声が起きる[187]。そして、9月7日又は9月9日、ソ連は記者会見を開き、大韓航空機の撃墜を認め、哀悼の意を示したものの、同機がスパイ行為と断定した[187][188]。また、ソ連は記者会見では大韓航空機は、南サハリン上空で、進路を右に変更し、ソ連の核ミサイル基地上空を通過してスパイ行為を行っていたと説明した[189]。ソ連側は警告射撃を行なったとしていたが、実際には行っていなかったとされ、進路変更についてもアメリカ側と日本側のレーダーでは、右に(南西に)変更したことは認められていない[189]。撃墜命令はアンドロポフが発令したのかという質問については否定したが、これについては軍の指揮系統を鑑みて、アンドロポフは撃墜命令を発令していないとして、フランスのマスコミも否定している[190]。飛行機のブラックボックスも、ソ連が回収し、非公開を決め込んだ[191]。対外的にはブラックボックスを見つけた後も2週間捜索作業を行い、見つけられなかった体でいた[191]

死去

アンドロポフは、KGB議長時代より健康状態がすぐれなかった。1982年11月時点でのCIAの情報では、アンドロポフは1966年には心臓発作を起こし、1970年代半ばには手術を受けて、10週間入院し、アンドロポフは健康面で重大な問題ありという報告が上がっていた[192]。1983年1月11日、アンドロポフはモスクワでハンス=ヨッヘン・フォーゲル首相と面談したが、顔は青白く、足を引きずりながらテーブルに着くなど、まるで死人のようだったと会談の出席者は振り返っている[192]。1983年6月、マウノ・コイヴィストフィンランド大統領の送り迎えは、空港ではなく、クレムリンで行なっていたのだが、これは無駄を省く意味合いがあったとみられていたが、実際には健康状態が悪かった[192]。この時の写真では、コイヴィストを見送るアンドロポフはボディーガードに両腕を支えられていた[192]。同月16日には、アンドロポフの演説は自席で座ったままで行われた[192]。1983年7月には、ヘルムート・コール首相との対談があったのだが、会談予定の日に急遽キャンセルし、翌日平然として会談を行なった[193]。そして、ドイツの週刊誌デア・シュピーゲル1983年7月11日号で、アンドロポフが腎臓の病気を患っており、人工透析を受けていることを報道する[193][* 7]。1983年8月18日には、アメリカの上院議員と会談をこなし、9月28日には、南イエメンの元首との会談を行なったとしているが、写真もなく、場所も不明であるため本当に行われたのかどうかはわかっていない[193][195]。世間でその姿が確認された最後の日付は1983年8月18日で9月以降の会議では姿を見せなかった[195][196]。1983年11月7日の革命記念日の式典にはアンドロポフの姿はなかった[193][195]。そして、1983年12月26日から27日のソ連共産党中央委員会総会でも、姿を見せず、演説は代読によるものであった[192][197]。この頃、政府はアンドロポフの重病説を否定し、体調不良は風邪によるものであるとしていたが、世間のアネクドートに下記のようなものがある[198]

「アンドロポフがとうとうギネスブックに載ったらしい。なぜか分かるかね。」

「風邪の世界最長記録だよ」

[193]

時期は不明であるが、その他にも高血圧肺炎大腸炎関節炎心房細動帯状疱疹などを患っていたり、あるいは患っていた[199]

こうして、アンドロポフは姿を見せないまま、腎不全により1984年2月9日死去[194]

死去後の評価

2014年に発行されたアンドロポフを記念した切手。

アンドロポフは短命の書記長でありながら、改革派の指導者としてゴルバチョフ等の後代の指導者に与えた影響は大きく、特にKGB出身であるウラジーミル・プーチンはKGB議長経験者初の書記長を務めたアンドロポフを称賛し[200][201][202]、記念の執務室や銘板を復活させたり[203][204]させたり、サンクトペテルブルク市街地にアンドロポフの銅像を設置した[204]

語学力と親欧米派のイメージについて

アンドロポフが書記長に就任する前後の西側諸国の報道では、アンドロポフは語学に長けており、英語はもちろんのこと、ハンガリー語フランス語フィンランド語ドイツ語を話し、フランス語については、ミシェル・ド・モンテーニュの著作を原語で読んだことがあるとされていた[205][206][207][208][209][210][211][212][213][214][215][216][217][218]。また、アメリカのジャズフランスワインを愛飲し、欧米の小説を愛読し、リベラルであるとされ、国際感覚に優れ、ようやく西側にとって、話せる人間が出てきたと報道された[205][207][208][209][210][211][213][215][219][218]。外国語について補足するとハンガリー語は、ハンガリーに赴任していた時に習得したと見られ、英語については、成人後に週に2度個人レッスンを受けて習得したであるとか、第二次世界大戦時に北海で船乗りとして、アメリカ船やイギリス船の乗組員とやり取りする際に習得したという証言がある[214]。また、VOAを毎日聴取し、英字新聞も毎日読む、欧米の小説を愛読するといった情報もあり、英語に精通しているのは確かな情報とされた[213][215][218]。しかし、以下の点から外国語に精通していないと見られている。

  1. ブレジネフ死去後、ブッシュ副大統領との会談では、英語を一言も喋らなかった[214]
  2. ソ連駐在のアメリカ大使との意思疎通はロシア語でなされていた[214]
  3. アメリカ政府要人と会話する際には通訳を通しており、英語を喋っているのを聞いたことがないという証言[220]
  4. アンドロポフの息子イーゴリは英語を学んだものの、アンドロポフは外国語を学んだことすらないとする証言[221]
  5. アンドロポフはモンテーニュの著作については、母国語であるロシア語ですら読んだことがないという証言[211]

これらの情報から、アンドロポフは実際には、英語とそれ以外の外国語には精通していないとみられる。ただし、アンドロポフの部下は、英語を全くわからないというイメージを払しょくするため、執務室に英文法の本が確かにあったと証言するなどの火消しを行ったことがある[214]。 アンドロポフが外国語に精通していることや欧米的な文化習慣を持ち、親欧米的な印象については、KGBによって作り出されたイメージである可能性が高い[212][213][214]

私生活

アンドロポフは、ユダヤ人ではないかという説があった[222]。名前はユダヤ人らしい響きで、4分の1のユダヤ人の血が混じっているのではないかとされた[222]。だが、アンドロポフの祖先はロシアに帰化したギリシャ人であり、父方の先祖の名前は、アンドロポウロスと言った[223]。ただ、結局のところユダヤ人の血を引くのかはわからずじまいであるが、ユダヤ人の血を引いているのであれば、そもそもKGB議長にはなれなかったと思われる[223]

アンドロポフは結婚し、子供が二人おり、息子のイーゴリは英語を学び、外務省に職を得ることができた[224]

注釈

  1. ^ 文献によっては中央委員会の検査官ないし監査官や[18][9][13]、同委員会の国際部[3]、同委員会の行政的なポストに就いた[17]という表記があり不明なところが多いため、党中央委員会と記載した。
  2. ^ 学校の名称については、ソ連共産党中央委員会付属軍政学校、党中央委員会付属高等学校、党中央委員会附属最高党学校など様々な記載が存在している[13][9][12]
  3. ^ 但し、1971年に亡命したアンドロポフの息子であるイーゴリの友人の情報によるとKGB議長就任の祝賀会が1964年か1965年に行われたと証言しているため、実際の就任の年はこの1964年か1965年とみる向きもある。
  4. ^ アリエフが解雇した政府要人には、同国の内相もいたのだが、解雇理由は統計データが楽観的過ぎるというものであった[68]。しかし、当のアリエフもモスクワに報告する統計データは都合の良いものに書き換えて報告していた[68]。その数字は、1970年の工業生産は前年比の10 %増、労働生産性は2倍増であるというありえない内容でブレジネフからは信用されず、ブレジネフ存命中、アリエフは、政治局員候補どまりであった[68]
  5. ^ アミーンがCIAエージェントであったか否かは不明であるが、アンドロポフとしては、KGBのエージェントでないことが問題であった[109]
  6. ^ しかし、この回想録はゴーストライターが書いたとされ、アンドロポフの評価については不自然な個所に挿入されており、チェルネンコを持ち上げるために挿入されたという見方がある[120][121]
  7. ^ 人工透析については、1983年2月に行ったとされる[194]

脚注

  1. ^ アンドロポフ』 - コトバンク
  2. ^ a b c d e f g メドベージェフ(1983年)、40頁
  3. ^ a b c d e f g h i j k l 木村(1985年)、362頁
  4. ^ a b c 新開(1983年)、41頁
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参考文献

関連項目

先代
レオニード・ブレジネフ
ソビエト連邦の旗最高指導者
1982年 - 1984年
次代
コンスタンティン・チェルネンコ
先代
レオニード・ブレジネフ
ソビエト連邦の旗最高会議幹部会議長
1983年 - 1984年
次代
コンスタンティン・チェルネンコ
先代
ウラジーミル・セミチャストヌイ
ソビエト連邦の旗国家保安委員会議長
1967年 - 1982年
次代
ヴィタリー・フェドルチュク
先代
レオニード・ブレジネフ
ソビエト連邦共産党書記長
1982年 - 1984年
次代
コンスタンティン・チェルネンコ
先代
コンスタンティン・チェルネンコ(代理)
ソビエト連邦共産党第二書記
1982年 - 1982年
次代
コンスタンティン・チェルネンコ