コンテンツにスキップ

「アイヌの歴史」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
(6人の利用者による、間の8版が非表示)
1行目: 1行目:
'''アイヌの歴史'''(アイヌれきし)とは、[[アイヌ]]民族の歴史である。
[[File:アイヌの歴史区分.svg|thumb|350px|本記事でのアイヌの歴史区分]]
'''アイヌの歴史'''(アイヌのれきし)では、[[アイヌ]]民族の歴史を解説する。歴史区分については[[アイヌ史の時代区分]]、本州側の歴史上のアイヌ観については[[蝦夷]]も参照のこと。


かつて、[[アイヌ]]は13世紀頃に[[北海道]]に移入してきた民族とする説があったが(アイヌ説、プレアイヌ説、[[コロポックル#コロポックル論争|コロポックル論争]])、現在では集団交替説を唱える研究者はおらず、アイヌの歴史は縄文時代からアイヌ文化期まで、緩やかにかつ連続的に移行していったとするのが定説である{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=144-146}}。こうした考古学的見地は、[[ヒトゲノム]]による研究とも親和的である。それによるとアイヌのルーツは、和人に比べるとより[[縄文人]]に近く、そこに和人やオホーツク人との[[混血]]が加わったと考えられている{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=40-43}}。
* [[アイヌ]]民族は、[[日本列島]]の[[先住民族]]の一つである。[[北海道]]島・[[千島列島]]および[[樺太]]島南部に居住した。
* アイヌは形質人類学的には[[縄文時代]]の日本列島人と近い<ref>『アイヌ学入門』[[瀬川拓郎]] 講談社現代新書、2015年、40頁。</ref>。
* [[本州]]以南が[[弥生時代]]に入った後に、それとは異なる独自の歴史を歩んだ人々がアイヌであると考えられている。
* 「アイヌ」とはアイヌ固有の言語である[[アイヌ語]]で「人間」を意味する。


その一方で、[[アイヌ文化]]は何時まで遡れるのかという歴史上の問いがある。アイヌ文化には古くから[[狩猟採集社会|狩猟採集]]というイメージがあるが、考古学的な研究により[[交易]]を中心とした文化と捉え直されるようになった{{sfn|榎森進|2001|pp=28-32}}{{sfn|蓑島栄紀|2011|pp=7-8}}。北海道は古代から周辺地域との交易・交流を通して広域的な文化が接触する領域であった。アイヌはその交易を担っていく中で、周辺地域の文化を選択的に吸収・翻案して独自の文化を形成してきた。アイヌの歴史は、そうした[[地政学|地政]]的な環境に加えて北海道の自然に根差して生成された独自の文化・民族の変容の過程と言い換えることができる。それゆえアイヌの歴史の解明には考古学的な研究に加えて、本州以南および北東アジア世界との相互依存的・広域的な歴史との関連付けと、北海道の自然環境と[[生物相]]も考慮する必要がある{{sfn|蓑島栄紀|2014|pp=12-13}}{{sfn|蓑島栄紀|2014|p=29}}{{sfn|榎森進|2001|pp=28-32}}。
== 歴史 ==
===[[縄文時代]]===
[[縄文時代]]の日本列島人と形質人類学的に近い人々が、北海道島ほかに居住しており<ref>『アイヌの真実』北原モコットゥナㇱ 谷本晃久 ベストセラーズ、2020年、93頁。</ref>、アイヌの起源となった。


===[[続縄文文化]]===
== 縄文時代 ==
{{seealso|北海道・北東北の縄文遺跡群}}
本州以南においては、縄文時代の晩期に[[稲作]]や[[金属器]]の使用が伝来し、[[弥生文化]]へと移行する。だが稲作は気候が冷涼な[[津軽海峡]]以北の地域には伝来せず、北海道以北は紀元前後以降も縄文文化同様に石器を使用し、狩猟、漁猟のかたわらで簡単な農業する生活を営んでいた。この文化形態を[[続縄文文化]]と呼ぶ。
[[File:中空土偶.jpg|thumb|180px|中空土偶。著保内野遺跡出土。縄文時代後期後半(約3500年前)。]]
道内の[[縄文時代]]の遺跡としては、[[苫小牧市]][[静川遺跡]](縄文時代中期末から後期初頭)や[[千歳市]]丸子山遺跡(縄文中期後半)などの[[祭祀遺跡]]、千歳市[[キウス周堤墓群|キウス周堤墓]]などの共同墓地、[[函館市]][[垣ノ島遺跡]]などの集落跡が挙げられる{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=28-30}}。


道内の縄文早期の特徴として石刃鏃文化が挙げられる。石刃鏃とは[[白滝村 (北海道)|白滝]]産[[黒曜石]]を原料とし漁撈用の鏃とされ、道東北部を中心に[[石狩平野]]から[[樺太|サハリン]]・[[アムール川]]流域まで分布している{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=16-17}}。
===[[オホーツク文化]]===
一方、北海道の[[オホーツク海]]沿岸には、5世紀以降より樺太から南下した民族が定着し、[[オホーツク文化]]を営んでいた。彼らは現在でも樺太北部に居住する民族・[[ニブフ]]の祖先と考えられる。


縄文後期から晩期にかけて葬送儀礼に大きな変化が起こり、[[環状列石]]や集団墓地が現れる。キウス周堤墓では土量3400立方メートルにも及ぶ大規模な土木工事が行われており、首長層の存在と土木工事に専従する人員を養う高い生産力を有する社会があったと推定されている{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=28-30}}。ただし、縄文中期ごろの墓制は首長単独の墓ではなく共同墓地である事が特徴であり、副葬品にも差異はみられず階層化は緩やかであった{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=31-32}}{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=75-77}}{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=21-23}}。
===[[擦文文化]]===
やがて続縄文文化は7世紀頃より日本本土の影響を受け[[擦文文化]]へと移行する。擦文とは、この時代の土器の特徴である「こすったような文様」に由来する<ref>『アイヌの真実』北原モコットゥナㇱ 谷本晃久 ベストセラーズ、2020年、92頁。</ref>。


縄文晩期に至ると周堤墓は造られなくなり、多数の副葬品が出土する首長墓が現れる。それらの副葬品には実用に向かない形だけを整えた製品が含まれていることが特徴で、それらは集落の住民から首長墓へのお供え物だと考えられている{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=75-77}}。
===[[アイヌ文化]]===
日本本土の[[平安時代]]後期ころ、擦文文化は日本本土との交流の活性化を受けて「アイヌ文化」へと変貌していく。アイヌ文化の担い手は[[オホーツク文化]]人を北方へ排除し、あるいは同化しつつ11世紀前半には樺太南部、13世紀には千島へも進出、15世紀にはカムチャッカ半島まで活動圏を拡大したと考えられている。<ref>旭川市博物館</ref><ref>『アイヌの真実』北原モコットゥナㇱ 谷本晃久 ベストセラーズ、2020年、107頁。</ref> アイヌ文化はアイヌモシリ(北海道・樺太)で[[13世紀]]までに成立したと考えられているが、アイヌは[[文字]]を持たなかったため、文献[[史料]]が十分ではなく、アイヌ文化成立の経緯について考古学や文献でその経緯を十分に跡付けることは未だ困難である。しかし基本的には、北海道の前時代にあった[[擦文時代|擦文文化]]や[[オホーツク文化]]、本州の文化を摂取して生まれたと考えられている。


また道内から出土する[[糸魚川のヒスイ]]、[[八戸市]]是川中井遺跡の漆から検出された道産の[[辰砂|硫化水銀]]、道内で出土する[[イノシシ]]の骨などから、本州との交易および祭祀等の信仰・思想の共有があったと考えられている{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=32-34}}{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=34-37}}{{Refnest|group=注釈|イノシシは北海道に生息しておらず、東北北部から持ち込まれた。イノシシは単なる食用ではなく、本州と同様にイノシシを用いた祭祀が行われていたと考えられている{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=34-37}}。}}。
擦文文化からアイヌ文化の生活体系に移るに伴い、土器の製作や使用が廃れ、その代わりに本州から移入された[[鉄器]]や[[漆器]]が生活用具として定着した。この点からは、アイヌ文化を生んだ契機に日本との交渉の増大があると考えられている。また、住居がそれまでの[[かまど]]を備えた[[竪穴建物]]から、[[囲炉裏]]のみでかまどが排除された[[掘立柱建物]]・'''[[チセ]]'''へと変貌していった。ほかにも[[アットゥシ]]の着用、[[イナウ]]や[[漆器]]、[[捧酒箸]]を用いた神事などの特徴がある。


== 続縄文時代 ==
擦文文化に継承された[[続縄文時代]]の[[土器]]の文様には、アイヌの衣装に描かれる模様(アイヌ文様)との類似性があると指摘されるが、アイヌ文様は[[黒竜江]]流域や樺太中部〜北部の諸民族の文様とも類似しており<ref>『アイヌ学入門』[[瀬川拓郎]] 講談社現代新書、2015年、36頁。</ref>、その発生・系統を実証することは困難である。
{{seealso|続縄文文化|阿倍比羅夫}}
続縄文時代(紀元前5世紀から紀元後7世紀前半)とは、おおよそ本州以南の弥生時代(続縄文前期)と古墳時代(続縄文後期)に並行する時代区分である{{sfn|蓑島栄紀|2014|pp=13-17}}。弥生時代に本州では稲作が広まるが、道内の続縄文人はこれを受容せず、本州と毛皮などを交易する商業的狩猟民となった{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=64-65}}。続縄文文化については稲作文化に比べて劣ったイメージで語られる事が多かったが、藤井強らによってアイヌ文化へと続く北の文化の基礎として高く評価されるようになっている{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=23-36}}。続縄文後期には道内の続縄文人が東北地方へ南下し、代わって道北から道東にかけてオホーツク人が南下してきた(→[[#オホーツク文化期]]){{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=64-65}}。


=== 続縄文前期 ===
オホーツク海南沿岸で栄えた[[オホーツク文化]]には、[[ヒグマ]]を特別視する世界観があった。これはアイヌ文化と共通するが、擦文文化の遺跡からはこれをうかがわせる遺物は検出されていない。アイヌにとって重要な祭祀である[[熊送り]]([[イオマンテ]])が、オホーツク文化(今日の[[ニヴフ]]に連なる集団によって担われたと推定されている)に由来する可能性も、示唆されている<ref>2005年には知床の斜里町ウトロにあるチャシコツ岬下の[[トビニタイ文化]]期の遺跡から、熊を祀った跡と思われる遺物が出土した。これにより、熊送りがオホーツク文化からトビニタイ文化を経由してアイヌ文化にもたらされたとの見方が改めて浮上した。詳細は[[トビニタイ文化]]を参照のこと。</ref>。
続縄文時代の前期の終わりは後北C1式土器が指標とされ、おおよそ2世紀頃までと考えられている{{sfn|蓑島栄紀|2014|pp=13-17}}。本州で弥生文化が広まっていく中で、道内の続縄文人が稲作を行わなかったのは寒冷な気候によるものとするのが定説だが、青森県でも弥生時代の水田が確認されていることから気候説に否定的な見解もある{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=10-12}}。


続縄文前期でも本州との交易は継続していた。道内の遺跡からは、鉄器・[[碧玉]]製[[管玉]]・ガラス玉などのほか、[[奄美諸島]]などの貝製品など、本州でも首長層にしか手に入れられない貴重品が出土している{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=67-68}}。これらの交易品の対価として、道内から本州に流通した商品は定かではないが、[[せたな町]]南川遺跡の工房跡からは[[メノウ]]製の石錐が大量に出土していることや、のちの時代にも本州で道産の毛皮が珍重されていることから、毛皮製品を本州に送っていた可能性が指摘されている。瀬川拓郎は、稲作を受容しなかった続縄文人は、[[縄文文化]]を継承しつつ狩猟により得られた毛皮などを交易に特化した独自の文化を展開していったと推測している{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=67-68}}{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=10-12}}。また、[[白老町]]アヨロ遺跡や[[江別市]]元江別1遺跡などの首長墓からは前述した弥生文化の貴重品が集中的に出土する。こうした傾向から、首長が弥生人との交易をおこなう中で、集落内の階層化が深まっていったと考えられている{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=75-77}}。
==和人との交易関係==
農耕民族の和人と狩猟採集民族のアイヌは、それぞれの生活様式によって確保した生産物を交易で交換した。アイヌは魚や毛皮を輸出品目とし、和人の生産する道具(鉄器や漆器)や嗜好品(米、茶、酒)と交換した([[場所請負制]]および[[北前船]]も参照)。[[江戸時代]]では武力を背景とした[[江戸幕府|幕府]]や[[松前藩]]による不平等な交易でアイヌは経済的な不利益を蒙った。また和人との関係が増える中で[[天然痘]]などの伝染病に罹患し、民族としての衰退を招いたと考えられている。


この時期、道南では骨角製の銛頭・魚形石器製の疑似餌・[[マグロ]]などの回遊魚や[[オヒョウ]]・[[タラ]]などの底生魚を対象とする独特な漁撈文化、あるいは[[オットセイ]]などを対象とした海獣猟を活発に行うようになる(恵山文化){{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=70-72}}。一方で道北の[[礼文島]]浜中2遺跡では[[クジラ]]の骨製の[[アワビ]]漁の道具や銛、食用にされた弥生犬の骨が出土している{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=72-74}}。また、せたな町貝取澗2遺跡や[[余市町]][[フゴッペ洞窟]]からは[[卜骨・卜甲|卜骨]]が発見されている{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=68-70}}。これらの道具類あるいは文化は、同時期の西日本の日本海側から北部九州にみられるものと共通する点が多く、西本豊弘や山浦清らは続縄文人と弥生人の交易を担ったのは九州北部の海民と推測している{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=70-72}}{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=72-74}}。また河川漁撈も盛んで、江別太遺跡ではテㇱ(アイヌ文化でサケの遡上をとめて捕獲するための[[梁 (漁具)|簗]])と同じ遺構が確認されている{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=23-26}}。
続縄文時代や擦文時代の北海道には、[[粟]]、[[稗]]、[[黍]]などの[[雑穀]]が小規模ながら栽培され、アイヌ文化成立後も栽培そのものは継続されて特に稗や[[トノト|稗酒]]は祭祀における神饌として重んじられていた。しかしアイヌ文化の成立とともに、農耕は縮小する傾向にあった。これは寒冷な気候ゆえに耕作を諦めたというより、本州との交易用の毛皮や干魚を確保するため、狩猟や漁労を重視した結果らしい。


続縄文前期の出土品で注目されるのが、[[芦別市]]滝里安井遺跡・[[北見市]][[常呂川]]河口遺跡など各地で出土するクマの頭部彫刻である。これは近世アイヌが[[イオマンテ]]で用いた着装品(アイヌ語:サパウンペ、もしくは[[サパンペ]])のクマ彫刻との類似性が指摘されている{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=79-82}}{{Refnest|group=注釈|飼いグマを用いた儀礼は、道内とサハリンからアムール川下流域までというアイヌと交流があった範囲にしか存在しない風習である。その起源については「続縄文文化説」と「オホーツク文化説」があるが{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=77-79}}、続縄文のクマの頭部彫刻は続縄文文化説を補強する遺物とされている{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=79-82}}。オホーツク文化説については[[#オホーツク文化期]]を参照。}}。
== 北方諸民族との交流 ==
[[樺太アイヌ]]は北方の[[ツングース]]系などの諸民族とも交流があり、それを介して大陸の[[中華]]王朝とも関係を持った([[アイヌ文化]]を参照)。[[1264年]] には樺太に進出したアイヌ([[元 (王朝)|元朝]]の文献では「骨嵬」と書かれている)と[[ニヴフ]](同じく「吉烈迷」)との間に紛争が勃発した。この戦いには[[モンゴル帝国]]<!-- まだ元朝を名乗っていない時期です -->軍が介入し、アイヌからの[[朝貢]]を取り付けた(詳細は[[モンゴルの樺太侵攻]]を参照)。その後もアイヌは大陸との交易を続けていた。この交易は[[山丹交易]]と呼ばれ、江戸時代にはアイヌが交易によって[[清|清朝]]などから入手した絹織物や官服が、「[[蝦夷錦]]」と呼ばれて日本国内にも流通していった。


=== 続縄文後期 ===
[[韓国]]では『[[三国遺事]]』にある[[新羅]]の第4代王[[脱解尼師今]]の出身地である[[龍城国]]をアイヌの部族国家とみて、[[脱解尼師今]]をアイヌとみる説がある<ref>{{Cite news|url=http://www.yonhapnews.co.kr/bulletin/2017/01/11/0200000000AKR20170111049700371.HTML|title=이희용의 글로벌시대 귀화 성씨의 어제와 오늘|newspaper=[[聯合ニュース]]|publisher=|date=2017-01-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170716054537/http://www.yonhapnews.co.kr/bulletin/2017/01/11/0200000000AKR20170111049700371.HTML|archivedate=2017年7月16日}}</ref>。
[[File:続縄文土器.jpg|thumb|続縄文土器。北海道[[長沼町]]東1線北15番地出土。続縄文時代(後期)。]]
続縄文時代の後期は後北C2・D式土器を指標とし、3世紀以降とされている{{sfn|蓑島栄紀|2014|pp=13-17}}。この頃から続縄文社会に対外交易を意識した特定の生産活動の集約化が見られるようになるが、それらの集団間に序列はなく、水平的なネットワークを形成していたと考えられている{{sfn|蓑島栄紀|2014|pp=17-18}}。


東北北部では弥生時代後期以降に人口の減少が確認できるが、これと入れ替わるように4世紀には続縄文人が東北北部へ南下していった。その範囲は[[仙台平野]]から[[新潟平野]]を結ぶラインまで及び、その前線地帯には続縄文人と[[古墳人]]が混住する中間地帯があったと考えられている。両者の関係は融和的で、同時期には道内で鉄器の流通が一気に拡大し、一方の古墳社会では道産の毛皮が流通していった{{sfn|瀬川拓郎|2016|p=82-84}}。なお東北地方に見られる[[アイヌ語地名]]は、この続縄文人の勢力範囲と一致する範囲に濃く分布していることが指摘されている{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=84-86}}{{sfn|児島恭子|2009|pp=52-53}}。
==年表==
{{main|アイヌ史の時代区分}}
文字文化を採用しなかったアイヌには、自ら記した歴史記録がない。現代まで、正式に記録が残っている物は[[和人]]の視点からの物がほとんどである。アイヌからの視点で歴史を記述することが、歴史学の課題でもある。


5世紀後半になると古墳社会は北上し、東北北部に[[奥州市]]中半入遺跡・[[八戸市]]田向冷水遺跡などの集落や[[七戸町]]森ヶ沢遺跡の続縄文人の墓が現れるが、これらの遺跡からは古墳文化と続縄文文化の両方の遺物が出土しており、続縄文人と[[古墳人]]が雑居する交易拠点であったと考えられる{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=82-84}}{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=84-86}}。6世紀に古墳社会がさらに北上し、東北地方で続縄文文化はほとんど見つからなくなる。東北地方から両文明の中間地帯は消失したが、両文化の交易は続縄文人が東北北部太平洋沿岸へ季節的に訪れる形で継続された。7世紀ごろの余市町余内山遺跡や[[恵庭市]]西島松5遺跡などから、[[刀子]]・鉄斧・鉄鎌・[[鉄鏃]]・刀剣類などが大量に出土している{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=84-86}}。
* [[13世紀]] - [[安東氏|安藤太]]が[[蝦夷管領|蝦夷代官職]]になる。
* [[1264年]] - [[モンゴルの樺太侵攻]]が始まった。<ref>[http://www.city.asahikawa.hokkaido.jp/files/hakubutsukagaku/museum/syuzo/59-tatakai/59-tatakai.html 交易の民アイヌⅦ 元との戦い] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110721151652/http://www.city.asahikawa.hokkaido.jp/files/hakubutsukagaku/museum/syuzo/59-tatakai/59-tatakai.html |date=2011年7月21日 }} 旭川市博物館</ref>
* [[1268年]] - [[津軽]]でエゾの蜂起があり、安藤氏が討たれる。
* [[1295年]] - [[日持|日持上人]]が樺太南西部(後の[[樺太]][[本斗郡]][[本斗町]]阿幸)に上陸し、[[日蓮宗]]の布教活動を行った。
* [[1297年]] - 「王不廉古(ユプレンク)」に率いられた骨嵬(樺太アイヌ)が[[アムール川|黒龍江]]流域に侵攻し[[キジ湖]]付近で[[元 (王朝)|元]]と交戦([[海保嶺夫]]は、かれらの指導者は蝦夷代官・安藤氏であったと論じたが<ref name="ezo">海保嶺夫 96年</ref>、[[榎森進]]はこれについて無理のある推論だと評している<ref>榎森進 『アイヌ民族の歴史』 草風館、2015年、64頁。</ref>)。
* [[15世紀]] - 蝦夷管領・安東氏の支配下にある和人の豪族たちが蝦夷地南部12箇所([[道南十二館]])に勢力を張る。彼らはアイヌとの交易や漁場への進出を通して成長する。かれらは安東氏によって移配された家臣、あるいは安藤氏と[[被官]]関係を結んだ[[渡党]]<ref>道南の住民。[[海保嶺夫]]は『新羅之記録』の記述に基づいて和人とみる。</ref> の有力者であったとも考えられる<ref>『アイヌ民族の歴史』山川出版社、2015年、50頁。</ref>。
* [[1457年]] - [[コシャマインの戦い]]。和人鍛冶職人とアイヌ青年の争いを発端としてアイヌの首長コシャマインが起こした蜂起。花沢館の館主である[[蠣崎氏]]の客将、[[武田信広]]が平定し、蠣崎家を相続したと伝えられている<ref>[https://web.archive.org/web/20110305140021/http://www.city.asahikawa.hokkaido.jp/files/hakubutsukagaku/museum/ 交易の民アイヌⅧ 中世のアイヌ] 旭川市博物館</ref>。この戦い以後、アイヌ系和人や和人系アイヌであった渡党は、和人層とアイヌ民族のいずれかの側に吸収されていったとみられる<ref>『アイヌ民族の歴史』山川出版社、2015年、65頁。</ref>。
* [[1485年]] - 樺太アイヌの首長が、蝦夷管領・安東氏の代官[[武田信広]](松前家の祖)に銅雀台(『[[三国志]]』の英雄・[[曹操]]が建設した宮殿・[[銅雀台]]の瓦から作ったとされる[[硯]])を献じ配下となる。
* [[1514年]] - 蠣崎氏が他の和人館主層に優越する地位(上国・松前両守護職)につく。
* [[1515年]](または[[1519年]]) - [[ショヤコウジ兄弟の戦い|ショヤ・コウジ兄弟の戦い]]
* [[1529年]] - [[タナサカシ]]の蜂起、[[蠣崎義広]]に討たれ平定される。
* [[1536年]] - [[タナサカシ]]の娘婿・[[タリコナ]]の蜂起、[[蠣崎義広]]に討たれ平定される。
* [[1550年]] - [[安東舜季]]、蝦夷地の国情視察を目的に蝦夷地に渡る(東公の島渡)。このとき、蠣崎氏とアイヌとの[[夷狄の商舶往還の法度|交易の協定]]が締結され、日の本蝦夷(太平洋沿岸のアイヌ)酋長の[[知内町|知内]]のチコモタインと唐子蝦夷(日本海沿岸のアイヌ)酋長の[[せたな町|セタナイ]]のハシタインはそれぞれ東夷尹、西夷尹(「尹」とは裁判権を持つ統率者の意)とされ、蝦夷から松前への渡航を統制すること、ハシタインは[[上ノ国町|上ノ国]]に居住すること、[[松前町 (北海道)|松前]][[松前城|大館]]の[[蠣崎季広]]は和人との交易税(原文:『自商賈役』)の一部を「夷役」として両尹に献上することが定められたという<ref>[[海保嶺夫]] 『エゾの歴史』 [[講談社]]、1996年、ISBN 4062580691</ref>。
* [[1591年]]
** [[松前慶広|蠣崎慶広]]が[[豊臣秀吉]]に謁見、所領を安堵される。これにより名実共に[[安東氏]]からの独立を果たしたと見られている<ref>{{cite book|和書|chapter=松前藩|title=藩史大事典|volume=第1巻 北海道・東北編|others=木村礎・藤野保・村上直編|publisher=雄山閣|year=2002}}慶広は天正18年9月(1590年10月)に津軽海峡を渡り、同年末(西暦では翌年初め)に上洛している。{{cite book|和書|title=新・国史大年表|volume=第4巻 (一四五六〜一六〇〇)|others=日置英剛編|publisher=国書刊行会|year=2009}}</ref>。
** 慶広、[[九戸政実の乱]]の討伐軍へ参加。多数の[[アイヌ]]を動員し、アイヌを束ねていると[[豊臣政権]]に印象づける。
* [[1593年]](または[[1598年]]) - 慶広、秀吉から全蝦夷地([[樺太]]、[[北海道]]、勘察加)の支配権を与えられる。
* [[1599年]] - 慶広、名字を蠣崎から松前に改める。
* [[1604年]] - 慶広、[[江戸幕府]]からアイヌとの交易独占を認められる。以後、和人(本州)との交易窓口が一本化されて必需品輸入の生命線を握られたため、アイヌの[[松前藩]]への従属が強まり、不平等な交易によるアイヌの不満が、和人に対するアイヌ蜂起の一因ともなった。


7世紀ごろ[[ヤマト王権]]では権威を示すために下賜する品として、北方交易でもたらされるヒグマの毛皮が珍重されていた{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=102-104}}{{Refnest|group=注釈|『日本書紀』斉明天皇5年(659年)条の高麗画師子麻呂が官からヒグマの毛皮70枚を借りた記述など{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=102-104}}。}}。北方交易の直接統制を目論んだヤマト王権は、斉明天皇4年(658年)から[[阿倍比羅夫]]を派遣し、北方交易を取り仕切っていた東北地方日本海側の[[蝦夷]]を討伐し服属させる{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=99-102}}。さらに北上した阿倍は、斉明天皇6年(660年)に[[渡島国|渡島]]の蝦夷を饗応した。この渡島の蝦夷を続縄文人とする説がある。阿倍は渡島の蝦夷の求めに応じて、弊賂弁嶋(へろべのしま [[奥尻島]])の[[粛慎 (日本)|粛慎]](オホーツク人)を討伐した{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=97-99}}{{sfn|蓑島栄紀|2014|pp=18-21}}。阿倍の討伐により続縄文人とオホーツク人の間に調停が結ばれ、持統10年(696年)には共同朝貢が行われている{{sfn|蓑島栄紀|2014|pp=18-21}}{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=36-38}}。
[[File:Samurai and Ainu Fuzoku Ema.jpg|thumb|260px|[[武士]]と[[アイヌ]](1775年)]]


== オホーツク文化期 ==
* [[1635年]] - 松前藩の松前公広が村上掃部左衛門に蝦夷地の調査を命じる。
{{seealso|オホーツク文化|粛慎 (日本)|流鬼国}}
* [[1644年]] - 松前藩から提出の所領地図を基に「[[正保御国絵図]]」が作成されている。
[[File:オホーツク土器.jpg|thumb|オホーツク土器。北海道[[根室市]][[弁天島 (根室市)|弁天島]]出土。オホーツク文化期・5から6世紀。]]
* [[1661年]] - [[得撫島]]に伊勢国の七郎兵衛の船が漂着した。アイヌたちの助けで[[択捉島]]・[[国後島]]を経て十州島([[北海道]])へ渡り、1662年(寛文元年)に江戸へ帰った。
続縄文時代後期から擦文時代に並行して道北から道東に形成されたオホーツク文化も、アイヌ文化に繋がる源流のひとつと考えられている。オホーツク文化は海獣狩猟と海洋漁撈を生業とした文化で、起源については大陸の[[ウリチ族 (東スラヴ系)|ウリチ]]・サハリン在来の[[ニヴフ]]や[[樺太アイヌ]]・複数の周辺文化の複合などの諸説があるが、サハリンで形成された文化が北海道本島に南下してきた事は確実視されている。その特徴としては平面形状が五角形・六角形になる独特な竪穴住居にヒグマの骨などを祀る骨塚を設けることが挙げられ、ヒグマ信仰などに近世アイヌの精神文化との関連が指摘されている{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=23-26}}{{sfn|蓑島栄紀|2014|pp=13-17}}{{sfn|榎森進|2001|pp=35-40}}。また、担い手であるオホーツク人については『[[日本書紀]]』に現れる粛慎、『[[続日本紀]]』に現れる靺鞨(中国東北部の[[靺鞨]]とは別。読みは粛慎と同じアシハセ)、および7世紀の中国の史料に現れる[[流鬼国|流鬼]]と同一視する説が有力視されている{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=92-94}}{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=95-97}}{{sfn|蓑島栄紀|2014|pp=18-21}}。
* [[1669年]] - 漁猟権をめぐる蝦夷同士の争いが[[シャクシャインの戦い]]に発展。このころ以後、和人がアイヌに軍事的にも優越する。
* [[1679年]]、松前藩の穴陣屋が[[久春古丹]](後の[[樺太]][[大泊郡]][[大泊町]]楠渓)に設けられ、日本の漁場としての開拓が始まる。
* [[1685年]] - 樺太は松前藩家臣の知行地として開かれたソウヤ場所に含まれた([[場所請負制]]を参照)。
* [[1700年]] - [[松前藩]]は蝦夷地([[北海道|十州島]]、[[樺太|唐太]]、[[千島列島]]、[[カムチャツカ半島|勘察加]])の地名を記した'''[[松前島郷帳]]'''を作成し、[[江戸幕府|幕府]]に提出。
* [[1711年]] - ロシア人アンツィフェーロフとコズイレフスキー、千島最北端の[[占守島]](シュムシュ島)と[[幌筵島]](パラムシル島)に上陸。住民に[[サヤーク]](毛皮税)の献納を求めるが拒絶される。
* [[1713年]] - コズイレフスキーが占守島に再来の後、幌筵島に上陸し、激しい抵抗を受けるも武力で征服。北千島住民にサヤーク(毛皮税)を献納させ、ロシアの支配を認めさせた。同年、[[温祢古丹島]](オンネコタン島)も襲撃し帰国(ロシア人、[[占守郡]]まで南下)。
* [[1715年]] - [[江戸幕府|幕府]]に対し、松前藩主は「十州島、唐太、千島列島、勘察加」は松前藩領と報告。
* [[1721年]] - 中部千島の[[新知島]](シムシル島)にロシア人上陸(ロシア人、[[新知郡]]まで南下)。
* [[1731年]] - 国後・択捉の首長らが松前藩主のもとを訪れ献上品を贈る。
* [[1739年]] - デンマーク人シパンベルク、色丹島に上陸。その後、[[本州]]に到達。
* [[1747年]] - [[ロシア正教]][[修道司祭]]イオアサフが、布教のため北千島へ渡り、占守島・幌筵島のアイヌ208人をロシア正教に改宗させる。
* [[1752年]] - ソウヤ([[宗谷]])場所から樺太場所が分立。
* [[1754年]] - 松前藩家臣の知行地として[[千島国#国後場所の成立と択捉場所の分立|国後場所]]([[国後島]]、[[択捉島]]、[[得撫島]]を含む)が開かれる。
* [[1758年]] - 弘前藩や盛岡藩によって藩内に居住していたアイヌの[[同化政策]]や追放が進む。
* [[1766年]] - イワン・チョールヌイが国後場所に侵入。ロシア人として初めて得撫島(ウルップ島、後の[[得撫郡]])以南に到達。周辺のアイヌから毛皮の取り立てや過酷な労働を課し、得撫島で多数の女性を集めてハーレムを作る([[1769年]]まで)。
* [[1771年]]([[明和]]8年) - 「[[択捉島]]のアイヌ」と「[[羅処和島]]のアイヌ」が団結し、[[得撫島]]と[[磨勘留島]]でロシア人を数十人殺害する。<ref>[https://www.tedawakou.com/koubunsyo 維新前北海道変災年表]</ref>
* [[1776年]] - ロシアの毛皮商人による殖民団が、得撫島へ一時的に居住(7年後に撤退)。
* [[1786年]] - [[最上徳内]]択捉島と得撫島を探検。[[幕臣|幕吏]]として最初に択捉島・得撫島を探検した徳内は、このときロシア人が居住していること、択捉島現地人の中にキリスト教を信仰する者がいる事を確認している。
* [[1789年]] - 労働条件や国後場所請負人・飛騨屋との商取引に不満を持った蝦夷(アイヌ)が蜂起した[[クナシリ・メナシの戦い]]勃発。<!--戦いでは銃器を大量に投入できた和人側に利があったが、アイヌも[[火縄銃]]を利用したといわれる。幕府はアイヌに銃を渡すことを禁じたが、大陸由来の銃も利用された。-->この戦いに破れて以降、アイヌによる大規模な蜂起は見られなくなった。
* [[1790年]] - 樺太南端の[[好仁村|白主]]に松前藩が商場を設置、幕府は勤番所を置く。
* [[1791年]] - [[最上徳内]]択捉島と得撫島を探検。
* [[1798年]] - [[近藤重蔵]]が東蝦夷を探検、[[択捉島]]に「大日本恵土呂布」の標柱を立てる。
* [[1799年]] - 東蝦夷地(北海道太平洋岸および千島)が[[天領|公議御料]]([[江戸幕府|幕府]]直轄領、ただし仮[[上知]])となる。東北諸藩に警固を命じる。[[場所請負制]]を通じて東蝦夷地のアイヌ人の[[宗門人別改帳]]が作成される。
* [[1800年]] - [[伊能忠敬]]が蝦夷を測量。
* [[1801年]] - 深山宇平太や富山元十郎などが[[千島列島]]の[[得撫島]]を探検し、「天長地久大日本属島」の標柱を立てる。
* [[1802年]] - 江戸幕府、東蝦夷地を正式に上知し[[蝦夷奉行]]を置く。後に[[箱館奉行]]となる。
* [[1804年]] - [[ニコライ・レザノフ]]が[[日露関係史|日露]]の通商を求めて長崎に来日、通商を拒絶される。
* [[1807年]] - ニコライ・レザノフの部下、{{仮リンク|ニコライ・アレクサンドロヴィッチ・フヴォストフ|ru|Хвостов, Николай Александрович|label=ニコライ・フヴォストフ}}らが択捉島や樺太に上陸、略奪や放火などを行う([[フヴォストフ事件]])。[[江戸幕府|幕府]]は東北諸藩の兵で警固を強化。西蝦夷地(北海道日本海岸・オホーツク海岸・樺太)も公議御料(幕府直轄領)とし、樺太アイヌを含む全蝦夷地のアイヌ人の[[宗門人別改帳]]が作成されるようになる。箱館奉行を松前に移し[[松前奉行]]を置く。アイヌに対する和風化政策がおこなわれる。
* [[1808年]] - [[江戸幕府|幕府]]が、[[最上徳内]]、[[松田伝十郎]]、[[間宮林蔵]]を相次いで[[樺太]]に派遣。松田伝十郎が樺太最西端ラッカ岬(北緯52度)に「大日本国国境」の標柱を建てる。
* [[1809年]]、[[間宮林蔵]]が樺太が[[島]]であることを確認し、それまで属した西蝦夷地から北蝦夷地として分立する。また、山丹貿易を幕府公認とし、アイヌを事実上日本人として扱った。
* [[1811年]] - [[ゴローニン事件]]。[[日露関係史|日露]]の緊張が高まる。
* [[1813年]] - ゴローニン事件が解決するものの日露の緊張が残る。
* [[1821年]] - [[日露関係史|日露関係]]の緩和を受け、[[江戸幕府|幕府]]は[[蝦夷地]]を[[松前藩]]に返還する。このころ以後、蝦夷地への和人移住が増加し、アイヌの生活・文化の破壊が顕著となる。


同時期の北東アジアには、ロシア沿海地方から中国東北地方に靺鞨文化が分布し、オホーツク海北岸や[[カムチャッカ半島]]にはトカレフ文化・テヴィ文化・古コリャーク文化などの諸文化が存在した。オホーツク人はこれらの文化との交易を行い大陸産の鉄製品・青銅製品・玉製品などを入手する一方で、本州の和人からは[[蕨手刀]]などが流入していた{{sfn|蓑島栄紀|2014|pp=13-17}}{{sfn|榎森進|2001|pp=35-40}}。続縄文人の遺跡からもオホーツク人がもたらしたと考えられる大陸産装身具がわずかに確認されるが、続縄文人とオホーツク人の間に積極的な交流はみられない。両者は空白地帯を挟んで本島を二分し、やがて本州との交易をめぐって対立関係に至ったと考えられる{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=92-94}}。
=== 日露国境の画定 ===
* [[1853年]] - ロシアが、北樺太北端鵞小門(ガオド)岬([[エリザベス岬]])に露国旗を掲げ、領有を宣言。
* [[1854年]] - [[日露和親条約]]締結、[[北海道]]が日本領、[[得撫島]]以北の[[千島列島]]がロシア領に決まる。ただし、[[樺太]]方面の国境はこれまでどおり未確定とすると決められた。
* [[1855年]] - 樺太を含む蝦夷地は再び公議御料(幕府直轄領)となり、[[秋田藩]]が[[陣屋]]を築き警固を行った。
* [[1856年]] - 幕府、樺太東岸の中知床岬以北および西岸のノタサン以北を樺太直捌場所とした。
* [[1858年]] - 幕府は[[大野藩]]主[[土井利忠]]に北蝦夷地警備と開拓を命じた(大野藩準領ウショロ場所)。同年、クシュンナイ周辺が[[箱館奉行]]石狩役所の直捌場所となった(石狩御直場所)。
* [[1862年]] - [[安房勝山藩]]、藩士渡辺隆之助を派遣、[[敷香郡|シスカ]]に漁場(ぎょば)を開設。
* [[1865年]] - 岡本監輔が、[[樺太]]最北端鵞小門岬(北緯55度)に至り、「大日本領」と記した標柱を建てる。
* [[1867年]] - [[日露間樺太島仮規則]]調印。樺太全域が日露雑居とされる。
* [[1868年]] - [[明治維新]]。
* [[1869年]] - [[戊辰戦争]]、[[箱館戦争]]で終了。同年、[[開拓使]]設置。[[蝦夷地]]及び北蝦夷地をそれぞれ[[北海道 (令制)|北海道]]及び[[樺太]]と改称、本格的な開拓が始まる。
* [[1871年]] - [[壬申戸籍|戸籍法]]制定(編製は翌年)。アイヌは「平民」に編入。アイヌの開墾者に家屋・農具を与え、独自の風習を禁じ、日本語教育を含めた[[皇民化教育|同化政策]]を始める。
* [[1870年]]2月13日、[[樺太開拓使]]が開拓使から分離して、[[久春古丹]]([[樺太]][[大泊郡]][[大泊町]]楠渓)に開設される。
* [[1871年]]8月7日、樺太開拓使を閉鎖し、開拓使に再度統合する。
* [[1872年]] - [[開拓使]]、北海道土地売貸規則・地所規則を公布。
* [[1874年]] - [[屯田兵例則]]、制定。
* [[1875年]] -
** [[屯田兵]]、札幌郊外の琴似兵村に入地。本格的な屯田兵の北海道入植が始まる。
** ロシアと[[樺太・千島交換条約]]締結。日露住民の紛争の絶えなかった[[樺太]]をロシア領、[[千島列島]]全域を日本領とする。これに伴い、日本国籍を選択した[[樺太]]アイヌ108戸841名を[[宗谷支庁|宗谷]]に、翌年[[江別市|対雁]]に移住させる。
** アイヌの人口1万7084人(人口調査結果)<ref>統計年鑑・日本帝国統計年鑑</ref>。
* [[1876年]] - [[場所請負制|場所請負制(魚場持)]]廃止。鹿猟規則によりアイヌの伝統的猟法(仕掛け弓矢)が禁止になり、代わって猟銃が貸与される。
* [[1877年]] - 北海道地券発行条例公布(アイヌ居住地を官有地第三種に編入)
* [[1878年]] - [[開拓使]]、アイヌの呼称を「旧土人」で統一。[[札幌郡]]内諸川での鮭漁を全面禁止に。
* [[1882年]] - 1月現在アイヌの人口、3763戸・1万6933人<ref>北海道史要 竹内運平</ref>。
* [[1884年]] - 北千島アイヌ全97名が[[色丹島]]に移住<ref>麓慎一「[http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou/19-1/RitsIILCS_19.1pp.43-55Fumoto.pdf 北千島アイヌの改宗政策について -色丹島におけるアイヌの改宗政策と北千島への帰還問題を中心に -]」『立命館言語文化研究』第19巻1号、2007年、立命館大学国際言語文化研究所</ref><ref>[http://dd.hokkaido-np.co.jp/cont/piyar/2-0026793.html 明治末期の日本海軍 千島アイヌの生活調査] - 北海道新聞2015年6月9日</ref>。
* [[1886年]] - [[北海道庁 (1886-1947)|北海道庁]]設置。北海道土地払下規則公布。
* [[1889年]] - 北海道庁、アイヌの食料分として許されていた鹿猟を禁止。
* [[1894年]] - 北海道庁、[[旭川市|近文]]に、アイヌへの付与予定地を確保。以降、第七師団設置に伴う移転命令や反対運動が起きる。
* [[1897年]] - 北海道国有未開地処分法公布。150〜250万坪の土地が無償貸与される。
* [[1899年]] - [[北海道旧土人保護法]]。
* [[1901年]] - 旧土人児童教育規程公布。日本人児童と区別する簡易教育が行われる。
* [[1905年]] - [[日露戦争]]に日本が勝利。[[ポーツマス条約]]によって[[樺太]]の南半分が日本領となり、1875年北海道に移住した[[樺太]]アイヌのうち336人が故郷に戻った。
* [[1916年]] - [[新冠町|新冠村]]のアイヌ80戸が[[御料牧場]]の都合で強制移転。
* [[1930年]] - [[北海道ウタリ協会|北海道アイヌ協会]]設立
* [[1931年]] - 札幌市で全道アイヌ青年大会が開かれる。その様子は[[貝澤藤蔵]]『アイヌの叫び』に記録として残された。
* [[1932年]] - 4月12日、旭川市アイヌ近文部落代表は開墾地削減反対・旧土人保護法撤廃を陳情。1934年3月23日、旭川市旧土人保護地処分法公布。
* [[1937年]] - [[日中戦争]]始まる。
* [[1941年]] - [[真珠湾攻撃]]。[[太平洋戦争]]、始まる。
* [[1945年]] - [[ソビエト連邦]]が日本に[[ソ連対日宣戦布告|宣戦布告]]。ソビエト連邦は樺太・千島を占領する。


オホーツク文化の起源は3世紀から4世紀にサハリン南部と道北に分布する鈴谷式土器に求められ、[[クロテン]]や[[ラッコ]]の毛皮を得るために本島に南下し、5世紀から6世紀に現れた刺突文をもつ十和田式土器をもって成立したとされている。7世紀に造られた土器に現れる刻文はサハリン北部から道東・千島列島まで分布するが、これらには北東アジアの[[靺鞨]]文化の影響が顕著にみられる{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=95-97}}{{sfn|蓑島栄紀|2014|pp=13-17}}。また日本海沿岸の島嶼([[天売島]]・[[焼尻島]]・[[奥尻島]]など)にも拠点を設けたが、この場所をめぐってオホーツク人と続縄文人の間に対立が起こり、ヤマト王権の介入があったと考えられる(→[[#続縄文後期]]){{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=92-94}}{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=36-38}}。
=== 戦後の民族運動 ===
[[ファイル:The ainu girl.jpg|180px|right|thumb|アイヌの少女]]
* [[1946年]] - 「全道アイヌ大会」開催。[[社団法人]][[北海道アイヌ協会]]を設立。
* [[1946年]] - 『アイヌ新聞』創刊。(主幹・[[高橋真 (記者)|高橋真]])
* [[1949年]] - [[北海道開発庁]]設立。復員兵や[[満州]]引揚者の就労の場として北海道の農地開拓が推奨される。
* [[1952年]] - [[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]締結(ただし、旧ソ連・現ロシアは未調印)。日本は南[[樺太]]と[[千島列島]]に対するすべての権利、権限を放棄する。
* [[1960年代]] - [[日本の新左翼|新左翼]]による[[アイヌ革命論]]が展開され、アイヌ解放の名の下に[[白老町長襲撃事件]]や[[北海道庁爆破事件]]が起きる。アイヌ革命論は和人によって主張されたもので、各種テロ事件も左翼思想に傾倒した和人の手によって引き起こされた。大多数のアイヌは新左翼のテロ正当化にアイヌの名が利用されているとして、この主張に反発していた。
* [[1960年]] - [[北海道アイヌ協会]]、再建総会を開催。
* [[1961年]] - 北海道アイヌ協会、「アイヌ」の語が差別的{{efn2|[[萱野茂]]『アイヌの碑』(朝日文庫、1990年、p.67)では「あア、イヌが来た(あ、アイヌが来た)」と悪口を言われた子供の話が紹介されている。1986年には[[秋玲二]]の漫画『日本のんびり旅行』で北海道を扱った際、子供が次の行先を決めるために投げた石が犬に当たったのを見て「あっイヌだ!(中略)アイヌコタンへいこう」と言う場面があり<ref>{{cite book|和書|title = 日本のんびり旅行 社会科まんが 1 (北海道・東北地方)|isbn=4-378-04101-4|publisher=さ・え・ら書房|year=1983|page=134}}</ref>、[[小川隆吉]]は人権侵犯事案として法務局に申し入れた<ref>{{cite news|和書|newspaper=朝日新聞東京夕刊|page=19|title=教育漫画でアイヌべっ視|date=1986-10-24}}</ref>。また、2021年3月12日放送の日本テレビ系朝の情報番組「[[スッキリ (テレビ番組)|スッキリ]]」で、アイヌ民族を扱った映画を紹介する際に当該コーナーを担当するタレントが「この作品とかけまして動物を見つけたととく。その心は、あ、犬」という謎掛けを披露し、批判が寄せられた<ref>「[https://mainichi.jp/articles/20210312/k00/00m/040/289000c 日テレ、「スッキリ」の放送内容で謝罪「アイヌの方を傷つけた」]」(毎日新聞、2021年3月12日)2021年3月16日閲覧</ref>。}}に使われているとして、組織名を[[北海道アイヌ協会|北海道ウタリ協会]]に変更。不良環境地区改善施設整備事業、開始。
* [[1980年]] - 関東ウタリ会発足
* [[1983年]] - レラの会発足
* [[1984年]] - アイヌ古式舞踊が国の[[文化財|重要無形民俗文化財]]の指定を受ける。
* [[1986年]] - [[中曽根康弘]]首相、「日本単一民族国家」発言。
* [[1988年]] -
** 「ウタリ問題懇話会」から北海道知事に対し、[[アイヌ新法]]問題について報告書提出。
** 北海道議会全会一致でアイヌ新法の制定についての要望意見書を採択。
** 北海道ウタリ協会がアイヌ史資料編を発行。
** 北海道ウタリ協会・[[北海道]]・北海道議会が「旧土人保護法の廃止」と「アイヌ新法の制定」を要請。
** [[国鉄分割民営化]]。これにより北海道の人口が他地域(分けても[[東京都]])に流出した関係で、アイヌの民族的な離散も進むことになった。
* [[1992年]] - [[国際連合|国連]]本部で開催された「世界の先住民の国際年」の開幕式典で北海道ウタリ協会理事長・野村義一が日本の先住民族として記念演説。
* [[1994年]] - [[萱野茂]]、[[参議院]]比例代表繰り上げ当選。アイヌ初の[[国会議員]]となる。
**北海道ウタリ協会がアイヌ史活動史編を発行。
* [[1995年]] - [[内閣官房長官]]、「ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会」を設置。
* [[1997年]] -
** 札幌地方裁判所「二風谷ダム訴訟」の判決でアイヌの先住民としての権利を認める(国が控訴せず判決確定)。
** 「[[アイヌ文化振興法|アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律]]」が制定・施行。同時に[[北海道旧土人保護法]]等が廃止される。
** [[財団法人]]アイヌ文化振興・研究推進機構、設立
* [[1999年]] -「伝統的生活空間(イオル)の基本構想」、国に提出。
* [[2000年]] - [[国土交通省]]、[[文部科学省]]、[[北海道]]、アイヌ文化振興財団、北海道ウタリ協会との間で「アイヌ文化振興等施策推進会議」が設置される。
*2008年 - 北海道ウタリ協会、総会において2009年4月より組織名を北海道アイヌ協会に戻すことを正式決定。<ref>[http://www.hokkaido-np.co.jp/news/society/93221.html 道ウタリ協会 来春に「アイヌ協会」と改称]{{リンク切れ|date=2018年3月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref>
*2008年6月6日 - 「[[s:アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議|アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議]]」が'''衆参両院とも全会一致'''で可決される。政府は同日、アイヌ民族を日本の先住民族として認定する内閣官房長官談話を発表した<ref>{{cite web|url=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11236451/www.kantei.go.jp/jp/tyokan/hukuda/2008/0606danwa.html|title=「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」に関する内閣官房長官談話|publisher=[[内閣総理大臣官邸|首相官邸]]|date=2008-6-6|accessdate=2021-3-20}}</ref>。
*[[2019年]][[4月26日]] - 「[[アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律]]」が公布、同年[[5月24日]]に施行。同時に[[アイヌ文化振興法]]が廃止される。
*[[2020年]][[7月12日]] - 「[[ウポポイ|民族共生象徴空間・ウポポイ]]」が北海道[[白老町]]に開業。


8世紀から9世紀になると、沈線文や貼付文など、地域ごとに独自性を見えるようになる。9世紀には擦文文化の影響を受けて元地文化・[[トビニタイ文化]]が成立し、次第に擦文文化と同化していった(→[[#大陸交易とオホーツク人の同化]]){{sfn|蓑島栄紀|2014|pp=13-17}}。またサハリンでは12世紀ごろまで存続するが、彼らは[[ニヴフ]]のルーツと考えられる{{sfn|蓑島栄紀|2014|pp=13-17}}{{sfn|瀬川拓郎|2016|p=92-94}}。
== 千島・樺太のアイヌの歴史 ==
[[千島列島|千島]]・[[樺太]]のアイヌは日露両国の進出、南北千島の分断統治、樺太と千島の交換、[[日露戦争]]、[[ロシア]](当時は[[ソビエト連邦|ソ連]])の[[北方地域|北方領土]]占領によって国際的に翻弄された。


== 擦文時代 ==
===千島アイヌ===
{{seealso|擦文時代}}
千島列島には先史時代から居住者がいたが、文字記録が残されるようになるのはロシアが[[東シベリア]]まで勢力を拡大した18世紀からである。[[千島アイヌ]]は千島列島を南北に移動して交易していたが、この頃、日本の北進と東シベリアを版図に入れたロシアの南進によって、彼らは生産・交易活動を両国に依存することが多くなっていった。[[松前藩]]は家臣の知行地として[[1754年]]にウルップ([[得撫島]])までを含む[[千島国#国後場所の成立と択捉場所の分立|国後場所]]を開いていたが、その後のロシア人の侵入もあり、江戸幕府は、[[1803年]]、エトロフ-ウルップ([[得撫島]])間のアイヌの移動を禁止した。これによりウルップ島以北のアイヌは日本との交易が困難になり、ロシアの影響を強く受けるようになった。[[1854年]]の[[日露和親条約]]によって千島列島は日露両国が南北を分断して統治することになったが、[[1875年]]には[[樺太・千島交換条約]]に基づき千島列島が全て日本の領土になった。その際居住者は日本国籍を得て残るか、ロシア国籍を得て去るか選択させられ、大部分は日本国籍を得た。
擦文時代(7世紀後半から13世紀)は、本州の[[飛鳥時代]]後期から[[平安時代]]に並行する時代区分である。擦文時代は本州と交易を行いつつ文化を選択的に受容した時代で、その文化圏は道南・道央から始まり青森県北部から道東・道北まで広がっていった。生業は狩猟・漁撈・採集を基礎としつつ雑穀栽培{{Refnest|group=注釈|[[アワ]]・[[ヒエ]]・[[ソバ]]・[[キビ]]・[[コムギ]]・[[オオムギ]]などが確認されている{{sfn|榎森進|2001|pp=33-35}}。また鉄製の農具も確認されている{{sfn|榎森進|2007|pp=20-22}}。}}が行われ、石器がほぼ使われなくなり鉄器文化に移行した。また土師器の影響を受けた擦文土器の生産や[[カマド]]を設けた竪穴住居、[[末期古墳|北海道式古墳]]{{Refnest|group=注釈|石狩低地帯に分布する末期古墳の一種。8世紀前半から9世紀前半までに築造され、東北北部と同じ埋め込み式木棺が特徴。[[小樽市]]蘭島遺跡、[[恵庭市]]西島松5遺跡、千歳市ユカンボシC15遺跡など{{sfn|藤沢敦|2009|pp=449-455}}{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=31-34}}。}}などには本州の文化の影響が指摘されている。それらは交易・交流によってもたらされたほか、ヤマト王権の遠征により東北地方から追われた蝦夷の移入もあったと考えられているが、移入の程度や規模については意見が分かれている{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=107-110}}{{sfn|蓑島栄紀|2014|pp=13-17}}{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=31-34}}{{sfn|榎森進|2001|pp=33-35}}。農耕文化の影響は、信仰面にも及んだと考えられる。[[アイヌ語]]の祭祀関係の言葉には、古代日本語からの借用語が多く見られ{{Refnest|group=注釈|例えば、[[カムイ]]は神に、[[カムイノミ]]は「のみ」(拝む)に、「オンカミ」(礼拝)は「拝み」に、ヌサ(祭壇)は幣に、シト(供物にする[[団子]])は粢(しとぎ)に通じる{{sfn|瀬川拓郎|2015|pp=223-224}}。}}、古代日本の信仰の影響を受けた可能性が指摘されている{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=110-112}}。また、近世アイヌでみられた原始的な地機織りや外反をもつ[[マキリ]]も、この頃に伝わった形式を継承したものと考えられる{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=110-112}}。


擦文人社会は、[[渡島半島]]を勢力範囲として[[出羽柵]]を拠点としたヤマト王権と交易する日本海沿岸グループと、道央を勢力範囲として東北地方太平洋沿岸地域と交易する太平洋沿岸グループの2つの勢力があったと考えられている{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=107-110}}{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=117-120}}。また道央では北海道式古墳など東北地方の影響がつよくみられ、蝦夷の移入が推定されている。蝦夷の移入は、太平洋側の[[苫小牧市]]付近から始まり、[[石狩平野|石狩低地帯]]を北上し札幌市付近まで北上した。狩猟採集を行う続縄文人と、雑穀栽培を行う蝦夷の生業は競合せず、融和的であった{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=107-110}}。ヒトゲノムの研究においても、アイヌと和人との混血が進んだ時期が7世紀頃と推定されており、蝦夷の移入をきっかけに続縄文人との混血が進んだと考えられている{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=117-120}}。
[[1884年]]には若干の千島アイヌが日本領北端のシュムシュ([[占守島]])に残っており、北の国境に民間人を置いておくよりも南の地で撫育した方が良いと考えた日本政府は、97名を半ば強制的に[[色丹島]]へ移住させ、牧畜・農業に従事させた。しかし先祖代々続いた漁撈を離れ、新しい土地で暮らすことに馴染めず、健康を害するものも現れた。望郷の念を募らせる千島アイヌに対し、日本政府は[[1898年]]以降、軍艦に彼らを乗せ北千島に向かわせ、臨時に従来の漁撈に従事させる等の措置をとった。[[1923年]]には人口は半減しており、更に[[第二次世界大戦]]([[太平洋戦争]])における日本の敗戦に乗じた[[ソ連対日参戦#南樺太および千島の概況|ソ連による千島・北方領土の占領]]に伴い、千島アイヌを含んだ日本側居住者は全て強制的に本土に移住させられ、各地に離散した。


擦文文化の特徴のひとつとして、墓地や墓がほとんど確認されない事が挙げられる。理由は定かではないが、飛鳥時代の[[殯]]や[[穢れ|ケガレ]]の影響をうけた住宅葬(住んでいた住宅にそのまま遺体を安置して住宅ごと遺棄する)や平安時代に庶民で行われていた遺棄葬([[鳥葬]])の影響などが推定されている{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=112-115}}{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=115-117}}。9世紀頃になると、移入した蝦夷の遺跡が見られなくなるが、これは擦文人との同化が進んだためと考えられる。この頃から擦文土器には再び文様が施されるようになる{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=117-120}}。
[[1962年]]に当時[[北海道大学]]大学院生だった[[村崎恭子]](後に同大教授)が7人の千島アイヌ(及び和人とのハーフ)の生存を確認し、このうち4人から聞き取り調査を行った。しかし、4人はいずれも日本に同化しており、一部は非協力的だった<ref>{{cite journal|author=村崎恭子|title=千島アイヌ語絶滅の報告|journal=季刊民族學研究|volume= 27(4)|year= 1963|pages= 657-661|naid=110001835731}}</ref>。[[1970年代]]に最後の一人が死去した時点で千島アイヌの文化を継承する者は消滅したと思われている。


===樺太アイヌ===
=== アイヌ・エコシステムとアイヌ文化の成立 ===
擦文時代では、さらに集落の特定の地域への集中化が進んだ。9世紀後葉ごろから集落が集中する石狩川中流は[[サケ]]の産卵場で、この頃からサケが主要な交易品であったと推測されている。また、奥尻島青苗貝塚遺跡でも大量の[[アワビ]]の貝殻と[[アシカ]]の骨が出土している{{Refnest|group=注釈|近世アイヌでもアワビは主要な交易品であったが、アワビを主体とする貝塚は擦文時代まで遡る{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=120-124}}。この他に本州に送られた産品として『[[御堂関白記]]』『[[源氏物語]]』に「ふるきのかわぎぬ」の名で登場する[[クロテン]]の毛皮や<ref>[https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/56459/1/bensei.pdf 東アジアにおけるクロテンの皮衣 大舘大學]</ref>{{sfn|蓑島栄紀|2014|pp=22-23}}、後述するオオワシの矢羽根が挙げられる。}}。また、食料生産には向かない河口付近の[[湿地]]帯の集落は船を使った商品の集積地と考えられる{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=126-129}}。これらは本州との交易に関連する遺跡とされ、交易を主とする狩猟採集社会であったと考えられている{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=120-124}}{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=106-107}}。以上のような、交易に立脚した生態系適応社会をアイヌ・エコシステムと呼ぶ{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=129-133}}{{sfn|蓑島栄紀|2014|pp=23-25}}。
[[樺太アイヌ]]も国際情勢の変化の影響を強く受けた。[[樺太・千島交換条約]]に伴って樺太がロシア領になることから、同条約発効に先立つ[[1875年]]10月、もともと[[樺太]]南部の亜庭湾周辺に居住し日本国籍を選択した108戸841名が[[宗谷支庁|宗谷]]に移住し、翌年6月には対雁(現[[江別市]])に移された。生活環境の変化に加え、運の悪いことに[[1886年]]の[[コレラ]]、さらには[[天然痘]]の流行が追い討ちをかけ、300名以上が死去したという。[[1905年]]の[[日露戦争]]に関する[[ポーツマス条約]]によって南樺太が日本領になると、[[1906年]]、漸く樺太アイヌは再び故郷の地を踏むことができるようになった。樺太アイヌは[[樺太庁]]によって当初は戸籍法上は樺太戸籍に入って樺太土人として扱われていたが、1932年1月に戸籍法上は内地人と同様となり内地人と扱われるようになった。第二次世界大戦後に樺太全域がロシア(当時はソ連)の占領下となり、同国政府によって樺太アイヌのほとんどが北海道へ強制送還された。しかしながらアイヌは現在も樺太に少数ながら住んでいる。

アイヌ文化の成立については、従来の定説では土器や竪穴住居の終焉と捉えて12世紀から13世紀としてきた。しかしアイヌ文化を「対外交易を前提とする生業・社会・文化の複合」とする定義から、アイヌ・エコシステムが成立した10世紀にアイヌ文化が始まったとの理解が広まりつつある{{sfn|蓑島栄紀|2014|pp=23-25}}{{Refnest|group=注釈|精神的側面としては、[[アイヌ文学]]に記される信仰・世界観では[[カムイ]]や[[和人|シサム]]が交易相手として描かれている(→[[イオマンテ]]){{sfn|蓑島栄紀|2014|pp=23-25}}。}}。

擦文人の交易について『[[類聚三代格]]』には、延暦21年(802年)条に私的に擦文人と交易することを禁じる[[太政官符]]があった事が記されており、公的な交易に加えて、貴族たちが良質な毛皮を競って買い求めていたと考えられている。また『[[養老律令]]』では陸奥国司などの職務として「饗給、征討、斥候」と定めている。このうち饗給は擦文人などを服属させるための饗応を意味するが、その実態は交易に近かったと考えられている。札幌市[[サクシュコトニ川]]遺跡からは9世紀ごろの「夷」の異体字をヘラ書きした土師器や米粒が見つかっているが、これらは東北諸国での饗給で得た交易品を持ち帰ったものだと考えられている{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=34-36}}。

和人との交易は、擦文社会に身分階層をもたらした。これらは北海道式古墳や『[[日本三代実録]]』の「渡嶋夷首百三人」による[[秋田城]]への朝貢した記録に見て取ることができる。またこの時代の副葬品には朝廷から下賜された刀剣類や、それに取りつける官位を表示する帯金具などがあり、こうした下賜品が擦文社会の階層分化を促進したと考えられる。また首長層には地域間分業と一定の序列が生まれた可能性が指摘されている{{sfn|蓑島栄紀|2014|pp=18-21}}{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=34-36}}。

[[File:アイヌの勢力範囲の拡大.svg|thumb|450px|アイヌの勢力範囲の拡大]]
9世紀後葉に至ると道央以西を拠点としていた擦文人は、オホーツク人が占めていた道北・道東へと勢力範囲を拡大していく。これらの地域に進出したのは、道南を拠点とする日本海側グループと考えられている{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=117-120}}。擦文人の進出は、まず9世紀後葉に日本海側を通して稚内に至り、10世紀末にはサハリン南部西岸域から道北オホーツク海沿岸域に進出、さらに11世紀末までに道東から[[千島列島]]南部まで及んだ{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=117-120}}。一方の道央を拠点とする太平洋側グループも12世紀までに道東の太平洋側に勢力を広げた{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=117-120}}。擦文人がオホーツク人を排除しつつ勢力範囲を広げたのは、本州への交易品である[[オオワシ]]の尾羽を用いた矢羽根を得るためだったと考えられている{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=124-126}}{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=133-136}}{{Refnest|group=注釈|本州側の史料で、10世紀ごろから道産のオオワシの矢羽根が珍重されたことが分かる{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=124-126}}。}}。また交易相手であった本州では[[元慶の乱]](878年)をきっかけに東北地方での[[律令制]]が衰退し、北方交易の主体は[[荘園|荘園制]]中世社会の東北勢力に再編されていった{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=129-133}}{{sfn|蓑島栄紀|2014|pp=22-23}}{{sfn|蓑島栄紀|2014|pp=25-28}}。

擦文時代の遺跡から出土する本土由来の遺品としては、甕を主体とした[[須恵器]]・米・銅椀がある。アイヌの酒「[[トノト]]」作りに関する言葉には古代日本語からの借用語がみられるが{{Refnest|group=注釈|例えば、アイヌ語で[[麹]]はカㇺタチだが、[[上代日本語]]で麹は「かむたち」である{{sfn|瀬川拓郎|2019|pp=81}}。}}、甕や米の存在と合わせると酒造り技術の伝来が擦文時代まで遡る可能性がある{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=129-133}}。また、[[厚真町]]上幌内モイ遺跡の祭祀遺跡から焼けた銅椀や[[キビ]]の団子が出土しているが、これは同時期の青森市朝日山遺跡との共通性が指摘されており、近世アイヌの祭祀([[イナウ]]・[[イクパスイ]]など)の起源について和系祭祀の影響も推測されている{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=129-133}}{{sfn|蓑島栄紀|2014|pp=25-28}}。

=== 大陸交易とオホーツク人の同化 ===
{{seealso|トビニタイ文化}}
[[File:WLA brooklynmuseum Ainu Tamasay Bead Necklace.jpg|thumb|タマサイ(首飾り)]]
大陸の[[靺鞨]]系社会と交易を行うオホーツク社会は8世紀まで道北・道東の沿岸部にあり、道央・道南で本州と交易をおこなう擦文社会と北海道本島を2分していた{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=133-136}}。しかし8世紀後半以降に靺鞨諸族が[[渤海 (国)|渤海国]]に吸収されると道内では大陸産の出土品が著しく減少する。これをきっかけにオホーツク人は大陸交易に代わって擦文人や和人との交易に活路を見出していったと考えられる{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=136-138}}{{sfn|蓑島栄紀|2014|pp=18-21}}。それに伴い9世紀末から擦文人の勢力範囲が、オホーツク人のオオワシの狩猟地を奪う形で拡大し、オホーツク人社会は縮小していく{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=133-136}}{{sfn|榎森進|2001|pp=40-45}}。サハリン南部のベロカーメンナヤ遺跡など10世紀頃に現れるオホーツク人の防塞集落や、11世紀以降に大陸の技術で造られた[[白主土城]]などは、両社会の間に対立があった事を示すと考えられているが{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=141-142}}{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=169-172}}、一部では擦文社会の影響を受けつつ道北では[[元地文化]]、道東では[[トビニタイ文化]]が成立した{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=133-136}}{{sfn|榎森進|2001|pp=40-45}}。一方で道東の擦文文化では、石囲いの住居や樹皮葺きの住宅、大陸沿岸タイプの[[オオムギ]]の栽培などにオホーツク文化の受容がみられる。またヒトゲノムの研究で確認されるオホーツク人との混血は、この時期に起こったと考えられる{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=133-136}}。元地文化は10世紀末、トビニタイ文化は13世紀前後に消滅するが、これらの文明の担い手は擦文人と完全に同化していったと考えられる{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=133-136}}。

10世紀頃になると北東アジアでは渤海国が衰退し、道内と[[女真]]族勢力などとの交易が再開された。これに伴い擦文時代末の[[根室市]]穂香遺跡や[[伊達市 (北海道)|伊達市]]有珠オヤコツ遺跡などから大陸産ガラス玉の出土が増加する{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=147-149}}{{sfn|蓑島栄紀|2014|pp=22-23}}。これらは本州産の青銅製品と組み合わされていることが特徴で、近世アイヌに見られる[[タマサイ]]の起源と考えられる{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=147-149}}。このような本州産と大陸産の品を組み合わせる装飾品は、アイヌによる中継交易の始まりを示すと考えられる{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=156-159}}。この他に小樽市蘭島D遺跡から大陸産[[玉髄]]、ウサクマイA遺跡などからロシア産の環状錫製品なども出土している{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=38-40}}。このような道内と大陸の関係は『[[類聚国史]]』延暦14年(795年)条にも記されており、本州側でも日本列島の北辺が大陸と連続しているという地理認識が支配層に定着していった{{sfn|蓑島栄紀|2014|pp=22-23}}{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=38-40}}。

== 中世アイヌ文化期 ==
{{seealso|アイヌ文化}}
[[File:Ainu map.svg|thumb|350px|3つのアイヌグループ]]
アイヌ文化という用語には「近世まで続いたアイヌの生活文化」と「鎌倉時代から江戸時代に並行する考古学的時代区分」の2つの意味があるが{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=144-146}}、本稿では後者についてアイヌ文化期と表記して記述する{{Refnest|group=注釈|両者が混同されることからアイヌ文化に替わる時代区分を提案する研究者もいる。例えば瀬川は「ニブタニ時代」に改めることを提案している{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=144-146}}。詳細は[[アイヌ史の時代区分]]を参照。}}。

アイヌ文化期に移行すると、アイヌは本州と北東アジアを結ぶ中継交易を行いつつ周辺文化を吸収して独自の文化を確立していった。その特徴は擦文文化から連続しつつ、鉄鍋・漆塗椀なども使うことである。また早い時期には日本と大陸両方の陶磁器類が使われていたことも明らかになっている。衣服は伝統的な[[アットゥシ]]に加えて本州産の[[小袖]]などが流通するようになり、住宅は竪穴住居から[[チセ|平地住居]]になり、調理は[[囲炉裏]]で行われ[[カマド]]は無くなる{{sfn|榎森進|2001|pp=57-59}}{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=44-48}}{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=149-152}}{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=144-146}}。中村和之は、アイヌ文化期のなかでも環日本海交易の担い手として強い独立性をもっていた時期をアイヌ史における中世としている{{sfn|中村和之|2014|pp=131-135}}。

中世では、アイヌの居住域がさらに拡大し、13世紀までにサハリン、15世紀までに千島列島まで広がる。[[樺太アイヌ]]や[[千島アイヌ]]の成立もこの頃だと考えられる。3つのアイヌグループは互いに交易を行いつつ、[[北海道アイヌ]]は[[安東氏]]・[[南部氏]]などの東北勢力と、樺太アイヌは[[元 (王朝)|元]]や[[明]]といった中国王朝やニヴフなどの北東アジア先住民と、千島アイヌはカムチャツカ半島の先住民[[イテリメン族|イテリメン]]と交易を行い、それぞれが文化の独自性を強めていく{{sfn|中村和之|2014|pp=117-120}}{{sfn|榎森進|2001|pp=101-107}}。また、15世紀頃からは[[下北半島]]・[[津軽半島]]に居住した[[本州アイヌ]]もいた{{sfn|関根達人|2004|pp=11-15}}。

=== 中国王朝と朝貢 ===
{{seealso|モンゴルの樺太侵攻}}
[[File:重建永宁寺碑.jpg|thumb|重建永寧寺記碑([[アルセーニエフ沿海地方州立博物館]])]]
歴代の中国王朝の支配がサハリンまで及んだ時期については記録に残されていないが、遅くとも[[金 (王朝)|金]]代には[[ヌルガン]]に支配拠点があった。だが、アイヌ(骨嵬・骨兀{{Refnest|group=注釈|クイ。中国の史料にみえるアイヌの呼称で、[[ニヴフ語]]でアイヌを意味するkuyiに漢字を充てた語{{sfn|中村和之|2014|pp=120-122}}。}})が中国王朝と接触したのはもう少し遅く、[[元 (王朝)|元]]代が最初だと考えられている{{sfn|中村和之|2014|pp=120-122}}。

アイヌがサハリンまで勢力を拡大させるとオホーツク系先住民[[ニヴフ]](吉里迷)との間で争いとなった。アイヌはニヴフの打鷹人(だようじん。鷹狩りに従事する職人)を捕虜として使役していたが、ニヴフから朝貢を受けていた[[元 (王朝)|元]]はこれを問題視し、北東アジアでの支配を強化するために1264年から3年間におよぶアイヌ征討を行う。一時期は元がアイヌをサハリンから追い出すことに成功するが、アイヌも大陸に渡って略奪を行うなど激しく抵抗を行った{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=156-159}}{{sfn|中村和之|2014|pp=120-122}}{{sfn|榎森進|2001|pp=45-52}}{{sfn|佐々木史郎|2008|pp=55-58}}{{Refnest|group=注釈|この時期を記した『国朝文類』の果夥(クオフオ)という拠点の地名は、サハリン南端[[西能登呂岬]]の[[白主土城]]とする説がある{{sfn|中村和之|2014|pp=120-122}}。}}。長年続いた争いは、1308年にアイヌが元に朝貢を行う条件で元に降伏して終結した{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=156-159}}{{sfn|榎森進|2001|pp=45-52}}{{sfn|佐々木史郎|2008|pp=55-58}}。その後の史料は残されていないがサハリンでアイヌ関連の遺跡が発見されており、アイヌは朝貢貿易によりサハリンへの渡航を安堵されると共に、安定して大陸産品を入手できるようになったと考えられている{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=156-159}}。これにより元の支配するアムール川流域からサハリンと北海道本島を経て東北の安東氏へとつながる環日本海交易が成立し、アイヌはその担い手として主要な地位に就いたと考えられている{{sfn|中村和之|2014|pp=122-126}}。

続いて中国の歴史にアイヌが現れるのは15世紀初めの[[明]]代である。永楽10年(1412年)に明はアイヌなど先住民族を饗応してサハリンにおける支配強化を図った。しかし、なかなか効果が挙がらなかったようで、[[宣徳]]7年(1432年)に派兵をおこない弱体化していたヌルガンを再興した{{sfn|榎森進|2001|pp=52-56}}{{sfn|佐々木史郎|2008|pp=55-58}}。この時再建された永寧寺の『重建永寧寺記』には「サハリンのアイヌが独自の言語を持ち明に朝貢していた」と記されており、ここから明とサハリンのアイヌの間で活発な交易が行われるようになったと考えられている。交易品はサハリンから明へは[[テン]]皮などの特産品で、明からサハリンへは絹製品が回賜された。この大陸産の絹製品は本島のアイヌを通じて安東氏ら本州にももたらされており、のちの[[山丹交易]]へと続いていく{{sfn|中村和之|2014|pp=127-129}}{{sfn|榎森進|2001|pp=52-56}}。しかし正統14年(1449年)の[[土木の変]]をきっかけに、北東アジアにおける明の影響力は急激に失われ、朝貢貿易は衰退していった{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=156-159}}{{sfn|中村和之|2014|pp=129-131}}。その後アイヌと明朝の交易は[[女真|女直]]を経由する形で命脈を保ったが、[[ヌルハチ]]による女真勢力の統合によって解体したと考えられる{{sfn|中村和之|2014|pp=129-131}}{{sfn|佐々木史郎|2008|pp=55-58}}。中村和之は、明の衰退によりアイヌの中継交易者としての地位が揺らぎ、和人への従属度を深めていったと推測している{{sfn|中村和之|2014|pp=131-135}}{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=156-159}}。

=== 中世東北地方の動乱とアイヌ ===
{{seealso|十三湊|道南十二館}}
本州側の史料では、12世紀頃から[[流罪|流刑地]]として夷島が現れるようになる{{sfn|新藤透|2016|pp=20-22}}{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=48-49}}。これを担った蝦夷代官[[安東氏]]は、[[十三湊]]を拠点としてアイヌと盛んに交易を行っていた{{sfn|新藤透|2016|pp=34-36}}{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=49-52}}{{sfn|榎森進|2007|pp=67-71}}{{Refnest|group=注釈|安東氏の出自は明らかではないが、津軽に居住する擦文文化の集団とする説がある{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=56-58}}。}}。『日蓮遺文』には、文永5年(1268年)に蝦夷蜂起があり蝦夷代官の安藤五郎が討取られたと記される。蝦夷蜂起についての詳細は不明だが、榎森進は元と樺太アイヌの戦いがアイヌと安東氏の交易に影響を与えて蜂起に発展したと推測している{{sfn|新藤透|2016|pp=37-39}}{{sfn|榎森進|2007|pp=61-67}}。

14世紀初頭に[[安藤氏の乱]]が起こる。この乱については安東一族の内乱とするのが通説だが、[[大石直正]]によって実質的には安東氏による蝦夷地支配に対するアイヌの反乱であったとする新説が提唱されている{{sfn|新藤透|2016|pp=40-42}}{{sfn|中村和之|2014|pp=122-125}}。この乱も含め、14世紀に東北地方で起こった抗争から逃れた和人が北海道本島に逃れ、アイヌと雑居するようになった{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=149-152}}。その範囲は渡島半島に集中するが、道央や道東からも和人が居住した痕跡が確認されている{{sfn|新藤透|2016|pp=22-23}}{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=149-152}}{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=152-154}}。『[[諏訪大明神絵詞]]』には[[日ノモト|日ノ本]](太平洋側)・[[唐子 (蝦夷地)|唐子]](日本海側からサハリン)・[[渡党]](渡島半島([[青苗文化]]))の3つの蝦夷が記されている{{sfn|新藤透|2016|pp=27-28}}{{sfn|中村和之|2014|pp=122-126}}{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=52-54}}。

応永元年(1394年)にも北海動乱と称される蝦夷の反乱があった。乱は安東氏が鎮圧したとされるが具体的なことは不明である{{sfn|新藤透|2016|p=51}}{{Refnest|group=注釈|北海動乱については史実性を疑う意見もあったが、様々な傍証によって確実視されるようになっている{{sfn|新藤透|2016|p=51}}。}}。安東氏によるアイヌとの交易は15世紀まで繁栄を極め、[[ラッコ]]皮・[[コンブ|昆布]]・鷹羽などを入手していた{{sfn|新藤透|2016|pp=51-54}}。また、この頃には渡島半島南端に安東氏の家来筋が交易拠点を営むようになった。この拠点は『[[新羅之記録]]』の記述に由来する[[道南十二館]]で知られるが、『新羅之記録』の具体的な記述については疑問が持たれている{{sfn|新藤透|2016|pp=85-88}}{{sfn|新藤透|2016|pp=88-91}}{{Refnest|group=注釈|例えば十二館のうち原口館とされていた遺跡は、1992年の発掘調査により擦文時代の遺跡と判明している。また今後の調査次第では『新羅之記録』に記されていない新たな館の発見も期待されている{{sfn|新藤透|2016|pp=85-88}}。}}。

安東氏はその後台頭してきた[[南部氏]]による圧迫によって衰退していった{{sfn|新藤透|2016|pp=46-48}}{{sfn|新藤透|2016|pp=54-55}}。下国安東氏を滅ぼした南部氏は、安東氏のアイヌへの影響力を利用するために[[安藤師季|安東師季]]を傀儡とするが、師季は享徳3年(1454年)に渡島半島南端に逃亡して南部氏と対立していく{{sfn|新藤透|2016|pp=57-58}}{{sfn|新藤透|2016|pp=59-60}}{{sfn|榎森進|2007|pp=121-125}}。

=== アイヌと和人の戦い ===
{{seealso|コシャマインの戦い|ショヤコウジ兄弟の戦い}}
師季が渡島半島に逃れた後に、史料で確認できる最初のアイヌと和人の戦いであるコシャマインの戦いが起こる{{sfn|新藤透|2016|pp=59-60}}。蜂起は康正2年(1456年)夏と長禄元年(1457年)の2回あり、このうち永禄の蜂起を率いたのが[[コシャマイン]]である{{sfn|新藤透|2016|pp=}}{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=58-61}}。『新羅之記録』には脚色が多いが「アイヌによる戦いは渡島半島の東部から海岸線に西へと移動し大半の和人の館を落とすが、[[武田信広]]がコシャマインを討取って終結した」という部分は概ね史実と考えられている{{sfn|新藤透|2016|pp=91-94}}{{sfn|新藤透|2016|pp=96-99}}。なお蜂起が起きた理由について[[入間田宣夫]]は、安東氏による交易独占に反発したアイヌが南部氏と連携して蜂起したとしている{{sfn|新藤透|2016|pp=94-96}}{{sfn|入間田宣夫|2001|pp=155-162}}。

この頃、[[足利義政]]の使者と共に[[夷千島王遐叉]]の使者「宮内卿」を名乗る人物が[[李氏朝鮮]]を訪れて国王に謁見した記録が『[[朝鮮王朝実録|李朝実録]]』に残されている{{sfn|新藤透|2016|pp=62-63}}{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=64-65}}。夷千島王は「夷千島の西は朝鮮辺境の野老浦{{Refnest|group=注釈|読みをオランカイとし、[[女真|女真族]]とする説がある{{sfn|中村和之|2014|pp=129-131}}。}}と接しており、野老浦が朝鮮に反逆すれば征伐できる」と主張し見返りとして大蔵経を求めたが、朝鮮側は宮内卿による夷千島の説明に疑いを持ち応じなかった{{sfn|児島恭子|2009|pp=92-93}}{{sfn|長節子|2002|pp=177-182}}。この夷千島王が誰なのかについては諸説入り乱れているが{{Refnest|group=注釈|[[安東政季|安藤政季]]説、蠣崎氏説、アイヌ首長説のほか、[[宗氏]]による偽使とする説もある{{sfn|新藤透|2016|pp=62-63}}。}}、少なくともこの頃までに日本側には、朝鮮と蝦夷地が日本海を隔てて接するという地理的認識があった事を示すと考えられている{{sfn|児島恭子|2009|pp=92-93}}{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=64-65}}。

コシャマインの戦いで武功を挙げた信広は、上国守護となって[[勝山館]]を築城し蠣崎氏を興す{{sfn|新藤透|2016|pp=103-105}}。その後も蝦夷地では永正9年(1512年)・永正10年(1513年)・永正12年(1515年・[[ショヤコウジ兄弟の戦い]])・享禄元年(1528年)・享禄2年(1529年・タナサカシの戦い)・享禄4年(1531年)・天文5年(1536年・タリコナの戦い)とアイヌの蜂起が続いた。この戦乱により道南における安東氏の直接的な影響力は急激に衰退し{{sfn|新藤透|2016|pp=112-114}}{{sfn|新藤透|2016|pp=124-125}}、代わって武功やだまし討ちでこれを鎮圧した蠣崎氏がアイヌとの交易を独占するようになっていったと考えられている{{sfn|新藤透|2016|pp=121-123}}{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=63-68}}。ただし蠣崎氏がアイヌとの交易を掌握する過程は武力行使だけではなく、安東氏の権威を背景にした融和的な対応も織り交ぜたものだったと考えられる。例えば勝山館ではアイヌも居住していた事が確認されており、『新羅之記録』にもアイヌに宝を与えて慰撫していた事が記されている{{sfn|新藤透|2016|pp=136-137}}{{sfn|新藤透|2016|pp=137-143}}{{Refnest|group=注釈|「宝を与える」とあるが、アイヌ社会には敗者が勝者に宝を差し出す風習があり、これに則れば蠣崎氏は敗者の礼を取っていたことになる{{sfn|新藤透|2016|pp=137-143}}。}}。

== 近世アイヌ文化期 ==
中世に環日本海交易を担ったアイヌは、やがて和人を含む周辺社会への従属度を深めていった。アイヌの交易上の独立性が失われたこの時期がアイヌ史における近世とされている{{sfn|中村和之|2014|pp=131-135}}。その画期については、[[蠣崎季広]]が『[[夷狄の商舶往還の法度|夷狄之商舶往還之法度]]』を定めた天文20年(1551年)とされることが多い{{sfn|中村和之|2014|pp=131-135}}{{sfn|谷本晃久|2011|pp=44-45}}{{Refnest|group=注釈|一方で中村は、天文20年からを移行期と位置付け、北海道アイヌが[[商場知行制]]の成立した[[寛永]]期、樺太アイヌが[[清|清朝]]の辺民に編入された[[雍正]]10年(1732年)、千島アイヌがロシア人に貢納を行うようになった明和5年(1768年)、本州アイヌが消滅した宝暦6年(1756年)にそれぞれ近世が始まったとしている{{sfn|中村和之|2014|pp=131-135}}。}}。

18世紀までに清朝とロシアがそれぞれアイヌへの支配を強化するいっぽうで、松前藩も蝦夷交易の管理者の立場から徐々に政治的・経済的な支配を強めていった{{sfn|榎森進|2007|pp=209-210}}。18世紀末にロシアの南下に危機感を強めた江戸幕府は、松前藩を窓口とした蝦夷地取次体制を改めて蝦夷地の内国化を図るようになった{{sfn|榎森進|2007|pp=304-306}}。幕末期では幕領下のアイヌを「化外の民であると同時に日本に従属した民」と位置づけ、日本の幕藩体制に組み込んだ{{sfn|榎森進|2007|pp=346-351}}。

今日アイヌ文化と呼ばれる伝統的・文化的要素はこの時期までに確立され、それと共にアイヌは自らのアイデンティティを明確にしていったと考えられる{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=95-98}}。一方で発掘調査では、焼き畑や施肥を行い畝をもつ畑やウマの放牧も確認されており、狩猟採集というイメージに縛られた従来のアイヌ文化の見直しが提起されるようになっている{{sfn|瀬川拓郎|2016|pp=154-156}}。

=== 松前藩との交易と蜂起 ===
{{seealso|夷狄の商舶往還の法度|シャクシャインの戦い|場所請負制|クナシリ・メナシの戦い}}
[[File:1604 Ezo Trade Letter from Tokugawa Ieyasu to Matsumae Yoshihiro (Hokkaido Museum).jpg|thumb|260px|『慶長9年松前慶広宛徳川家康黒印状』<br>第二条付則に「夷之儀者、何方へ往行候共、可為夷次第事」とある。]]
季広はアイヌ首長との間で『夷狄之商舶往還之法度』を制定し、和人商船から徴収した年俸の一部をアイヌに与える形で交易を行うようになる。これにより蠣崎氏はアイヌとの緊張関係を緩和させるとともに、交易を独占的に管理する地位を確立した。この方針は[[文禄]]2年(1593年)の[[豊臣秀吉]]による朱印状、[[慶長]]9年(1604年)の[[徳川家康]]による黒印状へと受け継がれた{{sfn|中村和之|2014|pp=131-135}}{{sfn|榎森進|2007|pp=145-147}}{{Refnest|group=注釈|[[松前慶広|蠣崎慶広]]は、秀吉に蝦夷交易の利権を安堵してもらうために[[九戸政実の乱]]に自主的に参陣するが、この際に慶広・政実双方がアイヌを引き連れていたことが記録されている{{sfn|新藤透|2016|pp=177-180}}。}}。ただし蠣崎・松前氏の職権は和人の対アイヌ交易管理に留まるもので、アイヌや蝦夷地は幕府や松前藩からの支配を受けていない{{sfn|新藤透|2016|pp=184-185}}{{Refnest|group=注釈|例えば家康の黒印状は、交易の方針を示した法度(法律)である。黒印状では和人の商人に対し松前氏を通さない交易が禁じられ、松前氏にアイヌに非分を行う和人の取締りが認められているが、アイヌについては「どこにいっても自由」と付記されており、アイヌは[[松前町 (北海道)|松前]]以外(大陸・千島列島・サハリン)にも渡航して交易する自由が認められていた{{sfn|新藤透|2016|pp=193-197}}{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=73-77}}{{sfn|谷本晃久|2011|pp=50-51}}。また黒印状は本領を安堵するものではなく、[[松前藩]]は領地を持たない無高大名(もしくは武装商人)で蝦夷地は異域(アイヌの土地)であった{{sfn|新藤透|2016|pp=191-193}}{{sfn|新藤透|2016|pp=197-198}}{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=73-77}}。}}。

アイヌと松前藩の交易は、時代によって大きく変化していく。初期の交易はアイヌが[[松前城]]下に出向いて行われたため、城下交易体制と呼ばれる。この頃を記録する[[宣教師]]アンジェリスやカルワーリュの報告書によると、アイヌの交易品にはサケ・[[ニシン]]・白鳥・[[鶴]]・鷹・[[鯨]]・[[トド]]皮・ラッコ皮などがある{{sfn|新藤透|2016|pp=202-205}}{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=77-80}}。特にラッコ皮は千島アイヌ産の商品が北海道アイヌを経て流入したもので、松前藩の蝦夷交易を象徴する交易品となった{{sfn|新藤透|2016|pp=202-205}}{{sfn|児島恭子|2009|pp=139-140}}。また日本海側からは中国製絹織物ももたらされていた。交易は物々交換で行われ、アイヌはその対価として米・酒・麹・小袖・紬を入手していた{{sfn|新藤透|2016|pp=202-205}}{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=77-80}}。

領地を持たない松前藩は[[寛永]]年間までに、アイヌとの交易権を知行地の代わりとして藩士に与えるようになった。藩士には蝦夷各地に設定された商場(あきないば)を割り当て、藩士は商場に出向いてアイヌと交易を行うようになる。この交易を商場知行制という{{sfn|新藤透|2016|pp=228-229}}{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=77-80}}。藩士は嫌がるアイヌに一方的に交易品を押し付ける押買や、大網を使った鮭の乱獲などを行うようになり、さらに藩は[[寛文]]5年(1665年)に交換レートをアイヌ側に不利な設定にしてしまう{{Refnest|group=注釈|津軽藩の調査によると、米とサケの交換比率はアイヌ側からみて2割から3割の値上げが行われていた{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=84-87}}。}}。こうした交易にアイヌ側の藩に対する不満が募っていったと考えられている{{sfn|新藤透|2016|pp=228-229}}{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=84-87}}{{sfn|榎森進|2001|pp=92-97}}。

[[File:17世紀アイヌ地図.png|thumb|350px|17世紀ごろの蝦夷地]]
いっぽうで、アイヌ側には集団間の対立が起こった。[[慶安]]元年(1648年)以降、[[メナシクル]]と[[シュムクル]]の間で[[静内川]]の漁業権をめぐって武力衝突が繰り返され、度々松前藩が仲裁をしていた。寛文9年(1669年)に両者の争いは、誤った情報と松前藩への不満が重なってアイヌの一斉蜂起となり、松前藩との衝突へと発展した。これが[[シャクシャインの戦い]]である{{sfn|新藤透|2016|pp=227-228}}{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=84-87}}。藩はアイヌ側への離反工作を積極的に行い、孤立した[[シャクシャイン]]を和睦交渉と偽ってだまし討ちして戦いは終結した{{sfn|新藤透|2016|pp=231-232}}。アイヌが一斉に蜂起したことはアイヌの部族間に一定の連帯感があった事を示すが、その一方で和人との交易に依存していた社会構造から、藩と決定的な対立を避けたいという思惑も働き、一丸となって戦い続けることは出来なかったと考えられている{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=84-87}}。

このアイヌ蜂起をきっかけに、藩はアイヌに対する支配を強化し、和人地と蝦夷地の間の通行が自由に行えなくなった{{Refnest|group=注釈|和人地については、[[寛永]]10年(1633年)に幕府巡検使が来島して和人地を西は[[乙部町|乙部]]、東は石崎(函館市)までと定め、それ以外の土地はアイヌの住む蝦夷地と設定された。この和人地は徐々に拡大し、[[元禄]]13年(1700年)には西は[[熊石町|熊石村]]の北にあるほろむい村、東は汐首村(函館市)まで及んだ{{sfn|新藤透|2016|pp=222-224}}{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=77-80}}。当初はアイヌと和人の往来は可能で、和人を娶るアイヌも居た。しかし[[天和 (日本)|天和]]2年(1682年)の朱印状によって、アイヌの自由な往来は商場に限定されるように定められた{{sfn|中村和之|2014|pp=131-135}}{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=80-84}}。}}。アイヌに対し服属儀礼としての[[ウイマム]]が強要されるようになったのもこの頃である。一方で改易されても仕方ないほどの事件でありながら、松前藩への御咎めは無かった。その背景には、幕府側に「蝦夷地は松前藩領ではなく外国でもないという微妙な地域であり、かつアイヌの管理は松前氏にしか出来ない」という認識があった為だと推測されている{{sfn|新藤透|2016|pp=232-233}}{{sfn|新藤透|2016|pp=240-243}}{{sfn|榎森進|2001|pp=97-100}}{{Refnest|group=注釈|幕府直轄の長崎に加え、特定の藩([[琉球王国|琉球]]と[[薩摩藩]]・[[李氏朝鮮|朝鮮]]と[[対馬藩]]・蝦夷地と松前藩)を対外窓口として行われた近世の交易体制を[[日本型華夷秩序]]という{{sfn|榎森進|2001|pp=92-97}}。}}。また蜂起の影響で交易で松前を訪れる商人は激減し、藩はアイヌとの交易を行えなくなる。この影響で困窮したアイヌは松前藩に交易船の催促や米の供与を願い出ているが、交易に依存していた藩も財政難に陥っていた{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=87-90}}。

[[File:Ishuretsuzo (Ikotoi) by Kakizaki Hakyo (MBAA Besancon).jpg|thumb|180px|『夷酋列像』の中の[[イコトイ]]像]]
シャクシャインの戦い以降しばらくの間は、しばしばアイヌ同士の戦闘があったものの和人との争いは起きなかった。一方で江戸中期になると経済が複雑になり、アイヌとの交易は藩士の手に負えなくなってくる。そして藩財政の悪化も後押しとなって18世紀初頭ごろから藩士は商人に交易を請け負わせて、見返りとして一定の売上を徴収するようになった。この交易を[[場所請負制]]と呼ぶ。元文4年 (1739年)に成立した『北海随筆』に「蝦夷を支配して漁業をなさしめ」と記されるように、商人による交易は商業漁業開発の様相を呈してくる。商人はアイヌの漁場経営に口を挟み、やがてアイヌを漁場労働者として行使するようになり、アイヌの自立社会は徐々に冒されていった{{sfn|新藤透|2016|pp=239-240}}{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=104-106}}{{sfn|榎森進|2001|pp=97-100}}。[[天明]]6年(1786年)に幕府の命で蝦夷地の実情を探った佐藤玄六郎は「商人がアイヌを漁撈に行使するために農業を禁止している。アイヌは正直で和人と変わる事は無い。商人は騙しやすいようにわざと和風化を妨げて異形のままにしている」などと報告している{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=125-128}}。

商人のなかにはアイヌに乱暴を働く者や女性を強制的に妾にするものなどが現れ、アイヌに不満が蓄積していった。これを背景に、寛政元年(1789年)に最後のアイヌ蜂起と呼ばれる[[クナシリ・メナシの戦い]]が起きる。アイヌは和人の拠点を襲撃し和人労働者を殺害するが、藩の投降勧告に応じて戦闘には至らなかった{{sfn|新藤透|2016|pp=240-243}}。この際、蜂起の鎮圧に功があったアイヌ首長を描いたのが『[[夷酋列像]]』である。しかしこの絵に描かれたアイヌ首長たちは実際の姿ではなく、夷人であるアイヌを松前藩が従えていることを強調するための脚色がされている{{sfn|児島恭子|2009|pp=140-142}}{{sfn|田端宏ほか|2010|p=114}}。

=== 清朝との接触 ===
{{seealso|樺太アイヌ|山丹交易}}
[[File:Santanfuku8422.jpg|thumb|180px|山丹服(蝦夷錦)]]
明朝の衰退と共に北東アジアの記録は史料に記されなくなったが、17世紀に[[清|清朝]]が勃興すると再び記述されるようになる{{sfn|中村和之ほか|2008|pp=41-44}}。17世紀中頃に再び北東アジアに進出してきたロシアと清が対立するようになる{{sfn|榎森進|2007|pp=315-318}}。清は[[康熙帝|康熙]]28年(1689年)に[[ロシア]]と[[ネルチンスク条約]]を締結し、アムール川中下流域からサハリンまでの地域に辺民支配体制を敷いた。この辺民のうち庫頁(クイェ)と呼ばれる辺民が樺太アイヌだと考えられている{{sfn|松浦茂|2004|pp=105-106}}{{sfn|中村和之|2014|pp=131-135}}{{sfn|佐々木史郎|2008|pp=58-64}}{{Refnest|group=注釈|清の通貨はサハリンのニヴフ社会でも流通していた事が明らかになっているが、樺太アイヌまで及んでいるかは不明である{{sfn|中村和之|2014|pp=131-135}}。}}。[[雍正帝|雍正]]4年(1726年)に清はロシアと国境確定の交渉を行うが、その際に北東アジアにおいてロシアの支配が広がっていることに危機感を覚え、[[乾隆]]2年(1737年)までにサハリン南部での支配強化を図った。この際サハリン西海岸のナヨロ・東海岸のタライカ・同コタンケシのアイヌ3氏族が辺民に組み込まれている{{sfn|佐々木史郎|2008|pp=58-64}}{{sfn|榎森進|2007|pp=318-323}}。これにより樺太アイヌも清への毛皮の朝貢を義務付けられると共に、一定の待遇を与えられるようになった{{sfn|中村和之ほか|2008|pp=41-44}}{{sfn|中村和之|2014|pp=131-135}}{{sfn|佐々木史郎|2008|pp=58-64}}{{Refnest|group=注釈|松前藩が樺太アイヌの一部が清朝の辺民に組み込まれていることに気が付くのは安永7年(1778年)である{{sfn|榎森進|2007|pp=325-327}}。宗谷の商場でナヨロの首長ヨーチテアイノに出会った松前藩士は、彼が幼いころに人質として清に預けられ、戻る際に「楊忠貞」という名を与えられていたことを知るが、特に関心を持たなかった{{sfn|中村和之ほか|2008|pp=41-44}}{{sfn|榎森進|2007|pp=325-327}}。}}。辺民は清との朝貢貿易でテン皮を納め、その賞賜(ウリン)として清から龍文のある朝服(山丹服)などの絹製品やガラス玉などが与えられた{{sfn|榎森進|2001|pp=101-107}}{{sfn|中村和之ほか|2008|pp=41-44}}。アイヌはこの交易品を清への朝貢交易で直接、あるいは同じく辺民であった山丹人([[ウリチ]]を中心としたアムール川流域の先住民族の商人{{sfn|榎森進|2007|pp=331-338}}{{sfn|松浦茂|2004|pp=185-186}})らとの交易によって手に入れていた。この交易を[[山丹交易]]と呼ぶ{{sfn|中村和之ほか|2008|pp=41-44}}{{sfn|榎森進|2007|pp=309-315}}{{sfn|松浦茂|2004|pp=368-369}}。

大陸との交易は、千島アイヌに大陸文化の影響をもたらした。[[間宮林蔵]]は『北夷分界余話』で「樺太アイヌの女性は入墨をする者が少なく、衣服は中国式の袍形式で大陸産金属製品で飾り付ける」と口述している{{sfn|榎森進|2001|pp=101-107}}。またウリチとの間で混血も進んだ{{sfn|佐々木史郎|2008|pp=70-74}}。清のサハリン北部での辺民体制は、19世紀中頃にロシアがサハリンに進出するまで続いた{{sfn|佐々木史郎|2008|pp=70-74}}{{sfn|松浦茂|2004|pp=312-313}}。

山丹交易によってアイヌが得た蝦夷錦(山丹服)は日本で需要が高まり、松前藩は1790年までに[[久春古丹|クシュンコタン]]に商場を設けてサハリン南部での影響力を広げていった{{sfn|佐々木史郎|2008|pp=64-69}}{{sfn|榎森進|2007|pp=309-315}}。山丹交易は18世紀後半から19世紀初頭に絶頂期を迎え{{sfn|中村和之ほか|2008|pp=41-44}}、清への朝貢は19世紀前半まで{{sfn|佐々木史郎|2008|pp=64-69}}、山丹人との交易は明治元年(1868年)に明治政府が禁止するまで継続した{{sfn|中村和之ほか|2008|pp=41-44}}。松前藩はアイヌに蝦夷錦の取得を厳しく義務付け、いっぽうで清の軍事力を背景に山丹人が政治経済力を増したため、山丹交易の主導権は山丹人に移っていく。そのためアイヌは困窮し、負債を抱えて身売りする者も出るようになった。幕領化後の幕府はこの問題を放置できなくなり、文化9年(1812年)に[[松田伝十郎]]はアイヌの山丹人に対する借財を整理し返済を行い、以降の山丹交易は幕府が白主会所にて直接行うようになった{{sfn|中村和之ほか|2008|pp=41-44}}{{sfn|佐々木史郎|2008|pp=64-69}}{{sfn|榎森進|2007|pp=309-315}}{{sfn|榎森進|2007|pp=331-338}}{{Refnest|group=注釈|幕府によって整理されたアイヌの借財は貂皮5047枚分で、その代金は136両1分と記録されている{{sfn|榎森進|2007|pp=343-346}}。}}。

=== ロシアとの接触 ===
{{seealso|千島アイヌ}}
ロシアは16世紀末から高価な毛皮類を納める先住民を支配するためにシベリア東進を行い、1696年に[[ウラジーミル・アトラソフ|アトラーソフ]]が千島アイヌ(クリール人)と接触した。アトラーソフは千島アイヌが陶磁器・漆器・木綿服などの外国(日本)製品を所持していると記録している{{sfn|秋月俊幸|2010|pp=33-37}}。先住民たちの反乱を鎮圧しつつカムチャッカ半島から千島列島へ南下するロシアは、1713年に幌筵島のアイヌが[[ロシアのシベリア征服#ヤサク(貢納、毛皮税)|ヤサク]](毛皮税)の支払いに応じないため戦闘を行い、絹製品や刀などいくつかの戦利品を得たと報告している。こうした品物は、千島アイヌがエトロフアイヌとの交易で手に入れたものだと考えられている{{sfn|秋月俊幸|2010|pp=37-45}}。ロシア正教会のカムチャツカ[[掌院]]のホコンチャウスキーは、1747年に[[占守島]]と[[幌筵島]]に住むアイヌの人口を253人と報告している{{sfn|秋月俊幸|2010|pp=9-14}}。

択捉島以北の千島アイヌは、[[明和]]5年(1768年)までにヤサクをロシアに貢納するようになり、ロシアの[[同化政策]]によりロシア文化を受容していく{{sfn|中村和之|2014|pp=131-135}}{{sfn|秋月俊幸|2010|pp=61-64}}{{Refnest|group=注釈|千島アイヌを19世紀後半に調査した[[鳥居龍蔵]]は、ロシア正教会を受け入れ、ロシア風の衣装を着て、ロシア名を名乗っているが、言葉・風俗・生業は古来のアイヌ文化を残すと記録している{{sfn|秋月俊幸|2010|pp=9-14}}。}}。千島航路を開発して日本との交易を求めるロシアはさらに南下する。『カムチャツカ誌』(1755年)では「日本人に服属するアイヌは本島の北海道アイヌのみで、[[得撫島]]より北の千島アイヌはロシアに服属し、[[得撫島]]・[[択捉島]]、[[国後島]]のアイヌはどちらにも服属しないが、ロシアの進出で千島列島の南北交易が途絶えた」と記している{{sfn|秋月俊幸|2010|pp=50-61}}。

ロシアは[[宝暦]]9年(1759年)までにクルムセ([[得撫島]]か?)に交易拠点を設けた。明和6年(1769年)には、ロシア人がエトロフアイヌの猟場を侵しアイヌの長老が殺される事件が起きたが、翌年にはアイヌがロシア人を逆襲して21人を殺害し、島から追い返した。この事件の後にロシア側は方針を一転し、[[安永 (元号)|安永]]3年(1774年)に再びロシア人が現れた時には友好的な態度をとり、エトロフアイヌとロシア人の交易が始まった。この交易は[[国後島|国後]]や[[厚岸町|厚岸]]へと広がっていくが、その背景にはアイヌに場所請負制への反感から新しい関係を構築したいという思惑があったと考えられている。なかでも国後の首長[[ツキノエ]]はロシア人を厚岸へと案内しており、和人商人から「ロシアと日本の仲介役を果たす事が功績と評価されるという心づもりがある」と評されている。しかしツキノエの思惑は外れてロシア人との交流は上手くいかず、松前藩からも𠮟りを受けた{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=120-123}}。

=== 蝦夷地の幕領化 ===
{{seealso|アダム・ラクスマン|遠国奉行#箱館奉行・松前奉行・蝦夷奉行}}
松前藩も18世紀中頃には、アイヌとロシア人が接触していることに気が付いていたが、具体的な行動は取らなかった。さらに安永7年(1778年)にロシアが交易を求めて来航したことも、幕府に報告しなかった。いっぽうで幕府は、松前藩がロシアの接近を隠蔽していることを把握していた{{Refnest|group=注釈|[[出島]]の[[オランダ]]商館長アルメナウトは、カムチャツカで反乱を起こし[[マカオ]]に向かう途中だった[[モーリツ・ベニョヴスキー|ベニョフスキー]]に接触し、その内容を幕府に報告していた{{sfn|秋月俊幸|2010|pp=74-77}}。}}。松前藩の報告を信用しない幕府は、[[天明]]5年(1785年)からひそかに調査隊を蝦夷地に派遣してアイヌとロシアの事情を調査した{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=123-125}}。報告を受けた老中[[田沼意次]]は、蝦夷交易が莫大な利益を上げている事と広大な未開発農地がある事に着目して蝦夷地開発を計画し、アイヌとの御試交易(おためしこうえき)を2度行った。しかし意次が失脚すると、幕府の蝦夷地開発計画はすべて中止となる{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=125-128}}。

しかし[[寛政]]4年(1792年)にロシアが、同8年に[[イギリス]]が蝦夷地に来航すると、幕府内で異国船の接近に対する緊張感が高まった。幕府は[[近藤重蔵]]らの蝦夷地再調査により「アイヌがロシアになびくならば、大変なことになる」などの認識に至り、蝦夷地の幕領化(第一次)が決定された{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=128-133}}{{Refnest|group=注釈|幕領化に抵抗する松前藩は蝦夷地を先祖代々の領地と主張するが、幕府は松前藩は蝦夷地の取次に過ぎないとして、これを一蹴している{{sfn|榎森進|2007|pp=304-306}}。}}。

第一次幕領化は開国{{Refnest|group=注釈|新たに1国を興すつもりで費用を度外視して開発を進めることを指す{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=128-133}}。}}の方針で実施された。場所請負制によるアイヌへの搾取を把握していた幕府は、撫育の方針をもってアイヌの恭順化を図り、交易や漁業も幕府直営とした{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=128-133}}{{sfn|秋月俊幸|2010|pp=125-135}}{{sfn|榎森進|2007|pp=306-308}}。いっぽうでロシアにアイヌが日本の属民であることを示すために、アイヌの和風化([[同化政策]])が行われた。イオマンテ・入墨・男性の耳輪・メッカ打ち(死者の近親者をエムシ(太刀)の背で血の出るまで打つ行事)などのアイヌ風俗を禁止し、髪型も月代を剃るように勧めた。しかしアイヌの反発があって上手くいかなかった。またアイヌに対して初めての法(『法三章』)の布告が行われた{{sfn|秋月俊幸|2010|pp=125-135}}{{sfn|榎森進|2007|pp=306-308}}。こうして蝦夷地は幕領化という形で内国化されたが、開国政策には莫大な費用が掛かった事や日ロ間の緊張が緩和されたことにより、蝦夷地は文政4年(1821年)に松前家に戻された{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=133-137}}{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=137-141}}{{sfn|榎森進|2007|p=309}}。

蝦夷地に戻った松前藩は幕府がとったアイヌへの方針を転換し、場所請負制も復活した。復領後の場所請負制は大商人が一手に引き受けるようになり、各場所の経営権に加えて行政権も行使し実質的な支配者となった。その結果として一部の地域でアイヌに対する横暴な支配と収奪が強化された{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=161-165}}{{sfn|榎森進|2007|pp=362-364}}。例えば[[近江商人]][[藤野喜兵衛 (初代)|藤野喜兵衛]]はオホーツク沿岸一帯のアイヌを[[宗谷郡|宗谷]]や[[利尻町|利尻]]に強制的に集めて漁業に使役した。そのためアイヌはほとんど家に帰ることができず、[[コタン]]が壊滅状態になった。[[松浦武四郎]]は、商人の悪事でアイヌが逃げ出してアイヌの人口が減っていると記し、石狩川流域では文化7年(1810年)に1170人だった人口が、安政4年(1857年)には191人しかいないという凄惨な状況を記録している{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=161-165}}{{sfn|榎森進|2007|pp=364-368}}。

嘉永6年(1853年)にロシアの[[エフィム・プチャーチン|プチャーチン]]が来航して日ロ国境の確定を要求したことをきっかけに、幕府内で再び緊張感が高まった。さらに安政元年(1854年)に締結された『[[日米和親条約]]』によって[[函館市|箱館]]開港が了承された{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=148-150}}。こうした状況から安政2年(1855年)に再び蝦夷地が幕領化(第二次)される事となった{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=150-154}}。国境問題では、サハリン全島の領有権を主張するロシアに対し、幕府はアイヌを日本の領民と位置付け、アイヌの居住地域を日本領と主張して交渉に臨んだ{{sfn|上村英明|2000|pp=57–65}}。この方針から、第二次幕領期でもアイヌの風俗を和風化する同化政策が推進されたが、アイヌの抵抗もあって箱館奉行も頭髪など一部に寛容な態度を取るようになった。またアイヌにも[[種痘]]の接種に協力する首長や、幕府が奨励する農業で成果を挙げるものも居て、アイヌと和人との新しい関係が模索されていた{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=161-165}}。なお、場所請負制は明治2年(1869年)に廃止された{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=191-195}}。

== 近代以降 ==
日本が近代化の道を歩む中で北海道は日本の領土となり、先住民であるアイヌは自主的な要求がないままに日本国民に編入された。それと共に民族的な偏見に基づくアイヌへの同化政策が行われ、資本主義と近代化への変化を強要された。そのような社会はアイヌ文化の著しい衰退を招くとともに、アイヌに対する未開のイメージを増幅し、潜在化された差別を再生産することになった{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=191-195}}{{sfn|榎森進|2007|pp=376-378}}。

=== 開拓政策とアイヌ ===
{{seealso|開拓使}}
サハリンの日ロ国境の問題は、安政元年(1854年)の『[[日露和親条約|日露通好条約]]』により一旦棚上げされ、[[明治政府]]へと引き継がれた。[[クリミア戦争]]で敗退したロシアは、宿願である不凍港からの太平洋進出を画策し、[[清|清国]]に北東アジアの領土を割譲させて[[ウラジオストク]]を建設し、サハリンでの支配強化を進めた。そして日露間で1875年に『[[樺太・千島交換条約]]』が締結された。この際、交換される領土の日ロ両国民は国籍を有したまま定住する権利が認められたが、先住民であるアイヌらにはこの特権が認められず、国籍維持のために移住を余儀なくされた{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=191-195}}{{sfn|榎森進|2007|pp=402-405}}。

樺太南部に住むアイヌのうち841人は、1875年に対岸の[[宗谷郡]]に移住させられた。さらに翌年には[[石狩川]]下流の[[対雁]](現在の江別市)へと再移住させられて、本来の生業である漁業ではなく農業を強いられた。移住による環境の変化は病死者を生み、1879年から20年間余りで380名余りが死亡した。1905年に日露戦争に勝利した日本に南樺太が割譲されると、彼らは殆ど元の土地に帰還した{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=191-195}}{{sfn|榎森進|2007|pp=408-412}}。千島列島の[[占守島]]に住む106人の千島アイヌのうち97人は日本国籍となり、1884年に南千島の[[色丹島]]へ移住させられた{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=191-195}}。色丹島では農業・漁業・放牧に従事させたがいずれもうまくいかず、1899年までに63人が死亡した。1897年には、移住した千島アイヌに北千島における海獣狩猟が認められたが、海獣も激減しており生活は改善しなかった。その後、日本人移住者との混血も進み、千島アイヌは四散した{{sfn|秋月俊幸|2010|pp=222-231}}{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=191-195}}。

北海道本島においても政府は開拓のテコ入れとして和人への土地の払い下げを行い、移住を推進した{{sfn|榎森進|2007|pp=423-424}}。その結果、本島でもアイヌの強制移住が行われた。これらの強制移住で造られた[[コタン]]を強制コタンという{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=191-195}}。移住したアイヌは農業を強要されたが、地理的な条件などもあり農業生活に転換することができたのは比較的恵まれた条件に移住した人々に限られた{{sfn|榎森進|2007|pp=424-428}}。さらに狩猟や漁撈の場所を奪われたアイヌは、自然災害も重なって1884年には餓死者を多数出すまで生活が追いやられた{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=191-195}}{{sfn|榎森進|2007|pp=394-396}}。また栄養不足で体力が低下したところに、和人との接触によってもたらされた[[結核|肺結核]]などが蔓延した{{sfn|榎森進|2007|pp=428-430}}。

その他アイヌに関連が強い政策としては、同化政策が挙げられる。明治4年(1871年)に[[戸籍法]]が制定されると、アイヌは日本国民の平民に編入されるが{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=191-195}}{{sfn|榎森進|2007|pp=388-389}}、いっぽうで官庁によるアイヌの呼称を「旧土人」に定め、皇民化を図った。例えば戸籍の登録にあたっては和風姓氏が強要され、女性の入墨や男性の耳輪が禁止された{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=191-195}}{{sfn|榎森進|2007|pp=389-390}}。

=== 北海道旧土人保護法から先住民族アイヌへ ===
{{seealso|北海道旧土人保護法|アイヌ民族運動}}
このような状況から、政界からも開拓によってアイヌの生活が圧迫されている事に懸念が表明されるようになる。1893年と1895年には、一部の議員から『土人保護法案』が提出される。保護法案はこの時は可決されなかったが、日清戦争後に政府は保護法案を提出し、1899年に『[[北海道旧土人保護法]]』が制定された。政府が政策を推進した背景には、少数民族保護の姿勢を見せて国際社会に近代国家としてアピールしたい思惑もあったと考えられている{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=227-231}}{{sfn|榎森進|2007|pp=447-451}}。保護法は「勧農・医療・教育」の3つの方針により、農業に従事するアイヌへの土地の無償下付、困窮するアイヌへの薬代の支給、初等教育が実施された。しかし、このアイヌ保護の方針には多くの問題点があった事が指摘されている。例えばアイヌへの給与地は相続以外の譲渡はもちろん、質権・抵当権・地上権などを設定することも禁じられており、実質的な所有権とは程遠いものであった{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=227-231}}{{sfn|榎森進|2007|pp=442-444}}。また教育は和人と別学とされ、[[土人学校]]で特別なカリキュラムによって行われた{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=227-231}}{{sfn|榎森進|2007|pp=444-447}}。

こうした状況からアイヌは自覚的に差別撤回運動を展開するようになる。[[違星北斗]]や[[バチェラー八重子]]らの文学的な活動はアイヌの民族意識を触発し{{sfn|榎森進|2007|pp=472-474}}、1930年には十勝旭明社を母胎として[[北海道アイヌ協会]]の設立{{sfn|榎森進|2007|pp=474-476}}、1931年には全道アイヌ青年大会の開催{{sfn|榎森進|2007|pp=479-481}}、1932年の全道アイヌ代表者会議の開催などの組織的運動へと発展した{{sfn|榎森進|2007|pp=496-498}}。

太平洋戦争後には、日本の民主化とともにアイヌの解放に対する期待も高まり{{sfn|榎森進|2007|pp=506-508}}、[[新冠御料牧場]]解放運動などが展開された{{sfn|榎森進|2007|pp=512-514}}。しかし1968年の[[北海道百年記念事業]]では行政をはじめとして和人中心の歴史認識(開拓史観)が根強く存在することが明らかになり{{sfn|榎森進|2007|pp=524-526}}、これをきっかけに1970年代からアイヌの解放運動が積極的に行われるようになる{{sfn|榎森進|2007|pp=540-545}}。1977年には[[秋辺得平|成田得平]]がアイヌとして初めて国政選挙の立候補者となり{{sfn|榎森進|2007|pp=540-545}}、1982年からは明治時代から存続していた『北海道旧土人保護法』の撤廃と、これに替わるアイヌ新法の制定運動が展開された{{sfn|榎森進|2007|pp=562-565}}。

こうした努力により、1997年に『北海道旧土人保護法』の廃止と『[[アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律|アイヌ文化振興法]]』の制定に至った。また[[二風谷ダム#アイヌ民族の闘い|二風谷ダム建設差し止め訴訟]]でのアイヌ民族の[[文化享有権]]を認める判決や『[[アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律|アイヌ施策推進法]]』など、法と判決の両面でアイヌの先住民の地位と文化の実在が再確認されることとなった{{sfn|田端宏ほか|2010|pp=326-330}}。その後、アイヌ文化の保護を目的とした取り組みを国・自治体で推進しており、前述のアイヌ施策推進法に基づいて策定された地域計画に対して政府が交付金を支給している<ref>{{Cite web |url=https://www.mof.go.jp/policy/budget/topics/budget_execution_audit/fy2022/sy0407/1.pdf |title=アイヌ政策推進交付金 総括調査票 |access-date=2023年4月27日 |publisher=財務省}}</ref>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
=== 出典 ===
<!-- 文献参照ページ -->
{{Reflist|2}}
{{Reflist|20em}}


==関連項目==
== 参考文献 ==
'''書籍'''
*[[アイヌ民族運動]]
* {{Cite book|和書|author=秋月俊幸 |author-link=秋月俊幸 |year=2010 |title=千島列島をめぐる日本とロシア |publisher=北海道大学出版 |isbn=978-4-8329-3386-6|ref=harv}}
*[[アイヌ民族博物館]]
* {{Cite book|和書|author=榎森進 |year=2007 |title=アイヌ民族の歴史 |publisher=[[草風館]] |isbn=978-4-88323-171-3 |ref=harv}}
*[[旭川市博物館]]
* {{Cite book|和書|author=長節子 |year=2002 |title=中世国境海域の倭と朝鮮 |publisher=[[吉川弘文館]] |isbn=4-642-02802-1 |ref=harv}}
*[[蝦夷]]
* {{Cite book|和書|author=児島恭子 |author-link=児島恭子 |year=2009 |title=エミシ・エゾからアイヌへ |publisher=吉川弘文館 |isbn=978-4-642-05673-1 |ref=harv}}
*[[俘囚]]
* {{Cite book|和書|author=新藤透 |year=2016 |title=北海道戦国史と松前氏 |publisher=[[洋泉社]] |isbn=978-4-8003-0681-4 |ref=harv}}
*[[オホーツク文化]] - [[ニヴフ]]
* {{Cite book|和書|author=瀬川拓郎 |author-link=瀬川拓郎 |year=2015 |title=アイヌ学入門 |publisher=[[講談社]] |series=講談社現代新書 |volume=2304 |isbn=978-4062883047 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=瀬川拓郎 |author-link=瀬川拓郎 |year=2016 |title=アイヌと縄文-もうひとつの日本の歴史 |publisher=[[筑摩書房]] |series=ちくま新書 |volume=1169 |isbn=978-4-480-06873-6 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=瀬川拓郎 |year=2019 |title=1時間でわかるアイヌの文化と歴史 |publisher=[[宝島社]] |series=宝島社新書 |isbn=978-4800293824 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=田端宏 |author-link=田端宏 |author2=桑原真人 |author2-link=桑原真人 |author3=船津功 |author3-link=船津功 |author4=関口明 |author4-link=関口明 |year=2010 |title=北海道の歴史 |publisher=[[山川出版社]] |series=県史 1 |volume=第2版 |isbn=978-4-634-32011-6 |ref={{SfnRef|田端宏ほか|2010}}}}


* {{Cite book|和書|year=2001|title=北から見直す日本史-上之国勝山館跡と夷王山墳墓群からみえるもの |editor=網野善彦|editor-link=網野善彦|editor2=石井進|editor2-link=石井進 (歴史学者)|publisher=[[大和書房]]|ISBN=4-479-84056-7|ref=harv}}
== 外部リンク ==
** {{Cite book|和書|author=榎森進|title=アイヌ民族の去就|ref={{SfnRef|榎森進|2001}}}}
* [https://www.jacar.go.jp/seikatsu-bunka/p05.html 先住民族の近現代史 〜日露の狭間で翻弄された人々〜]
** {{Cite book|和書|author=入間田宣夫|author-link=入間田宣夫|title=北方海域における人の移動と諸大名|ref={{SfnRef|入間田宣夫|2001}}}}

* {{Cite book|和書|year=2008|title=北東アジアのなかのアイヌ世界-アイヌ文化の成立と変容 |volume=下 |editor=榎森進|editor2=小口雅史|editor2-link=小口雅史|editor3=澤登寛聡|publisher=[[岩田書院]]|ISBN=978-4-87294-532-4|ref=harv}}
** {{Cite book|和書|author=中村和之|author2=小田寛貴|title=蝦夷錦と北のシルクロード|ref={{SfnRef|中村和之ほか|2008}}}}
** {{Cite book|和書|author=佐々木史郎|title=東アジアの歴史世界におけるアイヌの役割|ref={{SfnRef|佐々木史郎|2008}}}}

* {{Cite book|和書|year=2014|title=岩波講座日本歴史|editor=大津透|editor-link=大津透|editor2=桜井英治|editor2-link=桜井英治|editor3=藤井讓治|editor3-link=藤井讓治|editor4=吉田裕|editor4-link=吉田裕 (歴史学者)|editor5=李成市|editor5-link=李成市|publisher=[[岩波書店]]|volume=第20巻 地域論|ISBN=978-4-00-011340-3|ref=harv}}
** {{Cite book|和書|author=蓑島栄紀|title=古代北海道地域論|ref={{SfnRef|蓑島栄紀|2014}}}}
** {{Cite book|和書|author=中村和之|title=中世・近世アイヌ論|ref={{SfnRef|中村和之|2014}}}}

* {{Cite book|和書|year=2011|title=アイヌ史を問いなおす-生態・交流・文化継承|publisher=[[勉誠出版]]|series=アジア遊学 |volume=139 |ref=harv}}
** {{Cite book|和書|author=蓑島栄紀|title=アイヌ史を問いなおす|ref={{SfnRef|蓑島栄紀|2011}}}}
** {{Cite book|和書|author=谷本晃久|title=アイヌ史的近世をめぐって-アイヌ史の可能性、再考|ref={{SfnRef|谷本晃久|2011}}}}

'''論文など'''
* {{Cite journal |和書 |author=上村英明 |author-link=上村英明 |title=「北海道」・「沖縄」の植民地化とその国際法の論理-アジアにおける「先住民族」形成の一事例 |journal=PRIME |editor=明治学院大学国際平和研究所 |volume=12 |publisher=明治学院大学国際平和研究所 |year=2000 |date=2000 |naid=40005050706 |ref=harv}}
* {{Cite journal |和書 |author=関根達人 |title=副葬品からみたアイヌの歴史と文化-本州アイヌを視野に入れて |journal=東奥文化 |editor=青森県文化財保護協会 |volume=75 |year=2004 |date=2004 |naid=120001331241 |ref=harv}}
* {{Cite journal |和書 |author=藤沢敦 |title=墳墓から見た古代の本州島北部と北海道 |journal=国立歴史民俗博物館研究報告 |editor=国立歴史民俗博物館 |volume=152 |publisher=ぎょうせい |year=2009 |date=2009 |doi=10.15024/00001719 |ref=harv}}
* {{Cite journal |和書 |author=松浦茂 |title=清朝のアムール政策と少数民族 |publisher=[[京都大学]] |year=2004 |date=2004 |ref=harv}}

==関連項目==
* [[アイヌ史の時代区分]]
* [[日本の古代東北経営]]
* [[蝦夷]]


{{アイヌ民族}}
{{アイヌ民族}}

2023年4月30日 (日) 08:54時点における版

本記事でのアイヌ史の歴史区分

アイヌの歴史(アイヌのれきし)では、アイヌ民族の歴史を解説する。歴史区分についてはアイヌ史の時代区分、本州側の歴史上のアイヌ観については蝦夷も参照のこと。

かつて、アイヌは13世紀頃に北海道に移入してきた民族とする説があったが(アイヌ説、プレアイヌ説、コロポックル論争)、現在では集団交替説を唱える研究者はおらず、アイヌの歴史は縄文時代からアイヌ文化期まで、緩やかにかつ連続的に移行していったとするのが定説である[1]。こうした考古学的見地は、ヒトゲノムによる研究とも親和的である。それによるとアイヌのルーツは、和人に比べるとより縄文人に近く、そこに和人やオホーツク人との混血が加わったと考えられている[2]

その一方で、アイヌ文化は何時まで遡れるのかという歴史上の問いがある。アイヌ文化には古くから狩猟採集というイメージがあるが、考古学的な研究により交易を中心とした文化と捉え直されるようになった[3][4]。北海道は古代から周辺地域との交易・交流を通して広域的な文化が接触する領域であった。アイヌはその交易を担っていく中で、周辺地域の文化を選択的に吸収・翻案して独自の文化を形成してきた。アイヌの歴史は、そうした地政的な環境に加えて北海道の自然に根差して生成された独自の文化・民族の変容の過程と言い換えることができる。それゆえアイヌの歴史の解明には考古学的な研究に加えて、本州以南および北東アジア世界との相互依存的・広域的な歴史との関連付けと、北海道の自然環境と生物相も考慮する必要がある[5][6][3]

縄文時代

中空土偶。著保内野遺跡出土。縄文時代後期後半(約3500年前)。

道内の縄文時代の遺跡としては、苫小牧市静川遺跡(縄文時代中期末から後期初頭)や千歳市丸子山遺跡(縄文中期後半)などの祭祀遺跡、千歳市キウス周堤墓などの共同墓地、函館市垣ノ島遺跡などの集落跡が挙げられる[7]

道内の縄文早期の特徴として石刃鏃文化が挙げられる。石刃鏃とは白滝黒曜石を原料とし漁撈用の鏃とされ、道東北部を中心に石狩平野からサハリンアムール川流域まで分布している[8]

縄文後期から晩期にかけて葬送儀礼に大きな変化が起こり、環状列石や集団墓地が現れる。キウス周堤墓では土量3400立方メートルにも及ぶ大規模な土木工事が行われており、首長層の存在と土木工事に専従する人員を養う高い生産力を有する社会があったと推定されている[7]。ただし、縄文中期ごろの墓制は首長単独の墓ではなく共同墓地である事が特徴であり、副葬品にも差異はみられず階層化は緩やかであった[9][10][11]

縄文晩期に至ると周堤墓は造られなくなり、多数の副葬品が出土する首長墓が現れる。それらの副葬品には実用に向かない形だけを整えた製品が含まれていることが特徴で、それらは集落の住民から首長墓へのお供え物だと考えられている[10]

また道内から出土する糸魚川のヒスイ八戸市是川中井遺跡の漆から検出された道産の硫化水銀、道内で出土するイノシシの骨などから、本州との交易および祭祀等の信仰・思想の共有があったと考えられている[12][13][注釈 1]

続縄文時代

続縄文時代(紀元前5世紀から紀元後7世紀前半)とは、おおよそ本州以南の弥生時代(続縄文前期)と古墳時代(続縄文後期)に並行する時代区分である[14]。弥生時代に本州では稲作が広まるが、道内の続縄文人はこれを受容せず、本州と毛皮などを交易する商業的狩猟民となった[15]。続縄文文化については稲作文化に比べて劣ったイメージで語られる事が多かったが、藤井強らによってアイヌ文化へと続く北の文化の基礎として高く評価されるようになっている[16]。続縄文後期には道内の続縄文人が東北地方へ南下し、代わって道北から道東にかけてオホーツク人が南下してきた(→#オホーツク文化期[15]

続縄文前期

続縄文時代の前期の終わりは後北C1式土器が指標とされ、おおよそ2世紀頃までと考えられている[14]。本州で弥生文化が広まっていく中で、道内の続縄文人が稲作を行わなかったのは寒冷な気候によるものとするのが定説だが、青森県でも弥生時代の水田が確認されていることから気候説に否定的な見解もある[17]

続縄文前期でも本州との交易は継続していた。道内の遺跡からは、鉄器・碧玉管玉・ガラス玉などのほか、奄美諸島などの貝製品など、本州でも首長層にしか手に入れられない貴重品が出土している[18]。これらの交易品の対価として、道内から本州に流通した商品は定かではないが、せたな町南川遺跡の工房跡からはメノウ製の石錐が大量に出土していることや、のちの時代にも本州で道産の毛皮が珍重されていることから、毛皮製品を本州に送っていた可能性が指摘されている。瀬川拓郎は、稲作を受容しなかった続縄文人は、縄文文化を継承しつつ狩猟により得られた毛皮などを交易に特化した独自の文化を展開していったと推測している[18][17]。また、白老町アヨロ遺跡や江別市元江別1遺跡などの首長墓からは前述した弥生文化の貴重品が集中的に出土する。こうした傾向から、首長が弥生人との交易をおこなう中で、集落内の階層化が深まっていったと考えられている[10]

この時期、道南では骨角製の銛頭・魚形石器製の疑似餌・マグロなどの回遊魚やオヒョウタラなどの底生魚を対象とする独特な漁撈文化、あるいはオットセイなどを対象とした海獣猟を活発に行うようになる(恵山文化)[19]。一方で道北の礼文島浜中2遺跡ではクジラの骨製のアワビ漁の道具や銛、食用にされた弥生犬の骨が出土している[20]。また、せたな町貝取澗2遺跡や余市町フゴッペ洞窟からは卜骨が発見されている[21]。これらの道具類あるいは文化は、同時期の西日本の日本海側から北部九州にみられるものと共通する点が多く、西本豊弘や山浦清らは続縄文人と弥生人の交易を担ったのは九州北部の海民と推測している[19][20]。また河川漁撈も盛んで、江別太遺跡ではテㇱ(アイヌ文化でサケの遡上をとめて捕獲するための)と同じ遺構が確認されている[22]

続縄文前期の出土品で注目されるのが、芦別市滝里安井遺跡・北見市常呂川河口遺跡など各地で出土するクマの頭部彫刻である。これは近世アイヌがイオマンテで用いた着装品(アイヌ語:サパウンペ、もしくはサパンペ)のクマ彫刻との類似性が指摘されている[23][注釈 2]

続縄文後期

続縄文土器。北海道長沼町東1線北15番地出土。続縄文時代(後期)。

続縄文時代の後期は後北C2・D式土器を指標とし、3世紀以降とされている[14]。この頃から続縄文社会に対外交易を意識した特定の生産活動の集約化が見られるようになるが、それらの集団間に序列はなく、水平的なネットワークを形成していたと考えられている[25]

東北北部では弥生時代後期以降に人口の減少が確認できるが、これと入れ替わるように4世紀には続縄文人が東北北部へ南下していった。その範囲は仙台平野から新潟平野を結ぶラインまで及び、その前線地帯には続縄文人と古墳人が混住する中間地帯があったと考えられている。両者の関係は融和的で、同時期には道内で鉄器の流通が一気に拡大し、一方の古墳社会では道産の毛皮が流通していった[26]。なお東北地方に見られるアイヌ語地名は、この続縄文人の勢力範囲と一致する範囲に濃く分布していることが指摘されている[27][28]

5世紀後半になると古墳社会は北上し、東北北部に奥州市中半入遺跡・八戸市田向冷水遺跡などの集落や七戸町森ヶ沢遺跡の続縄文人の墓が現れるが、これらの遺跡からは古墳文化と続縄文文化の両方の遺物が出土しており、続縄文人と古墳人が雑居する交易拠点であったと考えられる[29][27]。6世紀に古墳社会がさらに北上し、東北地方で続縄文文化はほとんど見つからなくなる。東北地方から両文明の中間地帯は消失したが、両文化の交易は続縄文人が東北北部太平洋沿岸へ季節的に訪れる形で継続された。7世紀ごろの余市町余内山遺跡や恵庭市西島松5遺跡などから、刀子・鉄斧・鉄鎌・鉄鏃・刀剣類などが大量に出土している[27]

7世紀ごろヤマト王権では権威を示すために下賜する品として、北方交易でもたらされるヒグマの毛皮が珍重されていた[30][注釈 3]。北方交易の直接統制を目論んだヤマト王権は、斉明天皇4年(658年)から阿倍比羅夫を派遣し、北方交易を取り仕切っていた東北地方日本海側の蝦夷を討伐し服属させる[31]。さらに北上した阿倍は、斉明天皇6年(660年)に渡島の蝦夷を饗応した。この渡島の蝦夷を続縄文人とする説がある。阿倍は渡島の蝦夷の求めに応じて、弊賂弁嶋(へろべのしま 奥尻島)の粛慎(オホーツク人)を討伐した[32][33]。阿倍の討伐により続縄文人とオホーツク人の間に調停が結ばれ、持統10年(696年)には共同朝貢が行われている[33][34]

オホーツク文化期

オホーツク土器。北海道根室市弁天島出土。オホーツク文化期・5から6世紀。

続縄文時代後期から擦文時代に並行して道北から道東に形成されたオホーツク文化も、アイヌ文化に繋がる源流のひとつと考えられている。オホーツク文化は海獣狩猟と海洋漁撈を生業とした文化で、起源については大陸のウリチ・サハリン在来のニヴフ樺太アイヌ・複数の周辺文化の複合などの諸説があるが、サハリンで形成された文化が北海道本島に南下してきた事は確実視されている。その特徴としては平面形状が五角形・六角形になる独特な竪穴住居にヒグマの骨などを祀る骨塚を設けることが挙げられ、ヒグマ信仰などに近世アイヌの精神文化との関連が指摘されている[22][14][35]。また、担い手であるオホーツク人については『日本書紀』に現れる粛慎、『続日本紀』に現れる靺鞨(中国東北部の靺鞨とは別。読みは粛慎と同じアシハセ)、および7世紀の中国の史料に現れる流鬼と同一視する説が有力視されている[36][37][33]

同時期の北東アジアには、ロシア沿海地方から中国東北地方に靺鞨文化が分布し、オホーツク海北岸やカムチャッカ半島にはトカレフ文化・テヴィ文化・古コリャーク文化などの諸文化が存在した。オホーツク人はこれらの文化との交易を行い大陸産の鉄製品・青銅製品・玉製品などを入手する一方で、本州の和人からは蕨手刀などが流入していた[14][35]。続縄文人の遺跡からもオホーツク人がもたらしたと考えられる大陸産装身具がわずかに確認されるが、続縄文人とオホーツク人の間に積極的な交流はみられない。両者は空白地帯を挟んで本島を二分し、やがて本州との交易をめぐって対立関係に至ったと考えられる[36]

オホーツク文化の起源は3世紀から4世紀にサハリン南部と道北に分布する鈴谷式土器に求められ、クロテンラッコの毛皮を得るために本島に南下し、5世紀から6世紀に現れた刺突文をもつ十和田式土器をもって成立したとされている。7世紀に造られた土器に現れる刻文はサハリン北部から道東・千島列島まで分布するが、これらには北東アジアの靺鞨文化の影響が顕著にみられる[37][14]。また日本海沿岸の島嶼(天売島焼尻島奥尻島など)にも拠点を設けたが、この場所をめぐってオホーツク人と続縄文人の間に対立が起こり、ヤマト王権の介入があったと考えられる(→#続縄文後期[36][34]

8世紀から9世紀になると、沈線文や貼付文など、地域ごとに独自性を見えるようになる。9世紀には擦文文化の影響を受けて元地文化・トビニタイ文化が成立し、次第に擦文文化と同化していった(→#大陸交易とオホーツク人の同化[14]。またサハリンでは12世紀ごろまで存続するが、彼らはニヴフのルーツと考えられる[14][38]

擦文時代

擦文時代(7世紀後半から13世紀)は、本州の飛鳥時代後期から平安時代に並行する時代区分である。擦文時代は本州と交易を行いつつ文化を選択的に受容した時代で、その文化圏は道南・道央から始まり青森県北部から道東・道北まで広がっていった。生業は狩猟・漁撈・採集を基礎としつつ雑穀栽培[注釈 4]が行われ、石器がほぼ使われなくなり鉄器文化に移行した。また土師器の影響を受けた擦文土器の生産やカマドを設けた竪穴住居、北海道式古墳[注釈 5]などには本州の文化の影響が指摘されている。それらは交易・交流によってもたらされたほか、ヤマト王権の遠征により東北地方から追われた蝦夷の移入もあったと考えられているが、移入の程度や規模については意見が分かれている[43][14][42][39]。農耕文化の影響は、信仰面にも及んだと考えられる。アイヌ語の祭祀関係の言葉には、古代日本語からの借用語が多く見られ[注釈 6]、古代日本の信仰の影響を受けた可能性が指摘されている[45]。また、近世アイヌでみられた原始的な地機織りや外反をもつマキリも、この頃に伝わった形式を継承したものと考えられる[45]

擦文人社会は、渡島半島を勢力範囲として出羽柵を拠点としたヤマト王権と交易する日本海沿岸グループと、道央を勢力範囲として東北地方太平洋沿岸地域と交易する太平洋沿岸グループの2つの勢力があったと考えられている[43][46]。また道央では北海道式古墳など東北地方の影響がつよくみられ、蝦夷の移入が推定されている。蝦夷の移入は、太平洋側の苫小牧市付近から始まり、石狩低地帯を北上し札幌市付近まで北上した。狩猟採集を行う続縄文人と、雑穀栽培を行う蝦夷の生業は競合せず、融和的であった[43]。ヒトゲノムの研究においても、アイヌと和人との混血が進んだ時期が7世紀頃と推定されており、蝦夷の移入をきっかけに続縄文人との混血が進んだと考えられている[46]

擦文文化の特徴のひとつとして、墓地や墓がほとんど確認されない事が挙げられる。理由は定かではないが、飛鳥時代のケガレの影響をうけた住宅葬(住んでいた住宅にそのまま遺体を安置して住宅ごと遺棄する)や平安時代に庶民で行われていた遺棄葬(鳥葬)の影響などが推定されている[47][48]。9世紀頃になると、移入した蝦夷の遺跡が見られなくなるが、これは擦文人との同化が進んだためと考えられる。この頃から擦文土器には再び文様が施されるようになる[46]

アイヌ・エコシステムとアイヌ文化の成立

擦文時代では、さらに集落の特定の地域への集中化が進んだ。9世紀後葉ごろから集落が集中する石狩川中流はサケの産卵場で、この頃からサケが主要な交易品であったと推測されている。また、奥尻島青苗貝塚遺跡でも大量のアワビの貝殻とアシカの骨が出土している[注釈 7]。また、食料生産には向かない河口付近の湿地帯の集落は船を使った商品の集積地と考えられる[52]。これらは本州との交易に関連する遺跡とされ、交易を主とする狩猟採集社会であったと考えられている[49][53]。以上のような、交易に立脚した生態系適応社会をアイヌ・エコシステムと呼ぶ[54][55]

アイヌ文化の成立については、従来の定説では土器や竪穴住居の終焉と捉えて12世紀から13世紀としてきた。しかしアイヌ文化を「対外交易を前提とする生業・社会・文化の複合」とする定義から、アイヌ・エコシステムが成立した10世紀にアイヌ文化が始まったとの理解が広まりつつある[55][注釈 8]

擦文人の交易について『類聚三代格』には、延暦21年(802年)条に私的に擦文人と交易することを禁じる太政官符があった事が記されており、公的な交易に加えて、貴族たちが良質な毛皮を競って買い求めていたと考えられている。また『養老律令』では陸奥国司などの職務として「饗給、征討、斥候」と定めている。このうち饗給は擦文人などを服属させるための饗応を意味するが、その実態は交易に近かったと考えられている。札幌市サクシュコトニ川遺跡からは9世紀ごろの「夷」の異体字をヘラ書きした土師器や米粒が見つかっているが、これらは東北諸国での饗給で得た交易品を持ち帰ったものだと考えられている[56]

和人との交易は、擦文社会に身分階層をもたらした。これらは北海道式古墳や『日本三代実録』の「渡嶋夷首百三人」による秋田城への朝貢した記録に見て取ることができる。またこの時代の副葬品には朝廷から下賜された刀剣類や、それに取りつける官位を表示する帯金具などがあり、こうした下賜品が擦文社会の階層分化を促進したと考えられる。また首長層には地域間分業と一定の序列が生まれた可能性が指摘されている[33][56]

アイヌの勢力範囲の拡大

9世紀後葉に至ると道央以西を拠点としていた擦文人は、オホーツク人が占めていた道北・道東へと勢力範囲を拡大していく。これらの地域に進出したのは、道南を拠点とする日本海側グループと考えられている[46]。擦文人の進出は、まず9世紀後葉に日本海側を通して稚内に至り、10世紀末にはサハリン南部西岸域から道北オホーツク海沿岸域に進出、さらに11世紀末までに道東から千島列島南部まで及んだ[46]。一方の道央を拠点とする太平洋側グループも12世紀までに道東の太平洋側に勢力を広げた[46]。擦文人がオホーツク人を排除しつつ勢力範囲を広げたのは、本州への交易品であるオオワシの尾羽を用いた矢羽根を得るためだったと考えられている[57][58][注釈 9]。また交易相手であった本州では元慶の乱(878年)をきっかけに東北地方での律令制が衰退し、北方交易の主体は荘園制中世社会の東北勢力に再編されていった[54][51][59]

擦文時代の遺跡から出土する本土由来の遺品としては、甕を主体とした須恵器・米・銅椀がある。アイヌの酒「トノト」作りに関する言葉には古代日本語からの借用語がみられるが[注釈 10]、甕や米の存在と合わせると酒造り技術の伝来が擦文時代まで遡る可能性がある[54]。また、厚真町上幌内モイ遺跡の祭祀遺跡から焼けた銅椀やキビの団子が出土しているが、これは同時期の青森市朝日山遺跡との共通性が指摘されており、近世アイヌの祭祀(イナウイクパスイなど)の起源について和系祭祀の影響も推測されている[54][59]

大陸交易とオホーツク人の同化

タマサイ(首飾り)

大陸の靺鞨系社会と交易を行うオホーツク社会は8世紀まで道北・道東の沿岸部にあり、道央・道南で本州と交易をおこなう擦文社会と北海道本島を2分していた[58]。しかし8世紀後半以降に靺鞨諸族が渤海国に吸収されると道内では大陸産の出土品が著しく減少する。これをきっかけにオホーツク人は大陸交易に代わって擦文人や和人との交易に活路を見出していったと考えられる[61][33]。それに伴い9世紀末から擦文人の勢力範囲が、オホーツク人のオオワシの狩猟地を奪う形で拡大し、オホーツク人社会は縮小していく[58][62]。サハリン南部のベロカーメンナヤ遺跡など10世紀頃に現れるオホーツク人の防塞集落や、11世紀以降に大陸の技術で造られた白主土城などは、両社会の間に対立があった事を示すと考えられているが[63][64]、一部では擦文社会の影響を受けつつ道北では元地文化、道東ではトビニタイ文化が成立した[58][62]。一方で道東の擦文文化では、石囲いの住居や樹皮葺きの住宅、大陸沿岸タイプのオオムギの栽培などにオホーツク文化の受容がみられる。またヒトゲノムの研究で確認されるオホーツク人との混血は、この時期に起こったと考えられる[58]。元地文化は10世紀末、トビニタイ文化は13世紀前後に消滅するが、これらの文明の担い手は擦文人と完全に同化していったと考えられる[58]

10世紀頃になると北東アジアでは渤海国が衰退し、道内と女真族勢力などとの交易が再開された。これに伴い擦文時代末の根室市穂香遺跡や伊達市有珠オヤコツ遺跡などから大陸産ガラス玉の出土が増加する[65][51]。これらは本州産の青銅製品と組み合わされていることが特徴で、近世アイヌに見られるタマサイの起源と考えられる[65]。このような本州産と大陸産の品を組み合わせる装飾品は、アイヌによる中継交易の始まりを示すと考えられる[66]。この他に小樽市蘭島D遺跡から大陸産玉髄、ウサクマイA遺跡などからロシア産の環状錫製品なども出土している[67]。このような道内と大陸の関係は『類聚国史』延暦14年(795年)条にも記されており、本州側でも日本列島の北辺が大陸と連続しているという地理認識が支配層に定着していった[51][67]

中世アイヌ文化期

3つのアイヌグループ

アイヌ文化という用語には「近世まで続いたアイヌの生活文化」と「鎌倉時代から江戸時代に並行する考古学的時代区分」の2つの意味があるが[1]、本稿では後者についてアイヌ文化期と表記して記述する[注釈 11]

アイヌ文化期に移行すると、アイヌは本州と北東アジアを結ぶ中継交易を行いつつ周辺文化を吸収して独自の文化を確立していった。その特徴は擦文文化から連続しつつ、鉄鍋・漆塗椀なども使うことである。また早い時期には日本と大陸両方の陶磁器類が使われていたことも明らかになっている。衣服は伝統的なアットゥシに加えて本州産の小袖などが流通するようになり、住宅は竪穴住居から平地住居になり、調理は囲炉裏で行われカマドは無くなる[68][69][70][1]。中村和之は、アイヌ文化期のなかでも環日本海交易の担い手として強い独立性をもっていた時期をアイヌ史における中世としている[71]

中世では、アイヌの居住域がさらに拡大し、13世紀までにサハリン、15世紀までに千島列島まで広がる。樺太アイヌ千島アイヌの成立もこの頃だと考えられる。3つのアイヌグループは互いに交易を行いつつ、北海道アイヌ安東氏南部氏などの東北勢力と、樺太アイヌはといった中国王朝やニヴフなどの北東アジア先住民と、千島アイヌはカムチャツカ半島の先住民イテリメンと交易を行い、それぞれが文化の独自性を強めていく[72][73]。また、15世紀頃からは下北半島津軽半島に居住した本州アイヌもいた[74]

中国王朝と朝貢

重建永寧寺記碑(アルセーニエフ沿海地方州立博物館

歴代の中国王朝の支配がサハリンまで及んだ時期については記録に残されていないが、遅くとも代にはヌルガンに支配拠点があった。だが、アイヌ(骨嵬・骨兀[注釈 12])が中国王朝と接触したのはもう少し遅く、代が最初だと考えられている[75]

アイヌがサハリンまで勢力を拡大させるとオホーツク系先住民ニヴフ(吉里迷)との間で争いとなった。アイヌはニヴフの打鷹人(だようじん。鷹狩りに従事する職人)を捕虜として使役していたが、ニヴフから朝貢を受けていたはこれを問題視し、北東アジアでの支配を強化するために1264年から3年間におよぶアイヌ征討を行う。一時期は元がアイヌをサハリンから追い出すことに成功するが、アイヌも大陸に渡って略奪を行うなど激しく抵抗を行った[66][75][76][77][注釈 13]。長年続いた争いは、1308年にアイヌが元に朝貢を行う条件で元に降伏して終結した[66][76][77]。その後の史料は残されていないがサハリンでアイヌ関連の遺跡が発見されており、アイヌは朝貢貿易によりサハリンへの渡航を安堵されると共に、安定して大陸産品を入手できるようになったと考えられている[66]。これにより元の支配するアムール川流域からサハリンと北海道本島を経て東北の安東氏へとつながる環日本海交易が成立し、アイヌはその担い手として主要な地位に就いたと考えられている[78]

続いて中国の歴史にアイヌが現れるのは15世紀初めの代である。永楽10年(1412年)に明はアイヌなど先住民族を饗応してサハリンにおける支配強化を図った。しかし、なかなか効果が挙がらなかったようで、宣徳7年(1432年)に派兵をおこない弱体化していたヌルガンを再興した[79][77]。この時再建された永寧寺の『重建永寧寺記』には「サハリンのアイヌが独自の言語を持ち明に朝貢していた」と記されており、ここから明とサハリンのアイヌの間で活発な交易が行われるようになったと考えられている。交易品はサハリンから明へはテン皮などの特産品で、明からサハリンへは絹製品が回賜された。この大陸産の絹製品は本島のアイヌを通じて安東氏ら本州にももたらされており、のちの山丹交易へと続いていく[80][79]。しかし正統14年(1449年)の土木の変をきっかけに、北東アジアにおける明の影響力は急激に失われ、朝貢貿易は衰退していった[66][81]。その後アイヌと明朝の交易は女直を経由する形で命脈を保ったが、ヌルハチによる女真勢力の統合によって解体したと考えられる[81][77]。中村和之は、明の衰退によりアイヌの中継交易者としての地位が揺らぎ、和人への従属度を深めていったと推測している[71][66]

中世東北地方の動乱とアイヌ

本州側の史料では、12世紀頃から流刑地として夷島が現れるようになる[82][83]。これを担った蝦夷代官安東氏は、十三湊を拠点としてアイヌと盛んに交易を行っていた[84][85][86][注釈 14]。『日蓮遺文』には、文永5年(1268年)に蝦夷蜂起があり蝦夷代官の安藤五郎が討取られたと記される。蝦夷蜂起についての詳細は不明だが、榎森進は元と樺太アイヌの戦いがアイヌと安東氏の交易に影響を与えて蜂起に発展したと推測している[88][89]

14世紀初頭に安藤氏の乱が起こる。この乱については安東一族の内乱とするのが通説だが、大石直正によって実質的には安東氏による蝦夷地支配に対するアイヌの反乱であったとする新説が提唱されている[90][91]。この乱も含め、14世紀に東北地方で起こった抗争から逃れた和人が北海道本島に逃れ、アイヌと雑居するようになった[70]。その範囲は渡島半島に集中するが、道央や道東からも和人が居住した痕跡が確認されている[92][70][93]。『諏訪大明神絵詞』には日ノ本(太平洋側)・唐子(日本海側からサハリン)・渡党(渡島半島(青苗文化))の3つの蝦夷が記されている[94][78][95]

応永元年(1394年)にも北海動乱と称される蝦夷の反乱があった。乱は安東氏が鎮圧したとされるが具体的なことは不明である[96][注釈 15]。安東氏によるアイヌとの交易は15世紀まで繁栄を極め、ラッコ皮・昆布・鷹羽などを入手していた[97]。また、この頃には渡島半島南端に安東氏の家来筋が交易拠点を営むようになった。この拠点は『新羅之記録』の記述に由来する道南十二館で知られるが、『新羅之記録』の具体的な記述については疑問が持たれている[98][99][注釈 16]

安東氏はその後台頭してきた南部氏による圧迫によって衰退していった[100][101]。下国安東氏を滅ぼした南部氏は、安東氏のアイヌへの影響力を利用するために安東師季を傀儡とするが、師季は享徳3年(1454年)に渡島半島南端に逃亡して南部氏と対立していく[102][103][104]

アイヌと和人の戦い

師季が渡島半島に逃れた後に、史料で確認できる最初のアイヌと和人の戦いであるコシャマインの戦いが起こる[103]。蜂起は康正2年(1456年)夏と長禄元年(1457年)の2回あり、このうち永禄の蜂起を率いたのがコシャマインである[105][106]。『新羅之記録』には脚色が多いが「アイヌによる戦いは渡島半島の東部から海岸線に西へと移動し大半の和人の館を落とすが、武田信広がコシャマインを討取って終結した」という部分は概ね史実と考えられている[107][108]。なお蜂起が起きた理由について入間田宣夫は、安東氏による交易独占に反発したアイヌが南部氏と連携して蜂起したとしている[109][110]

この頃、足利義政の使者と共に夷千島王遐叉の使者「宮内卿」を名乗る人物が李氏朝鮮を訪れて国王に謁見した記録が『李朝実録』に残されている[111][112]。夷千島王は「夷千島の西は朝鮮辺境の野老浦[注釈 17]と接しており、野老浦が朝鮮に反逆すれば征伐できる」と主張し見返りとして大蔵経を求めたが、朝鮮側は宮内卿による夷千島の説明に疑いを持ち応じなかった[113][114]。この夷千島王が誰なのかについては諸説入り乱れているが[注釈 18]、少なくともこの頃までに日本側には、朝鮮と蝦夷地が日本海を隔てて接するという地理的認識があった事を示すと考えられている[113][112]

コシャマインの戦いで武功を挙げた信広は、上国守護となって勝山館を築城し蠣崎氏を興す[115]。その後も蝦夷地では永正9年(1512年)・永正10年(1513年)・永正12年(1515年・ショヤコウジ兄弟の戦い)・享禄元年(1528年)・享禄2年(1529年・タナサカシの戦い)・享禄4年(1531年)・天文5年(1536年・タリコナの戦い)とアイヌの蜂起が続いた。この戦乱により道南における安東氏の直接的な影響力は急激に衰退し[116][117]、代わって武功やだまし討ちでこれを鎮圧した蠣崎氏がアイヌとの交易を独占するようになっていったと考えられている[118][119]。ただし蠣崎氏がアイヌとの交易を掌握する過程は武力行使だけではなく、安東氏の権威を背景にした融和的な対応も織り交ぜたものだったと考えられる。例えば勝山館ではアイヌも居住していた事が確認されており、『新羅之記録』にもアイヌに宝を与えて慰撫していた事が記されている[120][121][注釈 19]

近世アイヌ文化期

中世に環日本海交易を担ったアイヌは、やがて和人を含む周辺社会への従属度を深めていった。アイヌの交易上の独立性が失われたこの時期がアイヌ史における近世とされている[71]。その画期については、蠣崎季広が『夷狄之商舶往還之法度』を定めた天文20年(1551年)とされることが多い[71][122][注釈 20]

18世紀までに清朝とロシアがそれぞれアイヌへの支配を強化するいっぽうで、松前藩も蝦夷交易の管理者の立場から徐々に政治的・経済的な支配を強めていった[123]。18世紀末にロシアの南下に危機感を強めた江戸幕府は、松前藩を窓口とした蝦夷地取次体制を改めて蝦夷地の内国化を図るようになった[124]。幕末期では幕領下のアイヌを「化外の民であると同時に日本に従属した民」と位置づけ、日本の幕藩体制に組み込んだ[125]

今日アイヌ文化と呼ばれる伝統的・文化的要素はこの時期までに確立され、それと共にアイヌは自らのアイデンティティを明確にしていったと考えられる[126]。一方で発掘調査では、焼き畑や施肥を行い畝をもつ畑やウマの放牧も確認されており、狩猟採集というイメージに縛られた従来のアイヌ文化の見直しが提起されるようになっている[127]

松前藩との交易と蜂起

『慶長9年松前慶広宛徳川家康黒印状』
第二条付則に「夷之儀者、何方へ往行候共、可為夷次第事」とある。

季広はアイヌ首長との間で『夷狄之商舶往還之法度』を制定し、和人商船から徴収した年俸の一部をアイヌに与える形で交易を行うようになる。これにより蠣崎氏はアイヌとの緊張関係を緩和させるとともに、交易を独占的に管理する地位を確立した。この方針は文禄2年(1593年)の豊臣秀吉による朱印状、慶長9年(1604年)の徳川家康による黒印状へと受け継がれた[71][128][注釈 21]。ただし蠣崎・松前氏の職権は和人の対アイヌ交易管理に留まるもので、アイヌや蝦夷地は幕府や松前藩からの支配を受けていない[130][注釈 22]

アイヌと松前藩の交易は、時代によって大きく変化していく。初期の交易はアイヌが松前城下に出向いて行われたため、城下交易体制と呼ばれる。この頃を記録する宣教師アンジェリスやカルワーリュの報告書によると、アイヌの交易品にはサケ・ニシン・白鳥・・鷹・トド皮・ラッコ皮などがある[136][137]。特にラッコ皮は千島アイヌ産の商品が北海道アイヌを経て流入したもので、松前藩の蝦夷交易を象徴する交易品となった[136][138]。また日本海側からは中国製絹織物ももたらされていた。交易は物々交換で行われ、アイヌはその対価として米・酒・麹・小袖・紬を入手していた[136][137]

領地を持たない松前藩は寛永年間までに、アイヌとの交易権を知行地の代わりとして藩士に与えるようになった。藩士には蝦夷各地に設定された商場(あきないば)を割り当て、藩士は商場に出向いてアイヌと交易を行うようになる。この交易を商場知行制という[139][137]。藩士は嫌がるアイヌに一方的に交易品を押し付ける押買や、大網を使った鮭の乱獲などを行うようになり、さらに藩は寛文5年(1665年)に交換レートをアイヌ側に不利な設定にしてしまう[注釈 23]。こうした交易にアイヌ側の藩に対する不満が募っていったと考えられている[139][140][141]

17世紀ごろの蝦夷地

いっぽうで、アイヌ側には集団間の対立が起こった。慶安元年(1648年)以降、メナシクルシュムクルの間で静内川の漁業権をめぐって武力衝突が繰り返され、度々松前藩が仲裁をしていた。寛文9年(1669年)に両者の争いは、誤った情報と松前藩への不満が重なってアイヌの一斉蜂起となり、松前藩との衝突へと発展した。これがシャクシャインの戦いである[142][140]。藩はアイヌ側への離反工作を積極的に行い、孤立したシャクシャインを和睦交渉と偽ってだまし討ちして戦いは終結した[143]。アイヌが一斉に蜂起したことはアイヌの部族間に一定の連帯感があった事を示すが、その一方で和人との交易に依存していた社会構造から、藩と決定的な対立を避けたいという思惑も働き、一丸となって戦い続けることは出来なかったと考えられている[140]

このアイヌ蜂起をきっかけに、藩はアイヌに対する支配を強化し、和人地と蝦夷地の間の通行が自由に行えなくなった[注釈 24]。アイヌに対し服属儀礼としてのウイマムが強要されるようになったのもこの頃である。一方で改易されても仕方ないほどの事件でありながら、松前藩への御咎めは無かった。その背景には、幕府側に「蝦夷地は松前藩領ではなく外国でもないという微妙な地域であり、かつアイヌの管理は松前氏にしか出来ない」という認識があった為だと推測されている[146][147][148][注釈 25]。また蜂起の影響で交易で松前を訪れる商人は激減し、藩はアイヌとの交易を行えなくなる。この影響で困窮したアイヌは松前藩に交易船の催促や米の供与を願い出ているが、交易に依存していた藩も財政難に陥っていた[149]

『夷酋列像』の中のイコトイ

シャクシャインの戦い以降しばらくの間は、しばしばアイヌ同士の戦闘があったものの和人との争いは起きなかった。一方で江戸中期になると経済が複雑になり、アイヌとの交易は藩士の手に負えなくなってくる。そして藩財政の悪化も後押しとなって18世紀初頭ごろから藩士は商人に交易を請け負わせて、見返りとして一定の売上を徴収するようになった。この交易を場所請負制と呼ぶ。元文4年 (1739年)に成立した『北海随筆』に「蝦夷を支配して漁業をなさしめ」と記されるように、商人による交易は商業漁業開発の様相を呈してくる。商人はアイヌの漁場経営に口を挟み、やがてアイヌを漁場労働者として行使するようになり、アイヌの自立社会は徐々に冒されていった[150][151][148]天明6年(1786年)に幕府の命で蝦夷地の実情を探った佐藤玄六郎は「商人がアイヌを漁撈に行使するために農業を禁止している。アイヌは正直で和人と変わる事は無い。商人は騙しやすいようにわざと和風化を妨げて異形のままにしている」などと報告している[152]

商人のなかにはアイヌに乱暴を働く者や女性を強制的に妾にするものなどが現れ、アイヌに不満が蓄積していった。これを背景に、寛政元年(1789年)に最後のアイヌ蜂起と呼ばれるクナシリ・メナシの戦いが起きる。アイヌは和人の拠点を襲撃し和人労働者を殺害するが、藩の投降勧告に応じて戦闘には至らなかった[147]。この際、蜂起の鎮圧に功があったアイヌ首長を描いたのが『夷酋列像』である。しかしこの絵に描かれたアイヌ首長たちは実際の姿ではなく、夷人であるアイヌを松前藩が従えていることを強調するための脚色がされている[153][154]

清朝との接触

山丹服(蝦夷錦)

明朝の衰退と共に北東アジアの記録は史料に記されなくなったが、17世紀に清朝が勃興すると再び記述されるようになる[155]。17世紀中頃に再び北東アジアに進出してきたロシアと清が対立するようになる[156]。清は康熙28年(1689年)にロシアネルチンスク条約を締結し、アムール川中下流域からサハリンまでの地域に辺民支配体制を敷いた。この辺民のうち庫頁(クイェ)と呼ばれる辺民が樺太アイヌだと考えられている[157][71][158][注釈 26]雍正4年(1726年)に清はロシアと国境確定の交渉を行うが、その際に北東アジアにおいてロシアの支配が広がっていることに危機感を覚え、乾隆2年(1737年)までにサハリン南部での支配強化を図った。この際サハリン西海岸のナヨロ・東海岸のタライカ・同コタンケシのアイヌ3氏族が辺民に組み込まれている[158][159]。これにより樺太アイヌも清への毛皮の朝貢を義務付けられると共に、一定の待遇を与えられるようになった[155][71][158][注釈 27]。辺民は清との朝貢貿易でテン皮を納め、その賞賜(ウリン)として清から龍文のある朝服(山丹服)などの絹製品やガラス玉などが与えられた[73][155]。アイヌはこの交易品を清への朝貢交易で直接、あるいは同じく辺民であった山丹人(ウリチを中心としたアムール川流域の先住民族の商人[161][162])らとの交易によって手に入れていた。この交易を山丹交易と呼ぶ[155][163][164]

大陸との交易は、千島アイヌに大陸文化の影響をもたらした。間宮林蔵は『北夷分界余話』で「樺太アイヌの女性は入墨をする者が少なく、衣服は中国式の袍形式で大陸産金属製品で飾り付ける」と口述している[73]。またウリチとの間で混血も進んだ[165]。清のサハリン北部での辺民体制は、19世紀中頃にロシアがサハリンに進出するまで続いた[165][166]

山丹交易によってアイヌが得た蝦夷錦(山丹服)は日本で需要が高まり、松前藩は1790年までにクシュンコタンに商場を設けてサハリン南部での影響力を広げていった[167][163]。山丹交易は18世紀後半から19世紀初頭に絶頂期を迎え[155]、清への朝貢は19世紀前半まで[167]、山丹人との交易は明治元年(1868年)に明治政府が禁止するまで継続した[155]。松前藩はアイヌに蝦夷錦の取得を厳しく義務付け、いっぽうで清の軍事力を背景に山丹人が政治経済力を増したため、山丹交易の主導権は山丹人に移っていく。そのためアイヌは困窮し、負債を抱えて身売りする者も出るようになった。幕領化後の幕府はこの問題を放置できなくなり、文化9年(1812年)に松田伝十郎はアイヌの山丹人に対する借財を整理し返済を行い、以降の山丹交易は幕府が白主会所にて直接行うようになった[155][167][163][161][注釈 28]

ロシアとの接触

ロシアは16世紀末から高価な毛皮類を納める先住民を支配するためにシベリア東進を行い、1696年にアトラーソフが千島アイヌ(クリール人)と接触した。アトラーソフは千島アイヌが陶磁器・漆器・木綿服などの外国(日本)製品を所持していると記録している[169]。先住民たちの反乱を鎮圧しつつカムチャッカ半島から千島列島へ南下するロシアは、1713年に幌筵島のアイヌがヤサク(毛皮税)の支払いに応じないため戦闘を行い、絹製品や刀などいくつかの戦利品を得たと報告している。こうした品物は、千島アイヌがエトロフアイヌとの交易で手に入れたものだと考えられている[170]。ロシア正教会のカムチャツカ掌院のホコンチャウスキーは、1747年に占守島幌筵島に住むアイヌの人口を253人と報告している[171]

択捉島以北の千島アイヌは、明和5年(1768年)までにヤサクをロシアに貢納するようになり、ロシアの同化政策によりロシア文化を受容していく[71][172][注釈 29]。千島航路を開発して日本との交易を求めるロシアはさらに南下する。『カムチャツカ誌』(1755年)では「日本人に服属するアイヌは本島の北海道アイヌのみで、得撫島より北の千島アイヌはロシアに服属し、得撫島択捉島国後島のアイヌはどちらにも服属しないが、ロシアの進出で千島列島の南北交易が途絶えた」と記している[173]

ロシアは宝暦9年(1759年)までにクルムセ(得撫島か?)に交易拠点を設けた。明和6年(1769年)には、ロシア人がエトロフアイヌの猟場を侵しアイヌの長老が殺される事件が起きたが、翌年にはアイヌがロシア人を逆襲して21人を殺害し、島から追い返した。この事件の後にロシア側は方針を一転し、安永3年(1774年)に再びロシア人が現れた時には友好的な態度をとり、エトロフアイヌとロシア人の交易が始まった。この交易は国後厚岸へと広がっていくが、その背景にはアイヌに場所請負制への反感から新しい関係を構築したいという思惑があったと考えられている。なかでも国後の首長ツキノエはロシア人を厚岸へと案内しており、和人商人から「ロシアと日本の仲介役を果たす事が功績と評価されるという心づもりがある」と評されている。しかしツキノエの思惑は外れてロシア人との交流は上手くいかず、松前藩からも𠮟りを受けた[174]

蝦夷地の幕領化

松前藩も18世紀中頃には、アイヌとロシア人が接触していることに気が付いていたが、具体的な行動は取らなかった。さらに安永7年(1778年)にロシアが交易を求めて来航したことも、幕府に報告しなかった。いっぽうで幕府は、松前藩がロシアの接近を隠蔽していることを把握していた[注釈 30]。松前藩の報告を信用しない幕府は、天明5年(1785年)からひそかに調査隊を蝦夷地に派遣してアイヌとロシアの事情を調査した[176]。報告を受けた老中田沼意次は、蝦夷交易が莫大な利益を上げている事と広大な未開発農地がある事に着目して蝦夷地開発を計画し、アイヌとの御試交易(おためしこうえき)を2度行った。しかし意次が失脚すると、幕府の蝦夷地開発計画はすべて中止となる[152]

しかし寛政4年(1792年)にロシアが、同8年にイギリスが蝦夷地に来航すると、幕府内で異国船の接近に対する緊張感が高まった。幕府は近藤重蔵らの蝦夷地再調査により「アイヌがロシアになびくならば、大変なことになる」などの認識に至り、蝦夷地の幕領化(第一次)が決定された[177][注釈 31]

第一次幕領化は開国[注釈 32]の方針で実施された。場所請負制によるアイヌへの搾取を把握していた幕府は、撫育の方針をもってアイヌの恭順化を図り、交易や漁業も幕府直営とした[177][178][179]。いっぽうでロシアにアイヌが日本の属民であることを示すために、アイヌの和風化(同化政策)が行われた。イオマンテ・入墨・男性の耳輪・メッカ打ち(死者の近親者をエムシ(太刀)の背で血の出るまで打つ行事)などのアイヌ風俗を禁止し、髪型も月代を剃るように勧めた。しかしアイヌの反発があって上手くいかなかった。またアイヌに対して初めての法(『法三章』)の布告が行われた[178][179]。こうして蝦夷地は幕領化という形で内国化されたが、開国政策には莫大な費用が掛かった事や日ロ間の緊張が緩和されたことにより、蝦夷地は文政4年(1821年)に松前家に戻された[180][181][182]

蝦夷地に戻った松前藩は幕府がとったアイヌへの方針を転換し、場所請負制も復活した。復領後の場所請負制は大商人が一手に引き受けるようになり、各場所の経営権に加えて行政権も行使し実質的な支配者となった。その結果として一部の地域でアイヌに対する横暴な支配と収奪が強化された[183][184]。例えば近江商人藤野喜兵衛はオホーツク沿岸一帯のアイヌを宗谷利尻に強制的に集めて漁業に使役した。そのためアイヌはほとんど家に帰ることができず、コタンが壊滅状態になった。松浦武四郎は、商人の悪事でアイヌが逃げ出してアイヌの人口が減っていると記し、石狩川流域では文化7年(1810年)に1170人だった人口が、安政4年(1857年)には191人しかいないという凄惨な状況を記録している[183][185]

嘉永6年(1853年)にロシアのプチャーチンが来航して日ロ国境の確定を要求したことをきっかけに、幕府内で再び緊張感が高まった。さらに安政元年(1854年)に締結された『日米和親条約』によって箱館開港が了承された[186]。こうした状況から安政2年(1855年)に再び蝦夷地が幕領化(第二次)される事となった[187]。国境問題では、サハリン全島の領有権を主張するロシアに対し、幕府はアイヌを日本の領民と位置付け、アイヌの居住地域を日本領と主張して交渉に臨んだ[188]。この方針から、第二次幕領期でもアイヌの風俗を和風化する同化政策が推進されたが、アイヌの抵抗もあって箱館奉行も頭髪など一部に寛容な態度を取るようになった。またアイヌにも種痘の接種に協力する首長や、幕府が奨励する農業で成果を挙げるものも居て、アイヌと和人との新しい関係が模索されていた[183]。なお、場所請負制は明治2年(1869年)に廃止された[189]

近代以降

日本が近代化の道を歩む中で北海道は日本の領土となり、先住民であるアイヌは自主的な要求がないままに日本国民に編入された。それと共に民族的な偏見に基づくアイヌへの同化政策が行われ、資本主義と近代化への変化を強要された。そのような社会はアイヌ文化の著しい衰退を招くとともに、アイヌに対する未開のイメージを増幅し、潜在化された差別を再生産することになった[189][190]

開拓政策とアイヌ

サハリンの日ロ国境の問題は、安政元年(1854年)の『日露通好条約』により一旦棚上げされ、明治政府へと引き継がれた。クリミア戦争で敗退したロシアは、宿願である不凍港からの太平洋進出を画策し、清国に北東アジアの領土を割譲させてウラジオストクを建設し、サハリンでの支配強化を進めた。そして日露間で1875年に『樺太・千島交換条約』が締結された。この際、交換される領土の日ロ両国民は国籍を有したまま定住する権利が認められたが、先住民であるアイヌらにはこの特権が認められず、国籍維持のために移住を余儀なくされた[189][191]

樺太南部に住むアイヌのうち841人は、1875年に対岸の宗谷郡に移住させられた。さらに翌年には石狩川下流の対雁(現在の江別市)へと再移住させられて、本来の生業である漁業ではなく農業を強いられた。移住による環境の変化は病死者を生み、1879年から20年間余りで380名余りが死亡した。1905年に日露戦争に勝利した日本に南樺太が割譲されると、彼らは殆ど元の土地に帰還した[189][192]。千島列島の占守島に住む106人の千島アイヌのうち97人は日本国籍となり、1884年に南千島の色丹島へ移住させられた[189]。色丹島では農業・漁業・放牧に従事させたがいずれもうまくいかず、1899年までに63人が死亡した。1897年には、移住した千島アイヌに北千島における海獣狩猟が認められたが、海獣も激減しており生活は改善しなかった。その後、日本人移住者との混血も進み、千島アイヌは四散した[193][189]

北海道本島においても政府は開拓のテコ入れとして和人への土地の払い下げを行い、移住を推進した[194]。その結果、本島でもアイヌの強制移住が行われた。これらの強制移住で造られたコタンを強制コタンという[189]。移住したアイヌは農業を強要されたが、地理的な条件などもあり農業生活に転換することができたのは比較的恵まれた条件に移住した人々に限られた[195]。さらに狩猟や漁撈の場所を奪われたアイヌは、自然災害も重なって1884年には餓死者を多数出すまで生活が追いやられた[189][196]。また栄養不足で体力が低下したところに、和人との接触によってもたらされた肺結核などが蔓延した[197]

その他アイヌに関連が強い政策としては、同化政策が挙げられる。明治4年(1871年)に戸籍法が制定されると、アイヌは日本国民の平民に編入されるが[189][198]、いっぽうで官庁によるアイヌの呼称を「旧土人」に定め、皇民化を図った。例えば戸籍の登録にあたっては和風姓氏が強要され、女性の入墨や男性の耳輪が禁止された[189][199]

北海道旧土人保護法から先住民族アイヌへ

このような状況から、政界からも開拓によってアイヌの生活が圧迫されている事に懸念が表明されるようになる。1893年と1895年には、一部の議員から『土人保護法案』が提出される。保護法案はこの時は可決されなかったが、日清戦争後に政府は保護法案を提出し、1899年に『北海道旧土人保護法』が制定された。政府が政策を推進した背景には、少数民族保護の姿勢を見せて国際社会に近代国家としてアピールしたい思惑もあったと考えられている[200][201]。保護法は「勧農・医療・教育」の3つの方針により、農業に従事するアイヌへの土地の無償下付、困窮するアイヌへの薬代の支給、初等教育が実施された。しかし、このアイヌ保護の方針には多くの問題点があった事が指摘されている。例えばアイヌへの給与地は相続以外の譲渡はもちろん、質権・抵当権・地上権などを設定することも禁じられており、実質的な所有権とは程遠いものであった[200][202]。また教育は和人と別学とされ、土人学校で特別なカリキュラムによって行われた[200][203]

こうした状況からアイヌは自覚的に差別撤回運動を展開するようになる。違星北斗バチェラー八重子らの文学的な活動はアイヌの民族意識を触発し[204]、1930年には十勝旭明社を母胎として北海道アイヌ協会の設立[205]、1931年には全道アイヌ青年大会の開催[206]、1932年の全道アイヌ代表者会議の開催などの組織的運動へと発展した[207]

太平洋戦争後には、日本の民主化とともにアイヌの解放に対する期待も高まり[208]新冠御料牧場解放運動などが展開された[209]。しかし1968年の北海道百年記念事業では行政をはじめとして和人中心の歴史認識(開拓史観)が根強く存在することが明らかになり[210]、これをきっかけに1970年代からアイヌの解放運動が積極的に行われるようになる[211]。1977年には成田得平がアイヌとして初めて国政選挙の立候補者となり[211]、1982年からは明治時代から存続していた『北海道旧土人保護法』の撤廃と、これに替わるアイヌ新法の制定運動が展開された[212]

こうした努力により、1997年に『北海道旧土人保護法』の廃止と『アイヌ文化振興法』の制定に至った。また二風谷ダム建設差し止め訴訟でのアイヌ民族の文化享有権を認める判決や『アイヌ施策推進法』など、法と判決の両面でアイヌの先住民の地位と文化の実在が再確認されることとなった[213]。その後、アイヌ文化の保護を目的とした取り組みを国・自治体で推進しており、前述のアイヌ施策推進法に基づいて策定された地域計画に対して政府が交付金を支給している[214]

脚注

注釈

  1. ^ イノシシは北海道に生息しておらず、東北北部から持ち込まれた。イノシシは単なる食用ではなく、本州と同様にイノシシを用いた祭祀が行われていたと考えられている[13]
  2. ^ 飼いグマを用いた儀礼は、道内とサハリンからアムール川下流域までというアイヌと交流があった範囲にしか存在しない風習である。その起源については「続縄文文化説」と「オホーツク文化説」があるが[24]、続縄文のクマの頭部彫刻は続縄文文化説を補強する遺物とされている[23]。オホーツク文化説については#オホーツク文化期を参照。
  3. ^ 『日本書紀』斉明天皇5年(659年)条の高麗画師子麻呂が官からヒグマの毛皮70枚を借りた記述など[30]
  4. ^ アワヒエソバキビコムギオオムギなどが確認されている[39]。また鉄製の農具も確認されている[40]
  5. ^ 石狩低地帯に分布する末期古墳の一種。8世紀前半から9世紀前半までに築造され、東北北部と同じ埋め込み式木棺が特徴。小樽市蘭島遺跡、恵庭市西島松5遺跡、千歳市ユカンボシC15遺跡など[41][42]
  6. ^ 例えば、カムイは神に、カムイノミは「のみ」(拝む)に、「オンカミ」(礼拝)は「拝み」に、ヌサ(祭壇)は幣に、シト(供物にする団子)は粢(しとぎ)に通じる[44]
  7. ^ 近世アイヌでもアワビは主要な交易品であったが、アワビを主体とする貝塚は擦文時代まで遡る[49]。この他に本州に送られた産品として『御堂関白記』『源氏物語』に「ふるきのかわぎぬ」の名で登場するクロテンの毛皮や[50][51]、後述するオオワシの矢羽根が挙げられる。
  8. ^ 精神的側面としては、アイヌ文学に記される信仰・世界観ではカムイシサムが交易相手として描かれている(→イオマンテ[55]
  9. ^ 本州側の史料で、10世紀ごろから道産のオオワシの矢羽根が珍重されたことが分かる[57]
  10. ^ 例えば、アイヌ語ではカㇺタチだが、上代日本語で麹は「かむたち」である[60]
  11. ^ 両者が混同されることからアイヌ文化に替わる時代区分を提案する研究者もいる。例えば瀬川は「ニブタニ時代」に改めることを提案している[1]。詳細はアイヌ史の時代区分を参照。
  12. ^ クイ。中国の史料にみえるアイヌの呼称で、ニヴフ語でアイヌを意味するkuyiに漢字を充てた語[75]
  13. ^ この時期を記した『国朝文類』の果夥(クオフオ)という拠点の地名は、サハリン南端西能登呂岬白主土城とする説がある[75]
  14. ^ 安東氏の出自は明らかではないが、津軽に居住する擦文文化の集団とする説がある[87]
  15. ^ 北海動乱については史実性を疑う意見もあったが、様々な傍証によって確実視されるようになっている[96]
  16. ^ 例えば十二館のうち原口館とされていた遺跡は、1992年の発掘調査により擦文時代の遺跡と判明している。また今後の調査次第では『新羅之記録』に記されていない新たな館の発見も期待されている[98]
  17. ^ 読みをオランカイとし、女真族とする説がある[81]
  18. ^ 安藤政季説、蠣崎氏説、アイヌ首長説のほか、宗氏による偽使とする説もある[111]
  19. ^ 「宝を与える」とあるが、アイヌ社会には敗者が勝者に宝を差し出す風習があり、これに則れば蠣崎氏は敗者の礼を取っていたことになる[121]
  20. ^ 一方で中村は、天文20年からを移行期と位置付け、北海道アイヌが商場知行制の成立した寛永期、樺太アイヌが清朝の辺民に編入された雍正10年(1732年)、千島アイヌがロシア人に貢納を行うようになった明和5年(1768年)、本州アイヌが消滅した宝暦6年(1756年)にそれぞれ近世が始まったとしている[71]
  21. ^ 蠣崎慶広は、秀吉に蝦夷交易の利権を安堵してもらうために九戸政実の乱に自主的に参陣するが、この際に慶広・政実双方がアイヌを引き連れていたことが記録されている[129]
  22. ^ 例えば家康の黒印状は、交易の方針を示した法度(法律)である。黒印状では和人の商人に対し松前氏を通さない交易が禁じられ、松前氏にアイヌに非分を行う和人の取締りが認められているが、アイヌについては「どこにいっても自由」と付記されており、アイヌは松前以外(大陸・千島列島・サハリン)にも渡航して交易する自由が認められていた[131][132][133]。また黒印状は本領を安堵するものではなく、松前藩は領地を持たない無高大名(もしくは武装商人)で蝦夷地は異域(アイヌの土地)であった[134][135][132]
  23. ^ 津軽藩の調査によると、米とサケの交換比率はアイヌ側からみて2割から3割の値上げが行われていた[140]
  24. ^ 和人地については、寛永10年(1633年)に幕府巡検使が来島して和人地を西は乙部、東は石崎(函館市)までと定め、それ以外の土地はアイヌの住む蝦夷地と設定された。この和人地は徐々に拡大し、元禄13年(1700年)には西は熊石村の北にあるほろむい村、東は汐首村(函館市)まで及んだ[144][137]。当初はアイヌと和人の往来は可能で、和人を娶るアイヌも居た。しかし天和2年(1682年)の朱印状によって、アイヌの自由な往来は商場に限定されるように定められた[71][145]
  25. ^ 幕府直轄の長崎に加え、特定の藩(琉球薩摩藩朝鮮対馬藩・蝦夷地と松前藩)を対外窓口として行われた近世の交易体制を日本型華夷秩序という[141]
  26. ^ 清の通貨はサハリンのニヴフ社会でも流通していた事が明らかになっているが、樺太アイヌまで及んでいるかは不明である[71]
  27. ^ 松前藩が樺太アイヌの一部が清朝の辺民に組み込まれていることに気が付くのは安永7年(1778年)である[160]。宗谷の商場でナヨロの首長ヨーチテアイノに出会った松前藩士は、彼が幼いころに人質として清に預けられ、戻る際に「楊忠貞」という名を与えられていたことを知るが、特に関心を持たなかった[155][160]
  28. ^ 幕府によって整理されたアイヌの借財は貂皮5047枚分で、その代金は136両1分と記録されている[168]
  29. ^ 千島アイヌを19世紀後半に調査した鳥居龍蔵は、ロシア正教会を受け入れ、ロシア風の衣装を着て、ロシア名を名乗っているが、言葉・風俗・生業は古来のアイヌ文化を残すと記録している[171]
  30. ^ 出島オランダ商館長アルメナウトは、カムチャツカで反乱を起こしマカオに向かう途中だったベニョフスキーに接触し、その内容を幕府に報告していた[175]
  31. ^ 幕領化に抵抗する松前藩は蝦夷地を先祖代々の領地と主張するが、幕府は松前藩は蝦夷地の取次に過ぎないとして、これを一蹴している[124]
  32. ^ 新たに1国を興すつもりで費用を度外視して開発を進めることを指す[177]

出典

  1. ^ a b c d 瀬川拓郎 2016, pp. 144–146.
  2. ^ 瀬川拓郎 2016, pp. 40–43.
  3. ^ a b 榎森進 2001, pp. 28–32.
  4. ^ 蓑島栄紀 2011, pp. 7–8.
  5. ^ 蓑島栄紀 2014, pp. 12–13.
  6. ^ 蓑島栄紀 2014, p. 29.
  7. ^ a b 瀬川拓郎 2016, pp. 28–30.
  8. ^ 田端宏ほか 2010, pp. 16–17.
  9. ^ 瀬川拓郎 2016, pp. 31–32.
  10. ^ a b c 瀬川拓郎 2016, pp. 75–77.
  11. ^ 田端宏ほか 2010, pp. 21–23.
  12. ^ 瀬川拓郎 2016, pp. 32–34.
  13. ^ a b 瀬川拓郎 2016, pp. 34–37.
  14. ^ a b c d e f g h i 蓑島栄紀 2014, pp. 13–17.
  15. ^ a b 瀬川拓郎 2016, pp. 64–65.
  16. ^ 田端宏ほか 2010, pp. 23–36.
  17. ^ a b 瀬川拓郎 2016, pp. 10–12.
  18. ^ a b 瀬川拓郎 2016, pp. 67–68.
  19. ^ a b 瀬川拓郎 2016, pp. 70–72.
  20. ^ a b 瀬川拓郎 2016, pp. 72–74.
  21. ^ 瀬川拓郎 2016, pp. 68–70.
  22. ^ a b 田端宏ほか 2010, pp. 23–26.
  23. ^ a b 瀬川拓郎 2016, pp. 79–82.
  24. ^ 瀬川拓郎 2016, pp. 77–79.
  25. ^ 蓑島栄紀 2014, pp. 17–18.
  26. ^ 瀬川拓郎 2016, p. 82-84.
  27. ^ a b c 瀬川拓郎 2016, pp. 84–86.
  28. ^ 児島恭子 2009, pp. 52–53.
  29. ^ 瀬川拓郎 2016, pp. 82–84.
  30. ^ a b 瀬川拓郎 2016, pp. 102–104.
  31. ^ 瀬川拓郎 2016, pp. 99–102.
  32. ^ 瀬川拓郎 2016, pp. 97–99.
  33. ^ a b c d e 蓑島栄紀 2014, pp. 18–21.
  34. ^ a b 田端宏ほか 2010, pp. 36–38.
  35. ^ a b 榎森進 2001, pp. 35–40.
  36. ^ a b c 瀬川拓郎 2016, pp. 92–94.
  37. ^ a b 瀬川拓郎 2016, pp. 95–97.
  38. ^ 瀬川拓郎 2016, p. 92-94.
  39. ^ a b 榎森進 2001, pp. 33–35.
  40. ^ 榎森進 2007, pp. 20–22.
  41. ^ 藤沢敦 2009, pp. 449–455.
  42. ^ a b 田端宏ほか 2010, pp. 31–34.
  43. ^ a b c 瀬川拓郎 2016, pp. 107–110.
  44. ^ 瀬川拓郎 2015, pp. 223-224.
  45. ^ a b 瀬川拓郎 2016, pp. 110–112.
  46. ^ a b c d e f 瀬川拓郎 2016, pp. 117–120.
  47. ^ 瀬川拓郎 2016, pp. 112–115.
  48. ^ 瀬川拓郎 2016, pp. 115–117.
  49. ^ a b 瀬川拓郎 2016, pp. 120–124.
  50. ^ 東アジアにおけるクロテンの皮衣 大舘大學
  51. ^ a b c d 蓑島栄紀 2014, pp. 22–23.
  52. ^ 瀬川拓郎 2016, pp. 126–129.
  53. ^ 瀬川拓郎 2016, pp. 106–107.
  54. ^ a b c d 瀬川拓郎 2016, pp. 129–133.
  55. ^ a b c 蓑島栄紀 2014, pp. 23–25.
  56. ^ a b 田端宏ほか 2010, pp. 34–36.
  57. ^ a b 瀬川拓郎 2016, pp. 124–126.
  58. ^ a b c d e f 瀬川拓郎 2016, pp. 133–136.
  59. ^ a b 蓑島栄紀 2014, pp. 25–28.
  60. ^ 瀬川拓郎 2019, pp. 81.
  61. ^ 瀬川拓郎 2016, pp. 136–138.
  62. ^ a b 榎森進 2001, pp. 40–45.
  63. ^ 瀬川拓郎 2016, pp. 141–142.
  64. ^ 瀬川拓郎 2016, pp. 169–172.
  65. ^ a b 瀬川拓郎 2016, pp. 147–149.
  66. ^ a b c d e f 瀬川拓郎 2016, pp. 156–159.
  67. ^ a b 田端宏ほか 2010, pp. 38–40.
  68. ^ 榎森進 2001, pp. 57–59.
  69. ^ 田端宏ほか 2010, pp. 44–48.
  70. ^ a b c 瀬川拓郎 2016, pp. 149–152.
  71. ^ a b c d e f g h i j k 中村和之 2014, pp. 131–135.
  72. ^ 中村和之 2014, pp. 117–120.
  73. ^ a b c 榎森進 2001, pp. 101–107.
  74. ^ 関根達人 2004, pp. 11–15.
  75. ^ a b c d 中村和之 2014, pp. 120–122.
  76. ^ a b 榎森進 2001, pp. 45–52.
  77. ^ a b c d 佐々木史郎 2008, pp. 55–58.
  78. ^ a b 中村和之 2014, pp. 122–126.
  79. ^ a b 榎森進 2001, pp. 52–56.
  80. ^ 中村和之 2014, pp. 127–129.
  81. ^ a b c 中村和之 2014, pp. 129–131.
  82. ^ 新藤透 2016, pp. 20–22.
  83. ^ 田端宏ほか 2010, pp. 48–49.
  84. ^ 新藤透 2016, pp. 34–36.
  85. ^ 田端宏ほか 2010, pp. 49–52.
  86. ^ 榎森進 2007, pp. 67–71.
  87. ^ 田端宏ほか 2010, pp. 56–58.
  88. ^ 新藤透 2016, pp. 37–39.
  89. ^ 榎森進 2007, pp. 61–67.
  90. ^ 新藤透 2016, pp. 40–42.
  91. ^ 中村和之 2014, pp. 122–125.
  92. ^ 新藤透 2016, pp. 22–23.
  93. ^ 瀬川拓郎 2016, pp. 152–154.
  94. ^ 新藤透 2016, pp. 27–28.
  95. ^ 田端宏ほか 2010, pp. 52–54.
  96. ^ a b 新藤透 2016, p. 51.
  97. ^ 新藤透 2016, pp. 51–54.
  98. ^ a b 新藤透 2016, pp. 85–88.
  99. ^ 新藤透 2016, pp. 88–91.
  100. ^ 新藤透 2016, pp. 46–48.
  101. ^ 新藤透 2016, pp. 54–55.
  102. ^ 新藤透 2016, pp. 57–58.
  103. ^ a b 新藤透 2016, pp. 59–60.
  104. ^ 榎森進 2007, pp. 121–125.
  105. ^ 新藤透 2016.
  106. ^ 田端宏ほか 2010, pp. 58–61.
  107. ^ 新藤透 2016, pp. 91–94.
  108. ^ 新藤透 2016, pp. 96–99.
  109. ^ 新藤透 2016, pp. 94–96.
  110. ^ 入間田宣夫 2001, pp. 155–162.
  111. ^ a b 新藤透 2016, pp. 62–63.
  112. ^ a b 田端宏ほか 2010, pp. 64–65.
  113. ^ a b 児島恭子 2009, pp. 92–93.
  114. ^ 長節子 2002, pp. 177–182.
  115. ^ 新藤透 2016, pp. 103–105.
  116. ^ 新藤透 2016, pp. 112–114.
  117. ^ 新藤透 2016, pp. 124–125.
  118. ^ 新藤透 2016, pp. 121–123.
  119. ^ 田端宏ほか 2010, pp. 63–68.
  120. ^ 新藤透 2016, pp. 136–137.
  121. ^ a b 新藤透 2016, pp. 137–143.
  122. ^ 谷本晃久 2011, pp. 44–45.
  123. ^ 榎森進 2007, pp. 209–210.
  124. ^ a b 榎森進 2007, pp. 304–306.
  125. ^ 榎森進 2007, pp. 346–351.
  126. ^ 田端宏ほか 2010, pp. 95–98.
  127. ^ 瀬川拓郎 2016, pp. 154–156.
  128. ^ 榎森進 2007, pp. 145–147.
  129. ^ 新藤透 2016, pp. 177–180.
  130. ^ 新藤透 2016, pp. 184–185.
  131. ^ 新藤透 2016, pp. 193–197.
  132. ^ a b 田端宏ほか 2010, pp. 73–77.
  133. ^ 谷本晃久 2011, pp. 50–51.
  134. ^ 新藤透 2016, pp. 191–193.
  135. ^ 新藤透 2016, pp. 197–198.
  136. ^ a b c 新藤透 2016, pp. 202–205.
  137. ^ a b c d 田端宏ほか 2010, pp. 77–80.
  138. ^ 児島恭子 2009, pp. 139–140.
  139. ^ a b 新藤透 2016, pp. 228–229.
  140. ^ a b c d 田端宏ほか 2010, pp. 84–87.
  141. ^ a b 榎森進 2001, pp. 92–97.
  142. ^ 新藤透 2016, pp. 227–228.
  143. ^ 新藤透 2016, pp. 231–232.
  144. ^ 新藤透 2016, pp. 222–224.
  145. ^ 田端宏ほか 2010, pp. 80–84.
  146. ^ 新藤透 2016, pp. 232–233.
  147. ^ a b 新藤透 2016, pp. 240–243.
  148. ^ a b 榎森進 2001, pp. 97–100.
  149. ^ 田端宏ほか 2010, pp. 87–90.
  150. ^ 新藤透 2016, pp. 239–240.
  151. ^ 田端宏ほか 2010, pp. 104–106.
  152. ^ a b 田端宏ほか 2010, pp. 125–128.
  153. ^ 児島恭子 2009, pp. 140–142.
  154. ^ 田端宏ほか 2010, p. 114.
  155. ^ a b c d e f g h 中村和之ほか 2008, pp. 41–44.
  156. ^ 榎森進 2007, pp. 315–318.
  157. ^ 松浦茂 2004, pp. 105–106.
  158. ^ a b c 佐々木史郎 2008, pp. 58–64.
  159. ^ 榎森進 2007, pp. 318–323.
  160. ^ a b 榎森進 2007, pp. 325–327.
  161. ^ a b 榎森進 2007, pp. 331–338.
  162. ^ 松浦茂 2004, pp. 185–186.
  163. ^ a b c 榎森進 2007, pp. 309–315.
  164. ^ 松浦茂 2004, pp. 368–369.
  165. ^ a b 佐々木史郎 2008, pp. 70–74.
  166. ^ 松浦茂 2004, pp. 312–313.
  167. ^ a b c 佐々木史郎 2008, pp. 64–69.
  168. ^ 榎森進 2007, pp. 343–346.
  169. ^ 秋月俊幸 2010, pp. 33–37.
  170. ^ 秋月俊幸 2010, pp. 37–45.
  171. ^ a b 秋月俊幸 2010, pp. 9–14.
  172. ^ 秋月俊幸 2010, pp. 61–64.
  173. ^ 秋月俊幸 2010, pp. 50–61.
  174. ^ 田端宏ほか 2010, pp. 120–123.
  175. ^ 秋月俊幸 2010, pp. 74–77.
  176. ^ 田端宏ほか 2010, pp. 123–125.
  177. ^ a b c 田端宏ほか 2010, pp. 128–133.
  178. ^ a b 秋月俊幸 2010, pp. 125–135.
  179. ^ a b 榎森進 2007, pp. 306–308.
  180. ^ 田端宏ほか 2010, pp. 133–137.
  181. ^ 田端宏ほか 2010, pp. 137–141.
  182. ^ 榎森進 2007, p. 309.
  183. ^ a b c 田端宏ほか 2010, pp. 161–165.
  184. ^ 榎森進 2007, pp. 362–364.
  185. ^ 榎森進 2007, pp. 364–368.
  186. ^ 田端宏ほか 2010, pp. 148–150.
  187. ^ 田端宏ほか 2010, pp. 150–154.
  188. ^ 上村英明 2000, pp. 57–65.
  189. ^ a b c d e f g h i j 田端宏ほか 2010, pp. 191–195.
  190. ^ 榎森進 2007, pp. 376–378.
  191. ^ 榎森進 2007, pp. 402–405.
  192. ^ 榎森進 2007, pp. 408–412.
  193. ^ 秋月俊幸 2010, pp. 222–231.
  194. ^ 榎森進 2007, pp. 423–424.
  195. ^ 榎森進 2007, pp. 424–428.
  196. ^ 榎森進 2007, pp. 394–396.
  197. ^ 榎森進 2007, pp. 428–430.
  198. ^ 榎森進 2007, pp. 388–389.
  199. ^ 榎森進 2007, pp. 389–390.
  200. ^ a b c 田端宏ほか 2010, pp. 227–231.
  201. ^ 榎森進 2007, pp. 447–451.
  202. ^ 榎森進 2007, pp. 442–444.
  203. ^ 榎森進 2007, pp. 444–447.
  204. ^ 榎森進 2007, pp. 472–474.
  205. ^ 榎森進 2007, pp. 474–476.
  206. ^ 榎森進 2007, pp. 479–481.
  207. ^ 榎森進 2007, pp. 496–498.
  208. ^ 榎森進 2007, pp. 506–508.
  209. ^ 榎森進 2007, pp. 512–514.
  210. ^ 榎森進 2007, pp. 524–526.
  211. ^ a b 榎森進 2007, pp. 540–545.
  212. ^ 榎森進 2007, pp. 562–565.
  213. ^ 田端宏ほか 2010, pp. 326–330.
  214. ^ アイヌ政策推進交付金 総括調査票”. 財務省. 2023年4月27日閲覧。

参考文献

書籍

  • 秋月俊幸『千島列島をめぐる日本とロシア』北海道大学出版、2010年。ISBN 978-4-8329-3386-6 
  • 榎森進『アイヌ民族の歴史』草風館、2007年。ISBN 978-4-88323-171-3 
  • 長節子『中世国境海域の倭と朝鮮』吉川弘文館、2002年。ISBN 4-642-02802-1 
  • 児島恭子『エミシ・エゾからアイヌへ』吉川弘文館、2009年。ISBN 978-4-642-05673-1 
  • 新藤透『北海道戦国史と松前氏』洋泉社、2016年。ISBN 978-4-8003-0681-4 
  • 瀬川拓郎『アイヌ学入門』 2304巻、講談社〈講談社現代新書〉、2015年。ISBN 978-4062883047 
  • 瀬川拓郎『アイヌと縄文-もうひとつの日本の歴史』 1169巻、筑摩書房〈ちくま新書〉、2016年。ISBN 978-4-480-06873-6 
  • 瀬川拓郎『1時間でわかるアイヌの文化と歴史』宝島社〈宝島社新書〉、2019年。ISBN 978-4800293824 
  • 田端宏桑原真人船津功関口明『北海道の歴史』 第2版、山川出版社〈県史 1〉、2010年。ISBN 978-4-634-32011-6 
  • 榎森進、小口雅史、澤登寛聡 編『北東アジアのなかのアイヌ世界-アイヌ文化の成立と変容』 下、岩田書院、2008年。ISBN 978-4-87294-532-4 
    • 中村和之、小田寛貴『蝦夷錦と北のシルクロード』。 
    • 佐々木史郎『東アジアの歴史世界におけるアイヌの役割』。 
  • 『アイヌ史を問いなおす-生態・交流・文化継承』 139巻、勉誠出版〈アジア遊学〉、2011年。 
    • 蓑島栄紀『アイヌ史を問いなおす』。 
    • 谷本晃久『アイヌ史的近世をめぐって-アイヌ史の可能性、再考』。 

論文など

  • 上村英明(著)、明治学院大学国際平和研究所(編)「「北海道」・「沖縄」の植民地化とその国際法の論理-アジアにおける「先住民族」形成の一事例」『PRIME』第12巻、明治学院大学国際平和研究所、2000年、NAID 40005050706 
  • 関根達人(著)、青森県文化財保護協会(編)「副葬品からみたアイヌの歴史と文化-本州アイヌを視野に入れて」『東奥文化』第75巻、2004年、NAID 120001331241 
  • 藤沢敦(著)、国立歴史民俗博物館(編)「墳墓から見た古代の本州島北部と北海道」『国立歴史民俗博物館研究報告』第152巻、ぎょうせい、2009年、doi:10.15024/00001719 
  • 松浦茂「清朝のアムール政策と少数民族」、京都大学、2004年。 

関連項目