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'''世襲貴族'''(せしゅうきぞく、{{Lang-en|hereditary peer}})とは、[[爵位]]を[[世襲]]できる[[イギリス]]の[[貴族]]のことである。
[[File:Blenheim Palace, Viewed from the Garden - geograph.org.uk - 211695.jpg|250px|thumb|[[マールバラ公爵]][[スペンサー家|スペンサー=チャーチル家]]の邸宅[[ブレナム宮殿]]]]
'''世襲貴族'''({{Lang-en|hereditary peer}})とは、爵位を世襲できるイギリスの[[貴族]]のことである。


イギリスでは[[一代貴族]]、[[法服貴族]]、[[聖職貴族]]など非世襲の貴族が存在するため、それと区別するための分類である{{Sfn|田中亮三|2009|p=59}}。2021年11月現在総計809家の世襲貴族家が存在する。内訳は[[公爵]]家30家(うち王族公爵が6家)、[[侯爵]]家が34家、[[伯爵]]家が191家、[[子爵]]家が111家、[[男爵]]家が443家である。
イギリスでは[[一代貴族]]、[[法律貴族|法服貴族]]、[[聖職貴族]]など非世襲の貴族が存在するため、それと区別するための分類である{{Sfn|田中亮三|2009|p=59}}。2021年11月現在総計809家の世襲貴族家が存在する。内訳は[[公爵]]家30家(うち王族公爵が6家)、[[侯爵]]家が34家、[[伯爵]]家が191家、[[子爵]]家が111家、[[男爵]]家が443家である。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
[[File:Chatsworth main hallway.jpg|180px|thumb|[[デヴォンシャー公爵]]キャヴェンディッシュ家の邸宅[[チャッツワース・ハウス]]のメインホール]]
=== 黎明期の貴族制度 ===
=== 黎明期の貴族制度 ===
{{multiple image|footer=征服王[[ウィリアム1世_(イングランド王)|ウィリアム1世]]は[[伯爵]]の貴族称号を制度化した。右は伯爵の位階を示す[[コロネット]]。|align=|caption_align=center|total_width=290|image1=King_William_I_(%27The_Conqueror%27)_from_NPG.jpg|caption1=|image2=Coronet_EarlOfDevon_PowderhamCastle.jpg|caption2=}}

[[エドワード懺悔王]](<small>在位:[[1042年]] - [[1066年]]</small>)の代にはすでに貴族の爵位の原型があったようである。エドワード懺悔王はイングランドを四分割して、それぞれを治める豪族に[[デーン人]]が使っていた称号"Eorl"を与えたという。ただこの頃には位階や称号が曖昧だった{{Sfn|森護|1987|p=2}}。
[[エドワード懺悔王]](<small>在位:[[1042年]] - [[1066年]]</small>)の代にはすでに貴族の爵位の原型があったようである。エドワード懺悔王はイングランドを四分割して、それぞれを治める豪族に[[デーン人]]が使っていた称号"Eorl"を与えたという。ただこの頃には位階や称号が曖昧だった{{Sfn|森護|1987|p=2}}。


確固たる貴族制度をイングランドに最初に築いた王は[[ウィリアム1世 (イングランド王)|征服王ウィリアム1世]](<small>在位:[[1066年]] - [[1087年]]</small>)である。彼はもともとフランスの[[ノルマンディー公]]であったがエドワード懺悔王の崩御後、イングランド王位継承権を主張して[[1066年]]にイングランドを征服し、イングランド王位に就いた([[ノルマン・コンクエスト]])。重用した臣下もフランスから連れて来た[[ノルマン人]]だったため、大陸にあった貴族の爵位制度がイングランドにも持ち込まれた{{Sfn|小林章夫|1991|p=16-17}}。
確固たる貴族制度をイングランドに最初に築いた王は[[ウィリアム1世 (イングランド王)|征服王ウィリアム1世]](<small>在位:[[1066年]] - [[1087年]]</small>)である。彼はもともとフランスの[[ノルマンディー公]]であったがエドワード懺悔王の崩御後、イングランド王位継承権を主張して[[1066年]]にイングランドを征服し、イングランド王位に就いた([[ノルマン・コンクエスト]])。重用した臣下もフランスから連れて来た[[ノルマン人]]だったため、大陸にあった貴族の爵位制度がイングランドにも持ち込まれた{{Sfn|小林章夫|1991|p=16-17}}。


[[File:Chatsworth House, Dining room.jpg|250px|thumb|left|チャッツワースハウスのダイニングルーム]]
ウィリアム1世によって最初に制度化された貴族称号は[[伯爵]](Earl)であり、[[1072年]]にウィリアム1世の甥にあたる{{仮リンク|ヒュー・ド・アブランシュ (初代チェスター伯爵)|label=ヒュー|en|Hugh d'Avranches, 1st Earl of Chester}}に与えられた[[チェスター伯爵]](Earl of Chester)がその最初の物である{{#tag:ref|ヒューの子孫は1237年に絶え、チェスター伯爵位も一時途絶えたが、[[1254年]]に[[ヘンリー3世 (イングランド王)|ヘンリー3世]](<small>在位:[[1216年]] - [[1272年]]</small>)が皇太子エドワード([[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]])に与えて以降、現在に至るまでイングランド・イギリス皇太子に継承される称号となっている{{Sfn|森護|1987|p=3}}。最古参の爵位としてチェスター伯爵位は別格であり、同じくイギリス皇太子の称号である[[コーンウォール公爵]]位よりも上位に書かれる{{Sfn|森護|1987|p=4}}。|group=注釈}}。伯爵は大陸では"Count"と呼ぶが、イングランドに導入するにあたってウィリアム1世は、エドワード懺悔王時代の"Eorl"を意識して"Earl"とした。ところが伯爵夫人たちには"Earless"ではなく大陸と同じ"Countess"の称号を与えた。これは現在に至るまでこういう表記であり、伯爵だけ夫と妻で称号がバラバラになっている{{Sfn|森護|1987|p=2}}{{Sfn|小林章夫|1991|p=17}}。
ウィリアム1世によって最初に制度化された貴族称号は[[伯爵]](Earl)であり、[[1072年]]にウィリアム1世の甥にあたる{{仮リンク|ヒュー・ド・アブランシュ (初代チェスター伯爵)|label=ヒュー|en|Hugh d'Avranches, 1st Earl of Chester}}に与えられた[[チェスター伯爵]](Earl of Chester)がその最初の物である{{#tag:ref|ヒューの子孫は1237年に絶え、チェスター伯爵位も一時途絶えたが、[[1254年]]に[[ヘンリー3世 (イングランド王)|ヘンリー3世]](<small>在位:[[1216年]] - [[1272年]]</small>)が皇太子エドワード([[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]])に与えて以降、現在に至るまでイングランド・イギリス皇太子に継承される称号となっている{{Sfn|森護|1987|p=3}}。最古参の爵位としてチェスター伯爵位は別格であり、同じくイギリス皇太子の称号である[[コーンウォール公爵]]位よりも上位に書かれる{{Sfn|森護|1987|p=4}}。|group=注釈}}。伯爵は大陸では"Count"と呼ぶが、イングランドに導入するにあたってウィリアム1世は、エドワード懺悔王時代の"Eorl"を意識して"Earl"とした。ところが伯爵夫人たちには"Earless"ではなく大陸と同じ"Countess"の称号を与えた。これは現在に至るまでこういう表記であり、伯爵だけ夫と妻で称号がバラバラになっている{{Sfn|森護|1987|p=2}}{{Sfn|小林章夫|1991|p=17}}。


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=== 勅許状による貴族制度の成立 ===
=== 勅許状による貴族制度の成立 ===
{{multiple image|footer=伯爵位叙爵を認める勅許状。廷臣{{仮リンク|ジェイムズ・バーティ (初代アビンドン伯爵)|label=ジェイムズ・バーティ|en|James_Bertie,_1st_Earl_of_Abingdon}}(右)はこの勅許状授与を経て[[アビンドン伯爵]]位を得た。|align=|caption_align=center|total_width=290|image1=Deed.jpg|caption1=|image2=James_Bertie,_1st_Earl_of_Abingdon_(1653-1699)_by_Godfrey_Kneller.jpg|caption2=}}しかしヨーロッパ大陸から輸入された[[公爵]](Duke)、侯爵(Marquess)、[[子爵]](Viscount)が貴族領の有無・大小と関わりなく[[特許状|勅許状]](Letters patent)によって与えられる貴族称号として登場してくると、Baronも所領保有の有無にかかわらず勅許状によって与えられる最下位の貴族称号(「男爵」と訳される性質の物)へと変化した{{Sfn|近藤申一|1970|p=164}}{{sfn|中村英勝|1959|p=51}}。国王勅許状による称号としての男爵(Baron)位を最初に受けたのは[[1387年]]にキッダーミンスター男爵(Baron of Kidderminster)に叙された{{仮リンク|ジョン・ド・ビーチャム (初代ビーチャム男爵)|label=ジョン・ド・ビーチャム|en|John de Beauchamp, 1st Baron Beauchamp (fourth creation)}}である{{Sfn|近藤申一|1970|p=164}}。勅許状による貴族称号には議会出席権が付随しており、国王の議会召集令状を受けなくても議会に出席できる{{Sfn|近藤申一|1970|p=164}}。
[[File:Hatfield House - July 2013 (9225083678).jpg|250px|thumb|[[ソールズベリー侯爵]][[セシル家]]の邸宅[[ハットフィールド・ハウス]]]]
しかしヨーロッパ大陸から輸入された[[公爵]](Duke)、侯爵(Marquess)、[[子爵]](Viscount)が貴族領の有無・大小と関わりなく[[特許状|勅許状]](Letters patent)によって与えられる貴族称号として登場してくると、Baronも所領保有の有無にかかわらず勅許状によって与えられる最下位の貴族称号(「男爵」と訳される性質の物)へと変化した{{Sfn|近藤申一|1970|p=164}}{{sfn|中村英勝|1959|p=51}}。国王勅許状による称号としての男爵(Baron)位を最初に受けたのは[[1387年]]にキッダーミンスター男爵(Baron of Kidderminster)に叙された{{仮リンク|ジョン・ド・ビーチャム (初代ビーチャム男爵)|label=ジョン・ド・ビーチャム|en|John de Beauchamp, 1st Baron Beauchamp (fourth creation)}}である{{Sfn|近藤申一|1970|p=164}}。勅許状による貴族称号には議会出席権が付随しており、国王の議会召集令状を受けなくても議会に出席できる{{Sfn|近藤申一|1970|p=164}}。


[[File:Hatfield House Armoury-8454295458.jpg|250px|thumb|ハットフィールド・ハウスの武器庫。]]
貴族称号の最上位である[[公爵]](Duke)は、[[1337年]]に[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]](<small>在位:[[1327年]] - [[1377年]]</small>)が皇太子[[エドワード黒太子]]に[[コーンウォール公爵]](Duke of Cornwall)を与えたのが最初の事例である{{Sfn|森護|1987|p=4}}。ついでヘンリー3世の曾孫[[ヘンリー・オブ・グロスモント (初代ランカスター公)|ヘンリー]]に[[ランカスター公爵]](Duke of Lancaster)位が与えられたことで公爵位が貴族の最上位で王位に次ぐ爵位であることが明確化した{{Sfn|森護|1987|p=5}}。臣民で最初に公爵位を与えられたのは[[1483年]]に[[リチャード3世 (イングランド王)|リチャード3世]](<small>在位:[[1483年]] - [[1485年]]</small>)より[[ノーフォーク公爵]](Duke of Norfolk)に叙せられた[[ジョン・ハワード (初代ノーフォーク公)|ジョン・ハワード]]である{{Sfn|森護|1987|p=6}}{{Sfn|小林章夫|1991|p=18}}。[[侯爵]](Marquess)は、[[1385年]]に[[オックスフォード伯爵]][[ロバート・ド・ヴィア (アイルランド公爵)|ロバート・ド・ヴィア]]がダブリン侯爵(Marquess of Dublin)に叙されたのが最初であり、[[子爵]](Viscount)は[[1440年]]に[[ジョン・ボーモント (初代ボーモント子爵)|第6代ボーモント男爵ジョン・ボーモント]]に[[ボーモント子爵]]([[:en:Baron Beaumont#Viscounts Beaumont (1432)|Viscount Beaumont]])位が与えられたのが最初である{{Sfn|森護|1987|p=5-6}}。
貴族称号の最上位である[[公爵]](Duke)は、[[1337年]]に[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]](<small>在位:[[1327年]] - [[1377年]]</small>)が皇太子[[エドワード黒太子]]に[[コーンウォール公爵]](Duke of Cornwall)を与えたのが最初の事例である{{Sfn|森護|1987|p=4}}。ついでヘンリー3世の曾孫[[ヘンリー・オブ・グロスモント (初代ランカスター公)|ヘンリー]]に[[ランカスター公爵]](Duke of Lancaster)位が与えられたことで公爵位が貴族の最上位で王位に次ぐ爵位であることが明確化した{{Sfn|森護|1987|p=5}}。臣民で最初に公爵位を与えられたのは[[1483年]]に[[リチャード3世 (イングランド王)|リチャード3世]](<small>在位:[[1483年]] - [[1485年]]</small>)より[[ノーフォーク公爵]](Duke of Norfolk)に叙せられた[[ジョン・ハワード (初代ノーフォーク公)|ジョン・ハワード]]である{{Sfn|森護|1987|p=6}}{{Sfn|小林章夫|1991|p=18}}。[[侯爵]](Marquess)は、[[1385年]]に[[オックスフォード伯爵]][[ロバート・ド・ヴィア (アイルランド公爵)|ロバート・ド・ヴィア]]がダブリン侯爵(Marquess of Dublin)に叙されたのが最初であり、[[子爵]](Viscount)は[[1440年]]に[[ジョン・ボーモント (初代ボーモント子爵)|第6代ボーモント男爵ジョン・ボーモント]]に[[ボーモント子爵]]([[:en:Baron Beaumont#Viscounts Beaumont (1432)|Viscount Beaumont]])位が与えられたのが最初である{{Sfn|森護|1987|p=5-6}}。


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=== 近世・近代の世襲貴族の急増 ===
=== 近世・近代の世襲貴族の急増 ===
[[ファイル:The_Queen_in_Downing_Street_in_1985_to_mark_the_250th_anniversary_of_Robert_Walpole's_occupancy_of_No.10_(cropped).jpeg|サムネイル|251x251ピクセル|女王[[エリザベス2世]]と[[ハロルド・マクミラン]]。マクミランを最後に臣民への叙爵は途絶えている。]]
[[File:Marble Hall Holkham Hall.jpg|250px|thumb|left|[[レスター伯爵]]コーク家の邸宅[[ホーカム・ホール]]のメインホール]]
中世末から16世紀の[[テューダー朝]]まで世襲貴族の数は概ね50家に留まっていた。しかし[[17世紀]]の[[ステュアート朝]]が王庫の金欠から爵位を間接的に「売り」に出したために最初の爵位乱発が発生した{{Sfn|海保眞夫|1999|p=27}}。これにより17世紀末までに上院世襲貴族の数は170家に増加した{{Sfn|水谷三公|1987|p=42}}{{Sfn|小林章夫|1991|p=24}}。
中世末から16世紀の[[テューダー朝]]まで世襲貴族の数は概ね50家に留まっていた。しかし[[17世紀]]の[[ステュアート朝]]が王庫の金欠から爵位を間接的に「売り」に出したために最初の爵位乱発が発生した{{Sfn|海保眞夫|1999|p=27}}。これにより17世紀末までに上院世襲貴族の数は170家に増加した{{Sfn|水谷三公|1987|p=42}}{{Sfn|小林章夫|1991|p=24}}。


[[File:Holkham Hall 20080717-09.jpg|250px|thumb|[[ホーカム・ホール]]の寝室<br/>グリーン・ステート・ベッドルーム]]
つづいて[[18世紀]]に成立した[[ハノーファー朝]]は爵位乱発の傾向を一層強めた。上院世襲貴族の数は18世紀末までに270家、[[1830年代]]には350家、[[1870年代]]には400家、[[1885年]]には450家と急増の一途をたどる{{Sfn|水谷三公|1987|p=42}}。近代に入って貿易や商業で財を為した成金が貴族に列せられることが増えたためである。その彼らも100年、200年と時がたつと由緒ある伝統的貴族として君臨しているようになる{{Sfn|小林章夫|1991|p=29-32}}。
つづいて[[18世紀]]に成立した[[ハノーファー朝]]は爵位乱発の傾向を一層強めた。上院世襲貴族の数は18世紀末までに270家、[[1830年代]]には350家、[[1870年代]]には400家、[[1885年]]には450家と急増の一途をたどる{{Sfn|水谷三公|1987|p=42}}。近代に入って貿易や商業で財を為した成金が貴族に列せられることが増えたためである。その彼らも100年、200年と時がたつと由緒ある伝統的貴族として君臨しているようになる{{Sfn|小林章夫|1991|p=29-32}}。


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== 爵位について ==
== 爵位について ==
世襲貴族の爵位は創設時に応じて[[イングランド貴族]]、[[スコットランド貴族]]、[[グレートブリテン貴族]]、[[アイルランド貴族]]、[[連合王国貴族]]の別があり、それぞれ[[公爵]](Duke)、[[侯爵]](Marquess)、[[伯爵]](Earl)、[[子爵]](Viscount)、[[男爵]](Baron)の5等級から成る(スコットランド貴族の男爵位は貴族ではなく、スコットランド貴族の最下級の爵位は[[ロード・オブ・パーラメント|ロード・オブ・パーラメント(議会の卿)]]である){{Sfn|スレイター|2019|p=140-141}}。
[[File:Waddesden Manor03.JPG|250px|thumb|[[ロスチャイルド男爵]][[ロスチャイルド家]]の邸宅だった{{仮リンク|ワデスドン・マナー|en|Waddesdon Manor}}]]

世襲貴族の爵位は創設時に応じて[[イングランド貴族]]、[[スコットランド貴族]]、[[グレートブリテン貴族]]、[[アイルランド貴族]]、[[連合王国貴族]]の別があり、それぞれ[[公爵]](Duke)、[[侯爵]](Marquess)、[[伯爵]](Earl)、[[子爵]](Viscount)、[[男爵]](Baron)の5等級から成る(スコットランド貴族の男爵位は貴族ではなく、スコットランド貴族の最下級の爵位は[[ロード・オブ・パーラメント|ロード・オブ・パーラメント(議会の卿)]]である){{Sfn|スレイター|2019|p=140-141}}。<br/>ただし唯一の例外として、[[カナダ]]の[[ケベック州]]の土地を領地とする[[ロンゲール男爵]]のみに関しては、英国君主がフランス王家によって創設された爵位と認めて<ref>{{London Gazette|issue=24911|date=7 December 1880|page=6611}}</ref>、英国貴族の枠組みに取り込む形をとっている。
ただし唯一の例外として、[[カナダ]]の[[ケベック州]]の土地を領地とする[[ロンゲール男爵]]のみに関しては、英国君主がフランス王家によって創設された爵位と認めて<ref>{{London Gazette|issue=24911|date=7 December 1880|page=6611}}</ref>、英国貴族の枠組みに取り込む形をとっている。


イギリス貴族の爵位は[[日本]]の[[華族]]の爵位のように公爵や伯爵という肩書を単独で与えられるのではなく、「[[ノーフォーク公爵]](Duke of Norfolk)」(フィッツアラン・ハワード家)、「[[ダービー伯爵]](Earl of Derby)」(スタンリー家)といったように称号名の一部として与えられる。称号名は地名が一般的だが、家名(姓)と同じ場合もある(例:[[スペンサー伯爵]]、[[ロスチャイルド男爵]]){{Sfn|田中亮三|2009|p=54}}。
イギリス貴族の爵位は[[日本]]の[[華族]]の爵位のように公爵や伯爵という肩書を単独で与えられるのではなく、「[[ノーフォーク公爵]](Duke of Norfolk)」(フィッツアラン・ハワード家)、「[[ダービー伯爵]](Earl of Derby)」(スタンリー家)といったように称号名の一部として与えられる。称号名は地名が一般的だが、家名(姓)と同じ場合もある(例:[[スペンサー伯爵]]、[[ロスチャイルド男爵]]){{Sfn|田中亮三|2009|p=54}}。

=== 爵位継承について ===
兄弟全員が継承できる大陸の爵位と違って、イギリスの爵位は常に一人だけが相続する。爵位は終身であり、原則として生前に譲ることはできない(例外として[[繰上勅書]]がある。これが出されると従属爵位の一つが法定推定相続人に生前移譲され、法定推定相続人も貴族院議員に列する)。爵位保有者が死去した時にはその爵位に定められた継承方法に従って爵位継承が行われる。したがって爵位保有者が自分で継承者を決めることはできないし、養子を取ったとしても爵位継承順位には影響を及ぼさない{{Sfn|田中亮三|2009|p=54/60}}{{Sfn|村上リコ|2014|p=9}}。該当者がなければその爵位は消滅する{{Sfn|村上リコ|2014|p=9}}。

またかつて爵位継承を拒否することはできなかったが、貴族院が庶民院に対して劣後していく中で貴族に庶民院議員資格がないことが問題となり、[[1963年]]に[[1963年貴族法|貴族法]]が制定されて爵位継承から1年以内(未成年の貴族は成人後1年以内)であれば自分一代に限り爵位を放棄して平民になることが可能と定められた{{Sfn|前田英昭|1976|p=46-58}}。

勅許状によって創設された爵位は大半が継承方法として「初代の直系の嫡出の男系男子」と定めており{{Sfn|スレイター|2019|p=142}}、この場合は娘や初代前に遡った分流や[[非嫡出子]]は継承し得ない。ただ、爵位によってはそれと異なる継承方法の特別継承者(Special remainder)の規定が定められた爵位もあり、その場合はその継承方法に従う。したがって特別継承者の規定で継承が規定されていれば、女子も爵位を継承しえる{{Sfn|村上リコ|2014|p=10}}。

また{{仮リンク|議会招集令状|en|Writ of summons}}によって創設された古いイングランド貴族男爵位は継承方法が定められていないため、当時のイングランド相続法に従って男子なき場合に女子が継承する{{Sfn|スレイター|2019|p=142}}{{Sfn|村上リコ|2014|p=10}}。ただし、この場合は姉妹全員が共同相続人となるため(長女が次女に優越しない)、姉妹やその系統がある場合には爵位継承者を決められなくなり、その爵位は[[停止 (爵位)|停止]] (abeyance)となる{{Sfn|村上リコ|2014|p=10}}。停止後時代がたてばたつほど、姉妹の子孫がどんどん増えていくため、停止状態の解除は難しくなる{{Sfn|村上リコ|2014|p=10}}。そのため議会招集令状による男爵位は多くが停止状態になったままになっている<ref name="CP BM">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/Peerage%20of%20England.htm|title=The Peerage of England|accessdate= 2016-06-13 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage]|language= 英語 }}</ref>。停止状態となった爵位は権利のある者が国王に申し立てを行い、手続きを経れば継承できる。327年に及ぶ停止を経て1921年に継承が行われた[[ストレンジ男爵#ノッキンのストレンジ男爵 第2期 (1299年)|ストレンジ男爵]]や440年に及ぶ停止を経て1903年に継承が行われた{{仮リンク|フォーコンバーグ男爵|en|Baron Fauconberg}}のような事例も存在する{{Sfn|村上リコ|2014|p=10}}。

また古いスコットランド貴族の爵位(特にイングランドと同君連合になる前の爵位)は、男子なき場合に女子(長女優先)が継承できるのが通例である{{Sfn|村上リコ|2014|p=10}}{{Sfn|森護|1987|p=20}}。

しかし女性本人が爵位を持つことは極めて稀である。1880年時には580人の世襲貴族中「自らの権利として爵位を持つ女性貴族(peeress in her own right)」は7人に過ぎなかった{{Sfn|村上リコ|2014|p=12}}。

なお貴族が蒸発して生死不明になった場合は、裁判所の[[死亡宣告]]を得ることで爵位継承が認められる。近時の例では[[1974年]]に第7代[[ルーカン伯爵]][[ジョン・ビンガム (第7代ルーカン伯爵)|ジョン・ビンガム]]が、別居中の妻の家で子供たちの乳母サンドラ・リベットが殺害された後に失踪してリベット殺害の容疑がかかったが、その後ずっと行方不明になっている件について、息子の{{仮リンク|ジョージ・ビンガム (第8代ルーカン伯爵)|label=ジョージ・ビンガム|en|George Bingham, 8th Earl of Lucan}}がロンドン高等法院に父の死亡認定の申し立てを行い、[[2016年]][[2月3日]]にロンドン高等法院から認められたことで第8代ルーカン伯爵位を継承している<ref>{{cite news |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3075651|title= 謎の失踪遂げた英伯爵、42年後に死亡認定 |author= |work= AFP |date= 2019年2月4日 |accessdate=2019年10月1日}}</ref><ref>{{cite news |url=https://jp.reuters.com/article/odd-lord-lucan-idJPKCN0VD0B5|title= 42年前に失踪のルーカン英伯爵、死亡認定 息子の乳母殺した疑い |author= |work= ロイター |date= 2019年2月4日 |accessdate=2019年10月1日}}</ref>


=== 従属爵位と儀礼称号 ===
=== 従属爵位と儀礼称号 ===
{{See also|イギリス貴族嫡男の儀礼称号の一覧}}
{{See also|イギリス貴族嫡男の儀礼称号の一覧}}
[[ファイル:George_Percy,_Early_Percy.jpg|サムネイル|227x227ピクセル|[[ノーサンバーランド公爵|ノーサンバーランド公爵家]]の嫡子{{仮リンク|ジョージ・パーシー (パーシー伯爵)|en|George_Percy,_Earl_Percy|label=ジョージ・パーシー}}。儀礼称号としてパーシー伯爵を使用している。]]
爵位は複数所持することができる。上位の爵位を与えられても下位の爵位が消滅することはない。伯爵以上の貴族は従属爵位を併せ持っているのが普通であり、その[[法定推定相続人]](最年長の息子)は父が持つ二番目の爵位を[[儀礼称号]]として使用する(父と区別がつかなくなるので主たる爵位と同じ名前の爵位は避ける){{Sfn|スレイター|2019|p=142}}。ただし、その家の持つ爵位がすべて同名の場合は領地や姓に因んだ爵位を儀礼称号として仮冒する。例えば、[[タウンゼンド侯爵|タウンゼンド侯爵家]]は侯爵位の従属爵位にタウンゼンド子爵位・タウンゼンド男爵位しか持たないため、侯爵家の嫡男は領地に因んだ称号のレイナム子爵を名乗る<ref name="CP MT">{{Cite web|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/townshend1787.htm|title=Townshend, Marquess (GB, 1787)|accessdate=2016-1-26|last=Heraldic Media Limited|work=[http://www.cracroftspeerage.co.uk/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage]|language=英語}}</ref>。
イギリス貴族の爵位は複数所持することができる。日本の華族の爵位のような上書き方式ではないので、上位の爵位を与えられても下位の爵位が消滅することはない。伯爵以上の貴族は主たる爵位より下位の従属爵位を併せ持っているのが普通であり、その[[法定推定相続人]](最年長の息子)は父が持つ二番目の爵位を[[儀礼称号]] (courtesy title)として使用する(父と区別がつかなくなるので主たる爵位と同じ名前の爵位は避ける){{Sfn|スレイター|2019|p=142}}{{Sfn|新井潤美|2022|p=19}}。例えば、[[ノーサンバーランド公爵]]家は公爵位の従属爵位にノーサンバーランド伯爵位、パーシー伯爵位、ビバリー伯爵位を持つが、公爵家の嫡子はこのうちパーシー伯爵を儀礼称号に用いている<ref name="CP DN1766">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/northumberland1766.htm |title=Northumberland, Duke of (GB, 1766) |accessdate=2016-02-02 |last=Heraldic Media Limited |work=[http://www.cracroftspeerage.co.uk/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language=英語}}</ref>。


その他に、その家の持つ爵位がすべて同名の場合は領地や姓に因んだ爵位を儀礼称号として仮冒するケースがある。例えば、[[タウンゼンド侯爵|タウンゼンド侯爵家]]は侯爵位の従属爵位にタウンゼンド子爵位・タウンゼンド男爵位しか持たないため、侯爵家の嫡男は領地に因んだ称号のレイナム子爵を名乗る<ref name="CP MT">{{Cite web|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/townshend1787.htm|title=Townshend, Marquess (GB, 1787)|accessdate=2016-1-26|last=Heraldic Media Limited|work=[http://www.cracroftspeerage.co.uk/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage]|language=英語}}</ref>。
また、儀礼称号は爵位を実際に保有している訳ではなく、ゆえに法的には貴族ではなく平民である。したがって法定推定相続人に[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員資格はなく、代わりに平民として[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員資格を有している{{Sfn|田中亮三|2009|p=60}}。


また、儀礼称号は爵位を実際に保有している訳ではなく、ゆえに法的には貴族ではなく平民である。したがって法定推定相続人に[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員資格はなく、代わりに平民として[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員資格を有している{{Sfn|田中亮三|2009|p=60}}。区別の方法として爵位には「the」が付くが、儀礼称号の場合は「the」が付かないという表記の違いがある{{Sfn|新井潤美|2022|p=20}}。
== 爵位継承について ==
[[File:46 Longleat house (71).JPG|180px|thumb|[[バース侯爵]]シン家の邸宅[[ロングリート]]の階段]]
兄弟全員が継承できる大陸の爵位と違って、イギリスの爵位は常に一人だけが相続する。爵位は終身であり、原則として生前に譲ることはできない(例外として[[繰上勅書]]がある。これが出されると従属爵位の一つが法定推定相続人に生前移譲され、法定推定相続人も貴族院議員に列する)。爵位保有者が死去した時にはその爵位に定められた継承方法に従って爵位継承が行われる。したがって爵位保有者が自分で継承者を決めることはできないし、養子を取ったとしても爵位継承順位には影響を及ぼさない{{Sfn|田中亮三|2009|p=54/60}}。


主たる爵位と従属爵位が継承方法や継承資格者が違えば、異なる者に継承されることや、主たる爵位だけ廃絶して従属爵位は存続するといったケースも当然起こりえる{{Sfn|村上リコ|2014|p=11}}。
またかつて爵位継承を拒否することはできなかったが、貴族院が庶民院に対して劣後していく中で貴族に庶民院議員資格がないことが問題となり、[[1963年]]に[[1963年貴族法|貴族法]]が制定されて爵位継承から1年以内(未成年の貴族は成人後1年以内)であれば自分一代に限り爵位を放棄して平民になることが可能と定められた{{Sfn|前田英昭|1976|p=46-58}}。


== 貴族院における世襲貴族 ==
勅許状によって創設された爵位は大半が継承方法として「初代の直系の嫡出の男系男子」と定めており<ref name=":0" />{{Sfn|スレイター|2019|p=142}}、この場合は娘や初代前に遡った分流は継承し得ない。ただ、爵位によってはそれと異なる継承方法の特別継承者(Special remainder)の規定が定められた爵位もあり、その場合はその継承方法に従う。したがって特別継承者の規定で継承が規定されている女子は爵位を継承しえる。また{{仮リンク|議会招集令状|en|Writ of summons}}によって創設された古いイングランド貴族男爵位は継承方法が定められていないため、当時のイングランド相続法に従って男子なき場合に女子が継承する{{Sfn|スレイター|2019|p=142}}<ref name=":0">{{Cite book|和書|title=【図説】英国貴族の令嬢ーDaughters of the British Arstocracy|year=2014|publisher=[[河出書房新社|株式会社河出書房新社]]|pages=9-10|author=村上リコ|authorlink=村上リコ|edition=増補新版|series=ふくろうの本|isbn=9784309762951}}</ref>。ただし、この場合は姉妹全員が共同相続人となるため(長女が次女に優越しない)、姉妹やその系統がある場合には爵位継承者を決められなくなり、その爵位は[[停止 (爵位)|停止]] (abeyance)となる<ref name=":0" />。そのため議会招集令状による男爵位は多くが停止状態になったままになっている<ref name="CP BM">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/Peerage%20of%20England.htm|title=The Peerage of England|accessdate= 2016-06-13 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage]|language= 英語 }}</ref>。スコットランド貴族(特にイングランドと同君連合になる前の爵位)は、男子なき場合に女子(長女優先)が継承できるのが通例である<ref name=":0" />{{Sfn|森護|1987|p=20}}。
[[File:House of Lords debates situation in Ukraine (51902242817).jpg|thumb|250px|2022年2月25日の貴族院本会議場、ロシアのウクライナ侵攻をめぐる討論]]
もともと[[イングランド議会|イングランド議会(パーラメント)]]は一院制であり{{Sfn|中村英勝|1959|p=19}}、国王から召集された貴族と高位聖職者のみで構成されたが、[[13世紀]]中に[[封建制|封建]]勢力の後退で州代表の騎士や各都市から選出された市民代表が議員に加えられて代議制議会の要素を持つようになった{{Sfn|中村英勝|1959|p=27-31}}。[[14世紀]]になると州代表騎士と市民代表は貴族や高位聖職者の支配から逃れるため、彼らと別に集会するようになり、これが[[庶民院|下院(庶民院)]]の原型となり、他方貴族と高位聖職者の議員たちの集会は[[貴族院 (イギリス)|上院(貴族院)]]となった{{Sfn|中村英勝|1959|p=48}}。


両院分離後もしばらくは貴族院の力の方が強大だったが、[[バラ戦争]]後封建貴族は没落して独立性を失い、[[15世紀]]末にはじまる[[テューダー朝]]期に貴族院は王室の藩屏に過ぎなくなり、庶民院が台頭、[[16世紀]]後半の[[エリザベス朝]]の頃には女王と庶民院のバランスで政治が動くようになり{{Sfn|中村英勝|1959|p=75-76}}、[[17世紀]]の[[スチュアート朝]]期には庶民院が一層強大化して国王を抑えるようになり[[ピューリタン革命]]や[[名誉革命]]を経て議会政治が確立された{{Sfn|中村英勝|1959|p=121}}。[[18世紀]]から[[19世紀]]の議会政治においては貴族院もまだ大きな力を有していたが、[[保守党 (イギリス)|保守党]]と[[自由党 (イギリス)|自由党]]の対立の中で[[1911年]]の[[議会法]]で庶民院の優越が定められた{{Sfn|中村英勝|1959|p=171}}。
なお貴族が蒸発して生死不明になった場合は、裁判所の[[死亡宣告]]を得ることで爵位継承が認められる。近時の例では[[1974年]]に第7代[[ルーカン伯爵]][[ジョン・ビンガム (第7代ルーカン伯爵)|ジョン・ビンガム]]が、別居中の妻の家で子供たちの乳母サンドラ・リベットが殺害された後に失踪してリベット殺害の容疑がかかったが、その後ずっと行方不明になっている件について、息子の{{仮リンク|ジョージ・ビンガム (第8代ルーカン伯爵)|label=ジョージ・ビンガム|en|George Bingham, 8th Earl of Lucan}}がロンドン高等法院に父の死亡認定の申し立てを行い、[[2016年]][[2月3日]]にロンドン高等法院から認められたことで第8代ルーカン伯爵位を継承している<ref>{{cite news |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3075651|title= 謎の失踪遂げた英伯爵、42年後に死亡認定 |author= |work= AFP |date= 2019年2月4日 |accessdate=2019年10月1日}}</ref><ref>{{cite news |url=https://jp.reuters.com/article/odd-lord-lucan-idJPKCN0VD0B5|title= 42年前に失踪のルーカン英伯爵、死亡認定 息子の乳母殺した疑い |author= |work= ロイター |date= 2019年2月4日 |accessdate=2019年10月1日}}</ref>


== 貴族院における地位 ==
[[File:04 Woburn Abbey (49).JPG|180px|left|thumb|[[ベッドフォード公爵]]ラッセル家の邸宅[[ウォバーン・アビー]]の一室。]]
[[1999年]]まで世襲貴族で成人に達している者は原則として全員が貴族院議員であった(ただし女性世襲貴族は1963年まで貴族院議員になることはできなかった。1963年の貴族法で女性世襲貴族を男性世襲貴族と同等に扱うことが定められた。また1963年まで[[スコットランド貴族]]と[[アイルランド貴族]]は[[貴族代表議員]]に選ばれた者以外議席を有さなかった。アイルランド貴族の貴族代表議員制度は[[1922年]]のアイルランド独立の際に終わり、スコットランド貴族は1963年貴族法によって全員が貴族院議員に列した){{Sfn|前田英昭|1976|p=3/53-57}}。
[[1999年]]まで世襲貴族で成人に達している者は原則として全員が貴族院議員であった(ただし女性世襲貴族は1963年まで貴族院議員になることはできなかった。1963年の貴族法で女性世襲貴族を男性世襲貴族と同等に扱うことが定められた。また1963年まで[[スコットランド貴族]]と[[アイルランド貴族]]は[[貴族代表議員]]に選ばれた者以外議席を有さなかった。アイルランド貴族の貴族代表議員制度は[[1922年]]のアイルランド独立の際に終わり、スコットランド貴族は1963年貴族法によって全員が貴族院議員に列した){{Sfn|前田英昭|1976|p=3/53-57}}。


貴族院は長年にわたって世襲貴族を中心に構成されてきた(ただ登院者は少数だった)。しかし[[1958年]]に一代貴族法が制定され、以降貴族院の一代貴族の割合は漸次増加し、1998年2月の時点では世襲貴族は貴族院の59%(759名)まで減少した(対して一代貴族は当時484名){{Sfn|田中嘉彦|2009|p=279}}。そして[[1999年]]の[[トニー・ブレア]]政権の貴族院改革によって世襲貴族の貴族院議員枠は92議席に限定されたので現在は大多数の世襲貴族が貴族院に議席を有していない状況である{{Sfn|スレイター|2019|p=140}}{{Sfn|田中嘉彦|2009|p=290}}。
貴族院は長年にわたって世襲貴族を中心に構成されてきた(ただ登院者は少数だった)。しかし[[1958年]]に一代貴族法が制定され、以降貴族院の一代貴族の割合は漸次増加し、1998年2月の時点では世襲貴族は貴族院の59%(759名)まで減少した(対して一代貴族は当時484名){{Sfn|田中嘉彦|2009|p=279}}。そして[[1999年]]の[[トニー・ブレア]]政権の貴族院改革によって世襲貴族の貴族院議員枠は92議席に限定されたので現在は大多数の世襲貴族が貴族院に議席を有していない状況である{{Sfn|スレイター|2019|p=140}}{{Sfn|田中嘉彦|2009|p=290}}。


貴族院での活動において爵位の等級に重要性はない{{Sfn|田中嘉彦|2009|p=279}}。貴族院議員たる貴族は庶民院議員資格や庶民院議員選挙権を有さないが、貴族院議員ではない貴族は有する。
貴族院での活動において爵位の等級に重要性はない{{Sfn|田中嘉彦|2009|p=279}}。貴族院議員たる貴族は庶民院議員資格や庶民院議員選挙権を有さないが、貴族院議員ではない貴族は有する。


なお、院外においても爵位の等級の差をた振る舞いは好まれず、小説家[[オスカー・ワイルド]]も『紳士であることに違いはないのである。爵位の問題は[[紋章学|紋章]]の問題である。それ以上でもそれ以下でもない。』と述べている{{Sfn|スレイター|2019|p=142}}。
なお、院外においても爵位の等級の差をた振る舞いは好まれず、小説家[[オスカー・ワイルド]]も『紳士であることに違いはないのである。爵位の問題は[[紋章学|紋章]]の問題である。それ以上でもそれ以下でもない。』と述べている{{Sfn|スレイター|2019|p=142}}。


== 歴史ある貴族の少なさ ==
== 歴史ある貴族の少なさ ==
[[File:Syon House 3.jpg|250px|thumb|[[ノーサンバーランド公爵]]パーシー家の邸宅{{仮リンク|シオン・ハウス|en|Syon House}}の一室]]
[[1999年]]時点でイギリス上院に世襲貴族家は750家存在していたが、その大半は[[20世紀]]中に爵位を受けた新興貴族である{{Sfn|海保眞夫|1999|p=10}}。イギリスの爵位は原則として男系男子のみに世襲されるので、男子相続人を欠いて絶家する例が多く、長期にわたって存続するのが極めて困難なのが原因である{{Sfn|海保眞夫|1999|p=42}}。中世から貴族であった家で現存しているのは数えるほどしか存在していない{{Sfn|海保眞夫|1999|p=42-43}}。
[[1999年]]時点でイギリス上院に世襲貴族家は750家存在していたが、その大半は[[20世紀]]中に爵位を受けた新興貴族である{{Sfn|海保眞夫|1999|p=10}}。イギリスの爵位は原則として男系男子のみに世襲されるので、男子相続人を欠いて絶家する例が多く、長期にわたって存続するのが極めて困難なのが原因である{{Sfn|海保眞夫|1999|p=42}}。中世から貴族であった家で現存しているのは数えるほどしか存在していない{{Sfn|海保眞夫|1999|p=42-43}}。


== 財産状況 ==
== 財産状況 ==
[[20世紀]]以前、イギリス貴族は大半が大地主だった。保守党の地主議員ベイトマンは著書の中で[[1870年代]]の大地主を3000[[エーカー]]の土地を保有し、かつ3000[[スターリング・ポンド|ポンド]]以上の地代がある者と定義している。つまり約1200[[町 (単位)#面積の単位|町歩]]の土地が必要だった。[[日本]]の地主は、[[地租改正]]後、[[明治]]から[[大正]]にかけて地主制が最も発展したとされる時期にあっても、50町歩(125エーカー)もあれば「大地主」と呼ばれていたことと比較すれば、英国大地主たちが持つ3000エーカーの広大さが理解される。当時英国最大の大地主だった[[サザーランド公爵]]ルーソン=ゴア家に至っては135万854エーカー(約33万6274町歩)の土地を所有していた。当時の日本で最大の地主だったのは[[島根県]]の山林を中心に2万8000町歩(11万3120エーカー)の土地を所有した田部家だが、サザーランド公爵家の所有する土地は実にその10倍以上である{{Sfn|水谷三公|1987|p=11-12}}。大地主の土地独占率も圧倒的で、わずか数百家族がイングランドの土地の3割から4割を占めていた計算になる{{Sfn|水谷三公|1987|p=14}}。
[[File:Dunrobin Castle -Sutherland -Scotland-26May2008 (2).jpg|250px|thumb|left|[[サザーランド伯爵]]サザーランド家の邸宅{{仮リンク|ダンロビン城|en|Dunrobin Castle}}]]
[[20世紀]]以前、イギリス貴族は大半が大地主だった。保守党の地主議員ベイトマンは著書の中で[[1870年代]]の大地主を3000[[エーカー]]の土地を保有し、かつ3000[[スターリング・ポンド|ポンド]]以上の地代がある者と定義している。つまり約1200[[町 (単位)#面積の単位|町歩]]の土地が必要だった。[[日本]]の地主は、[[地租改正]]後、[[明治]]から[[大正]]にかけて地主制が最も発展したとされる時期にあっても、50町歩(125エーカー)もあれば「大地主」と呼ばれていたことと比較すれば、英国大地主たちが持つ3000エーカーの広大さが理解される。当時英国最大の大地主だった[[サザーランド公爵]]ルーソン=ゴア家に至っては135万854エーカー(約33万6274町歩)の土地を所有していた。当時の日本で最大の地主だったのは[[島根県]]の山林を中心に2万8000町歩(11万3120エーカー)の土地を所有した田部家だが、サザーランド公爵家の所有する土地は実にその10倍以上である。英国大地主たちの所有する土地がどれほど桁外れの広大さだったかが分かる{{Sfn|水谷三公|1987|p=11-12}}。


しかし広大な土地と屋敷を維持するだけでも費用がかさむうえに{{Sfn|佐藤郁|2016|p=79}}、[[20世紀]]に入ってからは相続税の賦課等により経済的に没落する貴族が現れるようになった{{Sfn|森護|1987|p=13}}。特に[[第二次世界大戦]]後の[[クレメント・アトリー|アトリー]]政権の社会主義的政策によって貧富の格差が縮められたことで貴族の所領経営は危機的状況に陥った{{Sfn|田中亮三|2009|p=58-59}}。
しかし広大な土地と屋敷を維持するだけでも費用がかさむうえに{{Sfn|佐藤郁|2016|p=79}}、[[20世紀]]に入ってからは相続税の賦課等により経済的に没落する貴族が現れるようになった{{Sfn|森護|1987|p=13}}。特に[[第二次世界大戦]]後の[[クレメント・アトリー|アトリー]]政権の社会主義的政策によって貧富の格差が縮められたことで貴族の所領経営は危機的状況に陥った{{Sfn|田中亮三|2009|p=58-59}}。
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[[1895年]]に創設された歴史的建造物の保護団体[[ナショナル・トラスト]]に屋敷や敷地の管理を委託し、邸宅の一部をホテルや博物館として有料公開し、その収入でやりくりしている貴族も多い{{Sfn|佐藤郁|2016|p=79}}。
[[1895年]]に創設された歴史的建造物の保護団体[[ナショナル・トラスト]]に屋敷や敷地の管理を委託し、邸宅の一部をホテルや博物館として有料公開し、その収入でやりくりしている貴族も多い{{Sfn|佐藤郁|2016|p=79}}。


しかし経済状態は家ごとに大きな差があり、うまく立ち回って、いまだ巨万の富を維持する大地主貴族も少なくはない{{Sfn|森護|1987|p=13}}。たとえば[[ロンドン]]屈指の高級住宅街[[メイフェア]]を中心に莫大な土地を所有する第6代[[ウェストミンスター公爵]][[ジェラルド・グローヴナー (第6代ウェストミンスター公爵)|ジェラルド・グローヴナー]]は、巨額の資産を活用して[[グロブナー・グループ|グローブナー・グループ]]という巨大な不動産企業のオーナーとなり、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]や[[オーストラリア]]や[[日本]]など世界17カ国で[[ホテル]]事業などのビジネスを展開した{{Sfn|佐藤郁|2016|p=79}}。[[2015年]]の{{仮リンク|サンデー・タイムズ・リッチ・リスト|en|Sunday Times Rich List}}によれば総資産額は約85億6,000万ポンド(約1兆5,408億円)で英国内で経済活動する者(外国人含む)の中で第9位という資産家である<ref>[http://news.livedoor.com/article/detail/10055337/ 英エリザベス女王長者番付TOP300から転落__連続入り25年で終了(2015年12月3日閲覧)]</ref>。
しかし経済状態は家ごとに大きな差があり、うまく立ち回って、いまだ巨万の富を維持する大地主貴族も少なくはない{{Sfn|森護|1987|p=13}}。たとえば[[ロンドン]]屈指の高級住宅街[[メイフェア]]を中心に莫大な土地を所有する第6代[[ウェストミンスター公爵]][[ジェラルド・グローヴナー (第6代ウェストミンスター公爵)|ジェラルド・グローヴナー]]は、巨額の資産を活用して[[グロブナー・グループ|グローブナー・グループ]]という巨大な不動産企業のオーナーとなり、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]や[[オーストラリア]]や[[日本]]など世界17カ国で[[ホテル]]事業などのビジネスを展開した{{Sfn|佐藤郁|2016|p=79}}。[[2015年]]の{{仮リンク|サンデー・タイムズ・リッチ・リスト|en|Sunday Times Rich List}}によれば総資産額は約85億6000万ポンド(約1兆5408億円)で英国内で経済活動する者(外国人含む)の中で第9位という資産家である<ref>[http://news.livedoor.com/article/detail/10055337/ 英エリザベス女王長者番付TOP300から転落__連続入り25年で終了(2015年12月3日閲覧)]</ref>。

== 貴族の邸宅 ==
貴族をはじめとした大地主が英国の地方に建設した館を[[カントリー・ハウス]](country house)と総称する{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=13}}。カントリー・ハウスは英国各地に何百と存在し、現在でも多くで建設者の子孫が暮らしている{{Sfn|田中亮三|2009|p=6}}。またロンドンに建てた邸宅は[[タウンハウス (イギリス)|タウンハウス]](townhouse)と呼ばれ、特に都市大貴族のタウンハウスは一般に「パレス」などと呼ばれた{{Sfn|山田勝|1994|p=76}}。

キリスト教会が支配した中世ヨーロッパでは、壮麗な大建築物といえば大聖堂や修道院であり、封建領主が割拠して領地の争奪を繰り返した世俗世界の建築物は厚い外壁や物見塔を多く配置した城塞だった。十字軍、百年戦争、薔薇戦争と続いた戦乱の後、1485年に成立した[[テューダー朝]]のもと中央集権化が進んだことで治安も平静化したため、この頃から貴族たちは住居専用の壮麗な邸宅を建設するようになった。16世紀前半はまだ模索の時代で城郭建築から抜け出せず、家の周りに堀をめぐらしたりしていた。16世紀後半の[[エリザベス朝]]から大英帝国が繁栄の頂点に達した19世紀半ばにかけて、大地主たちは自らの権勢を誇示するために広大な領地の中に壮麗な邸宅を建てるようになった{{Sfn|田中亮三|2009|p=6-7}}。

主なカントリーハウスには建設時期によって次のような特徴がある。

*中世封建時代の防御用の城塞
*:11世紀から16世紀頃に建築された軍事要塞化された城である。厚い石の壁で侵入者の攻撃を防御し、所有者の勢力範囲を外部に見せつけるための物。島国で多くの外敵に晒され、内乱も多かったイギリスでは、貴族には広大な封建領地が与えられることが多く、彼らはそこに住むため、また必要に応じて王のために戦うため防御力の高い建物を建設した。建物に狭間(弓や銃を撃つための穴)をつけるには王の勅許を必要とした。ただこの時期にも変遷はあり、13世紀には華族の慰安と防御を兼ねたマナー・ハウスの建設が始まり、15世紀になると風通しのいい大きな窓が付けられるようになったり、だんだん防御一辺倒では無くなってくる。16世紀に入っていよいよ住居に適し、また王の行幸にも耐えられるような豪華な雰囲気のある設備の充実が図られるようになってくる{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=33}}。
{{Gallery
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|ファイル:Warwick Castle May 2016.jpg|[[ウォリック伯爵]]の居城だった[[ウォリック城]]([[ウォリックシャー]])。今日の構造は14世紀中に11代ウォリック伯爵[[トマス・ド・ビーチャム (第11代ウォリック伯)|トマス・ド・ビーチャム]]と12代ウォリック伯爵[[トマス・ド・ビーチャム (第12代ウォリック伯)|トマス・ド・ビーチャム]]の2代にかけて構築された物である{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=224}}。
|File:Alnwick Castle - Northumberland (4889359432).jpg|[[ノーサンバーランド公爵]][[パーシー家]]が所有する[[アニック・カースル]]([[ノーサンバーランド州]])。1309年以来パーシー家の居住となった城で、19世紀中期に4代ノーサンバーランド公爵{{仮リンク|アルジャーノン・パーシー (第4代ノーサンバーランド公爵)|label=アルジャーノン・パーシー|en|Algernon Percy, 4th Duke of Northumberland}}がイタリアの城をヒントに封建時代の防御城塞とイタリア・ルネサンスのインテリアを組み合わせる修復を行った{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=215}}。
}}
*テューダー朝~ステュアート朝初期
*:[[テューダー朝]]期に入ると内乱が終わり中央集権政策が進められたことで平和と安定の時期に入った。貴族たちも一定の場所に落ち着くようになり、移動が少なくなった。これにより家具も持ち運びに便利なものにする必要がなくなり、華美化が始まる。しかし1530年までは英国において華麗壮大な建物は修道院や大聖堂であり、貴族の武骨な城塞ではなかった。財政的に行き詰まっていたヘンリー8世は修道院や修道僧の持つ広大な土地建物に目をつけ、1530年に宗教改革と称して修道院を一方的に解散させ財産没収し、スコットランドやフランスとの戦争の戦費に充てるため、貴族・[[ジェントリ]]・大商人などに売却した。この旧修道院の建物がカントリーハウス化し、この後の3世紀に渡る壮麗なカントリーハウス建設ブームのきっかけとなった{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=36-38}}。<br/>この時期の建築様式を[[チューダー様式]]といい、イギリス・[[ゴシック建築]]後期の特徴である垂直式に、イタリアやフランスの[[ルネサンス様式]]の要素が加わえられたのがその特徴であり、ルネサンス様式への過渡的様式だったといえる<ref name="チューダー様式">{{Kotobank|1=チューダー様式|2=日本大百科全書(ニッポニカ) ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 }}</ref>。<br/>テューダー朝後期にあたる[[エリザベス朝]](1558年-1603年)では女王[[エリザベス1世]]が夏にロンドンの暑さとテムズ川の不快な霧から逃れるためロンドンを離れる慣習を作り、貴族の大邸宅に行幸する機会を増やした{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=39-40}}。女王一行の歓待には大変な出費が伴い、臣下に余計な蓄財をさせず、財政的に女王頼りの状態にしておくための調整の意味もあったと言われている。しかしこれによって女王の行幸に耐える壮麗なカントリーハウスの建設が過熱することになった{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=41}}。エリザベス朝時代にも依然として中世風ホールやゴシックの垂直構造と大きな格子窓の石造建築というチューダー様式は踏襲されたが、左右対称な平面や立面、[[オーダー (建築)|オーダー]]や細部の装飾などに[[ルネサンス様式]]の影響がより強く見られるようになる。これを{{仮リンク|エリザベス建築|label=エリザベス様式|en|Elizabethan architecture}}と呼んだ<ref name="エリザベス様式">{{Kotobank|1=エリザベス様式|2=日本大百科全書(ニッポニカ) ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 }}</ref>。<br/>[[ステュアート朝]]初代の[[ジェームズ1世 (イングランド王) |ジェームズ1世]](1603年-1625年)在位時代([[ジャコビアン時代]])の建築様式は{{仮リンク|ジャコビアン様式|en|Jacobean architecture}}と呼ばれるが、垂直式ゴシックとルネサンス様式の混在というチューダー様式、エリザベス様式との連続性が強い。しかしエリザベス様式ほどの華美さはなく、地味になって落ち着いた感がある<ref name="ジャコビアン様式">{{Kotobank|1=ジャコビアン様式|2=日本大百科全書(ニッポニカ) ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 }}</ref>。また石材にかわって[[れんが]]が盛んに用いられたり<ref name="ジャコビアン様式"/>、葱花形(ogee)の屋根{{Sfn|田中亮三|1999|p=84}}、小さな矩形の窓<ref name="ジャコビアン様式"/>など、フランス・ルネサンス型と対比してオランダ、ドイツ、オーストリアなどゲルマン的要素も感じさせる{{Sfn|田中亮三|1999|p=84}}。
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|File:Front of Burghley House 2009.jpg|[[リンカンシャー]]にある[[エクセター侯爵]][[セシル家]]の邸宅だった{{仮リンク|バーリー・ハウス|en|Burghley House}}。[[エリザベス1世]]の宰相初代[[バーリー男爵]][[ウィリアム・セシル (初代バーリー男爵)|ウィリアム・セシル]]により1555年から1587年にかけて建設されたエリザベス様式を代表するカントリー・ハウス<ref>{{Cite web |url=https://burghley.co.uk/plan-your-visit/the-house|title=The House|publisher=Official Site|date=|accessdate=2023-06-12}}</ref>。
|File:Longleat Safari & Adventure Park 24-09-2013 (15365336801).jpg|[[ウィルトシャー]]にある[[バース侯爵]]シン家の邸宅[[ロングリート]]。1560年から1580年にかけて建設されたエリザベス様式のカントリーハウス<ref name="longleat">{{Cite web |url=https://www.longleat.co.uk/house|title=LONGLEAT house|publisher=Official Site|date=|accessdate=2023-06-12}}</ref>。
|File:Wollaton Hall, Nottingham (1).JPG|[[ノッティンガム]]にある{{仮リンク|ミドルトン男爵|en|Baron Middleton}}ウィラビー家の邸宅{{仮リンク|ウォルトン・ホール|en|Wollaton Hall}}。1580年から1588年にかけて建設されたエリザベス様式の代表的カントリーハウス<ref name="エリザベス様式" />。
|File:Hatfield House.jpg|[[ハートフォードシャー]]にある[[ソールズベリー侯爵]][[セシル家|ガスコイン=セシル家]]の邸宅[[ハットフィールド・ハウス]]。1607年から1612年にかけて建設されたジャコビアン様式の代表的カントリーハウス<ref name="ジャコビアン様式"/>。
|File:Great Hall of Hatfield House-19478058630.jpg|ハットフィールドハウスのマーブル・ホール。天上の重々しい装飾は典型的なジャコビアン様式である{{Sfn|田中亮三|1999|p=7}}。
}}
*ステュアート朝中期から後期
*:禁欲的な[[イングランド共和国|共和国]]時代の反動で[[王政復古]]後に享楽的な風潮が広がり、それが建築様式にも影響を及ぼした{{Sfn|田中亮三|1999|p=85}}。ステュアート朝中期になるとカントリーハウスは古代ローマの影響を受けた古典的形式を帯びるようになり始めた。このきっかけを作った代表的人物は建築家[[イニゴー・ジョーンズ]]であり、彼がイングランドに持ち込んだ[[パッラーディオ建築|パッラーディオ様式]]が流行した{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=41}}。ジョーンズの建築物は取り壊されたり、改築されたりで現存しているものは多くないが、カントリー・ハウスの中では[[ペンブルック伯爵]][[ハーバート家]]の{{仮リンク|ウィルトン・ハウス|en|Wilton House}}がジョーンズが建築した建物である{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=43}}。17世紀後半から18世紀初期のカントリー・ハウスの特色は壮大さを求めた[[バロック建築|バロック様式]]が増えることである。フランスの[[ルイ14世]]の[[ヴェルサイユ宮殿]]の様式に影響を受けた[[クリストファー・レン]]や[[ロジャー・プラット]]などの建築家により広められた{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=43}}。{{仮リンク|イギリス・バロック建築|en|English Baroque architecture}}が栄えた時代は30年ほどとさほど長くはなかったが、カントリー・ハウス史上では最も奔放な時代だった{{Sfn|田中亮三|2009|p=75}}。
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|File:Castle Howard, Yorkshire - geograph.org.uk - 4110695.jpg|[[ヨークシャー]]にある[[カーライル伯爵]][[ハワード家]]の邸宅だった[[カースル・ハワード|ハワード城]]。第3代[[カーライル伯爵]][[チャールズ・ハワード (第3代カーライル伯爵)|チャールズ・ハワード]]が建築と無縁だった劇作家[[ジョン・ヴァンブラ]]に依頼して1699年から1712年にかけて建設したバロック様式の宮殿で{{仮リンク|イギリス・バロック建築|en|English Baroque architecture}}の端緒となった{{Sfn|田中亮三|2009|p=95}}。
|File:Castle Howard The Great Hall Entrance.jpg|ハワード城のグレートホールエントランス。
|File:Chatsworth House and Bridge.jpg|[[ダービーシャー]]にある[[デヴォンシャー公爵]][[キャヴェンディッシュ家]]の邸宅[[チャッツワース・ハウス]]。17世紀後半の大改築でイギリス・バロック様式のカントリーハウスとなった{{Sfn|田中亮三|2009|p=75}}。
|ファイル:Chatsworth main hallway.jpg|チャッツワース・ハウスのエントランスホール
|File:Chatsworth library (19050342468).jpg|チャッツワース・ハウスのライブラリー
|File:Dining Room, Chatsworth House - Derbyshire, England - DSC03441.jpg|チャッツワース・ハウスのダイニングルーム
|File:Chatsworth bedroom.jpg|チャッツワース・ハウスのベッドルーム
|File:Blenheim-Palace.jpg|オックスフォードシャーにある[[マールバラ公爵]][[スペンサー家|スペンサー=チャーチル家]]の邸宅[[ブレナム宮殿]]。イギリスを代表するバロック様式の邸宅。世界遺産となっている<ref name="ブレナム宮殿">{{Kotobank|1=ブレナム宮殿|2=デジタル大辞泉}}</ref>。
}}
*[[ハノーヴァー朝|ジョージ王朝]]
*:だが、ハノーヴァー朝に入った頃ぐらいからバロック様式は衰退し、代わりにエレガントで抑制が効いたパッラーディオ・リバイバルとして知られた[[新古典主義建築|新古典様式]]のカントリーハウスが増える{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=46}}。特に建築家[[ウィリアム・ケント]]や、彼のパトロンだった第3代[[バーリントン伯爵]][[リチャード・ボイル (第3代バーリントン伯爵)|リチャード・ボイル]]、初代レスター伯爵[[トマス・クック (初代レスター伯爵、1697-1759)|トマス・コーク]]などイタリア留学経験者たちがイギリス・バロック様式をイタリア様式を勝手に解釈した邪道と非難してパッラーディオ様式を広めた{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=46}}{{Sfn|田中亮三|1999|p=86}}。18世紀後半には新プラトン哲学の復活や科学的考古学の発達により、ルネッサンスを通してではなく直接古代に触れて研究しようという機運が高まったことで[[ロバート・アダム]]や[[ウィリアム・チェンバーズ (建築家)|ウィリアム・チェンバーズ]]といった建築家たちがイタリアやギリシャで古代建築の遺跡を写生し装飾や文様を採取するなどし、英国建設史上最も洗練された純粋な古典様式の時代が到来した{{Sfn|田中亮三|1999|p=86}}。ジョージ王朝中期になるとパッラーディオ・リバイバルは衰退し、「グリーク・リバイバル」と呼ばれる古代ギリシャ建築に影響を受けた新古典様式の時代が始まり、ちょうど摂政時代(1811年-1820年)にあたることから{{仮リンク|リージェンシー様式|en|Regency architecture}}と呼ばれた{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=47}}。1780年代から1830年代頃には、貴族のみならず新たに富を獲得した中産階級が続々とカントリー・ハウスを建てるようになったことで形式ばらない家庭的なところがあるリージェンシーが流行し1830年代にピークに達した{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=47}}。
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|File:Houghton Hall 20080720-2.jpg|[[ノーフォーク]]にある[[チャムリー侯爵]]チャムリー家の邸宅{{仮リンク|ハウトン・ホール|en|Houghton Hall}}。1722年に英国初代首相[[ロバート・ウォルポール]]が建設した邸宅でパッラーディオ・リバイバル時代の代表的な邸宅。
|File:Stone Hall at Houghton.jpg|ハウトンホールのストーンホール
|File:Kedleston Hall 04.jpg|ダービーシャーにある[[スカーズデール子爵]]カーゾン家の邸宅だった{{仮リンク|ケドルストン・ホール|en|Kedleston Hall}}。1765年に完成したパッラーディオ様式の邸宅。
|File:The Marble Hall, Kedleston Hall.jpg|ケドルストン・ホールのマーブル・ホール
|File:Kedleston Hall, Derbyshire (45855739452).jpg|ケドルストン・ホールのサルーン
|File:Clarence house.jpg|ロンドンにある[[クラレンス公|クラレンス公爵]][[ウィリアム4世|ウィリアム]](のちのウィリアム4世)が1825年から1827年にかけて建設した[[クラレンス・ハウス]]。リージェンシー様式の邸宅。
}}
*ヴィクトリア朝
*:[[ヴィクトリア女王]]が在位した[[ヴィクトリア朝]](1837年-1901年)は、中世回帰の風潮があり、ゴシック様式を中心に過去の様式を折衷的に用いるのが盛んになった。これを[[ヴィクトリアン様式]]と呼んだ。しかし諸様式の無批判な折衷主義が建築と工芸の様式に混乱を招いた面もあった<ref name="ビクトリア様式">{{Kotobank|1=ビクトリア様式|2=家とインテリアの用語がわかる辞典 世界大百科事典 第2版}}</ref>。この時代の建築は多様で、グリーク・リバイバル、ゴシック・リバイバル、ロマネスク、テューダー、ルネサンス、エリザベス朝風、ルイ14世風、ロココ、ルイ16世風など変化に富んでいた{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=47-48}}。有名なカントリー・ハウスとして、1842年にヴィクトリア朝ロマンティシズム風に改築された[[カーナーヴォン伯爵]]ハーバート家の邸宅[[ハイクレア・カースル]]や、[[ファーディナンド・ド・ロスチャイルド]]により建てられたフランス・ルネサンス風の{{仮リンク|ウォッデスドン・マナー|en|Waddesdon Manor}}などがあり、壮麗さで名高い{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=48/242}}。一方スコットランドではこの時期に建設されたカントリーハウスはほとんどが「{{仮リンク|スコットランド・バロニアル建築|label=バロニアル様式|en|Scottish baronial architecture}}」で小塔が付いていた{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=48}}。
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|File:Highclere Castle 2019.jpg|[[ハンプシャー]]にある[[カーナーヴォン伯爵]]ハーバート家の邸宅[[ハイクレア・カースル]]。ドラマ『[[ダウントン・アビー]]』のロケ地。ヴィクトリア朝ロマンティシズム風の建築{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=242}}。
|File:Waddesden Manor03.JPG|[[バッキンガムシャー]]にある[[ロスチャイルド男爵]][[ロスチャイルド家]]の邸宅だった{{仮リンク|ウォッデスドン・マナー|en|Waddesdon Manor}}。フランス・ルネサンス風の建築{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=222}}。
|File:East Gallery at Waddesdon Manor.jpg|ウォッデスドン・マナーのイーストギャラリー
|File:Green Boudoir - Waddesdon Manor - Buckinghamshire, England - DSC07757.jpg|ウォッデスドン・マナーのグリーン・ブドワール
|File:Grey Drawing Room - Waddesdon Manor - Buckinghamshire, England - DSC07644.jpg|ウォッデスドン・マナーのグレー・ドローイング・ルーム
|File:Red Drawing Room at Waddesdon Manor.jpg|ウォッデスドン・マナーーのレッド・ドローイング・ルーム
|File:State Bedroom - Waddesdon Manor - Buckinghamshire, England - DSC07750.jpg|ウォッデスドン・マナーのステートベッドルーム
|File:Dunrobin Castle -Sutherland -Scotland-26May2008 (2).jpg|スコットランド・ハイランドにある[[サザーランド伯爵]]サザーランド家の邸宅{{仮リンク|ダンロビン城|en|Dunrobin Castle}}。1835年から1850年にかけて第2代[[サザーランド公爵]][[ジョージ・サザーランド=ルーソン=ゴア (第2代サザーランド公爵)|ジョージ・サザーランド=ルーソン=ゴア]]が大改築したバロニアル様式の建築{{Sfn|Hussey|1931|p=34}}{{Sfn|Montgomery-Massingberd|Sykes|1997|p=61}}。
}}
*カントリーハウスの衰退と公開
*:ヴィクトリア朝が終わった後のエドワード朝のカントリーハウスのイメージは[[エドワード7世]]が主役のカントリーハウスのイメージであり、戦争の時代が到来する最後の束の間の時代を感じさせるものだった。二度の[[世界大戦]]でカントリーハウスの衰退期が来る。かなりの数のカントリーハウスでオーナーが戦死したり、軍に接収されたりした。また農業だけでカントリーハウスを維持できる時代ではなくなり、売却も多く行われるようになっていた{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=50-51}}。エドウィン・ラチェンズが1910年から20年かけて建築した「{{仮リンク|カースル・ドロゴ|en|Castle Drogo}}」が最後のカントリーハウスだが、これは簡素な中世城塞風の先祖返り的カントリーハウスだった{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=49}}。<br/>維持が難しくなったカントリーハウスをビジネスとして一般公開するようになったのは1949年に第6代[[バース侯爵]]{{仮リンク|ヘンリー・シン (第6代バース侯爵)|label=ヘンリー・シン|en|Henry Thynne, 6th Marquess of Bath}}が[[ロングリート|ロングリートハウス]]を有料公開したのが最初といわれる{{Sfn|新井潤美|2022|p=129}}。これが経済的に成功したことでその後15年間に600のカントリーハウスが一般公開され、1973年にはカントリーハウス訪問観光客は延べ4300万人に達したという{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=198}}。1952年にハンプシャーの邸宅{{仮リンク|ビューリー・パレス・ハウス|en|Beaulieu Palace House}}を公開した第3代{{仮リンク|ビューリーのモンタギュー男爵|en|Baron Montagu of Beaulieu}}{{仮リンク|エドワード・モンタギュー=スコット (ビューリーの第3代モンタギュー男爵)|label=エドワード・モンタギュー=スコット|en|Edward Montagu-Scott, 3rd Baron Montagu of Beaulieu}}は、その経験を『玉に瑕 ステイトリー・ホームに住みながらお金を稼ぐ方法』(1967年)という手記にまとめた。その中でカントリーハウス観光ビジネスが成功した理由について観光客がアッパークラスの暮らしをのぞき見したいからだろうと分析している{{Sfn|新井潤美|2022|p=129}}。カントリーハウスだけでは観光地として弱いと考えた貴族の中にはサファリパークやアトラクションを設けたりする者もある{{Sfn|新井潤美|2022|p=139}}。近年では映画やドラマのロケ地として提供したり、企業や結婚披露宴などに貸し出したりして収入にしている貴族も多い{{Sfn|新井潤美|2022|p=145}}。<br/>また[[ナショナル・トラスト]]に屋敷と土地を管理してもらっている貴族も多い。ナショナルトラストは取り壊しや売却の危機に瀕しているカントリーハウスを救うために組織された団体で、ここに管理を任せると多くの場合持ち主と家族は引き続き暮らすことを認められるが、その代わりに館や庭園の一部を公開し、また館の改修なども許可を得て行わなければならなくなる{{Sfn|新井潤美|2022|p=143}}。また維持費に宛てられる資本金も出さねばならないが、それでも相続税が払えずにこの手段をとる貴族は多い{{Sfn|新井潤美|2022|p=144}}。
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|File:Elephas maximus.101 - Woburn Safari Park.JPG|[[ベッドフォード公爵]]ラッセル家の邸宅[[ウォバーン・アビー]]のサファリパークのアジアゾウ。
|File:Panthera tigris altaica.002 - Woburn Safari Park.JPG|同サファリパークのトラ。
|File:Longleat Railway on 06 April 1996 (2).jpg|[[バース侯爵]]シン家の邸宅[[ロングリート]]のミニ鉄道
|File:Longleat Safari & Adventure Park 24-09-2013 (15365274651).jpg|ロングリートのサファリパークのバス
|File:Longleat Safari & Adventure Park 24-09-2013 (15365271581).jpg|ロングリートのサファリパークのジャングル・クルーズ。
|File:A visit to Longleat Safari Park (9657706574).jpg|ロングリートのサファリパークのキリン。
|File:Mercedes-Benz monument at Goodwood 2014 002.jpg|[[リッチモンド公爵]]ゴードン=レノックス家の邸宅{{仮リンク|グッドウッド・ハウス|en|Goodwood House}}。1993年からリッチモンド公爵家が毎年敷地内で開催しているモータースポーツ大会[[グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピード]]のモニュメント。
}}

== 貴族の使用人 ==
[[File:Curraghmore House meets Downton Abbey (6314536459).jpg|thumb|250px|{{仮リンク|ウォーターフォード侯爵|en|Marquess of Waterford}}ベレスフォード家の邸宅{{仮リンク|クラグモア・ハウス|en|Curraghmore}}で働く使用人たち(1905年頃)]]
巨大なカントリーハウスに住む貴族は大邸宅を維持するために多くの家事使用人を雇っていた{{Sfn|村上リコ|2014|p=36}}。使用人には大きく分けて上級使用人(upper servant)と下級使用人(lower servant)の別があった。前者は管理・監督の仕事や特別な技術が必要な仕事をする使用人であり、後者は上級使用人から指示を受け、比較的技術を要しない仕事を担当する人々だった{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=116}}。

=== 男性使用人 ===
家政の統括は[[ハウス・スチュワード]](house steward,「[[家令]]」と訳される)が行った。使用人の最高位であり{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=119}}、主人が直接任免するヴァレットを除くスタッフの任免、給与の支払い、経費の管理も任されている{{Sfn|村上リコ|2014|p=37}}。ただハウス・スチュワードは余裕のある大邸宅しか置いていなかった{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=119}}。歴史的には中世の頃のスチュワードには「ランド・スチュワード」と「ハウス・スチュワード」の別があり、前者は領地の管理、後者は館の管理を行った。中世の頃は家職の中で唯一紳士階級が就く役職であり、稀に騎士であることもあったが、17世紀までには紳士が就くことはなくなり、家柄のいい者でも中産階級(商人、聖職者、軍人など)止まりとなる{{Sfn|村上リコ|2012|p=12}}。18世紀中、貴族の領地内でも大規模な農法改良や鉱山開発が推し進められて生産効率が飛躍的に増大したため経営の専門教育を受けたプロフェッショナルが求められるようになり、ランド・スチュワードはランド・エージェント(単にエージェントと呼ばれることが多い)となっていく{{Sfn|村上リコ|2012|p=12}}。大貴族のエージェントともなれば小地主や並の中産階級を超える収入を得ることも可能だったといわれる{{Sfn|村上リコ|2012|p=12}}。エージェントはハウス・スチュワード以下の家事使用人より地位が上であり、雇い主と同等の上流紳士扱いこそ受けられないものの、時には招待を受けて食卓を囲んだため、男性指導教員(チューター)や邸宅付き聖職者などに近い立場にある存在だった。エージェントの登場以降は単に「スチュワード」といった場合はハウス・スチュワードのみを指すようになった{{Sfn|村上リコ|2012|p=12}}。

男性スタッフを直接監督する上級使用人に[[バトラー]](butler,「[[執事]]」と訳される{{Sfn|小林章夫|2005|p=36}})がある。ハウス・スチュワードが置かれていない場合はバトラーがその役割も兼ねる{{Sfn|村上リコ|2014|p=37}}。バトラーは制服ではなく、その時々の紳士の服装をすることが多かった{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=119}}。経験を積んだ年配であることが多く、独身であることが条件にされていることが多かった{{Sfn|小林章夫|2005|p=37}}。他の使用人からは姓に「ミスター」をつけて呼ばれるのが一般的だった{{Sfn|小林章夫|2005|p=37}}。あるいは「sir」と呼ばれる場合もあった{{Sfn|北山環|2011|p=10}}。主人とその一家からは苗字で呼び捨てにされる{{Sfn|北山環|2011|p=10}}。もともとバトラーは[[ワイン]]や[[エール (ビール)|エール]]など酒類を管理する役割を持っていた使用人だったが、酒類の管理は館の仕事の中でも重要な物だったので、やがてバトラーが使用人の長になった経緯があった{{Sfn|小林章夫|2005|p=37}}。近代に入っても酒類の管理の職責は続き{{Sfn|村上リコ|2012|p=64}}、さらに銀器の管理{{Sfn|村上リコ|2012|p=16}}、食卓の給仕の指揮管理{{Sfn|小林章夫|2005|p=39}}、主人の読む新聞のアイロン掛け{{Sfn|小林章夫|2005|p=38}}などを担当することが多かった。使用人の数が少なければ少ないほどバトラーが直接やらねばならない仕事が増える傾向があった{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=119-120}}。

主人の身の回りの世話をする男性使用人として[[ヴァレット]](valet,「従者」{{Sfn|小林章夫|2005|p=40}}と訳される)があった。主人の行くところにどこでも付いていき、自邸の食事でも他所に招かれた時でも常に主人の後ろに立っていなければならない{{Sfn|小林章夫|2005|p=41}}。最も身近な使用人なので相手の気持ちをいち早く察する人でないと務まらなかった{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=120}}。また海外旅行にも付いていくので、ある程度外国語を話せる者が好ましかった{{Sfn|村上リコ|2012|p=16}}。仕事の性質上バトラーやスチュワードの役割を兼ねる場合もあった{{Sfn|小林章夫|2005|p=40}}。制服は着用せず、紳士に近い服装をしていた{{Sfn|小林章夫|2005|p=41}}。ここまでが上級使用人となる{{Sfn|田中亮三|2009|p=14}}。

下級使用人として[[フットマン]](Footman、「[[下僕]]」{{Sfn|島崎晋|2014|p=78}}「従僕」{{Sfn|小林章夫|2005|p=42}}と訳される)がある。バトラーの指揮下で華やかな制服を着て仕事に当たるが、その仕事は多岐に渡る{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=122}}。客の応対、馬車での外出の付き添い、食卓の給仕などほぼなんでもこなす{{Sfn|田中亮三|2009|p=15}}{{Sfn|村上リコ|2014|p=37}}。長くカントリーハウスの使用人を務めたスタンリー・エイジャーが著した『バトラーズ・ガイド』によれば、フットマンはランクによっても異なるが、概して朝6時には起きて主人を起こし、衣類にブラシをかけて揃えて置く、夜会服も整えて置き、主人がいつでもディナーに出かけられるよう準備しておく、食事の際には給仕、午後4時半にはティー、午後6時には酒類の用意、銀器を洗う担当の日でなければ、大半は客の送り迎え、電話対応、玄関で家族の帰りを待つなどして過ごす、ディナー後には主人たちの部屋の整理、衣服にブラシ、午後10時半か11時には居間に酒を運ぶ。主人一家と客がベッドに入るまでフットマンに自由はなく、ビリヤードやカード遊びが長引くと朝4時頃まで寝られない時もしばしばあったが、そんな日でも仕事は朝6時から始まったという{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=122}}。

さらにその下の雑用としてボーイ(boy){{Sfn|島崎晋|2014|p=40}}やペイジ(page){{Sfn|小林章夫|2005|p=42}}と呼ばれる使用人が置かれることもあり、「下僕見習い」と訳される{{Sfn|島崎晋|2014|p=40}}。石炭運びのような力仕事、何かを磨くような汚れ仕事を主に担当した。男性使用人のキャリアは大抵このボーイから始まる。使用人数が多い館ではホールボーイやランプボーイなど仕事別に呼び分けられている場合もあった{{Sfn|島崎晋|2014|p=78}}。

家の外回りの使用人(outdoor staff)としては、まず馬車の操縦と手入れを行う[[コーチマン]](Coachman, 「[[御者]]」と訳される)があった。アウトドア・スタッフの中では最上位だった。穏やかな速度で馬を走らせることができるのが腕のいいコーチマンと見なされており、[[イザベラ・ビートン]]によれば理想的なスピードは時速11キロから13キロだったという{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=123}}。また馬の手入れと調教を行う使用人に[[グルーム]](groom,「[[馬丁]]」「厩番」と訳される)があった{{Sfn|田中亮三|2009|p=17}}{{Sfn|村上リコ|2014|p=37}}。大きなカントリーハウスだと、馬を5、60頭ぐらい飼っていたりするので、グルームもたくさん必要だったという{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=123}}。

庭園の整備は[[ガーデナー]](gardener、「[[庭師]]」「造園係」と訳される)が担当する。[[ウェストミンスター公爵]]グローヴナー家の邸宅{{仮リンク|イートン・ホール (チェシャー)|label=イートン・ホール|en|Eaton Hall, Cheshire}}ではトップのガーデナーの下に40人の助手があったという{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=123}}。

他のアウトドアスタッフとして密猟者の監視と狩猟用の[[キジ]]の養殖を行う[[ゲームキーパー]](gamekeeper,「狩猟番」と訳される)などがあった{{Sfn|田中亮三|2009|p=17}}{{Sfn|村上リコ|2014|p=37}}。

=== 女性使用人 ===
[[File:Downton Abbey costumes at Tjolöholms Slott, Sweden 06.jpg|thumb|150px|ドラマ『ダウントン・アビー』でハウス・メイドのヘッドのアンナ(演{{仮リンク|ジョアンヌ・フロガット|en|Joanne Froggatt}})が着ていた衣装]]
女性使用人の統括は[[ハウスキーパー]](house keeper、「[[家政婦]]」と訳される)が行った。夫人が直接選ぶレディーズメイドなどを除き、女性使用人の雇用・解雇の責任者であった{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=118}}。通常は厳格・真面目な年配者で、ある程度教養もある女性が就任することが多かった{{Sfn|小林章夫|2005|p=48}}。酒類に関する知識や、病気や怪我の応急処置の知識も必須とされた{{Sfn|小林章夫|2005|p=50}}。ハウスキーパーは既婚か未婚かに関わらず「ミセス」で呼ばれた{{Sfn|小林章夫|2005|p=48}}。制服を着ることはなく、常に鍵束をもって邸内を見回り、問題を見つければ担当者を叱責した{{Sfn|小林章夫|2005|p=48}}。また自らの仕事としては[[リネン]]と[[陶磁器]]の管理、日用品の注文と支給などを主に行い、家によってはスティルルームという小規模なキッチンでスティルメイドを従えて、[[ジャム]]や[[ピクルス]]のような保存食を作ったり、茶やコーヒーを淹れたり、高価なお菓子を焼いたりもした{{Sfn|村上リコ|2014|p=36}}。年季の入った女性使用人でないとうまくできないとされたためである{{Sfn|小林章夫|2005|p=50}}。また夫人の付き添い、あるいはその代理人という形で慈善事業に関わることも多かった{{Sfn|小林章夫|2005|p=50}}。

女性使用人の中でヴァレットの役割に相当するのが[[レディーズ・メイド]](lady's maid,「[[侍女]]」{{Sfn|田中亮三|2009|p=15}}「小間使い」{{Sfn|小林章夫|2005|p=51}}と訳される)であった。夫人の身の回りの世話、ドレスや帽子の管理、髪結い、美容全般などを担当した{{Sfn|田中亮三|2009|p=15}}。そのためこの地位に就くには針仕事などの技術が必要だった{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=118}}。また若くて背が高く、明るくて従順で、健康面に問題がなく、ある程度の教養もあることも大事だった{{Sfn|小林章夫|2005|p=51}}。

娘たちの世話は別にヤング・レディーズ・メイドが置かれたり、ハウスメイドなどに兼任させることもあった{{Sfn|村上リコ|2014|p=36}}。幼い子供の世話をする上級使用人として[[ナニー (イギリス)|ナニー]](nanny)もあった{{Sfn|村上リコ|2014|p=36}}。

上級使用人としてコック(cook,「料理人」と訳される)があった。キッチンで働く使用人たちを指揮し、食材の管理と調理を担当する。男性のコックを雇うのは非常に高価だったので多くの家では賃金が安い女性のコックを雇っていた{{Sfn|村上リコ|2014|p=36}}。コックの腕前は館の評判を左右したので極めて重視され、その地位は使用人の中でもかなり高く「ミセス」と呼ばれて敬意が払われた{{Sfn|小林章夫|2005|p=55}}。バトラーはおろか、場合によっては夫人すらもコックの許可なくキッチンに入ることは許されなかったという{{Sfn|小林章夫|2005|p=55}}。

女性の下級使用人としてフットマンに相当するハウスメイド(house maid、「女中」と訳される{{Sfn|小林章夫|2005|p=60}})があった{{Sfn|村上リコ|2014|p=36}}。家の雑務全般を担い{{Sfn|小林章夫|2005|p=60}}、邸内の掃除をはじめ、暖炉の世話、使用人が食事をとったり休息をしたりするサーヴァントホールでの食事の準備など仕事は多岐にわたる{{Sfn|村上リコ|2014|p=36}}{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=119}}。英語に「housemaid's kness」という表現があったが、これはハウスメイドが年中膝をついて床掃除をしているために結果的に起きる炎症を指す言葉であり、大変な重労働であったことが伺える{{Sfn|小林章夫|2005|p=60}}。ヘッドのハウスメイドは若いメイドが仕事してるかを管理したり、家具を磨いたりした{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=119}}。

またコックの下で調理を補佐するキッチンメイド、さらにその下にあって洗い場で調理器具や食器洗い、レンジの手入れ、食材の下ごしらえなどの重労働を担当したスカラリーメイドを置いた家もあった{{Sfn|村上リコ|2014|p=36}}。

=== 使用人の職場と待遇 ===
[[File:Stansted House, The servants' hall - geograph.org.uk - 4529164.jpg|thumb|250px|[[ベスバラ伯爵]]ポンソンビー家の邸宅だった{{仮リンク|スタンステッド・ハウス|en|Stansted Park}}のサーヴァント・ホール]]
カントリーハウスで使用人たちが家事を担当する裏方の領域は、地階、あるいは半地下にあることが多く、そこに繋がる裏階段が壁の内側にあるサービス用通路とともに目の触れないところへ設置されていたため、使用人の領域は「ビロウ・ステアーズ(below stairs)」とか「バック・ステアーズ・ライフ(back stairs life)」とか呼ばれた{{Sfn|田中亮三|2009|p=17}}{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=114}}。

使用人たちの働く部屋としてはキッチン、スカラリー(scullery,洗い場)、スティルルーム(stillroom、パイを作ったり、野菜を煮立てるもう一つの台所)、パントリー(pantry, グラス・カトラリー・金属器を収納する部屋)、ナイフルーム(kniferoom、念入りに研いだり磨いたりする必要がある象牙や骨製の柄のついたナイフを収納する部屋)、ラーダー(larder、肉類を処理し、卵、チーズ、バターなどを収納する部屋)、ローンドリー(laundry,洗濯室)、チャイナルーム(chinaroom,陶磁器類を収納する部屋)、セラー(cellar,ワイン貯蔵庫。大きな屋敷では自家醸造したビールを樽に貯蔵するビヤセラーもあった)、サーヴァント・ホール(使用人の食堂)などがあった{{Sfn|田中亮三|2009|p=25}}。

使用人の居住空間は時代によって変遷があるが、歴史の古い館だと地下、新しくなるにしたがって、別棟(servant's wing)であることが多くなった{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=114}}。中世から18世紀ぐらいまでは「ファミリー」といえば使用人も含めて同じ屋根の下で暮らす者たちのことだったが、19世紀に入ると使用人は「ファミリー」から外された。家族と直接関係する使用人はスチュワード、バトラー、ハウスキーパー、ヴァレット、レディーズメイドなどの上級使用人に限られた{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=114}}。そのため下級使用人たちにとってバトラーやハウスキーパーは館の主人よりも怖い存在であったという{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=124}}。

1880年発行の『使用人の実用的ガイド』を見ると、使用人の中で最も給与が高いのはバトラーではなく、男性コックであり、年俸は100~150ポンドほどである(ただし前述のとおりコックは女性であることが多く、女の場合は給料は大きく下がる){{Sfn|島崎晋|2014|p=65}}。ハウス・スチュワードとバトラーは50~80ポンド、ヴァレットは30~50ポンド、フットマンはランクの高い者が28~32ポンド、低い者は14~20ポンド程度だったという{{Sfn|小林章夫|2005|p=91}}。最も給料が低いのはホールボーイであり、6ポンドから8ポンドしかもらえなかった{{Sfn|島崎晋|2014|p=65}}。アウトドアサーヴァントではコーチマンが25~60ポンド、グルームの頭は18~25ポンド、下級のグルームは14~20ポンド程度である{{Sfn|小林章夫|2005|p=91}}。女性使用人もコックが最も年俸が高く、本職のコック(上流階級のパーティー料理を作れる技術のある者)であれば50~70ポンド、素人コックだと16~30ポンド程度である。ついでハウスキーパーが30~50ポンド、レディースメイドが20~35ポンド、ハウスメイドは上級なら20~30ポンド、下級なら12~18ポンド程度である{{Sfn|小林章夫|2005|p=91}}。しかし使用人には給料の他にも職務から発生する特殊な収入があった。館から廃棄されるものを入手したり、諸手当やチップを得ることなどであり、これらを総額するとそれなりの金額になり、下の方の役職者だと年俸を上回ることも珍しくなかったという{{Sfn|島崎晋|2014|p=91}}。

使用人同士の恋愛はたいていのカントリーハウスで禁じられていたが、若い男女が多数務めている場所で情事を完全に防ぐのは無理であり、使用人同士が静かに恋を進行させることはよくあったらしい{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=126}}。

=== 使用人の採用と働く理由 ===
下流階級は子だくさんであることが多く、家計を助けさせるため、小学校高学年在学中か卒業後には子供を働きに出した{{Sfn|島崎晋|2014|p=70-71}}。そうした子供らを働かせる人気の職場の一つが貴族のカントリーハウスだった。衣服も食事も支給される貴族の館は親にとって負担が少なくて楽だったし、娘であれば貴族の館で働くことで家事、教養、マナー等を身につけることができれば、結婚の準備にもなったからである{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=110}}。

とはいえ小学校を出たばかりの無知な子供を貴族の館がいきなり雇ってくれることは稀であり、まずは近所の地主とか商店のもとに1年から1年半ほど奉公に出し、その後新聞広告や使用人登録所を通じて、あるいは地元有力者に仲介を依頼するなどして貴族の館に接触を図るのが一般的なルートだった{{Sfn|島崎晋|2014|p=70-71}}。男子使用人はハウス・スチュワード(設置されていなければバトラー){{Sfn|村上リコ|2014|p=37}}、女子使用人はハウスキーパーが雇用するかどうかを決定する権限を持つ{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=118}}。採用は書類審査と面接によって決められた{{Sfn|島崎晋|2014|p=71}}。

合格した者は貴族の邸宅に奉公にあがることになるが、概ね10歳ぐらいの頃のことである{{Sfn|小林章夫|2005|p=86}}。20歳過ぎて雇われる者もあったが、これは経験者の中途採用である。中途採用の場合は履歴書に加えて、前の主人の推薦状が要求されることが多かった{{Sfn|島崎晋|2014|p=71}}。途中採用者も少なくはないが、幼少期からずっと同じ館に勤め続ける者も多かった{{Sfn|小林章夫|2005|p=88}}。

カトリック差別が横行していた時代には、「カトリックは応募に及ばず」「英国国教会信徒以外は不可」といった条件が付けられる募集広告も多く見られた{{Sfn|島崎晋|2014|p=71}}。またアイルランド独立運動絡みでアイルランド人には過激派が多かったことからアイルランド人の採用を拒否する貴族も多く見られた{{Sfn|島崎晋|2014|p=91}}。

館の仕事を一生の仕事としようという者はキャリアサーヴァントといった。「アッパー・サーヴァント」への昇進に望みを繋ぐ人たちである。コーチマン、ガーデナー、ゲームキーパーなどにキャリア・サーヴァントが多かった{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=110}}。労働者階級の女性の中にも家庭生活での従属と骨折り仕事よりカントリーハウスで働く独身生活の方をよしとする者は少なくなったという{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=110}}。

アンジェラ・ランバートによれば1891年時においてイギリスには中・上流階級家庭に仕える家事労働者が150万人はおり、実に労働者の16%を占め{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=110}}、イングランドとウェールズにおいては労働者の中で家事使用人が最も大きな割合を占めた{{Sfn|島崎晋|2014|p=64}}。

カントリーハウス使用人は基本的に薄給なうえに休日がなく、朝6時から夜10時から11時まで働き詰めになるハードな仕事だが、他に働き場所がなかったりで、貴族やジェントリのために低賃金で長時間労働できることをむしろ恩典だと思っている人が多かったという{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=110}}。

産業革命後のイギリスは土地の囲い込みで農村部から都市部に人口が流出し、都市部の工場や湾岸が雇用の受け皿となったが、19世紀後半になるとイギリスの工業生産力はアメリカとドイツに追い抜かれ、ロシア、イタリア、日本などの新興国も猛追してきたため、もはやイギリスは19世紀半ばの頃のような抜きんでた工業国ではなくなった{{Sfn|島崎晋|2014|p=65}}。伴って輸出は低迷し、ラテンアメリカ諸国やカナダ、オーストラリアから安価な農畜産物が流入してきて第1次産業は深刻な被害を被った{{Sfn|島崎晋|2014|p=65}}。その結果、多くの人が住み慣れた土地を離れて海外に移民するか、サービス業につくしかなくなり、家事使用人、特に貴族の館で働きたいと望む者は増えることはあれ、減ることはなかったのである{{Sfn|島崎晋|2014|p=65}}。

=== 使用人退職後 ===
退職した使用人にはおおむね2つの道があった。1つは長年奉公していた間に貯まった金を生活費に充てるものである。働いている間は衣食住に金はほとんどかからないので、給料が高い上級使用人だとまとまった金額が手元に残る。低賃金の下級使用人でも博打や酒に溺れていなければ、そこそこの金額が貯まったという。また気前のいい主人であれば、辞める際に退職金代わりにまとまった金額を与えることもあったようである{{Sfn|小林章夫|2005|p=89}}。

もう1つの道はその金を元手に店を開くことである。多いのは大地主の邸宅に勤務してきた使用人が退職後その邸宅の近くに店を構えるものである。パブが特に人気の商売だったという。邸宅の使用人や出入り業者がそこを利用するようになり、必然的に店は繁盛したという。また気前のいい主人だったら、借地料なし、あるいは極めて低額で土地を貸してくれ、開業を支援してくれることがあったという{{Sfn|小林章夫|2005|p=90}}。

== 貴族の教育 ==
=== グランドツアー ===
[[ファイル:8thDukeOfHamilton.jpg|サムネイル|228x228ピクセル|[[グランドツアー]]途上の[[ダグラス・ハミルトン (第8代ハミルトン公爵)|第8代ハミルトン公爵]]。同行者の医師と息子が左右に描かれている。]]
18世紀後半頃まで貴族をはじめとしたアッパークラスの教育は家庭で行われることが多かった。教育内容は、中世末の頃には武勇や騎士道的な振る舞いが関連づけられ、形式的教育は退けられていたといわれるが、16世紀初め頃までにはヨーロッパからの影響で[[ラテン語]]や[[ギリシャ語]]で古典や聖書を読み、その精神を身に着けることが学問の中心となった{{Sfn|新井潤美|2022|p=147-148}}。

そうした家庭教育を受けた後、[[グランド・ツアー]]と呼ばれるヨーロッパ大陸を旅行して見聞を広げることが教育の総仕上げとして行われた。16世紀のエリザベス朝の頃からアッパー・クラスの子弟はエリザベス女王やオックスフォード大学、ケンブリッジ大学などの支援でヨーロッパを旅行するようになったが、その数は決して多くはなかった。海賊や盗賊などの治安の悪さ、カトリック国によるプロテスタント弾圧、整備されていない道、粗末で不衛生な宿など、当時の海外旅行は危険が多かったからである。グランドツアーがアッパークラスの子弟の間で慣例化するようになったのはこうした危険が減った17世紀後半ぐらいからである{{Sfn|新井潤美|2022|p=149-152}}。特に18世紀に入った後に盛んになった{{Sfn|田中亮三|2009|p=49}}。しかしこの慣習は18世紀末のフランスとの戦争([[フランス革命戦争]]から[[ナポレオン戦争]])でヨーロッパ内の移動が制限されたことで衰退していく{{Sfn|田中亮三|2009|p=52}}{{Sfn|新井潤美|2022|p=158}}。

=== パブリック・スクール ===
[[File:Eerste Wereldoorlog, oefening Eton College (3018263235).jpg|thumb|軍事訓練を行う第一次世界大戦下のイートン校の生徒たち。]]
代わってこの時期からアッパークラスの家は子弟を[[グラマー・スクール]](20世紀公立学校とは無関係)や[[パブリック・スクール]]に入学させるようになった。パブリックスクールの多くはもともと貧しい家庭の子供に教育を施すために作られた慈善施設なのだが、時代が下るにつれて学費をよく払う生徒が増やされていき、18世紀後半の頃には学費を払う生徒の方が多くなっていた。パブリックスクールがそのように変化した理由の一つは、医学の進歩で子供の死亡率が下がり、アッパークラスの家庭も子供全員を家で教育するのは難しくなり、厳しい規律や共同生活、体罰などに耐えられそうな強靭な子供(悪く言えば手のかかる子供)をパブリックスクールに入学させるようになったことがある{{Sfn|新井潤美|2022|p=159-160}}。

[[イートン校]]、[[ハーロー校]]、[[ラグビー校]]、[[ウィンチェスター・カレッジ|ウィンチェスター校]]などで有名なパブリックスクールは13歳から19歳までの間入学する寄宿制学校で食事をはじめ生活は極めて質素、規則に違反すると厳しい罰が与えられる。第二次世界大戦前には鞭で尻を打つ体罰が日常的に行われていた。6年間ここの生活に耐えられれば、いかなる環境でも耐えられるといわれ、19世紀大英帝国の繁栄はパブリックスクールの力ともいわれる{{Sfn|田中亮三|2009|p=55}}。

しかし手のかかるアッパークラス子弟が多数を占めるようになって最初の方の時期のパブリックスクールは規律も秩序もないワイルドな場所と化したという。教師たちは体罰によって生徒を統制しようとしたが、生徒側も負けずに反抗し、教師に対する生徒の反乱を収めるために軍隊が出動したこともあったという{{Sfn|新井潤美|2022|p=161}}。そのようなパブリックスクールが現在のように規律と秩序ある場所になったのは、1827年に[[ラグビー校]]の校長となった[[トマス・アーノルド]]とその後継者たちによる教育改革の成果である。学問だけでなく、生徒同士の人間関係、教師との信頼関係、人格形成などにも注意が払われるようになり、協調性やフェアプレイの精神を養う場所としてスポーツが奨励されるようになった。また教育内容も従来のギリシャ語、ラテン語などの古典教育偏重が改められ、現代史や現代言語(フランス語やドイツ語)、数学などが導入されるようになった{{Sfn|新井潤美|2022|p=161}}。

=== 大学 ===
[[ファイル:Entrance_to_Christ's_College_-_geograph.org.uk_-_3910791.jpg|サムネイル|246x246ピクセル|[[ケンブリッジ大学]]、[[クライスツ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|クライスツ・カレッジ]]の入口。[[マーガレット・ボーフォート]]の紋章を頭上に掲げる。彼女の子孫は現在の[[ボーフォート公爵|ボーフォート公爵家]]へと繋がる。]]
パブリックスクールを卒業したアッパークラス子弟は[[オックスフォード大学]]や[[ケンブリッジ大学]]に進学する者が多かった。両大学もパブリックスクールと同じく、もともとはアッパークラス子弟の教育機関ではなかった。聖職者養成のための教育機関だったが、両校とも17世紀初頭までには卒業後に聖職者になる学生数は半数まで落ちた。それ以外の学生は医者、法律家、公務員などになる者が多かった。こうした中にアッパークラスの長男までもが入学するようになったことは注目に値する。将来父の跡を継いで土地を管理する彼らは職業に就くための資格など必要ないはずだが、人脈を広げ、表面的な教養を身に着けるため入学したという{{Sfn|新井潤美|2022|p=162}}。ブロックリスの『オックスフォード大学の歴史』によれば、17世紀初頭にはオックスフォード入学者の30%から45%ぐらいがアッパークラスの子弟になっていたという。それ以外の学生は聖職者か平民の息子だったようである{{Sfn|新井潤美|2022|p=162}}。17世紀初頭の頃まではまだ貧しい平民の家の出の学生が一定数おり、こうした貧乏学生たちは裕福な学生から施しを受けたり、その身の回りの世話をして生計を立てたという{{Sfn|新井潤美|2022|p=162-163}}。しかし17世紀半ば頃から平民の学生数は減少し、聖職者かジェントルマンの息子の入学が増えた。貧しい学生が施しを求めることも忌避されるようになったという。19世紀になると両大学の入学者数が急増するが、貧しい家の学生が戻ってくることはなく、両大学ともアッパークラスおよびアッパーミドルクラスの教育機関として定着した。こうした経緯で両大学ともパブリックスクール卒業生が大部分を占めるようになったのである{{Sfn|新井潤美|2022|p=163}}。

=== 貴族女子の教育 ===
先進国イギリスでも女子の学校教育はなかなか普及しなかった。貴族の男子が小学校やパブリックスクールに入学するようになった時代以降も女子はそうしたところに入学することはなく、20世紀初頭まで女子の初等・中等教育は家庭で行われるのが伝統だった。そのため貴族の邸宅には教室や[[ガヴァネス]]の寝室があったりした。学習の他、淑女になるための作法、ダンス、裁縫、料理などの習い事をして成長した{{Sfn|田中亮三|2009|p=57}}。

次男は長男に万が一があった時の代わりとなるので教育をないがしろにするわけにはいかなかったが、娘は相続の可能性がないため、良い結婚のための礼儀作法と教養されあれば十分と考えられていたためである{{Sfn|新井潤美|2022|p=85}}。

女子の学校教育が普及したのは20世紀以降であり、それは婦人参政権運動の先覚者[[サフラジェット]]の影響だった{{Sfn|田中亮三|2009|p=57}}。

== 貴族の英語 ==
イギリスでは貴族をはじめとする上流階級(upper class)と、非上流階級(non-upper class)の間で英語の発音や語彙が違った時代があり、1950年代頃にこれが注目されて、しばしば論じられた{{Sfn|百武玉恵|浅田壽男|2018|p=178}}。近年はイギリスでも社会階級、あるいは階級意識そのものが衰退しているため、こうした現象は減り、この方面の研究ブームは去った感があるが{{Sfn|百武玉恵|浅田壽男|2018|p=179}}、それまでは次のようなことがよく論じられた。

=== 発音 ===
貴族など上流階級が使ったイギリス英語の伝統的な事実上の標準語を[[容認発音]](Received Pronunciation)といい、1960年代以前には公共放送[[BBC]]でもアナウンサーの発音としても使われ、また王族の英語として使われることから「キングズ・イングリッシュ」(King's English)もしくは「クイーンズ・イングリッシュ」(Queen's English)とも呼ばれた{{Sfn|藤森あすか|2008|p=113}}。容認発音はもともと中世後期にロンドンを含むイングランド南部で発達し、ヴィクトリア朝の1870年に正しい英語の読み書きとして広められ、各地から都市のパブリックスクールに集められた上流階級の生徒らの間で標準語として話されたものである。そのため地方的なバラツキがない{{Sfn|藤森あすか|2008|p=113}}。容認発音の主な特徴として次のものがあげられる{{Sfn|藤森あすか|2008|p=113}}。
#{{lang|en|r}}を発音するのは次に母音が続く場合のみで、音節末の[[r音性母音|r音化]]がない({{lang|en|car}}であれば{{IPA|kɑ}}){{Sfn|藤森あすか|2008|p=113}}。
#{{lang|en|ask}}、{{lang|en|bath}}、{{lang|en|chance}} など(後続の子音が「二字一音の摩擦音」「摩擦音+破裂音」や「鼻音+他の子音」であることが多いが、規則的ではない)の {{lang|en|a}} は RP(容認発音)では[[開後舌非円唇母音|非円唇後舌広母音]] {{IPA|ɑ}} となる{{Sfn|藤森あすか|2008|p=114}}。
#{{lang|en|stop}} などの {{lang|en|o}} は[[円唇後舌広母音]]({{IPA|stɒp}}){{Sfn|藤森あすか|2008|p=114}}。
#{{lang|en|better}} など母音間・強勢後の {{IPA|/t/}} は {{IPA|t}}(ベター)とアメリカ英語よりもはっきり発音(アメリカ英語は[[弾音|歯茎はじき音]]){{Sfn|藤森あすか|2008|p=114}}。
#{{lang|en|bluntness}} などの {{IPA|/t/}} は[[声門閉鎖音]] {{IPA|ʔ}} になる{{Sfn|藤森あすか|2008|p=114}}。
#{{IPA|/ou/}} を {{IPA|oʊ}} ではなく {{IPA|əʊ}} で発音する。{{IPA|ɛʊ}} のように聞こえることもある{{Sfn|藤森あすか|2008|p=114}}。
#{{lang|en|new}} を {{IPA|njuː}}(ニュー)、{{lang|en|tune}} を {{IPA|tjuːn}}(テューン)と発音する(アメリカ英語では {{IPA|nuː}}(ヌー)、{{IPA|tuːn}}(トゥーン)と発音する人が多い){{Sfn|藤森あすか|2008|p=114}}。
#{{lang|en|head}} など語頭の {{IPA|/h/}} を発音する{{Sfn|藤森あすか|2008|p=114}}。

しかし1960年代以降BBCでも普通の発音が一般的になるに及んで、かつて容認発音で話していた上流階級層も若者などは使わなくなり、2008年時点では容認発音の使用者は3%程度にまで減少している{{Sfn|藤森あすか|2008|p=114}}。

=== 語彙 ===
階級が異なると語彙も異なった。例として以下のようなものがあげられる。

{| class="wikitable"
|+ 上流階級と非上流階級の語彙の差
! 日本語 !! 上流階級の英語 !! 非上流階級の英語 !! 出典
|-
! 悪臭
| awful smell || unpleasant odour ||{{Sfn|百武玉恵|浅田壽男|2018|p=179}}
|-
! 家
| house || home ||{{Sfn|藤森あすか|2008|p=118}}
|-
! 贈り物
| present || gift ||{{Sfn|藤森あすか|2008|p=118}}
|-
! 鏡
| looking-glass || mirror ||{{Sfn|藤森あすか|2008|p=118}}{{Sfn|百武玉恵|浅田壽男|2018|p=179}}
|-
! 聞き返すとき
| What? || Pardon? ||{{Sfn|藤森あすか|2008|p=118}}{{Sfn|百武玉恵|浅田壽男|2018|p=179}}
|-
! ケーキ
| cake || pastry ||{{Sfn|百武玉恵|浅田壽男|2018|p=179}}
|-
! 高価な
| expensive || costly ||{{Sfn|百武玉恵|浅田壽男|2018|p=179}}
|-
! 香水
| scent || perfume ||{{Sfn|百武玉恵|浅田壽男|2018|p=179}}
|-
! 自転車
| bike,bicycle || cycle ||{{Sfn|藤森あすか|2008|p=118}}
|-
! 死ぬ
| die || pass on ||{{Sfn|百武玉恵|浅田壽男|2018|p=179}}
|-
! ジャム
| jam || preserve ||{{Sfn|藤森あすか|2008|p=118}}{{Sfn|百武玉恵|浅田壽男|2018|p=179}}
|-
! 十分な
| enough || sufficient ||{{Sfn|百武玉恵|浅田壽男|2018|p=179}}
|-
! 知りません
| I don't know. || I couldn't say. ||{{Sfn|藤森あすか|2008|p=118}}
|-
! 洗練された
| smart || Classy ||{{Sfn|百武玉恵|浅田壽男|2018|p=179}}
|-
! 男性の礼服
| dinner jacket || dress-suit ||{{Sfn|百武玉恵|浅田壽男|2018|p=179}}
|-
! 電報
| telegram || wire ||{{Sfn|百武玉恵|浅田壽男|2018|p=179}}
|-
! トイレットペーパー
| lavatory-paper || toilet-paper ||{{Sfn|藤森あすか|2008|p=118}}{{Sfn|百武玉恵|浅田壽男|2018|p=179}}
|-
! トランプのジャック
| Knave || jack(in card) ||{{Sfn|百武玉恵|浅田壽男|2018|p=179}}
|-
! ナプキン
| table-napkin || serviette ||{{Sfn|藤森あすか|2008|p=118}}{{Sfn|百武玉恵|浅田壽男|2018|p=179}}
|-
! 妊娠している
| pregnant || expecting ||{{Sfn|藤森あすか|2008|p=118}}{{Sfn|百武玉恵|浅田壽男|2018|p=179}}
|-
! 野菜
| Vegetables || Greens ||{{Sfn|藤森あすか|2008|p=118}}
|-
! 裕福
| rich || wealthy ||{{Sfn|藤森あすか|2008|p=118}}{{Sfn|百武玉恵|浅田壽男|2018|p=179}}
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! ラジオ
| wireless || radio ||{{Sfn|藤森あすか|2008|p=118}}
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上記の通り、上流階級が「気取った」「上品な」「遠まわしな表現」を使うとは限らず、むしろ非上流階級の方にそうした表現が多い{{Sfn|百武玉恵|浅田壽男|2018|p=179}}{{Sfn|藤森あすか|2008|p=118}}。特に「悪臭」「死ぬ」「知りません」「妊娠している」などは上流階級が直球の不躾な表現で言うのに対し、非上流階級は婉曲的に表現している{{Sfn|百武玉恵|浅田壽男|2018|p=179}}。


== 大陸貴族との違い ==
== 大陸貴族との違い ==
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[[フランス王国|旧体制フランス]]の貴族は自分たちの特権に固執したので閉鎖的なカーストとなり、その結果[[フランス革命]]で破局を迎えることになるが、英国貴族や紳士は貧民の保護を自らの義務・名誉と心得ていたので積極的な慈善事業を行ったし、特権も適時に徐々に手放したので、閉鎖的なカーストとならず、むしろ無限に社会の底辺にまで広がっていた。「労働貴族」(熟練労働者が未熟練労働者と徒弟に対してあたかも貴族であるかのように教育と保護の義務を負う)の概念はそれを象徴する。19世紀フランスの歴史家[[フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー]]、[[フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン]]、[[アレクシ・ド・トクヴィル]]、[[イポリット・テーヌ]]らがそろってイギリス貴族制を「義務・責任を負った貴族制」([[ノブレス・オブリージュ]])として羨望と賞賛の言葉を送っている所以である{{Sfn|安東伸介|1982|p=811}}。
[[フランス王国|旧体制フランス]]の貴族は自分たちの特権に固執したので閉鎖的なカーストとなり、その結果[[フランス革命]]で破局を迎えることになるが、英国貴族や紳士は貧民の保護を自らの義務・名誉と心得ていたので積極的な慈善事業を行ったし、特権も適時に徐々に手放したので、閉鎖的なカーストとならず、むしろ無限に社会の底辺にまで広がっていた。「労働貴族」(熟練労働者が未熟練労働者と徒弟に対してあたかも貴族であるかのように教育と保護の義務を負う)の概念はそれを象徴する。19世紀フランスの歴史家[[フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー]]、[[フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン]]、[[アレクシ・ド・トクヴィル]]、[[イポリット・テーヌ]]らがそろってイギリス貴族制を「義務・責任を負った貴族制」([[ノブレス・オブリージュ]])として羨望と賞賛の言葉を送っている所以である{{Sfn|安東伸介|1982|p=811}}。


== 貴族の長男以外の子女について ==
== 「ヤンガーサン」 ==
=== 「ヤンガーサン」 ===
[[File:18-Castle Howard-035.jpg|250px|thumb|[[カーライル伯爵]][[ハワード家]]の邸宅だった[[カースル・ハワード|ハワード城]]]]
イギリス貴族の次男以下は「ヤンガーサン(younger son)」と通称される。爵位を継承できるのは長男だけなので、ヤンガーサンは兄が男子なく死んで爵位を継承するか、自身が新規に爵位を与えられない限り平民である{{Sfn|山田勝|1994|p=26}}。また財産面でもイギリス貴族は厳格な長子相続制をとっており、貴族の土地は相続時の契約で分割不可能であるため、ヤンガーサンに分け前はない{{Sfn|田中亮三|2009|p=60}}。徹底した長子相続制は貴族の土地の細分化を防ぐ意味があった{{Sfn|安東伸介|1982|p=810}}。
イギリス貴族の次男以下の息子は「ヤンガーサン (younger son)」と通称される。あるいは「カデット (cadet)」と呼ばれることもある{{Sfn|新井潤美|2022|p=36}}。爵位を継承できるのは長男 (eldest son)だけなので、ヤンガーサンは兄が男子なく死んで爵位を継承するか、自身が新規に爵位を与えられない限り平民である{{Sfn|山田勝|1994|p=26}}。また財産面でもイギリス貴族は、[[長子相続]] (primogeniture)と[[限嗣相続]]制 (entail)によって長男のみが爵位と屋敷と土地を相続する制度をとっており、貴族の土地は相続時の契約で分割不可能であるため、ヤンガーサンに分け前はない{{Sfn|田中亮三|2009|p=60}}{{Sfn|新井潤美|2022|p=37/78}}。これは貴族の土地の細分化を防ぐ意味があった{{Sfn|安東伸介|1982|p=810}}。


ヤンガーサンにも長男と同じような教育が与えられたが、長男のように土地収益で生活することはできないので、大人になると何らかの職業に就いて生計を立てることが要求された{{Sfn|新井潤美|2022|p=37-38}}。ヤンガーサンが就いた主な職業は「専門的職業」(professions)が多く、たとえば陸海軍士官、外交官、聖職者、[[法廷弁護士]] (barrister)などである。金融や貿易に携わる者もあった{{Sfn|新井潤美|2022|p=39}}。ヤンガーサンは名誉称号以外は一般の紳士とほぼ変わりない存在だったといえる{{Sfn|安東伸介|1982|p=810}}。しかし陸軍将校や聖職者になるのはコネと金が重要だったのでヤンガーサンはそうした地位を得やすく、親や親族に用意してもらうのが一般的だった{{Sfn|新井潤美|2022|p=45}}。
ヤンガーサンは名誉称号以外は一般の紳士とほぼ変わりない存在であるため、商工業の事業に従事するなどして生計を立てた{{Sfn|安東伸介|1982|p=810}}。そのような立場のためにヤンガーサンは社交界においても貴婦人から避けられる存在で、結婚が難しかったという{{Sfn|山田勝|1994|p=26}}。それだけにヤンガーサンたちは身を立てようと勉学に励み、政治家、軍人、法律家、学者、植民地行政官などになる者も多く、[[18世紀]]から[[19世紀]]の[[大英帝国]]の繁栄を支えたといわれる{{Sfn|田中亮三|2009|p=60}}。


これは土地収益で暮らす「アッパー・クラス」に生まれ育ちながら、大人になると誰かから報酬をもらって生活する「ミドル・クラス」に落ちるということでもある。このことを指して歴史学者ローレンス・ストーンとジャンヌ・C・フォーティヤ・ストーンは、イギリス貴族のヤンガーサンはヨーロッパと違って常に階級的に「下に移動」したと表現する{{Sfn|新井潤美|2022|p=38}}。歴史研究者ローリー・ムーアは「これらの職業に就いた良い家柄のヤンガーサンのほとんどは社会階層が下がるわけだが、一方でブルジョワの息子たちは、自分たちの父親より高い地位(社会的な意味であって、必ずしも経済的に高くなるわけではない)を手に入れてそれを守っていくことを試みた」とし、それにより貴族のヤンガーサンとブルジョワの息子は、摩擦を抱えながらも出自を超えた仲間意識、職業への集団的な帰属意識を持つようになり「アッパー・ミドル・クラス」と呼ばれる階級を形成したとする{{Sfn|新井潤美|2022|p=38}}。
公爵家と侯爵家のヤンガーサンは「卿(Lord)」の[[儀礼称号]]をファーストネームに対して使用できる(あくまで儀礼称号にすぎず、身分は平民である)。伯爵家のヤンガーサンと子爵・男爵の息子(長男含む)は「[[オナラブル]](閣下)」の敬称で呼ばれる。また貴族の娘は、伯爵以上の貴族の娘が「嬢(Lady)」、子爵以下の貴族の娘が「オナラブル」の敬称で呼ばれる{{Sfn|田中亮三|2009|p=61}}。

貴族の長男とヤンガーサンではあまりに財産や地位が違いすぎるため、ヤンガーサンは社交界において貴婦人から避けられる存在だったという{{Sfn|山田勝|1994|p=26}}。そのため「アッパークラス」の女性との結婚は難しく、多くの場合「ミドルクラス」から妻をもらうことになった{{Sfn|新井潤美|2022|p=78}}。

一方でヤンガーサンは爵位や財産がなくとも、親や祖父母から貴族的な言葉遣いや慣習を叩きこまれているために「アッパークラス」との密接な関係者であるという自負心を持つ者は多かった{{Sfn|新井潤美|2022|p=51}}。ヤンガーサンには身を立てようと勉学に励む者も多く、政治家、軍人、法律家、学者、植民地行政官などになって[[18世紀]]から[[19世紀]]の[[大英帝国]]の繁栄を支えたといわれる{{Sfn|田中亮三|2009|p=60}}。

なお19世紀のヨーロッパ大陸では長子相続制・限嗣相続制が多くなかったため、土地の分散化問題が起こったし、爵位が長男以外にも与えられることから貴族インフレが起きて爵位の価値も低下した。対してイギリス貴族は、ヤンガーサンを「ミドルクラス」に送り込むことによって土地財産を維持するとともに爵位を価値ある物として続かせることに成功し、ヨーロッパ貴族の中でも稀有な存在となった{{Sfn|新井潤美|2022|p=79}}。

公爵家と侯爵家のヤンガーサンは「ロード(Lord, 卿)」の[[儀礼称号]]をファーストネームに対して使用できる(あくまで儀礼称号にすぎず、身分は平民である)。伯爵家のヤンガーサンと子爵・男爵の息子(長男含む)は「[[オナラブル|ジ・オナラブル]](The Honourable, 閣下)」の敬称で呼ばれる{{Sfn|田中亮三|2009|p=61}}{{Sfn|新井潤美|2022|p=23}}。

=== 貴族の令嬢 ===
[[ファイル:The_Wyndham_Sisters_-_Lady_Elcho,_Mrs._Adeane,_and_Mrs._Tenant.jpg|サムネイル|261x261ピクセル|[[ルコンフィールド男爵|ルコンフィールド男爵家]]の令嬢(三姉妹)を描いた絵画。 (作・[[ジョン・シンガー・サージェント|J.S.サージェント]])]]
前述のとおり一部の例外的な爵位を除いて原則として女子は爵位を継承できない。また財産面でも長子相続制と限嗣相続制により、まず長男、それが絶えれば次男、息子の血筋が全て絶えれば、男系血筋で最も近い男性親戚が相続するため、女子が分け前を得られる可能性はヤンガーサン以上に低い。女子は結婚により他家に入ることになるので、他家に財産を持っていかれるのを防止するため女子には財産を渡さなかった{{Sfn|村上リコ|2014|p=17}}。「息子ができず、娘しかいない貴族家は爵位も土地も財産もすべて遠縁の親戚男子に渡ってしまう。」この現象は1831年のジェーン・オースティン著『高慢と偏見』から2010年代のドラマ『ダウントン・アビー』に至る迄19世紀から20世紀の英国を描いた作品でよく描かれるところである{{Sfn|村上リコ|2014|p=17}}。

貴族の娘たちは勉強部屋を出る年になると社交界デビューした{{Sfn|村上リコ|2014|p=39}}。おおむね17歳から18歳ぐらいの頃である{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=89}}。社交界にでたばかりの未婚女性を[[デビュタント]]と呼ぶ{{Sfn|村上リコ|2014|p=44}}。一般に正式なデビューとみなされるのは、王宮での初拝謁 (presentation at court)である。母親か既婚の親族女性により王室に紹介されることであり、この儀式を経て一人前の淑女と認められるようになった{{Sfn|村上リコ|2014|p=41}}。

貴族令嬢の社交活動で最も重要なのは結婚相手を見つけることである。それは貴族社会では常識だったから、母親や叔母、既婚の姉などがカントリー・ハウスのスクール・ルームという閉ざされた世界から出たばかりの娘の相手を見つけるために尽力し、いくつものカントリーハウスを回ったり、パーティーを開いて知人の中から適当な独身男性をかき集めるのである{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=88-89}}。土地と屋敷と財産を独り占めにできる爵位持ちかその長男が相手として理想だが、そうした者は希少なので貴族令嬢たちの間で取り合いが激しかったという{{Sfn|村上リコ|2014|p=62}}。財産を相続できないヤンガーサンは嫌われて避けられたという{{Sfn|山田勝|1994|p=26}}。

社交界にデビューして半年の間に申し込みがなければ、次の社交シーズンまで待つ必要があるが、社交シーズンが三度過ぎても申し込みがないと魅力のない独身女性となる危険性が高まる。第二次世界大戦前ならば、そうなる前に最後の手段として植民地インドへ行って植民地行政官と結婚するパターンがあった{{Sfn|杉恵惇宏|1998|p=88}}。

伯爵以上の貴族令嬢は「[[レディ]](Lady, 嬢)」、子爵以下の貴族令嬢は「ジ・オナラブル(The Honourable, 閣下)」の敬称で呼ばれる{{Sfn|田中亮三|2009|p=61}}{{Sfn|新井潤美|2022|p=23}}。

== 日本と英国貴族 ==
[[File:Chatsworth South Front.jpg|thumb|250px|チャッツワースハウス前の庭園の噴水]]
*明治5年9月28日(1872年10月30日)、[[シェフィールド]]市の鋼製品工場見学を終えた[[岩倉使節団]]は、同市から西に10キロの場所にある第7代[[デヴォンシャー公爵]]{{仮リンク|ウィリアム・キャヴェンディッシュ (第7代デヴォンシャー公爵)|label=ウィリアム・キャヴェンディッシュ|en|William Cavendish, 7th Duke of Devonshire}}の邸宅[[チャッツワース・ハウス]]を訪問した{{Sfn|久米邦武|2008|p=359-360}}。使節団はホールの記帳に署名した後、デヴォンシャー公爵の案内で美術品展示の部屋、陶器展示の部屋、絵画展示の部屋、個室や寝室、ビリヤードホール、チャペルなどを見て回った。[[久米邦武]]は「我々の回った各部屋の中は周りの壁、天井や床などそれぞれ見事な出来で、繊細な彫刻や美しい彩の装飾画を施したりしてある」{{Sfn|久米邦武|2008|p=361}}「どこもかしこも目を見張るばかりである」{{Sfn|久米邦武|2008|p=362}}とその美しさに感嘆している。その後、酒造とキッチンを見学した一行はダイニングルームで昼食を供されて公爵一家の歓待を受け、会食後にはバスルーム、庭園、温室を見学した。久米は庭園にある階段式の滝や邸宅前の噴水について「(西洋では)いろいろと水の不思議な仕掛けを見ることが多い。しかし、まだ、この庭園の滝を超えるようなものは見たことがなかった」「(階段の滝が地底に落ちていく場所から)百数十歩先の屋敷の前の池から数十筋の噴水となって吹き上がっている。この噴出の勢いの強さは、[[水晶宮]]の噴水も及ばないほどである」と感嘆している{{Sfn|久米邦武|2008|p=364}}。その後一行は邸宅に戻って公爵に別れの挨拶をし、公爵に見送られながら馬車で次なる訪問先へ向かっていった{{Sfn|久米邦武|2008|p=365}}。
*日本人の志村寿子([[マークス寿子]])は、イギリスで働いていた[[1976年]]に第2代[[ブロートンのマークス男爵|マークス男爵]][[マイケル・マークス (第2代ブロートンのマークス男爵)|マイケル・マークス]]と結婚した。マークス男爵にとっては3度目の結婚だったが、1985年に離婚した。二人の間に子供はなかった<ref name="independent">{{cite news|title=Obituary: Lord Marks of Broughton|url=http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/obituary-lord-marks-of-broughton-1200358.html|accessdate=2015年3月5日|newspaper=[[インデペンデント]]|date=25 September 1998}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://thepeerage.com/p36836.htm#i368359|title=Michael Marks, 2nd Baron Marks of Broughton|accessdate= 2023-6-3 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref>。マークス寿子はアメリカ文学者[[志村正雄]]の妹であり、自身も日本と英国に関する著作が複数ある。
*日本の京都府出身の在日韓国人{{仮リンク|マイコ・ジョン・ソン・リー (ロザミア子爵夫人)|label=マイコ・ジョン・ソン・リー|en|Maiko Jeong Shun Lee, The Dowager Viscountess Rothermere}}(Maiko Jeong Shun Lee)は、1993年に第3代[[ロザミア子爵]][[ヴィアー・ハームズワース (第3代ロザミア子爵)|ヴィアー・ハームズワース]]と結婚した。ロザミア子爵にとっては再婚だったが、二人の間に子供はなかった<ref>{{Cite web |url=http://thepeerage.com/p7348.htm#i73476|title=Maiko Joeong-shun Lee|accessdate= 2023-6-3 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref><ref name="BBC">{{cite news|title=UK Lord Rothermere |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/163089.stm|newspaper=BBC News|date=1998年9月2日|accessdate=2015年3月5日}}</ref>。彼女は在英韓国大使館が進めていたイギリス軍の[[朝鮮戦争|韓国戦争]]参戦記念碑をロンドンに建立する計画に協力し、55万ポンドの寄付を行って[[2013年]]に実現させた。韓国の中央日報は彼女について「英国唯一の韓国人貴族」と表現している<ref name="中央日報">{{cite news|title=<韓国戦争停戦60年>ロンドン記念碑建立、英国唯一の韓国人貴族が率先|url=https://japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=174170&pagewanted=2|newspaper=中央日報|date=2013年07月23日|accessdate=2023年6月3日}}</ref>。
*第2代[[スカーズデール子爵]]{{仮リンク|リチャード・カーゾン (第2代スカーズデール子爵)|label=リチャード・カーゾン|en|Richard Curzon, 2nd Viscount Scarsdale}}の三女ジュリアナとジョージ・スタンリー・スミスの間の次女である[[ベニシア・スタンリー・スミス]]は<ref>{{Cite web |url=http://www.thepeerage.com/p33162.htm#i331620|title=Hon. Juliana Eveline Curzon|accessdate= 2016-03-07 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref>、1971年(昭和46年)に来日し、写真家[[梶山正]]と結婚。[[京都市]][[大原 (京都市)|大原]]に在住して自家栽培のハーブや四季の草花を活用した暮らしをエッセーで紹介し、NHK番組「[[猫のしっぽ カエルの手]]」の出演で有名になった。彼女は2023年(令和5年)6月21日に京都市の自宅で死去した。72歳だった<ref>{{cite news|title=ベニシアさん死去 NHK番組「猫のしっぽ カエルの手」に出演|url=https://www.sankei.com/article/20230625-C3ZB3CTIQRJH5OJCNCU5ARDHJE/|newspaper=産経新聞|date=2023年06月25日|accessdate=2023年6月3日}}</ref>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=新井潤美|authorlink=新井潤美|date=2022|title=ノブレス・オブリージュ イギリスの上流階級|publisher=[[白水社]]|isbn=978-4560098790|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=安東伸介|authorlink=安東伸介|date=1982|title=イギリスの生活と文化事典|publisher=[[研究社出版]]|isbn=978-4327376239|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=安東伸介|authorlink=安東伸介|date=1982|title=イギリスの生活と文化事典|publisher=[[研究社出版]]|isbn=978-4327376239|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=海保眞夫|authorlink=海保眞夫|date=1999|title=イギリスの大貴族|series= [[平凡社新書]]020|publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4582850208|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=海保眞夫|authorlink=海保眞夫|date=1999|title=イギリスの大貴族|series= [[平凡社新書]]020|publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4582850208|ref=harv}}
*{{Cite journal|和書|author=北山環|title=<論文>英国貴族階級所帯内労働関係における呼称の検証―20世紀前半を時代背景とする映画を分析して― |journal=近畿大学教養・外国語教育センター紀要. 外国語編 |ISSN=21856982 |publisher=近畿大学教養・外国語教育センター |year=2011 |month=may |volume=1 |issue=2 |pages=1-16 |url=https://kindai.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=12638&item_no=1&page_id=13&block_id=21 |ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=久米邦武|authorlink=久米邦武|translator=水沢周|date=2008|title=特命全権大使米欧回覧実記 2 普及版 イギリス編 現代語訳 1871-1873 (2) |publisher=[[慶應義塾大学出版会]]|isbn=978-4766414875|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author1=古賀豪|authorlink1=古賀豪|author2=奥村牧人|authorlink2=奥村牧人|author3=那須俊貴|authorlink3=那須俊貴|year=2009|title=主要国の議会制度|url=http://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/document/2010/200901b.pdf|format=PDF|publisher=[[国立国会図書館]]調査及び立法考査局|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=小林章夫|authorlink=小林章夫|date=1991|title=イギリス貴族|series= [[講談社現代新書]]1078|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4061490789|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=小林章夫|authorlink=小林章夫|date=1991|title=イギリス貴族|series= [[講談社現代新書]]1078|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4061490789|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=小林章夫|authorlink=小林章夫|date=2005|title=召使いたちの大英帝国|series= [[新書y]]138|publisher=[[洋泉社]]|isbn=978-4896919356|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=近藤申一|authorlink=近藤申一|date=1970|title=イギリス議会政治史 上 |publisher=[[敬文堂]]|isbn=978-4767001715|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=近藤申一|authorlink=近藤申一|date=1970|title=イギリス議会政治史 上 |publisher=[[敬文堂]]|isbn=978-4767001715|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=佐藤郁 |date=2016-03 |title=ドラマ『ダウントン・アビー』の成功 : 英国貴族という観光資源 |url=http://id.nii.ac.jp/1060/00008252/ |journal=国際地域学研究 |publisher=東洋大学国際地域学部 |issue=19 |pages=77-89 |naid=120005856567 |ISSN=1343-9057 |ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=佐藤郁 |date=2016-03 |title=ドラマ『ダウントン・アビー』の成功 : 英国貴族という観光資源 |url=http://id.nii.ac.jp/1060/00008252/ |journal=国際地域学研究 |publisher=東洋大学国際地域学部 |issue=19 |pages=77-89 |naid=120005856567 |ISSN=1343-9057 |ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=島崎晋|date=2014|title=華麗なる英国貴族101の謎|publisher=[[PHP研究所]]|isbn=978-4569821573|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=杉恵惇宏|date=1998|title=英国カントリー・ハウス物語―華麗なイギリス貴族の館|publisher=[[彩流社]]|isbn=978-4882025627|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|title=【図説】紋章学事典|date=|year=2019|publisher=創元社|author=|edition=第1版|isbn=978-4-422-21532-7|translator=朝治 啓三|ref=harv|last=スレイター|first=スティーヴン}}
*{{Cite book|和書|author=高野敏樹|authorlink=高野敏樹|year=2010|title=イギリスにおける「憲法改革」と最高裁判所の創設 : イギリスの憲法伝統とヨーロッパ法体系の相克|url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000040-I000172429-00|id={{NDLJP|8226552}}|publisher=[[上智短期大学]]|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=田中嘉彦 |title=英国ブレア政権下の貴族院改革 : 第二院の構成と機能 |journal=一橋法学 |ISSN=13470388 |publisher=一橋大学大学院法学研究科 |year=2009 |month=mar |volume=8 |issue=1 |pages=221-302 |naid=110007620135 |doi=10.15057/17144 |url=https://hdl.handle.net/10086/17144 |ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=田中亮三|authorlink=田中亮三|date=1999|title=図説 英国貴族の城館 カントリー・ハウスのすべて|publisher=[[河出書房新社]]|isbn=978-4309761107|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=田中亮三|authorlink=田中亮三|date=2009|title=図説 英国貴族の暮らし|publisher=[[河出書房新社]]|isbn=978-4309761268|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=田中亮三|authorlink=田中亮三|date=2009|title=図説 英国貴族の暮らし|publisher=[[河出書房新社]]|isbn=978-4309761268|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=中村英勝|authorlink=中村英勝|date=1959年|title=イギリス議会史|publisher=[[有斐閣]]|asin=B000JASYVI|ref=harv}}
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*{{Cite journal|和書|author=藤森あすか|title=イギリスの階級社会と英語|journal=中京英文学|ISSN=02852039|publisher=中京大学国際英語学部英米文化学科 |year=2008 |month=Jan |volume=28 |pages=107-127 |url=https://chukyo-u.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=10210&item_no=1&page_id=13&block_id=21 |ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=前田英昭|authorlink=前田英昭|date=1976|title=イギリスの上院改革|publisher=[[木鐸社]]|asin=B000J9IN6U|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=前田英昭|authorlink=前田英昭|date=1976|title=イギリスの上院改革|publisher=[[木鐸社]]|asin=B000J9IN6U|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|last=マリオット|first=ジョン|year=1914|title=英国の憲法政治|translator=[[占部百太郎]]|url={{NDLDC|980830}}|asin=B0098TWQW4|publisher=[[慶応義塾出版局]]|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=水谷三公|authorlink=水谷三公|date=1987|title=英国貴族と近代 持続する統治1640―1880|publisher=[[東京大学出版会]]|isbn=978-4130300636|ref=harv}}
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2023年6月29日 (木) 00:12時点における版

世襲貴族(せしゅうきぞく、英語: hereditary peer)とは、爵位世襲できるイギリス貴族のことである。

イギリスでは一代貴族法服貴族聖職貴族など非世襲の貴族が存在するため、それと区別するための分類である[1]。2021年11月現在総計809家の世襲貴族家が存在する。内訳は公爵家30家(うち王族公爵が6家)、侯爵家が34家、伯爵家が191家、子爵家が111家、男爵家が443家である。

歴史

黎明期の貴族制度

征服王ウィリアム1世伯爵の貴族称号を制度化した。右は伯爵の位階を示すコロネット

エドワード懺悔王在位:1042年 - 1066年)の代にはすでに貴族の爵位の原型があったようである。エドワード懺悔王はイングランドを四分割して、それぞれを治める豪族にデーン人が使っていた称号"Eorl"を与えたという。ただこの頃には位階や称号が曖昧だった[2]

確固たる貴族制度をイングランドに最初に築いた王は征服王ウィリアム1世在位:1066年 - 1087年)である。彼はもともとフランスのノルマンディー公であったがエドワード懺悔王の崩御後、イングランド王位継承権を主張して1066年にイングランドを征服し、イングランド王位に就いた(ノルマン・コンクエスト)。重用した臣下もフランスから連れて来たノルマン人だったため、大陸にあった貴族の爵位制度がイングランドにも持ち込まれた[3]

ウィリアム1世によって最初に制度化された貴族称号は伯爵(Earl)であり、1072年にウィリアム1世の甥にあたるヒュー英語版に与えられたチェスター伯爵(Earl of Chester)がその最初の物である[注釈 1]。伯爵は大陸では"Count"と呼ぶが、イングランドに導入するにあたってウィリアム1世は、エドワード懺悔王時代の"Eorl"を意識して"Earl"とした。ところが伯爵夫人たちには"Earless"ではなく大陸と同じ"Countess"の称号を与えた。これは現在に至るまでこういう表記であり、伯爵だけ夫と妻で称号がバラバラになっている[2][6]

14世紀初頭まで貴族身分はごく少数のEarl(伯爵)と大多数のBaron(男爵)だけだった。初期のBaronとは貴族称号ではなく直属受封者を意味する言葉だった[7][8]。Earlのみが、強力な支配権を有する大Baronの持つ称号であった[9][10]

Baronについては13世紀から14世紀にかけて大baronのみを貴族とし、小baronは騎士層として区別するようになりはじめ、baronという言葉も国王から議会招集令状英語版(Writ of summons)を受けてイングランド議会に出席し、それによって貴族領と認められた所領を所有する貴族を意味するようになっていった[11][12]。一方召集令状を受けない小Baron(騎士)は州裁判所を通して州代表として議会に入るようになる[13]

勅許状による貴族制度の成立

伯爵位叙爵を認める勅許状。廷臣ジェイムズ・バーティ英語版(右)はこの勅許状授与を経てアビンドン伯爵位を得た。

しかしヨーロッパ大陸から輸入された公爵(Duke)、侯爵(Marquess)、子爵(Viscount)が貴族領の有無・大小と関わりなく勅許状(Letters patent)によって与えられる貴族称号として登場してくると、Baronも所領保有の有無にかかわらず勅許状によって与えられる最下位の貴族称号(「男爵」と訳される性質の物)へと変化した[9][12]。国王勅許状による称号としての男爵(Baron)位を最初に受けたのは1387年にキッダーミンスター男爵(Baron of Kidderminster)に叙されたジョン・ド・ビーチャム英語版である[9]。勅許状による貴族称号には議会出席権が付随しており、国王の議会召集令状を受けなくても議会に出席できる[9]

貴族称号の最上位である公爵(Duke)は、1337年エドワード3世在位:1327年 - 1377年)が皇太子エドワード黒太子コーンウォール公爵(Duke of Cornwall)を与えたのが最初の事例である[5]。ついでヘンリー3世の曾孫ヘンリーランカスター公爵(Duke of Lancaster)位が与えられたことで公爵位が貴族の最上位で王位に次ぐ爵位であることが明確化した[14]。臣民で最初に公爵位を与えられたのは1483年リチャード3世在位:1483年 - 1485年)よりノーフォーク公爵(Duke of Norfolk)に叙せられたジョン・ハワードである[15][16]侯爵(Marquess)は、1385年オックスフォード伯爵ロバート・ド・ヴィアがダブリン侯爵(Marquess of Dublin)に叙されたのが最初であり、子爵(Viscount)は1440年第6代ボーモント男爵ジョン・ボーモントボーモント子爵Viscount Beaumont)位が与えられたのが最初である[17]

15世紀以降には新貴族叙任はこの勅許状による貴族称号創出で統一された[9][18]。所領の保有は貴族たることの前提条件ではなくなり、またその称号に冠されている地名が受爵者の所領であるとは限らなくなった。1328年創設のマーチ伯爵が受爵者の所領と無関係な最初の称号である[9]

近世・近代の世襲貴族の急増

女王エリザベス2世ハロルド・マクミラン。マクミランを最後に臣民への叙爵は途絶えている。

中世末から16世紀のテューダー朝まで世襲貴族の数は概ね50家に留まっていた。しかし17世紀ステュアート朝が王庫の金欠から爵位を間接的に「売り」に出したために最初の爵位乱発が発生した[19]。これにより17世紀末までに上院世襲貴族の数は170家に増加した[20][21]

つづいて18世紀に成立したハノーファー朝は爵位乱発の傾向を一層強めた。上院世襲貴族の数は18世紀末までに270家、1830年代には350家、1870年代には400家、1885年には450家と急増の一途をたどる[20]。近代に入って貿易や商業で財を為した成金が貴族に列せられることが増えたためである。その彼らも100年、200年と時がたつと由緒ある伝統的貴族として君臨しているようになる[22]

20世紀に入ると非保守党系の首相たちが貴族院の保守党偏重状態を緩和しようとして更に爵位を乱発させた。とりわけ1916年から1922年まで首相を務めた自由党デビッド・ロイド・ジョージ(後の初代ドワイフォーのロイド=ジョージ伯爵)は91の爵位を、1945年から1951年まで首相を務めた労働党クレメント・アトリー(初代アトリー伯爵)は98の爵位の新設を上奏している。その結果、貴族院改革があった1999年時点で世襲貴族家は750家にも達していた[23]

しかし1958年に一代貴族法が成立し、一代貴族制が誕生すると新規の世襲貴族叙爵は減少した。1984年に元首相ハロルド・マクミランストックトン伯爵に叙されたのを最後に臣民への世襲貴族叙爵は途絶えている(王族への叙爵はその後もある)。

爵位について

世襲貴族の爵位は創設時に応じてイングランド貴族スコットランド貴族グレートブリテン貴族アイルランド貴族連合王国貴族の別があり、それぞれ公爵(Duke)、侯爵(Marquess)、伯爵(Earl)、子爵(Viscount)、男爵(Baron)の5等級から成る(スコットランド貴族の男爵位は貴族ではなく、スコットランド貴族の最下級の爵位はロード・オブ・パーラメント(議会の卿)である)[24]

ただし唯一の例外として、カナダケベック州の土地を領地とするロンゲール男爵のみに関しては、英国君主がフランス王家によって創設された爵位と認めて[25]、英国貴族の枠組みに取り込む形をとっている。

イギリス貴族の爵位は日本華族の爵位のように公爵や伯爵という肩書を単独で与えられるのではなく、「ノーフォーク公爵(Duke of Norfolk)」(フィッツアラン・ハワード家)、「ダービー伯爵(Earl of Derby)」(スタンリー家)といったように称号名の一部として与えられる。称号名は地名が一般的だが、家名(姓)と同じ場合もある(例:スペンサー伯爵ロスチャイルド男爵[26]

爵位継承について

兄弟全員が継承できる大陸の爵位と違って、イギリスの爵位は常に一人だけが相続する。爵位は終身であり、原則として生前に譲ることはできない(例外として繰上勅書がある。これが出されると従属爵位の一つが法定推定相続人に生前移譲され、法定推定相続人も貴族院議員に列する)。爵位保有者が死去した時にはその爵位に定められた継承方法に従って爵位継承が行われる。したがって爵位保有者が自分で継承者を決めることはできないし、養子を取ったとしても爵位継承順位には影響を及ぼさない[27][28]。該当者がなければその爵位は消滅する[28]

またかつて爵位継承を拒否することはできなかったが、貴族院が庶民院に対して劣後していく中で貴族に庶民院議員資格がないことが問題となり、1963年貴族法が制定されて爵位継承から1年以内(未成年の貴族は成人後1年以内)であれば自分一代に限り爵位を放棄して平民になることが可能と定められた[29]

勅許状によって創設された爵位は大半が継承方法として「初代の直系の嫡出の男系男子」と定めており[30]、この場合は娘や初代前に遡った分流や非嫡出子は継承し得ない。ただ、爵位によってはそれと異なる継承方法の特別継承者(Special remainder)の規定が定められた爵位もあり、その場合はその継承方法に従う。したがって特別継承者の規定で継承が規定されていれば、女子も爵位を継承しえる[31]

また議会招集令状英語版によって創設された古いイングランド貴族男爵位は継承方法が定められていないため、当時のイングランド相続法に従って男子なき場合に女子が継承する[30][31]。ただし、この場合は姉妹全員が共同相続人となるため(長女が次女に優越しない)、姉妹やその系統がある場合には爵位継承者を決められなくなり、その爵位は停止 (abeyance)となる[31]。停止後時代がたてばたつほど、姉妹の子孫がどんどん増えていくため、停止状態の解除は難しくなる[31]。そのため議会招集令状による男爵位は多くが停止状態になったままになっている[32]。停止状態となった爵位は権利のある者が国王に申し立てを行い、手続きを経れば継承できる。327年に及ぶ停止を経て1921年に継承が行われたストレンジ男爵や440年に及ぶ停止を経て1903年に継承が行われたフォーコンバーグ男爵英語版のような事例も存在する[31]

また古いスコットランド貴族の爵位(特にイングランドと同君連合になる前の爵位)は、男子なき場合に女子(長女優先)が継承できるのが通例である[31][33]

しかし女性本人が爵位を持つことは極めて稀である。1880年時には580人の世襲貴族中「自らの権利として爵位を持つ女性貴族(peeress in her own right)」は7人に過ぎなかった[34]

なお貴族が蒸発して生死不明になった場合は、裁判所の死亡宣告を得ることで爵位継承が認められる。近時の例では1974年に第7代ルーカン伯爵ジョン・ビンガムが、別居中の妻の家で子供たちの乳母サンドラ・リベットが殺害された後に失踪してリベット殺害の容疑がかかったが、その後ずっと行方不明になっている件について、息子のジョージ・ビンガム英語版がロンドン高等法院に父の死亡認定の申し立てを行い、2016年2月3日にロンドン高等法院から認められたことで第8代ルーカン伯爵位を継承している[35][36]

従属爵位と儀礼称号

ノーサンバーランド公爵家の嫡子ジョージ・パーシー英語版。儀礼称号としてパーシー伯爵を使用している。

イギリス貴族の爵位は複数所持することができる。日本の華族の爵位のような上書き方式ではないので、上位の爵位を与えられても下位の爵位が消滅することはない。伯爵以上の貴族は主たる爵位より下位の従属爵位を併せ持っているのが普通であり、その法定推定相続人(最年長の息子)は父が持つ二番目の爵位を儀礼称号 (courtesy title)として使用する(父と区別がつかなくなるので主たる爵位と同じ名前の爵位は避ける)[30][37]。例えば、ノーサンバーランド公爵家は公爵位の従属爵位にノーサンバーランド伯爵位、パーシー伯爵位、ビバリー伯爵位を持つが、公爵家の嫡子はこのうちパーシー伯爵を儀礼称号に用いている[38]

その他に、その家の持つ爵位がすべて同名の場合は領地や姓に因んだ爵位を儀礼称号として仮冒するケースがある。例えば、タウンゼンド侯爵家は侯爵位の従属爵位にタウンゼンド子爵位・タウンゼンド男爵位しか持たないため、侯爵家の嫡男は領地に因んだ称号のレイナム子爵を名乗る[39]

また、儀礼称号は爵位を実際に保有している訳ではなく、ゆえに法的には貴族ではなく平民である。したがって法定推定相続人に貴族院議員資格はなく、代わりに平民として庶民院議員資格を有している[40]。区別の方法として爵位には「the」が付くが、儀礼称号の場合は「the」が付かないという表記の違いがある[41]

主たる爵位と従属爵位が継承方法や継承資格者が違えば、異なる者に継承されることや、主たる爵位だけ廃絶して従属爵位は存続するといったケースも当然起こりえる[42]

貴族院における世襲貴族

2022年2月25日の貴族院本会議場、ロシアのウクライナ侵攻をめぐる討論

もともとイングランド議会(パーラメント)は一院制であり[43]、国王から召集された貴族と高位聖職者のみで構成されたが、13世紀中に封建勢力の後退で州代表の騎士や各都市から選出された市民代表が議員に加えられて代議制議会の要素を持つようになった[44]14世紀になると州代表騎士と市民代表は貴族や高位聖職者の支配から逃れるため、彼らと別に集会するようになり、これが下院(庶民院)の原型となり、他方貴族と高位聖職者の議員たちの集会は上院(貴族院)となった[45]

両院分離後もしばらくは貴族院の力の方が強大だったが、バラ戦争後封建貴族は没落して独立性を失い、15世紀末にはじまるテューダー朝期に貴族院は王室の藩屏に過ぎなくなり、庶民院が台頭、16世紀後半のエリザベス朝の頃には女王と庶民院のバランスで政治が動くようになり[46]17世紀スチュアート朝期には庶民院が一層強大化して国王を抑えるようになりピューリタン革命名誉革命を経て議会政治が確立された[47]18世紀から19世紀の議会政治においては貴族院もまだ大きな力を有していたが、保守党自由党の対立の中で1911年議会法で庶民院の優越が定められた[48]

1999年まで世襲貴族で成人に達している者は原則として全員が貴族院議員であった(ただし女性世襲貴族は1963年まで貴族院議員になることはできなかった。1963年の貴族法で女性世襲貴族を男性世襲貴族と同等に扱うことが定められた。また1963年までスコットランド貴族アイルランド貴族貴族代表議員に選ばれた者以外議席を有さなかった。アイルランド貴族の貴族代表議員制度は1922年のアイルランド独立の際に終わり、スコットランド貴族は1963年貴族法によって全員が貴族院議員に列した)[49]

貴族院は長年にわたって世襲貴族を中心に構成されてきた(ただし登院者は少数だった)。しかし1958年に一代貴族法が制定され、以降貴族院の一代貴族の割合は漸次増加し、1998年2月の時点では世襲貴族は貴族院の59%(759名)まで減少した(対して一代貴族は当時484名)[50]。そして1999年トニー・ブレア政権の貴族院改革によって世襲貴族の貴族院議員枠は92議席に限定されたので現在は大多数の世襲貴族が貴族院に議席を有していない状況である[51][52]

貴族院での活動において爵位の等級に重要性はない[50]。貴族院議員たる貴族は庶民院議員資格や庶民院議員選挙権を有さないが、貴族院議員ではない貴族は有する。

なお、院外においても爵位の等級の差を笠に着た振る舞いは好まれず、小説家オスカー・ワイルドも『紳士であることに違いはないのである。爵位の問題は紋章の問題である。それ以上でもそれ以下でもない。』と述べている[30]

歴史ある貴族の少なさ

1999年時点でイギリス上院に世襲貴族家は750家存在していたが、その大半は20世紀中に爵位を受けた新興貴族である[53]。イギリスの爵位は原則として男系男子のみに世襲されるので、男子相続人を欠いて絶家する例が多く、長期にわたって存続するのが極めて困難なのが原因である[54]。中世から貴族であった家で現存しているのは数えるほどしか存在していない[55]

財産状況

20世紀以前、イギリス貴族は大半が大地主だった。保守党の地主議員ベイトマンは著書の中で1870年代の大地主を3000エーカーの土地を保有し、かつ3000ポンド以上の地代がある者と定義している。つまり約1200町歩の土地が必要だった。日本の地主は、地租改正後、明治から大正にかけて地主制が最も発展したとされる時期にあっても、50町歩(125エーカー)もあれば「大地主」と呼ばれていたことと比較すれば、英国大地主たちが持つ3000エーカーの広大さが理解される。当時英国最大の大地主だったサザーランド公爵ルーソン=ゴア家に至っては135万854エーカー(約33万6274町歩)の土地を所有していた。当時の日本で最大の地主だったのは島根県の山林を中心に2万8000町歩(11万3120エーカー)の土地を所有した田部家だが、サザーランド公爵家の所有する土地は実にその10倍以上である[56]。大地主の土地独占率も圧倒的で、わずか数百家族がイングランドの土地の3割から4割を占めていた計算になる[57]

しかし広大な土地と屋敷を維持するだけでも費用がかさむうえに[58]20世紀に入ってからは相続税の賦課等により経済的に没落する貴族が現れるようになった[59]。特に第二次世界大戦後のアトリー政権の社会主義的政策によって貧富の格差が縮められたことで貴族の所領経営は危機的状況に陥った[60]

1946年には相続税の最高税率90%という貴族に過酷な引き上げが行われた[61]。これは1954年には改正されて緩和されたものの[62]、それまでに多数の貴族が壊滅的打撃を受けた。デヴォンシャー公爵[63]ベッドフォード公爵[62]などは、直撃を被って本邸以外のすべての土地の売却を迫られた。現代では必ずしも貴族が裕福というわけではなくなっている[58]セント・オールバンズ公爵リンスター公爵のように本邸を含めた全土地を失って賃貸住宅暮らしに落ちぶれた公爵も存在する[59]

1895年に創設された歴史的建造物の保護団体ナショナル・トラストに屋敷や敷地の管理を委託し、邸宅の一部をホテルや博物館として有料公開し、その収入でやりくりしている貴族も多い[58]

しかし経済状態は家ごとに大きな差があり、うまく立ち回って、いまだ巨万の富を維持する大地主貴族も少なくはない[59]。たとえばロンドン屈指の高級住宅街メイフェアを中心に莫大な土地を所有する第6代ウェストミンスター公爵ジェラルド・グローヴナーは、巨額の資産を活用してグローブナー・グループという巨大な不動産企業のオーナーとなり、アメリカオーストラリア日本など世界17カ国でホテル事業などのビジネスを展開した[58]2015年サンデー・タイムズ・リッチ・リスト英語版によれば総資産額は約85億6000万ポンド(約1兆5408億円)で英国内で経済活動する者(外国人含む)の中で第9位という資産家である[64]

貴族の邸宅

貴族をはじめとした大地主が英国の地方に建設した館をカントリー・ハウス(country house)と総称する[65]。カントリー・ハウスは英国各地に何百と存在し、現在でも多くで建設者の子孫が暮らしている[66]。またロンドンに建てた邸宅はタウンハウス(townhouse)と呼ばれ、特に都市大貴族のタウンハウスは一般に「パレス」などと呼ばれた[67]

キリスト教会が支配した中世ヨーロッパでは、壮麗な大建築物といえば大聖堂や修道院であり、封建領主が割拠して領地の争奪を繰り返した世俗世界の建築物は厚い外壁や物見塔を多く配置した城塞だった。十字軍、百年戦争、薔薇戦争と続いた戦乱の後、1485年に成立したテューダー朝のもと中央集権化が進んだことで治安も平静化したため、この頃から貴族たちは住居専用の壮麗な邸宅を建設するようになった。16世紀前半はまだ模索の時代で城郭建築から抜け出せず、家の周りに堀をめぐらしたりしていた。16世紀後半のエリザベス朝から大英帝国が繁栄の頂点に達した19世紀半ばにかけて、大地主たちは自らの権勢を誇示するために広大な領地の中に壮麗な邸宅を建てるようになった[68]

主なカントリーハウスには建設時期によって次のような特徴がある。

  • 中世封建時代の防御用の城塞
    11世紀から16世紀頃に建築された軍事要塞化された城である。厚い石の壁で侵入者の攻撃を防御し、所有者の勢力範囲を外部に見せつけるための物。島国で多くの外敵に晒され、内乱も多かったイギリスでは、貴族には広大な封建領地が与えられることが多く、彼らはそこに住むため、また必要に応じて王のために戦うため防御力の高い建物を建設した。建物に狭間(弓や銃を撃つための穴)をつけるには王の勅許を必要とした。ただこの時期にも変遷はあり、13世紀には華族の慰安と防御を兼ねたマナー・ハウスの建設が始まり、15世紀になると風通しのいい大きな窓が付けられるようになったり、だんだん防御一辺倒では無くなってくる。16世紀に入っていよいよ住居に適し、また王の行幸にも耐えられるような豪華な雰囲気のある設備の充実が図られるようになってくる[69]
  • テューダー朝~ステュアート朝初期
    テューダー朝期に入ると内乱が終わり中央集権政策が進められたことで平和と安定の時期に入った。貴族たちも一定の場所に落ち着くようになり、移動が少なくなった。これにより家具も持ち運びに便利なものにする必要がなくなり、華美化が始まる。しかし1530年までは英国において華麗壮大な建物は修道院や大聖堂であり、貴族の武骨な城塞ではなかった。財政的に行き詰まっていたヘンリー8世は修道院や修道僧の持つ広大な土地建物に目をつけ、1530年に宗教改革と称して修道院を一方的に解散させ財産没収し、スコットランドやフランスとの戦争の戦費に充てるため、貴族・ジェントリ・大商人などに売却した。この旧修道院の建物がカントリーハウス化し、この後の3世紀に渡る壮麗なカントリーハウス建設ブームのきっかけとなった[72]
    この時期の建築様式をチューダー様式といい、イギリス・ゴシック建築後期の特徴である垂直式に、イタリアやフランスのルネサンス様式の要素が加わえられたのがその特徴であり、ルネサンス様式への過渡的様式だったといえる[73]
    テューダー朝後期にあたるエリザベス朝(1558年-1603年)では女王エリザベス1世が夏にロンドンの暑さとテムズ川の不快な霧から逃れるためロンドンを離れる慣習を作り、貴族の大邸宅に行幸する機会を増やした[74]。女王一行の歓待には大変な出費が伴い、臣下に余計な蓄財をさせず、財政的に女王頼りの状態にしておくための調整の意味もあったと言われている。しかしこれによって女王の行幸に耐える壮麗なカントリーハウスの建設が過熱することになった[75]。エリザベス朝時代にも依然として中世風ホールやゴシックの垂直構造と大きな格子窓の石造建築というチューダー様式は踏襲されたが、左右対称な平面や立面、オーダーや細部の装飾などにルネサンス様式の影響がより強く見られるようになる。これをエリザベス様式英語版と呼んだ[76]
    ステュアート朝初代のジェームズ1世(1603年-1625年)在位時代(ジャコビアン時代)の建築様式はジャコビアン様式英語版と呼ばれるが、垂直式ゴシックとルネサンス様式の混在というチューダー様式、エリザベス様式との連続性が強い。しかしエリザベス様式ほどの華美さはなく、地味になって落ち着いた感がある[77]。また石材にかわってれんがが盛んに用いられたり[77]、葱花形(ogee)の屋根[78]、小さな矩形の窓[77]など、フランス・ルネサンス型と対比してオランダ、ドイツ、オーストリアなどゲルマン的要素も感じさせる[78]
  • ジョージ王朝
    だが、ハノーヴァー朝に入った頃ぐらいからバロック様式は衰退し、代わりにエレガントで抑制が効いたパッラーディオ・リバイバルとして知られた新古典様式のカントリーハウスが増える[87]。特に建築家ウィリアム・ケントや、彼のパトロンだった第3代バーリントン伯爵リチャード・ボイル、初代レスター伯爵トマス・コークなどイタリア留学経験者たちがイギリス・バロック様式をイタリア様式を勝手に解釈した邪道と非難してパッラーディオ様式を広めた[87][88]。18世紀後半には新プラトン哲学の復活や科学的考古学の発達により、ルネッサンスを通してではなく直接古代に触れて研究しようという機運が高まったことでロバート・アダムウィリアム・チェンバーズといった建築家たちがイタリアやギリシャで古代建築の遺跡を写生し装飾や文様を採取するなどし、英国建設史上最も洗練された純粋な古典様式の時代が到来した[88]。ジョージ王朝中期になるとパッラーディオ・リバイバルは衰退し、「グリーク・リバイバル」と呼ばれる古代ギリシャ建築に影響を受けた新古典様式の時代が始まり、ちょうど摂政時代(1811年-1820年)にあたることからリージェンシー様式英語版と呼ばれた[89]。1780年代から1830年代頃には、貴族のみならず新たに富を獲得した中産階級が続々とカントリー・ハウスを建てるようになったことで形式ばらない家庭的なところがあるリージェンシーが流行し1830年代にピークに達した[89]
  • カントリーハウスの衰退と公開
    ヴィクトリア朝が終わった後のエドワード朝のカントリーハウスのイメージはエドワード7世が主役のカントリーハウスのイメージであり、戦争の時代が到来する最後の束の間の時代を感じさせるものだった。二度の世界大戦でカントリーハウスの衰退期が来る。かなりの数のカントリーハウスでオーナーが戦死したり、軍に接収されたりした。また農業だけでカントリーハウスを維持できる時代ではなくなり、売却も多く行われるようになっていた[98]。エドウィン・ラチェンズが1910年から20年かけて建築した「カースル・ドロゴ英語版」が最後のカントリーハウスだが、これは簡素な中世城塞風の先祖返り的カントリーハウスだった[99]
    維持が難しくなったカントリーハウスをビジネスとして一般公開するようになったのは1949年に第6代バース侯爵ヘンリー・シン英語版ロングリートハウスを有料公開したのが最初といわれる[100]。これが経済的に成功したことでその後15年間に600のカントリーハウスが一般公開され、1973年にはカントリーハウス訪問観光客は延べ4300万人に達したという[101]。1952年にハンプシャーの邸宅ビューリー・パレス・ハウス英語版を公開した第3代ビューリーのモンタギュー男爵英語版エドワード・モンタギュー=スコット英語版は、その経験を『玉に瑕 ステイトリー・ホームに住みながらお金を稼ぐ方法』(1967年)という手記にまとめた。その中でカントリーハウス観光ビジネスが成功した理由について観光客がアッパークラスの暮らしをのぞき見したいからだろうと分析している[100]。カントリーハウスだけでは観光地として弱いと考えた貴族の中にはサファリパークやアトラクションを設けたりする者もある[102]。近年では映画やドラマのロケ地として提供したり、企業や結婚披露宴などに貸し出したりして収入にしている貴族も多い[103]
    またナショナル・トラストに屋敷と土地を管理してもらっている貴族も多い。ナショナルトラストは取り壊しや売却の危機に瀕しているカントリーハウスを救うために組織された団体で、ここに管理を任せると多くの場合持ち主と家族は引き続き暮らすことを認められるが、その代わりに館や庭園の一部を公開し、また館の改修なども許可を得て行わなければならなくなる[104]。また維持費に宛てられる資本金も出さねばならないが、それでも相続税が払えずにこの手段をとる貴族は多い[105]

貴族の使用人

ウォーターフォード侯爵英語版ベレスフォード家の邸宅クラグモア・ハウス英語版で働く使用人たち(1905年頃)

巨大なカントリーハウスに住む貴族は大邸宅を維持するために多くの家事使用人を雇っていた[106]。使用人には大きく分けて上級使用人(upper servant)と下級使用人(lower servant)の別があった。前者は管理・監督の仕事や特別な技術が必要な仕事をする使用人であり、後者は上級使用人から指示を受け、比較的技術を要しない仕事を担当する人々だった[107]

男性使用人

家政の統括はハウス・スチュワード(house steward,「家令」と訳される)が行った。使用人の最高位であり[108]、主人が直接任免するヴァレットを除くスタッフの任免、給与の支払い、経費の管理も任されている[109]。ただハウス・スチュワードは余裕のある大邸宅しか置いていなかった[108]。歴史的には中世の頃のスチュワードには「ランド・スチュワード」と「ハウス・スチュワード」の別があり、前者は領地の管理、後者は館の管理を行った。中世の頃は家職の中で唯一紳士階級が就く役職であり、稀に騎士であることもあったが、17世紀までには紳士が就くことはなくなり、家柄のいい者でも中産階級(商人、聖職者、軍人など)止まりとなる[110]。18世紀中、貴族の領地内でも大規模な農法改良や鉱山開発が推し進められて生産効率が飛躍的に増大したため経営の専門教育を受けたプロフェッショナルが求められるようになり、ランド・スチュワードはランド・エージェント(単にエージェントと呼ばれることが多い)となっていく[110]。大貴族のエージェントともなれば小地主や並の中産階級を超える収入を得ることも可能だったといわれる[110]。エージェントはハウス・スチュワード以下の家事使用人より地位が上であり、雇い主と同等の上流紳士扱いこそ受けられないものの、時には招待を受けて食卓を囲んだため、男性指導教員(チューター)や邸宅付き聖職者などに近い立場にある存在だった。エージェントの登場以降は単に「スチュワード」といった場合はハウス・スチュワードのみを指すようになった[110]

男性スタッフを直接監督する上級使用人にバトラー(butler,「執事」と訳される[111])がある。ハウス・スチュワードが置かれていない場合はバトラーがその役割も兼ねる[109]。バトラーは制服ではなく、その時々の紳士の服装をすることが多かった[108]。経験を積んだ年配であることが多く、独身であることが条件にされていることが多かった[112]。他の使用人からは姓に「ミスター」をつけて呼ばれるのが一般的だった[112]。あるいは「sir」と呼ばれる場合もあった[113]。主人とその一家からは苗字で呼び捨てにされる[113]。もともとバトラーはワインエールなど酒類を管理する役割を持っていた使用人だったが、酒類の管理は館の仕事の中でも重要な物だったので、やがてバトラーが使用人の長になった経緯があった[112]。近代に入っても酒類の管理の職責は続き[114]、さらに銀器の管理[115]、食卓の給仕の指揮管理[116]、主人の読む新聞のアイロン掛け[117]などを担当することが多かった。使用人の数が少なければ少ないほどバトラーが直接やらねばならない仕事が増える傾向があった[118]

主人の身の回りの世話をする男性使用人としてヴァレット(valet,「従者」[119]と訳される)があった。主人の行くところにどこでも付いていき、自邸の食事でも他所に招かれた時でも常に主人の後ろに立っていなければならない[120]。最も身近な使用人なので相手の気持ちをいち早く察する人でないと務まらなかった[121]。また海外旅行にも付いていくので、ある程度外国語を話せる者が好ましかった[115]。仕事の性質上バトラーやスチュワードの役割を兼ねる場合もあった[119]。制服は着用せず、紳士に近い服装をしていた[120]。ここまでが上級使用人となる[122]

下級使用人としてフットマン(Footman、「下僕[123]「従僕」[124]と訳される)がある。バトラーの指揮下で華やかな制服を着て仕事に当たるが、その仕事は多岐に渡る[125]。客の応対、馬車での外出の付き添い、食卓の給仕などほぼなんでもこなす[126][109]。長くカントリーハウスの使用人を務めたスタンリー・エイジャーが著した『バトラーズ・ガイド』によれば、フットマンはランクによっても異なるが、概して朝6時には起きて主人を起こし、衣類にブラシをかけて揃えて置く、夜会服も整えて置き、主人がいつでもディナーに出かけられるよう準備しておく、食事の際には給仕、午後4時半にはティー、午後6時には酒類の用意、銀器を洗う担当の日でなければ、大半は客の送り迎え、電話対応、玄関で家族の帰りを待つなどして過ごす、ディナー後には主人たちの部屋の整理、衣服にブラシ、午後10時半か11時には居間に酒を運ぶ。主人一家と客がベッドに入るまでフットマンに自由はなく、ビリヤードやカード遊びが長引くと朝4時頃まで寝られない時もしばしばあったが、そんな日でも仕事は朝6時から始まったという[125]

さらにその下の雑用としてボーイ(boy)[127]やペイジ(page)[124]と呼ばれる使用人が置かれることもあり、「下僕見習い」と訳される[127]。石炭運びのような力仕事、何かを磨くような汚れ仕事を主に担当した。男性使用人のキャリアは大抵このボーイから始まる。使用人数が多い館ではホールボーイやランプボーイなど仕事別に呼び分けられている場合もあった[123]

家の外回りの使用人(outdoor staff)としては、まず馬車の操縦と手入れを行うコーチマン(Coachman, 「御者」と訳される)があった。アウトドア・スタッフの中では最上位だった。穏やかな速度で馬を走らせることができるのが腕のいいコーチマンと見なされており、イザベラ・ビートンによれば理想的なスピードは時速11キロから13キロだったという[128]。また馬の手入れと調教を行う使用人にグルーム(groom,「馬丁」「厩番」と訳される)があった[129][109]。大きなカントリーハウスだと、馬を5、60頭ぐらい飼っていたりするので、グルームもたくさん必要だったという[128]

庭園の整備はガーデナー(gardener、「庭師」「造園係」と訳される)が担当する。ウェストミンスター公爵グローヴナー家の邸宅イートン・ホール英語版ではトップのガーデナーの下に40人の助手があったという[128]

他のアウトドアスタッフとして密猟者の監視と狩猟用のキジの養殖を行うゲームキーパー(gamekeeper,「狩猟番」と訳される)などがあった[129][109]

女性使用人

ドラマ『ダウントン・アビー』でハウス・メイドのヘッドのアンナ(演ジョアンヌ・フロガット英語版)が着ていた衣装

女性使用人の統括はハウスキーパー(house keeper、「家政婦」と訳される)が行った。夫人が直接選ぶレディーズメイドなどを除き、女性使用人の雇用・解雇の責任者であった[130]。通常は厳格・真面目な年配者で、ある程度教養もある女性が就任することが多かった[131]。酒類に関する知識や、病気や怪我の応急処置の知識も必須とされた[132]。ハウスキーパーは既婚か未婚かに関わらず「ミセス」で呼ばれた[131]。制服を着ることはなく、常に鍵束をもって邸内を見回り、問題を見つければ担当者を叱責した[131]。また自らの仕事としてはリネン陶磁器の管理、日用品の注文と支給などを主に行い、家によってはスティルルームという小規模なキッチンでスティルメイドを従えて、ジャムピクルスのような保存食を作ったり、茶やコーヒーを淹れたり、高価なお菓子を焼いたりもした[106]。年季の入った女性使用人でないとうまくできないとされたためである[132]。また夫人の付き添い、あるいはその代理人という形で慈善事業に関わることも多かった[132]

女性使用人の中でヴァレットの役割に相当するのがレディーズ・メイド(lady's maid,「侍女[126]「小間使い」[133]と訳される)であった。夫人の身の回りの世話、ドレスや帽子の管理、髪結い、美容全般などを担当した[126]。そのためこの地位に就くには針仕事などの技術が必要だった[130]。また若くて背が高く、明るくて従順で、健康面に問題がなく、ある程度の教養もあることも大事だった[133]

娘たちの世話は別にヤング・レディーズ・メイドが置かれたり、ハウスメイドなどに兼任させることもあった[106]。幼い子供の世話をする上級使用人としてナニー(nanny)もあった[106]

上級使用人としてコック(cook,「料理人」と訳される)があった。キッチンで働く使用人たちを指揮し、食材の管理と調理を担当する。男性のコックを雇うのは非常に高価だったので多くの家では賃金が安い女性のコックを雇っていた[106]。コックの腕前は館の評判を左右したので極めて重視され、その地位は使用人の中でもかなり高く「ミセス」と呼ばれて敬意が払われた[134]。バトラーはおろか、場合によっては夫人すらもコックの許可なくキッチンに入ることは許されなかったという[134]

女性の下級使用人としてフットマンに相当するハウスメイド(house maid、「女中」と訳される[135])があった[106]。家の雑務全般を担い[135]、邸内の掃除をはじめ、暖炉の世話、使用人が食事をとったり休息をしたりするサーヴァントホールでの食事の準備など仕事は多岐にわたる[106][108]。英語に「housemaid's kness」という表現があったが、これはハウスメイドが年中膝をついて床掃除をしているために結果的に起きる炎症を指す言葉であり、大変な重労働であったことが伺える[135]。ヘッドのハウスメイドは若いメイドが仕事してるかを管理したり、家具を磨いたりした[108]

またコックの下で調理を補佐するキッチンメイド、さらにその下にあって洗い場で調理器具や食器洗い、レンジの手入れ、食材の下ごしらえなどの重労働を担当したスカラリーメイドを置いた家もあった[106]

使用人の職場と待遇

ベスバラ伯爵ポンソンビー家の邸宅だったスタンステッド・ハウス英語版のサーヴァント・ホール

カントリーハウスで使用人たちが家事を担当する裏方の領域は、地階、あるいは半地下にあることが多く、そこに繋がる裏階段が壁の内側にあるサービス用通路とともに目の触れないところへ設置されていたため、使用人の領域は「ビロウ・ステアーズ(below stairs)」とか「バック・ステアーズ・ライフ(back stairs life)」とか呼ばれた[129][136]

使用人たちの働く部屋としてはキッチン、スカラリー(scullery,洗い場)、スティルルーム(stillroom、パイを作ったり、野菜を煮立てるもう一つの台所)、パントリー(pantry, グラス・カトラリー・金属器を収納する部屋)、ナイフルーム(kniferoom、念入りに研いだり磨いたりする必要がある象牙や骨製の柄のついたナイフを収納する部屋)、ラーダー(larder、肉類を処理し、卵、チーズ、バターなどを収納する部屋)、ローンドリー(laundry,洗濯室)、チャイナルーム(chinaroom,陶磁器類を収納する部屋)、セラー(cellar,ワイン貯蔵庫。大きな屋敷では自家醸造したビールを樽に貯蔵するビヤセラーもあった)、サーヴァント・ホール(使用人の食堂)などがあった[137]

使用人の居住空間は時代によって変遷があるが、歴史の古い館だと地下、新しくなるにしたがって、別棟(servant's wing)であることが多くなった[136]。中世から18世紀ぐらいまでは「ファミリー」といえば使用人も含めて同じ屋根の下で暮らす者たちのことだったが、19世紀に入ると使用人は「ファミリー」から外された。家族と直接関係する使用人はスチュワード、バトラー、ハウスキーパー、ヴァレット、レディーズメイドなどの上級使用人に限られた[136]。そのため下級使用人たちにとってバトラーやハウスキーパーは館の主人よりも怖い存在であったという[138]

1880年発行の『使用人の実用的ガイド』を見ると、使用人の中で最も給与が高いのはバトラーではなく、男性コックであり、年俸は100~150ポンドほどである(ただし前述のとおりコックは女性であることが多く、女の場合は給料は大きく下がる)[139]。ハウス・スチュワードとバトラーは50~80ポンド、ヴァレットは30~50ポンド、フットマンはランクの高い者が28~32ポンド、低い者は14~20ポンド程度だったという[140]。最も給料が低いのはホールボーイであり、6ポンドから8ポンドしかもらえなかった[139]。アウトドアサーヴァントではコーチマンが25~60ポンド、グルームの頭は18~25ポンド、下級のグルームは14~20ポンド程度である[140]。女性使用人もコックが最も年俸が高く、本職のコック(上流階級のパーティー料理を作れる技術のある者)であれば50~70ポンド、素人コックだと16~30ポンド程度である。ついでハウスキーパーが30~50ポンド、レディースメイドが20~35ポンド、ハウスメイドは上級なら20~30ポンド、下級なら12~18ポンド程度である[140]。しかし使用人には給料の他にも職務から発生する特殊な収入があった。館から廃棄されるものを入手したり、諸手当やチップを得ることなどであり、これらを総額するとそれなりの金額になり、下の方の役職者だと年俸を上回ることも珍しくなかったという[141]

使用人同士の恋愛はたいていのカントリーハウスで禁じられていたが、若い男女が多数務めている場所で情事を完全に防ぐのは無理であり、使用人同士が静かに恋を進行させることはよくあったらしい[142]

使用人の採用と働く理由

下流階級は子だくさんであることが多く、家計を助けさせるため、小学校高学年在学中か卒業後には子供を働きに出した[143]。そうした子供らを働かせる人気の職場の一つが貴族のカントリーハウスだった。衣服も食事も支給される貴族の館は親にとって負担が少なくて楽だったし、娘であれば貴族の館で働くことで家事、教養、マナー等を身につけることができれば、結婚の準備にもなったからである[144]

とはいえ小学校を出たばかりの無知な子供を貴族の館がいきなり雇ってくれることは稀であり、まずは近所の地主とか商店のもとに1年から1年半ほど奉公に出し、その後新聞広告や使用人登録所を通じて、あるいは地元有力者に仲介を依頼するなどして貴族の館に接触を図るのが一般的なルートだった[143]。男子使用人はハウス・スチュワード(設置されていなければバトラー)[109]、女子使用人はハウスキーパーが雇用するかどうかを決定する権限を持つ[130]。採用は書類審査と面接によって決められた[145]

合格した者は貴族の邸宅に奉公にあがることになるが、概ね10歳ぐらいの頃のことである[146]。20歳過ぎて雇われる者もあったが、これは経験者の中途採用である。中途採用の場合は履歴書に加えて、前の主人の推薦状が要求されることが多かった[145]。途中採用者も少なくはないが、幼少期からずっと同じ館に勤め続ける者も多かった[147]

カトリック差別が横行していた時代には、「カトリックは応募に及ばず」「英国国教会信徒以外は不可」といった条件が付けられる募集広告も多く見られた[145]。またアイルランド独立運動絡みでアイルランド人には過激派が多かったことからアイルランド人の採用を拒否する貴族も多く見られた[141]

館の仕事を一生の仕事としようという者はキャリアサーヴァントといった。「アッパー・サーヴァント」への昇進に望みを繋ぐ人たちである。コーチマン、ガーデナー、ゲームキーパーなどにキャリア・サーヴァントが多かった[144]。労働者階級の女性の中にも家庭生活での従属と骨折り仕事よりカントリーハウスで働く独身生活の方をよしとする者は少なくなったという[144]

アンジェラ・ランバートによれば1891年時においてイギリスには中・上流階級家庭に仕える家事労働者が150万人はおり、実に労働者の16%を占め[144]、イングランドとウェールズにおいては労働者の中で家事使用人が最も大きな割合を占めた[148]

カントリーハウス使用人は基本的に薄給なうえに休日がなく、朝6時から夜10時から11時まで働き詰めになるハードな仕事だが、他に働き場所がなかったりで、貴族やジェントリのために低賃金で長時間労働できることをむしろ恩典だと思っている人が多かったという[144]

産業革命後のイギリスは土地の囲い込みで農村部から都市部に人口が流出し、都市部の工場や湾岸が雇用の受け皿となったが、19世紀後半になるとイギリスの工業生産力はアメリカとドイツに追い抜かれ、ロシア、イタリア、日本などの新興国も猛追してきたため、もはやイギリスは19世紀半ばの頃のような抜きんでた工業国ではなくなった[139]。伴って輸出は低迷し、ラテンアメリカ諸国やカナダ、オーストラリアから安価な農畜産物が流入してきて第1次産業は深刻な被害を被った[139]。その結果、多くの人が住み慣れた土地を離れて海外に移民するか、サービス業につくしかなくなり、家事使用人、特に貴族の館で働きたいと望む者は増えることはあれ、減ることはなかったのである[139]

使用人退職後

退職した使用人にはおおむね2つの道があった。1つは長年奉公していた間に貯まった金を生活費に充てるものである。働いている間は衣食住に金はほとんどかからないので、給料が高い上級使用人だとまとまった金額が手元に残る。低賃金の下級使用人でも博打や酒に溺れていなければ、そこそこの金額が貯まったという。また気前のいい主人であれば、辞める際に退職金代わりにまとまった金額を与えることもあったようである[149]

もう1つの道はその金を元手に店を開くことである。多いのは大地主の邸宅に勤務してきた使用人が退職後その邸宅の近くに店を構えるものである。パブが特に人気の商売だったという。邸宅の使用人や出入り業者がそこを利用するようになり、必然的に店は繁盛したという。また気前のいい主人だったら、借地料なし、あるいは極めて低額で土地を貸してくれ、開業を支援してくれることがあったという[150]

貴族の教育

グランドツアー

グランドツアー途上の第8代ハミルトン公爵。同行者の医師と息子が左右に描かれている。

18世紀後半頃まで貴族をはじめとしたアッパークラスの教育は家庭で行われることが多かった。教育内容は、中世末の頃には武勇や騎士道的な振る舞いが関連づけられ、形式的教育は退けられていたといわれるが、16世紀初め頃までにはヨーロッパからの影響でラテン語ギリシャ語で古典や聖書を読み、その精神を身に着けることが学問の中心となった[151]

そうした家庭教育を受けた後、グランド・ツアーと呼ばれるヨーロッパ大陸を旅行して見聞を広げることが教育の総仕上げとして行われた。16世紀のエリザベス朝の頃からアッパー・クラスの子弟はエリザベス女王やオックスフォード大学、ケンブリッジ大学などの支援でヨーロッパを旅行するようになったが、その数は決して多くはなかった。海賊や盗賊などの治安の悪さ、カトリック国によるプロテスタント弾圧、整備されていない道、粗末で不衛生な宿など、当時の海外旅行は危険が多かったからである。グランドツアーがアッパークラスの子弟の間で慣例化するようになったのはこうした危険が減った17世紀後半ぐらいからである[152]。特に18世紀に入った後に盛んになった[153]。しかしこの慣習は18世紀末のフランスとの戦争(フランス革命戦争からナポレオン戦争)でヨーロッパ内の移動が制限されたことで衰退していく[154][155]

パブリック・スクール

軍事訓練を行う第一次世界大戦下のイートン校の生徒たち。

代わってこの時期からアッパークラスの家は子弟をグラマー・スクール(20世紀公立学校とは無関係)やパブリック・スクールに入学させるようになった。パブリックスクールの多くはもともと貧しい家庭の子供に教育を施すために作られた慈善施設なのだが、時代が下るにつれて学費をよく払う生徒が増やされていき、18世紀後半の頃には学費を払う生徒の方が多くなっていた。パブリックスクールがそのように変化した理由の一つは、医学の進歩で子供の死亡率が下がり、アッパークラスの家庭も子供全員を家で教育するのは難しくなり、厳しい規律や共同生活、体罰などに耐えられそうな強靭な子供(悪く言えば手のかかる子供)をパブリックスクールに入学させるようになったことがある[156]

イートン校ハーロー校ラグビー校ウィンチェスター校などで有名なパブリックスクールは13歳から19歳までの間入学する寄宿制学校で食事をはじめ生活は極めて質素、規則に違反すると厳しい罰が与えられる。第二次世界大戦前には鞭で尻を打つ体罰が日常的に行われていた。6年間ここの生活に耐えられれば、いかなる環境でも耐えられるといわれ、19世紀大英帝国の繁栄はパブリックスクールの力ともいわれる[157]

しかし手のかかるアッパークラス子弟が多数を占めるようになって最初の方の時期のパブリックスクールは規律も秩序もないワイルドな場所と化したという。教師たちは体罰によって生徒を統制しようとしたが、生徒側も負けずに反抗し、教師に対する生徒の反乱を収めるために軍隊が出動したこともあったという[158]。そのようなパブリックスクールが現在のように規律と秩序ある場所になったのは、1827年にラグビー校の校長となったトマス・アーノルドとその後継者たちによる教育改革の成果である。学問だけでなく、生徒同士の人間関係、教師との信頼関係、人格形成などにも注意が払われるようになり、協調性やフェアプレイの精神を養う場所としてスポーツが奨励されるようになった。また教育内容も従来のギリシャ語、ラテン語などの古典教育偏重が改められ、現代史や現代言語(フランス語やドイツ語)、数学などが導入されるようになった[158]

大学

ケンブリッジ大学クライスツ・カレッジの入口。マーガレット・ボーフォートの紋章を頭上に掲げる。彼女の子孫は現在のボーフォート公爵家へと繋がる。

パブリックスクールを卒業したアッパークラス子弟はオックスフォード大学ケンブリッジ大学に進学する者が多かった。両大学もパブリックスクールと同じく、もともとはアッパークラス子弟の教育機関ではなかった。聖職者養成のための教育機関だったが、両校とも17世紀初頭までには卒業後に聖職者になる学生数は半数まで落ちた。それ以外の学生は医者、法律家、公務員などになる者が多かった。こうした中にアッパークラスの長男までもが入学するようになったことは注目に値する。将来父の跡を継いで土地を管理する彼らは職業に就くための資格など必要ないはずだが、人脈を広げ、表面的な教養を身に着けるため入学したという[159]。ブロックリスの『オックスフォード大学の歴史』によれば、17世紀初頭にはオックスフォード入学者の30%から45%ぐらいがアッパークラスの子弟になっていたという。それ以外の学生は聖職者か平民の息子だったようである[159]。17世紀初頭の頃まではまだ貧しい平民の家の出の学生が一定数おり、こうした貧乏学生たちは裕福な学生から施しを受けたり、その身の回りの世話をして生計を立てたという[160]。しかし17世紀半ば頃から平民の学生数は減少し、聖職者かジェントルマンの息子の入学が増えた。貧しい学生が施しを求めることも忌避されるようになったという。19世紀になると両大学の入学者数が急増するが、貧しい家の学生が戻ってくることはなく、両大学ともアッパークラスおよびアッパーミドルクラスの教育機関として定着した。こうした経緯で両大学ともパブリックスクール卒業生が大部分を占めるようになったのである[161]

貴族女子の教育

先進国イギリスでも女子の学校教育はなかなか普及しなかった。貴族の男子が小学校やパブリックスクールに入学するようになった時代以降も女子はそうしたところに入学することはなく、20世紀初頭まで女子の初等・中等教育は家庭で行われるのが伝統だった。そのため貴族の邸宅には教室やガヴァネスの寝室があったりした。学習の他、淑女になるための作法、ダンス、裁縫、料理などの習い事をして成長した[162]

次男は長男に万が一があった時の代わりとなるので教育をないがしろにするわけにはいかなかったが、娘は相続の可能性がないため、良い結婚のための礼儀作法と教養されあれば十分と考えられていたためである[163]

女子の学校教育が普及したのは20世紀以降であり、それは婦人参政権運動の先覚者サフラジェットの影響だった[162]

貴族の英語

イギリスでは貴族をはじめとする上流階級(upper class)と、非上流階級(non-upper class)の間で英語の発音や語彙が違った時代があり、1950年代頃にこれが注目されて、しばしば論じられた[164]。近年はイギリスでも社会階級、あるいは階級意識そのものが衰退しているため、こうした現象は減り、この方面の研究ブームは去った感があるが[165]、それまでは次のようなことがよく論じられた。

発音

貴族など上流階級が使ったイギリス英語の伝統的な事実上の標準語を容認発音(Received Pronunciation)といい、1960年代以前には公共放送BBCでもアナウンサーの発音としても使われ、また王族の英語として使われることから「キングズ・イングリッシュ」(King's English)もしくは「クイーンズ・イングリッシュ」(Queen's English)とも呼ばれた[166]。容認発音はもともと中世後期にロンドンを含むイングランド南部で発達し、ヴィクトリア朝の1870年に正しい英語の読み書きとして広められ、各地から都市のパブリックスクールに集められた上流階級の生徒らの間で標準語として話されたものである。そのため地方的なバラツキがない[166]。容認発音の主な特徴として次のものがあげられる[166]

  1. rを発音するのは次に母音が続く場合のみで、音節末のr音化がない(carであれば[kɑ][166]
  2. askbathchance など(後続の子音が「二字一音の摩擦音」「摩擦音+破裂音」や「鼻音+他の子音」であることが多いが、規則的ではない)の a は RP(容認発音)では非円唇後舌広母音 [ɑ] となる[167]
  3. stop などの o円唇後舌広母音[stɒp][167]
  4. better など母音間・強勢後の /t/[t](ベター)とアメリカ英語よりもはっきり発音(アメリカ英語は歯茎はじき音[167]
  5. bluntness などの /t/声門閉鎖音 [ʔ] になる[167]
  6. /ou/[oʊ] ではなく [əʊ] で発音する。[ɛʊ] のように聞こえることもある[167]
  7. new[njuː](ニュー)、tune[tjuːn](テューン)と発音する(アメリカ英語では [nuː](ヌー)、[tuːn](トゥーン)と発音する人が多い)[167]
  8. head など語頭の /h/ を発音する[167]

しかし1960年代以降BBCでも普通の発音が一般的になるに及んで、かつて容認発音で話していた上流階級層も若者などは使わなくなり、2008年時点では容認発音の使用者は3%程度にまで減少している[167]

語彙

階級が異なると語彙も異なった。例として以下のようなものがあげられる。

上流階級と非上流階級の語彙の差
日本語 上流階級の英語 非上流階級の英語 出典
悪臭 awful smell unpleasant odour [165]
house home [168]
贈り物 present gift [168]
looking-glass mirror [168][165]
聞き返すとき What? Pardon? [168][165]
ケーキ cake pastry [165]
高価な expensive costly [165]
香水 scent perfume [165]
自転車 bike,bicycle cycle [168]
死ぬ die pass on [165]
ジャム jam preserve [168][165]
十分な enough sufficient [165]
知りません I don't know. I couldn't say. [168]
洗練された smart Classy [165]
男性の礼服 dinner jacket dress-suit [165]
電報 telegram wire [165]
トイレットペーパー lavatory-paper toilet-paper [168][165]
トランプのジャック Knave jack(in card) [165]
ナプキン table-napkin serviette [168][165]
妊娠している pregnant expecting [168][165]
野菜 Vegetables Greens [168]
裕福 rich wealthy [168][165]
ラジオ wireless radio [168]

上記の通り、上流階級が「気取った」「上品な」「遠まわしな表現」を使うとは限らず、むしろ非上流階級の方にそうした表現が多い[165][168]。特に「悪臭」「死ぬ」「知りません」「妊娠している」などは上流階級が直球の不躾な表現で言うのに対し、非上流階級は婉曲的に表現している[165]

大陸貴族との違い

英国貴族は大陸の貴族と違い法的な特権がほとんどなかった。行政・軍事における高級の地位が保障されることはなく、土地所有について税金を支払い、権利争いにおいては所有地内で暮らしている者から起訴されることもあった[169]

イギリスは一方で強固な階級関係を維持しながら、その階級関係は固定的ではなく財産の上昇や下降で変わっていく流動的なものだった。特に「紳士」(ジェントルマン)という高度に階級的な表象は、やがて社会の最底辺まで下降するだけの流動性を有していた[170]

旧体制フランスの貴族は自分たちの特権に固執したので閉鎖的なカーストとなり、その結果フランス革命で破局を迎えることになるが、英国貴族や紳士は貧民の保護を自らの義務・名誉と心得ていたので積極的な慈善事業を行ったし、特権も適時に徐々に手放したので、閉鎖的なカーストとならず、むしろ無限に社会の底辺にまで広がっていた。「労働貴族」(熟練労働者が未熟練労働者と徒弟に対してあたかも貴族であるかのように教育と保護の義務を負う)の概念はそれを象徴する。19世紀フランスの歴史家フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾーフランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンアレクシ・ド・トクヴィルイポリット・テーヌらがそろってイギリス貴族制を「義務・責任を負った貴族制」(ノブレス・オブリージュ)として羨望と賞賛の言葉を送っている所以である[171]

貴族の長男以外の子女について

「ヤンガーサン」

イギリス貴族の次男以下の息子は「ヤンガーサン (younger son)」と通称される。あるいは「カデット (cadet)」と呼ばれることもある[172]。爵位を継承できるのは長男 (eldest son)だけなので、ヤンガーサンは兄が男子なく死んで爵位を継承するか、自身が新規に爵位を与えられない限り平民である[173]。また財産面でもイギリス貴族は、長子相続制 (primogeniture)と限嗣相続制 (entail)によって長男のみが爵位と屋敷と土地を相続する制度をとっており、貴族の土地は相続時の契約で分割不可能であるため、ヤンガーサンに分け前はない[40][174]。これは貴族の土地の細分化を防ぐ意味があった[170]

ヤンガーサンにも長男と同じような教育が与えられたが、長男のように土地収益で生活することはできないので、大人になると何らかの職業に就いて生計を立てることが要求された[175]。ヤンガーサンが就いた主な職業は「専門的職業」(professions)が多く、たとえば陸海軍士官、外交官、聖職者、法廷弁護士 (barrister)などである。金融や貿易に携わる者もあった[176]。ヤンガーサンは名誉称号以外は一般の紳士とほぼ変わりない存在だったといえる[170]。しかし陸軍将校や聖職者になるのはコネと金が重要だったのでヤンガーサンはそうした地位を得やすく、親や親族に用意してもらうのが一般的だった[177]

これは土地収益で暮らす「アッパー・クラス」に生まれ育ちながら、大人になると誰かから報酬をもらって生活する「ミドル・クラス」に落ちるということでもある。このことを指して歴史学者ローレンス・ストーンとジャンヌ・C・フォーティヤ・ストーンは、イギリス貴族のヤンガーサンはヨーロッパと違って常に階級的に「下に移動」したと表現する[178]。歴史研究者ローリー・ムーアは「これらの職業に就いた良い家柄のヤンガーサンのほとんどは社会階層が下がるわけだが、一方でブルジョワの息子たちは、自分たちの父親より高い地位(社会的な意味であって、必ずしも経済的に高くなるわけではない)を手に入れてそれを守っていくことを試みた」とし、それにより貴族のヤンガーサンとブルジョワの息子は、摩擦を抱えながらも出自を超えた仲間意識、職業への集団的な帰属意識を持つようになり「アッパー・ミドル・クラス」と呼ばれる階級を形成したとする[178]

貴族の長男とヤンガーサンではあまりに財産や地位が違いすぎるため、ヤンガーサンは社交界において貴婦人から避けられる存在だったという[173]。そのため「アッパークラス」の女性との結婚は難しく、多くの場合「ミドルクラス」から妻をもらうことになった[179]

一方でヤンガーサンは爵位や財産がなくとも、親や祖父母から貴族的な言葉遣いや慣習を叩きこまれているために「アッパークラス」との密接な関係者であるという自負心を持つ者は多かった[180]。ヤンガーサンには身を立てようと勉学に励む者も多く、政治家、軍人、法律家、学者、植民地行政官などになって18世紀から19世紀大英帝国の繁栄を支えたといわれる[40]

なお19世紀のヨーロッパ大陸では長子相続制・限嗣相続制が多くなかったため、土地の分散化問題が起こったし、爵位が長男以外にも与えられることから貴族インフレが起きて爵位の価値も低下した。対してイギリス貴族は、ヤンガーサンを「ミドルクラス」に送り込むことによって土地財産を維持するとともに爵位を価値ある物として続かせることに成功し、ヨーロッパ貴族の中でも稀有な存在となった[181]

公爵家と侯爵家のヤンガーサンは「ロード(Lord, 卿)」の儀礼称号をファーストネームに対して使用できる(あくまで儀礼称号にすぎず、身分は平民である)。伯爵家のヤンガーサンと子爵・男爵の息子(長男含む)は「ジ・オナラブル(The Honourable, 閣下)」の敬称で呼ばれる[182][183]

貴族の令嬢

ルコンフィールド男爵家の令嬢(三姉妹)を描いた絵画。 (作・J.S.サージェント

前述のとおり一部の例外的な爵位を除いて原則として女子は爵位を継承できない。また財産面でも長子相続制と限嗣相続制により、まず長男、それが絶えれば次男、息子の血筋が全て絶えれば、男系血筋で最も近い男性親戚が相続するため、女子が分け前を得られる可能性はヤンガーサン以上に低い。女子は結婚により他家に入ることになるので、他家に財産を持っていかれるのを防止するため女子には財産を渡さなかった[184]。「息子ができず、娘しかいない貴族家は爵位も土地も財産もすべて遠縁の親戚男子に渡ってしまう。」この現象は1831年のジェーン・オースティン著『高慢と偏見』から2010年代のドラマ『ダウントン・アビー』に至る迄19世紀から20世紀の英国を描いた作品でよく描かれるところである[184]

貴族の娘たちは勉強部屋を出る年になると社交界デビューした[185]。おおむね17歳から18歳ぐらいの頃である[186]。社交界にでたばかりの未婚女性をデビュタントと呼ぶ[187]。一般に正式なデビューとみなされるのは、王宮での初拝謁 (presentation at court)である。母親か既婚の親族女性により王室に紹介されることであり、この儀式を経て一人前の淑女と認められるようになった[188]

貴族令嬢の社交活動で最も重要なのは結婚相手を見つけることである。それは貴族社会では常識だったから、母親や叔母、既婚の姉などがカントリー・ハウスのスクール・ルームという閉ざされた世界から出たばかりの娘の相手を見つけるために尽力し、いくつものカントリーハウスを回ったり、パーティーを開いて知人の中から適当な独身男性をかき集めるのである[189]。土地と屋敷と財産を独り占めにできる爵位持ちかその長男が相手として理想だが、そうした者は希少なので貴族令嬢たちの間で取り合いが激しかったという[190]。財産を相続できないヤンガーサンは嫌われて避けられたという[173]

社交界にデビューして半年の間に申し込みがなければ、次の社交シーズンまで待つ必要があるが、社交シーズンが三度過ぎても申し込みがないと魅力のない独身女性となる危険性が高まる。第二次世界大戦前ならば、そうなる前に最後の手段として植民地インドへ行って植民地行政官と結婚するパターンがあった[191]

伯爵以上の貴族令嬢は「レディ(Lady, 嬢)」、子爵以下の貴族令嬢は「ジ・オナラブル(The Honourable, 閣下)」の敬称で呼ばれる[182][183]

日本と英国貴族

チャッツワースハウス前の庭園の噴水
  • 明治5年9月28日(1872年10月30日)、シェフィールド市の鋼製品工場見学を終えた岩倉使節団は、同市から西に10キロの場所にある第7代デヴォンシャー公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ英語版の邸宅チャッツワース・ハウスを訪問した[192]。使節団はホールの記帳に署名した後、デヴォンシャー公爵の案内で美術品展示の部屋、陶器展示の部屋、絵画展示の部屋、個室や寝室、ビリヤードホール、チャペルなどを見て回った。久米邦武は「我々の回った各部屋の中は周りの壁、天井や床などそれぞれ見事な出来で、繊細な彫刻や美しい彩の装飾画を施したりしてある」[193]「どこもかしこも目を見張るばかりである」[194]とその美しさに感嘆している。その後、酒造とキッチンを見学した一行はダイニングルームで昼食を供されて公爵一家の歓待を受け、会食後にはバスルーム、庭園、温室を見学した。久米は庭園にある階段式の滝や邸宅前の噴水について「(西洋では)いろいろと水の不思議な仕掛けを見ることが多い。しかし、まだ、この庭園の滝を超えるようなものは見たことがなかった」「(階段の滝が地底に落ちていく場所から)百数十歩先の屋敷の前の池から数十筋の噴水となって吹き上がっている。この噴出の勢いの強さは、水晶宮の噴水も及ばないほどである」と感嘆している[195]。その後一行は邸宅に戻って公爵に別れの挨拶をし、公爵に見送られながら馬車で次なる訪問先へ向かっていった[196]
  • 日本人の志村寿子(マークス寿子)は、イギリスで働いていた1976年に第2代マークス男爵マイケル・マークスと結婚した。マークス男爵にとっては3度目の結婚だったが、1985年に離婚した。二人の間に子供はなかった[197][198]。マークス寿子はアメリカ文学者志村正雄の妹であり、自身も日本と英国に関する著作が複数ある。
  • 日本の京都府出身の在日韓国人マイコ・ジョン・ソン・リー英語版(Maiko Jeong Shun Lee)は、1993年に第3代ロザミア子爵ヴィアー・ハームズワースと結婚した。ロザミア子爵にとっては再婚だったが、二人の間に子供はなかった[199][200]。彼女は在英韓国大使館が進めていたイギリス軍の韓国戦争参戦記念碑をロンドンに建立する計画に協力し、55万ポンドの寄付を行って2013年に実現させた。韓国の中央日報は彼女について「英国唯一の韓国人貴族」と表現している[201]
  • 第2代スカーズデール子爵リチャード・カーゾン英語版の三女ジュリアナとジョージ・スタンリー・スミスの間の次女であるベニシア・スタンリー・スミス[202]、1971年(昭和46年)に来日し、写真家梶山正と結婚。京都市大原に在住して自家栽培のハーブや四季の草花を活用した暮らしをエッセーで紹介し、NHK番組「猫のしっぽ カエルの手」の出演で有名になった。彼女は2023年(令和5年)6月21日に京都市の自宅で死去した。72歳だった[203]

脚注

注釈

  1. ^ ヒューの子孫は1237年に絶え、チェスター伯爵位も一時途絶えたが、1254年ヘンリー3世在位:1216年 - 1272年)が皇太子エドワード(エドワード1世)に与えて以降、現在に至るまでイングランド・イギリス皇太子に継承される称号となっている[4]。最古参の爵位としてチェスター伯爵位は別格であり、同じくイギリス皇太子の称号であるコーンウォール公爵位よりも上位に書かれる[5]

出典

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参考文献