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{{Infobox royalty
{{基礎情報 皇族・貴族
| 人名 = ナキア
| name = ナキア / ザクトゥ
| title = {{仮リンク|新アッシリア帝国の王妃|en|label=宮殿の女性|Queens of the Neo-Assyrian Empire}}{{efn|これはアッシリアの王妃たちの公式の称号であった。彼女がセンナケリブ治世中に実際にこの称号を帯びていたかどうかについては議論があるが、いずれにせよエサルハドンの時代には(恐らくは過去に遡及して)その地位を帯びていた{{Sfn|Frahm|2014|p=191}}。}}<br />王母{{efn|この称号はエサルハドンとアッシュルバニパルの治世に用いられていた{{Sfn|Kertai|2013|p=120}}。}}
| 各国語表記 =
| image = Naqi'a crop.png
| 家名・爵位 =
| caption = 同時代のレリーフに描かれたナキア
| 画像 = Relief Esarhaddon Louvre AO20185.jpg
| birth_date = 前728年頃以前
| 画像サイズ = 300px
| death_date = 前669年以降
| 画像説明 = [[エサルハドン]]王の後ろに立つナキア。アッシリアのマルドゥク神殿のレリーフより。このレリーフは、エサルハドンによるバビロン復興を記念したもの。
| spouse = [[センナケリブ]]
| 続柄 =
| issue = [[エサルハドン]]<br />{{仮リンク|シャディットゥ|en|Shadittu}}?
| 称号 =
| 全名 =
| father =
| 身位 =
| mother =
| native_lang1 = [[アッカド語]]
| 敬称 =
| native_lang1_name1 = Naqī'a / Zakûtu
| 出生日 =
| 生地 =
| 死亡日 = [[紀元前7世紀|紀元前652年]]頃
| 没地 =
| 埋葬日 =
| 埋葬地 =
| 配偶者1 = [[センナケリブ]]
| 子女 = [[エサルハドン]]
| 父親 =
| 母親 =
| 役職 =
| 宗教 =
| サイン =
}}
}}
'''ナキア'''(''Naqi'a'' / ''Naqia''{{sfn|Cook|2017|p=895}}{{Sfn|Gansell|2018|p=80}}{{Sfn|Dalley|2005|p=15}}、[[アッカド語]]:''Naqī'a''{{Sfn|Teppo|2005|p=36}})、または'''ザクトゥ'''(''Zakūtu''{{Sfn|Teppo|2005|p=36}}{{Sfn|Elayi|2018|p=16}})はアッシリア王[[センナケリブ]](在位:前705年-前681年)の妻、また彼の息子であるアッシリア王[[エサルハドン]](在位:前681年-前669年)の母でもある。ナキアは[[新アッシリア帝国]]の歴史において最も記録が豊富な女性であり{{Sfn|Fink|2020}}、過去に例のない影響力と存在感(public visibility)を得ていた{{Sfn|Melville|2012}}。彼女は恐らくは[[アッシリア]]の歴史において最も影響力のある女性であり{{Sfn|Fink|2020}}、芸術作品に姿が描かれたり、自身の建築事業を起こしたり、廷臣たちの手紙で賛美の枕詞を付される数少ないアッシリアの女性の1人である。また、古代アッシリアにおいて王以外で条約を作成し発布したことが伝わる唯一の人物である。
{{告知|議論|ナキアはアッシュルバニパルとシャマシュ・シュム・ウキンの戦いを見たのか?|section=ナキアはアッシュルバニパルとシャマシュ・シュム・ウキンの戦いを見たのか?}}
'''ナキア'''(''Naqi'a'', 紀元前730年頃–紀元前668年)は、古代メソポタミア地方、[[新アッシリア帝国|新アッシリア]]時代の[[王]][[センナケリブ]](在位紀元前704-前681年)の側室の一人。[[エサルハドン]](在位紀元前681年-前669年)の母で、[[アッシュルバニパル]](紀元前669-627年)の祖母にあたる。王母としてアッシリア宮廷に隠然たる影響力を振るった。彼女を表した浮き彫り彫刻も発見されており、これは古代オリエントに生きた女性としては稀有な例である。


前713年頃にセンナケリブとの間に息子エサルハドンを儲けていることから、ナキアは間違いなくセンナケリブが前705年に王位に就く以前に結婚していた。彼女が{{仮リンク|新アッシリア帝国の王妃|en|label=王妃|Queens of the Neo-Assyrian Empire}}の地位を持っていたのかどうかについては議論がある。アッシリアの王たちは複数の妻を持っていたが、妻たちの中で王妃であるのはいかなる時にもただ1人だけであったことが史料から示されている。センナケリブには[[タシュメトゥ・シャラト]]という王妃がいたことがわかっている。ナキアはセンナケリブの治世末期に王妃になったかもしれない。彼女は息子エサルハドンの治世には「センナケリブの王妃」として言及されている。センナケリブは前684年に、恐らくはナキアの影響を受けて年長の息子たちがいるにも関わらずエサルハドンを王太子に任命した。
== 来歴 ==
=== 出自 ===
ナキアとは「純潔」を意味する西セム系の名前である。同じ意味の[[アッカド語]]の'''ザクトゥ'''('''Zakitu''')の名で呼ばれることも多い<ref name=Joannes>F. Joannes, ''Historia...'', p. 66.</ref>。彼女の出身地については明らかではないが、その名前から[[歴史的シリア|シリア地方]]出身者との説がある。


エサルハドンの治世の間、ナキアは''ummi šari''(文字通りには「王母」の意)の称号を持ち、権勢の頂点に達した。エサルハドンの治世下で、ナキアは帝国全土に複数の邸宅を持ち、エサルハドンの王妃[[エシャラ・ハンマト]]を上回るであろう巨大な富を得ていた。また、ナキアはバビロニアの都市{{仮リンク|ラヒラ|en|Lahira}}周辺にあった彼女自身の所領を統治していたかもしれない。ナキアに言及する最後の記録はエサルハドンの死亡から数か月後、前669年のものである。エサルハドンの死後、ナキアは王族、貴族、そして全アッシリアに対して孫である[[アッシュルバニパル]](在位:前669年-前631年)への忠誠を誓わせる条約を作成した。そしてこの後、彼女は公的な生活からは引退したと思われる。
また、紀元前701年に敗戦国となった[[ユダ王国]]の[[ヒゼキヤ]]がセンナケリブに贈った女性の一人がナキアだっとする説もある<ref name="Melville 1999" />。


== 名前と出自 ==
家族についてはほぼ知られていないが、アビラミ(Abi-rami)という姉妹がいた<ref name="Melville 1999">{{cite book|last=Melville|first=Sarah C.|title=The role of Naqia/Zakutu in Sargonid politics|year=1999|publisher=Neo-Assyrian Text Corpus Project|location=Helsinki|isbn=9514590406}}<br>(『ナキア/ザクトゥの役割』(著:サラ・C・メルヴィル、1999年、新アッシリア文書全集プロジェクト))</ref>。
ナキアの出自について確実なことは何も言えないが、彼女が2つの名前を持っていたことは外国、恐らくは[[バビロニア]]か[[レヴァント]]に出自を持っていたことを示している可能性がある{{Sfn|Elayi|2018|p=16}}。'''ナキア'''(ナキヤ / ''Naqī'a'')という名は[[アラム語]]{{Sfn|Clancier|2014|p=23}}{{Sfn|Elayi|2018|p=16}}、または少なくとも[[西セム語|西セム系]]の言語に由来する{{Sfn|Teppo|2005|p=36}}。そして'''ザクトゥ'''(ザクートゥ / ''Zakūtu'')という名は[[アッカド語]]に由来する{{Sfn|Elayi|2018|p=16}}。''Zakūtu''という名前はたまにしか使用されず{{Sfn|Tetlow|2004|p=288}}、恐らくは彼女がアッシリア王族の一員となった時に付けられた名前である。どちらの名前も意味は同じであり「純潔(''purity''{{Sfn|Nemet-Nejat|2014|p=240}})」「純粋(''pure''{{Sfn|Gansell|2018|p=80}})」「純粋なる者(the pure one{{Sfn|Finegan|1979|loc=Assyrian Empire}})」などと解釈できる。彼女にはアビ・ラミ(''Abirami'' / ''Abi-rāmi'')またはアビ・ラム(''Abi-rāmu'')という姉妹がいた<!-- Joannès (2016) は誤ってナキアの娘としている -->{{Sfn|Teppo|2005|p=34}}。彼女は前674年に{{仮リンク|バルリ|en|Baruri}}市内の土地を購入したことがわかっている{{Sfn|Tetlow|2004|p=288}}{{Sfn|Joannès|2016|p=31}}。


== 来歴 ==
ナキアはおそらく[[バビロニア]]で生まれたが、彼女の家族は[[ハッラーン]]地域の出身の可能性がある。 西方の出だとする考察は、ナキアが王の後ろに立って描かれている[[ルーヴル美術館]]の所蔵するブロンズのレリーフの断片に基づく。彼女は左手に鏡を持ち、右手に植物を持っている。 学者たちは、鏡を持った女性のモチーフはシリア/アナトリア起源であり、ここで初めてアッシリア美術に登場すると指摘している<ref name="Melville 1999" />。


=== センナケリブの治世 ===
=== センナケリブの治世 ===
[[エサルハドン]]を出産した年齢を考えれば、ナキアの生誕は前728年頃以降ではあり得ない{{sfn|Cook|2017|p=902}}。ナキアはアッシリア王[[センナケリブ]](在位:前705年-681年)の妻の1人であり{{Sfn|Kertai|2013|p=118}}、彼女らの息子エサルハドンが生まれたのは前713年頃であるため婚姻は前9世紀末のことである{{Sfn|Teppo|2005|p=37}}。この結婚の時点ではセンナケリブはまだ王位に就いておらず、父である[[サルゴン2世]]の王太子であった{{Sfn|Kertai|2013|p=118}}。センナケリブには多数の子供がいたが、この子供たちのうち、エサルハドンを除き誰がナキアの子供であったのかは不明である{{Sfn|Elayi|2018|p=17}}。センナケリブの娘の中でただ一人名前がわかっている{{仮リンク|シャディットゥ|en|Shadittu}}は{{Sfn|Frahm|2014|p=191}}、エサルハドンの治世中にも重要な地位に留まり続けたことからナキアの子供である可能性がある{{Sfn|Elayi|2018|p=17}}}。[[アルダ・ムリッシ]]のようなセンナケリブの年長の息子泰はナキアの子供ではない{{Sfn|Frahm|2014|p=191}}。
彼女はセンナケリブの後宮に入り<ref name="佐藤1991p114">[[#佐藤 1991|佐藤 1991]], p. 114</ref>、紀元前713年頃に息子[[エサルハドン]]を産んでいる<ref name="Melville 1999" />。

ナキアは既にセンナケリブの治世中には影響力を持つ人物であったかもしれない。前684年の王太子アルダ・ムリッシの解任とエサルハドンの王太子就任にナキアが関与した可能性がある{{Sfn|Frahm|2014|p=191}}{{Sfn|Elayi|2018|p=16}}{{Sfn|Finegan|1979|loc=Assyrian Empire}}。エサルハドンが様々な病気に苦しんでいるという報告が増えつつあったにも関わらず、恐らくナキアの影響を受けたセンナケリブはエサルハドンを王太子に任命した後、決して後継者を変更することはなかった。彼女は[[占い|卜占]]と[[占星術]]を用いてエサルハドンに対するセンナケリブの評価を強めようとしたことが記録されている{{sfn|Cook|2017|p=903}}。ナキアは生涯を通して、[[アルビール|アルベラ]]市で活動する預言者たちと緊密な関係を持ち続けていたと思われる{{Sfn|Nissinen|2017|p=320}}。

しばしばセンナケリブの王妃とされるが{{Sfn|Frahm|2014|p=191}}{{Sfn|Gansell|2018|p=80}}{{Sfn|Teppo|2005|p=36}}、センナケリブの存命中にナキアが王妃の地位を持っていたかは不明である{{Sfn|Teppo|2005|p=36}}。ナキアはセンナケリブが王となる前から彼と関係を持っており、またその後のエサルハドンの治世(前681年-前669年)を通じてエサルハドンと関連性を持っていたことがわかっている一方、センナケリブは[[タシュメトゥ・シャラト]]という他の女性とも結婚しており、彼女が王妃の称号を持っていたことは確実である{{Sfn|Kertai|2013|p=118}}。アッシリア王たちは複数の妻を持っていたが、いつ如何なる場合でも、その中で王妃であるのはただ1人であったというのが研究者の間での一般的な見解である。これは行政文書において王妃の称号は常に修飾(qualification)無しで使用されていることによる(このことは、王妃という単語が誰を指し示すのかが明確であったことを意味する){{Sfn|Kertai|2013|p=109}}{{Sfn|Elayi|2018|p=15}}。

ナキアは複数の文書においてセンナケリブの王妃({{Smallcaps|mí.é.gal}})として言及されているが、こうした文書は恐らく、ただ1つの例外を除きエサルハドンの治世中に書かれたものである{{Sfn|Frahm|2014|p=191}}。このことはナキアの王妃の称号は息子であるエサルハドンから過去に遡って与えられたものであることを意味するであろう{{Sfn|Elayi|2018|p=15}}。ただ1つの例外である可能性がある文書は、碑文の断片が刻まれた1つのビーズである。この碑文では彼女は「センナケリブの{{Smallcaps|mí.é.gal}}」と呼ばれており、その後の部分は失われている。この文章はセンナケリブ治世中にかかれたものである可能性がある{{Sfn|Frahm|2014|p=191}}。別の可能性として、ナキアがセンナケリブの治世末期に王妃の地位を手に入れた可能性もある{{Sfn|Elayi|2018|p=15}}。タシュメトゥ・シャラトはエサルハドン治世中の文書ではまったく言及されない{{Sfn|Frahm|2014|p=192}}。恐らく、ナキアの息子エサルハドンの王太子就任は前684年頃にナキアが王妃であったこと、そしてタシュメトゥ・シャラト(彼女は前694年頃の文書でしか確認されていない{{Sfn|Kertai|2013|p=118}})はその時点では死亡していたことを意味するであろう{{Sfn|Frahm|2014|p=191}}。エサルハドンが王太子になった後、センナケリブはナキアにいくつかの免税地を与えた。ただし、このことを書いた文書では彼女には「王太子の母」という称号しか付されていない{{Sfn|Tetlow|2004|p=288}}。

=== エサルハドンの治世 ===
[[File:Relief Esarhaddon Louvre AO20185.jpg|thumb|レリーフに描かれたナキア(左)とその息子[[エサルハドン]](右)|left]]
夫センナケリブが殺害された時、そしてその後の一連の騒乱期を通して、ナキアはニネヴェの王宮にいた。その間、彼女は未来に関する多数の預言を得た<ref>唐橋, p. 35.</ref>。現存する情報の大半は、息子エサルハドンの治世が始まってからのものである。この時代のものとしては、ナキア宛の手紙およびナキアに言及した手紙がある。また、ナキアがエサルハドンのために建てた宮殿の碑文、二つの献納碑文のほか、彼女がとても裕福で多くの使用人を抱えていたことを示す行政・経済文書もある<ref>唐橋, p. 34-35.</ref>。


息子エサルハドンの治世にナキアの権威は拡大した。彼女は早い段階でアッシリアの首都[[ニネヴェ]]に息子のために宮殿を建設し、この建設事業を記念する碑文を作らせた{{Sfn|Teppo|2005|p=37}}。宮殿の建設は通常、王たちが行うものであり、王妃が実施するのは異例のことであった。この事業を記録する碑文は仰々しく、明らかに王たちの碑文から影響を受けている{{Sfn|Fink|2020}}。エサルハドン時代の大半の史料において{{Sfn|Teppo|2005|p=37}}、ナキアはシンプルに{{仮リンク|王母|en|queen mother}}(''ummi šari''、文字通りに「王の母」の意)と呼ばれている。エサルハドンの息子(つまりナキアの孫)[[アッシュルバニパル]](在位:前669年-前631年)の治世の間も、もはや在位中の王の母ではなくなったにも関わらずナキアはこの称号を保持し続けていた{{Sfn|Kertai|2013|p=120}}。現存する史料において彼女はアッシリア史上最も重要な太后(queen mother)であり、王母という称号が登場する記録の多くは彼女の存命中のものである{{Sfn|Teppo|2005|p=37}}。
[[紀元前7世紀|紀元前694年]]に、センナケリブの長子[[アッシュル・ナディン・シュミ]]が[[バビロニア]]で[[エラム]]との戦闘に敗れ行方不明になると、センナケリブはおよそ11年間、継嗣を決めなかった。最終的に彼は、順当ならば後継者に選ばれるはずだった最年長の息子であるアルダ・ムリッシを差し置いて、エサルハドンを王太子に選んだ。


太后としてのナキアの家政の構造は王妃や役人たちのものと同様であった。ナキアは恐らくニネヴェ市に加えてバビロニアの一部を含む複数の都市に邸宅を持っていた{{Sfn|Teppo|2005|p=37}}。恐らくナキア自身が統治していたバビロニアの{{仮リンク|ラヒラ|en|Lahira}}(''Laḫiru'')市に重要な邸宅があったと見られ{{Sfn|Finegan|1979|loc=Assyrian Empire}}{{Sfn|Joannès|2016|p=31}}、前678年の文書ではこの都市は「王母の領地」の一部とされている{{Sfn|Joannès|2016|p=31}}。全てのアッシリア王妃たちが西方の都市[[ハッラーン]]市に大きな不動産を保持していた。ハッラーン近郊のGadisê市に建てられたナキア像への言及がいくつか残されている{{Sfn|Joannès|2016|p=31}}。
しかし、エサルハドンは王子の中でも最年少であり<ref>{{Cite web|url=https://www.ancient.eu/Zakutu/|title=Zakutu - Ancient History Encyclopedia|accessdate=2020-10-19|publisher=Ancient History Encyclopedia Foundation|author=Joshua J. Mark|language=en}}<br>(『ザクトゥ』(「古代史百科事典」に収録。記事はジョシュア・J・マークによる))</ref>、また、幼少時より病弱であったため、この決定は他の王子達に強い反発を生み出した。


ナキアは極めて富裕であったと見られ、その富は恐らくエサルハドンの王妃[[エシャラ・ハンマト]]を凌駕するものであった。ナキアによる諸神殿への多大な寄付、彼女の領地から王宮への馬の供給、大規模かつ広範にわたる人員の雇用が記録に残されている。彼女が例外的な立ち位置にいたのは明白である。彼女に宛てられた手紙は「[[アダパ]]の如き」のような膨大な数のへつらいの修辞に彩られている。エサルハドン治世下のある法的文書では「王の母、我が主の裁定は神々によるが如く最終的なものである」と述べられている{{Sfn|Teppo|2005|p=37}}。こうした意見表明は通常は王たちにのみ適用されるものであることから、ナキアに向けられたそれは極めて特異なものである{{Sfn|Solvang|2003|p=39}}。廷臣たちからの数多くの手紙がナキアの健康に言及している。ナキアによって護衛に任命される人物が「彼自身と同じように」ナキアを守るかどうかという太陽神[[シャマシュ]]への問いかけに見られるように、彼女の安全は重大な関心事項であった{{Sfn|Teppo|2005|p=38}}。
エサルハドンが王太子であった2年間、彼と母親のナキアは地位を守るために奮闘せざるを得なかった。最終的に、エサルハドンは身を隠すことを余儀なくされた。ナキアはエサルハドンの昇格まで、記録には登場しない。また、ナキアが王妃(第一夫人)の地位を得たかどうかも定かではない<ref name="Melville 1999" />。


ナキア宛の手紙は大部分宗教的な事柄についてのものであるが、政治的な懸念事項についてのものも存在した{{Sfn|Teppo|2005|p=37}}。彼女はエサルハドンの[[バビロン]]再建事業に参加していた可能性がある。バビロン市はセンナケリブによって破壊されていた{{Sfn|Finegan|1979|loc=Assyrian Empire}}。恐らく、ナキアの卓越した地位は兄弟の[[アルダ・ムリッシ]]との内戦を戦ったエサルハドンの波乱に満ちた王位継承の結果であった{{Sfn|Teppo|2005|p=38}}。2014年、フィリップ・クロッシー(Philippe Clancier)はナキアがエサルハドンの即位に伴う内戦において軍を指揮したという推測を出した。ただし、アッシリアの文書に彼女がそのようなことをした記録はない。アッシリアの王妃、そして全ての女性の中で軍事的な遠征に加わっていたことが確信されているのはかつての[[サンムラマート]]だけである。もしナキアがアルダ・ムリッシに対して軍を率いていたとしても、これが記録に残されていないことは驚くべきことではない。これはアッシリアでは戦場における勝利の全てが実際に戦場にいたかどうかに関わらずアッシリア王個人に帰するものであったためである{{Sfn|Clancier|2014|p=23}}。アルダ・ムリッシとの内戦は後のエサルハドンの妄想症(paranoia)と使用人、家臣、そして家族に対する不信を引き起こす切っ掛けであったと考えられている{{Sfn|Radner|2003|p=166}}。男性親族に対する強い不信を抱く一方、エサルハドンは女性親族に関しては偏執的ではなかったように思われる。彼の治世中、王妃エシャラ・ハンマト、彼の母ナキア、そして娘の[[シェルア・エテラト]]らは全員、公式な政治的地位に就くことこそなかったが{{Sfn|Melville|2012}}、アッシリア史上のかつての女性たちのほとんどよりも相当大きな影響力と政治的権力を行使した{{Sfn|Radner|2003|p=168}}。アッシリア帝国の官吏たちがナキアに示した畏敬は、人々がエサルハドン時代の帝国の成功の一部に彼女が関与していると考えていたことによるかもしれない{{sfn|Cook|2017|p=903}}。有能かつ精力的ではあったが{{Sfn|Fink|2020}}、エサルハドンはその治世の間、慢性的に病を患っており、ナキアはアッシリア王妃と女神[[イシュタル]]の間の関係性に結びつけられて、帝国に勝利をもたらすある種の魔術的な影響力を持っていると考えられていたかもしれない{{sfn|Cook|2017|p=903}}。
後にエサルハドンが残した碑文によれば、兄達が盛んに彼を中傷して父王に讒言を繰り返したので、彼は身の危険を感じて首都を脱出し、[[アナトリア半島]]へと身を隠した。そして[[紀元前7世紀|紀元前681年]]、センナケリブはアルダ・ムリッシなどの他の王子によって暗殺された。その後の王位継承争いでエサルハドンは勝利し、兄達を追放、或いは殺害して王位を継承した。この一連の事件、特にエサルハドンの首都脱出や、センナケリブ暗殺にはナキアも関与していた可能性がある<ref name="佐藤1991p114"/>。


=== 晩年 ===
=== エサルハドン治世と死後 ===
[[File:Zakutu Treaty.jpg|thumb|ザクトゥ(ナキア)の条約のコピーが含まれる[[ニネヴェ]]市で発見された粘土板文書。]]
夫が殺害された時、そしてその後の一連の騒乱期を通して、ナキアはニネヴェの王宮にいた。その間、彼女は未来に関する多数の預言を得た<ref>唐橋, p. 35.</ref>。現存する情報の大半は、息子エサルハドンの治世が始まってからのものである。この時代のものとしては、ナキア宛の手紙およびナキアに言及した手紙がある。また、ナキアがエサルハドンのために建てた宮殿の碑文、二つの献納碑文のほか、彼女がとても裕福で多くの使用人を抱えていたことを示す行政・経済文書もある。息子が亡くなったとき、彼女は孫の[[アッシュルバニパル]]への忠誠を誓約させた。その後ナキアは長命を保ったかもしれないが、公的活動の史料としてはこれが最後のものである<ref name="Melville 1999" /> <ref>唐橋, p. 34-35.</ref>。
ナキアに関する最後の記録は前669年末のアッシュルバニパルの即位前後のものである。この時彼女は王族、貴族、そして全アッシリアに(彼女の孫)アッシュルバニパルへの忠誠を要求した{{Sfn|Teppo|2005|p=38}}。この忠誠条約はナキアによって人々に強制され、現代の学者によってザクトゥの条約(the Zakutu Treaty{{訳語疑問点|date=2022年2月}})と呼ばれている。この種の文書が王以外の人物によって起草された唯一のものとして、これは特筆すべき記録である{{Sfn|Melville|2012}}{{Sfn|Melville|2014|p=231}}<ref>唐橋, p. 33.</ref>。なぜアッシュルバニパルではなくナキアがこの条約を実現したのかは不明である。その簡潔さなどのいくつかの特徴から、この条約が前669年のエサルハドンの死後、かなり慌ただしく作られたものであることが示されている{{Sfn|Melville|2014|p=231}}。


{{quote| quote = アッシリア[王]センナ[ケリブ]の王妃、アッシリア王エサルハドンの母(、アッシリア王アッシュルバニパルの祖母)たるザクトゥと、彼の同格の兄弟[[シャマシュ・シュム・ウキン]]と、{{仮リンク|シャマシュ・メトゥ・ウバリト|en|Shamash-metu-uballit}}ならびに他の彼の兄弟たちと、王族たちと、貴族ならびに総督たちと、顎髭のある者ならびに宦官たちと、廷臣たちと、免税対象者たちと、そして王宮に入るすべての者どもと、上下を問わぬアッシリアの人々との誓約である。彼女の最愛の孫[アッシュルバ]ニパルについて全ての国民と王妃ナキアが交わした誓約、この誓約(に含まれる)全ての者。(汝らの内)[...]を捏造し醜悪にして邪悪なることを為す、または汝の主、アッシリア王アッシュルバニパルに対して反旗を翻す全ての者。[汝]らの[心]に醜悪なる企みを抱き、計画を立て、汝らの主、アッシリア王アッシュルバニパルに対する反乱のための邪悪なる助言を成す全ての者、汝らの心に[汝らの主]、アッシリア王アッシュルバニパルに対する醜悪なる計画と邪悪なる陰謀を抱き言葉として紡ぎだす全ての者。[汝]らの[心]に汝らの主、アッシリア王アッシュルバニパルに対する反逆と反乱のための邪悪なる助言を企み提案する者、または他の者と[共に]汝の主、アッシリア[王アッシュルバニパル]の殺害の[...]を企む者、[アッシュル神、シン神、シャマシュ神]、木星、金星、土星、水星、[火星、ならびにシリウス...](欠落)[ますように{{訳語疑問点|date=2022年2月}}]。
エサルハドン即位後の治世はナキアに大きな影響を受けた。ナキアは王宮の一部を占有し、息子の健康に関する定期的な報告を受けていた<ref name=Leick>G. Leick, ''Who's Who...'', p. 116.</ref>。
[また、汝らは誓約せねばならぬ。]この日より汝らの主、アッシリア王アッシュルバニパルに対する邪悪なる反逆と反乱の[言葉]が紡がれている(のを耳にした)ならば、汝らは彼の母たるザクトゥ、汝らの主、[アッシリア王]アッシュルバニパルの下に来て報せねばならぬ。そして、汝らは誓約せねばならぬ。汝らが汝らの主、アッシリア王[アッシュル]バニパルの殺害、廃立(の計画を)を聞いたならば、汝らは[彼の母たる]ザクトゥ、汝らの主、アッシリア王アッシュルバニパルの下に来て報せねばならぬ。汝らはまた誓約せねばならぬ。武装蜂起を焚きつける、または陰謀を唆す者が汝らの中にいるのを聞き知ったならば、それが顎髭のある者または宦官、王の兄弟または王族、汝らの兄弟または友、国家の中の誰であれ-汝らがこれを聞き知ったならば彼らを捕らえて死を与え、[彼の母たる]ザクトゥ、[汝らの主、アッシリア王アッシュルバニパル]の下に連れてこなければならない{{Sfn|Melville|2014|pp=231–232}}{{訳語疑問点|date=2022年2月}}}}


アッシュルバニパルが無事王位に就いた後、ナキアは公的な役割からは引退したと見られる{{Sfn|Melville|2012}}。セバスティアン・フィンク(Sebastian Fink)はアッシュルバニパルの即位後間もなくナキアが死亡したとしている{{Sfn|Fink|2020}}。グレゴリー・D・コック(Gregory D. Cook)によればナキアは前663年のアッシュルバニパルによる{{仮リンク|テーベ略奪|en|Sack of Thebes}}の時までには恐らく死亡していた{{sfn|Cook|2017|p=902}}。一方、{{仮リンク|ジャック・フィネガン|en|Jack Finegan}}は前652年から前648年にかけてのアッシュルバニパルとシャマシュ・シュム・ウキンの内戦の頃までナキアは存命しており、内戦中再度アッシュルバニパルの政権を支持しようとしていたとしている{{Sfn|Finegan|1979|loc=Assyrian Empire}}。シャマシュ・シュム・ウキンはアッシュルバニパルより年長(一説には双子)であったと伝えられ、自分の地位に不満を持っていたと考えられるが、10年以上にわたってアッシュルバニパルとの決定的対立は生じなかった。この兄弟の対立が表面化しなかった理由にはナキアの後見の存在があったかもしれない<ref name="佐藤1991p64">[[#佐藤 1991|佐藤 1991]], p. 164</ref>。
ナキアは、エサルハドンの治世中に神殿の建築など従来国王の専権事項とされていた事業を執り行うなどしており、ある面では王に匹敵する政治的発言権を保持していたと考えられる。彼女は息子エサルハドンを支えるべく様々な処置を講じており、エサルハドンの宮殿の造営に際して調度品を用意するなどしたほか、病気がちであったエサルハドンが病に倒れている期間や、遠征で不在の時期にはエサルハドンに変わって政務を担当していた事も確認されている。そして、エサルハドンの息子で長子の[[シン・イディナ・アパラ]]({{lang|en|Sin-iddin-apli}})が死んだ後、弟の[[アッシュルバニパル]]をアッシリア王にして、兄の[[シャマシュ・シュム・ウキン]]はバビロニア王にするという決定を行ったのもナキアだった<ref name=Joannes />。


ナキアは当時の女性としては空前の卓越性と存在感(public visibility)を持っていた{{Sfn|Melville|2012}}。彼女は[[新アッシリア帝国|新アッシリア]]時代の女性として最も良く記録され、恐らくは最大の影響力を持った{{Sfn|Fink|2020}}。ナキアは現存史料で滅多に名前に言及されることのない他のほぼ全てのアッシリアの王妃たちとは一線を画している。彼女の他に王家の芸術作品で姿を描かれている女性はアッシュルバニパルの王妃[[リッバリ・シャラト]]しかいない{{sfn|Cook|2017|p=896}}。ナキアとエサルハドンを描いたレリーフでは、彼女はエサルハドンと同等に描かれているように思われ、王と同じ宗教的な姿勢を取っている。彼女はまた「壁画の王冠(mural crown)」を被った姿で描かれている。城壁のような形の王冠は、リッバリ・シャラトを描いた壁画にも見られる{{Sfn|Pinnock|2018|p=734}}。新アッシリア時代を通して、王妃は単なる王の配偶者でなく公的役割があった。ナキアの事績が特に可視化されているのは、長期間、公職としての王妃にあった(エサルハドンの治世中は彼女の妃であるエシャラ・ハンマトが紀元前672年まで王妃を務めていたが、彼女の死後はナキアがその職を代行あるいは復職した)、などの例外的状況によるものと考えられる<ref>唐橋, pp. 33, 36.</ref>。
ナキアは息子のエサルハドンより長く生きた。エサルハドンが[[紀元前7世紀|紀元前669年]]にエジプト遠征の途中死去すると、センナケリブの死後に起きたような混乱を回避するために、王子達や群臣を集めてアッシュルバニパルへの忠誠を再度誓約させている。この時の誓約文は王以外の名で発布された物としては唯一の物である<ref>唐橋, p. 33.</ref> <ref name=Joannes /> <ref>G. Leick, ''Who's Who...'', p. 117.</ref>。


== 遺産 ==
(これは)アッシリアの王セナケリブの王妃、アッシリアの王エサルハドンの母ザクートゥが、彼(=アッシュルバニパル)と等位の兄弟シャムシュ・シュム・ウキン、およびシャマシュ・メトゥ・ウバリット、ならびに他の兄弟、王家の子孫、有力者たち、知事たち、有髭および他の宮廷吏たち、王の取り巻きたち、免税者たち、王宮への出入りを許可された者たち、アッシュルの土地の住民――老いも若きも――との間に交わした忠誠の誓約である <ref>唐橋, pp. 33-34.</ref>
[[File:Nitocris of Assyria building a bridge over the Euphrates.png|thumb|恐らくナキアが伝説化された[[ユーフラテス川]]に橋を架ける[[ニトクリス (バビロン)|ニトクリス]]を描いた18世紀のイラスト。]]
後のグレコ・ローマの文学的伝統では[[セミラミス]](かつての女王サンムラマートをモデルとしている)と[[ニトクリス (バビロン)|ニトクリス]]という2人の偉大なアッシリアの女王が記憶されていた。ニトクリスはセミラミス5代後でバビロンの建設事業を執り行ったとされ、その人物像はナキアが元になっている可能性がある{{Sfn|Finegan|1979|loc=Assyrian Empire}}{{Sfn|Dalley|2005|p=15}}。バビロンにおける建設事業の伝説はバビロニアにおける彼女の領地、エサルハドンのバビロン再建事業に彼女が関与していた可能性や{{Sfn|Finegan|1979|loc=Assyrian Empire}}、彼の治世初期におけるニネヴェのエサルハドンの王宮を彼女が建設したことと関連付けられるかもしれない{{Sfn|Dalley|2013|p=124}}。古代ギリシア人はしばしばニネヴェとバビロンを同一視する誤りを犯していたため、このニネヴェの王宮建設もニトクリスの伝説に影響を与えたかもしれない{{Sfn|Dalley|2005|p=16}}。


また、セミラミスの伝説もいくらかはサンムラマートではなくナキアが元になっているかもしれない{{Sfn|Dalley|2005|p=15}}。特にセミラミスの伝説的な物語の中には彼女をバビロンの創建者とするものがある。史的なサンムラマートとバビロンの間には何ら関連性はないが{{Sfn|Dalley|2005|p=14}}、上に述べたようにナキアとバビロンの建設事業、あるいは周辺の地域との繋がりを描くことは可能である{{Sfn|Dalley|2005|p=16}}。
しかし、これをもってナキアが極めて例外的な存在だったと見なす見解は、必ずしも正しくない。現存するエサルハドンからナキアへの手紙のひとつは、「王の母君への王の命令」と書き出されており、内容としては「アモスという家臣について、私も王の母君と同じように命令する。言われた通りでよろしい」とあり、ナキアが自分に従わぬ家臣を、王の権威によって従わせようとしてたことがわかる。ナキアの権威ないし権限が王に及ばないものであること、そしてそれで生じた問題を王が解決しようとするぐらい親子関係が良好だったことがうかがえる<ref>唐橋, pp. 35-36.</ref>。


ナキアの人物像についての現代の学者の見解は分かれている。サラ・C・メルヴィル(Sarah C. Melville)など幾人かの学者は彼女を息子の治世の間、彼を助けるために働いた無私の(unselfish)母親とし、一方でザファリラ・ベン=バラク(Zafrira Ben-Barak)などはナキアを政治的な野心に溢れる女性で、彼女個人の地位を高めるあらゆる機会を利用した人物とした{{Sfn|Teppo|2005|p=38}}。
新アッシリア時代を通して、王妃は単なる王の配偶者でなく公的役割があった。ナキアの事績が特に可視化されているのは、長期間、公職としての王妃にあった(エサルハドンの治世中は彼女の妃であるエシャラ・ハンマットが紀元前672年まで王妃を務めていたが、彼女の死後はナキアがその職を代行あるいは復職した)、などの例外的状況によるものと考えられる<ref>唐橋, pp. 33, 36.</ref>。


== 注釈 ==
アッシュルバニパルおよびシャマシュ・シュム・ウキンの治世中もナキアは彼らを後見し続けた<ref name="佐藤1991p114"/>。シャマシュ・シュム・ウキンはアッシュルバニパルより年長(一説には双子)であったと伝えられ、自分の地位に不満を持っていたと考えられるが、10年以上にわたってアッシュルバニパルとの決定的対立は生じなかった。この兄弟の対立が表面化しなかった理由にはナキアの後見の存在があったかもしれない<ref name="佐藤1991p64">[[#佐藤 1991|佐藤 1991]], p. 164</ref>。だが彼女も加齢とともに政務に付く事が困難になるや二人の兄弟の対立は表面化し、[[紀元前7世紀|紀元前652年]]兄弟戦争が勃発した。この戦いでシャマシュ・シュム・ウキンは敗れ戦死に追い込まれることとなった(自殺説もあり)。その後、ナキアも死去した<ref name="佐藤1991p64"/>。
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== 脚注 ==
== 出典 ==
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{{Reflist|20em}}


== 参考文献 ==
=== 参考文献 ===
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* {{Cite journal|和書|journal=文学部紀要 史学|author=唐橋 文|year=2016|title=サアナ・スヴェルド: 新アッシリア時代の女性たち|volume=61|pages=25-42|date=2016-03-01|url=http://id.nii.ac.jp/1648/00007524/|publisher=中央大学文学部|ISSN=0529-6803|accessdate=2020-10-20}}
* {{Cite journal|和書|journal=文学部紀要 史学|author=唐橋 文|year=2016|title=サアナ・スヴェルド: 新アッシリア時代の女性たち|volume=61|pages=25-42|date=2016-03-01|url=http://id.nii.ac.jp/1648/00007524/|publisher=中央大学文学部|ISSN=0529-6803|accessdate=2020-10-20}}
* {{Cite book |和書 |author=[[佐藤進 (歴史学者)|佐藤進]] |chapter=選ばれてあることの恍惚と不安-エサルハドンの場合 |title=古代オリエントの生活|series=生活の世界歴史1 |publisher=[[河出書房新社]] |date=1991-5 |pages=107-168|isbn=978-4-309-47211-9 |ref=佐藤 1991 }}
* {{Cite book |和書 |author=[[佐藤進 (歴史学者)|佐藤進]] |chapter=選ばれてあることの恍惚と不安-エサルハドンの場合 |title=古代オリエントの生活|series=生活の世界歴史1 |publisher=[[河出書房新社]] |date=1991-5 |pages=107-168|isbn=978-4-309-47211-9 |ref=佐藤 1991 }}
* {{Cite journal|last=Clancier|first=Philippe|date=2014|title=Warlike men and invisible women: how scribes in the Ancient Near East represented warfare|url=https://www.jstor.org/stable/26238711|journal=Clio|volume=39|issue=39|pages=17–34|jstor=26238711}}
* F. Joannes, ''Historia Mezopotamii w I. tysiącleciu przed Chrystusem'', Wydawnictwo Poznańskie, Poznań 2007.<br>(『紀元前1千年紀のメソポタミアの歴史』(著:フランシス・ヨアンズ、2007年、ポズナンスキ出版(ポーランド)))
* {{Cite journal|last=Cook|first=Gregory D.|date=2017|title=Naqia and Nineveh in Nahum: Ambiguity and the Prostitute Queen|url=https://www.jstor.org/stable/10.15699/jbl.1364.2017.198627|journal=Journal of Biblical Literature|volume=136|issue=4|pages=895–904|doi=10.15699/jbl.1364.2017.198627|jstor=10.15699/jbl.1364.2017.198627}}
* hasło ''Naqi’a-Zakutu'', w: Gwendolyn Leick, ''Who's Who in the Ancient Near East'', Routledge, London and New York 2002, p. 116-117.<br>(『古代近東人物事典』(2002年、ラウトリッジ出版(英国・米国))に収録されている『ナキア - ザクトゥ』(著:グウェンドリン・レイク))
* {{Cite book|last=Dalley|first=Stephanie|title=Cultural Borrowings and Ethnic Appropriations in Antiquity|publisher={{仮リンク|フランツ・シュタイナー出版|label=Franz Steiner Verlag|en|Franz Steiner Verlag}}|year=2005|isbn=3-515-08735-4|editor-last=S. Gruen|editor-first=Erich|location=Stuttgart|chapter=Semiramis in History and Legend: a Case Study in Interpretation of an Assyrian Historical Tradition, with Observations on Archetypes in Ancient Historiography, on Euhemerism before Euhemerus, and on the So-called Greek Ethnographie Style}}
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*{{Cite journal|last=Gansell|first=Amy Rebecca|date=2018|title=Dressing the Neo-Assyrian Queen in Identity and Ideology: Elements and Ensembles from the Royal Tombs at Nimrud|url=https://www.jstor.org/stable/10.3764/aja.122.1.0065|journal=American Journal of Archaeology|volume=122|issue=1|pages=65–100|doi=10.3764/aja.122.1.0065|jstor=10.3764/aja.122.1.0065|s2cid=194770386}}
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*{{Cite book|last=Nemet-Nejat|first=Karen|title=Women in the Ancient Near East: A Sourcebook|publisher=Routledge|year=2014|isbn=978-0-415-44855-0|editor-last=Chavalas|editor-first=Mark W.|location=London|chapter=Women in Neo-Assyrian Inscriptions: Neo-Assyrian Oracles}}
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*{{Cite journal|last=Radner|first=Karen|year=2003|title=The Trials of Esarhaddon: The Conspiracy of 670 BC|url=https://repositorio.uam.es/handle/10486/3476|journal=ISIMU: Revista sobre Oriente Próximo y Egipto en la antigüedad|publisher=Universidad Autónoma de Madrid|volume=6|pages=165–183}}
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2022年3月22日 (火) 17:11時点における版

ナキア / ザクトゥ
宮殿の女性[注釈 1]
王母[注釈 2]
同時代のレリーフに描かれたナキア

出生 前728年頃以前
死亡 前669年以降
配偶者 センナケリブ
子女
エサルハドン
シャディットゥ英語版
テンプレートを表示

ナキアNaqi'a / Naqia[3][4][5]アッカド語Naqī'a[6])、またはザクトゥZakūtu[6][7])はアッシリア王センナケリブ(在位:前705年-前681年)の妻、また彼の息子であるアッシリア王エサルハドン(在位:前681年-前669年)の母でもある。ナキアは新アッシリア帝国の歴史において最も記録が豊富な女性であり[8]、過去に例のない影響力と存在感(public visibility)を得ていた[9]。彼女は恐らくはアッシリアの歴史において最も影響力のある女性であり[8]、芸術作品に姿が描かれたり、自身の建築事業を起こしたり、廷臣たちの手紙で賛美の枕詞を付される数少ないアッシリアの女性の1人である。また、古代アッシリアにおいて王以外で条約を作成し発布したことが伝わる唯一の人物である。

前713年頃にセンナケリブとの間に息子エサルハドンを儲けていることから、ナキアは間違いなくセンナケリブが前705年に王位に就く以前に結婚していた。彼女が王妃の地位を持っていたのかどうかについては議論がある。アッシリアの王たちは複数の妻を持っていたが、妻たちの中で王妃であるのはいかなる時にもただ1人だけであったことが史料から示されている。センナケリブにはタシュメトゥ・シャラトという王妃がいたことがわかっている。ナキアはセンナケリブの治世末期に王妃になったかもしれない。彼女は息子エサルハドンの治世には「センナケリブの王妃」として言及されている。センナケリブは前684年に、恐らくはナキアの影響を受けて年長の息子たちがいるにも関わらずエサルハドンを王太子に任命した。

エサルハドンの治世の間、ナキアはummi šari(文字通りには「王母」の意)の称号を持ち、権勢の頂点に達した。エサルハドンの治世下で、ナキアは帝国全土に複数の邸宅を持ち、エサルハドンの王妃エシャラ・ハンマトを上回るであろう巨大な富を得ていた。また、ナキアはバビロニアの都市ラヒラ英語版周辺にあった彼女自身の所領を統治していたかもしれない。ナキアに言及する最後の記録はエサルハドンの死亡から数か月後、前669年のものである。エサルハドンの死後、ナキアは王族、貴族、そして全アッシリアに対して孫であるアッシュルバニパル(在位:前669年-前631年)への忠誠を誓わせる条約を作成した。そしてこの後、彼女は公的な生活からは引退したと思われる。

名前と出自

ナキアの出自について確実なことは何も言えないが、彼女が2つの名前を持っていたことは外国、恐らくはバビロニアレヴァントに出自を持っていたことを示している可能性がある[7]ナキア(ナキヤ / Naqī'a)という名はアラム語[10][7]、または少なくとも西セム系の言語に由来する[6]。そしてザクトゥ(ザクートゥ / Zakūtu)という名はアッカド語に由来する[7]Zakūtuという名前はたまにしか使用されず[11]、恐らくは彼女がアッシリア王族の一員となった時に付けられた名前である。どちらの名前も意味は同じであり「純潔(purity[12])」「純粋(pure[4])」「純粋なる者(the pure one[13])」などと解釈できる。彼女にはアビ・ラミ(Abirami / Abi-rāmi)またはアビ・ラム(Abi-rāmu)という姉妹がいた[14]。彼女は前674年にバルリ英語版市内の土地を購入したことがわかっている[11][15]

来歴

センナケリブの治世

エサルハドンを出産した年齢を考えれば、ナキアの生誕は前728年頃以降ではあり得ない[16]。ナキアはアッシリア王センナケリブ(在位:前705年-681年)の妻の1人であり[17]、彼女らの息子エサルハドンが生まれたのは前713年頃であるため婚姻は前9世紀末のことである[18]。この結婚の時点ではセンナケリブはまだ王位に就いておらず、父であるサルゴン2世の王太子であった[17]。センナケリブには多数の子供がいたが、この子供たちのうち、エサルハドンを除き誰がナキアの子供であったのかは不明である[19]。センナケリブの娘の中でただ一人名前がわかっているシャディットゥ英語版[1]、エサルハドンの治世中にも重要な地位に留まり続けたことからナキアの子供である可能性がある[19]}。アルダ・ムリッシのようなセンナケリブの年長の息子泰はナキアの子供ではない[1]

ナキアは既にセンナケリブの治世中には影響力を持つ人物であったかもしれない。前684年の王太子アルダ・ムリッシの解任とエサルハドンの王太子就任にナキアが関与した可能性がある[1][7][13]。エサルハドンが様々な病気に苦しんでいるという報告が増えつつあったにも関わらず、恐らくナキアの影響を受けたセンナケリブはエサルハドンを王太子に任命した後、決して後継者を変更することはなかった。彼女は卜占占星術を用いてエサルハドンに対するセンナケリブの評価を強めようとしたことが記録されている[20]。ナキアは生涯を通して、アルベラ市で活動する預言者たちと緊密な関係を持ち続けていたと思われる[21]

しばしばセンナケリブの王妃とされるが[1][4][6]、センナケリブの存命中にナキアが王妃の地位を持っていたかは不明である[6]。ナキアはセンナケリブが王となる前から彼と関係を持っており、またその後のエサルハドンの治世(前681年-前669年)を通じてエサルハドンと関連性を持っていたことがわかっている一方、センナケリブはタシュメトゥ・シャラトという他の女性とも結婚しており、彼女が王妃の称号を持っていたことは確実である[17]。アッシリア王たちは複数の妻を持っていたが、いつ如何なる場合でも、その中で王妃であるのはただ1人であったというのが研究者の間での一般的な見解である。これは行政文書において王妃の称号は常に修飾(qualification)無しで使用されていることによる(このことは、王妃という単語が誰を指し示すのかが明確であったことを意味する)[22][23]

ナキアは複数の文書においてセンナケリブの王妃(mí.é.gal)として言及されているが、こうした文書は恐らく、ただ1つの例外を除きエサルハドンの治世中に書かれたものである[1]。このことはナキアの王妃の称号は息子であるエサルハドンから過去に遡って与えられたものであることを意味するであろう[23]。ただ1つの例外である可能性がある文書は、碑文の断片が刻まれた1つのビーズである。この碑文では彼女は「センナケリブのmí.é.gal」と呼ばれており、その後の部分は失われている。この文章はセンナケリブ治世中にかかれたものである可能性がある[1]。別の可能性として、ナキアがセンナケリブの治世末期に王妃の地位を手に入れた可能性もある[23]。タシュメトゥ・シャラトはエサルハドン治世中の文書ではまったく言及されない[24]。恐らく、ナキアの息子エサルハドンの王太子就任は前684年頃にナキアが王妃であったこと、そしてタシュメトゥ・シャラト(彼女は前694年頃の文書でしか確認されていない[17])はその時点では死亡していたことを意味するであろう[1]。エサルハドンが王太子になった後、センナケリブはナキアにいくつかの免税地を与えた。ただし、このことを書いた文書では彼女には「王太子の母」という称号しか付されていない[11]

エサルハドンの治世

レリーフに描かれたナキア(左)とその息子エサルハドン(右)

夫センナケリブが殺害された時、そしてその後の一連の騒乱期を通して、ナキアはニネヴェの王宮にいた。その間、彼女は未来に関する多数の預言を得た[25]。現存する情報の大半は、息子エサルハドンの治世が始まってからのものである。この時代のものとしては、ナキア宛の手紙およびナキアに言及した手紙がある。また、ナキアがエサルハドンのために建てた宮殿の碑文、二つの献納碑文のほか、彼女がとても裕福で多くの使用人を抱えていたことを示す行政・経済文書もある[26]

息子エサルハドンの治世にナキアの権威は拡大した。彼女は早い段階でアッシリアの首都ニネヴェに息子のために宮殿を建設し、この建設事業を記念する碑文を作らせた[18]。宮殿の建設は通常、王たちが行うものであり、王妃が実施するのは異例のことであった。この事業を記録する碑文は仰々しく、明らかに王たちの碑文から影響を受けている[8]。エサルハドン時代の大半の史料において[18]、ナキアはシンプルに王母英語版ummi šari、文字通りに「王の母」の意)と呼ばれている。エサルハドンの息子(つまりナキアの孫)アッシュルバニパル(在位:前669年-前631年)の治世の間も、もはや在位中の王の母ではなくなったにも関わらずナキアはこの称号を保持し続けていた[2]。現存する史料において彼女はアッシリア史上最も重要な太后(queen mother)であり、王母という称号が登場する記録の多くは彼女の存命中のものである[18]

太后としてのナキアの家政の構造は王妃や役人たちのものと同様であった。ナキアは恐らくニネヴェ市に加えてバビロニアの一部を含む複数の都市に邸宅を持っていた[18]。恐らくナキア自身が統治していたバビロニアのラヒラ英語版Laḫiru)市に重要な邸宅があったと見られ[13][15]、前678年の文書ではこの都市は「王母の領地」の一部とされている[15]。全てのアッシリア王妃たちが西方の都市ハッラーン市に大きな不動産を保持していた。ハッラーン近郊のGadisê市に建てられたナキア像への言及がいくつか残されている[15]

ナキアは極めて富裕であったと見られ、その富は恐らくエサルハドンの王妃エシャラ・ハンマトを凌駕するものであった。ナキアによる諸神殿への多大な寄付、彼女の領地から王宮への馬の供給、大規模かつ広範にわたる人員の雇用が記録に残されている。彼女が例外的な立ち位置にいたのは明白である。彼女に宛てられた手紙は「アダパの如き」のような膨大な数のへつらいの修辞に彩られている。エサルハドン治世下のある法的文書では「王の母、我が主の裁定は神々によるが如く最終的なものである」と述べられている[18]。こうした意見表明は通常は王たちにのみ適用されるものであることから、ナキアに向けられたそれは極めて特異なものである[27]。廷臣たちからの数多くの手紙がナキアの健康に言及している。ナキアによって護衛に任命される人物が「彼自身と同じように」ナキアを守るかどうかという太陽神シャマシュへの問いかけに見られるように、彼女の安全は重大な関心事項であった[28]

ナキア宛の手紙は大部分宗教的な事柄についてのものであるが、政治的な懸念事項についてのものも存在した[18]。彼女はエサルハドンのバビロン再建事業に参加していた可能性がある。バビロン市はセンナケリブによって破壊されていた[13]。恐らく、ナキアの卓越した地位は兄弟のアルダ・ムリッシとの内戦を戦ったエサルハドンの波乱に満ちた王位継承の結果であった[28]。2014年、フィリップ・クロッシー(Philippe Clancier)はナキアがエサルハドンの即位に伴う内戦において軍を指揮したという推測を出した。ただし、アッシリアの文書に彼女がそのようなことをした記録はない。アッシリアの王妃、そして全ての女性の中で軍事的な遠征に加わっていたことが確信されているのはかつてのサンムラマートだけである。もしナキアがアルダ・ムリッシに対して軍を率いていたとしても、これが記録に残されていないことは驚くべきことではない。これはアッシリアでは戦場における勝利の全てが実際に戦場にいたかどうかに関わらずアッシリア王個人に帰するものであったためである[10]。アルダ・ムリッシとの内戦は後のエサルハドンの妄想症(paranoia)と使用人、家臣、そして家族に対する不信を引き起こす切っ掛けであったと考えられている[29]。男性親族に対する強い不信を抱く一方、エサルハドンは女性親族に関しては偏執的ではなかったように思われる。彼の治世中、王妃エシャラ・ハンマト、彼の母ナキア、そして娘のシェルア・エテラトらは全員、公式な政治的地位に就くことこそなかったが[9]、アッシリア史上のかつての女性たちのほとんどよりも相当大きな影響力と政治的権力を行使した[30]。アッシリア帝国の官吏たちがナキアに示した畏敬は、人々がエサルハドン時代の帝国の成功の一部に彼女が関与していると考えていたことによるかもしれない[20]。有能かつ精力的ではあったが[8]、エサルハドンはその治世の間、慢性的に病を患っており、ナキアはアッシリア王妃と女神イシュタルの間の関係性に結びつけられて、帝国に勝利をもたらすある種の魔術的な影響力を持っていると考えられていたかもしれない[20]

晩年

ザクトゥ(ナキア)の条約のコピーが含まれるニネヴェ市で発見された粘土板文書。

ナキアに関する最後の記録は前669年末のアッシュルバニパルの即位前後のものである。この時彼女は王族、貴族、そして全アッシリアに(彼女の孫)アッシュルバニパルへの忠誠を要求した[28]。この忠誠条約はナキアによって人々に強制され、現代の学者によってザクトゥの条約(the Zakutu Treaty[訳語疑問点])と呼ばれている。この種の文書が王以外の人物によって起草された唯一のものとして、これは特筆すべき記録である[9][31][32]。なぜアッシュルバニパルではなくナキアがこの条約を実現したのかは不明である。その簡潔さなどのいくつかの特徴から、この条約が前669年のエサルハドンの死後、かなり慌ただしく作られたものであることが示されている[31]

アッシリア[王]センナ[ケリブ]の王妃、アッシリア王エサルハドンの母(、アッシリア王アッシュルバニパルの祖母)たるザクトゥと、彼の同格の兄弟シャマシュ・シュム・ウキンと、シャマシュ・メトゥ・ウバリト英語版ならびに他の彼の兄弟たちと、王族たちと、貴族ならびに総督たちと、顎髭のある者ならびに宦官たちと、廷臣たちと、免税対象者たちと、そして王宮に入るすべての者どもと、上下を問わぬアッシリアの人々との誓約である。彼女の最愛の孫[アッシュルバ]ニパルについて全ての国民と王妃ナキアが交わした誓約、この誓約(に含まれる)全ての者。(汝らの内)[...]を捏造し醜悪にして邪悪なることを為す、または汝の主、アッシリア王アッシュルバニパルに対して反旗を翻す全ての者。[汝]らの[心]に醜悪なる企みを抱き、計画を立て、汝らの主、アッシリア王アッシュルバニパルに対する反乱のための邪悪なる助言を成す全ての者、汝らの心に[汝らの主]、アッシリア王アッシュルバニパルに対する醜悪なる計画と邪悪なる陰謀を抱き言葉として紡ぎだす全ての者。[汝]らの[心]に汝らの主、アッシリア王アッシュルバニパルに対する反逆と反乱のための邪悪なる助言を企み提案する者、または他の者と[共に]汝の主、アッシリア[王アッシュルバニパル]の殺害の[...]を企む者、[アッシュル神、シン神、シャマシュ神]、木星、金星、土星、水星、[火星、ならびにシリウス...](欠落)[ますように[訳語疑問点]]。 [また、汝らは誓約せねばならぬ。]この日より汝らの主、アッシリア王アッシュルバニパルに対する邪悪なる反逆と反乱の[言葉]が紡がれている(のを耳にした)ならば、汝らは彼の母たるザクトゥ、汝らの主、[アッシリア王]アッシュルバニパルの下に来て報せねばならぬ。そして、汝らは誓約せねばならぬ。汝らが汝らの主、アッシリア王[アッシュル]バニパルの殺害、廃立(の計画を)を聞いたならば、汝らは[彼の母たる]ザクトゥ、汝らの主、アッシリア王アッシュルバニパルの下に来て報せねばならぬ。汝らはまた誓約せねばならぬ。武装蜂起を焚きつける、または陰謀を唆す者が汝らの中にいるのを聞き知ったならば、それが顎髭のある者または宦官、王の兄弟または王族、汝らの兄弟または友、国家の中の誰であれ-汝らがこれを聞き知ったならば彼らを捕らえて死を与え、[彼の母たる]ザクトゥ、[汝らの主、アッシリア王アッシュルバニパル]の下に連れてこなければならない[33][訳語疑問点]

アッシュルバニパルが無事王位に就いた後、ナキアは公的な役割からは引退したと見られる[9]。セバスティアン・フィンク(Sebastian Fink)はアッシュルバニパルの即位後間もなくナキアが死亡したとしている[8]。グレゴリー・D・コック(Gregory D. Cook)によればナキアは前663年のアッシュルバニパルによるテーベ略奪英語版の時までには恐らく死亡していた[16]。一方、ジャック・フィネガン英語版は前652年から前648年にかけてのアッシュルバニパルとシャマシュ・シュム・ウキンの内戦の頃までナキアは存命しており、内戦中再度アッシュルバニパルの政権を支持しようとしていたとしている[13]。シャマシュ・シュム・ウキンはアッシュルバニパルより年長(一説には双子)であったと伝えられ、自分の地位に不満を持っていたと考えられるが、10年以上にわたってアッシュルバニパルとの決定的対立は生じなかった。この兄弟の対立が表面化しなかった理由にはナキアの後見の存在があったかもしれない[34]

ナキアは当時の女性としては空前の卓越性と存在感(public visibility)を持っていた[9]。彼女は新アッシリア時代の女性として最も良く記録され、恐らくは最大の影響力を持った[8]。ナキアは現存史料で滅多に名前に言及されることのない他のほぼ全てのアッシリアの王妃たちとは一線を画している。彼女の他に王家の芸術作品で姿を描かれている女性はアッシュルバニパルの王妃リッバリ・シャラトしかいない[35]。ナキアとエサルハドンを描いたレリーフでは、彼女はエサルハドンと同等に描かれているように思われ、王と同じ宗教的な姿勢を取っている。彼女はまた「壁画の王冠(mural crown)」を被った姿で描かれている。城壁のような形の王冠は、リッバリ・シャラトを描いた壁画にも見られる[36]。新アッシリア時代を通して、王妃は単なる王の配偶者でなく公的役割があった。ナキアの事績が特に可視化されているのは、長期間、公職としての王妃にあった(エサルハドンの治世中は彼女の妃であるエシャラ・ハンマトが紀元前672年まで王妃を務めていたが、彼女の死後はナキアがその職を代行あるいは復職した)、などの例外的状況によるものと考えられる[37]

遺産

恐らくナキアが伝説化されたユーフラテス川に橋を架けるニトクリスを描いた18世紀のイラスト。

後のグレコ・ローマの文学的伝統ではセミラミス(かつての女王サンムラマートをモデルとしている)とニトクリスという2人の偉大なアッシリアの女王が記憶されていた。ニトクリスはセミラミス5代後でバビロンの建設事業を執り行ったとされ、その人物像はナキアが元になっている可能性がある[13][5]。バビロンにおける建設事業の伝説はバビロニアにおける彼女の領地、エサルハドンのバビロン再建事業に彼女が関与していた可能性や[13]、彼の治世初期におけるニネヴェのエサルハドンの王宮を彼女が建設したことと関連付けられるかもしれない[38]。古代ギリシア人はしばしばニネヴェとバビロンを同一視する誤りを犯していたため、このニネヴェの王宮建設もニトクリスの伝説に影響を与えたかもしれない[39]

また、セミラミスの伝説もいくらかはサンムラマートではなくナキアが元になっているかもしれない[5]。特にセミラミスの伝説的な物語の中には彼女をバビロンの創建者とするものがある。史的なサンムラマートとバビロンの間には何ら関連性はないが[40]、上に述べたようにナキアとバビロンの建設事業、あるいは周辺の地域との繋がりを描くことは可能である[39]

ナキアの人物像についての現代の学者の見解は分かれている。サラ・C・メルヴィル(Sarah C. Melville)など幾人かの学者は彼女を息子の治世の間、彼を助けるために働いた無私の(unselfish)母親とし、一方でザファリラ・ベン=バラク(Zafrira Ben-Barak)などはナキアを政治的な野心に溢れる女性で、彼女個人の地位を高めるあらゆる機会を利用した人物とした[28]

注釈

  1. ^ これはアッシリアの王妃たちの公式の称号であった。彼女がセンナケリブ治世中に実際にこの称号を帯びていたかどうかについては議論があるが、いずれにせよエサルハドンの時代には(恐らくは過去に遡及して)その地位を帯びていた[1]
  2. ^ この称号はエサルハドンとアッシュルバニパルの治世に用いられていた[2]

出典

  1. ^ a b c d e f g h Frahm 2014, p. 191.
  2. ^ a b Kertai 2013, p. 120.
  3. ^ Cook 2017, p. 895.
  4. ^ a b c Gansell 2018, p. 80.
  5. ^ a b c Dalley 2005, p. 15.
  6. ^ a b c d e Teppo 2005, p. 36.
  7. ^ a b c d e Elayi 2018, p. 16.
  8. ^ a b c d e f Fink 2020.
  9. ^ a b c d e Melville 2012.
  10. ^ a b Clancier 2014, p. 23.
  11. ^ a b c Tetlow 2004, p. 288.
  12. ^ Nemet-Nejat 2014, p. 240.
  13. ^ a b c d e f g Finegan 1979, Assyrian Empire.
  14. ^ Teppo 2005, p. 34.
  15. ^ a b c d Joannès 2016, p. 31.
  16. ^ a b Cook 2017, p. 902.
  17. ^ a b c d Kertai 2013, p. 118.
  18. ^ a b c d e f g Teppo 2005, p. 37.
  19. ^ a b Elayi 2018, p. 17.
  20. ^ a b c Cook 2017, p. 903.
  21. ^ Nissinen 2017, p. 320.
  22. ^ Kertai 2013, p. 109.
  23. ^ a b c Elayi 2018, p. 15.
  24. ^ Frahm 2014, p. 192.
  25. ^ 唐橋, p. 35.
  26. ^ 唐橋, p. 34-35.
  27. ^ Solvang 2003, p. 39.
  28. ^ a b c d Teppo 2005, p. 38.
  29. ^ Radner 2003, p. 166.
  30. ^ Radner 2003, p. 168.
  31. ^ a b Melville 2014, p. 231.
  32. ^ 唐橋, p. 33.
  33. ^ Melville 2014, pp. 231–232.
  34. ^ 佐藤 1991, p. 164
  35. ^ Cook 2017, p. 896.
  36. ^ Pinnock 2018, p. 734.
  37. ^ 唐橋, pp. 33, 36.
  38. ^ Dalley 2013, p. 124.
  39. ^ a b Dalley 2005, p. 16.
  40. ^ Dalley 2005, p. 14.

参考文献