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[[ファイル:Lenin-circa-1887.jpg|thumb|left|150px|[[1887年]]のウラジーミル・ウリヤノフ]]
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[[1886年]]1月、父のイリヤが[[脳内出血]]によって死亡した{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=6, 9|2a1=Rice|2y=1990|2p=19|3a1=Service|3y=2000|3pp=48–49|4a1=Read|4y=2005|4p=10}}。父が亡くなった後のウラジーミルの振る舞いは突飛で攻撃的になり、神への信仰も放棄した{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=9|2a1=Service|2y=2000|2pp=50–51, 64|3a1=Read|3y=2005|3p=16|4a1=Petrovsky-Shtern|4y=2010|4p=69}}。その頃、兄のアレクサンドルは[[サンクトペテルブルク大学]]で[[絶対君主制]]に反対する政治的活動に取り組んでいた。アレクサンドルはその後ロシア皇帝である[[アレクサンドル3世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル3世]]の暗殺を目論む革命的結社に参加し、暗殺用爆弾の製造役に選ばれた。しかし暗殺計画は決行される前に露呈し、アレクサンドルら計画者は逮捕された後に裁判で死刑宣告を受け、1887年5月に絞首刑に処された{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=10–17|2a1=Rice|2y=1990|2pp=20, 22–24|3a1=Service|3y=2000|3pp=52–58|4a1=White|4y=2001|4pp=21–28|5a1=Read|5y=2005|5p=10|6a1=Lih|6y=2011|6pp=23–25}}。父と兄の死により精神的ショックを受けたものの、引き続き学業に励んだウラジーミルは古典中高等学校を首席で卒業し、その際には突出した成績を称えて金メダルを授与された{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=18|2a1=Rice|2y=1990|2p=25|3a1=Service|3y=2000|3p=61|4a1=White|4y=2001|4p=29|5a1=Read|5y=2005|5p=16|6a1=Theen|6y=2004|6p=33}}。
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[[1887年]]8月、父の母校である[[カザン大学]]に入学して[[法学]]を専攻したが<ref name="major">{{Cite book|和書|author=レーニン|others=[[川内唯彦]]・[[堀江邑一]]訳|year=2005|month=1|title=レーニン (世界の大思想 : ワイド版 ; 2-11)|publisher=[[河出書房新社]]|isbn=978-4309961910|pages=493, 515}}</ref>、当時カザン大学でも勢いを得ていた[[学生運動]]に参加し、1887年12月に暴動行為により警察に拘束され大学から退学処分を受け<ref>「レーニン 二十世紀共産主義運動の父」(世界史リブレット人73)p13 和田春樹 山川出版社 2017年5月30日1版1刷発行</ref>。大学を放校されたウラジーミルは、帝国内務省によって流刑に処され、コクシキノ村にある一の所有地に追放された{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=18|2a1=Rice|2y=1990|2p=27|3a1=Service|3y=2000|3pp=68–69|4a1=White|4y=2001|4p=29|5a1=Read|5y=2005|5p=15|6a1=Lih|6y=2011|6p=32}}。
[[1887年]]8月、父の母校である[[カザン大学]]に入学して[[法学]]を専攻したが<ref name="major">{{Cite book|和書|author=レーニン|others=[[川内唯彦]]・[[堀江邑一]]訳|year=2005|month=1|title=レーニン (世界の大思想 : ワイド版 ; 2-11)|publisher=[[河出書房新社]]|isbn=978-4309961910|pages=493, 515}}</ref>、当時カザン大学でも勢いを得ていた[[学生運動]]に参加し、1887年12月に暴動行為により警察に拘束され大学から退学処分を受け<ref>「レーニン 二十世紀共産主義運動の父」(世界史リブレット人73)p13 和田春樹 山川出版社 2017年5月30日1版1刷発行</ref>、帝国内務省によってコクシキノ村にある一の所有地に追放された([[流刑]]){{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=18|2a1=Rice|2y=1990|2p=27|3a1=Service|3y=2000|3pp=68–69|4a1=White|4y=2001|4p=29|5a1=Read|5y=2005|5p=15|6a1=Lih|6y=2011|6p=32}}。


コクシキノ村での流刑の間、ウラジーミルは書物を読み漁り、[[ニコライ・チェルヌイシェフスキー]]が1863年に著した革命小説『{{仮リンク|何をなすべきか? (小説)|ru|Что делать? (роман)|en|What Is to Be Done? (novel)|label=何をなすべきか?}}』に熱中した{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=18|2a1=Rice|2y=1990|2p=28|3a1=White|3y=2001|3p=30|4a1=Read|4y=2005|4p=12|5a1=Lih|5y=2011|5pp=32–33}}。母マリアはウラジーミルの思想の先鋭化に懸念を抱き、内務省にかけあって息子をカザン市内に帰還させる許可を得た{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=18|2a1=Rice|2y=1990|2p=310|3a1=Service|3y=2000|3p=71}}。カザンに戻ったウラジーミルは{{ill2|ニコライ・フェドセーエフ|en|Nikolai Fedoseev}}の主催する革命サークルに参加し、そこで[[カール・マルクス]]が[[1867年]]に著した『[[資本論]]』と出会い、[[マルクス主義]]への興味を抱いた{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=19|2a1=Rice|2y=1990|2pp=32–33|3a1=Service|3y=2000|3p=72|4a1=White|4y=2001|4pp=30–31|5a1=Read|5y=2005|5p=18|6a1=Lih|6y=2011|6p=33}}。
コクシキノ村での流刑の間、ウラジーミルは書物を読み漁り、[[ニコライ・チェルヌイシェフスキー]]が1863年に著した革命小説『{{仮リンク|何をなすべきか? (小説)|ru|Что делать? (роман)|en|What Is to Be Done? (novel)|label=何をなすべきか?}}』に熱中した{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=18|2a1=Rice|2y=1990|2p=28|3a1=White|3y=2001|3p=30|4a1=Read|4y=2005|4p=12|5a1=Lih|5y=2011|5pp=32–33}}。母マリアはウラジーミルの思想の先鋭化に懸念を抱き、内務省にかけあって息子をカザン市内に帰還させる許可を得た{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=18|2a1=Rice|2y=1990|2p=310|3a1=Service|3y=2000|3p=71}}。カザンに戻ったウラジーミルは{{ill2|ニコライ・フェドセーエフ|en|Nikolai Fedoseev}}の主催する革命サークルに参加し、そこで[[カール・マルクス]]が[[1867年]]に著した『[[資本論]]』と出会い、[[マルクス主義]]への興味を抱いた{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=19|2a1=Rice|2y=1990|2pp=32–33|3a1=Service|3y=2000|3p=72|4a1=White|4y=2001|4pp=30–31|5a1=Read|5y=2005|5p=18|6a1=Lih|6y=2011|6p=33}}。
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[[1895年]]秋、ウラジーミルはサンクトペテルブルクの全てのマルクス主義労働者グループを統合して「{{ill2|労働者階級解放闘争同盟|en|League of Struggle for the Emancipation of the Working Class}}」を結成した<ref name="major"/>。その後、闘争同盟の非合法機関紙『{{ill2|ラボーチェエ・デーロ|en|Rabocheye Delo}}』の発行に関与したが、同年12月に他の39人の活動家と共に逮捕され、扇動罪に問われた{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=31|2a1=Pipes|2y=1990|2p=355|3a1=Rice|3y=1990|3p=48|4a1=White|4y=2001|4p=38|5a1=Read|5y=2005|5p=26}}。逮捕されたウラジーミルは罪状を全面的に否認したが、その後刑の宣告まで1年にわたって収監されることとなった{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=31|2a1=Rice|2y=1990|2pp=48–51|3a1=Service|3y=2000|3pp=107–108|4a1=Read|4y=2005|4p=31|5a1=Lih|5y=2011|5p=61}}。
[[1895年]]秋、ウラジーミルはサンクトペテルブルクの全てのマルクス主義労働者グループを統合して「{{ill2|労働者階級解放闘争同盟|en|League of Struggle for the Emancipation of the Working Class}}」を結成した<ref name="major"/>。その後、闘争同盟の非合法機関紙『{{ill2|ラボーチェエ・デーロ|en|Rabocheye Delo}}』の発行に関与したが、同年12月に他の39人の活動家と共に逮捕され、扇動罪に問われた{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=31|2a1=Pipes|2y=1990|2p=355|3a1=Rice|3y=1990|3p=48|4a1=White|4y=2001|4p=38|5a1=Read|5y=2005|5p=26}}。逮捕されたウラジーミルは罪状を全面的に否認したが、その後刑の宣告まで1年にわたって収監されることとなった{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=31|2a1=Rice|2y=1990|2pp=48–51|3a1=Service|3y=2000|3pp=107–108|4a1=Read|4y=2005|4p=31|5a1=Lih|5y=2011|5p=61}}。


1897年2月、ウラジーミルは東シベリアでの3年間の流刑を宣告され、身の回りの整理のためサンクトペテルブルクで3日間過ごすことを許可されたが、彼はその猶予期間を闘争同盟のメンバーと会うために利用した{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=31|2a1=Rice|2y=1990|2pp=52–55|3a1=Service|3y=2000|3pp=109–110|4a1=White|4y=2001|4pp=38, 45, 47|5a1=Read|5y=2005|5p=31}}。ウラジーミルは政府に対する大きな脅威では無いとみなされており、流刑地の{{ill2|シュシェンスコエ|en|Shushenskoye}}村では警察の監視下に置かれたものの、村から他の革命活動家と文通することは可能であり、近くの[[エニセイ川]]で泳ぐことや水鳥の狩猟を楽しむことも許可されていた{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=31–32|2a1=Rice|2y=1990|2pp=53, 55–56|3a1=Service|3y=2000|3pp=110–113|4a1=White|4y=2001|4p=40|5a1=Read|5y=2005|5pp=30, 31}}
1897年2月、ウラジーミルは東シベリアでの3年間の流刑を宣告され、身の回りの整理のためサンクトペテルブルクで3日間過ごすことを許可されたが、彼はその猶予期間を闘争同盟のメンバーと会うために利用した{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=31|2a1=Rice|2y=1990|2pp=52–55|3a1=Service|3y=2000|3pp=109–110|4a1=White|4y=2001|4pp=38, 45, 47|5a1=Read|5y=2005|5p=31}}。ウラジーミルは政府に対する大きな脅威では無いとみなされており、流刑地の{{ill2|シュシェンスコエ|en|Shushenskoye}}村では警察の監視下に置かれたものの、村から他の革命活動家と文通することは可能であり、近くの[[エニセイ川]]で泳ぐことや水鳥の狩猟を楽しむことも許可されていた{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=31–32|2a1=Rice|2y=1990|2pp=53, 55–56|3a1=Service|3y=2000|3pp=110–113|4a1=White|4y=2001|4p=40|5a1=Read|5y=2005|5pp=30, 31}}
[[File:Union-de-Lucha.jpg|thumb|right|ウラジーミル・ウリヤノフ(中央)と他の{{ill2|労働者階級解放闘争同盟|en|League of Struggle for the Emancipation of the Working Class}}のメンバー(1897年撮影)]]
[[File:Union-de-Lucha.jpg|thumb|right|ウラジーミル・ウリヤノフ(中央)と他の{{ill2|労働者階級解放闘争同盟|en|League of Struggle for the Emancipation of the Working Class}}のメンバー(1897年撮影)]]
1898年5月、ウラジーミルは流刑地でクルプスカヤと再会した。彼女はストライキを組織したことで1896年8月に逮捕され、当初[[ウファ]]での流刑に処されていたが、自分とウリヤノフが婚約していると主張して当局を説得し、シュシェンスコエ村に移送されてきた{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=33|2a1=Pipes|2y=1990|2p=356|3a1=Service|3y=2000|3pp=114, 140|4a1=White|4y=2001|4p=40|5a1=Read|5y=2005|5p=30|6a1=Lih|6y=2011|6p=63}}。その後、ウリヤノフとクルプスカヤは1898年7月10日に結婚した{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=33|2a1=Pipes|2y=1990|2p=356|3a1=Service|3y=2000|3pp=114, 140|4a1=White|4y=2001|4p=40|5a1=Read|5y=2005|5p=30|6a1=Lih|6y=2011|6p=63}}。この頃、ドイツでは選挙による平和的な社会主義実現を主張する[[エドゥアルト・ベルンシュタイン]]ら[[修正主義]]者が台頭し、マルクス主義者の間でイデオロギー上の対立が生じていた。その中でもウラジーミルは[[暴力革命]]を強力に支持し続け、『ロシア社会民主党員による抗議』という著作の中で修正主義者の主張を攻撃した{{sfnm|1a1=Rice|1y=1990|1pp=61–63|2a1=Service|2y=2000|2p=124|3a1=Rappaport|3y=2010|3p=31}}。1899年には『{{ill2|ロシアにおける資本主義の発展|en|The Development of Capitalism in Russia}}』を著し、 {{ill2|農業社会主義|en|Agrarian socialism}}を批判すると共に、ロシアの経済発展に対するマルクス主義的な分析を提示した。この著作はウラジーミル・イリイン (Vladimir Ilin) という筆名で出版されたが、内容への評価は低かった{{sfnm|1a1=Rice|1y=1990|1pp=57–58|2a1=Service|2y=2000|2pp=121–124, 137|3a1=White|3y=2001|3pp=40–45|4a1=Read|4y=2005|4pp=34, 39|5a1=Lih|5y=2011|5pp=62–63}}。
1898年5月、ウラジーミルは流刑地でクルプスカヤと再会した。彼女はストライキを組織したことで1896年8月に逮捕され、当初[[ウファ]]での流刑に処されていたが、自分とウリヤノフが婚約していると主張して当局を説得し、シュシェンスコエ村に移送されてきた{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=33|2a1=Pipes|2y=1990|2p=356|3a1=Service|3y=2000|3pp=114, 140|4a1=White|4y=2001|4p=40|5a1=Read|5y=2005|5p=30|6a1=Lih|6y=2011|6p=63}}。その後、ウリヤノフとクルプスカヤは1898年7月10日に結婚した{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=33|2a1=Pipes|2y=1990|2p=356|3a1=Service|3y=2000|3pp=114, 140|4a1=White|4y=2001|4p=40|5a1=Read|5y=2005|5p=30|6a1=Lih|6y=2011|6p=63}}。この頃、ドイツでは選挙による平和的な社会主義実現を主張する[[エドゥアルト・ベルンシュタイン]]ら[[修正主義]]者が台頭し、マルクス主義者の間でイデオロギー上の対立が生じていた。その中でもウラジーミルは[[暴力革命]]を強力に支持し続け、『ロシア社会民主党員による抗議』という著作の中で修正主義者の主張を攻撃した{{sfnm|1a1=Rice|1y=1990|1pp=61–63|2a1=Service|2y=2000|2p=124|3a1=Rappaport|3y=2010|3p=31}}。1899年には『{{ill2|ロシアにおける資本主義の発展|en|The Development of Capitalism in Russia}}』を著し、 {{ill2|農業社会主義|en|Agrarian socialism}}を批判すると共に、ロシアの経済発展に対するマルクス主義的な分析を提示した。この著作はウラジーミル・イリイン (Vladimir Ilin) という筆名で出版されたが、内容への評価は低かった{{sfnm|1a1=Rice|1y=1990|1pp=57–58|2a1=Service|2y=2000|2pp=121–124, 137|3a1=White|3y=2001|3pp=40–45|4a1=Read|4y=2005|4pp=34, 39|5a1=Lih|5y=2011|5pp=62–63}}。
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== 権力獲得以降の経歴 ==
== 権力獲得以降の経歴 ==
=== 人民委員会議の発足・各種改革の実施 ===
=== 人民委員会議の発足・各種改革の実施 ===
ボリシェヴィキは新たな[[行政府]]として 「[[人民委員会議]]」の設立を決定した。当初レーニンは人民委員会議のトップである[[ロシアの首相|議長]]への就任を固辞し、トロツキーを議長職に推薦したが、党員からの強い要請により最終的に議長就任を受け入れた{{sfnm|1a1=Pipes|1y=1990|1p=499|2a1=Service|2y=2000|2pp=314–315}}。レーニンらボリシェヴィキ指導者は1917年10月26日から27日にかけ開催された{{仮リンク|第2回全ロシア・ソビエト大会|en|Second Congress of Soviets}}に出席し、新政府の樹立を宣言したが、参加したメンシェヴィキはボリシェヴィキによる権力奪取は違法であり内戦の危険をもたらすものであるとして非難した{{sfnm|1a1=Pipes|1y=1990|1pp=496–497|2a1=Rice|2y=1990|2pp=159–161|3a1=Service|3y=2000|3pp=314–315|4a1=Read|4y=2005|4p=183}}。この当時、レーニンを含む多くのボリシェヴィキはプロレタリア革命の全ヨーロッパへの波及は目前に迫っていると考えていた{{sfn|Service|2000|p=316}}。
ボリシェヴィキは新たな[[行政府]]として 「[[人民委員会議]]」の設立を決定した。当初レーニンは人民委員会議の[[ロシアの首相|議長]]への就任を固辞し、議長職にはトロツキーを推薦したが、党員からの強い要請により最終的に議長就任を受け入れた{{sfnm|1a1=Pipes|1y=1990|1p=499|2a1=Service|2y=2000|2pp=314–315}}。レーニンらボリシェヴィキ幹部は1917年10月26日から27日(旧暦)にかけ開催された{{仮リンク|第2回全ロシア・ソビエト大会|en|Second Congress of Soviets}}に出席し、新政府の樹立を宣言したが、大会に参加したメンシェヴィキはボリシェヴィキによる権力奪取は違法であり内戦の危険をもたらすものであるとして非難した{{sfnm|1a1=Pipes|1y=1990|1pp=496–497|2a1=Rice|2y=1990|2pp=159–161|3a1=Service|3y=2000|3pp=314–315|4a1=Read|4y=2005|4p=183}}。この当時、レーニンを含む多くのボリシェヴィキはプロレタリア革命の全ヨーロッパへの波及は目前に迫っていると考えていた{{sfn|Service|2000|p=316}}。

レーニンの新政は発足後ただちに一連の布告を発した。「[[平和に関する布告]]」は、第一次世界大戦の交戦国に対して「無併合・無賠償」の講和を提議した{{sfn|フィッシャー|1988|p=198}}。「[[土地に関する布告]]」では、貴族と正教会の所有地を国有化し、地方行政機関を通じて農民に再分配すると宣言した。これは[[集団農場化|農業の集団化]]を希望するレーニンの意向に反していたが、すでに蔓延していた農民による土地の接収に国家的承認を与えるものであった{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=252–253|2a1=Pipes|2y=1990|2p=499|3a1=Volkogonov|3y=1994|3p=341|4a1=Service|4y=2000|4pp=316–317|5a1=White|5y=2001|5p=149|6a1=Read|6y=2005|6pp=194–195}}。「言論に関する布告 (Decree on the Press)」は、ボリシェヴィキに反対する報道機関の多くを反革命であるとして廃止させたが、これは[[報道の自由]]を侵害するものとして広範な批判を巻き起こし、批判者には多数のボリシェヴィキ党員も含まれていた{{sfnm|1a1=Shub|1y=1966|1p=310|2a1=Leggett|2y=1981|2pp=5–6, 8, 306|3a1=Pipes|3y=1990|3pp=521–522|4a1=Service|4y=2000|4pp=317–318|5a1=White|5y=2001|5p=153|6a1=Read|6y=2005|6pp=235–236}}。さらに別の布告で人民委員会議は従来のロシアの法制度を廃することを宣言し、廃止された法律代わて「革命的良心」を用いることを呼びかけた{{sfnm|1a1=Leggett|1y=1981|1pp=172–173|2a1=Pipes|2y=1990|2pp=796–797|3a1=Read|3y=2005|3p=242}}。旧来の裁判所は、反革命犯罪を専門に扱う「{{ill2|革命裁判所 (ロシア)|en|Revolutionary tribunal (Russia)|label=革命裁判所}}」と、その他の犯罪を扱う「人民裁判所」の二重のシステムに置き換えられ{{sfnm|1a1=Leggett|1y=1981|1p=172|2a1=Pipes|2y=1990|2pp=798–799|3a1=Ryan|3y=2012|3p=121}}、裁判所は既存の法律を無視し、人民委員会議の布告と「社会主義的正義感」に基づいて裁定を下すよう指導された{{sfnm|1a1=Hazard|1y=1965|1p=270|2a1=Leggett|2y=1981|2p=172|3a1=Pipes|3y=1990|3pp=796–797}}。

レーニンは1917年10月の布告でロシアの全労働者の労働時間を1日あたり8時間に制限したほか{{sfn|Service|2000|p=321}}、ロシアのすべての子供を対象とした無料の普通教育が公的に約束されることを定めた{{sfn|Service|2000|p=321}}。さらに別の布告では国営の[[孤児院]]制度が創設された{{sfn|Fischer|1964|pp=260–261}}。強硬な無神論者であるレーニンとその党は組織的宗教の解体を望んでおり{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=552|2a1=Leggett|2y=1981|2p=308|3a1=Sandle|3y=1999|3p=126|4a1=Read|4y=2005|4pp=238–239|5a1=Ryan|5y=2012|5pp=176, 182}}、新政府は[[国家と教会および教会と学校の分離に関する布告|1918年1月の布告]]で教会と国家の分離を宣言するとともに、学校における宗教的教育を禁止した{{sfnm|1a1=Volkogonov|1y=1994|1p=373|2a1=Leggett|2y=1981|2p=308|3a1=Ryan|3y=2012|3p=177}}。レーニン政権下で、ロシアは妊娠初期における妊婦の意思による[[妊娠中絶|中絶]]を合法化した世界で最初の国となった{{sfn|David|1974|p=417}}。また、[[男女同権]]の推進として女性の解放を助ける新たな法律が制定され、既婚女性には夫からの経済的自律性が与えられ、離婚に関しての各種制限は撤廃された{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=554–555|2a1=Sandle|2y=1999|2p=83}}。


レーニンの新政は発足後ただちに一連の布告を発した。「[[土地に関する布告]]」では、貴族と正教会の所有地を国有化し、地方行政機関を通じて農民に再分配すると宣言した。これは[[集団農場化|農業の集団化]]を希望するレーニンの意向に反していたが、農民による土地の接収はすで蔓延しており、それに対して国家的承認を与えるものであった{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=252–253|2a1=Pipes|2y=1990|2p=499|3a1=Volkogonov|3y=1994|3p=341|4a1=Service|4y=2000|4pp=316–317|5a1=White|5y=2001|5p=149|6a1=Read|6y=2005|6pp=194–195}}。「[[平和に関する布告]]」は、第一次世界大戦の全ての交戦国に無併合・無賠償の講和を提議した。「言論に関する布告 (Decree on the Press)」は、ボリシェヴィキに反対する報道機関の多くを反革命であるとして廃止させたが、これは[[報道の自由]]を侵害するものとして広範な批判を巻き起こし、批判者には多数のボリシェヴィキ党員も含まれていた{{sfnm|1a1=Shub|1y=1966|1p=310|2a1=Leggett|2y=1981|2pp=5–6, 8, 306|3a1=Pipes|3y=1990|3pp=521–522|4a1=Service|4y=2000|4pp=317–318|5a1=White|5y=2001|5p=153|6a1=Read|6y=2005|6pp=235–236}}。さらに別の布告で人民委員会議は従来の法制度を廃することを宣言し、廃止された法律代わりとして「革命的良心」を用いることを要請した{{sfnm|1a1=Leggett|1y=1981|1pp=172–173|2a1=Pipes|2y=1990|2pp=796–797|3a1=Read|3y=2005|3p=242}}。旧来の裁判所は、反革命犯罪を専門に扱う「{{ill2|革命裁判所 (ロシア)|en|Revolutionary tribunal (Russia)|label=革命裁判所}}」と、その他の犯罪を扱う「人民裁判所」の二重のシステムに置き換えられ{{sfnm|1a1=Leggett|1y=1981|1p=172|2a1=Pipes|2y=1990|2pp=798–799|3a1=Ryan|3y=2012|3p=121}}、裁判所は既存の法律を無視し、人民委員会議の布告と「社会主義的正義感」に基づいて裁定を下すよう指導された{{sfnm|1a1=Hazard|1y=1965|1p=270|2a1=Leggett|2y=1981|2p=172|3a1=Pipes|3y=1990|3pp=796–797}}。
[[File:19180118-lenin_sitzung_konstituante_taurisches_palais_petrograd.jpg|thumb|ペトログラードの[[タヴリーダ宮殿]]で開催された全ロシア憲法制定議会(1918年1月)]]
[[File:19180118-lenin_sitzung_konstituante_taurisches_palais_petrograd.jpg|thumb|ペトログラードの[[タヴリーダ宮殿]]で開催された全ロシア憲法制定議会(1918年1月)]]
レーニンは臨時政府1917年11月の開催を約束していた{{ill2|憲法制定議会選挙 (ロシア)|en|1917 Russian Constituent Assembly election|label=憲法制定議会選挙}}実施に反対てい、人民委員会議は予定通りに選挙を行うことを承認した{{sfnm|1a1=Shub|1y=1966|1p=314|2a1=Service|2y=2000|2p=317}}。しかし、11月に選挙が実施されると第一党は得票率40パーセントを得た[[社会革命党]]となり、ボリシェヴィキ得票率24パーセントにとどまった<ref>栗生沢猛夫 『図説 ロシアの歴史』p122-123 河出書房新社、2010年。ISBN 9784309761435</ref>。レーニンはこの選挙で人民の意志が正しく反映されなかったと主張した{{sfnm|1a1=Volkogonov|1y=1994|1p=176|2a1=Service|2y=2000|2pp=331–332|3a1=White|3y=2001|3p=156|4a1=Read|4y=2005|4p=192}}。選挙の結果を受け{{ill2|全ロシア憲法制定議会|en|Russian Constituent Assembly}}は1918年1月にペトログラードで開されたが{{sfn|Rice|1990|p=164}}、そこでボリシェヴィキは憲法制定議会ソビエトから権力を奪うことを図ており反革命であると主張し、社会革命党とメンシェヴィキはそれを否定したものの{{sfn|Pipes|1990|pp=546–547}}、議会強制的に解散させられた{{sfnm|1a1=Pipes|1y=1990|1pp=552–553|2a1=Rice|2y=1990|2p=165|3a1=Volkogonov|3y=1994|3pp=176–177|4a1=Service|4y=2000|4pp=332, 336–337|5a1=Read|5y=2005|5p=192}}。
臨時政府によって1917年11月に予定されていた{{ill2|憲法制定議会選挙 (ロシア)|en|1917 Russian Constituent Assembly election|label=全ロシア憲法制定議会選挙}}について、レーニンはボリシェヴィキが選挙に勝利することはないと予想し、実施の延期を党提案した{{sfn|サーヴィス|2002|pp=99–107}}。しかし、人民委員会議はレーニンの反対を押して予定通りに選挙を行うことを決定した{{sfnm|1a1=Shub|1y=1966|1p=314|2a1=Service|2y=2000|2p=317}}。11月に選挙が実施されると第一党は得票率40パーセントを得た[[社会革命党]]となり、一方でボリシェヴィキ得票率24パーセントにとどまった<ref>栗生沢猛夫 『図説 ロシアの歴史』p122-123 河出書房新社、2010年。ISBN 9784309761435</ref>。レーニンはこの選挙について、有権者にボリシェヴィキの政策を十分に理解する時間が与えられず、また候補者リストが社会革命党が右派と左派に分裂する以前に作成されたこと人民の意志が正しく反映されなかったと主張した{{sfnm|1a1=Volkogonov|1y=1994|1p=176|2a1=Service|2y=2000|2pp=331–332|3a1=White|3y=2001|3p=156|4a1=Read|4y=2005|4p=192}}。1918年1月、新たにばれた{{ill2|全ロシア憲法制定議会|en|Russian Constituent Assembly}}ペトログラードで開されたが{{sfn|Rice|1990|p=164}}、出席したレーニンらボリシェヴィキはこの議会ソビエトから権力を奪うことをており反革命であると主張した{{sfn|Pipes|1990|pp=546–547}}。メンシェヴィキと社会革命党員はそれを否定した{{sfn|Pipes|1990|pp=546–547}}、ボリシェヴィキは議会からほとんどの法的権力を剥奪する動議を提出し、それが議会によって却下されると、反革命的な性質が証明されたとして憲法制定議会を強制的に解散させた{{sfnm|1a1=Pipes|1y=1990|1pp=552–553|2a1=Rice|2y=1990|2p=165|3a1=Volkogonov|3y=1994|3pp=176–177|4a1=Service|4y=2000|4pp=332, 336–337|5a1=Read|5y=2005|5p=192}}。

憲法制定議会の開催に先立つ1918年1月1日{{#tag:ref|旧暦。グレゴリオ暦では1月14日|group="注釈"}}、レーニンはペトログラードの馬術学校での演説を終えた帰途の車中で数人の男から発砲されたが、同乗していた{{仮リンク|フリッツ・プラッテン|en|Fritz Platten}}が盾となり身を呈して銃弾を受けたことで負傷を免れた{{sfnm|1a1=Shub|1y=1966|1p=361|2a1=Pipes|2y=1990|2p=548|3a1=Volkogonov|3y=1994|3p=229|4a1=Service|4y=2000|4pp=335–336|5a1=Read|5y=2005|5p=198|6a1=サーヴィス|6y=2002|6p=112}}。捜査によってレーニンの暗殺を試みたのは[[王党派]]であったことが判明したが、人民委員会議はボリシェヴィキと敵対する他の社会主義政党にテロ行為加担の容疑をかけた{{sfn|サーヴィス|2002|p=112}}。
1918年3月、ペトログラードがドイツ軍に脅かされることへの懸念から、ボリシェヴィキは人民委員会議をモスクワへと移転した(当初移転は一時的な処置となる予定だった){{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=156|2a1=Shub|2y=1966|2p=350|3a1=Pipes|3y=1990|3p=594|4a1=Volkogonov|4y=1994|4p=185|5a1=Service|5y=2000|5p=344|6a1=Read|6y=2005|6p=212}}。それに伴い、レーニン、トロツキーらボリシェヴィキ指導者もモスクワの[[クレムリン]]に居を移したが{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=320–321|2a1=Shub|2y=1966|2p=377|3a1=Pipes|3y=1990|3pp=94–595|4a1=Volkogonov|4y=1994|4pp=187–188|5a1=Service|5y=2000|5pp=346–347|6a1=Read|6y=2005|6p=212}}、レーニンはペトログラードに比べて西欧化されておらず、伝統的ロシアの色が濃いモスクワを嫌った{{sfn|サーヴィス|2002|p=123}}。


1918年1月、レーニンはペトログラードで暗殺未遂に遭ったが、{{仮リンク|フリッツ・プラッテン|en|Fritz Platten}}が盾となり代わりに銃弾を受けたことで負傷を免れた{{sfnm|1a1=Shub|1y=1966|1p=361|2a1=Pipes|2y=1990|2p=548|3a1=Volkogonov|3y=1994|3p=229|4a1=Service|4y=2000|4pp=335–336|5a1=Read|5y=2005|5p=198}}。1918年3月、ペトログラードがドイツ軍に脅かされることへの懸念から、ボリシェヴィキは人民委員会議をモスクワへと移転した(当初これは一時的な処置となる予定だった){{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=156|2a1=Shub|2y=1966|2p=350|3a1=Pipes|3y=1990|3p=594|4a1=Volkogonov|4y=1994|4p=185|5a1=Service|5y=2000|5p=344|6a1=Read|6y=2005|6p=212}}。それに伴い、レーニン、トロツキーらボリシェヴィキ指導者もモスクワの[[クレムリン]]に居を移した{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=320–321|2a1=Shub|2y=1966|2p=377|3a1=Pipes|3y=1990|3pp=94–595|4a1=Volkogonov|4y=1994|4pp=187–188|5a1=Service|5y=2000|5pp=346–347|6a1=Read|6y=2005|6p=212}}。1918年3月の第7回党大会にて、ボリシェヴィキは党の正式名を「ロシア社会民主労働党」から「ロシア共産党」改称したが、これは修正主義的傾向を強めるドイツ社会民主党と距離を置き、同時に共産主義社会という党の最終目的を強調することを望むレーニンの意向を反映したものだった{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=219, 256, 379|2a1=Shub|2y=1966|2p=374|3a1=Service|3y=2000|3p=355|4a1=White|4y=2001|4p=159|5a1=Read|5y=2005|5p=219}}。1918年7月、{{仮リンク|第5回全ロシア・ソビエト大会|ru|V Всероссийский съезд Советов|en|All-Russian Congress of Soviets#Fifth Congress}}において{{仮リンク|ソビエト憲法 (1918年)|ru|Конституция РСФСР 1918 года|en|Russian Constitution of 1918|label=憲法}}の制定が承認され、ロシア共和国は「[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]]」へと改められた{{sfn|Fischer|1964|p=249}}。また、国家の近代化を目的として、ロシアの従来の暦である[[ユリウス暦]]の使用は廃止され、他のヨーロッパ諸国と同様の[[グレゴリオ暦]]に切り替えられた{{sfnm|1a1=Sandle|1y=1999|1p=84|2a1=Read|2y=2005|2p=211}}。
1918年3月、ボリシェヴィキは党の正式名を従来の「ロシア社会民主労働党」から「ロシア共産党(ボリシェヴィキ)へと改称したが{{sfn|Brovkin|1991|p=XII}}、これは修正主義的傾向を強めるドイツ社会民主党と距離を置き、同時に共産主義社会という党の最終目的を強調することを望むレーニンの意向を反映したものだった{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=219, 256, 379|2a1=Shub|2y=1966|2p=374|3a1=Service|3y=2000|3p=355|4a1=White|4y=2001|4p=159|5a1=Read|5y=2005|5p=219}}。1918年7月、{{仮リンク|第5回全ロシア・ソビエト大会|ru|V Всероссийский съезд Советов|en|All-Russian Congress of Soviets#Fifth Congress}}において新しい{{仮リンク|ソビエト憲法 (1918年)|ru|Конституция РСФСР 1918 года|en|Russian Constitution of 1918|label=ソビエト憲法}}の制定が承認され、ロシア共和国は「[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]]」へと改められた{{sfn|Fischer|1964|p=249}}。また、国家の近代化を目的として、ロシアの従来の暦である[[ユリウス暦]]の使用は廃止され、他のヨーロッパ諸国と同様の[[グレゴリオ暦]]に切り替えられた{{sfnm|1a1=Sandle|1y=1999|1p=84|2a1=Read|2y=2005|2p=211}}。


=== ブレスト=リトフスク条約の締結 ===
=== ブレスト=リトフスク条約の締結 ===
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1918年1月から2月にかけ、レーニンはボリシェヴィキ政権の存続を確実にできるならば領土の喪失は容認可能であり、ドイツ側の要求を受け入れるべきであると主張した。大多数のボリシェヴィキはレーニンの提言を拒絶し、ドイツの脅しをはったりと見て休戦を引き延ばすことを望んだ{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=195|2a1=Shub|2y=1966|2pp=334, 337|3a1=Service|3y=2000|3pp=338–339, 340|4a1=Read|4y=2005|4p=199}}。1918年2月18日、ドイツ軍は[[11日戦争|ファウストシュラーク作戦]]を発動してロシアに攻勢を仕掛け、作戦初日に[[ドヴィンスク]]を占領するなど支配領域を拡大した{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=206, 209|2a1=Shub|2y=1966|2p=337|3a1=Pipes|3y=1990|3pp=586–587|4a1=Service|4y=2000|4pp=340–341}}。この状況下、レーニンはかろうじてボリシェヴィキ中央委員会の過半数を説得することに成功し、中央同盟国側の要求を受諾することが決定された{{sfnm|1a1=Pipes|1y=1990|1p=587|2a1=Rice|2y=1990|2pp=166–167|3a1=Service|3y=2000|3p=341|4a1=Read|4y=2005|4p=199}}。2月23日、中央同盟国は新たな最後通帳を発し、ポーランドとバルト三国に加えウクライナもドイツの支配領域となることを認めるか、ドイツ軍による本格的な侵攻に直面するかの選択をボリシェヴィキに迫った{{sfnm|1a1=Shub|1y=1966|1p=338|2a1=Pipes|2y=1990|2pp=592–593|3a1=Service|3y=2000|3p=341}}。
1918年1月から2月にかけ、レーニンはボリシェヴィキ政権の存続を確実にできるならば領土の喪失は容認可能であり、ドイツ側の要求を受け入れるべきであると主張した。大多数のボリシェヴィキはレーニンの提言を拒絶し、ドイツの脅しをはったりと見て休戦を引き延ばすことを望んだ{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=195|2a1=Shub|2y=1966|2pp=334, 337|3a1=Service|3y=2000|3pp=338–339, 340|4a1=Read|4y=2005|4p=199}}。1918年2月18日、ドイツ軍は[[11日戦争|ファウストシュラーク作戦]]を発動してロシアに攻勢を仕掛け、作戦初日に[[ドヴィンスク]]を占領するなど支配領域を拡大した{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=206, 209|2a1=Shub|2y=1966|2p=337|3a1=Pipes|3y=1990|3pp=586–587|4a1=Service|4y=2000|4pp=340–341}}。この状況下、レーニンはかろうじてボリシェヴィキ中央委員会の過半数を説得することに成功し、中央同盟国側の要求を受諾することが決定された{{sfnm|1a1=Pipes|1y=1990|1p=587|2a1=Rice|2y=1990|2pp=166–167|3a1=Service|3y=2000|3p=341|4a1=Read|4y=2005|4p=199}}。2月23日、中央同盟国は新たな最後通帳を発し、ポーランドとバルト三国に加えウクライナもドイツの支配領域となることを認めるか、ドイツ軍による本格的な侵攻に直面するかの選択をボリシェヴィキに迫った{{sfnm|1a1=Shub|1y=1966|1p=338|2a1=Pipes|2y=1990|2pp=592–593|3a1=Service|3y=2000|3p=341}}。


1918年3月3日、中央同盟国との[[講和条約]]である[[ブレスト=リトフスク条約]]が締結された{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=211–212|2a1=Shub|2y=1966|2p=339|3a1=Pipes|3y=1990|3p=595|4a1=Rice|4y=1990|4p=167|5a1=Service|5y=2000|5p=342|6a1=White|6y=2001|6pp=158–159}}。この条約の結果としてロシア側が失った領土は甚大であり、旧ロシア帝国の人口の26%、農業収穫面積の37%、産業の28%、鉄・石炭の埋蔵量の4分の3がドイツ帝国に引き渡されることとなった{{sfnm|1a1=Pipes|1y=1990|1p=595|2a1=Service|2y=2000|2p=342}}。したがって、この条約はロシア国内のあらゆる政党に極めて不評であり{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=213–214|2a1=Pipes|2y=1990|2pp=596–597}}、一部のボリシェヴィキは条約締結への抗議として人民委員会議を離脱した{{sfn|Service|2000|p=344}}。また、当時ボリシェヴィキと連立政権を組んでいた左翼[[社会革命党]](左翼エスエル)は政権から離脱し、同年7月6日、駐露ドイツ大使{{仮リンク|ヴィルヘルム・フォン・ミルバッハ|de|Wilhelm von Mirbach-Harff}}伯爵暗殺を皮切りに反ボリシェヴィキ運動を起こした。
1918年3月3日、中央同盟国との[[講和条約]]である[[ブレスト=リトフスク条約]]が締結された{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=211–212|2a1=Shub|2y=1966|2p=339|3a1=Pipes|3y=1990|3p=595|4a1=Rice|4y=1990|4p=167|5a1=Service|5y=2000|5p=342|6a1=White|6y=2001|6pp=158–159}}。この条約の結果としてロシア側が失った領土は甚大であり、旧ロシア帝国の人口の26パーセント、農業収穫面積の37パーセント、産業の28パーセント、鉄・石炭の埋蔵量の4分の3がドイツ帝国に引き渡されることとなった{{sfnm|1a1=Pipes|1y=1990|1p=595|2a1=Service|2y=2000|2p=342}}。したがって、この条約はロシア国内のあらゆる政党に極めて不評であり{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=213–214|2a1=Pipes|2y=1990|2pp=596–597}}、一部のボリシェヴィキは条約締結への抗議として人民委員会議を離脱した{{sfn|Service|2000|p=344}}。また、当時ボリシェヴィキと連立政権を組んでいた左翼[[社会革命党]](左翼エスエル)は政権から離脱し、同年7月6日、駐露ドイツ大使{{仮リンク|ヴィルヘルム・フォン・ミルバッハ|de|Wilhelm von Mirbach-Harff}}暗殺を皮切りに反ボリシェヴィキ運動を起こした。


ブレスト=リトフスク条約の調印も中央同盟国の敗戦を防ぐには至らず、1918年11月にはドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]が退陣し、新たに発足した新ドイツ政府は[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]と[[ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)|休戦協定]]を結んだ。これを受けて、ボリシェヴィキ政府(人民委員会議)はブレスト=リトフスク条約の無効を宣言した{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=303–304|2a1=Pipes|2y=1990|2p=668|3a1=Volkogonov|3y=1994|3p=194|4a1=Service|4y=2000|4p=384}}。
ブレスト=リトフスク条約の調印も中央同盟国の敗戦を防ぐには至らず、1918年11月にはドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]が退陣し、新たに発足した新ドイツ政府は[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]と[[ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)|休戦協定]]を結んだ。これを受けて、ボリシェヴィキ政府(人民委員会議)はブレスト=リトフスク条約の無効を宣言した{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=303–304|2a1=Pipes|2y=1990|2p=668|3a1=Volkogonov|3y=1994|3p=194|4a1=Service|4y=2000|4p=384}}。
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1917年12月、レーニンは反ボリシェヴィキ勢力による政権転覆を防止するため、[[フェリックス・ジェルジンスキー]]が率いる秘密警察組織「反革命・投機・サボタージュ取締り非常委員会(全露非常委員会・БЧК [[チェーカー]])」の創設を命じた{{sfnm|1a1=Shub|1y=1966|1pp=345–347|2a1=Rigby|2y=1979|2pp=20–21|3a1=Pipes|3y=1990|3p=800|4a1=Volkogonov|4y=1994|4p=233|5a1=Service|5y=2000|5pp=321–322|6a1=White|6y=2001|6p=153|7a1=Read|7y=2005|7pp=186, 208–209}}。レーニンは旧体制を転覆し、革命の成功を確実にするには恐怖と暴力が不可欠であると提唱しており{{sfnm|1a1=Shub|1y=1966|1p=344|2a1=Pipes|2y=1990|2pp=790–791|3a1=Volkogonov|3y=1994|3pp=181, 196|4a1=Read|4y=2005|4pp=247–248}}、死刑撤廃の提案にも強く反対した{{sfn|Fischer|1964|pp=435–436}}。
1917年12月、レーニンは反ボリシェヴィキ勢力による政権転覆を防止するため、[[フェリックス・ジェルジンスキー]]が率いる秘密警察組織「反革命・投機・サボタージュ取締り非常委員会(全露非常委員会・БЧК [[チェーカー]])」の創設を命じた{{sfnm|1a1=Shub|1y=1966|1pp=345–347|2a1=Rigby|2y=1979|2pp=20–21|3a1=Pipes|3y=1990|3p=800|4a1=Volkogonov|4y=1994|4p=233|5a1=Service|5y=2000|5pp=321–322|6a1=White|6y=2001|6p=153|7a1=Read|7y=2005|7pp=186, 208–209}}。レーニンは旧体制を転覆し、革命の成功を確実にするには恐怖と暴力が不可欠であると提唱しており{{sfnm|1a1=Shub|1y=1966|1p=344|2a1=Pipes|2y=1990|2pp=790–791|3a1=Volkogonov|3y=1994|3pp=181, 196|4a1=Read|4y=2005|4pp=247–248}}、死刑撤廃の提案にも強く反対した{{sfn|Fischer|1964|pp=435–436}}。


1918年初頭までに、ロシア西部の都市の多くでは慢性的な食糧不足による飢饉が発生していた{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=236|2a1=Pipes|2y=1990|2pp=558, 723|3a1=Rice|3y=1990|3p=170|4a1=Volkogonov|4y=1994|4p=190}}。レーニンは[[クラーク (農家)|富農(クラーク)]]が生産した穀物を密かに備蓄していることがその原因であると見做し、1918年5月には[[徴発]]令を発して富農から穀物を没収するための武装分遣隊を組織し、6月には徴発を助ける目的で「{{ill2|貧農委員会|en|Committees of Poor Peasants}}」の結成を命じた{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=236–237|2a1=Shub|2y=1966|2p=353|3a1=Pipes|3y=1990|3pp=560, 722, 732–736|4a1=Rice|4y=1990|4p=170|5a1=Volkogonov|5y=1994|5pp=181, 342–343|6a1=Service|6y=2000|6pp=349, 358–359|7a1=White|7y=2001|7p=164|8a1=Read|8y=2005|8p=218}}。徴発に向かった武装分遣隊はしばしば農民と衝突したため、この政策は大きな社会的混乱と暴力をもたらし、ロシア内戦が勃発する背景のひとつとなった{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=254|2a1=Pipes|2y=1990|2pp=728, 734–736|3a1=Volkogonov|3y=1994|3p=197|4a1=Ryan|4y=2012|4p=105}}。この問題に対するレーニンの見解を示す顕著な一例は[[ペンザ]]のボリシェヴィキへ宛てた1918年8月の電報であり、その中でレーニンは農民の反乱を鎮圧するため「少なくとも100人の名の知れた富農、資産家生き血をたちの首を公衆の目前ですよう命じていた{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=277–278|2a1=Pipes|2y=1990|2p=737|3a1=Service|3y=2000|3p=365|4a1=White|4y=2001|4pp=155–156|5a1=Ryan|5y=2012|5p=106}}。
1918年初頭までに、ロシア西部の都市の多くでは慢性的な食糧不足による飢饉が発生していた{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=236|2a1=Pipes|2y=1990|2pp=558, 723|3a1=Rice|3y=1990|3p=170|4a1=Volkogonov|4y=1994|4p=190}}。レーニンは[[クラーク (農家)|富農(クラーク)]]が生産した穀物を密かに備蓄していることがその原因であると見做し、1918年5月には[[徴発]]令を発して富農から穀物を没収するための武装分遣隊を組織し、6月には徴発を助ける目的で「{{ill2|貧農委員会|en|Committees of Poor Peasants}}」の結成を命じた{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=236–237|2a1=Shub|2y=1966|2p=353|3a1=Pipes|3y=1990|3pp=560, 722, 732–736|4a1=Rice|4y=1990|4p=170|5a1=Volkogonov|5y=1994|5pp=181, 342–343|6a1=Service|6y=2000|6pp=349, 358–359|7a1=White|7y=2001|7p=164|8a1=Read|8y=2005|8p=218}}。徴発に向かった武装分遣隊はしばしば農民と衝突したため、この政策は大きな社会的混乱と暴力をもたらし、ロシア内戦が勃発する背景のひとつとなった{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=254|2a1=Pipes|2y=1990|2pp=728, 734–736|3a1=Volkogonov|3y=1994|3p=197|4a1=Ryan|4y=2012|4p=105}}。この問題に対する当時のレーニンの見解を示す顕著な一例は[[ペンザ]]のボリシェヴィキへ宛てた1918年8月の電報であり、レーニンはその中で農民の反乱を鎮圧するため「最低でも100人の名の知れた富農、金持ち[[搾取|血]]者」を公衆の目前で[[絞首刑]]によう命じていた{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=277–278|2a1=Pipes|2y=1990|2p=737|3a1=Service|3y=2000|3p=365|4a1=White|4y=2001|4pp=155–156|5a1=Ryan|5y=2012|5p=106}}。


徴発によって農民は自ら消費する以上の穀物を生産する意欲を失い、結果的に生産量は急激に減少した{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=450|2a1=Pipes|2y=1990|2p=726}}。国家が認める経済活動を補完する形で[[闇市]]が急成長したが{{sfnm|1a1=Pipes|1y=1990|1pp=700–702|2a1=Lee|2y=2003|2p=100}}、レーニンは闇取引を行う者や[[投機家]]を射殺するよう命じた{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=195|2a1=Pipes|2y=1990|2p=794|3a1=Volkogonov|3y=1994|3p=181|4a1=Read|4y=2005|4p=249}}。1918年7月の第5回全ロシア・ソビエト大会で、社会改革党と左翼社会革命党は武力による穀物収用を非難した{{sfn|Fischer|1964|p=237}}。貧農委員会が富農ではない農民をも迫害しており、それが農民全体の反政府感情につながっていると判断したレーニンは、1918年12月に委員会を廃止した{{sfnm|1a1=Service|1y=2000|1p=385|2a1=White|2y=2001|2p=164|3a1=Read|3y=2005|3p=218}}。
徴発によって農民は自ら消費する以上の穀物を生産する意欲を失い、結果的に生産量は急激に減少した{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=450|2a1=Pipes|2y=1990|2p=726}}。国家が認める経済活動を補完する形で[[闇市]]が急成長したが{{sfnm|1a1=Pipes|1y=1990|1pp=700–702|2a1=Lee|2y=2003|2p=100}}、レーニンは闇取引を行う者や[[投機家]]を射殺するよう命じた{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=195|2a1=Pipes|2y=1990|2p=794|3a1=Volkogonov|3y=1994|3p=181|4a1=Read|4y=2005|4p=249}}。1918年7月の第5回全ロシア・ソビエト大会で、社会改革党と左翼社会革命党は武力による穀物徴発を非難した{{sfn|Fischer|1964|p=237}}。貧農委員会が富農ではない農民をも迫害しており、それが農民全体の反政府感情につながっていると判断したレーニンは、1918年12月に委員会を廃止した{{sfnm|1a1=Service|1y=2000|1p=385|2a1=White|2y=2001|2p=164|3a1=Read|3y=2005|3p=218}}。


1918年8月、モスクワでレーニンは2度目の暗殺未遂に遭い、工場での演説を終えた帰途に銃で撃たれ重傷を負った{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=280|2a1=Shub|2y=1966|2pp=361–362|3a1=Pipes|3y=1990|3pp=806–807|4a1=Volkogonov|4y=1994|4pp=219–221|5a1=Service|5y=2000|5pp=367–368|6a1=White|6y=2001|6p=155}}。実行犯として[[社会革命党]]員{{仮リンク|ファーニャ・カプラン|ru|Каплан, Фанни Ефимовна|en|Fanni Kaplan}}が逮捕され、処刑されたが{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=282–283|2a1=Shub|2y=1966|2pp=362–363|3a1=Pipes|3y=1990|3pp=807, 809|4a1=Volkogonov|4y=1994|4pp=222–228|5a1=White|5y=2001|5p=155}}、犯人は別人であったという説も存在する。いずれにしてもこの事件はミルバッハ暗殺と合わせて社会革命党を弾圧するきっかけになった。この暗殺未遂はロシアで広く報道され、同情を受けたレーニンの人気は高まった{{sfn|Volkogonov|1994|pp=222, 231}}。1918年9月、レーニンは静養のためモスクワ近郊の[[ゴールキ・レーニンスキエ|ゴールキ]]の邸宅に移された{{sfn|Service|2000|p=369}}。
1918年8月、モスクワでレーニンは2度目の暗殺未遂に遭い、工場での演説を終えた帰途に銃で撃たれ重傷を負った{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=280|2a1=Shub|2y=1966|2pp=361–362|3a1=Pipes|3y=1990|3pp=806–807|4a1=Volkogonov|4y=1994|4pp=219–221|5a1=Service|5y=2000|5pp=367–368|6a1=White|6y=2001|6p=155}}。実行犯として[[社会革命党]]員{{仮リンク|ファーニャ・カプラン|ru|Каплан, Фанни Ефимовна|en|Fanni Kaplan}}が逮捕され、処刑されたが{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=282–283|2a1=Shub|2y=1966|2pp=362–363|3a1=Pipes|3y=1990|3pp=807, 809|4a1=Volkogonov|4y=1994|4pp=222–228|5a1=White|5y=2001|5p=155}}、犯人は別人であったという説も存在する。いずれにしてもこの事件はミルバッハ暗殺と合わせて社会革命党を弾圧するきっかけになった。この暗殺未遂はロシアで広く報道され、レーニンの人気は同情を受けて高まった{{sfn|Volkogonov|1994|pp=222, 231}}。1918年9月、レーニンは静養のためモスクワ近郊の[[ゴールキ・レーニンスキエ|ゴールキ]]の邸宅に移された{{sfn|Service|2000|p=369}}。
[[File:Lenin Krupskaya and Ulyanova in car at Red Army parade full photo 19180501.jpg|thumb|left|モスクワでの赤軍によるパレードの視察を終え、妻と共に車に乗るレーニン (1918年5月)]]
[[File:Lenin Krupskaya and Ulyanova in car at Red Army parade full photo 19180501.jpg|thumb|left|モスクワでの赤軍によるパレードの視察を終え、妻と共に車に乗るレーニン (1918年5月)]]
1918年9月、人民委員会議は布告を発し、チェーカーによって指揮される組織的弾圧「[[赤色テロ]]」の開始が宣言された{{sfnm|1a1=Leggett|1y=1981|1p=174|2a1=Volkogonov|2y=1994|2pp=233–234|3a1=Sandle|3y=1999|3p=112|4a1=Ryan|4y=2012|4p=111}}。赤色テロによる犠牲者は大半が富裕層の市民や帝国政府の元関係者であったが{{sfnm|1a1=Pipes|1y=1990|1p=821|2a1=Ryan|2y=2012|2pp=114–115}}、反ボリシェヴィキの非ブルジョワジーや社会的に望ましくないと見做された売春婦のような人々も含まれていた{{sfnm|1a1=Shub|1y=1966|1p=366|2a1=Sandle|2y=1999|2p=113|3a1=Read|3y=2005|3p=210|4a1=Ryan|4y=2012|4pp=114–115}}。チェーカーはそれが政府の敵と見做すあらゆる人間に死刑を言い渡し、刑を執行する権限を与えられており、革命裁判所を頼る必要もなかったため{{sfnm|1a1=Leggett|1y=1981|1pp=173–174|2a1=Pipes|2y=1990|2p=801}}、ソビエト・ロシア各地でしばしば大規模な処刑が実行されることとなった{{sfnm|1a1=Leggett|1y=1981|1pp=199–200|2a1=Pipes|2y=1990|2pp=819–820|3a1=Ryan|3y=2012|3p=107}}。一例としてペトログラードのチェーカーは数日間で計512名の死刑を執行した{{sfnm|1a1=Shub|1y=1966|1p=364|2a1=Ryan|2y=2012|2p=114}}。赤色テロによる正確な犠牲者数を示す記録は現存していないが{{sfn|Pipes|1990|p=837}}、のちに歴史家が推定した死者数には1万–1万5000人{{sfn|Ryan|2012|p=114}}とするものや5万人–14万人とするものがある{{sfn|Pipes|1990|p=834}}。
1918年9月、人民委員会議は布告を発し、チェーカーによって指揮される組織的弾圧「[[赤色テロ]]」の開始が宣言された{{sfnm|1a1=Leggett|1y=1981|1p=174|2a1=Volkogonov|2y=1994|2pp=233–234|3a1=Sandle|3y=1999|3p=112|4a1=Ryan|4y=2012|4p=111}}。赤色テロによる犠牲者は大半が富裕層の市民や帝国政府の元関係者であったが{{sfnm|1a1=Pipes|1y=1990|1p=821|2a1=Ryan|2y=2012|2pp=114–115}}、反ボリシェヴィキの非ブルジョワジーや社会的に望ましくないと見做された売春婦のような人々も含まれていた{{sfnm|1a1=Shub|1y=1966|1p=366|2a1=Sandle|2y=1999|2p=113|3a1=Read|3y=2005|3p=210|4a1=Ryan|4y=2012|4pp=114–115}}。チェーカーはそれが政府の敵と見做すあらゆる人間に死刑を言い渡し、刑を執行する権限を与えられており、革命裁判所を頼る必要もなかったため{{sfnm|1a1=Leggett|1y=1981|1pp=173–174|2a1=Pipes|2y=1990|2p=801}}、ソビエト・ロシア各地でしばしば大規模な処刑が実行されることとなった{{sfnm|1a1=Leggett|1y=1981|1pp=199–200|2a1=Pipes|2y=1990|2pp=819–820|3a1=Ryan|3y=2012|3p=107}}。一例としてペトログラードのチェーカーは数日間で計512名の死刑を執行した{{sfnm|1a1=Shub|1y=1966|1p=364|2a1=Ryan|2y=2012|2p=114}}。赤色テロによる正確な犠牲者数を示す記録は現存していないが{{sfn|Pipes|1990|p=837}}、のちに歴史家が推定した死者数には1万–1万5000人{{sfn|Ryan|2012|p=114}}とするものや5万人–14万人とするものがある{{sfn|Pipes|1990|p=834}}。


このような暴力の行使にレーニンが立ち会ったことや直接参加したことは一度もなく{{sfnm|1a1=Volkogonov|1y=1994|1p=202|2a1=Read|2y=2005|2p=247}}、公的には暴力から距離を保っていた{{sfn|Pipes|1990|p=796}}。レーニンは機密文書や暗号化された電報の中で頻繁に処刑の執行を要求したが、公表される文書や演説の中で要求することはほとんどなかった{{sfn|Volkogonov|1994|p=202}}。赤色テロは全[[ブルジョワジー]]の抹殺を目的とした試みであったと評される場合もあるが{{sfnm|1a1=Shub|1y=1966|1p=366|2a1=Sandle|2y=1999|2p=112}}、レーニンが望んだのはブルジョワ階級自体の絶滅ではなく、ソビエト政権の支配に抵抗するブルジョワの処刑であった{{sfn|Ryan|2012|p=116}}。チェーカーによる大規模処刑には多くのボリシェヴィキも難色を示し{{sfnm|1a1=Pipes|1y=1990|1p=825|2a1=Ryan|2y=2012|2pp=117, 120}}、その活動を制限するため共産党は1919年2月にチェーカーから公的に[[戒厳令]]下にない地域における裁判と処刑の権限を剥奪したが、以後もロシア各地でチェーカーはそれまでと同様の活動を続けた{{sfnm|1a1=Leggett|1y=1981|1pp=174–175, 183|2a1=Pipes|2y=1990|2pp=828–829|3a1=Ryan|3y=2012|3p=121}}。1920年までに、チェーカーはソビエト・ロシアにおいて最強の権力を持つ機関に成長し、他のすべての国家機構に影響を及ぼす存在となった{{sfn|Pipes|1990|pp=829–830, 832}}。
このような暴力の行使にレーニンが立ち会ったことや直接参加したことは一度もなく{{sfnm|1a1=Volkogonov|1y=1994|1p=202|2a1=Read|2y=2005|2p=247}}、公的には暴力から距離を保っていた{{sfn|Pipes|1990|p=796}}。レーニンは機密文書や暗号化された電報の中で頻繁に処刑の執行を要求したが、公表される文書や演説の中で要求することはほとんどなかった{{sfn|Volkogonov|1994|p=202}}。赤色テロは全[[ブルジョワジー]]の抹殺を目的とした試みであったと評される場合もあるが{{sfnm|1a1=Shub|1y=1966|1p=366|2a1=Sandle|2y=1999|2p=112}}、レーニンが望んだのはブルジョワ階級自体の絶滅ではなく、ソビエト政権の支配に抵抗する一部のブルジョワの処刑であったとの見解も存在する{{sfn|Ryan|2012|p=116}}。チェーカーによる大規模処刑には多くのボリシェヴィキも難色を示し{{sfnm|1a1=Pipes|1y=1990|1p=825|2a1=Ryan|2y=2012|2pp=117, 120}}、その活動を制限するため共産党は1919年2月にチェーカーから公的に[[戒厳令]]下にない地域における裁判と処刑の権限を剥奪したが、以後もロシア各地でチェーカーはそれまでと同様の活動を続けた{{sfnm|1a1=Leggett|1y=1981|1pp=174–175, 183|2a1=Pipes|2y=1990|2pp=828–829|3a1=Ryan|3y=2012|3p=121}}。1920年までに、チェーカーはソビエト・ロシアにおいて最強の権力を持つ機関に成長し、他のすべての国家機構に影響を及ぼす存在となった{{sfn|Pipes|1990|pp=829–830, 832}}。


また、1919年4月の布告によって各地に[[強制収容所]]が設置され、その管理は当初チェーカーに委託されたが{{sfnm|1a1=Leggett|1y=1981|1pp=176–177|2a1=Pipes|2y=1990|2pp=832, 834}}、のちに強制収容所の管理を担う新たな政府機関「[[グラグ]]」が創設された{{sfnm|1a1=Pipes|1y=1990|1p=835|2a1=Volkogonov|2y=1994|2p=235}} 1920年末の時点で、ソビエト・ロシアには84の収容所と約5万人の被収容者が存在したが、1923年10月には収容所の数は315となり、被収容者も約7万人に増加した{{sfnm|1a1=Leggett|1y=1981|1p=178|2a1=Pipes|2y=1990|2p=836}}。これらの被収容者は[[強制労働]]に従事させられていた{{sfnm|1a1=Leggett|1y=1981|1p=176|2a1=Pipes|2y=1990|2pp=832–833}}。
また、1919年4月の布告によって各地に[[強制収容所]]が設置され、その管理は当初チェーカーに委託されたが{{sfnm|1a1=Leggett|1y=1981|1pp=176–177|2a1=Pipes|2y=1990|2pp=832, 834}}、のちに強制収容所の管理を担う新たな政府機関「[[グラグ]]」が創設された{{sfnm|1a1=Pipes|1y=1990|1p=835|2a1=Volkogonov|2y=1994|2p=235}} 1920年末の時点で、ソビエト・ロシアには84の収容所と約5万人の被収容者が存在したが、1923年10月には収容所の数は315となり、被収容者も約7万人に増加した{{sfnm|1a1=Leggett|1y=1981|1p=178|2a1=Pipes|2y=1990|2p=836}}。これらの被収容者は[[強制労働]]に従事させられていた{{sfnm|1a1=Leggett|1y=1981|1p=176|2a1=Pipes|2y=1990|2pp=832–833}}。

===ロシア内戦とポーランド・ソビエト戦争===
レーニンは、ロシアの貴族階級とブルジョワ階級が自らの政権に敵対することは予想していたが、数的に優位な下層階級をボリシェヴィキが有効に組織することにより、いかなる抗争でも速やかに勝利することが可能であると考えており{{sfn|Service|2000|p=357}}、ボリシェヴィキによる支配に対して実際に生じた抵抗の激しさを予期していなかった{{sfn|Service|2000|p=357}}。十月革命後に勃発した[[ロシア内戦]]は{{sfn|ロシア内戦の開始時期については、 など歴史家によって見解が異なる。}}、ボリシェヴィキ派の赤軍と反ボリシェヴィキ派の[[白軍]]との間の戦争であっただけでなく、ロシア国境地帯における民族間紛争をも包含するものであり、また旧ロシア帝国領全域で農民を中心とした[[緑軍]]が赤軍と白軍の両者に敵対した{{sfn|Service|2000|pp=391–392}}。

白軍は旧ロシア帝国軍将校により組織され{{sfn|Read|2005|p=205}}、ロシア南部を拠点とする[[アントーン・デニーキン]]の義勇軍{{sfnm|1a1=Shub|1y=1966|1p=355|2a1=Leggett|2y=1981|2p=204|3a1=Rice|3y=1990|3pp=173, 175|4a1=Volkogonov|4y=1994|4p=198|5a1=Service|5y=2000|5pp=357, 382|6a1=Read|6y=2005|6p=187}}、シベリアを拠点とする[[アレクサンドル・コルチャーク]]の軍{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=334, 343, 357|2a1=Leggett|2y=1981|2p=204|3a1=Service|3y=2000|3pp=382, 392|4a1=Read|4y=2005|4pp=205–206}}、新たに独立を獲得したバルト諸国に拠点を置く[[ニコライ・ユデーニチ]]の軍などによって構成された{{sfnm|1a1=Leggett|1y=1981|1p=204|2a1=Read|2y=2005|2p=206}}。白軍は、1918年5月に[[チェコ軍団]]がボリシェヴィキに対して反乱を起こし、その後反ボリシェヴィキ派の政府である「[[憲法制定議会議員委員会]](コムーチ)」と同盟を結んだことで鼓舞された{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=288–289|2a1=Pipes|2y=1990|2pp=624–630|3a1=Service|3y=2000|3p=360|4a1=White|4y=2001|4pp=161–162|5a1=Read|5y=2005|5p=205|6a1=Hickey|6y=2011|6p=458}}。社会革命党員によって1918年6月に[[サマーラ]]で結成されたコムーチは、ボリシェヴィキによって強制的に解散させられた憲法制定議会の名を冠し、自らがロシアの正当な政府であると主張した。さらに白軍は、ブレスト=リトフスク条約の締結を裏切り行為と捉え、またボリシェヴィキが提唱する世界革命の勃発を恐れる[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]諸政府から支援を受けた{{sfn|Fischer|1964|pp=262–263}}。

ボリシェヴィキの軍隊である[[赤軍|労働者・農民赤軍]](以下、赤軍)は1918年1月に創立され、当初は志願兵によって構成される脆弱な軍事組織であったが、軍事人民委員であるレフ・トロツキーの尽力によって強化された{{sfn|McCauley|1980|p=XXVIII}}。1918年9月、トロツキーはレーニンの支援のもとで[[共和国革命軍事会議|革命軍事会議]]を創設し、その議長に就任した(トロツキーは1925年まで同職に留まった){{sfnm|1a1=Pipes|1y=1990|1pp=610, 612|2a1=Volkogonov|2y=1994|2p=198}}。レーニンは、旧ロシア帝国軍の将校が有する貴重な軍事的技能を認識し、彼らを赤軍へと編入することに同意したが、その活動はトロツキーが設立した革命軍事会議によって常に監視されることとなった{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=337|2a1=Pipes|2y=1990|2pp=609, 612, 629|3a1=Volkogonov|3y=1994|3p=198|4a1=Service|4y=2000|4p=383|5a1=Read|5y=2005|5p=217}}。赤軍がロシアの二大都市であるモスクワとペトログラード、および{{仮リンク|大ロシア|en|Great Russia}}の大部分を支配下に置いていたのに対し、白軍は主に旧ロシア帝国領の外周に存在しており{{sfn|Fischer|1964|pp=248, 262}}、一体性に欠け、地理的に分散している点で不利であった{{sfnm|1a1=Pipes|1y=1990|1p=651|2a1=Volkogonov|2y=1994|2p=200|3a1=White|3y=2001|3p=162|4a1=Lee|4y=2003|4p=81}}。反ボリシェヴィキ軍はボリシェヴィキ支持者と見做された者に対して{{ill2|White Terror (Russia)|en|白色テロ (ロシア内戦)|label=白色テロ}}と呼ばれる暴力運動を行ったが、それは国家的承認のもとで行われた赤色テロと比べて多くの場合より自然発生的であった{{sfnm|1a1=Leggett|1y=1981|1p=201|2a1=Pipes|2y=1990|2p=792|3a1=Volkogonov|3y=1994|3pp=202–203|4a1=Read|4y=2005|4p=250}}。白軍と赤軍はともにユダヤ人コミュニティを標的とした攻撃を行ったため、レーニンは公に[[反ユダヤ主義]]を糾弾し、ユダヤ人に対する偏見を煽っているのは{{ill2|資本主義プロパガンダ|en|capitalist propaganda|label=資本主義者によるプロパガンダ}}であると主張した{{sfnm|1a1=Leggett|1y=1981|1p=201|2a1=Volkogonov|2y=1994|2pp=203–204}}。

[[File:VictimOfInternational.jpg|thumb|白軍による反ボリシェヴィキのプロパガンダ用ポスター。赤いローブを身に纏ったレーニンが、擬人化されたロシアを他のボリシェヴィキと共にマルクス像への生贄として捧げる様子が描かれている (1918–1919年頃)]]
1918年7月、元ロシア皇帝[[ニコライ2世]]の一家が進撃中の白軍に救出されることを防ぐため、[[エカテリンブルク]]で[[ロマノフ家の処刑|一家の処刑]]が実行されたことが、[[ヤーコフ・スヴェルドロフ]]によって人民委員会議に報告された{{sfnm|1a1=Shub|1y=1966|1pp=357–358|2a1=Pipes|2y=1990|2pp=781–782|3a1=Volkogonov|3y=1994|3pp=206–207|4a1=Service|4y=2000|4pp=364–365}}。一部の歴史家および伝記作家([[リチャード・パイプス]]、[[ドミトリー・ヴォルコゴーノフ]]など)は、証拠は存在しないものの、処刑の実行がレーニンによって認可されていた可能性が高いとの見解を示している{{sfnm|1a1=Pipes|1y=1990|1pp=763, 770–771|2a1=Volkogonov|2y=1994|2p=211}}。 反対に、ジェームズ・ライアンのような歴史家はそのような見解を信じるべき理由はないと警告している{{sfn|Ryan|2012|p=109}}。処刑を認可したか否かに関わらず、レーニンは[[フランス革命]]における[[ルイ16世]]の処刑を引き合いに出し、元ロシア皇帝一家の殺害を必要不可欠なものであったと評価した{{sfn|Volkogonov|1994|p=208}}。

ブレスト=リトフスク条約の締結後、左翼社会革命党は連立政権から離脱し、ボリシェヴィキは革命の裏切り者であるとの見方を強めていった{{sfn|Pipes|1990|p=635}}。1918年7月、左翼社会革命党員{{ill2|ヤーコフ・ブリュムキン|en|Yakov Blumkin}}が駐露ドイツ大使ヴィルヘルム・フォン・ミルバッハを暗殺したが、その動機は大使暗殺によって引き起こされる外交問題がドイツ帝国に対する革命戦争の再開につながるとの希望であった{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=244|2a1=Shub|2y=1966|2p=355|3a1=Pipes|3y=1990|3pp=636–640|4a1=Service|4y=2000|4pp=360–361|5a1=White|5y=2001|5p=159|6a1=Read|6y=2005|6p=199}}。その後、左翼社会革命党はモスクワでクーデターを起こし、クレムリンを砲撃し、モスクワ市中央郵便局を占拠したが、最終的にトロツキーが率いる軍勢によって制圧された{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=242|2a1=Pipes|2y=1990|2pp=642–644|3a1=Read|3y=2005|3p=250}}。左翼社会革命党の指導者と党員の多くは逮捕・収監されたが、他の反ボリシェヴィキ勢力と比較してより寛大な扱いを受けた{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=244|2a1=Pipes|2y=1990|2p=644|3a1=Volkogonov|3y=1994|3p=172}}。

1919年までに、白軍は3方面すべての前線で劣勢に追いやられ、1920年を迎える頃には赤軍への敗北が確定的となった{{sfnm|1a1=Leggett|1y=1981|1p=184|2a1=Service|2y=2000|2p=402|3a1=Read|3y=2005|3p=206}}。ボリシェヴィキは白軍に勝利したものの、その間に多くの非ロシア系民族が混乱に乗じて国家的独立を推し進めたため、ロシアの領土範囲は縮小していた{{sfn|Hall|2015|p=83}}。北東ヨーロッパ諸国(エストニア、ラトビア、リトアニア、フィンランド等)の場合などには、ソビエト政府はその独立を承認した上で、それぞれと平和条約を締結したが{{sfn|Goldstein|2013|p=50}}、その他の分離独立運動は赤軍によって鎮圧された{{sfn|Hall|2015|p=84}}。赤軍は1921年までにウクライナの民族運動を制圧し、またコーカサスを占領したが、中央アジアでの[[バスマチ蜂起|戦闘]]は1920年代末まで継続した{{sfn|Hall|2015|p=84}}。

ドイツ軍が連合国との休戦協定を結び東部前線から撤退した後、空白となった地域には赤軍とポーランド軍の両者が進出した{{sfn|Davies|2003|pp=26–27}}。新たに独立を獲得したポーランドはソビエト政府と同じくこの地域での領土獲得を望んでおり{{sfn|Davies|2003|pp=27–30}}、1919年2月にはポーランド軍と赤軍の間で最初の衝突が発生し{{sfn|Davies|2003|pp=22, 27}}、両者の争いは[[ポーランド・ソビエト戦争]]へと発展した{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=389|2a1=Rice|2y=1990|2p=182|3a1=Volkogonov|3y=1994|3p=281|4a1=Service|4y=2000|4p=407|5a1=White|5y=2001|5p=161|6a1=Davies|6y=2003|6pp=29–30}}。ソビエト政府がそれまでに経験した抗争とは異なり、ポーランドとの戦争は革命の国外への輸出およびヨーロッパの未来に対して大きな意味合いを持っていた{{sfn|Davies|2003|p=22}}。[[ポーランド軍]]はウクライナに侵攻しており、1920年5月までに[[キエフ]]を占領していた{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=389|2a1=Rice|2y=1990|2p=182|3a1=Volkogonov|3y=1994|3p=281|4a1=Service|4y=2000|4p=407|5a1=White|5y=2001|5p=161}}。ポーランド軍を撤退させることに成功した後、レーニンは赤軍がポーランド本国に侵攻することを要求した。レーニンは、侵攻を実行すればポーランドのプロレタリアートは赤軍を助けるために反乱を起こし、それが全ヨーロッパ的な革命勃発の導火線となることを信じていた{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=391–395|2a1=Shub|2y=1966|2p=396|3a1=Rice|3y=1990|3pp=182–183|4a1=Service|4y=2000|4pp=408–409, 412|5a1=White|5y=2001|5p=161}}。トロツキーら他のボリシェヴィキはレーニンの予想に懐疑的であったものの、ポーランド侵攻には同意した{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=391–395|2a1=Shub|2y=1966|2p=396|3a1=Rice|3y=1990|3pp=182–183|4a1=Service|4y=2000|4pp=408–409, 412|5a1=White|5y=2001|5p=161}}。結果的に、ポーランドのプロレタリアートが反乱を起こすことはなく、赤軍は{{ill2|ワルシャワの戦い (1920年)|en|Battle of Warsaw (1920)|label=ワルシャワの戦い}}でポーランド軍に敗北を喫した{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=391–395|2a1=Shub|2y=1966|2p=396|3a1=Rice|3y=1990|3pp=182–183|4a1=Service|4y=2000|4pp=408–409, 412|5a1=White|5y=2001|5p=161}}。ポーランド軍によって赤軍がロシアまで押し返されると、ソビエト政府は和平を模索し、ポーランドに領土を割譲することを認めた[[ポーランド・ソビエト・リガ平和条約|リガ平和条約]]の締結によって戦争は終結した{{sfnm|1a1=Rice|1y=1990|1p=183|2a1=Volkogonov|2y=1994|2p=388|3a1=Service|3y=2000|3p=412}}。


=== コミンテルンの創設 ===
=== コミンテルンの創設 ===
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1920年7月、ペトログラードの{{仮リンク|スモーリヌイ学院|en|Smolny Institute}}で第2回コミンテルン大会が開会し{{sfnm|1a1=Shub|1y=1966|1p=397|2a1=Service|2y=2000|2p=409}}、大会中レーニンは各国代表団にボリシェヴィキによる権力奪取を再現するよう激励すると共に、社会進化の過程において[[資本主義]]社会の段階は不可避とする自らの長年の見解([[二段階革命論]])を捨て、被植民地支配地域からの代表団に対し資本主義段階を飛ばしてそれぞれの社会を直接社会主義社会へと変革するよう訴えかけた{{sfn|Service|2000|pp=409–410}}。レーニンはこの大会のために『[[共産主義における左翼小児病]]』を著し、イギリスおよびドイツの共産主義政党に見られる、各々の国の議会制度や労働組合への参加を拒否する態度を批判し、革命的目標を達成するためそのような行動を改めるよう要求した{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=415–420|2a1=White|2y=2001|2pp=161, 180–181}}。最終的に、レーニンが予想した[[世界革命]]勃発は実現せず、ハンガリーの共産主義政府は倒され、ドイツのマルクス主義者による蜂起も鎮圧された{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=341|2a1=Shub|2y=1966|2p=396|3a1=Rice|3y=1990|3p=174}}。
1920年7月、ペトログラードの{{仮リンク|スモーリヌイ学院|en|Smolny Institute}}で第2回コミンテルン大会が開会し{{sfnm|1a1=Shub|1y=1966|1p=397|2a1=Service|2y=2000|2p=409}}、大会中レーニンは各国代表団にボリシェヴィキによる権力奪取を再現するよう激励すると共に、社会進化の過程において[[資本主義]]社会の段階は不可避とする自らの長年の見解([[二段階革命論]])を捨て、被植民地支配地域からの代表団に対し資本主義段階を飛ばしてそれぞれの社会を直接社会主義社会へと変革するよう訴えかけた{{sfn|Service|2000|pp=409–410}}。レーニンはこの大会のために『[[共産主義における左翼小児病]]』を著し、イギリスおよびドイツの共産主義政党に見られる、各々の国の議会制度や労働組合への参加を拒否する態度を批判し、革命的目標を達成するためそのような行動を改めるよう要求した{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=415–420|2a1=White|2y=2001|2pp=161, 180–181}}。最終的に、レーニンが予想した[[世界革命]]勃発は実現せず、ハンガリーの共産主義政府は倒され、ドイツのマルクス主義者による蜂起も鎮圧された{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=341|2a1=Shub|2y=1966|2p=396|3a1=Rice|3y=1990|3p=174}}。


=== 新経済政策宗教弾圧 ===
===飢饉と新経済政策 (ネップ)・宗教弾圧===
[[File:Victims of the 1921 famine in Russia.jpg|thumb|left|1921年 - 1922年のロシア飢饉による犠牲者の山積みにされた遺体]]
革命後の列強による干渉戦争や[[ロシア内戦|内戦]]により、ボリシェヴィキ政権は戦時体制を強いられた([[戦時共産主義]])。企業は国有化され、農民からは余剰穀物が徴発された。内戦終了後、レーニンは新経済政策([[ネップ]])と呼ばれる新しい政策を打ちだした。余剰穀物の徴発に代えて食糧税を導入し、税を納めた後の残りは市場で自由に処分することを認めた。一定の範囲内で私的商業も認めた。レーニンはこれを労農同盟の再建として解説する一方、ロシアの現状では[[国家資本主義]]も一歩前進だと主張した<ref>『レーニン全集』第32巻355頁、大月書店</ref>。
[[旱魃]](かんばつ)を一因とする[[ロシア飢饉 (1921年-1922年)|1921年から1922年にかけてのロシア飢饉]]は、1891年 - 1892年以来の深刻な飢饉であり{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=507–508|2a1=Rice|2y=1990|2pp=185–186}}、約500万人の死者を出す結果となった{{sfn|Ryan|2012|p=164}}。ソビエト政府が行った食糧徴発および大量の穀物の国外輸出は、この飢饉に拍車をかけた{{sfn|Volkogonov|1994|pp=343, 347}}。飢饉による被害者を救援するため、アメリカ政府は{{ill2|アメリカ救済管理局|en|American Relief Administration|label=救済管理局}}を設立し、食糧支援を行ったが{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=508|2a1=Shub|2y=1966|2p=414|3a1=Volkogonov|3y=1994|3p=345|4a1=White|4y=2001|4p=172}}、レーニンはこの支援に疑いの目を向け、注意深く監視した{{sfn|Volkogonov|1994|p=346}}。1920年から1921年にかけ、食糧徴発に対する地方の抵抗運動が反ボリシェヴィキを掲げる農民反乱へと発展する事例がロシア各地で発生したが、いずれも政府によって鎮圧された{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=467|2a1=Shub|2y=1966|2p=406|3a1=Volkogonov|3y=1994|3p=343|4a1=Service|4y=2000|4p=425|5a1=White|5y=2001|5p=168|6a1=Read|6y=2005|6p=220|7a1=Ryan|7y=2012|7p=154}}。1921年2月、ペトログラードの労働者がストライキを決行したため、政府は市に戒厳令を敷き、デモを鎮圧するため赤軍を派遣した{{sfnm|1a1=Shub|1y=1966|1pp=406–407|2a1=Leggett|2y=1981|2pp=324–325|3a1=Rice|3y=1990|3p=184|4a1=Read|4y=2005|4p=220|5a1=Ryan|5y=2012|5p=170}}。3月には、[[クロンシュタット]]の水兵が出版・集会の自由や農民からの食糧徴発の停止などを求めてボリシェヴィキ政府に対する[[クロンシュタットの反乱|反乱]]を起こしたが、レーニンは反乱兵が社会革命党および外国の帝国主義者によって煽動されていると宣言し、暴力的な報復措置を要求した{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=469–470|2a1=Shub|2y=1966|2p=405|3a1=Leggett|3y=1981|3pp=325–326|4a1=Rice|4y=1990|4p=184|5a1=Service|5y=2000|5p=427|6a1=White|6y=2001|6p=169|7a1=Ryan|7y=2012|7p=170}}。トロツキーが指揮する赤軍は反乱を3月17日までに鎮圧したが、その過程で数千人の死者を出し、生存者は強制労働収容所に抑留されることとなった{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=470–471|2a1=Shub|2y=1966|2pp=408–409|3a1=Leggett|3y=1981|3pp=327–328|4a1=Rice|4y=1990|app=184–185|5a1=Service|5y=2000|5pp=427–428|6a1=Ryan|6y=2012|6pp=171–172}}。


1921年2月、レーニンは党政治局に対して「[[新経済政策]] (NEP、ネップ) 」を提出し、ボリシェヴィキ幹部の大半にその必要性を納得させた上で、4月には法律として通過させた{{sfnm|1a1=Shub|1y=1966|1p=411|2a1=Rice|2y=1990|2p=185|3a1=Service|3y=2000|3pp=421, 424–427, 429|5a1=Read|5y=2005|5p=264}}。レーニンは『[[食糧税について]]』と題する小冊子の中で新経済政策を解説し、ネップの施行はボリシェヴィキが本来の経済計画へと復帰したことを示すものであり、これまで政府は「[[戦時共産主義]]」という経済政策を内戦によって強いられていたと主張した{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=479–480|2a1=Sandle|2y=1999|2p=155|3a1=Service|3y=2000|3p=430|4a1=White|4y=2001|4pp=170, 171}}。ネップにおいて、ソビエト政府は戦時共産主義の時代(1918年 - 1921年)に実施された産業の完全な国有化を部分的に撤回し、私人が中小規模の事業を営むことを認めた(大規模産業や銀行、外国貿易などは引き続き国家の統制下に置かれた)<ref name="Kenez 2006 47–48">{{cite book|last= Kenez|first= Peter|title= A History of the Soviet Union from the Beginning to the End|url= https://archive.org/details/spacetimecodingt00libg_341|url-access= limited|year= 2006|publisher= Cambridge University Press|location= Cambridge|pages= [https://archive.org/details/spacetimecodingt00libg_341/page/n64 47]–48}}</ref><ref>{{Cite book|last= Ellis |first= Elisabeth Gaynor |author2= Anthony Esler |title = World History; The Modern Era |year= 2007 |publisher= [[Pearson Prentice Hall]] |location= [[Boston]] |isbn= 978-0-13-129973-3 |pages= 483 |chapter= Revolution and Civil War in Russia}}</ref>。さらに農民からの強制的な穀物徴発 ([[:en:Prodrazvyorstka|Prodrazvyorstka]])が廃止され、農産物の現物という形で支払う新たな税 ([[:en:Prodnalog|Prodnalog]])が導入された<ref name="Kenez 2006 47–48"/><ref>{{cite book|last= Service|first= Robert|title= A History of Twentieth-Century Russia|publisher= Harvard University Press|year= 1997|location= Cambridge, MA|pages= 124–125|isbn= 0674403487}}</ref>。また、税を納めた後の残りは市場で自由に処分することを認めた{{sfn|Service|2000|pp=421}}。レーニンはネップを「[[国家資本主義]]」と表現し{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=479|2a1=Shub|2y=1966|2p=412|3a1=Sandle|3y=1999|3p=155|4a1=Ryan|4y=2012|4p=159}}、ロシアの現状では国家資本主義も一歩前進だと主張したが<ref>『レーニン全集』第32巻355頁、大月書店</ref>、多くのボリシェヴィキはこのような政策は社会主義原理への背信であると考えた{{sfnm|1a1=Sandle|1y=1999|1p=151|2a1=Service|2y=2000|2p=422|3a1=White|3y=2001|3p=171}}。
レーニンは少年時代には既に権力と癒着し腐敗していた[[ロシア正教会]]に幻滅していた。マルクス主義的無神論者であり、正教会を反革命の温床とみなしていた。[[1922年]]3月、[[イヴァノヴォ州]][[シューヤ]]で発生した教会財産接収に反対するデモが暴徒化した。死者まで招いたこの事態に憤慨し、[[3月19日]]に[[ロシア正教会]]の弾圧を指示、『これを口実に銃殺できる反動聖職者と反動ブルジョワは多ければ多いほどよい。今こそ奴らに、以後数十年にわたっていかなる抵抗も、それを思うことさえ不可能であると教えてやらねばならない』と厳命した<ref name="iwakami">[http://www.hh.iij4u.or.jp/~iwakami/nakazawa.htm 中沢新一「レーニン礼賛」の驚くべき虚構 ] [[岩上安身]]公式サイト「WEB IWAKAMI」に掲載。「[[諸君!]]」 1997年1月号掲載</ref>。これにより多くの[[主教]]達を処刑し、教会資産の没収が強行された。同様の弾圧は、[[ウクライナ正教会]]、[[グルジア正教会]]など、ロシア正教会以外の[[正教会]]や[[イスラム教]]のモスクに対しても行われた。[[チェーカー]]を動かし、聖職者の処刑と教会資産の没収が強行されていったのである。以降[[グラスノスチ]]まで、[[イコン]]の所持は禁止された。レーニンは後に、「宗教は毒酒である」と言葉を残している。


飢饉中、モスクワ総主教である[[ティーホン]]は正教会に対して飢餓民救済のため不必要な物品を売却するよう呼びかけ、この行動はソビエト政府によって支持されたが{{sfn|Volkogonov|1994|pp=374–375}}、1922年2月に政府はより徹底した措置へと乗り出し、宗教施設が所有する貴重品のすべてを強制的に接収・売却することを命じた{{sfnm|1a1=Volkogonov|1y=1994|1pp=375–376|2a1=Read|2y=2005|2p=251|3a1=Ryan|3y=2012|3pp=176, 177}}。ティーホンは[[聖餐]]に用いられる物品の売却に反対し、他にも多くの聖職者が政府による接収に抵抗したため、暴力的な衝突がもたらされた{{sfnm|1a1=Volkogonov|1y=1994|1p=376|2a1=Ryan|2y=2012|2p=178}}。[[1922年]]3月、[[イヴァノヴォ州]][[シューヤ]]で発生した教会財産接収に反対するデモが暴徒化した。死者まで招いたこの事態に憤慨したレーニンは、[[3月19日]]に[[ロシア正教会]]の弾圧を指示し、『これを口実に銃殺できる反動聖職者と反動ブルジョワは多ければ多いほどよい。今こそ奴らに、以後数十年にわたっていかなる抵抗も、それを思うことさえ不可能であると教えてやらねばならない』と厳命した<ref name="iwakami">[http://www.hh.iij4u.or.jp/~iwakami/nakazawa.htm 中沢新一「レーニン礼賛」の驚くべき虚構 ] [[岩上安身]]公式サイト「WEB IWAKAMI」に掲載。「[[諸君!]]」 1997年1月号掲載</ref>。1922年5月、レーニンは反ボリシェヴィキの聖職者の処刑を命じる布告を発し、その結果として14,000人 – 20,000人が殺害された{{sfnm|1a1=Volkogonov|1y=1994|1pp=376–377|2a1=Read|2y=2005|2p=239|3a1=Ryan|3y=2012|3p=179}}。最も大きな被害を受けたのはロシア正教会であったが、レーニン政権の宗教弾圧は[[カトリック教会|カトリック]]や[[プロテスタント]]の教会、[[ユダヤ教]]のシナゴーグ、[[イスラム教]]のモスクなどにも打撃を与えた{{sfn|Volkogonov|1994|p=381}}。
=== ソビエトの形成とグルジア問題 ===

=== スターリンとの対立・ソ連の形成とグルジア問題===
{{main|グルジア問題}}
{{main|グルジア問題}}
レーニンの健康状態は[[1921年]]後半までに著しく悪化し、聴覚過敏や不眠、慢性的な頭痛などの症状に悩まされるようになった{{sfnm|1a1=Shub|1y=1966|1p=426|2a1=Lewin|2y=1969|2p=33|3a1=Rice|3y=1990|3p=187|4a1=Volkogonov|4y=1994|4p=409|5a1=Service|5y=2000|5p=435}}。1921年7月、党政治局の要求により、モスクワを離れて[[ゴールキ・レーニンスキエ|ゴールキの邸宅]]での1カ月間の静養に入った{{sfnm|1a1=Service|1y=2000|1p=436|2a1=Read|2y=2005|2p=281|3a1=Rice|3y=1990|3p=187}}。レーニンは自殺を考え始め、妻のクルプスカヤとスターリンの両者に自殺用の青酸カリを入手するよう依頼した{{sfnm|1a1=Volkogonov|1y=1994|1pp=420, 425–426|2a1=Service|2y=2000|2p=439|3a1=Read|3y=2005|3pp=280, 282}}。晩年のレーニンの治療のため雇われた医師は26人にのぼり、多額の報酬で招かれた彼らの多くは外国人だった{{sfnm|1a1=Volkogonov|1y=1994|1p=443|2a1=Service|2y=2000|2p=437}}{{#tag:ref|レーニンを診察するため、国外から{{仮リンク|オトフリート・フェルスター|en|Otfrid Foerster}}、{{仮リンク|ゲオルク・クレンペラー|de|Georg Klemperer}}らの著名な脳医学者が高額の報酬で雇われた。|group="注釈"}}。一部の医師は、病因が1918年の暗殺未遂から体内に残る銃弾の金属の[[酸化]]である可能性を指摘し、1922年4月には銃弾を体内から取り除く手術が行われた{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=598–599|2a1=Shub|2y=1966|2p=426|3a1=Service|3y=2000|3p=443|4a1=White|4y=2001|4p=172|5a1=Read|5y=2005|5p=258}}。1922年5月、レーニンは最初の[[脳卒中]]発作を起こし、一時的な会話能力の喪失と右半身の麻痺を生じた{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=600|2a1=Shub|2y=1966|2pp=426–427|3a1=Lewin|3y=1969|3p=33|4a1=Service|4y=2000|4p=443|5a1=White|5y=2001|5p=173|6a1=Read|6y=2005|6p=258}}。その後はゴールキで療養し、7月までにほぼ回復した{{sfnm|1a1=Shub|1y=1966|1pp=427–428|2a1=Service|2y=2000|2p=446}}。10月にはモスクワに戻ったが、12月に2度目の発作を起こし、再びゴールキでの静養生活に入った{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=634|2a1=Shub|2y=1966|2pp=431–432|3a1=Lewin|3y=1969|3pp=33–34|4a1=White|4y=2001|4p=173}}。
[[1921年]]末からレーニンは健康状態を悪化させ、[[1922年]]には何度か発作を起こして職務から離れた<ref>「レーニン 二十世紀共産主義運動の父」(世界史リブレット人73)p84 和田春樹 山川出版社 2017年5月30日1版1刷発行</ref>。その間、各ソヴィエト共和国をどのように構成するかが問題となり、とりわけ[[グルジア]]をめぐって党内に対立が起こっていた。1921年2月に[[グルジア社会主義ソビエト共和国]]が成立して以来、ロシア共産党中央委員会カフカース局がグルジアを[[アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国|アゼルバイジャン]]・[[アルメニア・ソビエト社会主義共和国|アルメニア]]とともに[[ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国|ザカフカース連邦]]として構成しようとする計画を進めたのに対し、グルジア共産党がグルジアの独立性を主張して抵抗していた。


[[File:LeninDistrictMO Gorki estate 05-2017 img2.jpg|thumb|レーニンは晩年の大半をゴールキの邸宅で過ごした。]]
1922年8月に[[ヨシフ・スターリン]]は、各ソビエト共和国が自治共和国としてロシア連邦共和国に加入するという「自治化」案を作成した。レーニンはこれを大ロシア排外主義として批判し、ロシア連邦共和国は他の共和国とともにソビエト同盟に加入するという代案を出した。スターリンはレーニンの「民族自由主義」に不満を述べたが、修正案を受け入れ、同年10月のロシア共産党中央委員会総会ではレーニンの代案にそった決議を通過させた<ref>「レーニン 二十世紀共産主義運動の父」(世界史リブレット人73)p86-87 和田春樹 山川出版社 2017年5月30日1版1刷発行</ref>。


病状は悪化していたものの、レーニンは政治的動向に強い関心を持ち続けた。1922年6月 - 8月に行われた裁判において社会革命党の指導者らがソビエト政府への謀反を企てたことが認定されると、レーニンは有罪となった者たちを処刑するよう要求した(彼らは実際には無期限の懲役刑に処されたが、のちにスターリンの指導下で行われた[[大粛清]]によって処刑された){{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=600–602|2a1=Shub|2y=1966|2pp=428–430|3a1=Leggett|3y=1981|3p=318|4a1=Sandle|4y=1999|4p=164|5a1=Service|5y=2000|5pp=442–443|6a1=Read|6y=2005|6p=269|7a1=Ryan|7y=2012|7pp=174–175}}。レーニンは帝政時代の官僚体制がソビエト・ロシアに引き継がれていることに懸念を抱いており{{sfnm|1a1=Lewin|1y=1969|1pp=8–9|2a1=White|2y=2001|2p=176|3a1=Read|3y=2005|3pp=270–272}}、晩年には特にその思いを強めた{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=578|2a1=Rice|2y=1990|2p=189}}。
しかしこの決議でグルジアはザカフカーズ連邦を通じてソビエト同盟に加入することになっていたため、グルジア共産党は拒否し、中央委員会のメンバーが総辞職した。11月にはロシア共産党の[[グリゴリー・オルジョニキーゼ|オルジョニキーゼ]]が独立派のグルジア共産党員を殴るという事件が起こる。病床にあったレーニンはこれを重大なことと受け止め、オルジョニキーゼやその後ろだてとなっていたスターリンを非難した。[[12月31日]]に口述筆記された覚え書きで、彼は「抑圧民族、すなわち、いわゆる『強大』民族にとっての国際主義とは、諸民族の形式的平等を守るだけで無く、生活のうちに現実に生じている不平等に対する抑圧民族・大民族の償いとなるような不平等をしのぶことでなければならない」と記した。
[[ファイル:Lenin and stalin crop.jpg|thumb|200px|right|1922年、スターリンと]]
この問題をきっかけにレーニンとスターリンの関係は極度に悪化し、レーニンは[[1923年]][[1月4日]]の「大会への手紙」(いわゆる『[[:w:Lenin's Testament|レーニンの遺書]]』)の覚え書きでスターリンの書記長職からの解任を提案するに至った。[[3月5日]]にはトロツキーにグルジア問題への取り組みを依頼し(トロツキーは病気を理由に拒否)、[[3月6日]]にグルジアの反対派に向けて「あなたがたのために覚え書きと演説を準備中です」という手紙を口述した。しかし[[3月10日]]に発作に襲われて右半身が麻痺し、会話能力と共に筆記能力を永久に失った<ref>「レーニン 二十世紀共産主義運動の父」(世界史リブレット人73)p100 和田春樹 山川出版社 2017年5月30日1版1刷発行</ref>。


レーニンが不在の間、スターリンは自らの支持者を要職に任命するとともに、自身はレーニンに最も近しい盟友であり、その後継者にふさわしい人物とのイメージを築くことで権力基盤を固め始めていた{{sfnm|1a1=Shub|1y=1966|1pp=426, 434|2a1=Lewin|2y=1969|2pp=34–35}}{{sfn|Volkogonov|1994|pp=263–264}}。スターリンは1922年12月に党政治局によってレーニンの治療計画の責任者に任命され、彼が他者と面会することを監督する役割を与えられたが{{sfnm|1a1=Lewin|1y=1969|1p=70|2a1=Rice|2y=1990|2p=191|3a1=Volkogonov|3y=1994|3pp=273, 416}}、実際にはこの時期に両者の関係は悪化した。1922年の半ば、レーニンが外国貿易の国家独占を維持すべきと主張したのに対し、スターリンは他のボリシェヴィキを率いてそれに反対することを試みたため、レーニンはスターリンに対して次第に批判的になった{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=635|2a1=Lewin|2y=1969|2pp=35–40|3a1=Service|3y=2000|3pp=451–452|4a1=White|4y=2001|4p=173}}。1922年末にはスターリンがクルプスカヤ(レーニンの妻)を電話での会話中に面罵し、それに激怒したレーニンが不快感を表した手紙をスターリンに送りつけるなど、両者には私的な衝突もあった{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=637–638, 669|2a1=Shub|2y=1966|2pp=435–436|3a1=Lewin|3y=1969|3pp=71, 85, 101|4a1=Volkogonov|4y=1994|4pp=273–274, 422–423|5a1=Service|5y=2000|5pp=463, 472–473|6a1=White|6y=2001|6pp=173, 176|7a1=Read|7y=2005|7p=279}}。
=== 死 ===
[[ファイル:Lenin-last-photo.jpg|thumb|200px|right|生前最後に撮られた写真(1923年夏)。右手が後遺症のために内側に曲がっている]]
レーニンは暗殺未遂の後遺症と戦争と革命の激務によって次第に健康を害していき、[[1922年]]3月頃から[[一過性脳虚血発作]]とみられる症状が出始める。5月に最初の発作を起こして右半身に麻痺が生じ、医師団は脳卒中と診断して休養を命じた。8月には一度復帰するものの11月には演説がうまくできなくなり、再び休養を命じられる。さらに12月の2度目の発作の後に病状が急速に悪化し、[[ソ連共産党政治局|政治局]]は彼に静養を命じた。スターリンは他者がレーニンと面会するのを避けるために監督する役に就いた。こうしてレーニンの政権内における影響力は縮小していった。


レーニンとスターリンの最大の政治的対立は「[[グルジア問題]]」をめぐって発生した。1921年2月に[[グルジア社会主義ソビエト共和国]]が成立して以来、ロシア共産党中央委員会カフカース局がグルジアを[[アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国|アゼルバイジャン]]・[[アルメニア・ソビエト社会主義共和国|アルメニア]]とともに[[ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国|ザカフカース連邦]]として構成しようとする計画を進めたのに対し、グルジア共産党がグルジアの独立性を主張して抵抗していた。1922年8月、スターリンは各ソビエト共和国が自治共和国としてロシア連邦共和国に加入するという「自治化」案を作成した。レーニンはそれをスターリンとその支持者らによる大ロシア排外主義の表れであると批判し、代案としてロシアがグルジアなどと共により大きな1つの連邦国家を構成することを求め、そのような国家の名称として「ヨーロッパ・アジア・ソビエト共和国連邦」を提示した{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=608|2a1=Lewin|2y=1969|2p=50|3a1=Leggett|3y=1981|3p=354|4a1=Volkogonov|4y=1994|4p=421|5a1=Service|5y=2000|5p=455|6a1=White|6y=2001|6p=175}}。スターリンはレーニンの「民族自由主義」に不満を述べたが、代案を受け入れ、同年10月のロシア共産党中央委員会総会ではレーニン案にそった決議を通過させた<ref>「レーニン 二十世紀共産主義運動の父」(世界史リブレット人73)p86-87 和田春樹 山川出版社 2017年5月30日1版1刷発行</ref>。ただし、スターリンはレーニンの同意を得た上で新国家の名称を「ソビエト社会主義共和国連邦(ソビエト連邦)」へと変更させた{{sfn|Service|2000|pp=455, 456}}。1922年12月30日、新国家の形成が[[ソビエト大会 (ソビエト連邦)|ソビエト大会]]によって正式に承認され、[[ソビエト連邦]](以下ソ連)が成立した{{sfnm|1a1=Lewin|1y=1969|1pp=40, 99–100|2a1=Volkogonov|2y=1994|2p=421|3a1=Service|3y=2000|3pp=460–461, 468}}。レーニンは病床にあったが、新設されたソ連政府の長に任命された{{sfn|Rigby|1979|p=221}}。
モスクワ郊外のゴールキ(現在の[[ゴールキ・レーニンスキエ]])の別荘でレーニンは静養生活に入った。レーニンを診察するために、国外から{{仮リンク|オトフリート・フェルスター|en|Otfrid Foerster}}、{{仮リンク|ゲオルク・クレンペラー|de|Georg Klemperer}}らの著名な脳医学者が高額の報酬で雇われ、鎮静剤として[[臭化カリウム]]などが投与された。レーニンは、症状が軽いうちは口述筆記で政治局への指示などを伝えることができたが、政治局側はもはや文書を彼の元に持ち込むことは無く、彼の療養に関する要求はほとんどが無視された。[[ナデジダ・クルプスカヤ|クルプスカヤ]]がスターリンに面罵されたことを知って彼に詰問の手紙を書いた直後の[[1923年]][[3月6日]]に3度目の発作が起きるとレーニンは[[失語症]]のためにもはや話すことも出来ず、ほとんど廃人状態となり、[[1924年]][[1月20日]]に4度目の発作を起こして翌[[1月21日]]に死去した。


他方、10月の決議でグルジアはザカフカーズ連邦を通じてソに加入することになっていたため、グルジア共産党はこの決定を拒否し、中央委員会のメンバーが総辞職した。11月にはロシア共産党の[[グリゴリー・オルジョニキーゼ|オルジョニキーゼ]]が独立派のグルジア共産党員を殴るという事件が起こる。病床にあったレーニンはこれを重大なことと受け止め、オルジョニキーゼやその後ろだてとなっていたスターリンを非難した。[[12月31日]]に口述筆記された覚え書きで、彼は「抑圧民族、すなわち、いわゆる『強大』民族にとっての国際主義とは、諸民族の形式的平等を守るだけで無く、生活のうちに現実に生じている不平等に対する抑圧民族・大民族の償いとなるような不平等をしのぶことでなければならない」と記した。
レーニンの死因公式は[[大脳]][[アテローム]]性[[動脈硬化]]症伴う[[脳梗塞]]とされている。彼を診察した27人の内科医のうち、検報告書に署名をしたのは8人だったこと[[梅毒]]罹患説根拠なったが、実際は署名をなかった医師は単に他の死因を主張しただけであっ、結局この種の説を唱えた医師は1人みだった。フェルスターらが立ち会って死の翌日に行われた病理解剖では、[[椎骨動脈]]、[[脳底動脈]]、[[内頸動脈]]、[[前大脳動脈]]、頭蓋内左[[頸動脈]]、左[[中大脳動脈|シルビウス動脈]]の硬化・閉塞が認められ、左脳の大半は壊死して空洞ができていた。また、心臓などの[[循環器]]にも強い動脈硬化が確認されている<ref>[[小長谷正明]]『ヒトラーの震え 毛沢東の摺り足―神経内科からみた20世紀』、[[中公新書]]、1999年 P.41-46</ref>。なお、レーニンの父イリヤ、姉アンナ、弟[[ドミトリー・イリイチ・ウリヤノフ|ドミトリー]]いずれも脳出血により死去していることから、レーニンの動脈硬化は遺伝的要素が強いと考えられている(革命家としてのストレスに拍車をかけた


1922年12月から1923年1月にかけ、レーニンは同志のボリシェヴィキ、特にトロツキーとスターリンの個人的資質について論じた、いわゆる「{{ill2|レーニンの遺書|en|Lenin's Testament|ru|Письмо к съезду}}」を口述筆記させた{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=638–639|2a1=Shub|2y=1966|2p=433|3a1=Lewin|3y=1969|3pp=73–75|4a1=Volkogonov|4y=1994|4p=417|5a1=Service|5y=2000|5p=464|6a1=White|6y=2001|6pp=173–174}}。レーニンはこの文書の中で、スターリンは党書記長として不適格であり、その地位から解任されるべきと述べ{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=647|2a1=Shub|2y=1966|2pp=434–435|3a1=Rice|3y=1990|3p=192|4a1=Volkogonov|4y=1994|4p=273|5a1=Service|5y=2000|5p=469|6a1=White|6y=2001|6pp=174–175|7a1=Read|7y=2005|7pp=278–279}}、トロツキーについては「現在の党中央委員会において最も有能な男」と評価する一方で、自己を過信し、過度に行政的な傾向があることを批判した{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=640|2a1=Shub|2y=1966|2pp=434–435|3a1=Volkogonov|3y=1994|3pp=249, 418|4a1=Service|4y=2000|4p=465|5a1=White|5y=2001|5p=174}}。1923年[[3月5日]]にはトロツキーにグルジア問題への取り組みを依頼し(トロツキーは病気を理由に拒否)、[[3月6日]]にグルジアの反対派に向けて「あなたがたのために覚え書きと演説を準備中です」という手紙を口述した。しかし[[3月10日]]に発作に襲われて右半身が麻痺し、会話能力と共に筆記能力を失った<ref>「レーニン 二十世紀共産主義運動の父」(世界史リブレット人73)p100 和田春樹 山川出版社 2017年5月30日1版1刷発行</ref>。
== 死後 ==
葬儀は[[1月27日]]にスターリンが中心となって挙行され、葬儀は26日に行う、というスターリンが送った偽情報によりモスクワを離れていたトロツキーは、参列することができなかった。


=== 死と葬儀 ===
レーニンの遺体は死後程無く[[エンバーミング|保存処理]]され、[[モスクワ]]の[[レーニン廟]]に現在も永久展示されている。その遺体保存手段については長らく不明のままで、「[[剥製]]である」という説や「[[蝋人形]]ではないか」という説も語られていた。
[[ファイル:Lenin-last-photo.jpg|thumb|right|生前最後に撮られた写真(1923年夏)。右手が後遺症のために内側に曲がっている]]
[[File:Lenin's funerals by I.Brodsky (1925) detail 01.jpg|thumb|レーニンの葬儀を描いた1925年の作品(イサーク・ブロツキー作)]]
[[File:Mauzoleumlenina_(cropped).jpeg|thumb|モスクワ・赤の広場の[[レーニン廟]]]]
1923年3月、レーニンは3度目の脳卒中発作に見舞われ、発話能力を失った{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=671|2a1=Shub|2y=1966|2p=436|3a1=Lewin|3y=1969|3p=103|4a1=Leggett|4y=1981|4p=355|5a1=Rice|5y=1990|5p=193|6a1=White|6y=2001|6p=176|7a1=Read|7y=2005|7p=281}}。同月には右半身の部分的麻痺と{{ill2|感覚性失語|en|Receptive aphasia}}の症状が現れていた{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=671|2a1=Shub|2y=1966|2p=436|3a1=Volkogonov|3y=1994|3p=425|4a1=Service|4y=2000|4p=474|5a1=Lerner|5a2=Finkelstein|5a3=Witztum|5y=2004|5p=372}}。その後、5月までに緩やかな回復の兆しを見せ、運動と発話、筆記の能力を一部取り戻し{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=672|2a1=Rigby|2y=1979|2p=192|3a1=Rice|3y=1990|3pp=193–194|4a1=Volkogonov|4y=1994|4pp=429–430}}、10月にはクレムリンへの生前最後の訪問を行った{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=672|2a1=Shub|2y=1966|2p=437|3a1=Volkogonov|3y=1994|3p=431|4a1=Service|4y=2000|4p=476|5a1=Read|5y=2005|5p=281}}。最期の数週間、レーニンは同志である[[グリゴリー・ジノヴィエフ|ジノヴィエフ]]、[[レフ・カーメネフ|カーメネフ]]、[[ニコライ・ブハーリン|ブハーリン]]の訪問を受け、中でもブハーリンはレーニンの死の当日にゴールキの邸宅を訪れていた{{sfnm|1a1=Rice|1y=1990|1p=194|2a1=Volkogonov|2y=1994|2p=299|3a1=Service|3y=2000|3pp=477–478}}。


1924年1月21日、レーニンは昏睡状態陥り、そまま同日中に死した{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=673–674|2a1=Shub|2y=1966|2p=438|3a1=Rice|3y=1990|3p=194|4a1=Volkogonov|4y=1994|4p=435|5a1=Service|5y=2000|5pp=478–479|6a1=White|6y=2001|6p=176|7a1=Read|7y=2005|7p=269}}レーニン公式な死因「血管不治の病」として記録され{{sfnm|1a1=Volkogonov|1y=1994|1p=435|2a1=Lerner|2a2=Finkelstein|2a3=Witztum|2y=2004|2p=372}}。脳神経外科医の{{仮リンク|オトフリート・フェルスター|en|Otfrid Foerster}}らが立ち会って死の翌日に行われた病理解剖では、[[椎骨動脈]]、[[脳底動脈]]、[[内頸動脈]]、[[前大脳動脈]]、頭蓋内左[[頸動脈]]、左[[中大脳動脈|シルビウス動脈]]の硬化・閉塞が認められ、左脳の大半は壊死して空洞ができていた。また、心臓などの[[循環器]]にも強い動脈硬化が確認され<ref>[[小長谷正明]]『ヒトラーの震え 毛沢東の摺り足―神経内科からみた20世紀』、[[中公新書]]、1999年 P.41-46</ref>。歴史家[[ドミトリー・ヴォルコゴーノフ]]は、レーニンの父イリヤ、姉アンナ、弟[[ドミトリー・イリイチ・ウリヤノフ|ドミトリー]]いずれも脳出血により死去していることから、レーニンの動脈硬化は遺伝性疾患であり、権力獲得後重圧によるストレスの悪化に拍車をかけたと主張している{{sfn|Volkogonov|1994|p=435}}
[[ソビエト連邦の崩壊]]後、[[1930年代]]から[[1950年代]]にレーニンの遺体管理に携わった経験のある科学者[[イリヤ・ズバルスキー]]が自身の著作で公表したところによれば、実際には臓器等を摘出の上、[[ホルムアルデヒド]]溶液を主成分とする「香油液」なる[[防腐剤]]を浸透させたもので、1年半に1回の割合で遺体を香油液漬けにするケアで現在まで遺体を保存しているという<ref>[http://englishrussia.com/?p=659 実際に処理している画像]</ref>。

翌1月22日、ソビエト政府はレーニンの死を公表した{{sfn|Rice|1990|p=7}}。23日には共産党、各労働組合、各ソヴィエトからの会葬者がゴールキの邸宅を訪れ、レーニンの遺体が入った赤い棺をボルシェヴィキの指導者らが担いで運び出した{{sfn|Rice|1990|pp=7–8}}。その後、レーニンの棺はモスクワまで列車で移送され、{{ill2|労働組合会館 (モスクワ)|label=労働組合会館|ru|Дом Союзов}}へと運び込まれ、その場で{{ill2|正装安置|en|lying in state}}された{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=674|2a1=Shub|2y=1966|2p=439|3a1=Rice|3y=1990|3pp=7–8|4a1=Service|4y=2000|4p=479}}。その後の3日間、レーニンの遺体を見るため労働組合会館には100万人近くの哀悼者が訪れた(その多くは厳しい寒さの中で何時間も列に並んだ){{sfn|Rice|1990|p=9}}。1月26日に開催された全連邦ソビエト大会ではレーニンへの敬意が示され、スターリン、カリーニン、ジノヴィエフによる演説が行われた{{sfn|Rice|1990|p=9}}。トロツキーは当時コーカサスで病後療養しており、この大会には出席しなかった。のちにトロツキーは、レーニンの葬儀についてスターリンが誤った日付を電報で送ったことにより、それに間に合うようモスクワに戻ることができなかったと主張した{{sfn|''History'', April 2009}}。

葬儀は1月27日に挙行され、レーニンの遺体は軍歌が演奏される中で[[赤の広場]]まで運ばれ、集まった群衆の前で一連の演説が行われた後、特別に用意された霊廟の内部に安置された{{sfnm|1a1=Shub|1y=1966|1p=439|2a1=Rice|2y=1990|2p=9|3a1=Service|3y=2000|3pp=479–480}}。葬儀は厳しい寒さの中で行われたが、参列者は数万人にのぼった{{sfn|Volkogonov|1994|p=440}}。妻であるクルプスカヤの抗議にもかかわらず、レーニンの遺体は長期間の展示に耐えるよう[[エンバーミング|保存処理]]が施された上で、赤の広場の霊廟で一般公開された{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=674|2a1=Shub|2y=1966|2p=438|3a1=Volkogonov|3y=1994|3pp=437–438|4a1=Service|4y=2000|4p=481}}。

レーニンの遺体は[[モスクワ]]の[[レーニン廟]]に現在も永久展示されている。その遺体保存手段については長らく不明のままで、「[[剥製]]である」という説や「[[蝋人形]]ではないか」という説も語られていた。[[ソビエト連邦の崩壊]]後、[[1930年代]]から[[1950年代]]にレーニンの遺体管理に携わった経験のある科学者[[イリヤ・ズバルスキー]]が自身の著作で公表したところによれば、実際には臓器等を摘出の上、[[ホルムアルデヒド]]溶液を主成分とする「香油液」なる[[防腐剤]]を浸透させたもので、1年半に1回の割合で遺体を香油液漬けにするケアで現在まで遺体を保存しているという<ref>[http://englishrussia.com/?p=659 実際に処理している画像]</ref>。


なおロシア連邦政府は[[ボリス・エリツィン|エリツィン]]の頃より、遺体を埋葬しようと何度も計画しているが、その都度国内の猛反対に遭って撤回されている。ロシア国民にとっては良くも悪くも近代ロシアの父と見る節があり、また根強い共産党及びソビエト政権への支持層からの反対が大きく、[[クレムリン]]の壁と霊廟に「強いロシア」のイメージを重ねる者も多い。[[2012年]]12月に大統領の[[ウラジミール・プーチン]]はレーニン廟を[[聖遺物]]に準えて保存を主張した<ref>{{citenews|url=http://jp.rbth.com/articles/2012/12/17/40459 |title=レーニンは赤の広場にとどまるべき|publisher=[[ロシア新聞|ロシアNOW]] |date=2012年12月17日 |accessdate=2015年11月20日}}</ref>。また、2019年4月には現代政治問題研究所の所長であるアントン・オルロフがロシア中央選挙管理委員会に、レーニンの遺体埋葬に関する国民投票の実施を提案する書簡を送ったことが報じられた<ref>{{citenews|url=http://jp.sputniknews.com/amp/russia/201904226161835 |title=ロシアで、レーニンの遺体埋葬に関する国民投票の実施が提案される|publisher=[[スプートニク (通信社)|スプートニク日本]]|date=2019年4月22日 |accessdate=2019年4月27日}}</ref>。
なおロシア連邦政府は[[ボリス・エリツィン|エリツィン]]の頃より、遺体を埋葬しようと何度も計画しているが、その都度国内の猛反対に遭って撤回されている。ロシア国民にとっては良くも悪くも近代ロシアの父と見る節があり、また根強い共産党及びソビエト政権への支持層からの反対が大きく、[[クレムリン]]の壁と霊廟に「強いロシア」のイメージを重ねる者も多い。[[2012年]]12月に大統領の[[ウラジミール・プーチン]]はレーニン廟を[[聖遺物]]に準えて保存を主張した<ref>{{citenews|url=http://jp.rbth.com/articles/2012/12/17/40459 |title=レーニンは赤の広場にとどまるべき|publisher=[[ロシア新聞|ロシアNOW]] |date=2012年12月17日 |accessdate=2015年11月20日}}</ref>。また、2019年4月には現代政治問題研究所の所長であるアントン・オルロフがロシア中央選挙管理委員会に、レーニンの遺体埋葬に関する国民投票の実施を提案する書簡を送ったことが報じられた<ref>{{citenews|url=http://jp.sputniknews.com/amp/russia/201904226161835 |title=ロシアで、レーニンの遺体埋葬に関する国民投票の実施が提案される|publisher=[[スプートニク (通信社)|スプートニク日本]]|date=2019年4月22日 |accessdate=2019年4月27日}}</ref>。
{{試聴
|filename =Lenin - What Is Soviet Power.ogg
|title =File:Lenin - What Is Soviet Power.ogg
|description =レーニンの演説
}}


== 筆名 ==
== 評価 ==
[[File:Lenin-statue-in-Berlin.jpg|thumb|upright|[[東ベルリン]]にかつて存在したレーニン像(1992年に撤去) ]]
ウラジーミル・ウリヤノフが恐らくシベリアの[[レナ川]]に由来する「レーニン」という筆名を初めて使用したのは[[1901年]]12月であった{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=4–5|2a1=Service|2y=2000|2p=137|3a1=Read|3y=2005|3p=44|4a1=Rappaport|4y=2010|4p=66}}。ウリヤノフは他にも複数の偽名を使用していたが、『[[何をなすべきか]]』を「レーニン」の筆名で発表して以降、他のマルクス主義者からこの名前で広く認知されるようになった{{sfn|Service|2000|pp=137–139}}。ウリヤノフはしばしば「N・レーニン({{lang|ru|Н. Ленин}})」という形でこの名を用い、イニシャルの「N」は実際には無意味であったが、のちにこれが「ニコライ」を示すとする誤解が一般的に広まった{{sfnm|1a1=Rappaport|1y=2010|1p=66|2a1=Lih|2y=2011|2pp=8–9}}。なお、一般的に「ウラジーミル・イリイチ・レーニン」という名前の表記も用いられるが、本人自らがそのように署名した例はない{{sfn|Lih|2011|pp=8–9}}。
[[ファイル:Lenin head transparent.png|thumb|200px|ソ連のプロパガンダにおけるレーニンの横顔]]
レーニンの政権は約70年にわたりロシアを支配することとなる政体の枠組みを築き、それは後発の共産党国家にとっての模範ともなった{{sfn|Service|2000|p=391}}ため、その影響は全世界に及んでいる{{sfn|Volkogonov|1994|p=259}}。[[ドミトリー・ヴォルコゴーノフ]]はレーニンを評して「史上あれほどの規模で、あのように巨大な社会をあれほどに大きく変革した人物はほとんど存在しない」と述べている{{sfn|Volkogonov|1994|p=326}}。
歴史学者{{仮リンク|アルバート・レシス|en|Albert Resis}}は、20世紀で最も重要な出来事を十月革命とみなす場合、レーニンは「善かれ悪しかれ、今世紀で最も重要な政治指導者として扱われなければならない」と指摘している<ref name="EB">{{cite encyclopedia |title=Vladimir Ilich Lenin |encyclopedia=Encyclopædia Britannica |author=Albert Resis |url=http://www.britannica.com/EBchecked/topic/335881/Vladimir-Ilich-Lenin |accessdate=4 February 2016 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150619112253/http://www.britannica.com/biography/Vladimir-Ilich-Lenin |archivedate=19 June 2015}}</ref>。[[ロバート・サーヴィス]]は一般にレーニンは20世紀における「主要人物 (principal actor)」の1人と扱われているとしており{{sfn|Service|2000|p=488}}、同様にクリストファー・リードも「最も広く知られ、全世界的に認識される20世紀の象徴的人物の1人」とレーニンを評している{{sfn|Read|2005|p=283}}。アメリカの雑誌『[[タイム (雑誌)|タイム]]』はレーニンを 「20世紀で最も重要な100人」にリストしているほか<ref name="TIME 100: Vladimir Lenin">{{cite web |url=http://205.188.238.181/time/time100/leaders/profile/lenin.html |title=TIME 100: Vladimir Lenin |author=David Remnick |date=13 April 1998 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110425120012/http://205.188.238.181/time/time100/leaders/profile/lenin.html |archivedate=25 April 2011|accessdate=6 March 2020 |url-status=dead}}</ref>、歴史上の象徴的政治家の上位25名にも選出している<ref name="Top 25 Political Icons: Lenin">{{cite news|url=http://www.time.com/time/specials/packages/article/0,28804,2046285_2045996_2046096,00.html |title=Top 25 Political Icons: Lenin |author=Feifei Sun |website=Time |date=4 February 2011 |accessdate=4 February 2016 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150114032814/http://content.time.com/time/specials/packages/article/0%2C28804%2C2046285_2045996_2046096%2C00.html |archivedate=14 January 2015 |url-status=dead |df= }}</ref>。


レーニンの政権は多くの歴史学者や伝記作家によって[[全体主義]]体制、あるいは[[警察国家]]と表現され{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=516|2a1=Shub|2y=1966|2p=415|3a1=Leggett|3y=1981|3p=364|4a1=Volkogonov|4y=1994|4pp=307, 312}}{{sfn|Leggett|1981|p=364}}、また一党独裁体制であったと評されている{{sfnm|1a1=Lewin|1y=1969|1p=12|2a1=Rigby|2y=1979|2pp=x, 161|3a1=Sandle|3y=1999|3p=164|4a1=Service|4y=2000|4p=506|5a1=Lee|5y=2003|5p=97|6a1=Read|6y=2005|6p=190|7a1=Ryan|7y=2012|7p=9}}。一部の学者はレーニンを[[独裁者]]と形容しているが{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=417|2a1=Shub|2y=1966|2p=416|3a1=Pipes|3y=1990|3p=511|4a1=Pipes|4y=1996|4p=3|5a1=Read|5y=2005|5p=247}}、歴史家ジェームズ・ライアンはレーニンが「一切の提案が承認され、実行されるという意味の独裁者ではなかった」と述べ、党員がレーニンの意見に異議を唱えることも多かったと指摘している{{sfn|Ryan|2012|p=1}}。同様に、{{仮リンク|ルイス・フィッシャー|en|Louis Fischer}}も「レーニンは一種の独裁者であったが、のちにスターリンがなったような種類の独裁者ではなかった」と述べている{{sfn|Fischer|1964|p=524}}。ヴォルコゴーノフも、レーニンは「党による独裁」を確立したが、ソビエト連邦の政体が「1人の男による独裁」に変化したのはスターリンの時代になってからであったとの見解を示している{{sfn|Volkogonov|1994|p=313}}。一方でヴォルコゴーノフは、国家的暴力が共産主義社会の実現には不可欠と信じ、[[チェーカー]]([[秘密警察]])や[[グラグ]]([[強制収容所]])などのシステムを創設したレーニンを「不寛容という全体主義的イデオロギーの生みの親」と評している{{sfn|Volkogonov|1994|p=xxxviii}}。
「レーニン」という名前の由来には諸説あり、自身が送られた流刑地の近くを流れていたのがレナ川だったからという説がしばしば挙げられるが、彼のいた[[シュシェンスコエ]]の側を流れていたのは[[エニセイ川]]であり、実際にレナ川を訪れたことは一度もなかった<ref>{{Cite book|和書 |author = [[和田春樹]] |year = 2017 |title = レーニン 二十世紀共産主義運動の父(世界史リブレット人73) |publisher = [[山川出版社]] |page = 4 |isbn = 978-4-63-435073-1}}</ref>。レナ川中流の[[レンゾロト金鉱]]で、待遇の改善を求めて[[ストライキ]]を起こした鉱山労働者たちを動員された軍が虐殺した[[レナ虐殺事件]]が起こり、これに抗議し犠牲になった労働者を弔う意味を込めたという説もあるが、事件が発生したのは1912年4月であり、時系列が合わない。同志であった[[プレハーノフ]]の使っていた多数の偽名の中に、[[ヴォルガ川]]にちなんだ「ヴォルギン」があったが、彼と対立したレーニンは、ヴォルガ川より流れの勢いが強いレナ川を引用したという説もある。しかし、両者の対立はレーニンの名を用いた時点ではまだ起きていなかったため、いずれも信憑性には疑問がある。

レーニン死後のボリシェヴィキの党内闘争では、対立する諸派はいずれもレーニンの忠実な後継者としてふるまった。スターリン派は[[マルクス・レーニン主義]]を体系化し、トロツキー派は[[ボリシェヴィキ・レーニン主義]]を標榜した。その過程で特にスターリン派によってレーニンは神格化されていった。[[スターリン批判]]によりスターリンの権威が落ちた後も、レーニンの権威はほとんど揺らがなかった。また、レーニンのロシア革命が植民地解放運動を支援したこともあって、[[第三世界]]ではレーニンを評価する傾向がある。

レーニンに比較的近い政治的立場をとっていた[[ローザ・ルクセンブルク]]は獄中で書いた草稿「ロシア革命のために」でボリシェヴィキによる憲法制定議会の解散について批判的な視点を示した。


==人物==
==人物==
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レーニンは自分は民族的に[[ロシア人]]であると認識していたが{{sfn|Petrovsky-Shtern|2010|p=67}}、母国ロシアよりも他のヨーロッパ諸国、特にドイツは文化的に優れていると考えており{{sfn|Service|2000|p=389}}、ロシアを「アジア諸国の中でも最も未開で、中世風の、恥ずべき後進国」と評していた{{sfn|Rice|1990|p=121}}。また、ロシア国民に見られる規律や勤勉さの欠如に苛立っており、青年期からロシアが文化的により西洋的・ヨーロッパ的になることを望んでいた{{sfnm|1a1=Pipes|1y=1996|1p=11|2a1=Service|2y=2000|2p=389–400}}。
レーニンは自分は民族的に[[ロシア人]]であると認識していたが{{sfn|Petrovsky-Shtern|2010|p=67}}、母国ロシアよりも他のヨーロッパ諸国、特にドイツは文化的に優れていると考えており{{sfn|Service|2000|p=389}}、ロシアを「アジア諸国の中でも最も未開で、中世風の、恥ずべき後進国」と評していた{{sfn|Rice|1990|p=121}}。また、ロシア国民に見られる規律や勤勉さの欠如に苛立っており、青年期からロシアが文化的により西洋的・ヨーロッパ的になることを望んでいた{{sfnm|1a1=Pipes|1y=1996|1p=11|2a1=Service|2y=2000|2p=389–400}}。


== 評価 ==
== 筆名 ==
{{試聴
[[ファイル:Lenin head transparent.png|thumb|200px|ソ連のプロパガンダにおけるレーニンの横顔]]
|filename =Lenin - What Is Soviet Power.ogg
レーニンの政権は約70年にわたりロシアを支配することとなる政体の枠組みを築き、それは後発の共産党国家にとっての模範ともなった{{sfn|Service|2000|p=391}}ため、その影響は全世界に及んでいる{{sfn|Volkogonov|1994|p=259}}。[[ドミトリー・ヴォルコゴーノフ]]はレーニンを評して「史上あれほどの規模で、あのように巨大な社会をあれほどに大きく変革した人物はほとんど存在しない」と述べている{{sfn|Volkogonov|1994|p=326}}。
|title =File:Lenin - What Is Soviet Power.ogg
[[File:Lenin-statue-in-Berlin.jpg|thumb|upright|left|[[東ベルリン]]にかつて存在したレーニン像(1992年に撤去) ]]
|description =レーニンの演説
歴史学者{{仮リンク|アルバート・レシス|en|Albert Resis}}は、20世紀で最も重要な出来事を十月革命とみなす場合、レーニンは「善かれ悪しかれ、今世紀で最も重要な政治指導者として扱われなければならない」と指摘している<ref name="EB">{{cite encyclopedia |title=Vladimir Ilich Lenin |encyclopedia=Encyclopædia Britannica |author=Albert Resis |url=http://www.britannica.com/EBchecked/topic/335881/Vladimir-Ilich-Lenin |accessdate=4 February 2016 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150619112253/http://www.britannica.com/biography/Vladimir-Ilich-Lenin |archivedate=19 June 2015}}</ref>。[[ロバート・サーヴィス]]は一般にレーニンは20世紀における「主要人物 (principal actor)」の1人と扱われているとしており{{sfn|Service|2000|p=488}}、同様にクリストファー・リードも「最も広く知られ、全世界的に認識される20世紀の象徴的人物の1人」とレーニンを評している{{sfn|Read|2005|p=283}}。アメリカの雑誌『[[タイム (雑誌)|タイム]]』はレーニンを 「20世紀で最も重要な100人」にリストしているほか<ref name="TIME 100: Vladimir Lenin">{{cite web |url=http://205.188.238.181/time/time100/leaders/profile/lenin.html |title=TIME 100: Vladimir Lenin |author=David Remnick |date=13 April 1998 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110425120012/http://205.188.238.181/time/time100/leaders/profile/lenin.html |archivedate=25 April 2011|accessdate=6 March 2020 |url-status=dead}}</ref>、歴史上の象徴的政治家の上位25名にも選出している<ref name="Top 25 Political Icons: Lenin">{{cite news|url=http://www.time.com/time/specials/packages/article/0,28804,2046285_2045996_2046096,00.html |title=Top 25 Political Icons: Lenin |author=Feifei Sun |website=Time |date=4 February 2011 |accessdate=4 February 2016 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150114032814/http://content.time.com/time/specials/packages/article/0%2C28804%2C2046285_2045996_2046096%2C00.html |archivedate=14 January 2015 |url-status=dead |df= }}</ref>。
}}

ウラジーミル・ウリヤノフが恐らくシベリアの[[レナ川]]に由来する「レーニン」という筆名を初めて使用したのは[[1901年]]12月であった{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1pp=4–5|2a1=Service|2y=2000|2p=137|3a1=Read|3y=2005|3p=44|4a1=Rappaport|4y=2010|4p=66}}。ウリヤノフは他にも複数の偽名を使用していたが、『[[何をなすべきか]]』を「レーニン」の筆名で発表して以降、他のマルクス主義者からこの名前で広く認知されるようになった{{sfn|Service|2000|pp=137–139}}。ウリヤノフはしばしば「N・レーニン({{lang|ru|Н. Ленин}})」という形でこの名を用い、イニシャルの「N」は実際には無意味であったが、のちにこれが「ニコライ」を示すとする誤解が一般的に広まった{{sfnm|1a1=Rappaport|1y=2010|1p=66|2a1=Lih|2y=2011|2pp=8–9}}。なお、一般的に「ウラジーミル・イリイチ・レーニン」という名前の表記も用いられるが、本人自らがそのように署名した例はない{{sfn|Lih|2011|pp=8–9}}。
レーニンの政権は多くの歴史学者や伝記作家によって[[全体主義]]体制、あるいは[[警察国家]]と表現され{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=516|2a1=Shub|2y=1966|2p=415|3a1=Leggett|3y=1981|3p=364|4a1=Volkogonov|4y=1994|4pp=307, 312}}{{sfn|Leggett|1981|p=364}}、また一党独裁体制であったと評されている{{sfnm|1a1=Lewin|1y=1969|1p=12|2a1=Rigby|2y=1979|2pp=x, 161|3a1=Sandle|3y=1999|3p=164|4a1=Service|4y=2000|4p=506|5a1=Lee|5y=2003|5p=97|6a1=Read|6y=2005|6p=190|7a1=Ryan|7y=2012|7p=9}}。一部の学者はレーニンを[[独裁者]]と形容しているが{{sfnm|1a1=Fischer|1y=1964|1p=417|2a1=Shub|2y=1966|2p=416|3a1=Pipes|3y=1990|3p=511|4a1=Pipes|4y=1996|4p=3|5a1=Read|5y=2005|5p=247}}、歴史家ジェームズ・ライアンはレーニンが「一切の提案が承認され、実行されるという意味の独裁者ではなかった」と述べ、党員がレーニンの意見に異議を唱えることも多かったと指摘している{{sfn|Ryan|2012|p=1}}。同様に、{{仮リンク|ルイス・フィッシャー|en|Louis Fischer}}も「レーニンは一種の独裁者であったが、のちにスターリンがなったような種類の独裁者ではなかった」と述べている{{sfn|Fischer|1964|p=524}}。ヴォルコゴーノフも、レーニンは「党による独裁」を確立したが、ソビエト連邦の政体が「1人の男による独裁」に変化したのはスターリンの時代になってからであったとの見解を示している{{sfn|Volkogonov|1994|p=313}}。一方でヴォルコゴーノフは、国家的暴力が共産主義社会の実現には不可欠と信じ、[[チェーカー]]([[秘密警察]])や[[グラグ]]([[強制収容所]])などのシステムを創設したレーニンを「不寛容という全体主義的イデオロギーの生みの親」と評している{{sfn|Volkogonov|1994|p=xxxviii}}。

レーニン死後のボリシェヴィキの党内闘争では、対立する諸派はいずれもレーニンの忠実な後継者としてふるまった。スターリン派は[[マルクス・レーニン主義]]を体系化し、トロツキー派は[[ボリシェヴィキ・レーニン主義]]を標榜した。その過程で特にスターリン派によってレーニンは神格化されていった。[[スターリン批判]]によりスターリンの権威が落ちた後も、レーニンの権威はほとんど揺らがなかった。また、レーニンのロシア革命が植民地解放運動を支援したこともあって、[[第三世界]]ではレーニンを評価する傾向がある。

レーニンに比較的近い政治的立場をとっていた[[ローザ・ルクセンブルク]]は獄中で書いた草稿「ロシア革命のために」でボリシェヴィキによる憲法制定議会の解散について批判的な視点を示した。


「レーニン」という名前の由来には諸説あり、自身が送られた流刑地の近くを流れていたのがレナ川だったからという説がしばしば挙げられるが、彼のいた[[シュシェンスコエ]]の側を流れていたのは[[エニセイ川]]であり、実際にレナ川を訪れたことは一度もなかった<ref>{{Cite book|和書 |author = [[和田春樹]] |year = 2017 |title = レーニン 二十世紀共産主義運動の父(世界史リブレット人73) |publisher = [[山川出版社]] |page = 4 |isbn = 978-4-63-435073-1}}</ref>。レナ川中流の[[レンゾロト金鉱]]で、待遇の改善を求めて[[ストライキ]]を起こした鉱山労働者たちを動員された軍が虐殺した[[レナ虐殺事件]]が起こり、これに抗議し犠牲になった労働者を弔う意味を込めたという説もあるが、事件が発生したのは1912年4月であり、時系列が合わない。同志であった[[プレハーノフ]]の使っていた多数の偽名の中に、[[ヴォルガ川]]にちなんだ「ヴォルギン」があったが、彼と対立したレーニンは、ヴォルガ川より流れの勢いが強いレナ川を引用したという説もある。しかし、両者の対立はレーニンの名を用いた時点ではまだ起きていなかったため、いずれも信憑性には疑問がある。
== 補足 ==
== 補足 ==
*クレムリンにはレーニンが使用していた執務室と私室が保存されているが、見学は許可されていない。
*クレムリンにはレーニンが使用していた執務室と私室が保存されているが、見学は許可されていない。
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{{Wikiquote|ウラジミール・レーニン}}
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{{commons|Владимир Ильич Ленин}}
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* [http://www.marxists.org/archive/lenin/index.htm Marxists.org Lenin Internet Archive] - 著作、伝記および写真
* [https://www.marxists.org/archive/lenin/index.htm Marxists.org Lenin Internet Archive] - 著作、伝記および写真
* {{Kotobank|レーニン}}
* {{Kotobank|レーニン}}



2022年2月27日 (日) 12:05時点における版

ウラジーミル・レーニン
Влади́мир Ле́нин
1920年のレーニン
ソビエト連邦
初代人民委員会議議長
任期
1923年7月6日 – 1924年1月21日
後任者アレクセイ・ルイコフ
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国
初代人民委員会議議長
任期
1917年11月8日 – 1924年1月21日
後任者アレクセイ・ルイコフ
ロシア共産党(ボリシェヴィキ)
政治局員
任期
1918年3月 – 1924年1月21日
個人情報
生誕ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ(Влади́мир Ильи́ч Улья́нов)
(1870-04-22) 1870年4月22日
ロシア帝国 シンビルスク
死没1924年1月21日(1924-01-21)(53歳没)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 モスクワ県ポドリスク郡ゴールキ
政党
配偶者ナデジダ・クルプスカヤ (1898–1924)
出身校サンクトペテルブルク大学
宗教無神論
署名

ウラジーミル・イリイチ・レーニンロシア語: Влади́мир Ильи́ч Ле́нин1870年4月22日1924年1月21日)は、ロシア革命家政治家哲学者ロシア・ソビエト共和国およびソビエト連邦の初代指導者(人民委員会議議長)。「レーニン」は筆名(#筆名も参照)であり、本名はウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフロシア語: Влади́мир Ильи́ч Улья́нов)。

略歴

ロシア社会民主労働党ボリシェヴィキ派の指導者として活動し、1917年十月革命を成功させた後、史上初の社会主義国家であるロシア・ソビエト連邦社会主義共和国を樹立し、その行政府である人民委員会議の議長に就任した。1918年にはボリシェヴィキによる一党独裁体制を確立させ、また党名をロシア共産党(ボリシェヴィキ)へと改めた。1919年には第二インターナショナルに代わる共産主義政党の国際組織としてコミンテルンの創設を主導、その後1922年にはソビエト連邦の成立を指導し、1924年に死去するまで同国の事実上の最高指導者であった。マルクス主義者として政治、経済の分析から哲学に至るまでさまざまな著作を残し、その思想はレーニン主義として継承された。

出生から青年期まで

生い立ち

当時3歳のウラジーミル・ウリヤノフ(左)と妹のオルガ(右)(1874年)

1870年4月22日、ロシア帝国のシンビルスク(現在のウリヤノフスク)にてウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフとして誕生し、生後6日で洗礼を受けた[1]。父のイリヤ・ニコラエヴィチ・ウリヤノフアストラハン出身でアジア系の血を引く物理学者であり、母のマリア・アレクサンドロヴナ・ブランクはドイツ人・スウェーデン人・ユダヤ人の血を引いていた。しかし両親は子供たちをロシア人として育てた[2]。父のイリヤは物理学者としてだけでなく、著名な教育者でもあり[注釈 1]、その功績を皇帝に評価されて1882年聖ウラジーミル勲章英語版を授与され、世襲貴族に列せられた人物だった。両親は共に君主制主義者かつ自由保守主義者であり、ロシア皇帝アレクサンドル2世が実施した農奴解放令も熱心に支持していた[3]。2人は政治的過激派を避けており、危険人物として帝国警察の監視下に置かれていたという記録も存在していない[3]

ウラジーミルは両親の3番目の子であり、上には姉のアンナ(1864年生まれ)と兄のアレクサンドル(1866年生まれ)が、下にはオルガ(1871年生まれ)とドミトリー(1874年生まれ)、マリア(1878年生まれ)がおり、他に生後すぐ早世した2人の姉と弟がいた[4]。父のイリヤがロシア正教会の敬虔な信者であった一方で、母のマリアはルーテル教会の信徒として育てられたものの、キリスト教的信仰にはほとんど無関心で、彼女の宗教観は子供たちにも影響を与えた[5]。ウラジーミルは姉弟の中でも特に妹のオルガと親しく、彼女に対してはしばしば威張り散らしていた。当時の彼は極めて競争心が強く、気性の荒さを見せていたが、自分が犯した間違いについては認めることが多かった[6]。入学したシンビルスク古典中高等学校では非常に成績優秀であった一方でスポーツにも熱心であり、自由時間はほとんど屋外に出るかチェスで遊んで過ごした[7]

青年時代

1887年のウラジーミル・ウリヤノフ

1886年1月、父のイリヤが脳内出血によって死亡した[8]。父が亡くなった後のウラジーミルの振る舞いは突飛で攻撃的になり、神への信仰も放棄した[9]。その頃、兄のアレクサンドルはサンクトペテルブルク大学絶対君主制に反対する政治的活動に取り組んでいた。アレクサンドルはその後ロシア皇帝であるアレクサンドル3世の暗殺を目論む革命的結社に参加し、暗殺用爆弾の製造役に選ばれた。しかし暗殺計画は決行される前に露呈し、アレクサンドルら計画者は逮捕された後に裁判で死刑宣告を受け、1887年5月に絞首刑に処された[10]。父と兄の死により精神的ショックを受けたものの、引き続き学業に励んだウラジーミルは古典中高等学校を首席で卒業し、その際には突出した成績を称えて金メダルを授与された[11]1887年8月、父の母校であるカザン大学に入学して法学を専攻したが[12]、当時カザン大学でも勢いを得ていた学生運動に参加し、1887年12月に暴動行為により警察に拘束されて大学から退学処分を受け[13]、帝国内務省によってコクシキノ村にある一族の所有地に追放された(流刑[14]

コクシキノ村での流刑の間、ウラジーミルは書物を読み漁り、ニコライ・チェルヌイシェフスキーが1863年に著した革命小説『何をなすべきか?ロシア語版英語版』に熱中した[15]。母マリアはウラジーミルの思想の先鋭化に懸念を抱き、内務省にかけあって息子をカザン市内に帰還させる許可を得た[16]。カザンに戻ったウラジーミルはニコライ・フェドセーエフ英語版の主催する革命サークルに参加し、そこでカール・マルクス1867年に著した『資本論』と出会い、マルクス主義への興味を抱いた[17]

1889年には母がサマーラ県に買った農場に移住したもののうまくいかず、サマーラ市へと転居した[18]サマーラに移ったウラジーミルはアレクセイ・スクリアレンコ英語版による社会主義議論サークルに参加し[19]、その影響下でマルクス主義の本格的な信奉者となり、マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが1848年に発表した『共産党宣言』のロシア語訳を手掛けた[20]

1890年5月、母のマリアによる当局との交渉の末、ウラジーミルは学外学生としてサンクトペテルブルク大学の試験を受けることを許可された。1891年にウラジーミルはサンクトペテルブルクを訪れて同大学の試験を受け、全科目で満点をとり、試験官の推薦により修了証明書を与えられた。しかし、大学卒業への祝いは妹のオルガが腸チフスによって病死したことで損なわれた[21]。1891年11月、ウラジーミルは弁護士を開業する資格を得た[22]。その後はサマーラの弁護士事務所に勤めたものの1年半ほどで辞職し、1893年にはサンクトペテルブルクに移住した[23]

革命家としての経歴

初期の活動

1895年のウラジーミル・ウリヤノフ

サンクトペテルブルクに移ったウラジーミルは、弁護士助手として働く傍らマルクス主義革命結社 「社会民主党」に参加し(結社名はドイツ社会民主党に由来)、やがて党の幹部に昇格した[24]。この頃には、同じマルクス主義者の学校教師ナデジダ・クルプスカヤとの交際を始めた[25]。ウラジーミルは自らが所属する社会民主党と、スイスのロシア人亡命者によるマルクス主義組織「労働解放団」との間に関係を確立することを望み、労働解放団メンバーのゲオルギー・プレハーノフパーヴェル・アクセリロードに会うためスイスを訪問した[26]。帰国後はロシア各地を巡り、国外から大量に持ち帰った非合法な革命的出版物を当地のストライキ労働者に配った[27]1895年秋、ウラジーミルはサンクトペテルブルクの全てのマルクス主義労働者グループを統合して「労働者階級解放闘争同盟英語版」を結成した[12]。その後、闘争同盟の非合法機関紙『ラボーチェエ・デーロ』の発行に関与したが、同年12月に他の39人の活動家と共に逮捕され、扇動罪に問われた[28]。逮捕されたウラジーミルは罪状を全面的に否認したが、その後刑の宣告まで1年にわたって収監されることとなった[29]

1897年2月、ウラジーミルは東シベリアでの3年間の流刑を宣告され、身の回りの整理のためサンクトペテルブルクで3日間過ごすことを許可されたが、彼はその猶予期間を闘争同盟のメンバーと会うために利用した[30]。ウラジーミルは政府に対する大きな脅威では無いとみなされており、流刑地のシュシェンスコエ英語版村では警察の監視下に置かれたものの、村から他の革命活動家と文通することは可能であり、近くのエニセイ川で泳ぐことや水鳥の狩猟を楽しむことも許可されていた[31]

ウラジーミル・ウリヤノフ(中央)と他の労働者階級解放闘争同盟英語版のメンバー(1897年撮影)

1898年5月、ウラジーミルは流刑地でクルプスカヤと再会した。彼女はストライキを組織したことで1896年8月に逮捕され、当初ウファでの流刑に処されていたが、自分とウリヤノフが婚約していると主張して当局を説得し、シュシェンスコエ村に移送されてきた[32]。その後、ウリヤノフとクルプスカヤは1898年7月10日に結婚した[32]。この頃、ドイツでは選挙による平和的な社会主義実現を主張するエドゥアルト・ベルンシュタイン修正主義者が台頭し、マルクス主義者の間でイデオロギー上の対立が生じていた。その中でもウラジーミルは暴力革命を強力に支持し続け、『ロシア社会民主党員による抗議』という著作の中で修正主義者の主張を攻撃した[33]。1899年には『ロシアにおける資本主義の発展英語版』を著し、 農業社会主義英語版を批判すると共に、ロシアの経済発展に対するマルクス主義的な分析を提示した。この著作はウラジーミル・イリイン (Vladimir Ilin) という筆名で出版されたが、内容への評価は低かった[34]

ロシア社会民主労働党の分裂

1900年1月に刑期が終了し、プスコフにしばらくとどまったのち7月にスイスへ亡命した[35]。1900年9月、バイエルン王国の首都ミュンヘンに移住し、同年12月には流刑中に結成されていたロシア社会民主労働党[注釈 2]の機関紙『イスクラ』を創刊した。編集局のメンバーは彼の他にユーリー・マルトフポトレソフプレハーノフアクセリロードザスーリチであった。この新聞を中心とするグループは「イスクラ派」と呼ばれた。ヨーロッパの著名なマルクス主義者が寄稿した『イスクラ』はロシア帝国内へと密輸され[36]、過去50年間で最も成功した地下出版物となった[37]

ウラジーミル・ウリヤノフが初めて「レーニン」の筆名を使用したのは1901年12月であり[38]、翌1902年にはこの筆名で『なにをなすべきか?』と題するパンフレットを出版し、前衛党がプロレタリアート革命を指導することの必要性について論じた[39]。レーニンはカール・カウツキーの言葉を引用し、「社会主義意識は、プロレタリアートの階級闘争のなかへ外部からもちこまれたあるものであって、この階級闘争のなかから自然発生的に生まれてきたものではない」と述べ、この考え方は後に「外部注入論」と呼ばれるようになった。『なにをなすべきか?』の出版は大きな反響を呼び、以降ウリヤノフは「レーニン」の名でロシア帝国のマルクス主義者に広く知られるようになった[40]

同時期にはミュンヘンで『イスクラ』の執筆を続け、イデオロギー上の対立者や批判者、とりわけ社会革命党(エスエル)に対して攻撃を加えた[41]。1902年4月、バイエルンの警察を恐れたレーニンは『イスクラ』と共にロンドンに移住した[42]。ロンドンでは同胞のマルクス主義者レフ・トロツキーと友人になった一方で[43]丹毒を患って『イスクラ』編集局で中心的役割を担うことができなくなり[44]、レーニン不在の間に『イスクラ』の本部はジュネーヴに移された[44]

1903年7月、ロンドンでロシア社会民主労働党の第2回党大会が開かれたが[45]、大会ではレーニンの支持者とマルトフの支持者が激しく対立した。マルトフは、党員は党指導部に縛られることなく独自の意見を表明することを許されるべきと主張したが、レーニンはそれに反対し、強力な指導部が党全体を完全にコントロールすることの必要性を強く主張した[46]。ロシア社会民主労働党はレーニン支持派の「ボリシェヴィキ(多数派)」とマルトフ支持派の「メンシェヴィキ(少数派)」という2つの派閥に分裂し、『イスクラ』編集局の6名のうち、レーニン以外の5名はメンシェヴィキへ移ったため、レーニンはボリシェヴィキの突出した指導者となった。党大会後も両者の論争は続き、ボリシェヴィキがメンシェヴィキを「規律を欠く日和見主義・社会改良主義」と批判した一方で、メンシェヴィキはレーニンを「独裁・専制主義者」として非難した[47]。メンシェヴィキに憤慨したレーニンは『イスクラ』編集局を辞職し、1904年5月にメンシェヴィキを批判した著作『一歩前進、二歩後退』を出版した[48]

ロシア第一革命と労農民主独裁論

1905年にタンペレスターリンとレーニンが初めて会ったことに関する芸術作品。

1905年1月、サンクトペテルブルクで起こった血の日曜日事件をきっかけに動乱がロシア帝国全土に広がり、1905年革命(ロシア第一革命)として知られる革命へと発展した[49]。レーニンはこの動乱においてボリシェヴィキがより大きな役割を演じることを要求し、暴力的な蜂起を呼びかけた[50]。1905年8月には『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術』を出版して革命に対する見解を提示し、ロシアの自由主義的ブルジョワジーは立憲君主制への移行で満足してしまうため革命の遂行を裏切ると予想した上で、プロレタリアートは農民と同盟を結んで君主制を打倒し、臨時的に「プロレタリアートと農民の革命的民主主義的独裁」体制を樹立する必要があると論じた[51]

ロシア第一革命への反応としてニコライ2世十月詔書を発布し、いくつかの自由主義的改革を約束した。レーニンはこの状況下では安全と見てサンクトペテルブルクに帰還した[52] この頃、レーニンは党員からの徴収や裕福な支援者からの寄付だけでは活動資金源として不十分と認識し、郵便局、列車、銀行などへの強盗による資金集めを承認した。ボリシェヴィキはレオニード・クラーシンの指導下でそのような犯罪行為に手を染め始め、1907年6月にはヨシフ・スターリン指揮下の党員がグルジアのトビリシ帝国銀行に対する武装強盗を決行した[53]。1906年4月にストックホルムで開かれた第4回党大会において、レーニンによる暴力や強盗の支持はメンシェヴィキから激しく非難された[54]

1907年1月、レーニンはサンクトペテルブルクのフィンランド大公国領クオッカラ地区で生活を始め[55]、当地ではボリシェヴィキの拠点構築に関与した[56]。その後、1907年5月にロンドンで開催された第5回党大会ではボリシェヴィキがロシア社会民主労働党における支配的勢力を取り戻した[56]。帝政政府が反対派への弾圧を強め、秘密警察機関の「オフラーナ」に革命活動家の逮捕を命じると、レーニンはフィンランド領から逃亡してスイスに移住した[57]

1908年、レーニンはロンドンの大英博物館図書室(写真)で研究を行った。

1908年5月、レーニンは短期間ロンドンで生活し、大英博物館図書室を利用して『唯物論と経験批判論英語版』 を著し、有力なボリシェヴィキであるアレクサンドル・ボグダーノフが主張する相対主義の「ブルジョワ反動的な欺瞞」を攻撃した[58]。レーニンの分派的行動は他のボリシェヴィキとの不和を生み、アレクセイ・ルイコフレフ・カーメネフといった元々の支持者をも遠ざけた[59]。オフラーナはこのレーニンの傾向を利用し、スパイとしてロマン・マリノフスキーをボリシェヴィキに送り込み、レーニンの分派行動を積極的に支持させることで党内の対立を煽った[60]

1910年8月にコペンハーゲンで開かれた第二インターナショナル第8回大会にロシア社会民主労働党の代表として参加した後[61]、レーニンは妻や姉らと共にフランスの首都パリに居を移し[62]、当地ではフランス人ボリシェヴィキのイネッサ・アルマンドと親密な仲になった[63]。一部の伝記作家は1910年から1912年にかけてレーニンがアルマンドと不倫関係にあったと示唆している[63]。1912年1月、レーニンはプラハでロシア社会民主労働党の協議会を主催したが、召集された参加者18名のうち16名がボリシェヴィキであり、メンシェヴィキは2名だけだった[64]。このプラハ協議会英語版でボリシェヴィキは独自に新たな党中央委員会を選出したため、以降ボリシェヴィキとメンシェヴィキは正式に別々の政党となった[64][65]。党中央委員に選ばれた7名にはレーニン、ジノヴィエフオルジョニキーゼの他、帝国のスパイであるマリノフスキーも含まれており[64]、選任されたばかりの委員の多くがロシアへの帰国後に逮捕された[66]。逮捕によって欠員が生じたことを受け、レーニンはスターリンを新たな党中央委員として抜擢した[66]

1912年7月、レーニンはガリツィア・ロドメリア王国クラクフに居を移し、そこではヤギェウォ大学の図書館を利用して研究を行った[67][55]。1913年1月、スターリン(当時のレーニンは「素晴らしいグルジア人」と評していた)がクラクフのレーニンを訪問し、2人は帝国内の非ロシア人民族集団の将来について議論を交わした[68]。その後、レーニンは妻と共に田舎町のビャウィ・ドゥナイェツ英語版に移住し[69]、1913年5月には妻クルプスカヤに甲状腺腫の手術を受けさせるためベルンに移った[70][55]

第一次世界大戦と『帝国主義論』

1914年に第一次世界大戦が勃発した時、レーニンはオーストリア=ハンガリー帝国領のガリツィアに居た[71]。ロシア帝国とオーストリア=ハンガリー帝国は敵国同士となったため、ロシア国籍のレーニンは逮捕され、少しの間収監された[72]。釈放後、レーニン夫妻はベルンに戻り[73]、1916年2月にはチューリヒに居を移した[74]。レーニンはドイツ社会民主党が第二インターナショナルのシュトゥットガルト決議(社会主義政党が戦争に反対することを義務付けていた)に反し、自国の戦争遂行を支持したことに怒り、第二インターナショナルは消滅したものとみなした[75]。その後、社会主義者による1915年9月のツィンマーヴァルト会議と1916年4月のキーンタール会議に出席し[76]、全ヨーロッパでこの「帝国主義戦争」を、プロレタリアートが貴族階級・ブルジョワ階級に立ち向かう「内乱」へと転化するよう、各国の社会主義者に呼びかけた[77]

1916年7月には『資本主義の最高の段階としての帝国主義(帝国主義論)』の執筆を完了した[55]。翌1917年の9月に出版されたこの著作でレーニンは、帝国主義が資本家による利益追求の結果として生じる国家独占資本主義の産物であると論じた。その上で、競争と衝突は今後もエスカレートし、大国間の戦争は帝国主義政権がプロレタリア革命によって打倒され、社会主義政権が樹立されるまで継続すると予想した[78]。同じ7月には母マリアがペトログラードで死去したが、レーニンは葬儀に参列することができなかった[79][55]。母の死はレーニンを意気消沈させ、自らもプロレタリア革命を目撃する前に死ぬことになるのではないかという恐怖を抱かせた[80]

四月テーゼと『国家と革命』

レーニンが直筆した四月テーゼの下書き

1917年2月、二月革命が首都ペトログラード(開戦時にサンクトペテルブルクから改称された)で勃発し、ロシア皇帝ニコライ2世は退位した。権力を掌握した国家ドゥーマによってロシア臨時政府が樹立され、ロシア帝国は「ロシア共和国」へと改革された[81]。スイスで二月革命について知らされたレーニンは、他の反体制活動家らと共に革命の発生を祝った[82]。レーニンはボリシェヴィキを指導するためロシアに帰国する意思を固めたが、戦争によりほとんどの帰国ルートは封鎖されており、唯一の方法はドイツ帝国の国土を通過することだった。ドイツ政府はレーニンのような反体制分子は敵国ロシアに混乱をもたらすと判断し、彼とその妻を含む32名のロシア人が封印列車ロシア語版に乗り込み、ドイツ領内を通過して母国へと向かうことを許可した[83]。レーニンらの一行は封印列車でチューリヒからドイツのザスニッツ英語版に移動した後、フェリーに乗り換えスウェーデンを経由してヘルシンキへと向かい、そこからペトログラード行きの最後の列車に乗り込んだ[84]

1917年4月、ペトログラードのフィンリャンツキー駅に到着したレーニンは、ボリシェヴィキの支持者らに向けて演説を行い、ロシア臨時政府を厳しく批判すると共に、全ヨーロッパでのプロレタリア革命という主張を繰り返した[85][55]。その後の数日間にはボリシェヴィキの諸会議に出席してメンシェヴィキとの融和を主張する党員を譴責すると共に、スイスからの旅の途中で書き上げた『四月テーゼ』を党の綱領案として発表した[86]。レーニンは権勢あるペトログラード・ソビエト英語版を支配しているメンシェヴィキと社会革命党がロシア臨時政府に協力していることを非難し、両者を社会主義への裏切り者として糾弾した。そして、臨時政府はツァーリの政府と同程度に帝国主義的であると定義し、プロレタリア政権を樹立して社会主義社会へ向かうための手段として、ドイツおよびオーストリア=ハンガリーとの即時和平・ソビエトへの権力集中・産業と銀行の国有化・国家による土地収用などを提唱した。対照的に、メンシェヴィキはロシアがまだ社会主義社会に移行する段階に達していないと考えており、レーニンは誕生したばかりの新共和国を内戦へと導こうと試みていると批判した[87]

1917年7月、ペトログラードで起こった反ロシア臨時政府のデモ(七月蜂起

その後の数カ月間、レーニンは自らの綱領を広めるための運動に励み、ボリシェヴィキ中央委員会の諸会議に出席し、党機関紙 『プラウダ』に多く寄稿する一方で、労働者、兵士、農民、水兵からの支持を得るため、ペトログラードの街中で大衆に向けた演説を行った[88]。1917年7月、ペトログラードで兵士たちによる反ロシア臨時政府の武装デモ (七月蜂起) が発生したが、その武装デモに関わるボリシェヴィキの求心力低下を狙った臨時政府が「レーニンはドイツのスパイである」との情報をペトログラード駐留部隊の前で公表したため、レーニンおよびボリシェヴィキの支持は急落し、武装デモに参加した部隊は臨時政府側の部隊に次々と武装解除され、武装デモは鎮圧された[89]。臨時政府はレーニンと他のボリシェヴィキ幹部の逮捕令を発したが[90]、レーニンは逮捕を逃れ、ペトログラード市内の多くの隠れ家を転々としつつ潜伏した[91]

臨時政府に殺害されることを恐れたレーニンとグリゴリー・ジノヴィエフは変装してペトログラードから逃走し、ラズリーフ湖英語版周辺に拠点を移した[92]。レーニンは逃亡に成功したものの、臨時政府により多くのボリシェヴィキ幹部が逮捕され、ボリシェヴィキの勢力は一時的に大きく後退することになった。ラズリーフでレーニンはのちに『国家と革命』として出版される本の執筆を開始した[93]。同書では自らの国家観を提示し、プロレタリア革命後の社会主義国家が発展することでいずれ国家が消滅し、純粋な共産主義社会を残すのみとなる過程について論じた[93]。この頃、レーニンはボリシェヴィキが武装蜂起を起こして臨時政府を転覆することを主張し始めたが、秘密裏に開かれた党中央委員会でレーニンの提案は退けられた[94]。その後、列車と徒歩でフィンランドに向かい、8月10日にはヘルシンキに到着し、当地ではボリシェヴィキ支持者が所有する隠れ家に潜伏した[95]

十月革命と権力掌握

スモーリヌイ学院の前に立つレーニンの肖像画(イサーク・ブロツキー英語版作)

レーニンがフィンランドに居た1917年8月、ロシア共和国軍の最高総司令官ラーヴル・コルニーロフが軍事クーデターを試み、首都ペトログラードに向け指揮下の部隊を進軍させた。ロシア臨時政府の首相アレクサンドル・ケレンスキーは(ボリシェヴィキを含む)ペトログラード・ソビエトに支援を要請し、首都防衛のためボリシェヴィキが労働者を武装し「赤衛隊英語版」として組織することを容認した。コルニーロフの反乱はペトログラードに到達する前に鎮圧されたが、一連の出来事はボリシェヴィキを政治の表舞台へと復帰させた[96]。また、社会主義を敵視する右派による反革命の動きを恐れたメンシェヴィキと社会革命党が臨時政府に圧力をかけ、ボリシェヴィキとの関係を正常化させた[97]。その後、臨時政府が逮捕されていた党幹部の釈放に応じたため、ボリシェヴィキの党勢を急速に挽回することが出来た。メンシェヴィキと社会革命党は人気のない戦争を継続するロシア臨時政府との協力関係によって大衆からの支持を失っており、ボリシェヴィキはそれに乗じて支持を拡大し、やがてボリシェヴィキ派のマルクス主義者レフ・トロツキーがペトログラード・ソビエトの議長に選出された[98]。9月、ボリシェヴィキはペトログラードとモスクワの労働ソビエトで過半数の支持を獲得した[99]

1917年10月、レーニンはペトログラードへと戻った[55]。ペトログラードとモスクワの両都市で多数派を占めることに成功したことを受け、レーニンは武装蜂起による権力奪取をボリシェヴィキ内で主張し、反対するジノヴィエフとカーメネフを批判した[100]。また、トロツキーがソビエト大会にあわせた蜂起を主張したことについても、絶好のチャンスを逃してしまうことを恐れ、ボリシェヴィキ単独での即時蜂起を主張した[101]。10月11日の夜明け前、ボリシェヴィキ中央委員会で投票が行われ、10対2でレーニンが主張する武装蜂起の決行が採択された[102]。ボリシェヴィキは武装蜂起の計画に着手し、10月24日にはペトログラードのスモーリヌイ学院英語版で会議を開き、最終的な打ち合わせを行った[103]。スモーリヌイ学院はボリシェヴィキに忠実な軍事機関である「軍事革命委員会英語版」の本拠として使われていた[104]

10月24日夜、軍事革命委員会は指揮下の兵と赤衛隊に命令を出し[105]、ペトログラード市内の主な輸送機関、通信機関、印刷機関、公共公益設備を制圧するよう指示した[106]。ボリシェヴィキの軍勢は無血で目標を達成することに成功し[106]、続いて臨時政府の置かれている冬宮殿を包囲した。ボリシェヴィキ派の水兵が乗る巡洋艦「アヴローラ」が宮殿への砲撃を実行した後、冬宮は制圧され、臨時政府の閣僚は逮捕された[107]。この武装蜂起の最中、レーニンはペトログラード・ソビエトに向けて演説を行い、ロシア臨時政府は打倒されたと宣言した[108]

権力獲得以降の経歴

人民委員会議の発足・各種改革の実施

ボリシェヴィキは新たな行政府として 「人民委員会議」の設立を決定した。当初レーニンは人民委員会議の議長への就任を固辞し、議長職にはトロツキーを推薦したが、党員からの強い要請により最終的に議長就任を受け入れた[109]。レーニンらボリシェヴィキ幹部は1917年10月26日から27日(旧暦)にかけ開催された第2回全ロシア・ソビエト大会英語版に出席し、新政府の樹立を宣言したが、大会に参加したメンシェヴィキはボリシェヴィキによる権力奪取は違法であり内戦の危険をもたらすものであるとして非難した[110]。この当時、レーニンを含む多くのボリシェヴィキはプロレタリア革命の全ヨーロッパへの波及は目前に迫っていると考えていた[111]

レーニンの新政府は発足後ただちに一連の布告を発した。「平和に関する布告」は、第一次世界大戦の交戦国に対して「無併合・無賠償」の講和を提議した[112]。「土地に関する布告」では、貴族と正教会の所有地を国有化し、地方行政機関を通じて農民に再分配すると宣言した。これは農業の集団化を希望するレーニンの意向に反していたが、すでに蔓延していた農民による土地の接収に国家的な承認を与えるものであった[113]。「言論に関する布告 (Decree on the Press)」は、ボリシェヴィキに反対する報道機関の多くを反革命であるとして廃止させたが、これは報道の自由を侵害するものとして広範な批判を巻き起こし、批判者には多数のボリシェヴィキ党員も含まれていた[114]。さらに別の布告で人民委員会議は従来のロシアの法制度を廃することを宣言し、廃止された法律に代わって「革命的良心」を用いることを呼びかけた[115]。旧来の裁判所は、反革命犯罪を専門に扱う「革命裁判所英語版」と、その他の犯罪を扱う「人民裁判所」の二重のシステムに置き換えられ[116]、裁判所は既存の法律を無視し、人民委員会議の布告と「社会主義的正義感」に基づいて裁定を下すよう指導された[117]

レーニンは1917年10月の布告でロシアの全労働者の労働時間を1日あたり8時間に制限したほか[118]、ロシアのすべての子供を対象とした無料の普通教育が公的に約束されることを定めた[118]。さらに別の布告では国営の孤児院制度が創設された[119]。強硬な無神論者であるレーニンとその党は組織的宗教の解体を望んでおり[120]、新政府は1918年1月の布告で教会と国家の分離を宣言するとともに、学校における宗教的教育を禁止した[121]。レーニン政権下で、ロシアは妊娠初期における妊婦の意思による中絶を合法化した世界で最初の国となった[122]。また、男女同権の推進として女性の解放を助ける新たな法律が制定され、既婚女性には夫からの経済的自律性が与えられ、離婚に関しての各種制限は撤廃された[123]

ペトログラードのタヴリーダ宮殿で開催された全ロシア憲法制定議会(1918年1月)

臨時政府によって1917年11月に予定されていた全ロシア憲法制定議会選挙英語版について、レーニンはボリシェヴィキが選挙に勝利することはないと予想し、実施の延期を党に提案した[124]。しかし、人民委員会議はレーニンの反対を押して予定通りに選挙を行うことを決定した[125]。11月に選挙が実施されると第一党は得票率40パーセントを得た社会革命党となり、一方でボリシェヴィキの得票率は24パーセントにとどまった[126]。レーニンはこの選挙について、有権者にボリシェヴィキの政策を十分に理解する時間が与えられず、また候補者リストが社会革命党が右派と左派に分裂する以前に作成されたことで、人民の意志が正しく反映されなかったと主張した[127]。1918年1月、新たに選ばれた全ロシア憲法制定議会英語版がペトログラードで開会されたが[128]、出席したレーニンらボリシェヴィキはこの議会がソビエトから権力を奪うことを企図しており反革命的であると主張した[129]。メンシェヴィキと社会革命党員はそれを否定したが[129]、ボリシェヴィキは議会からほとんどの法的権力を剥奪する動議を提出し、それが議会によって却下されると、反革命的な性質が証明されたとして憲法制定議会を強制的に解散させた[130]

憲法制定議会の開催に先立つ1918年1月1日[注釈 3]、レーニンはペトログラードの馬術学校での演説を終えた帰途の車中で数人の男から発砲されたが、同乗していたフリッツ・プラッテン英語版が盾となり身を呈して銃弾を受けたことで負傷を免れた[131]。捜査によってレーニンの暗殺を試みたのは王党派であったことが判明したが、人民委員会議はボリシェヴィキと敵対する他の社会主義政党にテロ行為加担の容疑をかけた[132]。 1918年3月、ペトログラードがドイツ軍に脅かされることへの懸念から、ボリシェヴィキは人民委員会議をモスクワへと移転した(当初移転は一時的な処置となる予定だった)[133]。それに伴い、レーニン、トロツキーらボリシェヴィキ指導者もモスクワのクレムリンに居を移したが[134]、レーニンはペトログラードに比べて西欧化されておらず、伝統的ロシアの色が濃いモスクワを嫌った[135]

1918年3月、ボリシェヴィキは党の正式名を従来の「ロシア社会民主労働党」から「ロシア共産党(ボリシェヴィキ)」へと改称したが[136]、これは修正主義的傾向を強めるドイツ社会民主党と距離を置き、同時に共産主義社会という党の最終目的を強調することを望むレーニンの意向を反映したものだった[137]。1918年7月、第5回全ロシア・ソビエト大会ロシア語版英語版において新しいソビエト憲法ロシア語版英語版の制定が承認され、ロシア共和国は「ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国」へと改められた[138]。また、国家の近代化を目的として、ロシアの従来の暦であるユリウス暦の使用は廃止され、他のヨーロッパ諸国と同様のグレゴリオ暦に切り替えられた[139]

ブレスト=リトフスク条約の締結

権力を得たレーニンは、政権にとって緊急の課題は中央同盟国と講和を結び、第一次世界大戦から離脱することであると認識していた[140]。レーニン政権は1917年11月の「平和に関する布告」の中でドイツおよびオーストリア=ハンガリーの両政府に対して3カ月の休戦を提案した[141]。これを西部戦線に集中する好機と捉えたドイツ政府は前向きな反応を示し[142]、12月には休戦協定の交渉がドイツ軍の東部戦線司令部が置かれるブレスト=リトフスクで始まり、トロツキーとアドリフ・ヨッフェによって率いられるロシア側代表団が到着した[143]。間もなく1918年1月までの休戦協定は合意されたが[144]、その後の和平交渉でドイツ側はポーランド、リトアニア、クールラントなど戦争中に獲得した領土の維持を要求し、ロシア側はその要求は民族自決権の侵害であると抗議した[145]。この時期、ボリシェヴィキの一部は交渉を長引かせることでプロレタリア革命がヨーロッパ全域で巻き起こるまで時間を稼ぐことを望んでいた[146]。一方で、ニコライ・ブハーリンのような強硬派のボリシェヴィキ指導者はドイツで革命を誘発する手段として戦争の継続を主張していた。1918年1月7日、トロツキーが中央同盟国からの最後通牒を携えてブレスト=リトフスクからサンクトペテルブルクに帰還し、ボリシェヴィキはドイツによる領土的要求の受諾か戦争の再開かの選択を迫られた[147]

1917年12月、ブレスト=リトフスクで休戦協定に調印するドイツとロシアの代表団

1918年1月から2月にかけ、レーニンはボリシェヴィキ政権の存続を確実にできるならば領土の喪失は容認可能であり、ドイツ側の要求を受け入れるべきであると主張した。大多数のボリシェヴィキはレーニンの提言を拒絶し、ドイツの脅しをはったりと見て休戦を引き延ばすことを望んだ[148]。1918年2月18日、ドイツ軍はファウストシュラーク作戦を発動してロシアに攻勢を仕掛け、作戦初日にドヴィンスクを占領するなど支配領域を拡大した[149]。この状況下、レーニンはかろうじてボリシェヴィキ中央委員会の過半数を説得することに成功し、中央同盟国側の要求を受諾することが決定された[150]。2月23日、中央同盟国は新たな最後通帳を発し、ポーランドとバルト三国に加えウクライナもドイツの支配領域となることを認めるか、ドイツ軍による本格的な侵攻に直面するかの選択をボリシェヴィキに迫った[151]

1918年3月3日、中央同盟国との講和条約であるブレスト=リトフスク条約が締結された[152]。この条約の結果としてロシア側が失った領土は甚大であり、旧ロシア帝国の人口の26パーセント、農業収穫面積の37パーセント、産業の28パーセント、鉄・石炭の埋蔵量の4分の3がドイツ帝国に引き渡されることとなった[153]。したがって、この条約はロシア国内のあらゆる政党に極めて不評であり[154]、一部のボリシェヴィキは条約締結への抗議として人民委員会議を離脱した[155]。また、当時ボリシェヴィキと連立政権を組んでいた左翼社会革命党(左翼エスエル)は政権から離脱し、同年7月6日、駐露ドイツ大使ヴィルヘルム・フォン・ミルバッハドイツ語版暗殺を皮切りに反ボリシェヴィキ運動を起こした。

ブレスト=リトフスク条約の調印も中央同盟国の敗戦を防ぐには至らず、1918年11月にはドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退陣し、新たに発足した新ドイツ政府は連合国休戦協定を結んだ。これを受けて、ボリシェヴィキ政府(人民委員会議)はブレスト=リトフスク条約の無効を宣言した[156]

チェーカーの創設・反富農運動・赤色テロ

1917年12月、レーニンは反ボリシェヴィキ勢力による政権転覆を防止するため、フェリックス・ジェルジンスキーが率いる秘密警察組織「反革命・投機・サボタージュ取締り非常委員会(全露非常委員会・БЧК チェーカー)」の創設を命じた[157]。レーニンは旧体制を転覆し、革命の成功を確実にするには恐怖と暴力が不可欠であると提唱しており[158]、死刑撤廃の提案にも強く反対した[159]

1918年初頭までに、ロシア西部の都市の多くでは慢性的な食糧不足による飢饉が発生していた[160]。レーニンは、富農(クラーク)が生産した穀物を密かに備蓄していることがその原因であると見做し、1918年5月には徴発令を発して富農から穀物を没収するための武装分遣隊を組織し、6月には徴発を助ける目的で「貧農委員会英語版」の結成を命じた[161]。徴発に向かった武装分遣隊はしばしば農民と衝突したため、この政策は大きな社会的混乱と暴力をもたらし、ロシア内戦が勃発する背景のひとつとなった[162]。この問題に対する当時のレーニンの見解を示す顕著な一例はペンザのボリシェヴィキへ宛てた1918年8月の電報であり、レーニンはその中で農民の反乱を鎮圧するため「最低でも100人の名の知れた富農、金持ち、吸血者」を公衆の目前で絞首刑にするよう命じていた[163]

徴発によって農民は自ら消費する以上の穀物を生産する意欲を失い、結果的に生産量は急激に減少した[164]。国家が認める経済活動を補完する形で闇市が急成長したが[165]、レーニンは闇取引を行う者や投機家を射殺するよう命じた[166]。1918年7月の第5回全ロシア・ソビエト大会で、社会改革党と左翼社会革命党は武力による穀物徴発を非難した[167]。貧農委員会が富農ではない農民をも迫害しており、それが農民全体の反政府感情につながっていると判断したレーニンは、1918年12月に委員会を廃止した[168]

1918年8月、モスクワでレーニンは2度目の暗殺未遂に遭い、工場での演説を終えた帰途に銃で撃たれ重傷を負った[169]。実行犯として社会革命党ファーニャ・カプランロシア語版英語版が逮捕され、処刑されたが[170]、犯人は別人であったという説も存在する。いずれにしてもこの事件はミルバッハ暗殺と合わせて社会革命党を弾圧するきっかけになった。この暗殺未遂はロシアで広く報道され、レーニンの人気は同情を受けて高まった[171]。1918年9月、レーニンは静養のためモスクワ近郊のゴールキの邸宅に移された[172]

モスクワでの赤軍によるパレードの視察を終え、妻と共に車に乗るレーニン (1918年5月)

1918年9月、人民委員会議は布告を発し、チェーカーによって指揮される組織的弾圧「赤色テロ」の開始が宣言された[173]。赤色テロによる犠牲者は大半が富裕層の市民や帝国政府の元関係者であったが[174]、反ボリシェヴィキの非ブルジョワジーや社会的に望ましくないと見做された売春婦のような人々も含まれていた[175]。チェーカーはそれが政府の敵と見做すあらゆる人間に死刑を言い渡し、刑を執行する権限を与えられており、革命裁判所を頼る必要もなかったため[176]、ソビエト・ロシア各地でしばしば大規模な処刑が実行されることとなった[177]。一例としてペトログラードのチェーカーは数日間で計512名の死刑を執行した[178]。赤色テロによる正確な犠牲者数を示す記録は現存していないが[179]、のちに歴史家が推定した死者数には1万–1万5000人[180]とするものや5万人–14万人とするものがある[181]

このような暴力の行使にレーニンが立ち会ったことや直接参加したことは一度もなく[182]、公的には暴力から距離を保っていた[183]。レーニンは機密文書や暗号化された電報の中で頻繁に処刑の執行を要求したが、公表される文書や演説の中で要求することはほとんどなかった[184]。赤色テロは全ブルジョワジーの抹殺を目的とした試みであったと評される場合もあるが[185]、レーニンが望んだのはブルジョワ階級自体の絶滅ではなく、ソビエト政権の支配に抵抗する一部のブルジョワの処刑であったとの見解も存在する[186]。チェーカーによる大規模処刑には多くのボリシェヴィキも難色を示し[187]、その活動を制限するため共産党は1919年2月にチェーカーから公的に戒厳令下にない地域における裁判と処刑の権限を剥奪したが、以後もロシア各地でチェーカーはそれまでと同様の活動を続けた[188]。1920年までに、チェーカーはソビエト・ロシアにおいて最強の権力を持つ機関に成長し、他のすべての国家機構に影響を及ぼす存在となった[189]

また、1919年4月の布告によって各地に強制収容所が設置され、その管理は当初チェーカーに委託されたが[190]、のちに強制収容所の管理を担う新たな政府機関「グラグ」が創設された[191] 1920年末の時点で、ソビエト・ロシアには84の収容所と約5万人の被収容者が存在したが、1923年10月には収容所の数は315となり、被収容者も約7万人に増加した[192]。これらの被収容者は強制労働に従事させられていた[193]

ロシア内戦とポーランド・ソビエト戦争

レーニンは、ロシアの貴族階級とブルジョワ階級が自らの政権に敵対することは予想していたが、数的に優位な下層階級をボリシェヴィキが有効に組織することにより、いかなる抗争でも速やかに勝利することが可能であると考えており[194]、ボリシェヴィキによる支配に対して実際に生じた抵抗の激しさを予期していなかった[194]。十月革命後に勃発したロシア内戦[195]、ボリシェヴィキ派の赤軍と反ボリシェヴィキ派の白軍との間の戦争であっただけでなく、ロシア国境地帯における民族間紛争をも包含するものであり、また旧ロシア帝国領全域で農民を中心とした緑軍が赤軍と白軍の両者に敵対した[196]

白軍は旧ロシア帝国軍将校により組織され[197]、ロシア南部を拠点とするアントーン・デニーキンの義勇軍[198]、シベリアを拠点とするアレクサンドル・コルチャークの軍[199]、新たに独立を獲得したバルト諸国に拠点を置くニコライ・ユデーニチの軍などによって構成された[200]。白軍は、1918年5月にチェコ軍団がボリシェヴィキに対して反乱を起こし、その後反ボリシェヴィキ派の政府である「憲法制定議会議員委員会(コムーチ)」と同盟を結んだことで鼓舞された[201]。社会革命党員によって1918年6月にサマーラで結成されたコムーチは、ボリシェヴィキによって強制的に解散させられた憲法制定議会の名を冠し、自らがロシアの正当な政府であると主張した。さらに白軍は、ブレスト=リトフスク条約の締結を裏切り行為と捉え、またボリシェヴィキが提唱する世界革命の勃発を恐れる連合国諸政府から支援を受けた[202]

ボリシェヴィキの軍隊である労働者・農民赤軍(以下、赤軍)は1918年1月に創立され、当初は志願兵によって構成される脆弱な軍事組織であったが、軍事人民委員であるレフ・トロツキーの尽力によって強化された[203]。1918年9月、トロツキーはレーニンの支援のもとで革命軍事会議を創設し、その議長に就任した(トロツキーは1925年まで同職に留まった)[204]。レーニンは、旧ロシア帝国軍の将校が有する貴重な軍事的技能を認識し、彼らを赤軍へと編入することに同意したが、その活動はトロツキーが設立した革命軍事会議によって常に監視されることとなった[205]。赤軍がロシアの二大都市であるモスクワとペトログラード、および大ロシア英語版の大部分を支配下に置いていたのに対し、白軍は主に旧ロシア帝国領の外周に存在しており[206]、一体性に欠け、地理的に分散している点で不利であった[207]。反ボリシェヴィキ軍はボリシェヴィキ支持者と見做された者に対して白色テロ英語版と呼ばれる暴力運動を行ったが、それは国家的承認のもとで行われた赤色テロと比べて多くの場合より自然発生的であった[208]。白軍と赤軍はともにユダヤ人コミュニティを標的とした攻撃を行ったため、レーニンは公に反ユダヤ主義を糾弾し、ユダヤ人に対する偏見を煽っているのは資本主義者によるプロパガンダ英語版であると主張した[209]

白軍による反ボリシェヴィキのプロパガンダ用ポスター。赤いローブを身に纏ったレーニンが、擬人化されたロシアを他のボリシェヴィキと共にマルクス像への生贄として捧げる様子が描かれている (1918–1919年頃)

1918年7月、元ロシア皇帝ニコライ2世の一家が進撃中の白軍に救出されることを防ぐため、エカテリンブルク一家の処刑が実行されたことが、ヤーコフ・スヴェルドロフによって人民委員会議に報告された[210]。一部の歴史家および伝記作家(リチャード・パイプスドミトリー・ヴォルコゴーノフなど)は、証拠は存在しないものの、処刑の実行がレーニンによって認可されていた可能性が高いとの見解を示している[211]。 反対に、ジェームズ・ライアンのような歴史家はそのような見解を信じるべき理由はないと警告している[212]。処刑を認可したか否かに関わらず、レーニンはフランス革命におけるルイ16世の処刑を引き合いに出し、元ロシア皇帝一家の殺害を必要不可欠なものであったと評価した[213]

ブレスト=リトフスク条約の締結後、左翼社会革命党は連立政権から離脱し、ボリシェヴィキは革命の裏切り者であるとの見方を強めていった[214]。1918年7月、左翼社会革命党員ヤーコフ・ブリュムキン英語版が駐露ドイツ大使ヴィルヘルム・フォン・ミルバッハを暗殺したが、その動機は大使暗殺によって引き起こされる外交問題がドイツ帝国に対する革命戦争の再開につながるとの希望であった[215]。その後、左翼社会革命党はモスクワでクーデターを起こし、クレムリンを砲撃し、モスクワ市中央郵便局を占拠したが、最終的にトロツキーが率いる軍勢によって制圧された[216]。左翼社会革命党の指導者と党員の多くは逮捕・収監されたが、他の反ボリシェヴィキ勢力と比較してより寛大な扱いを受けた[217]

1919年までに、白軍は3方面すべての前線で劣勢に追いやられ、1920年を迎える頃には赤軍への敗北が確定的となった[218]。ボリシェヴィキは白軍に勝利したものの、その間に多くの非ロシア系民族が混乱に乗じて国家的独立を推し進めたため、ロシアの領土範囲は縮小していた[219]。北東ヨーロッパ諸国(エストニア、ラトビア、リトアニア、フィンランド等)の場合などには、ソビエト政府はその独立を承認した上で、それぞれと平和条約を締結したが[220]、その他の分離独立運動は赤軍によって鎮圧された[221]。赤軍は1921年までにウクライナの民族運動を制圧し、またコーカサスを占領したが、中央アジアでの戦闘は1920年代末まで継続した[221]

ドイツ軍が連合国との休戦協定を結び東部前線から撤退した後、空白となった地域には赤軍とポーランド軍の両者が進出した[222]。新たに独立を獲得したポーランドはソビエト政府と同じくこの地域での領土獲得を望んでおり[223]、1919年2月にはポーランド軍と赤軍の間で最初の衝突が発生し[224]、両者の争いはポーランド・ソビエト戦争へと発展した[225]。ソビエト政府がそれまでに経験した抗争とは異なり、ポーランドとの戦争は革命の国外への輸出およびヨーロッパの未来に対して大きな意味合いを持っていた[226]ポーランド軍はウクライナに侵攻しており、1920年5月までにキエフを占領していた[227]。ポーランド軍を撤退させることに成功した後、レーニンは赤軍がポーランド本国に侵攻することを要求した。レーニンは、侵攻を実行すればポーランドのプロレタリアートは赤軍を助けるために反乱を起こし、それが全ヨーロッパ的な革命勃発の導火線となることを信じていた[228]。トロツキーら他のボリシェヴィキはレーニンの予想に懐疑的であったものの、ポーランド侵攻には同意した[228]。結果的に、ポーランドのプロレタリアートが反乱を起こすことはなく、赤軍はワルシャワの戦いでポーランド軍に敗北を喫した[228]。ポーランド軍によって赤軍がロシアまで押し返されると、ソビエト政府は和平を模索し、ポーランドに領土を割譲することを認めたリガ平和条約の締結によって戦争は終結した[229]

コミンテルンの創設

1919年5月1日、赤の広場で演説を行うレーニン

西部戦線で休戦協定が結ばれた後、レーニンはヨーロッパ諸国で革命が巻き起こるのは今や時間の問題であると考えた[230]。革命を促進するため、人民委員会議は1919年3月のクン・ベーラによるハンガリーの共産主義政権樹立を支援し、それに続いてバイエルンでも社会主義政権が樹立され、ドイツの他地域でも(1月のスパルタクス団の武装蜂起を含む)社会主義者による革命的蜂起が続発していた[231]。1919年3月にはモスクワで国際共産主義組織「コミンテルン」の創立大会が開催され、レーニンはその開会演説を行った[232][55]。大会期間中、レーニンは参加各国の代表団に向けて、修正主義的マルクス主義者が信奉する議会主義を厳しく批判し、ヨーロッパのブルジョワ政権を暴力的手段によって転覆するよう改めて呼びかけた[233]。コミンテルンの初代議長にはジノヴィエフが就任したが、レーニンはこの組織に対する重大な影響力を保ち続けた[234]

1920年7月、ペトログラードのスモーリヌイ学院英語版で第2回コミンテルン大会が開会し[235]、大会中レーニンは各国代表団にボリシェヴィキによる権力奪取を再現するよう激励すると共に、社会進化の過程において資本主義社会の段階は不可避とする自らの長年の見解(二段階革命論)を捨て、被植民地支配地域からの代表団に対し資本主義段階を飛ばしてそれぞれの社会を直接社会主義社会へと変革するよう訴えかけた[236]。レーニンはこの大会のために『共産主義における左翼小児病』を著し、イギリスおよびドイツの共産主義政党に見られる、各々の国の議会制度や労働組合への参加を拒否する態度を批判し、革命的目標を達成するためそのような行動を改めるよう要求した[237]。最終的に、レーニンが予想した世界革命勃発は実現せず、ハンガリーの共産主義政府は倒され、ドイツのマルクス主義者による蜂起も鎮圧された[238]

飢饉と新経済政策 (ネップ)・宗教弾圧

1921年 - 1922年のロシア飢饉による犠牲者の山積みにされた遺体

旱魃(かんばつ)を一因とする1921年から1922年にかけてのロシア飢饉は、1891年 - 1892年以来の深刻な飢饉であり[239]、約500万人の死者を出す結果となった[240]。ソビエト政府が行った食糧徴発および大量の穀物の国外輸出は、この飢饉に拍車をかけた[241]。飢饉による被害者を救援するため、アメリカ政府は救済管理局英語版を設立し、食糧支援を行ったが[242]、レーニンはこの支援に疑いの目を向け、注意深く監視した[243]。1920年から1921年にかけ、食糧徴発に対する地方の抵抗運動が反ボリシェヴィキを掲げる農民反乱へと発展する事例がロシア各地で発生したが、いずれも政府によって鎮圧された[244]。1921年2月、ペトログラードの労働者がストライキを決行したため、政府は市に戒厳令を敷き、デモを鎮圧するため赤軍を派遣した[245]。3月には、クロンシュタットの水兵が出版・集会の自由や農民からの食糧徴発の停止などを求めてボリシェヴィキ政府に対する反乱を起こしたが、レーニンは反乱兵が社会革命党および外国の帝国主義者によって煽動されていると宣言し、暴力的な報復措置を要求した[246]。トロツキーが指揮する赤軍は反乱を3月17日までに鎮圧したが、その過程で数千人の死者を出し、生存者は強制労働収容所に抑留されることとなった[247]

1921年2月、レーニンは党政治局に対して「新経済政策 (NEP、ネップ) 」を提出し、ボリシェヴィキ幹部の大半にその必要性を納得させた上で、4月には法律として通過させた[248]。レーニンは『食糧税について』と題する小冊子の中で新経済政策を解説し、ネップの施行はボリシェヴィキが本来の経済計画へと復帰したことを示すものであり、これまで政府は「戦時共産主義」という経済政策を内戦によって強いられていたと主張した[249]。ネップにおいて、ソビエト政府は戦時共産主義の時代(1918年 - 1921年)に実施された産業の完全な国有化を部分的に撤回し、私人が中小規模の事業を営むことを認めた(大規模産業や銀行、外国貿易などは引き続き国家の統制下に置かれた)[250][251]。さらに農民からの強制的な穀物徴発 (Prodrazvyorstka)が廃止され、農産物の現物という形で支払う新たな税 (Prodnalog)が導入された[250][252]。また、税を納めた後の残りは市場で自由に処分することを認めた[253]。レーニンはネップを「国家資本主義」と表現し[254]、ロシアの現状では国家資本主義も一歩前進だと主張したが[255]、多くのボリシェヴィキはこのような政策は社会主義原理への背信であると考えた[256]

飢饉中、モスクワ総主教であるティーホンは正教会に対して飢餓民救済のため不必要な物品を売却するよう呼びかけ、この行動はソビエト政府によって支持されたが[257]、1922年2月に政府はより徹底した措置へと乗り出し、宗教施設が所有する貴重品のすべてを強制的に接収・売却することを命じた[258]。ティーホンは聖餐に用いられる物品の売却に反対し、他にも多くの聖職者が政府による接収に抵抗したため、暴力的な衝突がもたらされた[259]1922年3月、イヴァノヴォ州シューヤで発生した教会財産接収に反対するデモが暴徒化した。死者まで招いたこの事態に憤慨したレーニンは、3月19日ロシア正教会の弾圧を指示し、『これを口実に銃殺できる反動聖職者と反動ブルジョワは多ければ多いほどよい。今こそ奴らに、以後数十年にわたっていかなる抵抗も、それを思うことさえ不可能であると教えてやらねばならない』と厳命した[260]。1922年5月、レーニンは反ボリシェヴィキの聖職者の処刑を命じる布告を発し、その結果として14,000人 – 20,000人が殺害された[261]。最も大きな被害を受けたのはロシア正教会であったが、レーニン政権の宗教弾圧はカトリックプロテスタントの教会、ユダヤ教のシナゴーグ、イスラム教のモスクなどにも打撃を与えた[262]

スターリンとの対立・ソ連の形成とグルジア問題

レーニンの健康状態は1921年後半までに著しく悪化し、聴覚過敏や不眠、慢性的な頭痛などの症状に悩まされるようになった[263]。1921年7月、党政治局の要求により、モスクワを離れてゴールキの邸宅での1カ月間の静養に入った[264]。レーニンは自殺を考え始め、妻のクルプスカヤとスターリンの両者に自殺用の青酸カリを入手するよう依頼した[265]。晩年のレーニンの治療のため雇われた医師は26人にのぼり、多額の報酬で招かれた彼らの多くは外国人だった[266][注釈 4]。一部の医師は、病因が1918年の暗殺未遂から体内に残る銃弾の金属の酸化である可能性を指摘し、1922年4月には銃弾を体内から取り除く手術が行われた[267]。1922年5月、レーニンは最初の脳卒中発作を起こし、一時的な会話能力の喪失と右半身の麻痺を生じた[268]。その後はゴールキで療養し、7月までにほぼ回復した[269]。10月にはモスクワに戻ったが、12月に2度目の発作を起こし、再びゴールキでの静養生活に入った[270]

レーニンは晩年の大半をゴールキの邸宅で過ごした。

病状は悪化していたものの、レーニンは政治的動向に強い関心を持ち続けた。1922年6月 - 8月に行われた裁判において社会革命党の指導者らがソビエト政府への謀反を企てたことが認定されると、レーニンは有罪となった者たちを処刑するよう要求した(彼らは実際には無期限の懲役刑に処されたが、のちにスターリンの指導下で行われた大粛清によって処刑された)[271]。レーニンは帝政時代の官僚体制がソビエト・ロシアに引き継がれていることに懸念を抱いており[272]、晩年には特にその思いを強めた[273]

レーニンが不在の間、スターリンは自らの支持者を要職に任命するとともに、自身はレーニンに最も近しい盟友であり、その後継者にふさわしい人物とのイメージを築くことで権力基盤を固め始めていた[274][275]。スターリンは1922年12月に党政治局によってレーニンの治療計画の責任者に任命され、彼が他者と面会することを監督する役割を与えられたが[276]、実際にはこの時期に両者の関係は悪化した。1922年の半ば、レーニンが外国貿易の国家独占を維持すべきと主張したのに対し、スターリンは他のボリシェヴィキを率いてそれに反対することを試みたため、レーニンはスターリンに対して次第に批判的になった[277]。1922年末にはスターリンがクルプスカヤ(レーニンの妻)を電話での会話中に面罵し、それに激怒したレーニンが不快感を表した手紙をスターリンに送りつけるなど、両者には私的な衝突もあった[278]

レーニンとスターリンの最大の政治的対立は「グルジア問題」をめぐって発生した。1921年2月にグルジア社会主義ソビエト共和国が成立して以来、ロシア共産党中央委員会カフカース局がグルジアをアゼルバイジャンアルメニアとともにザカフカース連邦として構成しようとする計画を進めたのに対し、グルジア共産党がグルジアの独立性を主張して抵抗していた。1922年8月、スターリンは各ソビエト共和国が自治共和国としてロシア連邦共和国に加入するという「自治化」案を作成した。レーニンはそれをスターリンとその支持者らによる大ロシア排外主義の表れであると批判し、代案としてロシアがグルジアなどと共により大きな1つの連邦国家を構成することを求め、そのような国家の名称として「ヨーロッパ・アジア・ソビエト共和国連邦」を提示した[279]。スターリンはレーニンの「民族自由主義」に不満を述べたが、代案を受け入れ、同年10月のロシア共産党中央委員会総会ではレーニン案にそった決議を通過させた[280]。ただし、スターリンはレーニンの同意を得た上で新国家の名称を「ソビエト社会主義共和国連邦(ソビエト連邦)」へと変更させた[281]。1922年12月30日、新国家の形成がソビエト大会によって正式に承認され、ソビエト連邦(以下ソ連)が成立した[282]。レーニンは病床にあったが、新設されたソ連政府の長に任命された[283]

他方、10月の決議でグルジアはザカフカーズ連邦を通じてソ連に加入することになっていたため、グルジア共産党はこの決定を拒否し、中央委員会のメンバーが総辞職した。11月にはロシア共産党のオルジョニキーゼが独立派のグルジア共産党員を殴るという事件が起こる。病床にあったレーニンはこれを重大なことと受け止め、オルジョニキーゼやその後ろだてとなっていたスターリンを非難した。12月31日に口述筆記された覚え書きで、彼は「抑圧民族、すなわち、いわゆる『強大』民族にとっての国際主義とは、諸民族の形式的平等を守るだけで無く、生活のうちに現実に生じている不平等に対する抑圧民族・大民族の償いとなるような不平等をしのぶことでなければならない」と記した。

1922年12月から1923年1月にかけ、レーニンは同志のボリシェヴィキ、特にトロツキーとスターリンの個人的資質について論じた、いわゆる「レーニンの遺書英語版ロシア語版」を口述筆記させた[284]。レーニンはこの文書の中で、スターリンは党書記長として不適格であり、その地位から解任されるべきと述べ[285]、トロツキーについては「現在の党中央委員会において最も有能な男」と評価する一方で、自己を過信し、過度に行政的な傾向があることを批判した[286]。1923年3月5日にはトロツキーにグルジア問題への取り組みを依頼し(トロツキーは病気を理由に拒否)、3月6日にグルジアの反対派に向けて「あなたがたのために覚え書きと演説を準備中です」という手紙を口述した。しかし3月10日に発作に襲われて右半身が麻痺し、会話能力と共に筆記能力を失った[287]

死と葬儀

生前最後に撮られた写真(1923年夏)。右手が後遺症のために内側に曲がっている
レーニンの葬儀を描いた1925年の作品(イサーク・ブロツキー作)
モスクワ・赤の広場のレーニン廟

1923年3月、レーニンは3度目の脳卒中発作に見舞われ、発話能力を失った[288]。同月には右半身の部分的麻痺と感覚性失語英語版の症状が現れていた[289]。その後、5月までに緩やかな回復の兆しを見せ、運動と発話、筆記の能力を一部取り戻し[290]、10月にはクレムリンへの生前最後の訪問を行った[291]。最期の数週間、レーニンは同志であるジノヴィエフカーメネフブハーリンの訪問を受け、中でもブハーリンはレーニンの死の当日にゴールキの邸宅を訪れていた[292]

1924年1月21日、レーニンは昏睡状態に陥り、そのまま同日中に死亡した[293]。レーニンの公式な死因は「血管の不治の病」として記録された[294]。脳神経外科医のオトフリート・フェルスター英語版らが立ち会って死の翌日に行われた病理解剖では、椎骨動脈脳底動脈内頸動脈前大脳動脈、頭蓋内左頸動脈、左シルビウス動脈の硬化・閉塞が認められ、左脳の大半は壊死して空洞ができていた。また、心臓などの循環器にも強い動脈硬化が確認された[295]。歴史家ドミトリー・ヴォルコゴーノフは、レーニンの父イリヤ、姉アンナ、弟ドミトリーがいずれも脳出血により死去していることから、レーニンの動脈硬化は遺伝性疾患であり、権力獲得後の重圧によるストレスがその悪化に拍車をかけたと主張している[296]

翌1月22日、ソビエト政府はレーニンの死を公表した[297]。23日には共産党、各労働組合、各ソヴィエトからの会葬者がゴールキの邸宅を訪れ、レーニンの遺体が入った赤い棺をボルシェヴィキの指導者らが担いで運び出した[298]。その後、レーニンの棺はモスクワまで列車で移送され、労働組合会館ロシア語版へと運び込まれ、その場で正装安置英語版された[299]。その後の3日間、レーニンの遺体を見るため労働組合会館には100万人近くの哀悼者が訪れた(その多くは厳しい寒さの中で何時間も列に並んだ)[300]。1月26日に開催された全連邦ソビエト大会ではレーニンへの敬意が示され、スターリン、カリーニン、ジノヴィエフによる演説が行われた[300]。トロツキーは当時コーカサスで病後療養しており、この大会には出席しなかった。のちにトロツキーは、レーニンの葬儀についてスターリンが誤った日付を電報で送ったことにより、それに間に合うようモスクワに戻ることができなかったと主張した[301]

葬儀は1月27日に挙行され、レーニンの遺体は軍歌が演奏される中で赤の広場まで運ばれ、集まった群衆の前で一連の演説が行われた後、特別に用意された霊廟の内部に安置された[302]。葬儀は厳しい寒さの中で行われたが、参列者は数万人にのぼった[303]。妻であるクルプスカヤの抗議にもかかわらず、レーニンの遺体は長期間の展示に耐えるよう保存処理が施された上で、赤の広場の霊廟で一般公開された[304]

レーニンの遺体はモスクワレーニン廟に現在も永久展示されている。その遺体保存手段については長らく不明のままで、「剥製である」という説や「蝋人形ではないか」という説も語られていた。ソビエト連邦の崩壊後、1930年代から1950年代にレーニンの遺体管理に携わった経験のある科学者イリヤ・ズバルスキーが自身の著作で公表したところによれば、実際には臓器等を摘出の上、ホルムアルデヒド溶液を主成分とする「香油液」なる防腐剤を浸透させたもので、1年半に1回の割合で遺体を香油液漬けにするケアで現在まで遺体を保存しているという[305]

なおロシア連邦政府はエリツィンの頃より、遺体を埋葬しようと何度も計画しているが、その都度国内の猛反対に遭って撤回されている。ロシア国民にとっては良くも悪くも近代ロシアの父と見る節があり、また根強い共産党及びソビエト政権への支持層からの反対が大きく、クレムリンの壁と霊廟に「強いロシア」のイメージを重ねる者も多い。2012年12月に大統領のウラジミール・プーチンはレーニン廟を聖遺物に準えて保存を主張した[306]。また、2019年4月には現代政治問題研究所の所長であるアントン・オルロフがロシア中央選挙管理委員会に、レーニンの遺体埋葬に関する国民投票の実施を提案する書簡を送ったことが報じられた[307]

評価

東ベルリンにかつて存在したレーニン像(1992年に撤去)
ソ連のプロパガンダにおけるレーニンの横顔

レーニンの政権は約70年にわたりロシアを支配することとなる政体の枠組みを築き、それは後発の共産党国家にとっての模範ともなった[308]ため、その影響は全世界に及んでいる[309]ドミトリー・ヴォルコゴーノフはレーニンを評して「史上あれほどの規模で、あのように巨大な社会をあれほどに大きく変革した人物はほとんど存在しない」と述べている[310]。 歴史学者アルバート・レシス英語版は、20世紀で最も重要な出来事を十月革命とみなす場合、レーニンは「善かれ悪しかれ、今世紀で最も重要な政治指導者として扱われなければならない」と指摘している[311]ロバート・サーヴィスは一般にレーニンは20世紀における「主要人物 (principal actor)」の1人と扱われているとしており[312]、同様にクリストファー・リードも「最も広く知られ、全世界的に認識される20世紀の象徴的人物の1人」とレーニンを評している[313]。アメリカの雑誌『タイム』はレーニンを 「20世紀で最も重要な100人」にリストしているほか[314]、歴史上の象徴的政治家の上位25名にも選出している[315]

レーニンの政権は多くの歴史学者や伝記作家によって全体主義体制、あるいは警察国家と表現され[316][317]、また一党独裁体制であったと評されている[318]。一部の学者はレーニンを独裁者と形容しているが[319]、歴史家ジェームズ・ライアンはレーニンが「一切の提案が承認され、実行されるという意味の独裁者ではなかった」と述べ、党員がレーニンの意見に異議を唱えることも多かったと指摘している[320]。同様に、ルイス・フィッシャー英語版も「レーニンは一種の独裁者であったが、のちにスターリンがなったような種類の独裁者ではなかった」と述べている[321]。ヴォルコゴーノフも、レーニンは「党による独裁」を確立したが、ソビエト連邦の政体が「1人の男による独裁」に変化したのはスターリンの時代になってからであったとの見解を示している[322]。一方でヴォルコゴーノフは、国家的暴力が共産主義社会の実現には不可欠と信じ、チェーカー秘密警察)やグラグ強制収容所)などのシステムを創設したレーニンを「不寛容という全体主義的イデオロギーの生みの親」と評している[323]

レーニン死後のボリシェヴィキの党内闘争では、対立する諸派はいずれもレーニンの忠実な後継者としてふるまった。スターリン派はマルクス・レーニン主義を体系化し、トロツキー派はボリシェヴィキ・レーニン主義を標榜した。その過程で特にスターリン派によってレーニンは神格化されていった。スターリン批判によりスターリンの権威が落ちた後も、レーニンの権威はほとんど揺らがなかった。また、レーニンのロシア革命が植民地解放運動を支援したこともあって、第三世界ではレーニンを評価する傾向がある。

レーニンに比較的近い政治的立場をとっていたローザ・ルクセンブルクは獄中で書いた草稿「ロシア革命のために」でボリシェヴィキによる憲法制定議会の解散について批判的な視点を示した。

人物

歴史学者ロバート・サーヴィスによれば、レーニンは自分が宿命を負った人間 (man of destiny) であると考えており、自らの理想の正しさと革命指導者としての能力に少しの疑念も抱いていなかった[324]。伝記作家ルイス・フィッシャー英語版はレーニンを、「急激な変化や極端な変革の愛好者」であり「折衷とは全く無縁であって、何事も黒かかの二者択一に誇張する人間」であったと評している[325]。歴史学者リチャード・パイプスは、レーニンが非常にカリスマ性のある人物であったと指摘しており[326]ドミトリー・ヴォルコゴーノフも同様に「(レーニンは)その強烈な個性そのものによって、人々に影響を及ぼすことができた」と評している[327]。他方、レーニンの友人であったマクシム・ゴーリキーは彼の容姿について「禿頭で、ずんぐりと」して「あまりにも平凡」であり、「指導者然とした印象」を与えるものではなかったと述べている[328]

サーヴィスによれば、若き日のレーニンは非常に感情的であり[329]、皇帝の権威に対して強い憎悪を示すのと同時に[330]、マルクス、エンゲルス、チェルヌイシェフスキーといった思想家達への「愛情」を培い、彼らのポートレイトを所有し[331]、私的な会話の中で自らがマルクスとエンゲルスを「愛している」とも語っていた[332]。ヴォルコゴーノフの見解では、レーニンはマルクス主義を「絶対的な真理」と捉えており、「宗教的な狂信者」のように振る舞っていた[333]バートランド・ラッセルもまた、レーニンが「マルクス主義の福音への確固たる、宗教的な信仰」を有しているとの印象を抱いた[334]。それらの指摘にもかかわらず、レーニンは無神論者であり、また宗教の批判者であった。レーニンは無神論が社会主義の前提であると理解しており、したがって「キリスト教社会主義」は名辞矛盾であると考えていた[335]。この宗教社会主義に対する批判的立場は『共産党宣言』などで確認できるようにマルクスと共通している。

クレムリンでアメリカ人ジャーナリストと会談するレーニン。ネコを膝に乗せている(1920年2月)

レーニンはロシア語の他にフランス語、ドイツ語、英語を話し、また読むことができた[336]。健康に気を遣って定期的な運動を心がけており[337]、水泳、狩猟、サイクリングを好んだほか[338]、スイスでは山歩きへの情熱を育んだ[339]。ペットも好み[340]、特にネコを可愛がっていた[341]。乱雑さを嫌い、デスクは常に片付けられ、鉛筆は尖った状態に保たれており、仕事中には完全な静寂を要求した[342]。パイプスは、レーニンが「私的な欲望について極端に自制的」であり、したがって「質素な、ほとんど禁欲的と言える生活スタイル」を送っていたと指摘している[343]。フィッシャーによればレーニンは「最低限度」の虚栄心しか持っておらず[344]、したがって自らに対する個人崇拝も忌み嫌っていたが、それが共産主義運動の統一化に有益である可能性は認めていた[345]

レーニンの性格について、サーヴィスは時に「気まぐれで短気」であったと述べ[346]、パイプスは「徹底的な人間嫌い」であったと評したが[347]、歴史家クリストファー・リードはパイプスの見解に反論し、レーニンが人間、特に子供に対して親切心を示した例は数多く存在すると指摘している[348]。複数の伝記作家によれば、レーニンは反論されることを許容できず、しばしば自分と異なる率直な意見をはねつけたほか[349]、自らの見解にとって不都合な事実を無視し[350]、妥協することを極度に嫌い[351]、間違いを認めることは非常に稀だった[352]

レーニンは自分は民族的にロシア人であると認識していたが[353]、母国ロシアよりも他のヨーロッパ諸国、特にドイツは文化的に優れていると考えており[354]、ロシアを「アジア諸国の中でも最も未開で、中世風の、恥ずべき後進国」と評していた[355]。また、ロシア国民に見られる規律や勤勉さの欠如に苛立っており、青年期からロシアが文化的により西洋的・ヨーロッパ的になることを望んでいた[356]

筆名

ウラジーミル・ウリヤノフが恐らくシベリアのレナ川に由来する「レーニン」という筆名を初めて使用したのは1901年12月であった[38]。ウリヤノフは他にも複数の偽名を使用していたが、『何をなすべきか』を「レーニン」の筆名で発表して以降、他のマルクス主義者からこの名前で広く認知されるようになった[40]。ウリヤノフはしばしば「N・レーニン(Н. Ленин)」という形でこの名を用い、イニシャルの「N」は実際には無意味であったが、のちにこれが「ニコライ」を示すとする誤解が一般的に広まった[357]。なお、一般的に「ウラジーミル・イリイチ・レーニン」という名前の表記も用いられるが、本人自らがそのように署名した例はない[358]

「レーニン」という名前の由来には諸説あり、自身が送られた流刑地の近くを流れていたのがレナ川だったからという説がしばしば挙げられるが、彼のいたシュシェンスコエの側を流れていたのはエニセイ川であり、実際にレナ川を訪れたことは一度もなかった[359]。レナ川中流のレンゾロト金鉱で、待遇の改善を求めてストライキを起こした鉱山労働者たちを動員された軍が虐殺したレナ虐殺事件が起こり、これに抗議し犠牲になった労働者を弔う意味を込めたという説もあるが、事件が発生したのは1912年4月であり、時系列が合わない。同志であったプレハーノフの使っていた多数の偽名の中に、ヴォルガ川にちなんだ「ヴォルギン」があったが、彼と対立したレーニンは、ヴォルガ川より流れの勢いが強いレナ川を引用したという説もある。しかし、両者の対立はレーニンの名を用いた時点ではまだ起きていなかったため、いずれも信憑性には疑問がある。

補足

  • クレムリンにはレーニンが使用していた執務室と私室が保存されているが、見学は許可されていない。
  • 出生地のウリヤノフスクではウリヤノフ一家の家宅が公開されている。
  • ペトログラードはレーニンにちなみ、レニングラードと改名された。また、生地のシンビルスクも彼の本名にちなんでウリヤノフスクと改名された。レニングラードは1991年ソビエト連邦の崩壊時に元の名、サンクトペテルブルクに戻された。同市のある州の名前はレニングラード州である。

脚注

注釈

  1. ^ ドヴォリャンスキー学院の物理数学の上席教師で、非ユークリッド幾何学の発見者の1人であるニコライ・ロバチェフスキーとは大学時代からの親友だった。
  2. ^ Российская Социал-Демократическая Рабочая Партия = РСДРП, RSDRP
  3. ^ 旧暦。グレゴリオ暦では1月14日
  4. ^ レーニンを診察するため、国外からオトフリート・フェルスター英語版ゲオルク・クレンペラードイツ語版らの著名な脳医学者が高額の報酬で雇われた。

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外部リンク

公職
創設 ロシア社会主義連邦ソビエト共和国の旗 ロシア社会主義連邦ソビエト共和国
人民委員会議英語版議長英語版

1917年–1924年
次代
アレクセイ・ルイコフ
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦人民委員会議議長
1922年–1924年
軍職
創設 労働防衛評議会英語版議長
1918年–1924年
次代
レフ・カーメネフ