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'''紫竹 昭葉'''(しちくあきよ、1927年 - [[2021年]][[5月4日]]<ref>{{Cite web|title=紫竹昭葉さん死去 帯広の観光庭園「紫竹ガーデン」社長:北海道新聞 どうしん電子版|url=https://www.hokkaido-np.co.jp/article/540554|website=北海道新聞 どうしん電子版|accessdate=2021-07-19|language=ja}}</ref>)は、[[紫竹ガーデン]]のオーナー。夫が亡くなったことをきっかけに、紫竹ガーデンをオープンし、運営会社の社長としても活躍した。また、亡くなる前まで庭に出て客を迎え、案内しており「紫竹おばあちゃん」としても親しまれた。
|氏名=紫竹 昭葉
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|画像説明=2016年の紫竹昭葉
|生年月日=[[1927年]]3月
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|死没地=北海道帯広市
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'''紫竹 昭葉'''(しちく あきよ、[[1927年]]〈[[昭和]]2年〉3月{{R|北海道150年特別功労賞_p7}} - [[2021年]]〈令和3年〉[[5月4日]]{{R|道新20210506e_p10}})は、[[紫竹ガーデン]]のオーナー。夫が亡くなったことをきっかけに、紫竹ガーデンをオープンし、運営会社の社長としても活躍した。また、亡くなる前まで庭に出て客を迎え、案内しており「紫竹おばあちゃん」としても親しまれた。著書に『咲きたい花はかならず開く』『紫竹おばあちゃんのときめきの花暮らし』などがある{{R|エイジングアンドヘルス202010_p32}}。本名は紫竹昭代{{R|朝日新聞20210626e_p5}}


== 経歴 ==
== 経歴 ==
1927年(昭和2年)北海道帯広生まれ{{R|道新19980417e_p6}}。子供の頃から花が好きで、姉や友人と自宅近郊の山で遊び{{R|道新20010621e_p3}}、家の近所にも花に恵まれた[[原生花園]]がある環境で育った{{R|サライ20130601_p55}}。旧制北海道庁立帯広高等女学校(後の[[北海道帯広三条高等学校]])在学中、図画の教員から譲られたチューリップの球根を自宅で植え、凍った土を突き破って芽を出したのを見て、花とのかかわりで忘れられない感動となった{{R|道新20010622e_p3}}。
1927年北海道帯広生まれ。夫とは仲が良く一度も喧嘩をしたことがなかったという。チューリップを植えた<ref>{{Cite book|和書|title=るるぶ|publisher=|page=129}}{{Full|date=2021年8月}}</ref>。

終戦直後、20歳で当時の帯広農業専門学校助教授だった紫竹勲と結婚した{{R|道新20010621e_p3}}。夫婦仲の良さは自他共に認めており{{R|理念と経営20090301_p18}}、口喧嘩すら一度もしたことがなく{{R|週刊現代20160616_p8}}、幸福な結婚生活を送っていた{{R|道新19980417e_p6|道新20010627e_p3}}。

56歳のとき{{R|エイジングアンドヘルス202010_p32}}、夫が心筋梗塞で60歳で急逝した{{R|道新20010627e_p3}}。しばらくは悲嘆に暮れていたが、長女から「お母さんは太陽のような人」と言っていた教えられたことが転機となり、幼少時に遊んだ帯広の野原を思い、花々の咲く庭園作りに乗り出した{{R|エイジングアンドヘルス202010_p32}}。土地造成に伴い、幼少時の遊び場である野原が失われていたこともまた、庭園作りの動機の一つとなった{{R|サライ20130601_p55|理念と経営20090301_p18}}。1989年(平成元年)9月、運営会社として有限会社紫竹ガーデン遊華を設立して代表取締役社長に就任、1992年(平成4年)に観光を目的とした庭園「紫竹ガーデン遊華」を、帯広市内に開園した{{R|北海道150年特別功労賞_p7}}。

当時はまだ観光ガーデンが一般的でなかった当時、入場料のみでの経営は困難だったため、庭や花壇作りの営業や講演会などで、北海道中を奔走した{{R|エイジングアンドヘルス202010_p34}}。その甲斐あって紫竹ガーデンは次第にメディアに取り上げられ始め{{R|エイジングアンドヘルス202010_p34}}、初年度は2千人に過ぎなかった入園者数が{{R|週刊現代20160616_p8|サライ20130601_p59}}、6年目の1997年(平成9年)は6万人に達し{{R|道新19980417e_p6}}、2000年(平成12年)には約10万人を超えた{{R|道新20010702e_p3}}。台湾やロシアなど、日本国外からも客が訪れるようになった{{R|理念と経営20090301_p20}}。2008年(平成20年)には、桜の名所づくりを進める財団法人[[日本花の会]]北海道支部の設立と共に、事務局が紫竹ガーデンに置かれ、支部長に就任した{{R|道新20080425m_p27}}。

ガーデンの運営の一方で、[[日本における2019年コロナウイルス感染症の流行状況|新型コロナウイルスの流行]]以来、終息の願いを込めて、疫病除けと伝えられる妖怪の[[アマビエ]]の絵を描いて知人に配っており、一部は没後の同2021年8月には[[東日本高速道路]]に寄贈され、[[十勝地方]]を中心とした[[道東自動車道]]のサービスエリアとパーキングエリアに飾られた{{R|朝日新聞20210810m_p19}}。

2021年(令和3年)5月4日、日課の庭の手入れをしている最中、花の種を手にしたまま倒れ{{R|朝日新聞20210626e_p5}}、同日に帯広市内の病院で、大動脈瘤破裂のため94歳で死去した{{R|道新20210506e_p10}}。

== 人物 ==
紫竹ガーデンの開園以来、1日も休むことなく、花の世話と来客の案内を続けた{{R|エイジングアンドヘルス202010_p32}}。早朝4時に起床し、庭園を見回り、来客に応じ、多忙な1日の末に、気がつくと20時を過ぎていることも多かった{{R|週刊現代20160616_p10}}。

花をモチーフにした華やかな服装も特徴であり、「一緒に写真を撮りたい」との来客の声にも、笑顔で応対した{{R|エイジングアンドヘルス202010_p34}}。心から花を愛し、常に誰にでも笑顔で接することで、多くの人々に親しまれた{{R|サライ20130601_p59}}。

アメリカの園芸家の[[ターシャ・テューダー]]に準えて「北海道のターシャ・テューダー{{R|サライ20130601_p59}}」「日本のターシャ・テューダー{{R|サライ20130601_p57}}」とも呼ばれ、「ガーデン街道のグレートマザー{{R|サライ20130601_p59}}」とも呼ばれた。長女によれば、「花畑の中で花に囲まれて死にたい」と言っていたといい、その言葉の通りの最期であった{{R|朝日新聞20210626e_p5|朝日新聞20210507m_p21}}。

== 著作 ==
* {{Cite book|和書|title=北の国花物語 花と大地の紫竹ガーデン|date=1999-3|publisher=[[六耀社]]|series=りくようしゃガーデニングブック|isbn=978-4-89737-338-6}}
* {{Cite book|和書|title=紫竹おばあちゃんの幸福の庭|date=2008-5|publisher=[[NHK出版]]|isbn=978-4-14-040232-0}}
* {{Cite book|和書|title=咲きたい花はかならず開く|date=2014-2|publisher=[[KADOKAWA]]|isbn=978-4-04-066304-3}}
* {{Cite book|和書|title=87歳。紫竹おばあちゃん幸せの花園|date=2014-5|publisher=海竜社|isbn=978-4-7593-1374-1}}
* {{Cite book|和書|title=紫竹おばあちゃんのときめきの花暮らし|date=2016-4|publisher=[[世界文化社]]|isbn=978-4-418-16213-0}}

== 受賞・表彰歴 ==
* 1995年(平成7年) - 北海道観光連盟 花と緑による景観づくり個人表彰{{R|北海道150年特別功労賞_p7}}
* 2005年(平成17年) - [[日本観光協会]] 花の観光地づくり大賞{{R|北海道150年特別功労賞_p7}}
* 2015年(平成27年) - 園芸文化協会 園芸文化賞{{R|北海道150年特別功労賞_p7}}
* 2018年(平成30年) - 北海道150年特別功労賞{{R|北海道150年特別功労賞_p2}}


== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* {{Cite journal|和書|author=押鐘裕子|date=2013-6-1|title=北海道ガーデン街道を旅する|journal=[[サライ (雑誌)|サライ]]|volume=25|issue=6|publisher=[[小学館]]|id={{NCID|AN10549990}}|ref={{SfnRef|押鐘|2013}}}}
* {{Cite journal|和書|author=[[早坂隆]]|date=2009-3-1|title=企業事例研究 お花は正直で、嘘をつかない。周りを癒す。そしてやっぱり美しいじゃありませんか|journal=理念と経営|issue=39|publisher=コスモ教育出版|id={{全国書誌番号|01016059}}|ref={{SfnRef|早坂|2009}}}}
* {{Cite journal|和書|date=2020-10|title=いつも元気、いまも現役 野の花が自由に咲くお庭「紫竹ガーデン」へようこそ|journal=エイジングアンドヘルス|issue=95|publisher=[[長寿科学振興財団]]|naid=40022386822|url=https://www.tyojyu.or.jp/kankoubutsu/pdf/Aging%26Health_No.95_light.pdf |format=PDF|accessdate=2022-3-6|ref={{SfnRef|長寿科学振興財団|2020}}}}
* {{Cite journal|和書|date=2018-6-16|title=「紫竹ガーデン」に花が咲く 一人のおばあちゃんの夢から生まれた庭園|journal=[[週刊現代]]|volume=60|issue=22|publisher=[[講談社]]|id={{NCID|AN10458851}}|ref={{SfnRef|週刊現代|2018}}}}
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2022年3月23日 (水) 04:51時点における版

しちく あきよ

紫竹 昭葉
2016年の紫竹昭葉
生誕 1927年3月
北海道帯広市
死没 2021年5月4日(94歳没)
北海道帯広市
死因 大動脈瘤破裂
住居 北海道帯広市
国籍 日本の旗 日本
別名 紫竹 昭代(本名)
紫竹おばあちゃん
出身校 北海道庁立帯広高等女学校
活動期間 1992年 - 2021年
活動拠点 北海道帯広市 紫竹ガーデン
肩書き 紫竹ガーデン遊華 社長
配偶者 あり(死別)
受賞 日本観光協会 花の観光地づくり大賞(2005年)
園芸文化協会 園芸文化賞(2015年)
北海道150年特別功労賞(2018年)
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紫竹 昭葉(しちく あきよ、1927年昭和2年〉3月[1] - 2021年〈令和3年〉5月4日[2])は、紫竹ガーデンのオーナー。夫が亡くなったことをきっかけに、紫竹ガーデンをオープンし、運営会社の社長としても活躍した。また、亡くなる前まで庭に出て客を迎え、案内しており「紫竹おばあちゃん」としても親しまれた。著書に『咲きたい花はかならず開く』『紫竹おばあちゃんのときめきの花暮らし』などがある[3]。本名は紫竹昭代[4]

経歴

1927年(昭和2年)北海道帯広生まれ[5]。子供の頃から花が好きで、姉や友人と自宅近郊の山で遊び[6]、家の近所にも花に恵まれた原生花園がある環境で育った[7]。旧制北海道庁立帯広高等女学校(後の北海道帯広三条高等学校)在学中、図画の教員から譲られたチューリップの球根を自宅で植え、凍った土を突き破って芽を出したのを見て、花とのかかわりで忘れられない感動となった[8]

終戦直後、20歳で当時の帯広農業専門学校助教授だった紫竹勲と結婚した[6]。夫婦仲の良さは自他共に認めており[9]、口喧嘩すら一度もしたことがなく[10]、幸福な結婚生活を送っていた[5][11]

56歳のとき[3]、夫が心筋梗塞で60歳で急逝した[11]。しばらくは悲嘆に暮れていたが、長女から「お母さんは太陽のような人」と言っていた教えられたことが転機となり、幼少時に遊んだ帯広の野原を思い、花々の咲く庭園作りに乗り出した[3]。土地造成に伴い、幼少時の遊び場である野原が失われていたこともまた、庭園作りの動機の一つとなった[7][9]。1989年(平成元年)9月、運営会社として有限会社紫竹ガーデン遊華を設立して代表取締役社長に就任、1992年(平成4年)に観光を目的とした庭園「紫竹ガーデン遊華」を、帯広市内に開園した[1]

当時はまだ観光ガーデンが一般的でなかった当時、入場料のみでの経営は困難だったため、庭や花壇作りの営業や講演会などで、北海道中を奔走した[12]。その甲斐あって紫竹ガーデンは次第にメディアに取り上げられ始め[12]、初年度は2千人に過ぎなかった入園者数が[10][13]、6年目の1997年(平成9年)は6万人に達し[5]、2000年(平成12年)には約10万人を超えた[14]。台湾やロシアなど、日本国外からも客が訪れるようになった[15]。2008年(平成20年)には、桜の名所づくりを進める財団法人日本花の会北海道支部の設立と共に、事務局が紫竹ガーデンに置かれ、支部長に就任した[16]

ガーデンの運営の一方で、新型コロナウイルスの流行以来、終息の願いを込めて、疫病除けと伝えられる妖怪のアマビエの絵を描いて知人に配っており、一部は没後の同2021年8月には東日本高速道路に寄贈され、十勝地方を中心とした道東自動車道のサービスエリアとパーキングエリアに飾られた[17]

2021年(令和3年)5月4日、日課の庭の手入れをしている最中、花の種を手にしたまま倒れ[4]、同日に帯広市内の病院で、大動脈瘤破裂のため94歳で死去した[2]

人物

紫竹ガーデンの開園以来、1日も休むことなく、花の世話と来客の案内を続けた[3]。早朝4時に起床し、庭園を見回り、来客に応じ、多忙な1日の末に、気がつくと20時を過ぎていることも多かった[18]

花をモチーフにした華やかな服装も特徴であり、「一緒に写真を撮りたい」との来客の声にも、笑顔で応対した[12]。心から花を愛し、常に誰にでも笑顔で接することで、多くの人々に親しまれた[13]

アメリカの園芸家のターシャ・テューダーに準えて「北海道のターシャ・テューダー[13]」「日本のターシャ・テューダー[19]」とも呼ばれ、「ガーデン街道のグレートマザー[13]」とも呼ばれた。長女によれば、「花畑の中で花に囲まれて死にたい」と言っていたといい、その言葉の通りの最期であった[4][20]

著作

  • 『北の国花物語 花と大地の紫竹ガーデン』六耀社〈りくようしゃガーデニングブック〉、1999年3月。ISBN 978-4-89737-338-6 
  • 『紫竹おばあちゃんの幸福の庭』NHK出版、2008年5月。ISBN 978-4-14-040232-0 
  • 『咲きたい花はかならず開く』KADOKAWA、2014年2月。ISBN 978-4-04-066304-3 
  • 『87歳。紫竹おばあちゃん幸せの花園』海竜社、2014年5月。ISBN 978-4-7593-1374-1 
  • 『紫竹おばあちゃんのときめきの花暮らし』世界文化社、2016年4月。ISBN 978-4-418-16213-0 

受賞・表彰歴

  • 1995年(平成7年) - 北海道観光連盟 花と緑による景観づくり個人表彰[1]
  • 2005年(平成17年) - 日本観光協会 花の観光地づくり大賞[1]
  • 2015年(平成27年) - 園芸文化協会 園芸文化賞[1]
  • 2018年(平成30年) - 北海道150年特別功労賞[21]

脚注

  1. ^ a b c d e 北海道150年特別功労賞” (PDF). 北海道. p. 7 (2018年). 2022年3月6日閲覧。
  2. ^ a b 「訃報 紫竹昭葉さん(紫竹ガーデン遊華社長)」『北海道新聞』、2021年5月6日、全道夕刊、10面。
  3. ^ a b c d 長寿科学振興財団 2020, pp. 32–33
  4. ^ a b c 中沢滋人「惜別 紫竹昭葉さん 65歳で観光庭園を開いた名物おばあちゃん」『朝日新聞朝日新聞社、2021年6月26日、東京夕刊、5面。
  5. ^ a b c 岩淵啓介「生きる 紫竹昭葉さん 紫竹ガーデン遊華オーナー 花の香る“野原”をつくる」『北海道新聞北海道新聞社、1998年4月17日、全道夕刊、6面。
  6. ^ a b 川上昌弘「私のなかの歴史 紫竹ガーデン遊華代表 紫竹昭葉さん 花に恋して 開園 野の花を残したい一心で」『北海道新聞』、2001年6月21日、全道夕刊、3面。
  7. ^ a b 押鐘 2013, p. 55
  8. ^ 川上昌弘「私のなかの歴史 紫竹ガーデン遊華代表 紫竹昭葉さん 2 花に恋して 芽生え 球根の生命力に感じ入る」『北海道新聞』、2001年6月22日、全道夕刊、3面。
  9. ^ a b 早坂 2009, pp. 18–19
  10. ^ a b 週刊現代 2018, p. 8
  11. ^ a b 川上昌弘「私のなかの歴史 紫竹ガーデン遊華代表 紫竹昭葉さん 花に恋して 夫の死 突然の悲しみで抜け殻に」『北海道新聞』、2001年6月27日、全道夕刊、3面。
  12. ^ a b c 長寿科学振興財団 2020, pp. 34–35
  13. ^ a b c d 押鐘 2013, p. 59
  14. ^ 川上昌弘「私のなかの歴史 紫竹ガーデン遊華代表 紫竹昭葉さん 花に恋して 夢 北海道らしさ感じる庭を」『北海道新聞』、2001年7月2日、全道夕刊、3面。
  15. ^ 早坂 2009, pp. 20–21
  16. ^ 西田美樹「道支部長に紫竹さん 日本花の会設立総会 苗植樹や講演会も」『北海道新聞』、2008年4月25日、帯B朝刊、27面。
  17. ^ 中沢滋人「紫竹おばあちゃん画、鮮やかアマビエ見守る 道東道SAなど飾り付け 北海道」『朝日新聞』、2021年8月10日、北海道朝刊、19面。
  18. ^ 週刊現代 2018, p. 10
  19. ^ 押鐘 2013, p. 57
  20. ^ 中沢滋人「60代で庭園造り、最期まで花に囲まれ 帯広・「紫竹ガーデン」社長死去」『朝日新聞』、2021年5月7日、北海道朝刊、21面。
  21. ^ 北海道 2018, p. 2

参考文献