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「東京電力 (1925-1928)」の版間の差分

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|略称 = 東力
|略称 = 東力
|本社所在地 = {{JPN}}<br />[[東京市]][[麹町区]][[大手町 (千代田区)|永楽町2丁目]]10番地
|本社所在地 = {{JPN}}<br />[[東京市]][[麹町区]][[大手町 (千代田区)|永楽町2丁目]]10番地
|設立 = [[1925年]](大正14年)[[3月16日]]<ref name="kanpo19250807">「[[商業登記]] 株式会社設立・群馬電力株式会社変更・早川電力株式会社解散」『[[官報]]』第3887号附録、1925年8月7日付。{{NDLJP|2956036/20}}</ref>
|設立 = [[1925年]](大正14年)[[3月16日]]
|解散 = [[1928年]](昭和3年)[[41日]]<br />([[東京電灯]]と合併)
|解散 = [[1928年]](昭和3年)[[518日]]<ref name="kanpo19280818">「商業登記 東京電力株式会社解散」『官報』第494号、1928年8月18日付。{{NDLJP|2956955/10}}</ref><br />([[東京電灯]]と合併し解散
|業種 = [[:Category:日本の電気事業者 (戦前)|電気]]
|業種 = [[:Category:日本の電気事業者 (戦前)|電気]]
|事業内容 = [[電力会社|電気供給事業]]、[[鉄道事業者|電気軌道事業]]
|事業内容 = [[電力会社|電気供給事業]]、[[鉄道事業者|電気軌道事業]]
|代表者 = [[田島達策]]社長)<br />[[松永安左エ門]](副社長)
|代表者 = 社長 [[田島達策]]・副社長 [[松永安左エ門]]
|公称資本金 = 6825万円
|公称資本金 = 6825万円
|払込資本金 = 同上
|払込資本金 = 6825万円
|株式数 = 136万5000株(額面50円払込済)
|株式数 = 136万5000株(額面50円払込済)
|総資産 = 1億6678万6千
|総資産 = 1億6678万6210
|収入 = 758万2千
|収入 = 758万2926
|支出 = 456万7千
|支出 = 456万7903
|純利益 = 301万5千
|純利益 = 301万5022
|配当率 = 年率8.0%
|配当率 = 年率8.0%
|株主数 = 5256名
|主要株主 = [[東邦電力|東邦証券]] (30.1%)、[[東邦電力]] (11.0%)、[[安田財閥|安田保善社]] (5.5%)、田島達策<!--田島合名会社--> (2.7%)、[[穴水要七]]<!--穴水合名会社--> (1.3%)
|決算期 = 5月末・11月末(年2回)
|決算期 = 5月末・11月末(年2回)
|特記事項 = 資本金以下は1927年11月期決算による<ref name="kabu1928">[[#kabu1928|『株式年鑑』昭和3年度]]474頁。{{NDLJP|1075356/337}}</ref>
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}}
}}
'''東京電力株式会社'''(とうきょうでんりょく かぶしきがいしゃ)は、[[1925年]]([[大正]]14年)から[[1928年]]([[昭和]]3年)にかけて存在した[[日本の電力会社]]である。当時の大手電力会社[[東邦電力]]の系列で、社名の通り[[東京]]への電力供給行った。
'''東京電力株式会社'''(とうきょうでんりょく かぶしきがいしゃ)は、[[1925年]]([[大正]]14年)から[[1928年]]([[昭和]]3年)にかけて存在した[[日本の電力会社]]である。当時の大手電力会社[[東邦電力]][[東京]]進出図るべく設立した。


[[山梨県]]での水力開発を目的に設立された'''早川電力株式会社'''(はやかわでんりょく)と、[[群馬県]]での水力開発を目的に設立された'''群馬電力株式会社'''(ぐんまでんりょく)の2社を前身とする。東京電力は両社の合併により設立され、東京において[[明治]]期より存在する[[東京電燈|東京電灯]]を相手として激しい需要家争奪戦、通称「電力戦」を展開した。
前身は[[山梨県]]での水力開発を目的に設立された'''早川電力株式会社'''(はやかわでんりょく)と、[[群馬県]]での水力開発を目的に設立された'''群馬電力株式会社'''(ぐんまでんりょく)の2社。東京電力は両社の合併により設立され、東京において[[明治]]期より存在する[[東京電灯]]を相手として激しい需要家争奪戦、通称「電力戦」を展開した。


[[東京府]]内以外にも[[神奈川県]]・[[静岡県]]・山梨県を中心に供給区域を広げたが、1928年、電力戦の末に競争相手の東京電灯との合併が成立、同社に吸収され消滅した。その後の再編で東京電力が経営した発電所や供給区域は[[東京電力ホールディングス|東京電力(1951年設立)]]と[[中部電力]]に継承されている。
既存の東京電灯が「東電」(とうでん)と通称されたのに対し、後発の東京電力は「'''東力'''」(とうりょく)と呼ばれた<ref>一例として「東電と東力の合併決定す」『[[中外商業新報]]』1927年12月15日付([http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10028433&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE 神戸大学附属図書館 新聞記事文庫]収録)。</ref>。1928年、電力戦の末に競争相手の東京電灯との合併が成立、同社に吸収され消滅した。

本項目では、東京電力とその前身たる早川電力・群馬電力についても記述する。


== 概要 ==
== 概要 ==
東京電力株式会社は、[[1925年]](大正14年)3月に早川電力と群馬電力の2社が合併し成立した電力会社である。本社は[[東京府]][[東京市]][[麹町区]](現・[[東京都]][[千代田区]])。
東京電力株式会社は、[[1925年]](大正14年)3月に早川電力と群馬電力の2社が合併し成立した電力会社である。本社は[[東京府]][[東京市]][[麹町区]](現・[[東京都]][[千代田区]])。明治時代から東京を地盤に営業する[[東京電灯]]が「東電」(とうでん)と通称されたのに対し、後発の東京電力は「'''東力'''」(とうりょく)と略される<ref>一例として「[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10028433&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE 東電と東力の合併決定す]」『[[中外商業新報]]』1927年12月15日付(神戸大学附属図書館「新聞記事文庫」収録)。</ref>


前身の早川電力は、社名にある[[早川 (山梨県)|早川]]([[富士川]]水系、[[山梨県]]を流れる)の開発を目的として[[1918年]](大正7年に設立。[[浜松市]]をはじめとるす[[静岡県]]西部に供給したほか、東京市などにおける電力供給許可を得ていた。一方群馬電力は[[1919年]](大正8年に設立。[[群馬県]]を流れる[[利根川]]水系[[吾妻川]]を開発し、主として[[神奈川県]][[川崎市]]一帯の京浜地区に電気を供給していた。この2社を結びつけたのは、戦前期の大手電力会社「五大電力」の一つ[[東邦電力]]である。[[1923年]](大正12年)から翌年にかけて早川電力・群馬電力の双方を傘下に収め、1925年に両社の合併を主導して東京電力を成立させた。東邦電力が経営を握るとともに、[[安田財閥]]が金融面で後援していた。
前身の早川電力は、社名にある[[早川 (山梨県)|早川]]([[富士川]]水系、[[山梨県]]を流れる)の開発を目的として[[1918年]](大正7年)6月に設立。[[浜松市]]をはじめとるす[[静岡県]]西部に供給したほか、東京市などにおける電力供給許可を得ていた。一方群馬電力は[[1919年]](大正8年)7月に設立。[[群馬県]]を流れる[[利根川]]水系[[吾妻川]]を開発し、主として[[神奈川県]][[川崎市]]一帯の京浜地区に電気を供給していた。この2社を結びつけたのは、戦前期の大手電力会社「五大電力」の一つ[[東邦電力]]である。[[1923年]](大正12年)から翌年にかけて早川電力・群馬電力の双方を傘下に収め、1925年に両社の合併を主導して東京電力を成立させた。東邦電力が経営を握るとともに、[[安田財閥]]が金融面で後援していた。


供給区域は[[1926年]](大正15年)に静岡県の電力会社[[静岡電力]]を合併したこともあり、最終的に東京府と神奈川・群馬・山梨・静岡・愛知の5県に拡大した。また供給事業以外にも、群馬県内において電源開発に関連して全長21キロメートルの[[電気鉄道|電気軌道]]を経営した。群馬電力が[[1924年]](大正14年)に[[吾妻軌道]]を合併したために兼営事業となったものだが、本業の電気供給事業に比べると事業規模ははるかに小さい。
[[関東地方]]を地盤として五大電力の一角を占める[[東京電燈|東京電灯]]とは京浜地区において群馬電力の時代から競合関係にあったが、東京電力が東京市内および同市郊外の工業地域にて[[1927年]](昭和2年)1月より電力供給を始めるに及んで大口の電力需要家を互いに奪い合う激しい「電力戦」へと発展した。この需要家争奪戦の行く末を危惧した金融機関の代表者が仲介に入り、同年12月に合併契約の締結に至り、電力戦は終結、翌[[1928年]](昭和3年)4月に東京電力は東京電灯に合併されて解散した。


東京電力の供給区域は、[[関東地方]]を地盤として五大電力の一角を占める[[東京電灯]]の供給区域と東京府内および神奈川県の一部において重複していた。同社との競合関係は群馬電力の時代から生じていたが、東京電力が東京市内とその郊外に広がる工業地域に対して[[1927年]](昭和2年)1月より電力供給を始めると、大口の電力需要家を互いに奪い合う激しい「電力戦」へと発展した。東京電力では着実に供給を伸ばしたものの、投資額に見合う水準には達しなかった。対する東京電灯でも業績悪化に直面する。同年3月に[[昭和金融恐慌]]が発生したこともあり、両社の需要家争奪戦の行く末を危惧した金融機関の代表者が仲介に入り、1927年12月に合併契約の締結に至り電力戦は終結、翌[[1928年]](昭和3年)4月に東京電力は東京電灯に合併されて解散した。
東京電力が供給していた地域は1951年に発足した戦後の[[東京電力]]の営業区域に含まれるが、静岡県中西部は[[中部電力]]区域となっている。また供給事業以外にも群馬県で[[鉄道事業者|鉄道事業]]([[電気鉄道|電気軌道]])を営んでいたが、鉄道事業収入は総収入の0.3%(1927年11月期)<ref name="kabu1928"/>と小規模であり、なおかつ運営していた路線は現存しない。

東京電力の供給区域や発電所はその後の再編を経て大部分が戦後[[東京電力ホールディングス|東京電力]](1951年設立)に継承されたが、静岡・愛知両県には[[中部電力]]に引き継がれた部分もある。一方、運営していた軌道路線は東京電灯によって廃止されており現存しない。


== 前身会社の東京進出 ==
== 前身会社の東京進出 ==
以下、東京電力の沿革のうち、前身会社早川電力・群馬電力の沿革について記述する。ただし両社の電源開発については下記[[#電源開発|電源開発の]]を参照のこと
以下、東京電力の沿革のうち、前身会社早川電力・群馬電力の沿革について記述する。ただし両社の電源開発については下記[[#電源開発の推移]]にて別途詳述する


=== 早川電力の設立 ===
=== 早川電力の設立 ===
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|社名 = 早川電力株式会社
|社名 = 早川電力株式会社
|種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
|種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
|本社所在地 = {{JPN}}<br />[[東京市]][[麹町区]]永楽町1丁目1番地
|本社所在地 = {{JPN}}<br />[[東京市]][[麹町区]][[丸の内|永楽町1丁目]]1番地
|設立 = [[1918年]](大正7年)[[6月28日]]
|設立 = [[1918年]](大正7年)[[6月28日]]<ref name="kanpo19180821">「商業登記 株式会社(設立)」『官報』第1816号附録、1918年8月21日付。{{NDLJP|2953929/14}}</ref>
|解散 = [[1925年]](大正14年)[[3月16日]]<br />(群馬電力と合併し東京電力を新設)
|解散 = [[1925年]](大正14年)[[3月16日]]<ref name="kanpo19250807"/><br />(群馬電力と合併し東京電力を新設)
|業種 = [[:Category:日本の電気事業者 (戦前)|電気]]
|業種 = [[:Category:日本の電気事業者 (戦前)|電気]]
|事業内容 = [[電力会社|電気供給事業]]
|事業内容 = [[電力会社|電気供給事業]]
|代表者 = [[松永安左エ門]](社長
|社長 = 初代 [[窪田四郎]](1919 - 1924年)<br />2代目 [[松永安左エ門]](1924 - 1925年
|公称資本金 = 3000万円
|公称資本金 = 3000万円
|払込資本金 = 1875万円
|払込資本金 = 1875万円
|株式数 = 旧株:30万株(額面50円払込済)<br />新株:30万株(12円50銭払込)
|株式数 = 旧株:30万株(額面50円払込済)<br />新株:30万株(12円50銭払込)
|総資産 = 48010千
|総資産 = 3676883(未払込資本金を除く)
|収入 = 182万7千
|収入 = 182万7569
|支出 = 108万9千
|支出 = 108万9685
|純利益 = 73万7千
|純利益 = 73万7883
|配当率 = 年率10.0%
|配当率 = 年率10.0%
|株主数 = 1946名
|主要株主 = [[東邦電力]] (56.8%)、[[三菱マテリアル|三菱鉱業]] (2.5%)、[[窪田四郎]] (2.0%)
|決算期 = 5月末・11月末(年2回)
|決算期 = 5月末・11月末(年2回)
|特記事項 = 資本金以下は1924年11月期決算による<ref name="kabu1925-132">[[#kabu1925|『株式年鑑』大正14度]]132頁。{{NDLJP|986998/149}}</ref>
|特記事項 = 資本金以下は1924年11月期決算時点<ref name="reportH13">「早川電力株式会社第13回大正13下半期営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>
}}
}}
東京電力の前身の一つ、'''早川電力株式会社'''は、[[1918年]](大正7年)[[6月28日]]に創立総会いて成立した<ref name="toasa_19180629">「早川電力創立総会」『[[東京朝日新聞]]』1918年6月29日付朝刊</ref>。設立時の[[資本金]]は800万円<ref name="jitsugyo_192009">[[#jitsugyo_192009|「解剖と批判 早川電力の前途」]]</ref>。設立の目的は、[[山梨県]]南部を流れる[[富士川]]支流[[早川 (山梨県)|早川]]の水力2万3,000馬力を開発、[[水力発電所]]を建設し、その電力を[[静岡県]]供給することにあった<ref name="jitsugyo_192009"/>。
東京電力の前身の一つ、'''早川電力株式会社'''は、[[1918年]](大正7年)[[6月28日]]に創立総会かれ発足した<ref name="reportH1">「早川電力株式社第1回報告書(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。設立時の[[資本金]]は800万円(うち200万円払込)<ref name="kanpo19180821"/>。設立の目的は、[[山梨県]]南部を流れる[[富士川]]支流[[早川 (山梨県)|早川]]の水力2万3000[[馬力]]を開発それらの[[水力発電所]]からの電力を[[静岡県]]内へ供給することにあった<ref name="jitsugyo192009">[[#jitsugyo192009|「解剖と批判 早川電力の前途」(『実業之日本』)]]</ref>。

当初の社長は、[[富士製紙]]の社長でもあった[[窪田四郎]]である<ref name="koron192309">[[#koron192309|「早川電力株式会社の現況」(『実業公論』)]]</ref>。設立当初の早川電力は株式の過半数を富士製紙が保有していた<ref name="koron192309"/>。同社は明治中期に設立された[[製紙業|製紙会社]]で、富士川下流域の静岡県[[富士郡]]にて製紙工場を操業<ref>[[#shinfuji|『新富士製紙百年史』]]6-15頁</ref>。製紙工場への電力供給を目的として[[1907年]](明治40年)11月に[[富士水電]]を設立<ref>[[#kanto|『関東の電気事業と東京電力』]]279-283頁</ref>、後に進出した[[北海道]]でも電気事業を営み[[1919年]](大正8年)10月に富士電気(後の[[大日本電力]])を設立するなど<ref name="dainihon">[[#dainihon|『大日本電力二十年史』]]1-17頁</ref>、各地で電気事業に関与していた。窪田は富士製紙の社長職を1919年5月に退き[[大川平三郎]]に譲った<ref name="dainihon"/>。大川の下での富士製紙は北海道や[[樺太]]に事業の中心を移し、早川電力の株式も手放した{{Refnest|group=注釈|富士製紙の持株は[[三菱マテリアル|三菱鉱業]]などで引き受けた<ref>「[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10031783&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA 問題の会社 早川電力の内容(上)・三菱鉱業の内容(下)]」『[[中外商業新報]]』1923年2月17日付。神戸大学附属図書館「新聞記事文庫」収録</ref>。}}ため、早川電力に留まった窪田はその責任上その経営に集中することとなった<ref name="koron192309"/>。


社長以下の経営首脳として専務取締役に森田一雄が就任した<ref name="reportH1"/>。森田は[[東京大学|東京帝国大学]]出身の電気技術者で、[[九州水力電気]]技師長を務めたのち1915年より富士製紙電気部長兼技術部長であった<ref>[[#tanigawa|谷川竜一「電気技術者・森田一雄と水力発電」]]</ref>。その他の[[取締役]]には[[穴水要七]](富士製紙専務<ref>[[#kabu1919|『株式年鑑』大正8年度]]546頁。{{NDLJP|975421/280}}</ref>)・[[伯爵]][[副島道正]]・[[久野昌一]](元[[十五銀行]]支配人<ref>[[#koshin5|『人事興信録』第5版]]ひ49頁。{{NDLJP|1704046/1309}}</ref>)・[[前田米蔵]]([[衆議院]]議員<ref>[[#koshin5|『人事興信録』第5版]]ま11頁。{{NDLJP|1704046/918}}</ref>)らがいる<ref name="kanpo19180821"/>。本社は[[東京市]]内{{Refnest|group=注釈|設立時の所在地は[[麹町区]][[丸の内|有楽町1丁目]]1番地<ref name="kanpo19180821"/>。1924年4月に麹町区[[丸の内|永楽町1丁目]]1番地の[[東京海上日動ビルディング|東京海上ビル]]へ移転<ref name="reportH13"/>。}}に設置<ref name="kanpo19180821"/>。1918年7月26日付で富士製紙・[[日英水電]]に対する電力供給ならびに電気化学工業を目的とする[[電気事業法]]準用事業の認定を[[逓信省]]より得ている<ref>「電気事業法準用事業認定公告」『官報』第1795号、1918年7月26日付。{{NDLJP|2953908/5}}</ref>。
当初の社長は、[[富士製紙]]の社長でもあった[[窪田四郎]]である<ref name="koron_192309">[[#koron_192309|「早川電力株式会社の現況」]]</ref>。設立当初は富士製紙への電力供給を目的としており、株式の過半数を同社が保有していた<ref name="koron_192309"/>。同社は明治中期に設立された[[製紙業|製紙会社]]で、富士川下流域の静岡県[[富士郡]]にて製紙工場を操業<ref>[[#shinfuji|『新富士製紙百年史』]]6-15頁</ref>。製紙工場への電力供給を目的として[[1907年]](明治40年)11月に[[富士水電]]を設立<ref>[[#kanto|『関東の電気事業と東京電力』]]279-283頁</ref>、後に進出した[[北海道]]でも電気事業を営み[[1919年]](大正8年)10月に富士電気(後の[[大日本電力]])を設立する<ref name="dainihon">[[#dainihon|『大日本電力二十年史』]]1-17頁</ref>など、各地で電気事業に関与していた。窪田は、富士製紙の社長職を1919年5月に退き[[大川平三郎]]に譲った<ref name="dainihon"/>。これ以降富士製紙は北海道や[[樺太]]に事業の中心を移し、なおかつ持株を手放したため、早川電力に留まった窪田はその責任上同社の経営に集中することとなった<ref name="koron_192309"/>。


早川電力は発足後、早川開発の第一期工事に着手するが、有利な供給区域を持たないため[[1920年]](大正9年)3月に[[日英水電|日英水電株式会社]]を合併た<ref name="jitsugyo_192107">[[#jitsugyo_192107|「財界批判 早川電力」]]</ref>。同社の資本金は300万円で、合併に際し同社株主に対し1株につき早川電力株式1株ずつ交付したため、早川電力の資本金は300万円増加して1100万円となっている<ref name="jitsugyo_192009"/>。合併により日英水電から水力発電所3か所などを引き継ぎ、[[浜松市]]を中心とする静岡県西部に電気の供給を開始した<ref name="jitsugyo_192107"/>。さらに[[1922年]](大正11年)2月には[[天竜電力]]{{refnest|group=注釈|[[1908年]](明治41)9月、[[磐田郡]][[天竜市|二俣町]](現浜松市[[天竜区]])を供給区域として開業<ref name="shizuoka">[[#shizuoka|『静岡県電気事業概要』]]2-4。{{NDLJP|976231/18}}</ref>。合併前年時点で二俣町のほか磐田郡内の[[見付町]][[中泉町]](現・[[磐田市]])や袋井町(現・[[袋井市]])なども供給区域とした<ref>[[#yoran13|『電気事業要覧第13回]]58-59頁。{{NDLJP|975006/59}}</ref>。}}・福田電力{{refnest|group=注釈|[[1916年]](大正5)5月、磐田郡[[福田町 (静岡県)|福島村]](現・磐田市ほか1供給区域として開業<ref name="shizuoka"/>。}}・東遠電気{{refnest|group=注釈|[[1912年]](明治45)6[[榛原郡]][[川崎町 (静岡県)|川崎町]](現[[牧之原市]])ほか2町村供給区域とて開業<ref name="shizuoka"/>。}}の3併して静岡県西部での供給区域を広げた<ref name="toho-187">[[#toho|『東邦電力史』]]187-189頁</ref>。なお3社合併資本金は1500万円となった<ref name="kabu1925-132"/>。
設立なった早川電力は早川開発の第一期工事に着手するが、有利な供給区域を持たないため日英水電合併に踏み切った<ref name="jitsugyo192107">[[#jitsugyo192107|「財界批判 早川電力」(『実業之日本』)]]</ref>。日英水電は[[1911年]](明治44)に設立され、[[静岡県]]西部の[[浜松市|浜松]]・[[島田市|島田]]地区に供給していた電力会社で<ref name="hama-81">[[#hamamatsu|「浜松地方電気事業沿革史」]]81-86頁</ref>、早川電力と取締役一部が重なる(共通の取締役副島道正久野昌一<ref>[[#kabu1919|『株式年鑑大正8年度]]274頁。{{NDLJP|975421/147}}</ref>。[[1920年]](大正9)24日に逓信省から合併認可があり同年3月15日の合併報告総会をもって手続きが完了した<ref name="reportH4">「早川電力株式会社第4回報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録</ref>。日英水電の資本金は300万円で、合併に際し同社株主に対し1株につき早川電力株式1株ずつ交付たため、早川電力の資本金は300万円増の1100万円となっいる<ref name="jitsugyo192009"/>。さらに[[1922年]](大正11)225日合併認可・4月12日合併報告総会という手順で[[天竜電力]]・福田電力・東遠電気の3社合併し<ref name="reportH8">「早川電力株式会第8回報告書」(J-DAC「企業史料統データベース」収録)</ref>、静岡県西部での供給区域を拡大した<ref name="toho-187">[[#toho|『東邦電力史』]]187-189頁</ref>。3社合併後の資本金は400万円増の1500万円である<ref name="reportH8"/>。
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|社名 = 群馬電力株式会社
|社名 = 群馬電力株式会社
|種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
|種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
|本社所在地 = {{JPN}}<br />東京市麹町区永楽町2丁目10番地
|本社所在地 = {{JPN}}<br />東京市麹町区[[大手町 (千代田区)|永楽町2丁目]]10番地
|設立 = [[1919年]](大正8年)[[7月5日]]
|設立 = [[1919年]](大正8年)[[7月5日]]<ref name="kanpo19191009">「商業登記 株式会社(設立)」『官報』第2155号附録、1919年10月9日付。{{NDLJP|2954268/14}}</ref>
|解散 = [[1925年]](大正14年)[[3月16日]]<br />(早川電力と合併し東京電力を新設)
|解散 = [[1925年]](大正14年)[[3月16日]]<ref name="kanpo19250807"/><br />(早川電力と合併し東京電力を新設)
|業種 = [[:Category:日本の電気事業者 (戦前)|電気]]
|業種 = [[:Category:日本の電気事業者 (戦前)|電気]]
|事業内容 = 電気供給事業、[[鉄道事業者|電気軌道事業]]
|事業内容 = 電気供給事業、[[鉄道事業者|電気軌道事業]]
|代表者 = [[田島達策]](社長)<br />松永安左エ門(副社長
|代表者 = 初代社長 [[安田善三郎]](1919 - 1920年)<br />2代社長 [[安田善五郎]](1920 - 1923年)<br />3代社長 [[田島達策]](1923 - 1924年)<br />副社長 松永安左エ門(1923 - 1924年
|公称資本金 = 1225万円
|公称資本金 = 1225万円
|払込資本金 = 625万円
|払込資本金 = 625万円
|株式数 = 旧株:24万株(25円払込)<br />合併株:5000株(額面50円払込済)
|株式数 = 旧株:24万株(25円払込)<br />株:5000株(額面50円払込済)
|総資産 = 32477千
|総資産 = 26477142(未払込資本金を除く)
|収入 = 144万0千
|収入 = 144万863
|支出 = 118万6千
|支出 = 118万6271
|純利益 = 25万4千
|純利益 = 25万4592
|配当率 = 年率7.5%
|配当率 = 年率7.5%
|株主数 = 1096名
|主要株主 = [[安田財閥|安田保善社]] (29.1%)、[[京浜電気鉄道]] (12.2%)、[[東邦電力]] (11.1%)、田島達策<!--田島合名会社--> (10.9%)
|決算期 = 5月末・11月末(年2回)
|決算期 = 5月末・11月末(年2回)
|特記事項 = 資本金以下は1924年11月期決算による<ref name="kabu1925-139">[[#kabu1925|『株式年鑑』大正14年度]]139頁。{{NDLJP|986998/152}}</ref>
|特記事項 = 資本金以下は1924年11月期決算時点<ref name="reportG11">「群馬電力株式会社第11回報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>
}}
}}
もう一つの前身会社である'''群馬電力株式会社'''は、[[1919年]](大正8年)[[7月5日]]に資本金700万円で設立された電力会社である<ref name="zaikei_192008">[[#zaikei_192008|「群馬電力株式会社」]](『財政と経済』)</ref>。[[群馬県]]を流れる[[利根川]]支流[[吾妻川]]における水力発電を設立の目的とした<ref name="zaikei_192008"/>。
もう一つの前身会社である'''群馬電力株式会社'''は、[[1919年]](大正8年)[[7月5日]]に資本金700万円(うち175万円払込)で設立された電力会社である<ref name="kanpo19191009"/><ref name="zaikei192008">[[#zaikei192008|「群馬電力株式会社」(『財政と経済』)]]</ref>。[[群馬県]]を流れる[[利根川]]支流[[吾妻川]]における水力発電を目的とした<ref name="zaikei192008"/>。


吾妻川は、途中で[[白砂川]](当時は須川、上流部に[[草津温泉]]がある)が流れ込む影響で水質が[[酸|酸性]]を帯びており、工事への懸念から県内のほかの河川にて水力発電計画が浮上する中でも計画が立てられず取り残されていた<ref name="tajima-125">[[#tajima|『城山翁喜寿の賀』]]125-133頁</ref>。群馬県出身の実業家[[田島達策]]([[ミツウロコグループホールディングス|ミツウロコ]]初代社長)はこの吾妻川に目をつけ、[[1906年]](明治39年)に吾妻川下流の水利権を取得する<ref name="tajima-125"/>。開発にあたっては[[安田財閥]]が後援となり、1919年に群馬電力が発足すると社長には安田家から[[安田善三郎]]が就任後に[[安田善五郎]]に交代、専務も安田系の小倉鎮之助った<ref name="tajima-133">[[#tajima|『城山翁喜寿』]]133-139頁</ref>。田島は副社長となったが、安田家から社長が出されたのは同家の慣例によるもので実際の仕事は田島や専務の小倉に任されていたという<ref name="tajima-133"/>。
吾妻川は、途中で[[白砂川]](当時の呼称須川、上流部に[[草津温泉]]がある)が流れ込む影響で水質が[[酸|酸性]]を帯びており、工事への懸念から県内のほかの河川にて水力発電計画が浮上する中でも計画が立てられず取り残されていた<ref name="tajima-125">[[#tajima|『城山翁喜寿の賀』]]125-133頁</ref>。群馬県出身の実業家[[田島達策]]([[ミツウロコグループホールディングス|ミツウロコ]]初代社長)はこの吾妻川に目をつけ、[[1906年]](明治39年)に吾妻川下流の水利権を取得する<ref name="tajima-125"/>。開発にあたっては[[安田財閥]]が後援となり<ref name="tajima-133">[[#tajima|『城山翁喜寿の賀』]]133-139頁</ref>、群馬電力の設立際しては[[安田善三郎]]が2万株、善三郎が社長<!--1918年から1923年-->を務める京浜電気鉄道現・[[京浜急行電鉄]])が同じく2万株を持つ筆頭株主となった<ref name="kanto-336">[[#kanto|『関東電気事業と東京電力』]]336-338頁</ref>。社長に安田善三郎、副社長には田島達策専務には安田系の小倉鎮之助がそれぞれ就任<ref name="tajima-133"/>。安田家から社長が出されたのは同家の慣例によるもので実際の仕事は田島や専務の小倉に任されていたという<ref name="tajima-133"/>。本社は東京市内{{Refnest|group=注釈|当初の所在地は[[京橋区]][[銀座|西紺屋町]]3番地<ref>「群馬電力株式会社第1回報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。関東大震災で事務所が全焼したため麹町区[[大手町 (千代田区)|永楽町2丁目]]10番地の[[永楽ビルディング|永楽ビル]]に仮移転ののち<ref name="reportG9">「群馬電力株式会社第9回報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>、翌1924年5月正式に同地へ移転<ref name="reportG10"/>。}}に置かれた<ref name="kanpo19191009"/>。


群馬電力は吾妻川において[[#金井発電所(吾妻川)|金井発電所]]の建設を計画していたが、同発電所の放水を利用する発電所を別個に建設すべく吾妻電気株式会社という電力会社も設立されていた<ref name="jitsugyo_192108">[[#jitsugyo_192108|「財界批判 群馬電力」]]</ref>。吾妻電気は資本金は500万円で1920年6月1日を開催、安田善三郎が社長、小倉鎮之助が専務となり、田島達策らが取締役に就任<ref name="yomiuri_19200603">「吾妻電気成立」『[[読売新聞]]』1920年6月3日付朝刊。</ref>。株式払い込みの都合上別に設立された姉妹会社であり<ref name="zaikei_192008"/>、群馬電力は同年7同社吸収し、資本金1200万円とした<ref name="kabu1925-139"/><ref name="jitsugyo_192108"/>。さらに[[1924年]](大正13年)9月に、吾妻川沿いの[[中之条町]]などに電気を供給し[[電気鉄道|電気軌道]]事業も営む[[吾妻軌道]]を合併し、資本金を1225万円とている<ref name="toho-192">[[#toho|『東邦電力史』]]192-194頁</ref>。
群馬電力は吾妻川において[[#金井発電所(吾妻川)|金井発電所]]の建設を計画していたが、同発電所の放水を利用する発電所を別個に建設すべく吾妻電気株式会社という電力会社も設立されていた<ref name="jitsugyo192108">[[#jitsugyo192108|「財界批判 群馬電力」(『実業之日本』)]]</ref>。同社は資本金は500万円で1920年6月1日に設<ref name="kanpo19201228">「商業登記 株式社(設立)」『官報』第2523号附録1920年12月28日付。{{NDLJP|2954638/31}}</ref>。安田善三郎が社長、小倉鎮之助が専務となり、田島達策らが取締役に名を連ねた<ref>「吾妻電気成立」『[[読売新聞]]』1920年6月3日付朝刊。</ref>。株式払い込みの都合上別に設立された姉妹会社であり<ref name="zaikei192008"/>、群馬電力は同年621日付で合併契約締結し、11月5日合併報告総会終えて合併手続きを遂げた<ref name="reportG3">「群馬電力株式会社第3回報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。合併後の資本金は500万円増の1200万円となっている<ref name="reportG3"/>。なお合併報告総会後に経営陣の改選があり、安田善三郎に代わって[[安田善五郎]]が社長に就任した<ref name="reportG3"/>。

吾妻電気に続く合併は[[吾妻軌道|吾妻軌道株式会社]]であり、4年後の[[1924年]](大正13年)4月29日付で合併契約を締結<ref name="reportG10">「群馬電力株式会社第10回報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>、10月27日合併報告総会を終えた<ref name="reportG11"/>。同社は吾妻川に沿う[[渋川市|渋川]]・[[中之条町|中之条]]間の[[電気鉄道|電気軌道]]事業と中之条地区の電気供給事業を兼営する会社である<ref name="toho-192">[[#toho|『東邦電力史』]]192-194頁</ref>。従って群馬電力も合併後は電気軌道事業兼営となっている(下記[[#軌道事業について]]参照)。合併後の資本金は1225万円であった<ref name="toho-192"/>。


=== 東京進出の経緯 ===
=== 東京進出の経緯 ===
[[ファイル:Tajima Tatsusaku.jpg|thumb|upright|群馬電力初代副社長・3代社長[[田島達策]]]]
前身2社のうち、先に東京進出を果たしたのは群馬電力であった。同社は当初から東京方面への送電を想定しており、東京方面と発電所周辺に供給しつつ発生電力の過半を京浜電気鉄道(現・[[京浜急行電鉄]])へ供給する計画を立てていた<ref name="jitsugyo_192108"/>。京浜電気鉄道は東京と[[横浜市|横浜]]を結ぶ電鉄会社で、群馬電力と同様安田財閥系の企業であり、重役も一部重複していた<ref name="tajima-133"/>。また群馬電力の設立にあたって、電力供給を前提に京浜電気鉄道は株式の一部を引き受けていた<ref name="tajima-133"/>。群馬電力は1920年2月6日付で供給事業の許可を受け、[[神奈川県]][[橘樹郡]]の一部<ref group="注釈">[[川崎町 (神奈川県)|川崎町]]・[[大師町|大師河原村]]・[[田島町 (神奈川県)|田島村]]・[[御幸村 (神奈川県)|御幸村]]・[[潮田町|町田村]]・[[鶴見町 (神奈川県)|生見尾村]]の6町村。1927年までにこれらの地域は[[川崎市]]または[[横浜市]]の一部になっている。</ref>に電力供給区域を設定した<ref>[[#yoran13|『電気事業要覧』第13回]]40-41頁。{{NDLJP|975006/50}}</ref>。
[[ファイル:Kubota Shiro.jpg|thumb|upright|早川電力初代社長[[窪田四郎]]]]


前身2社のうち、先に東京進出を果たしたのは群馬電力であった。同社は当初から東京方面への送電を想定しており、東京方面と発電所周辺に供給しつつ発生電力の過半を京浜電気鉄道へ供給する計画を立てていた<ref name="jitsugyo192108"/>。東京・[[横浜市|横浜]]間の電気鉄道を営む京浜電気鉄道は群馬電力と同様安田財閥系の企業であり、電力供給を受けるのを前提に群馬電力設立時からその大株主であった<ref name="tajima-133"/>。役員も一部重複しており、群馬電力の役員に名を連ねる[[青木正太郎]]・小倉鎮之助・宮口竹雄は京浜電気鉄道の役員でもある<ref name="tajima-133"/><ref>[[#kabu1919|『株式年鑑』大正8年度]]409頁。{{NDLJP|975421/214}}</ref>。この京浜電気鉄道の事業とは別に、群馬電力は1920年2月6日付で電気供給事業の許可を受け、[[神奈川県]][[橘樹郡]][[川崎町 (神奈川県)|川崎町]](現・[[川崎市]])ほか5村に電力供給区域を設定した<ref name="y13-40">[[#yoran13|『電気事業要覧』第13回]]40-41頁。{{NDLJP|975006/50}}</ref>。
京浜電気鉄道は、[[大森町 (東京府)|大森町]]・[[蒲田町]]([[東京府]][[荏原郡]])や[[川崎町 (神奈川県)|川崎町]]・[[鶴見町 (神奈川県)|鶴見町]](神奈川県橘樹郡)など鉄道沿線の21町村にて電灯・電力供給事業を経営していた<ref name="keikyu-487">[[#keikyu|『京浜急行八十年史』]]487-489頁</ref>。このうち荏原郡は[[東京電燈|東京電灯]]の供給区域と重複しており<ref>[[#yoran13|『電気事業要覧』第13回]]10-11頁。{{NDLJP|975006/35}}</ref>、従来供給用電力を購入していた[[桂川電力]]が[[1922年]](大正11年)2月に東京電灯と合併すると、電力の購入先と供給が競合する状態になった<ref name="keikyu-108">[[#keikyu|『京浜急行八十年史』]]108-109頁</ref>。鉄道事業への投資集中もあって京浜電気鉄道は供給事業の東京電灯への譲渡を決定するが、この決定を安田財閥などの介在のため覆し、1922年7月群馬電力との間に供給事業の譲渡契約を締結した<ref name="keikyu-108"/>。翌[[1923年]](大正12年)5月1日、京浜電気鉄道から群馬電力へと引き渡しが完了する<ref name="keikyu-108"/>。この間の1922年12月、金井発電所の運転開始を受けて群馬電力は開業<ref name="kanto-336">[[#kanto|『関東の電気事業と東京電力』]]336-338頁</ref>。競合する東京電灯は料金の値下げや送電方法の改良などを実施して群馬電力に競争を挑み、群馬電力側でも資金を借り入れつつ抗戦した<ref name="kanto-336"/>。


1922年7月4日、群馬電力は京浜電気鉄道との間で、同社が兼営する電灯・電力供給事業を譲り受けるという事業買収契約を締結した<ref name="reportG11">「群馬電力株式会社第11回報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。この事業は京浜電気鉄道が鉄道沿線の[[東京府]][[荏原郡]][[大森町 (東京府)|大森町]]・[[蒲田町]]や神奈川県橘樹郡川崎町・[[鶴見町 (神奈川県)|鶴見町]]など計21町村にて経営していた事業で、その開業は[[1901年]](明治34年)にさかのぼる<ref name="keikyu-487">[[#keikyu|『京浜急行八十年史』]]487-489頁</ref>。このうち荏原郡側全域と橘樹郡側の一部は[[東京電灯]]の供給区域と重複しており<ref name="y13-10">[[#yoran13|『電気事業要覧』第13回]]10-13頁。{{NDLJP|975006/35}}</ref>、従来供給用電力を購入していた[[桂川電力]]が[[1922年]](大正11年)2月に東京電灯へ吸収されると電力の購入先と供給が競合する状態になった<ref name="keikyu-108">[[#keikyu|『京浜急行八十年史』]]108-109頁</ref>。鉄道事業への投資集中もあって京浜電気鉄道は供給事業の東京電灯への譲渡を一旦決定したが、これを安田財閥などの介在のため覆し群馬電力への譲渡に転換した<ref name="keikyu-108"/>。譲渡価格は東京電灯との契約価格より50万円高い550万円である<ref name="kanto-336"/>。方針転換について一部株主・役員から強硬な反対運動があったものの、翌[[1923年]](大正12年)5月1日付で事業譲渡が完了した<ref name="keikyu-108"/>。この間の1922年12月、金井発電所の運転開始を受けて群馬電力は開業している<ref name="kanto-336"/>。
一方早川電力は、日英水力電気の事業権利を継承することによって東京方面での供給区域を獲得した。この日英水力電気というのは[[1906年]](明治39年)に計画された電力会社で、[[日英同盟]]の交誼から日本と[[イギリス]]の提携による[[大井川]]の共同開発を目論んだが実現せず、日本側が設立した先述の日英水電という別会社によって計画の一部が完成するに留まっていた<ref name="toho-187"/>。日英水力電気は大井川水利権のほか[[東京市]]や付近主要町村への電力供給権も保持しており、早川電力は日英水電の合併に続き[[1921年]](大正10年)7月に日英水力電気株式会社発起人よりこれら水利権・電力供給権を譲り受けた<ref name="koron_192309"/>。


一方早川電力は、日英水力電気の事業権利を継承することによって東京方面での供給区域を獲得した。この日英水力電気というのは[[1906年]](明治39年)に計画された電力会社で、[[日英同盟]]の交誼から日本と[[イギリス]]の提携による[[大井川]]の共同開発を目論んだが実現せず、日本側が設立した先述の日英水電という別会社によって計画の一部が完成するに留まっていた<ref name="toho-187"/>。日英水力電気は大井川水利権のほか東京市内や付近主要町村への電力供給権も保持しており、早川電力では[[1921年]](大正10年)7月に日英水力電気株式会社発起人よりこれら水利権・電力供給権を譲り受けた<ref name="koron192309"/>。前年の日英水電合併が日英水力電気からの供給権買収の前提であったという<ref>[[#dia192106|「会社近況 早川電力の前途」(『経済雑誌ダイヤモンド』)]]</ref>。
かくして東京方面への足がかりを得た早川電力は、早川における榑坪発電所(後の[[#早川第一発電所|早川第一発電所]])と静岡県下および東京方面への送変電設備建設を第一期工事とし、事業に着手<ref name="koron_192309"/>。[[1923年]](大正12年)6月、このうち発電所と静岡県下の送変電設備を完成させ、7月中旬より送電を開始した<ref name="koron_192309"/>。残る東京方面への送変電設備は、榑坪発電所から川崎(神奈川県)および東京郊外の[[戸越]]に設置する変電所まで約140[[マイル]]の66[[ボルト (単位)|キロボルト]]送電線を架設するという計画で同年10月の完成を目指したが<ref name="koron_192309"/>、9月1日に[[関東大震災]]が発生して行き詰った<ref name="toho-189">[[#toho|『東邦電力史』]]189-192頁</ref>。

かくして東京方面への足がかりを得た早川電力は、早川における榑坪発電所(後の[[#早川第一発電所|早川第一発電所]])と静岡県下および東京方面への送変電設備建設を第一期工事とし、事業に着手<ref name="koron192309"/>。[[1923年]](大正12年)6月、このうち発電所と静岡県下の送変電設備を完成させ、7月中旬より送電を開始した<ref name="koron192309"/>。残る東京方面への送変電設備は、榑坪発電所から川崎(神奈川県)および東京郊外の[[戸越]]に設置する変電所まで約140[[マイル]]の66[[ボルト (単位)|キロボルト]] (kV) 送電線を架設するという計画で同年10月の完成を目指したが<ref name="koron192309"/>、9月1日に[[関東大震災]]が発生して行き詰った<ref name="toho-189">[[#toho|『東邦電力史』]]189-192頁</ref>。


=== 東邦電力の参入 ===
=== 東邦電力の参入 ===
[[ファイル:MATSUNAGA Yasuzaemon.jpg|thumb|upright|[[松永安左エ門]]]]
[[ファイル:Matsunaga Yasuzaemon (before 1923).jpg|thumb|upright|[[松永安左エ門]]]]


東京方面への供給権を持つ早川電力・群馬電力の両社を関東大震災後に相次いで支配下に収めたのが[[東邦電力|東邦電力株式会社]]である。同社は[[愛知県]]の[[名古屋電灯]]や[[福岡県]]の[[九州電灯鉄道]]などの電力会社の再編により成立した当時の大手電力会社(「五大電力」の一つ)で、本社を東京に置くが[[中京圏|中京地方]]や[[九州|九州地方]]を供給地盤としていた<ref name="jinteki-38">[[#jinteki|『人的事業大系』電力篇]]38-43頁</ref>。[[伊丹弥太郎]]が社長、[[松永安左エ門]]が副社長を務めていたが、実際には松永が主導する会社である(1928年社長昇格)<ref name="jinteki-38"/>。
東京方面への供給権を持つ早川電力・群馬電力の両社を関東大震災後に相次いで支配下に収めたのが[[東邦電力|東邦電力株式会社]]である。同社は[[愛知県]]の[[名古屋電灯]]や[[福岡県]]の[[九州電灯鉄道]]などの電力会社の再編により成立した当時の大手電力会社(「五大電力」の一つ)で、本社を東京に置くが[[中京圏|中京地方]]や[[九州|九州地方]]を供給地盤としていた<ref name="jinteki-38">[[#jinteki|『人的事業大系』電力篇]]38-43頁</ref>。[[伊丹弥太郎]]が社長、[[松永安左エ門]]が副社長を務めていたが、実際には松永が主導する会社である(1928年社長昇格)<ref name="jinteki-38"/>。


東邦電力は成立の過程において[[天竜川]]に発電所を持ち浜松方面へと電力を供給する[[天竜川水力電気]]を合併しており<ref>[[#hamamatsu|「浜松地方電気事業沿革史」]]89-90・94頁</ref>、浜松を含む静岡県西部に供給する早川電力とは一部で競合する立場にあった<ref name="toho-189"/>。余剰電力の供給先を求めて早川電力と提携交渉進めてい、関東大震災以前の段階では機が熟さず実現していなかった<ref name="toho-189"/>。ところが震災で早川電力の事業が行き詰ると、打開策として同社取締役の[[前田米蔵]]が話を持ち込み両社合併運びとなる<ref name="toho-189"/>。[[1924年]](大正13年)3月、東邦電力は早川電力との合併を決定し、早川電力側の内容整備を待って3年以内に吸収することとした<ref name="toho-189"/>。その上、自社の出資よる早川興業社(資本金1500万円)を設立、3月15日にこれを早川電力に合併させた<ref name="toho-189"/>。早川電力は合併に伴い資本金を1500万円増資して3000万円とともに、東邦電力過半数株式を保有する大株主とってその支配下に入った<ref name="toho-189"/>。また松永安左エ門が新たに社長に就任した<ref name="toho-189"/>。
東邦電力は成立の過程において[[天竜川]]に発電所を持ち浜松方面へと電力を供給する[[天竜川水力電気]]を合併し、日本楽器製造(現・[[ヤマハ]])などの工場に対して供給しており<ref>[[#hamamatsu|「浜松地方電気事業沿革史」]]88-90・94頁</ref>、浜松を含む静岡県西部に供給する早川電力とは一部で競合する立場にあった<ref name="toho-189"/>。そこで東邦電力では早川電力ととの関係強化試みものの、関東大震災以前の段階では機が熟さず実現していなかった<ref name="toho-189"/>。ところが震災で早川電力の事業が行き詰ると、早川電力側から取締役の前田米蔵が松永に話を持ち掛け関係強化話が具体化されていった<ref name="toho-189"/>。そして1924年3月、東邦電力は早川電力について、早川電力側の内容整備を待って3年以内に吸収合併すると決定した<!--『東邦電力史』は東邦電力臨時主総で1924年3月合併決議るが総会開催事実し--><ref name="toho-189"/>。


1924年3月12日、資本金1500万円にて早川興業株式会社が設立された<ref name="toho-189"/>。東邦電力の出資によるもので、これを早川電力に合併させて同社の株式を取得することが設立の目的であった<ref name="toho-189"/>。早川電力側では同年3月31日の臨時総会にて早川興業の合併を決議する<ref name="reportH12">「早川電力株式会社第12回大正13年上半期営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。このとき前田米蔵ほか2名を残して役員が辞任<ref name="reportH12"/>、東邦電力から新社長の松永安左エ門とその他3名が役員に送り込まれた<ref name="toho-189"/>。同年6月27日、早川興業の合併が完了<ref name="kanpo19240929">「商業登記 早川電力株式会社変更」『官報』号外、1924年9月29日付。{{NDLJP|2955779/20}}</ref>。合併により早川電力の資本金は倍額の3000万円に増加するとともに、東邦電力が過半数の株式を保有する大株主となってその支配下に入った<ref name="toho-189"/>。また同時に[[田中徳次郎 (東邦電力)|田中徳次郎]]・[[角田正喬]](東邦電力専務および常務<ref name="toho-yakuin">[[#toho|『東邦電力史』]]巻末「役員在任期間一覧表」</ref>)の2名が常務に就任している<ref name="reportH13"/>。
東京進出を狙う東邦電力は早川電力との交渉を進める一方、同社だけでは既存の東京電灯に対抗できないと見て、早川電力が[[安田銀行]]から融資されていた関係で安田系の群馬電力にも着目<ref name="toho-192"/>。松永安左エ門が安田銀行副頭取[[結城豊太郎]]に直接交渉を持ちかけて群馬電力との提携を先に成立させた<ref name="toho-192"/>。群馬電力は当時、不況もあって業績が伸び悩んでおり、株式の払込金徴収も困難な状況にあった<ref name="zensho-288">[[#zensho|『日本コンツエルン全書』13]] 288-294頁</ref>。提携の結果1923年12月25日の株主総会にて松永が取締役として群馬電力に入り、安田善五郎にかわって副社長の田島達策が社長に昇格、松永が後任副社長に就任した<ref name="toho-192"/>。


東京進出を狙う東邦電力は早川電力との交渉を進める一方、同社だけでは既存の東京電灯に対抗できないと見て、早川電力が[[安田銀行]]から融資されていた関係で安田系の群馬電力にも着目<ref name="toho-192"/>。松永安左エ門が安田銀行副頭取[[結城豊太郎]]に直接交渉を持ちかけて群馬電力との提携を先に成立させた<ref name="toho-192"/>。群馬電力は当時、京浜電気鉄道からの供給事業買収に失敗した東京電灯と対立し、料金値下げや送電方法改良などを実施した東京電灯に競争を仕掛けられており、資金を借り入れつつ抗戦したものの<ref name="kanto-336"/>、不況もあって業績が伸び悩み株式の払込金徴収も困難な状況にあった<ref name="zensho-288">[[#zensho13|『日本コンツェルン全書』13]] 288-294頁。{{NDLJP|1278498/169}}</ref>。東邦電力との提携の結果1923年12月25日の[[株主総会]]にて松永と[[福澤桃介]]が群馬電力の取締役に当選、安田善五郎にかわって副社長の田島達策が社長に昇格、松永が後任副社長に就任した<ref name="toho-192"/>。また病気辞任した小倉鎮之助に代わり宮口竹雄(東京帝国大学出身の電気技術者<ref name="jinteki-348">[[#jinteki|『人的事業大系』電力篇]]348-352頁。{{NDLJP|1458891/193}}</ref>、安田系の人物<ref name="zensho-288"/>)が専務に就いている<ref name="reportG10"/>。
1924年4月、早川電力によって建設中の東京送電線が[[沼津市|沼津]](静岡県)まで完成<ref name="kanto-336"/>。7月には川崎までの全線が完成し、早川電力も東京方面への送電を果たした<ref name="kanto-336"/>。また早川電力から群馬電力への電力供給も始まっている<ref name="kanto-336"/>。1924年下期末(11月末)の時点の供給実績は、浜松方面において電灯供給24万7,260灯・電力供給1万4,164馬力、東京方面(沼津での供給を含む)において6,570キロワット<ref name="kanto-336"/>。また群馬電力の供給実績は電灯供給18万9,403灯、動力用電力7,059馬力、電熱用電力1,210キロワット、電気事業者への電力供給最大9,500キロワットであった<ref name="kanto-336"/>。

1924年4月、早川電力によって建設中の東京送電線が[[沼津市|沼津]](静岡県)まで完成<ref name="kanto-336"/>。7月には川崎までの全線が完成し、早川電力も東京方面への送電を果たした<ref name="kanto-336"/>。また早川電力から群馬電力への電力供給も開始された<ref name="kanto-336"/>。


== 東京電力と「電力戦」 ==
== 東京電力と「電力戦」 ==
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=== 東京の電気事業 ===
=== 東京の電気事業 ===
[[ファイル:Shohachi wakao.jpg|thumb|upright|[[若尾璋八]]]]
[[ファイル:Shohachi wakao.jpg|thumb|upright|東京電灯第8代社長[[若尾璋八]]]]


早川電力や群馬電力が進出を図った東京は、日本で最初の電力会社[[東京電灯]]の地盤であった。同社は[[1887年]](明治20年)11月に[[東京市]]内での配電を開始した、日本における電気供給事業の先駆者である<ref>[[#zensho|『日本コンツルン全書』13]] 35-37頁</ref>。
早川電力や群馬電力が進出を図った東京は、日本で最初の電力会社[[東京電灯]]の地盤であった。同社は[[1887年]](明治20年)11月に[[東京市]]内での配電を開始した、日本における電気供給事業の先駆者である<ref>[[#zensho13|『日本コンツルン全書』13]] 35-37頁。{{NDLJP|1278498/27}}</ref>。


明治末期になると、水力開発の活発化と政府の電気普及促進政策により東京電灯以外にも複数の事業者が東京市内へ進出するようになる<ref name="zensho-70">[[#zensho|『日本コンツルン全書』13]] 70-75頁</ref>。明治末期に許可を得て大正までに開業する[[鬼怒川水力電気]]・[[桂川電力]]・[[猪苗代水力電気]]・[[利根発電]]などの会社が該当し、後に早川電力に引き継がれる日英水力電気も明治末期の1908年に事業許可を受けている<ref name="zensho-70"/>。これらの会社と東京電灯は電力受給契約を締結しており市内供給について競合することはなかったが、1907年に開業した市営電気事業[[1913年]](大正2年)に開業した[[日本電灯]]は東京電灯に対して攻勢を仕掛け、市内で激しい電灯需要家の争奪戦を展開した(いわゆる「三電競争」)<ref name="zensho-70"/>。3事業者の競争は[[1917年]](大正6年)に停戦協定が交わされるまで続いた<ref name="zensho-70"/>。
明治末期になると、水力開発の活発化と政府の電気普及促進政策により東京電灯以外にも複数の事業者が東京市内へ進出するようになる<ref name="zensho-70">[[#zensho13|『日本コンツルン全書』13]] 70-75頁。{{NDLJP|1278498/45}}</ref>。明治末期に許可を得て大正までに開業する[[鬼怒川水力電気]]・[[桂川電力]]・[[猪苗代水力電気]]・[[利根発電]]などの会社が該当し、後に早川電力に引き継がれる日英水力電気も明治末期の1908年に事業許可を受けている<ref name="zensho-70"/>。これらの会社と東京電灯は市内供給について直接競合することはなかったが、電灯供給の許可を得て1907年に開業した[[東京市営電気供給事業|市営電気事業]]および[[1913年]](大正2年)に開業した[[日本電灯]]は東京電灯に対して攻勢を仕掛け、市内で激しい電灯需要家の争奪戦を展開した(いわゆる「三電競争」)<ref name="zensho-70"/>。3事業者の競争は[[1917年]](大正6年)に停戦協定が交わされるまで続いた<ref name="zensho-70"/>。


大正後期から東京電灯は積極経営を展開する<ref name="zensho-233">[[#zensho|『日本コンツルン全書』13]] 233-242頁</ref>。かつての競合会社日本電灯や電力供給元の猪苗代水力電気などを相次いで合併し、東京市内に供給権を持つ電力会社を鬼怒川水力電気と未開業の日英水力電気を除いて統合したのである<ref name="zensho-233"/>。合併の結果、[[関東大震災]]前の時点で東京電灯の資本金は2億5800万円に達し、供給区域は[[関東地方]]一帯に拡大した<ref name="zensho-233"/>。1923年9月の関東大震災では変電・配電設備および営業設備を中心に被災し、需要家の罹災で需要の激減を来たして特に電灯供給では震災前の水準に回復するまで2年余りを要した<ref name="zensho-88">[[#zensho|『日本コンツルン全書』13]] 88-90頁</ref>。一方震災を機に工場電化が進んだことから電力需要はかえって増加し、震災から1年で震災前の水準に戻っている<ref name="zensho-88"/>。
大正後期から東京電灯は積極経営を展開する<ref name="zensho-233">[[#zensho13|『日本コンツルン全書』13]] 233-242頁。{{NDLJP|1278498/135}}</ref>。かつての競合会社日本電灯や電力供給元の猪苗代水力電気などを相次いで合併し、東京市内に供給権を持つ電力会社を鬼怒川水力電気と未開業の日英水力電気を除いて統合したのである<ref name="zensho-233"/>。合併の結果、[[関東大震災]]前の時点で東京電灯の資本金は2億5800万円に達し、供給区域は[[関東地方]]一帯に拡大した<ref name="zensho-233"/>。[[1923年]](大正12年)9月の関東大震災では変電・配電設備および営業設備を中心に被災し、需要家の罹災で需要の激減を来たして特に電灯供給では震災前の水準に回復するまで2年余りを要した<ref name="zensho-85">[[#zensho13|『日本コンツルン全書』13]] 85-90頁。{{NDLJP|1278498/52}}</ref>。一方震災を機に工場電化が進んだことから電力需要はかえって増加し、震災から1年で震災前の水準に戻っている<ref name="zensho-85"/>。


震災翌年から東京電灯は事業の拡張を再開、[[京浜電力]]や[[富士水電]]を合併したほか[[1926年]](大正15年)には[[帝国電灯]]を合併した<ref name="zensho-240">[[#zensho|『日本コンツルン全書』13]] 240-242頁</ref>。帝国電灯の合併をもって資本金は3億4572万4000円に膨らみ、関東以外にも[[山陰地方]]や[[北海道]]・[[樺太]]にも供給区域を持つに至った<ref name="zensho-240"/>。大正後期からの拡張時代に経営を担ったのは社長の[[神戸挙一]]<ref name="jinteki-27">[[#jinteki|『人的事業大系』電力篇]]27-30頁</ref>。1922年には副社長に[[若尾璋八]]が就き、1926年に神戸が死去すると後任社長となった<ref name="jinteki-27"/>。神戸・若尾ともに[[甲州財閥]]に属する実業家である<ref name="jinteki-27"/>。
震災翌年から東京電灯は事業の拡張を再開、[[京浜電力]]や[[富士水電]]を合併したほか[[1926年]](大正15年)には[[帝国電灯]]を合併した<ref name="zensho-240">[[#zensho13|『日本コンツルン全書』13]] 240-242頁。{{NDLJP|1278498/139}}</ref>。帝国電灯の合併をもって資本金は3億4572万4000円に膨らみ、関東以外にも[[山陰地方]]や[[北海道]]・[[樺太]]にも供給区域を持つに至った<ref name="zensho-240"/>。大正後期からの拡張時代に経営を担ったのは社長の[[神戸挙一]]<ref name="jinteki-27">[[#jinteki|『人的事業大系』電力篇]]27-30頁。{{NDLJP|1458891/36}}</ref>。1922年には副社長に[[若尾璋八]]が就き、1926年に神戸が死去すると後任社長となった<ref name="jinteki-27"/>。神戸・若尾ともに[[甲州財閥]]に属する実業家である<ref name="jinteki-27"/>。


=== 五大電力の角逐 ===
=== 五大電力の角逐 ===
[[ファイル:Fukuzawa Momosuke 45-year-old.jpg|thumb|upright|[[福澤桃介]](大同電力社長)]]
[[ファイル:Fukuzawa Momosuke 45-year-old.jpg|thumb|upright|大同電力初代[[福澤桃介]]]]


大正後期、東京電灯が関東を中心に巨大化したのに並行して、[[中京圏|中京地方]]と[[九州]]北部では[[東邦電力]]、[[関西地方]]では[[宇治川電気]]が勢力を拡大<ref name="chubu-161">[[#chubu|『中部地方電気事業史』上巻]]161頁</ref>。さらに電力の卸売り<ref group="注釈">一般の需要家に直接供給せず、[[発電]]・[[送電]]・[[変電]]設備を保有して大量の電力を他の電気事業者に供給することを電力の「卸売り」という。逆に一般需要家への[[配電]]設備を持ち[[電灯]]・電力の供給をなすことを「小売り」という。なお、当時の[[電気事業法]]では[[電気鉄道]]の経営も電気事業に含まれる(「電気事業 経営百態おろし売と小売」『[[東京朝日新聞]]』1925年9月22日付。「[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=00056258&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE 新聞記事文庫]」収録、2015年12月25日閲覧)。</ref>を主体とする新興の[[大同電力]]と[[日本電力]]とあわせ、電力業界では「五大電力」と呼ばれる大手5社の勢力が著しく伸長した<ref name="chubu-161"/>。五大電力のうち、後発の大同電力・日本電力は積極的な大規模水力開発を手がけ、続々と完成する発電所の発生電力を消化するために既存事業者に対して「電力戦」と呼ばれる激しい需要家争奪戦を演じた<ref name="kanto-310">[[#kanto|『関東の電気事業と東京電力』]]310-312頁</ref>。この時期の「電力戦」は、当時の[[逓信省]]が電灯供給および小口の電力供給については既存事業者の地域独占供給を認める一方で、大口の電力供給については独占の弊害を除去するためとして新規事業者の参入を許可したことから、大口電力需要家の争奪戦という形で展開された<ref name="kanto-310"/>。
大正後期、東京電灯が関東を中心に巨大化したのに並行して、[[中京圏|中京地方]]と[[九州]]北部では[[東邦電力]]、[[関西地方]]では[[宇治川電気]]が勢力を拡大<ref name="chubu-161">[[#chubu|『中部地方電気事業史』上巻]]161頁</ref>。さらに電力の卸売り{{Refnest|group=注釈|一般の需要家に直接供給せず、[[発電]]・[[送電]]・[[変電]]設備を保有して大量の電力を他の電気事業者に供給することを電力の「卸売り」という。逆に一般需要家への[[配電]]設備を持ち[[電灯]]・電力の供給をなすことを「小売り」という<ref>「[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=00056258&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE 電気事業 経営百態おろし売と小売]」『[[東京朝日新聞]]』1925年9月22日付。神戸大学附属図書館「新聞記事文庫」収録</ref>。}}を主体とする新興の[[大同電力]]と[[日本電力]]とあわせ、電力業界では「五大電力」と呼ばれる大手5社の勢力が著しく伸長した<ref name="chubu-161"/>。


1923年5月、京浜電力が[[梓川]]筋([[長野県]])の発電所と横浜変電所を繋ぐ200キロメートル超の長距離送電線を完成させた<ref name="zensho-85"/>。同線は送電[[電圧]]に戦前日本の最高電圧である154[[ボルト (単位)|キロボルト]] (kV) を初めて採用した送電線である<ref name="zensho-85"/>。以後宇治川電気以外の五大電力各社により154kV送電線が相次いで新設され、[[日本アルプス]]を水源とする諸河川の水力発電所から京浜・中京・京阪の三大工業地帯に対して大量の電力が長距離送電されるようになる<ref name="zensho-85"/>。こうした大規模設備は[[第一次世界大戦]]下の[[大戦景気 (日本)|大戦景気]]を背景とした電力不足の時代に立案され、1920年代半ばに続々と竣工する<ref name="zensho-95">[[#zensho13|『日本コンツェルン全書』13]] 95-104頁。{{NDLJP|1278498/57}}</ref>。一定期限内の完成を義務付けられていたことからこの時期に完成が相次ぐものの、完成時には好景気は過ぎ去っており、発電力の増加に対し需要増加の速度は遅く、その差が余剰電力として堆積していった<ref name="zensho-95"/>。
初期の電力戦は中京・関西地方で行われた。中京地方では、1923年に日本電力が[[名古屋市]]などに電力供給権を獲得して同地方に参入、既存の東邦電力から大口需要家を奪い取るという電力戦が生じる<ref>[[#kansai|『関西地方電気事業百年史』]]242-243頁</ref>。関西地方では、京阪方面へ進出した大同電力に対し、既存の宇治川電気が競争を避けて同社からの大量の電力購入を開始したが<ref>[[#kansai|『関西地方電気事業百年史』]]235-236頁</ref>、これによって姉妹会社であった日本電力との関係が悪化してしまい、1926年から宇治川電気・日本電力は関西を舞台に激しい需要家争奪戦を演ずることになった<ref>[[#kansai|『関西地方電気事業百年史』]]258-261・268-270頁</ref>。


余剰電力を抱えた電力会社各社は、その消化に努めて時には同業他社の地盤への進出も狙った<ref name="zensho-95"/>。こうして生じた電力会社間の紛争を「電力戦」という<ref name="zensho-95"/><ref name="kanto-308">[[#kanto|『関東の電気事業と東京電力』]]308-312頁</ref>。この時期の紛争は、当時の[[逓信省]]が電灯供給および小口の電力供給については既存事業者の地域独占供給を認める一方で、大口の電力供給については独占の弊害を除去するためとして新規事業者の参入を許可したことから、大口電力需要家の争奪戦という形で展開された<ref name="kanto-308"/>。五大電力間の紛争で最初のものは中京地方における東邦電力・日本電力の紛争である<ref name="zensho-95"/>。1923年8月に日本電力が東邦電力の地盤である愛知県[[名古屋市]]とのその周辺を電力供給区域へ編入する許可を得たことが発端となり、一部で大口需要家の争奪戦を生じた<ref name="toho-185">[[#toho|『東邦電力史』]]185-187頁</ref>。しかし本格化を前に、東京進出を控える東邦電力側が妥協し[[1924年]](大正13年)3月日本電力との間に最大10万[[ワット|キロワット]] (kW) を受電するという大規模受電契約を締結したことで対立は解消された<ref name="toho-185"/>。
電力戦は東京電灯の地盤である関東地方にも及んだ<ref name="kanto-310"/>。関東は日本国内における電力需要の3割を占める巨大市場であり、この市場の奪取を狙って電力戦が展開されたのである<ref name="kanto-310"/>。東京電灯以外の五大電力のうち最初に東京へ進出したのは大同電力であった<ref name="kanto-310"/>。同社は1923年6月、東京電灯との間に電力供給契約を締結<ref name="kansai-244">[[#kansai|『関西地方電気事業百年史』]]244-245頁</ref>。1925年には東京市・横浜市などへの大口電力供給権を得るが、東京電灯との競争は控えている<ref name="kansai-244"/>。大同電力に続いて東京へ進出したのが東邦電力(傘下の東京電力)である<ref name="kanto-310"/>。1927年より、東京電灯との間で激しい大口需要家争奪戦を展開した。


一方京阪地方では、1922年に大同電力が大阪府下の[[大阪市]]・[[堺市]]などに電力供給区域を獲得した<ref name="daido-185">[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]185-190頁</ref>。両市を中心に一部区域が宇治川電気の既存電力供給区域と重複することから<ref name="kansai-225">[[#kansai|『関西地方電気事業百年史』]]225-227頁</ref>、宇治川電気では大同電力の大阪進出を深刻な脅威ととらえ、大同電力の供給を制限するのと引き換えに同社から最大15万kWを受電するという大規模受電契約を締結した<ref>[[#kansai|『関西地方電気事業百年史』]]235-239頁</ref>。こうして大同電力の脅威を抑えた宇治川電気であったが、大同電力との契約締結以前から受電契約があった姉妹会社日本電力との関係が悪化する<ref name="kansai-258">[[#kansai|『関西地方電気事業百年史』]]258-261・268-270頁</ref>。日本電力の電力供給区域も宇治川電気と重複することから<ref name="kansai-225"/>、対立の末に[[1926年]](大正15年)9月末限りで受電契約が失効したのを機に激しい電力需要家争奪戦が始まった<ref name="kansai-258"/>。
=== 東京電力の設立と拡張 ===
東邦電力の東京進出を主導したのは、同社副社長の[[松永安左エ門]]である。東邦電力は本社を名古屋電灯時代からの名古屋市より東京市へと移し、関東大震災後には焼失した東京市内の商工業地区へと供給する「東京復興電気会社」の計画をまとめるなど、早くから東京進出を念頭に置いていた<ref name="chubu1-184">[[#chubu|『中部地方電気事業史』上巻]]180-181・184-188頁</ref>。さらに復興電気会社の計画作成後の1923年10月、松永は新聞紙上において、震災復興のための電気事業は組織を根本的に改革していかにすれば豊富かつ低廉な電気を永久に供給できるかを研究するならば、震災前の水準の電気を従前の半額の料金で供給でき近い将来には供給を5倍に増加させうるであろう、と述べて東京電灯への宣戦布告をしている<ref name="chubu1-184"/>。松永が晩年(1964年)に執筆した『[[私の履歴書]]』によると、東京進出の動機は東京の電気事業(東京電灯)の是正のためもあるが、正直なところは自身の手で事業を統一する野心があったためであるという<ref name="rirekisho">[[#rirekisho|『私の履歴書』第21集]]335-344頁</ref>。東京進出の体制を整えるため、松永は早川電力・群馬電力の2社を東邦電力の支配下に収めた<ref name="rirekisho"/>。


「電力戦」は、東京電灯の地盤であり、日本国内における電力需要の3割を占める巨大市場である関東地方にも及んだ<ref name="kanto-308"/>。[[1925年]](大正14年)5月、関西への送電を目的に起業された大同電力・日本電力の両社はともに東京送電線の建設を認可された<ref name="daido-185"/><ref name="kanto-348">[[#kanto|『関東の電気事業と東京電力』]]348-354頁</ref>。うち大同電力は同時に東京市内および神奈川県[[橘樹郡]]を電力供給区域として抑えており、これを脅威とみた東京電灯では受電契約を従来の2倍近い5万kWに増加することで大同電力の東京進出を抑制した<ref>[[#kansai|『関西地方電気事業百年史』]]244-245頁</ref>。だが翌1926年5月、東邦電力が以下で詳述する新会社「東京電力」を擁して東京進出を図ったことで、東京電灯を相手とする「電力戦」が再び始まったのである<ref name="zensho-95"/>。
1924年12月25日、早川電力と群馬電力はそれぞれ株主総会を開き、両社の間で交わされた合併契約を承認した<ref name="kanto-338">[[#kanto|『関東の電気事業と東京電力』]]338-342頁</ref>。合併比率は1対1<ref name="kanto-338"/>。両社の合併を推進したのは東京進出を目指す東邦電力で、早川電力社長と群馬電力副社長を兼ねる松永が仲介役となって合併を実現させた<ref name="kanto-338"/>。早川電力の株主総会において松永は、群馬電力は京浜電気鉄道から引き継いだ将来性のある有利な供給区域を持っており、この供給区域に対して早川電力も供給するならば有利であり、さらに将来の電源開発に際して群馬電力の送電網を活用して供給できるならば得策であるから、両社の合併は東京やその付近の開発にとって必須である、という旨を説明している<ref name="toho-194">[[#toho|『東邦電力史』]]194-195頁</ref>。

=== 東京電力の設立 ===
東邦電力の東京進出を主導したのは、同社副社長の[[松永安左エ門]]である。東邦電力は本社を名古屋電灯時代からの名古屋市より東京市へと移し、関東大震災後には焼失した東京市内の商工業地区へと供給する「東京復興電気会社」の計画をまとめるなど、早くから東京進出を念頭に置いていた<ref name="chubu1-184">[[#chubu|『中部地方電気事業史』上巻]]180-181・184-188頁</ref>。さらに復興電気会社の計画作成後の1923年10月、松永は新聞紙上において、震災復興のための電気事業は (1) 組織を根本的に改革し、(2) 低廉・豊富な電気を永久に供給する方法を攻究するならば、震災前の水準の電気を従前の半額の料金で供給でき近い将来には供給を5倍に増加させうるであろう、と述べて東京電灯への宣戦布告をしている<ref name="chubu1-184"/>。松永が晩年(1964年)に執筆した『[[私の履歴書]]』によると、東京進出の動機は東京の電気事業(東京電灯)の是正のためもあるが、正直なところは理想実現を目指し自身の手で電気事業を統一したいという野心があったためであるという<ref name="rirekisho">[[#rirekisho|『私の履歴書』第21集]]335-344頁</ref>。東京進出の体制を整えるため、松永は早川電力・群馬電力の2社を東邦電力の支配下に収めた<ref name="rirekisho"/>。

1924年12月25日、早川電力と群馬電力はそれぞれ株主総会を開き、両社の間で交わされた合併契約を承認した<ref name="kanto-338">[[#kanto|『関東の電気事業と東京電力』]]338-342頁</ref>。合併比率は1対1<ref name="kanto-338"/>。両社の合併を推進したのは東京進出を目指す東邦電力で、早川電力社長と群馬電力副社長を兼ねる松永が仲介役となって合併を実現させた<ref name="kanto-338"/>。早川電力の株主総会において松永は、群馬電力は京浜電気鉄道から引き継いだ将来性のある有利な供給区域を持っており、この供給区域に対して早川電力も供給するならば有利であり、さらに将来の電源開発に際して群馬電力の送電網を活用して供給できるならば得策であるから、両社の合併は東京やその付近の開発にとって必須である、という旨を説明している<ref name="toho-194">[[#toho|『東邦電力史』]]194-195頁</ref>。監督官庁からの合併認可は翌1925年3月4日付で下りた<ref name="report1">「東京電力株式会社第1回営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。


[[ファイル:Shindo Kohei.jpg|thumb|upright|東京電力常務[[進藤甲兵]]]]
[[ファイル:Shindo Kohei.jpg|thumb|upright|東京電力常務[[進藤甲兵]]]]


翌[[1925年]](大正14年)[[3月16日]]、両社合併による新会社'''東京電力株式会社'''の創立総会が開催され<ref name="kanto-338"/>。成立した東京電力の資本金は、早川電力の3000万円と群馬電力の1225万円をあわせた4225万円で、そのうち4割を東邦電力が出資し<ref name="kanto-338"/>、経営については同社が取り仕切った<ref name="chugai_19260406"/>。設立時、東邦電力との間に1928年を目処に合併するという了解があったという<ref name="chugai_19260406"/>。また[[安田財閥|安田保善社]]が第2の株主(持株比率8%)で<ref name="kanto-338"/>、金融関係は安田財閥の後援を受けた<ref name="chugai_19260406">「京浜に備うる電力戦線の陣容」『[[中外商業新報]]』1926年4月6日 - 10日連載。神戸大学附属図書館「[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=00056417&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE 新聞記事文庫]」収録</ref>。本社は東京市[[麹町区]](現・[[東京都]][[千代田区]])である<ref name="kanto-338"/>。社長は群馬電力社長の田島達策、副社長は松永安左エ門、専務は群馬電力の宮口竹雄、常務は東邦電力の[[進藤甲兵]]と早川電力の[[結城安次]]がそれぞれ就任した<ref name="kanto-338"/>。田島・宮口は安田関係の代表者で金融方面、結城は[[貴族院 (日本)|貴族院]]方面、1年遅れて常務に就任した[[佐竹義文 (内務官僚)|佐竹義文]]は政党方面に対するいわば「看板」で、会社の実権は東邦電力の松永や進藤が握っていたという<ref name="zensho-288"/>。
1925年[[3月16日]]、両社合併による新会社'''東京電力株式会社'''の創立総会が開催され<ref name="kanto-338"/>。成立した東京電力の資本金は、早川電力の3000万円と群馬電力の1225万円をあわせた4225万円(うち2800万円払込)<ref name="kanto-338"/>。東邦電力はそのうち4割を出資し<ref name="kanto-338"/>、会社の経営取り仕切った<ref name="chugai19260406">「[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=00056417&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE 京浜に備うる電力戦線の陣容]」『中外商業新報』1926年4月6日 - 10日連載。神戸大学附属図書館「新聞記事文庫」収録</ref>。設立時、東邦電力との間に1928年を目処に合併するという了解があったという<ref name="chugai19260406"/>。また安田保善社が第2の株主(出資比率8パーセント)で<ref name="kanto-338"/>、金融関係は[[安田財閥]]の後援を受けた<ref name="chugai19260406"/>。社長は群馬電力社長の田島達策、副社長は松永安左エ門、専務は群馬電力の宮口竹雄、常務は東邦電力の[[進藤甲兵]]と早川電力の[[結城安次]]がそれぞれ就任した<ref name="kanto-338"/>。田島・宮口は安田関係の代表者で金融方面、結城は[[貴族院 (日本)|貴族院]]方面、1年遅れて常務に就任した[[佐竹義文 (内務官僚)|佐竹義文]]は政党方面に対するいわば「看板」で、会社の実権は東邦電力の松永や進藤が握っていたという<ref name="zensho-288"/>。

本店所在地は[[東京市]][[麹町区]]永楽町2丁目10番地<ref name="kanpo19250807"/>(現・[[千代田区]][[大手町 (千代田区)|大手町]])。本社社屋は[[永楽ビルディング]]である<ref name="nenkan1926">[[#nenkan1926|『電気年鑑』大正15年]]69頁。{{NDLJP|948322/91}}</ref>。そのほか神奈川県[[川崎市]]古河通に川崎営業所を、[[静岡県]][[浜松市]]伝馬町に浜松営業所をそれぞれ構えた<ref name="nenkan1926"/>。

=== 東京電力の積極経営 ===
東京電力は設立直後から積極経営を展開した<ref name="kanto-338"/>。まず[[1926年]](大正15年)4月9日合併認可・30日合併報告総会という手順で田代川水力電気株式会社を合併した<ref name="report3">「東京電力株式会社第3回営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。同社は旧早川電力が株式の大部分を引き受けることで資本金500万円にて1922年8月4日に設立<ref name="reportH9">「早川電力株式会社第9回報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。早川開発に続く早川電力の第二期工事として計画されていた田代川([[大井川]]上流)の開発を担当していた開発会社であり<ref name="koron192309"/>、合併時点では3つの発電所と川崎までの送電線を建設中であった<ref name="toho-187"/>。合併比率は1対1で<ref name="toho-187"/>、合併に伴う増資は500万円(うち125万円払込)である<ref>「商業登記 東京電力株式会社変更」『官報』第4223号、1926年9月20日付。{{NDLJP|2956373/12}}</ref>、

[[ファイル:Heizaburo ohkawa.jpg|thumb|upright|静岡電力社長[[大川平三郎]]]]

続いて1926年10月12日合併認可・20日合併報告総会という手順にて[[静岡電力|静岡電力株式会社]]を合併した<ref name="report4">「東京電力株式会社第4回営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。同社は1920年に富士製紙から電気事業(旧[[四日市製紙]]の電気事業が起源<ref name="shinfuji-91">[[#shinfuji|『新富士製紙百年史』]]91-94頁</ref>)を譲り受けて開業した電力会社で、静岡県中部や山梨県南部に供給区域を持ち、他に[[静岡市電気部|静岡市営電気事業]]・富士製紙などへ電力を供給していた<ref name="kanto-338"/>。地方の会社としては成績が良く、これを東京電灯に取られるわけにはいかないということで松永が合併を希望したという<ref name="jigyo192608">[[#jigyo192608|「東京電力は東京電灯を倒せるかどうか」(『事業之日本』)]]</ref>。静岡電力の資本金1500万円(うち750万円払込)に対し合併に伴う東京電力の増資幅は1.4倍の2100万円(うち1050万円払込)であり、合併後の東京電力の資本金は6825万円となっている<ref name="jigyo192608"/>。


東京電力が静岡電力を合併するのに先立ち、1926年5月に東京電灯が帝国電灯を合併した<ref name="kanto-325">[[#kanto|『関東の電気事業と東京電力』]]325-330頁</ref>。帝国電灯は関東を中心に散在的ではあるが広範な供給区域を持っており、東京電力でも関東進出の手段として合併を狙っていたことから、これを防ぐために東京電灯が先に合併したという<ref name="kanto-325"/>。その前年に東京電灯が静岡県下の[[東洋モスリン]]電気事業部・富士水電を吸収したのも、旧早川電力や大同電力・日本電力など同業他社に吸収されて東京進出の足掛かりとされるのを防ぐ意図があった<ref name="kanto-325"/>。
設立直後から東京電力は積極経営を展開する<ref name="kanto-338"/>。[[1926年]](大正15年)4月、まず元早川電力系列の水力開発会社である田代川水力電気株式会社(資本金500万円)を合併した<ref name="kanto-338"/>。同社は、早川開発に続く第二期工事として計画されていた田代川([[大井川]]上流)の開発を担当すべく早川電力によって設立<ref name="koron_192309"/>。合併時点では3つの発電所と川崎へ至る送電線を建設中であった<ref name="toho-187"/>。合併比率は1対1で、合併によって東京電力は資本金を4725万円とした<ref name="toho-187"/>。


東京電力では合併以外にも事業拡大策を矢継ぎ早に打ち出した。まず発足直後の1925年3月、大井川水系寸又川の開発を計画する寸又川電気株式会社の株式を取得し、松永が社長を兼任して経営を引き受けた<ref name="kanto-338"/>。同社は1924年6月に資本金150万円で設立されたもので、[[三重県]]出身の実業家[[熊澤一衛]]が発起人総代・初代社長であった<ref>[[#jinteki|『人的事業大系』電力篇]]335-340頁</ref>。次いで1925年12月に資本金1000万円で[[上毛電力|上毛電力株式会社]]が設立されると、役員を送って同社と提携した<ref name="kanto-338"/>。同社は事業に失敗した上毛製紙(1919年設立)を電力会社に転換すべく設立されたもので、上毛製紙を吸収の上<ref name="zensho9">[[#zensho9|『日本コンツェルン全書』9]] 207-208頁。{{NDLJP|1281124/137}}</ref>、[[利根川]]水系[[片品川]](群馬県)の開発に着手した<ref name="kanto-338"/>。社長は[[大川平三郎]]である<ref name="zensho9"/>。翌1926年10月、東京電力では完成した上毛電力伏田発電所からの受電を始めた<ref name="kanto-338"/>。
1926年10月には静岡県や山梨県に供給区域を持つ[[静岡電力|静岡電力株式会社]](資本金1500万円)を合併した<ref name="kanto-338"/>。同社は1920年に富士製紙から電気事業([[四日市製紙]]の電気事業が前身<ref>[[#shinfuji|『新富士製紙百年史』]]91-94頁</ref>)を譲り受けて開業した電力会社で、静岡県中部や山梨県に供給区域を持ち、ほかに[[静岡市電気部|静岡市営電気事業]]などへ電力を供給していた<ref name="kanto-338"/>。地方の会社としては成績が良く、これを東京電灯に取られるわけにはいかないということで松永が合併を希望したという<ref name="jigyo_192608">[[#jigyo_192608|「東京電力は東京電灯を倒せるかどうか」]]</ref>。合併比率は1対1.4で、合併により東京電力の資本金は6825万円となっている<ref name="jigyo_192608"/>。


合併以外も事業拡大策を矢継ぎ早に打ち出す。設立直後の19253月、大井川水系寸又川の開発計画す寸又川電気株式会社資本金150万円、1924年6月設立)の株式を取得し、松永が兼任て経営を引き受けた<ref name="kanto-338"/>。次いで年12月に資本金1000万円で[[上毛電|上毛力株式会社]]を設立し、[[利根川]]水[[片品川]]などの開発計画する毛製紙吸収<ref name="kanto-338"/>。翌1926年12月には利根川水系[[吾妻川]]などの開発を目的須川株式会社を資本金1000万円で設立し、さらなる電源増強を図った<ref name="kanto-338"/>。また同年5月、早川電力の時代から電力を供給していた[[浅野財閥]]系の[[東亜建設工業|東京湾埋立]]から電気事業を分離させて系列の東京湾電気株式会社(資本金500万円)に移し、[[鶴見町 (神奈川県)|鶴見町]]・[[田島町 (神奈川県)|田島町]]両地先の埋立地おける供給事業を引き継いで間接的に供給区域を拡大した<ref name="toho-196">[[#toho|『東邦電力史』]]196-199頁</ref>。
さら19261225日株式の部分傍系会社として資本金1000万円の須川電力株式社を設立した<ref name="kokumin19270107">「[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10033299&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA 須川電力会社創立さる 東京電力が中心となって]」『[[國民新聞]]』1927年1月7日付。神戸大学附属図書館「新聞記事文庫」収録</ref>。同東京電力と[[関東水力電]][[吾妻電力]]の3社から利権を集めて起業されたもので<ref name="kokumin19270107"/>、東京電力からは金井発電所の上流側にある吾妻川の未開発水利権3地点が提供された<ref name="jea-211">[[#jea|『日本の発電所』東部日本篇]]211-223頁。{{NDLJP|1257046/233}}</ref>。須川電力では開発計画を見直したで翌1927年11月に松谷発電所着工した<ref name="jea-211"/>。また傍系会社にはほか東京湾株式会社があった<ref name="kanto-338"/>。同社は1926年5月20日に資本金500万円で設立<ref name="kanpo19261009">「商業登記 株式会社設立」『官報』第4239号附録1926年10月9日付。{{NDLJP|2956389/24}}</ref>。早川電力の時代から電力を供給していた[[浅野財閥]]系の[[東亜建設工業|東京湾埋立]]から電気事業を分離させて立ち上げた新会であり、神奈川県下[[東京湾]]埋立地のうち橘樹郡[[鶴見町 (神奈川県)|鶴見町]]・[[田島町 (神奈川県)|田島町]]両地先に供給した<ref name="toho-196">[[#toho|『東邦電力史』]]196-199頁</ref>。この操作により東京電力は間接的に供給区域を拡大した形となっている<ref name="toho-196"/>。


=== 「電力戦」開戦 ===
=== 「電力戦」開戦 ===
[[ファイル:Kenzo adachi.jpg|thumb|upright|東京電力の東京進出を許可した逓信大臣[[安達謙蔵]]]]
[[ファイル:Kenzo adachi.jpg|thumb|upright|東京電力の東京進出を許可した逓信大臣[[安達謙蔵]]]]


[[1926年]](大正15年)[[5月24日]]<ref name="jigyo_192608"/><ref name="toho-201">[[#toho|『東邦電力史』]]201-202頁</ref>、東京電力は東京市郊外の[[南葛飾郡]]・[[南足立郡]]および[[北豊島郡]][[南千住町]]における大口(一構内あたり50馬力以上)の電力供給を許可された<ref name="kanto-342">[[#kanto|『関東の電気事業と東京電力』]]342-344頁</ref>。この地域への参入は、東京方面への本格進出を図るためのものである<ref name="kanto-342"/>。
[[1926年]](大正15年)[[5月24日]]<ref name="jigyo192608"/><ref name="toho-201">[[#toho|『東邦電力史』]]201-202頁</ref>、東京電力は東京市郊外の[[南葛飾郡]]・[[南足立郡]]および[[北豊島郡]][[南千住町]]における大口(一構内あたり50馬力以上)の電力供給を許可された<ref name="kanto-342">[[#kanto|『関東の電気事業と東京電力』]]342-344頁</ref>。この地域への参入は、東京方面への本格進出を図るためのものである<ref name="kanto-342"/>。


当時、上記地域は東京府内でも有数の工業地帯であり、大口需要が比較的密集して存在することから効率的な供給が可能で、その上[[紡績]]や[[モスリン]]といった負荷の高い工場が集中するため、東京電灯にとっても収益を支える重要な地域であった<ref name="kanto-342"/>。実際に、1926年上期の時点における東京電灯の同地域内の電力供給契約は約4万5,000キロワットにのぼり、東京電灯全体の電力需要の約13%に相当していた<ref name="kanto-342"/>。東京電力がこの地域における電力供給許可を申請したのは、前年8月に時の[[加藤高明内閣]]が[[憲政会]]単独内閣となってからで、許可を与えた逓信大臣は[[安達謙蔵]]である<ref name="toho-201"/>。東京電灯は副社長の若尾璋八が[[立憲政友会]]総務であるなど立憲政友会系の会社と目されていたことから、東京電灯の重要地域への東京電力参入を許可したのは政友会と対立する憲政会の党略である、との指摘がある<ref>[[#kozai|『電力界の功罪史』]]</ref>。
当時、上記地域は東京府内でも有数の工業地帯であり、大口需要が比較的密集して存在することから効率的な供給が可能で、その上[[紡績]]や[[モスリン]]といった負荷の高い工場が集中するため、東京電灯にとっても収益を支える重要な地域であった<ref name="kanto-342"/>。実際に、1926年上期の時点における東京電灯の同地域内の電力供給契約は約4万5,000kWにのぼり、東京電灯全体の電力需要の約13%に相当していた<ref name="kanto-342"/>。東京電力がこの地域における電力供給許可を申請したのは、前年8月に時の[[加藤高明内閣]]が[[憲政会]]単独内閣となってからで、許可を与えた逓信大臣は[[安達謙蔵]]である<ref name="toho-201"/>。東京電灯は副社長の若尾璋八が[[立憲政友会]]総務であるなど立憲政友会系の会社と目されていたことから、東京電灯の重要地域への東京電力参入を許可したのは政友会と対立する憲政会の党略である、との指摘がある<ref>[[#kozai|『電力界の功罪史』]]</ref>。


ともあれ南葛飾・南足立・北豊島3郡における大口電力供給権を獲得した東京電力は、供給体制の整備に着手。金井発電所(群馬県)から川崎へと至る既設11キロボルト送電線(群馬本線)の途中から支線を分けて南葛飾郡[[松江町]]に変電所を設置し、さらに2次変電所を同郡[[大島町 (東京府)|大島町]]と東京市内[[本所区]]・[[深川区]]の3か所に配置して、群馬県下金井・[[#渋川発電所(吾妻川)|渋川]]両発電所からの電力と上毛電力からの受電をあわせた合計2万8,800キロワットをこの地域に供給することとした<ref name="jigyo_192608"/>。さらに渇水時の予備として3万5,000キロワットの出力を備える火力発電所の建設にも着手している<ref name="jigyo_192608"/>。
ともあれ南葛飾・南足立・北豊島3郡における大口電力供給権を獲得した東京電力は、供給体制の整備に着手。金井発電所(群馬県)から川崎へと至る既設11kV送電線(群馬本線)の途中から支線を分けて南葛飾郡[[松江町]]に変電所を設置し、さらに2次変電所を同郡[[大島町 (東京府)|大島町]]と東京市内[[本所区]]・[[深川区]]の3か所に配置して、群馬県下金井・[[#渋川発電所(吾妻川)|渋川]]両発電所からの電力と上毛電力からの受電をあわせた合計2万8,800kWをこの地域に供給することとした<ref name="jigyo192608"/>。さらに渇水時の予備として3万5,000kWの出力を備える火力発電所の建設にも着手している<ref name="jigyo192608"/>。


実際の供給を始める前の1926年後半より、電力料金の引き下げや文書による勧誘などを伴う需要家獲得競争が東京電力・東京電灯の間で開始された<ref name="kanto-342"/>。東京電力では、以下の点を自社の優位性として挙げて営業活動に努めた<ref name="toho-203">[[#toho|『東邦電力史』]]203-205頁</ref>。
実際の供給を始める前の1926年後半より、電力料金の引き下げや文書による勧誘などを伴う需要家獲得競争が東京電力・東京電灯の間で開始された<ref name="kanto-342"/>。東京電力では、以下の点を自社の優位性として挙げて営業活動に努めた<ref name="toho-203">[[#toho|『東邦電力史』]]203-205頁</ref>。
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上記のうち電力料金については、東京電力は東京電灯よりも安い水準で販売するとした<ref name="kanto-342"/>。これに対し、東京電灯の側も料金の値下げに踏み切り、1926年6月1日から東京電力の料金と同等の水準で供給を始めたほか、優秀な社員を第一線に立てて顧客の維持に奔走した<ref name="kanto-342"/>。
上記のうち電力料金については、東京電力は東京電灯よりも安い水準で販売するとした<ref name="kanto-342"/>。これに対し、東京電灯の側も料金の値下げに踏み切り、1926年6月1日から東京電力の料金と同等の水準で供給を始めたほか、優秀な社員を第一線に立てて顧客の維持に奔走した<ref name="kanto-342"/>。


[[1927年]](昭和2年)[[1月1日]]、東京電力は南葛飾・南足立・北豊島3郡および東京市深川区・本所区方面での電力供給を開始した<ref name="kanto-342"/>。この地域で最大の需要家である南葛飾郡の[[日清紡績]]への供給(供給電力2,700キロワット)を東京電灯から奪い取るなど需要家を相次いで獲得するが、一方で東京電灯の反撃にあって需要家を奪い返されるなど、同社との間で激しい需要家の争奪戦を展開する<ref name="kanto-342"/>。また群馬電力時代から競合していた京浜電気鉄道沿線地域でも、1924年6月に競争的行為を避けるという協定が締結されていたにもかかわらず競争が激しくなり、[[横浜船渠]]への供給(1,700キロワット)を東京電力が奪うといったことが起きた<ref name="kanto-342"/>。こういった激しい「電力戦」について需要家側からは、東京電灯のみに頼ると無理を押し付けられるので競争会社は必要である、と歓迎する意見が出ている<ref name="kanto-342"/>。
[[1927年]](昭和2年)[[1月1日]]、東京電力は南葛飾・南足立・北豊島3郡および東京市深川区・本所区方面での電力供給を開始した<ref name="kanto-342"/>。この地域で最大の需要家である南葛飾郡の[[日清紡績]]への供給(供給電力2,700kW)を東京電灯から奪い取るなど需要家を相次いで獲得するが、一方で東京電灯の反撃にあって需要家を奪い返されるなど、同社との間で激しい需要家の争奪戦を展開する<ref name="kanto-342"/>。また群馬電力時代から競合していた京浜電気鉄道沿線地域でも、1924年6月に競争的行為を避けるという協定が締結されていたにもかかわらず競争が激しくなり、[[横浜船渠]]への供給 (1,700kW) を東京電力が奪うといったことが起きた<ref name="kanto-342"/>。こういった激しい「電力戦」について需要家側からは、東京電灯のみに頼ると無理を押し付けられるので競争会社は必要である、と歓迎する意見が出ている<ref name="kanto-342"/>。


東京電力の進出は、工場電化の進展や電力利用の普及を促進したという面もあった<ref name="kanto-342"/>。東京電灯から奪った需要家も相当数あったが、全体の8割近くは新規の需要であったのである<ref name="kanto-342"/>。[[富士製紙]]江戸川工場(2,000キロワット)や[[日本電気]](1,715キロワット)、[[東芝|芝浦製作所]](1,600キロワット)などはそういった新規の需要家である<ref name="kanto-342"/>。京浜方面とあわせると、毎年3万キロワット以上の需要増加が見込まれる電力市場であったという<ref name="toho-201"/>。
東京電力の進出は、工場電化の進展や電力利用の普及を促進したという面もあった<ref name="kanto-342"/>。東京電灯から奪った需要家も相当数あったが、全体の8割近くは新規の需要であったのである<ref name="kanto-342"/>。[[富士製紙]]江戸川工場 (2,000kW) や[[日本電気]] (1,715kW)、[[東芝|芝浦製作所]] (1,600kW) などはそういった新規の需要家である<ref name="kanto-342"/>。京浜方面とあわせると、毎年3万kW以上の需要増加が見込まれる電力市場であったという<ref name="toho-201"/>。


電力戦の傍ら、1926年後半から建設中の発電所が相次いで竣工する。まず1926年5月、建設中の[[#早川第三発電所|早川第三発電所]]から川崎第一変電所へ至る送電線(田代本線、送電電圧154キロボルト<ref name="toho-199">[[#toho|『東邦電力史』]]199-201頁</ref>)が完成<ref name="kanto-338"/>。翌1927年1月より早川第三発電所が運転を開始し、続いて[[#田代川第一発電所|田代川第一発電所]]が8月に、[[#田代川第二発電所|田代川第二発電所]]が11月にそれぞれ運転を開始した<ref name="kanto-338"/>。これらの水力発電所以外にも鶴見町の[[#東京火力発電所|東京火力発電所]]が1926年12月に完成、1927年5月には発電機がもう1基完成して竣工した<ref name="kanto-338"/>。さらに1926年10月には系列の上毛電力の手により伏田発電所が完成し、ここからの受電も開始している<ref name="kanto-338"/>。
電力戦の傍ら、1926年後半から建設中の発電所が相次いで竣工する。まず1926年5月、建設中の[[#早川第三発電所|早川第三発電所]]から川崎第一変電所へ至る送電線(田代本線、送電電圧154kV<ref name="toho-199">[[#toho|『東邦電力史』]]199-201頁</ref>)が完成<ref name="kanto-338"/>。翌1927年1月より早川第三発電所が運転を開始し、続いて[[#田代川第一発電所|田代川第一発電所]]が8月に、[[#田代川第二発電所|田代川第二発電所]]が11月にそれぞれ運転を開始した<ref name="kanto-338"/>。これらの水力発電所以外にも鶴見町の[[#東京火力発電所|東京火力発電所]]が1926年12月に完成、1927年5月には発電機がもう1基完成して竣工している<ref name="kanto-338"/>。


=== 周辺への波及 ===
=== 周辺への波及 ===
[[ファイル:Keisuke mochizuki.jpg|thumb|upright|東京電灯の中京地方進出を許可した逓信大臣[[望月圭介]]]]
[[ファイル:Keisuke mochizuki.jpg|thumb|upright|東京電灯の中京地方進出を許可した逓信大臣[[望月圭介]]]]


東京電力対東京電灯の電力戦が行われていた当時、五大電力の一つで卸売り会社の[[日本電力]]も東京進出を目指し、東京への送電線を建設中であった<ref>[[#kanto|『関東の電気事業と東京電力』]]348-349頁</ref>。東京電力はこの日本電力と提携して同社の東京進出に協力、相呼応して東京電灯を攻撃しようと企てた<ref name="jigyo_192608"/>。一方東京電灯は[[大同電力]]から電力を購入し東京方面へと供給していたことから、大同電力は東京電灯の側についた<ref name="jigyo_192608"/>。東京電力の親会社東邦電力と大同電力はともにかつての[[名古屋電灯]]を前身としており、大同電力は姉妹会社の競合会社に味方したことになる<ref>[[#zensho|『日本コンツエルン全書』13]] 101-104頁</ref>。
東京電力対東京電灯の電力戦が行われていた当時、五大電力の一つで卸売り会社の[[日本電力]]も東京進出を目指し、東京への送電線を建設中であった<ref name="kanto-348"/>。東京電力はこの日本電力と提携して同社の東京進出に協力、相呼応して東京電灯を攻撃しようと企てた<ref name="jigyo192608"/>。一方東京電灯は[[大同電力]]から電力を購入し東京方面へと供給していたことから、大同電力は東京電灯の側についた<ref name="jigyo192608"/>。東京電力の親会社東邦電力と大同電力はともにかつての[[名古屋電灯]]を前身としており、大同電力は姉妹会社の競合会社に味方したことになる<ref name="zensho-95"/>。


東京電力発足半年後の1925年12月、大同電力取締役に東京電灯副社長の若尾璋八が就任した<ref>[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]62-65頁</ref>。大同電力が自社の株式を東京電灯に引き受けさせたため、大株主となった東京電灯を代表して若尾が入ることとなったものである<ref name="masuda-188">[[#masuda|『増田次郎自叙伝』]]188-191頁</ref>。ところが東邦電力もまた大同電力の設立の経緯から大株主であり、松永安左エ門も元から取締役に名を列ねていた<ref name="masuda-188"/>。当時大同電力副社長[[増田次郎]]によると、東京電力を設立したばかりの松永は若尾の大同電力入りに反対し、株主総会上でも大株主の立場をもって拒否しようと試みるほどで、先輩の[[福澤桃介]](大同電力社長、松永の[[慶應義塾]]時代以来の先輩)に対して謀反を起こしたと騒がれたという<ref name="masuda-188"/>。
東京電力発足半年後の1925年12月、大同電力取締役に東京電灯副社長の若尾璋八が就任した<ref>[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]62-65頁</ref>。大同電力が自社の株式を東京電灯に引き受けさせたため、大株主となった東京電灯を代表して若尾が入ることとなったものである<ref name="masuda-188">[[#masuda|『増田次郎自叙伝』]]188-191頁</ref>。ところが東邦電力もまた大同電力の設立の経緯から大株主であり、松永安左エ門も元から取締役に名を列ねていた<ref name="masuda-188"/>。当時大同電力副社長であった[[増田次郎]]によると、東京電力を設立したばかりの松永は若尾の大同電力入りに反対し、株主総会上でも大株主の立場をもって拒否しようと試みるほどで、先輩の[[福澤桃介]](大同電力社長、松永の[[慶應義塾]]時代以来の先輩)に対して謀反を起こしたと騒がれたという<ref name="masuda-188"/>。


東京電力が東京郊外3郡での電力供給を許可された直後の1926年5月29日、東京電灯の若尾ら幹部は大同電力と協議し、大同が当時愛知・[[岐阜県|岐阜]]両県における電力供給許可を申請していたところに東京電灯も加わり、両社協力して東邦電力の地盤である中京地方への進出を目指すことを申し合わせた<ref name="jigyo_192608"/>。若尾らはその足で名古屋へと向い、翌30日に名古屋逓信局に対して中京地方での電力供給許可を申請する<ref name="jigyo_192608"/>。申請内容は、名古屋市をはじめとする愛知・[[三重県|三重]]両県下を供給区域とし、建設中の奈川発電所(長野県)を起点とする154キロボルト送電線を架設、同発電所などの余剰電力を電源として5万キロワットを供給する、というものである<ref name="toho-211">[[#toho|『東邦電力史』]]211-213頁</ref>。東京電灯のこの行動は東京電力の東京進出に対する報復とされる<ref name="kanto-347">[[#kanto|『関東の電気事業と東京電力』]]347-348頁</ref>。6月には名古屋営業所を設置し、需要家獲得に向けて予備勧誘を始めた<ref name="toho-211"/>。
東京電力が東京郊外3郡での電力供給を許可された直後の1926年5月29日、東京電灯の若尾ら幹部は大同電力と協議し、大同が当時愛知・[[岐阜県|岐阜]]両県における電力供給許可を申請していたところに東京電灯も加わり、両社協力して東邦電力の地盤である中京地方への進出を目指すことを申し合わせた<ref name="jigyo192608"/>。若尾らはその足で名古屋へと向い、翌30日に名古屋逓信局に対して中京地方での電力供給許可を申請する<ref name="jigyo192608"/>。申請内容は、名古屋市をはじめとする愛知・[[三重県|三重]]両県下を供給区域とし、建設中の奈川発電所(長野県)を起点とする154kV送電線を架設、同発電所などの余剰電力を電源として5万kWを供給する、というものである<ref name="toho-211">[[#toho|『東邦電力史』]]211-213頁</ref>。東京電灯のこの行動は東京電力の東京進出に対する報復とされる<ref name="kanto-347">[[#kanto|『関東の電気事業と東京電力』]]347-348頁</ref>。6月には名古屋営業所を設置し、需要家獲得に向けて予備勧誘を始めた<ref name="toho-211"/>。


しかしながら東京電灯の申請は翌1927年4月に当局より却下され、中京地方進出の目論みは潰えて5月に名古屋営業所は廃止された<ref name="toho-211"/>。当時の内閣は憲政会の[[第1次若槻内閣|若槻礼次郎内閣]]で、申請を却下した逓信大臣は先に東京電力の申請を許可した安達謙蔵である<ref name="toho-211"/>。だが同年12月5日、東京電灯は再度愛知・三重両県下における電力供給許可を申請する<ref name="toho-211"/>。却下から再申請までの間に若槻内閣が退陣して立憲政友会による[[田中義一内閣]]が成立しており、新たに逓信大臣となった[[望月圭介]]は再申請を12月28日に許可した<ref name="kanto-347"/>。却下された申請が一転して許可となったのは、若尾と立憲政友会の太い繋がりが理由であるとされる<ref name="kanto-347"/>。
しかしながら東京電灯の申請は翌1927年4月に当局より却下され、中京地方進出の目論みは潰えて5月に名古屋営業所は廃止された<ref name="toho-211"/>。当時の内閣は憲政会の[[第1次若槻内閣|若槻礼次郎内閣]]で、申請を却下した逓信大臣は先に東京電力の申請を許可した安達謙蔵である<ref name="toho-211"/>。だが同年12月5日、東京電灯は再度愛知・三重両県下における電力供給許可を申請する<ref name="toho-211"/>。却下から再申請までの間に若槻内閣が退陣して立憲政友会による[[田中義一内閣]]が成立しており、新たに逓信大臣となった[[望月圭介]]は再申請を12月28日に許可した<ref name="kanto-347"/>。却下された申請が一転して許可となったのは、若尾と立憲政友会の太い繋がりが理由であるとされる<ref name="kanto-347"/>。
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[[ファイル:GO Seinosuke.jpg|thumb|upright|東京電灯会長[[郷誠之助]](1927年就任)]]
[[ファイル:GO Seinosuke.jpg|thumb|upright|東京電灯会長[[郷誠之助]](1927年就任)]]


1927年1月に東京への本格進出を果たした東京電力では、それ以来東京・川崎方面での供給成績を大きく伸ばし、1927年下期末(11月末)の時点では1年前の実績の約2.5倍にあたる約7万7,000キロワット<!--103,310馬力-->の電力(数字は電熱用を除く)を供給していた<ref name="kanto-338"/>。会社全体での供給実績は、電灯供給71万5,078灯・電力供給13万1,583馬力(約9万8,000キロワット)に及ぶ<ref name="kanto-338"/>。事業の拡張に伴い1927年下期の電力料収入は前年同期比1.5倍の407万円に拡大し、総収入は758万円となった<ref name="kanto-344">[[#kanto|『関東の電気事業と東京電力』]]344-347頁</ref>。だが供給設備の相次ぐ拡充に伴う[[固定資産]]の増加率に比べて収入の増加率は伸び悩み、固定資産利益率についても東京電灯より低い4 - 5%で低迷した<ref name="kanto-344"/>。つまり積極経営の効果が収益面で現れておらず、好調な経営とは言い難い状況であった<ref name="kanto-344"/>。一方東京電灯東京電力と電力戦の影響より1927年上期より電力料収入が減少転じ<ref name="kanto-355">[[#kanto|『関の電気事業と東京電力』]]355-357頁</ref>、同年下期の電力料収入は前同期に比べ146万円少ない1665万円に低下した<ref name="kanto-366">[[#kanto|『の電気事業と東京電力』]]366-368頁</ref>。元々東京電灯の業績は利率が低下して悪化傾向にあったが<ref name="kanto-355"/>、電力戦はさらなる利益率の低下をもたらしたのである<ref name="kanto-366"/>。
1927年1月に東京への本格進出を果たした東京電力では、それ以来東京・川崎方面での供給成績を大きく伸ばし、1927年下期末(11月末)の時点では1年前の実績の約2.5倍にあたる約7万7,000kW<!--103,310馬力-->の電力(数字は電熱用を除く)を供給していた<ref name="kanto-338"/>。会社全体での供給実績は、電灯供給71万5078灯・電力供給13万1583馬力(約9万8,000kW)に及ぶ<ref name="kanto-338"/>。事業の拡張に伴い1927年下期の電力料収入は前年同期比1.5倍の407万円に拡大し、総収入は758万円となった<ref name="kanto-344">[[#kanto|『関東の電気事業と東京電力』]]344-347頁</ref>。だが供給設備の相次ぐ拡充に伴う[[固定資産]]の増加率に比べて収入の増加率は伸び悩み、固定資産利益率についても東京電灯より低い4 - 5%で低迷した<ref name="kanto-344"/>。つまり積極経営の効果が収益面で現れておらず、好調な経営とは言い難い状況であった<ref name="kanto-344"/>。[[配当|配当率]]見ても発足時年率8パーセントから1926年上期年率9パーセントに増配されていたが、1927年上期に元の水準に減配となっている<ref name="kanto-344"/>。親会社電力の配当率は時期年率12パーセント(1927年下期より率10パーセント)である<ref>[[#toho|『東電力』]]巻末付表「賃借対照表」「損計算書」</ref>。


一方東京電灯では、東京電力との電力戦の影響により1927年上期より電力料収入が減少に転じ<ref name="kanto-355">[[#kanto|『関東の電気事業と東京電力』]]355-357頁</ref>、同年下期の電力料収入は前年同期に比べ146万円少ない1665万円に低下した<ref name="kanto-366">[[#kanto|『関東の電気事業と東京電力』]]366-368頁</ref>。元々東京電灯の業績は利益率が低下して悪化傾向にあったが<ref name="kanto-355"/>、電力戦はさらなる利益率の低下をもたらしたのである<ref name="kanto-366"/>。東京電灯でも1926年下期から年率9パーセント配当であったが<ref name="kanto-355"/>、1927年下期より年率8パーセントに減配した<ref name="kanto-366"/>。
電力戦による東京電力・東京電灯両社の経営悪化に、両社に対して巨額の融資をしていた金融機関が危機感を抱きはじめる<ref name="kanto-344"/>。1927年下期の時点で、社債・借入金・支払手形をあわせた負債額は東京電力が8947万円、東京電灯が2億4839万円に達しており、これらの資金は主に[[三井銀行]]・[[三菱銀行]]・[[安田銀行]]などの金融機関によるものであった<ref name="kanto-344"/>。さらに東京電灯の場合は[[外債]]([[アメリカ合衆国ドル|米ドル]]建ておよび[[スターリング・ポンド|英ポンド]]建て社債)の発行から国外にも債権者があった<ref name="kanto-344"/>。1927年3月に[[昭和金融恐慌]]が発生すると、電力戦の激化は金融機関を巻き込んで日本の金融システムそのものを危機に陥れる可能性も生じたため、金融機関のみならず[[大蔵省]]や[[日本銀行]]などもこの問題を注視するようになる<ref name="kanto-344"/>。


電力戦による東京電力・東京電灯両社の経営悪化に、両社に対して巨額の融資をしていた金融機関が危機感を抱きはじめる<ref name="kanto-344"/>。1927年下期の時点で、[[社債]]・借入金・[[支払手形]]をあわせた負債額は東京電力が8947万円、東京電灯が2億4839万円に達しており、これらの資金は主に[[三井銀行]]・[[三菱銀行]]・[[安田銀行]]などの金融機関によるものであった<ref name="kanto-344"/>。さらに東京電灯の場合は[[外債]]([[アメリカ合衆国ドル|米ドル]]・[[スターリング・ポンド|英ポンド]]建て社債)の発行から国外にも債権者があった<ref name="kanto-344"/>。1927年3月に[[昭和金融恐慌]]が発生すると、電力戦の激化は金融機関を巻き込んで日本の金融システムそのものを危機に陥れる可能性も生じたため、金融機関のみならず[[大蔵省]]や[[日本銀行]]などもこの問題を注視するようになる<ref name="kanto-344"/>。
こうした状況を受けて、三井銀行筆頭常務[[池田成彬]]や安田銀行副頭取[[結城豊太郎]]が東京電力・東京電灯の和解・合併の斡旋に乗り出した<ref name="kanto-344"/>。特に東京電灯に対しては池田が人事にも介入し、[[1927年]](昭和2年)7月に[[郷誠之助]]を会長に就任させ(社長は若尾が続投)、[[阪急電鉄]]創業者の[[小林一三]]を取締役として入れて、経営改革にあたらせることとなった<ref name="kanto-362">[[#kanto|『関東の電気事業と東京電力』]]362-364頁</ref>。両社合併への動きは7月に始まるが、9月になっても両社の意見の隔たりが大きく合併への合意には達しなかった<ref name="kanto-344"/>。

こうした状況を受けて、三井銀行筆頭常務[[池田成彬]]や安田銀行副頭取[[結城豊太郎]]が東京電力・東京電灯の和解・合併の斡旋に乗り出した<ref name="kanto-344"/>。特に東京電灯に対しては池田が人事にも介入し、[[1927年]](昭和2年)7月に[[郷誠之助]]を会長に就任させ(社長は若尾が続投)、[[阪急電鉄]]創業者の[[小林一三]]を取締役として入れて経営改革にあたらせることとなった<ref name="kanto-362">[[#kanto|『関東の電気事業と東京電力』]]362-364頁</ref>。両社合併への動きは7月に始まるが、9月になっても両社の意見の隔たりが大きく合併への合意には達しなかった<ref name="kanto-344"/>。


1927年12月になると、金融恐慌の影響により両社とも建設資金の調達に窮するようになったことから、合併に関して歩み寄りがみられた<ref name="kanto-344"/>。池田の斡旋もあり、12月13日には以下の合併条件に対し両社間の同意がおおむね得られた<ref name="kanto-344"/>。
1927年12月になると、金融恐慌の影響により両社とも建設資金の調達に窮するようになったことから、合併に関して歩み寄りがみられた<ref name="kanto-344"/>。池田の斡旋もあり、12月13日には以下の合併条件に対し両社間の同意がおおむね得られた<ref name="kanto-344"/>。
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=== 東京電灯との合併とその後 ===
=== 東京電灯との合併とその後 ===
[[ファイル:Ichizo Kobayashi showa.jpg|thumb|upright|東京電灯副社長(のち社長)に就いた[[小林一三]]]]

1927年12月24日付で東京電力と東京電灯の間に締結された合併契約の概要は以下の通り<ref name="toho-206">[[#toho|『東邦電力史』]]206-210頁</ref>。
1927年12月24日付で東京電力と東京電灯の間に締結された合併契約の概要は以下の通り<ref name="toho-206">[[#toho|『東邦電力史』]]206-210頁</ref>。
* 合併に際して東京電灯を存続会社とし、東京電力は解散する。
* 合併に際して東京電灯を存続会社とし、東京電力は[[解散]]する。
* 東京電灯は資本金を6142万5000円増加し(4億714万9000円とする)、増加に伴う新規発行株式を東京電力株主に交付する。その割合は東京電力の株式10株に対し新株9株。
* 東京電灯は資本金を6142万5000円増加し(4億714万9000円とする)、増加に伴う新規発行株式を東京電力株主に交付する。その割合は東京電力の株式10株に対し新株9株。
* 東京電力の従業員は新規採用の形で東京電灯が引き継ぐ。
* 東京電力の従業員は新規採用の形で東京電灯が引き継ぐ。
* 役員への功労金や従業員退職金など東京電力が解散に際して要する費用については東京電灯が支払う(別途協定により110万円と決定)。
* 役員への功労金や従業員退職金など東京電力が解散に際して要する費用については東京電灯が支払う(別途協定により110万円と決定)。
* 合併期日は[[1928年]](昭和3年)[[4月1日]]とする。
* 合併期日は[[1928年]](昭和3年)[[4月1日]]とする。
上記契約は翌1928年1月双方の株主総会にて承認された<ref name="toho-206"/>。


その後の逓信省の認可に際し、需要家の便宜を図って独占的にならないこと、料金をすみやかに統一すること、という条件が付けられ、東京電灯は需要家に対する既存契約を料金を改定せずそのまま引き継ぐこととなった<ref name="kanto-344"/>。そして期日通りに年4月1日付で両社の合併は実行に移され、東京電力は解散した<ref name="kanto-344"/>。水力9万3,247キロワット・火力4万8,150キロワットに及ぶ発電設備をはじめとす発送変電設備は東京電灯に引き継がれた<ref name="kanto-344"/>。また東京電力の傍系会社については、東京湾電気は東京電灯傘下に入り<ref name="kanto-338"/>、関東地方の上毛電力と[[群馬水電]](須川電力から改称)は東京電灯へ供給する発電社とし続したが<ref name="kanto-484">[[#kanto|『関東の電気事業と東京電力』]]484-488頁</ref>、[[大井川電力]](寸又川電気から改称)東邦電力の傘下に残った<ref name="toho-482">[[#toho|『東邦電力史』]]482-483頁</ref>。
翌1928年[[1月16日]]、両社はれぞれ臨時株主総会を開き上記合併契約承認を得た<ref name="reportT84">「東京電灯株式会社第84回報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref><ref name="kanpo19280118">「公示催告」『官報』第314号、1928年1月18日付。{{NDLJP|2956775/13}}</ref>。2か月後の3月22日には逓信省からの合併認可も得ている<ref name="reportT84"/>。この認可に際し、需要家の便宜を図って独占的にならないこと、料金をすみやかに統一すること、という条件が付けられ、東京電灯は需要家に対する既存契約を料金を改定せずそのまま引き継ぐこととなった<ref name="kanto-344"/>。そして期日通りに1928年4月1日付で両社の合併は実行に移される<ref name="kanto-344"/>。同年[[5月18日]]付で東京電灯側にて合併報告総が開かれ合併手きが完了し<ref name="reportT84"/>、同日をもって東京電力は解散した<ref name="kanpo19280818"/>。


東京電力の合併により東京電灯では東邦電力の持株比率が高まり、同社系列の東邦証券が全株式のうち4.6%を保有する筆頭株主となり、東邦電力自身も1.7%の株式を持つ大株主となった(1929年下期時点)<ref name="kanto-364">[[#kanto|『関東の電気事業と東京電力』]]364-368頁</ref>。合併時の合意の通り、合併後の1928年5月の株主総会松永が取締役に就任している<ref name="kanto-364"/>。また東京電灯社内では、同年3月副社長となった小林一三により、さらなる経営改革進められた<ref name="kanto-364"/>。東京電力の合併継承した諸設備によっ電力の運用効率が改善されて供給コストの低減をもたらし、電力戦の終結による無理な料金値歯止めがかけられたこととあわせて一時的に経営の安定に繋がった<ref name="kanto-344"/>。しかし[[1929年]](昭和4年)9月日本電力が南葛飾・南足立・北豊島3郡と[[横浜市]][[鶴見区 (横浜市)|鶴見区]]における電力供給を許可され、翌年より実際に供給を開始したことにより、今度は日本の間で需要家争奪戦を開戦した<ref name="kanto-351">[[#kanto|『関東の電気事業と東京電力』]]351-354頁</ref>。対日本電力力戦は東電力のときとは異なて既存需要家の争奪戦が主体であり経営への影響はより大きく<ref name="kanto-351"/>灯の業績低迷は続いた<ref name="kanto-366"/>。
合併に伴い東京電灯では東邦電力の持株比率が高まり、同社系列の東邦証券が全株式のうち4.6パーセントを保有する筆頭株主となり、東邦電力本体も1.7パーセントの株式を持つ大株主となった(1929年下期時点)<ref name="kanto-364">[[#kanto|『関東の電気事業と東京電力』]]364-368頁</ref>。合併時の合意の通り、合併報告総会にて松永と宮口竹雄東京電灯取締役に就任している<ref name="kanto-364"/><ref name="reportT84"/>。合併により、水力93,247kW・火力48,150kWに及ぶ発電設備をはじめとする発送変電設備は東京電灯に引き継がれた<ref name="kanto-344"/>。東京電力の傍系会社いて東京湾気は東京電灯傘下に入り<ref name="kanto-338"/>、関東地方の上毛電力と[[群馬水電]](須川電力から改称)は東京電灯へ供給する発会社して存続した<ref name="kanto-484">[[#kanto|『関東の電気事業と東京電力』]]484-488頁</ref>、[[大井川電力]](寸又川気から改称)は東電力の傘下に残<ref name="toho-482">[[#toho|『力史』]]482-483頁</ref>。


東京電灯社内では、合併手続き中の1928年3月に副社長となった小林一三によりさらなる経営改革が進められた<ref name="kanto-364"/>。東京電力の合併に伴い継承した諸設備によって電力の運用効率が改善されて供給コストの低減をもたらし、電力戦の終結による無理な料金値下げに歯止めがかけられたこととあわせて一時的に経営の安定に繋がった<ref name="kanto-344"/>。しかし[[1929年]](昭和4年)9月、日本電力が南葛飾・南足立・北豊島3郡と[[横浜市]][[鶴見区 (横浜市)|鶴見区]]における電力供給を許可され、翌年より実際に供給を開始したことにより、今度は日本電力との間で需要家争奪戦を開戦した<ref name="kanto-348"/>。対日本電力の電力戦は東京電力のときとは異なって既存需要家の争奪戦が主体であり経営への影響はより大きく<ref name="kanto-348"/>、東京電灯の業績低迷は続いた<ref name="kanto-366"/>。日本電力との対立が終結するのは池田・結城や逓信省の斡旋で営業協定が交わされた[[1931年]](昭和6年)7月のことで、これをもって全国的に「電力戦」が収まった<ref name="kanto-348"/>。
また東京電灯は、東京電力を合併してから1年以上が経過した1929年10月、1927年12月末に電力供給の許可を受けていた中京地方進出へ動き出し、名古屋営業所を再設置した<ref name="kanto-347"/>。東京電力(東邦電力)との電力戦は終結していたにもかかわらず東邦電力への攻勢を仕掛けたのは、社長若尾璋八の強い意向のためという<ref name="kanto-347"/>。名古屋と[[知多半島]]の[[岡田町|岡田]]、三重県北部の[[富田 (四日市市)|富田]]の3か所に変電所を設置、白瀬発電所(愛知県、元早川電力所属)を起点に送電線を架設し、同年12月より中京地方での供給を開始した<ref name="toho-211"/>。だが1930年6月、中京進出を主導した若尾が業績不振で社長を解任され、会長の郷誠之助が会長兼任で後任社長に就くと社内の状況は一変し、当時不況下であったこともあり、二重投資を避けるとして中京地方からの撤退が決定した<ref name="kanto-364"/>。1930年12月に東邦電力への事業譲渡認可があり、中京地方の事業は発電所を除いて同社へと譲渡された<ref name="kanto-364"/>。譲渡資産は総額348万8716円90銭<ref name="kanto-364"/>。供給実績は約800キロワット程度で、東邦電力と競争するほどにはなっていなかったという<ref name="kanto-364"/>。


また東京電灯は、東京電力を合併してから1年以上が経過した1929年10月、1927年12月末に電力供給の許可を受けていた中京地方進出へ動き出し、名古屋営業所を再設置した<ref name="kanto-347"/>。東京電力(東邦電力)との電力戦は終結していたにもかかわらず東邦電力への攻勢を仕掛けたのは、社長若尾璋八の強い意向のためという<ref name="kanto-347"/>。名古屋と[[知多半島]]の[[岡田町|岡田]]、三重県北部の[[富田 (四日市市)|富田]]の3か所に変電所を設置、白瀬発電所(愛知県、元早川電力所属)を起点に送電線を架設し、同年12月より中京地方での供給を開始した<ref name="toho-211"/>。だが1930年6月、中京進出を主導した若尾が業績不振で社長を解任され、会長の郷誠之助が会長兼任で後任社長に就くと社内の状況は一変し、当時不況下であったこともあり、二重投資を避けるとして中京地方からの撤退が決定した<ref name="kanto-364"/>。1930年12月に東邦電力への事業譲渡認可があり、中京地方の事業は発電所を除いて同社へと譲渡された<ref name="kanto-364"/>。譲渡資産は総額348万8716円90銭<ref name="kanto-364"/>。供給実績は約800kW程度で、東邦電力と競争するほどにはなっていなかったという<ref name="kanto-364"/>。
== 電源開発 ==

== 年表 ==
=== 早川電力 ===
* [[1918年]](大正7年)
** [[6月28日]] - '''早川電力株式会社'''設立<ref name="kanpo19180821"/>。資本金800万円<ref name="kanpo19180821"/>、社長[[窪田四郎]]<ref name="reportH1"/>。
* [[1920年]](大正9年)
** [[3月15日]] - [[日英水電]]を合併<ref name="reportH4"/>、資本金1100万円となる<ref name="jitsugyo192009"/>。
* [[1921年]](大正10年)
** 2月 - [[#早川第二発電所|大島発電所(後の早川第二発電所)]]運転開始<ref name="jitsugyo192107"/>。
** 7月 - 日英水力電気発起人より大井川の水利権および東京市近辺の電力供給権を譲り受ける<ref name="koron192309"/>。
* [[1922年]](大正11年)
** [[4月12日]] - [[天竜電力]]・福田電力・東遠電気を合併、資本金1500万円となる<ref name="reportH8"/>。
** [[8月4日]] - 傍系会社田代川水力電気を設立(資本金500万円)<ref name="reportH9"/>。
* [[1923年]](大正12年)
** [[7月15日]] - [[#早川第一発電所|榑坪発電所(後の早川第一発電所)]]運転開始、[[浜松市|浜松]]方面への送電開始<ref name="reportH11"/>。
* [[1924年]](大正13年)
** [[3月12日]] - [[東邦電力]]が早川興業を設立<ref name="toho-189"/>。
** [[3月31日]] - 早川電力は早川興業の合併を決議<ref name="reportH12"/>。東邦電力の[[松永安左エ門]]が社長就任<ref name="toho-189"/>。
** [[4月22日]] - 榑坪発電所より[[沼津市|沼津]]方面へ送電開始<ref name="reportH12"/>。
** [[6月27日]] - 早川興業の合併完了<ref name="reportH13"/>、資本金3000万円となる<ref name="toho-189"/>。
** [[10月16日]] - 川崎変電所完成に伴い群馬電力への送電開始<ref name="reportH13"/>。
** [[11月24日]] - 傍系会社[[中央電力 (1938-1942)|三河水力電気]]を設立<ref name="reportH13"/>。
** [[12月25日]] - 群馬電力との合併を決議<ref name="kanto-338"/>。

=== 群馬電力 ===
* [[1919年]](大正8年)
** [[7月5日]] - '''群馬電力株式会社'''設立<ref name="kanpo19191009"/>。資本金700万円<ref name="kanpo19191009"/>、社長[[安田善三郎]]・副社長[[田島達策]]<ref name="tajima-133"/>。
* 1920年(大正9年)
** [[6月1日]] - 吾妻電気株式会社設立<ref name="kanpo19201228"/>。
** [[11月5日]] - 吾妻電気を合併、資本金1200万円となる<ref name="reportG3"/>。社長に[[安田善五郎]]就任<ref name="reportG3"/>。
* 1922年(大正11年)
** [[7月4日]] - [[京浜急行電鉄|京浜電気鉄道]]との間で兼営電灯・電力供給事業に関する事業買収契約を締結<ref name="reportG11"/>。
** [[12月26日]] - [[#金井発電所(吾妻川)|金井発電所]]送電開始<ref name="reportG8"/>。
* 1923年(大正12年)
** [[5月1日]] - 京浜電気鉄道の電灯・電力供給事業を引き継ぐ<ref name="keikyu-108"/>。
** [[12月25日]] - 社長に田島達策、副社長に松永安左エ門就任<ref name="reportG10"/>、東邦電力の傘下に入る<ref name="toho-192"/>。
* 1924年(大正13年)
** [[10月27日]] - [[吾妻軌道]]を合併<ref name="reportG11"/>。
** 12月25日 - 早川電力との合併を決議<ref name="kanto-338"/>。
* [[1925年]](大正14年)
** [[2月22日]] - [[#渋川発電所(吾妻川)|渋川発電所]]送電開始<ref name="report1"/>。

=== 東京電力 ===
* 1925年(大正14年)
** [[3月16日]] - 早川電力と群馬電力が合併し、'''東京電力株式会社'''設立<ref name="kanto-338"/>。社長田島達策、副社長松永安左エ門<ref name="kanto-338"/>。
* [[1926年]](大正15年・昭和元年)
** 1月 - [[#田島火力発電所|田島火力発電所]]運転開始<ref name="report3"/>。
** [[4月30日]] - 田代川水力電気を合併<ref name="report3"/>。
** [[5月20日]] - 傍系会社東京湾電気を設立<ref name="kanpo19261009"/>、同社で[[東亜建設工業|東京湾埋立]]の電気事業を継承<ref name="toho-196"/>。
** [[10月20日]] - [[静岡電力]]を合併<ref name="report4"/>。
** [[12月25日]] - 傍系会社須川電力(後の[[群馬水電]])を設立<ref name="kokumin19270107"/>。
* [[1927年]](昭和2年)
** [[1月1日]] - 南葛飾方面送電開始<ref name="kanto-342"/>。
** 1月 - [[#東京火力発電所|東京火力発電所]]・[[#早川第三発電所|早川第三発電所]]運転開始<ref name="jea-81"/><ref name="kanto-338"/>。
** 8月 - [[#田代川第一発電所|田代川第一発電所]]運転開始<ref name="kanto-338"/>。
** 11月 - [[#田代川第二発電所|田代川第二発電所]]運転開始<ref name="kanto-338"/>。
** [[12月24日]] - [[東京電灯|東京電灯株式会社]]との間で合併契約締結<ref name="kanto-344"/>。
* [[1928年]](昭和3年)
** [[1月16日]] - 臨時株主総会にて合併契約承認、東京電灯への合併による[[解散]]を決議<ref name="reportT84"/><ref name="kanpo19280118"/>。
** [[3月22日]] - 東京電灯への合併について逓信省より認可<ref name="reportT84"/>。
** [[4月1日]] - 東京電灯との合併実施<ref name="kanto-344"/>。
** [[5月18日]] - 東京電灯にて合併報告総会開催<ref name="reportT84"/>。同日東京電力は解散<ref name="kanpo19280818"/>。

== 電源開発の推移 ==
以下、沿革のうち前身会社時代を含めた発電所の開発史について記述する。
以下、沿革のうち前身会社時代を含めた発電所の開発史について記述する。


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[[ファイル:Kanai hydroelectric power station.jpg|thumb|金井発電所(2013年撮影)]]
[[ファイル:Kanai hydroelectric power station.jpg|thumb|金井発電所(2013年撮影)]]


東京電力の発電所のうち[[群馬県]]に位置したものの一つが'''金井発電所'''({{ウィキ座標|36|31|21.5|N|138|59|18.5|E|region:jp|name=金井発電所|地図}})である。旧群馬電力が[[群馬郡]][[金島村 (群馬県)|金島村]]大字金井(現・[[渋川市]])にて[[1920年]](大正9年)4月に着工、2年半の工期を経て[[1922年]](大正11年)11月に完成させた<ref name="shibu-359">[[#shibukawa|『渋川市誌』第3巻]]359-361頁</ref>。送電開始は12月26日付である<ref name="reportG8">「群馬電力株式会社第8回報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。発電所出力は10,800kWであり<ref name="shibu-359"/><ref name="kanto-s89">[[#kanto-s|『関東の電気事業と東京電力』資料編]]89-92頁</ref>、送電線は東京方面への群馬線が接続した<ref name="shibu-359"/>。
[[群馬県]]を流れる[[利根川]]水系[[吾妻川]]は、須川(現在名[[白砂川]]、上流部に[[草津温泉]]がある)が流れ込む影響で水質が[[酸|酸性]]を帯びており、工事への懸念から県内のほかの河川にて水力発電計画が浮上する中でも計画が立てられず取り残されていた<ref name="tajima-125"/>。群馬県出身の実業家[[田島達策]]は、この放置されていた吾妻川の有効活用を志し、[[1906年]](明治39年)、県内の有志とともに吾妻川の水利権を申請する<ref name="tajima-125"/>。田島の申請と前後して[[浅野総一郎]]も吾妻川水利権を出願しており競願となったが、県当局の調停によって妥協がなり、同年9月、白砂川合流点の下流2里にある松谷を境界として水利権を分割し、その上流側が浅野側、下流側が田島側にそれぞれ許可された<ref name="tajima-125"/>。


[[利根川]]水系[[吾妻川]]を利用する水力発電所の一つで、吾妻川では下流寄り(利根川合流点寄り)にあり、上流側に[[群馬水電]](旧・須川電力)が計画する箱島発電所{{Refnest|group=注釈|箱島発電所は戦後の東京電力によって[[1951年]](昭和26年)11月に完成した<ref>[[#kanto-s|『関東の電気事業と東京電力』資料編]]304頁</ref>。}}、下流側に下記の渋川発電所が立地する<ref name="jea-211"/>。取水口位置は[[吾妻郡]][[東村 (群馬県吾妻郡)|東村]]大字箱島(現・[[東吾妻町]])で<ref>[[#hydro|『許可水力地点要覧』]]56-57頁。{{NDLJP|1187651/36}}</ref>、水路・発電所ともに吾妻川右岸(南側)にある<ref name="jea-211"/>。
水利権を得た田島は早期の着工を目指したが、浅野側の発電所の放水路より取水する設計としてそちらの起工を前提としたため着工できなかった<ref name="tajima-125"/>。その間、吾妻川の各地で調査を行い、下流の金井・渋川であれば酸性の河水の影響による金属腐食のおそれはなく工事にまったく支障はない、との結論を得た<ref name="tajima-125"/>。


この吾妻川は支流域に[[草津温泉]]があり、ここからの水が須川(現在名[[白砂川]])を経て吾妻川に合流することから、水質が[[酸|酸性]]を帯びるという特徴があった<ref name="tajima-125"/>。このため工事への懸念から水力発電計画が長年立てられないでいたが、旧群馬電力創業者の[[田島達策]]は放置されていた吾妻川の有効活用を志し、[[1906年]](明治39年)に県内有志とともに吾妻川の水利権を申請した<ref name="tajima-125"/>。前後して[[浅野総一郎]]も出願しており競願となったが、県当局の調停によって妥協がなり、同年9月、須川合流点の下流2里にある松谷を境界として上流側は浅野側、下流側は田島側にそれぞれ水利権が許可された<ref name="tajima-125"/>。田島側は早期着工を目指すものの、浅野側発電所の放水路より取水する設計を採用したため浅野側が起工しないうちは着工できなかった<ref name="tajima-125"/>。しかしその間に吾妻川の各地を調査した結果、下流の金井・渋川地点であれば酸性の河水の影響による金属腐食のおそれはなく工事にまったく支障はない、との結論を得たため先行起工の運びとなった<ref name="tajima-125"/>。河川の特性上、完成した金井発電所の[[発電用水車|水車]]には耐酸性のものが採用されている<ref name="shibu-359"/>。
吾妻川を開発すべく田島を副社長として1919年に[[#群馬電力の設立|群馬電力]]が発足。翌[[1920年]](大正9年)4月、群馬電力は[[北群馬郡]][[金島村 (群馬県)|金島村]](現・[[渋川市]])にて'''金井発電所'''を着工した<ref name="kanai">[[#shibukawa|『渋川市誌』第3巻]]359-361頁</ref>。完成は[[1922年]](大正11年)11月で、出力は1万800キロワット<ref name="kanai"/>。運転開始は同年12月である<ref name="kanto-336"/>。発電所からは東京方面へ至る送電線(群馬線)が架設された<ref name="kanai"/>。また酸性の強い河川であるためその対策として耐酸性の[[発電用水車|水車]]を設置している<ref name="kanai"/>。


1928年時点における金井発電所の設備等は以下の通り<ref name="yoran20-302">[[#yoran20|『電気事業要覧』第20回]]302-305頁。{{NDLJP|1076983/179}}</ref>。
1928年時点における金井発電所の設備等は以下の通り<ref name="y20-302">[[#yoran20|『電気事業要覧』第20回]]302-305頁。{{NDLJP|1076983/179}}</ref>。
* 取水河川:利根川水系吾妻川
* 取水河川:利根川水系吾妻川
* 使用水量:毎秒1,200[[才|立方尺]](約33.39[[立方メートル]])
* 使用水量:1,200[[才|立方尺]]毎秒(約33.39[[立方メートル毎秒]])
* 有効落差:140尺(約42.42メートル)
* 有効落差:140尺(約42.42メートル)
* [[発電用水車|水車]]:[[電業社機械製作所|電業社]]製[[フランシス水車]]3台(うち1台予備)
* [[発電用水車|水車]]:[[電業社機械製作所|電業社]]製横軸[[フランシス水車]]3台(うち1台予備)
* [[発電機]]:[[東芝|芝浦製作所]]製三相交流発電機3台(容量4,250[[ボルトアンペア|キロボルトアンペア]]、うち1台予備)
* [[発電機]]:[[東芝|芝浦製作所]]製三相交流発電機3台(容量4,250[[ボルトアンペア|キロボルトアンペア]]、うち1台予備)
* [[変圧器]]:芝浦製作所・[[三菱電機]]・[[ウェスティングハウス・エレクトリック]]製
* [[変圧器]]:芝浦製作所・[[三菱電機]]・[[ウェスティングハウス・エレクトリック|ウェスティングハウス]]製
* 送電線:[[神奈川県]][[川崎市]]の川崎第一変電所へ群馬線(送電電圧110[[ボルト (単位)|キロボルト]])を架設<ref name="yoran20-425">[[#yoran20|『電気事業要覧』第20回]]425-427頁。{{NDLJP|1076983/240}}</ref>


[[1941年]](昭和16年金井発電所は東京電灯から[[日本発送電]]へ出資された<ref name="kanpo_19410527">「日本発送電株式会社法第五条の規定に依る出資に関する公告」『[[官報]]』第4313号、1941年5月27日付。{{NDLJP|2960811/11}}</ref>。[[太平洋戦争]]後[[1951年]](昭和26年)再編成では[[東京電力]]に継承され<ref name="kantoshiryo-302">[[#kantoshiryo|『関東の電気事業と東京電力』資料編]]302-303・312頁</ref>、東京電力金井発電所({{ウィキ座標|36|31|21.5|N|138|59|18.5|E|region:jp|地図}})となっている
東京電灯への合併後、金井発電所は[[1941年]](昭和16年)10月に東京電灯から[[日本発送電]]へ出資された<ref name="kanto-566">[[#kanto|『関東の電気事業と東京電力』]]566-568頁</ref>。続く[[太平洋戦争]]後[[1951年]](昭和26年)に行われた[[気事業再編成令|電気事業再編成]]では[[東京電力]]に継承されている<ref name="kanto-s302">[[#kanto-s|『関東の電気事業と東京電力』資料編]]302-303・312頁</ref>。


=== 渋川発電所(吾妻川) ===
=== 渋川発電所(吾妻川) ===
発電所を建設した群馬電力、第2期工事として[[1923年]](大正2年)1月に'''渋川発電所'''を着工した<ref name="shibukawa">[[#shibukawa|『渋川市誌』第3巻]]363頁</ref>。所在地は金島発電所と同じく北群馬郡金島村<ref name="shibukawa"/>。出力は5,800キロワットで、日本で最初[[サイフォン|サイフォン式]]水路を持つ発電所である<ref name="shibukawa"/>。先に完成した金井発電所の放水を利用している<ref name="jitsugyo_192108"/>。[[1925年]](大正14年)3月に成し<ref name="shibukawa"/>同年4月運転を開始た<ref name="kantoshiryo-90">[[#kantoshiryo|『関東電気事業と東京電力』資料編]]90頁</ref>。
発電所とともに群馬県に位置した発電所が'''渋川発電所'''({{ウィキ座標|36|30|13.5|N|139|00|22.5|E|region:jp|name=渋川発電所|地図}})である。元は旧群馬電力の姉妹会社・吾妻電気が計画した地点だが旧群馬電力がこれを吸収し<ref name="jitsugyo192108"/>、金井発電所建設に続く第2期工事として[[1923年]](大正12年)1月群馬郡金島村大字阿久津(現・渋川市)にて着工した<ref name="shibu-363">[[#shibukawa|『渋川市誌』第3巻]]363頁</ref>。2年後の[[1925年]](大正14年)2月に成し、222日より試運転を始めたところ[[渇水]]期にあたり電力不足が生じていたため直ちに送電が開始された<ref name="report1"/>。完成後検査終了は東京電力発足後の同年4月である<ref name="report1"/>。


利根川合流点に近い吾妻川最下流部の右岸に立地する<ref name="jea-211"/>。金井発電所の放水を利用する発電所で<ref name="jitsugyo192108"/>、日本で最初の[[サイフォン|サイフォン式]]水路を有するという特徴もある<ref name="shibu-363"/>。発電所出力は5,800kW<ref name="shibu-363"/><ref name="kanto-s89"/>。1928年時点における渋川発電所の設備等は以下の通り<ref name="y20-302"/>。
1928年時点における渋川発電所の設備等は以下の通り<ref name="yoran20-302"/>。
* 取水河川:利根川水系吾妻川
* 取水河川:利根川水系吾妻川
* 使用水量:毎秒1,200立方尺(約33.39立方メートル)
* 使用水量:1,200立方尺毎秒(約33.39立方メートル毎秒
* 有効落差:72尺(約21.82メートル)
* 有効落差:72尺(約21.82メートル)
* 水車:[[エッシャーウイス]]製フランシス水車2台
* 水車:[[エッシャーウイス]]製フランシス水車2台
* 発電機:ウェスティングハウス・エレクトリック製三相交流発電機2台(容量4,250キロボルトアンペア)
* 発電機:ウェスティングハウス製三相交流発電機2台(容量4,250キロボルトアンペア)


金井発電所と同様に1941年東京電灯から日本発送電へ出資され<ref name="kanpo_19410527"/>戦後は東京電力に継承され<ref name="kantoshiryo-302"/>、東京電力渋川発電所({{ウィキ座標|36|30|13.5|N|139|00|22.5|E|region:jp|地図}})となっている
金井発電所と同様に1941年東京電灯から日本発送電へ出資され<ref name="kanto-566"/>戦後は東京電力に継承され<ref name="kanto-s302"/>。

=== 田島火力発電所 ===
群馬電力が吾妻川に建設した水力発電所は冬季の渇水期に発電量が落ちることから、不足分を補う[[火力発電所]]を建設する方針としていた<ref name="tajima-138">[[#tajima|『城山翁喜寿の賀』]]138-139頁</ref>。この方針により建設されたのが'''田島火力発電所'''で、1924年に着工、東京電力合併後の1925年末に完成した<ref name="tajima-138"/>。

所在地は神奈川県[[川崎市]]田島町で、発電所出力は1万キロワット<ref name="yoran20-115"/>。1928年時点における設備等は以下の通り<ref name="yoran20-302"/>。
* [[ボイラ]]:エッシャーウイス製ボイラ6台(うち1台予備)
* 原動機:エッシャーウイス製[[蒸気タービン]]2台(うち1台予備)
* 発電機:[[ABBグループ|ブラウン・ボベリ]]製三相交流発電機2台(容量5,000キロワット、うち1台予備)


=== 早川第一発電所 ===
=== 早川第一発電所 ===
269行目: 355行目:
[[ファイル:Hayakawa I power station.jpg|thumb|早川第一発電所(2010年撮影)]]
[[ファイル:Hayakawa I power station.jpg|thumb|早川第一発電所(2010年撮影)]]


[[山梨県]]を流れる[[富士川]]水系[[早川 (山梨県)|早川]]をすべく1918年に設立された[[#早川電力の設立|早川電力]]は、まず大島発電所後の早川第発電所、1944年8月廃止<ref name="kantoshiryo-91">[[#kantoshiryo|『関東の気事業と東京電力資料編]]91頁</ref>)の建設に着<ref name="jitsugyo_192107"/>[[1921年]](大正10)1月に完成させ2月より運転を開始した<ref name="jitsugyo_192107"/>。この大島発電所の発生電力の一部を利用し、早川電力は2番目の発電所建設(1920年秋着工を進めた<ref name="jitsugyo_192107"/>。そして[[1923年]](大正12)6月に'''榑坪発電所'''(後の'''[[早川第一発電所]]'''<ref name="kantoshiryo-91"/>)を完成させ、同年7月より同発電所の運転を開始<ref name="koron_192309"/>。
[[山梨県]]を流れる[[富士川]]水系[[早川 (山梨県)|早川]]の名冠する3か所の電所で最大規模のものが'''[[早川第一発]]'''{{ウィキ座標|35|25|37.0|N|138|24|15.5|E|region:jp|name=早川第発電所|地図}})である。所在地は[[南巨摩郡]][[五箇村 (山梨県)|五箇村]]大字榑坪<ref>[[#ohm|『全国大発所一覧』]]8。{{NDLJP|1210456/25}}</ref>(現・[[早川町]]。旧早川電力第1期工事として「榑坪発電所」の名で建設されたもので<ref name="koron192309"/>、1920年秋に着<ref name="jitsugyo192107"/>[[1923年]](大正12)6に完成し<ref name="koron192309"/>715日より運転を開始した<ref name="reportH11">早川電力株式会社第11回報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。1年後の[[1924年]](大正13)4月には4号発電機も完成している<ref name="reportH12"/>。


所在地は山梨県[[南巨摩郡]][[五箇村 (山梨県)|五箇村]](現・[[早川町]])で、発電所出力2万キロワット<ref name="yoran20-115">[[#yoran20|『電気事業要覧第20回]]234-235頁。{{NDLJP|1076983/145}}</ref>。富士本流との合流点か4キロメートルほど早川を遡った場所の左岸側発電所はあり、上流20キロメートルの地点に取水堰堤がある<ref name="ps-26">[[#ps|『日本の発電所』東部日本篇]]26-29頁</ref>。取水口は後に建設される早川第三発電所および田代川第一発電所の直位置し、こうち田代川発電所の水路完成して田代川([[大井川]]上流)からの通水が始まると早川第一発電所でも常時出力が増加し、後に最大出力も2万5,100キロワット拡大した<ref name="ps-26"/>。
発電所は富士川本流との合流点から4キロメールほど早川をさかのぼった場所の左岸側(北側)に位置する<ref name="jea-26">[[#jea|『日本の発東部日本篇]]26-29頁。{{NDLJP|1257046/48}}</ref>。その取水口は早をさに約20キロメートルさかのぼった南巨摩郡[[三里村 (山梨県)|三里村]]大字新倉(現・早川町)にあり、間に10キロメートルの導水路を通している<ref name="jea-26"/>。導水路は完成後の改造より途中の渓流からも取水可能である<ref name="jea-26"/>。導水路終端が繋がる上部水槽は調節池の機能を併せ持つ(有効貯水量5万2000[[立方メートル]])<ref name="jea-26"/>。発電所出力は当初20,000kWであったが<ref name="kanto-s89"/><ref name="jea-26"/>。取水口の直下記の田代川第一発電所が建設されると水量増加によって早川第一発電所出力も25,100kW増加した<ref name="jea-26"/>。


1928年時点における早川第一発電所の設備等は以下の通り<ref name="yoran20-302"/>。
1928年時点における早川第一発電所の設備等は以下の通り<ref name="y20-302"/>。
* 取水河川:富士川水系早川
* 取水河川:富士川水系早川
* 使用水量:毎秒430立方尺(約11.97立方メートル)
* 使用水量:430立方尺毎秒(約11.97立方メートル毎秒
* 有効落差:738.5尺(約223.79メートル)
* 有効落差:738.5尺(約223.79メートル)
* 水車:ボービング (Boving) 製[[ペルトン水車]]4台(うち1台予備)
* 水車:ボービング (Boving) 製[[ペルトン水車]]4台(うち1台予備)
* 発電機:芝浦製作所製三相交流発電機4台(容量8,000キロボルトアンペア、うち1台予備)
* 発電機:芝浦製作所製三相交流発電機4台(容量8,000キロボルトアンペア、うち1台予備)
* 変圧器:芝浦製作所製
* 変圧器:芝浦製作所製
* 送電線:
** 早川第三発電所へ新倉線(送電電圧66キロボルト)を架設<ref name="yoran20-425"/>
** 神奈川県[[横浜市]][[鶴見区 (横浜市)|鶴見区]]の川崎第二変電所へ早川線(送電電圧66キロボルト)を架設<ref name="yoran20-425"/>


1941に早川第一発電所は東京電灯から日本発送電へ出資され<ref name="kanpo_19410527"/>戦後東京電力継承され<ref name="kantoshiryo-302"/>、東京電力早川第一発電所({{ウィキ座標|35|25|37.0|N|138|24|15.5|E|region:jp|地図}})となっている
東京電灯への合併後の[[1928]](昭和3年)末、部設備の改造により力の[[商用電源周波数|周波数]]が50[[ヘルツ]]から60ヘルツへと転換された<ref name="jea-26"/>。1941年10月に東京電灯から日本発送電へ出資され<ref name="kanto-566"/>戦後1951年に東京電力へと継承されている<ref name="kanto-s302"/>。


=== 田代川第発電所 ===
=== 川第発電所 ===
早川第一発電所に関連する発電所に'''早川第二発電所'''がある。これも早川から取水する発電所であり、南巨摩郡[[都川村]]大字保(現・早川町)に取水口、[[硯島村]]大字大島に放水口(発電所)をそれぞれ設ける<ref name="hydro-74">[[#hydro|『許可水力地点要覧』]]74-77頁。{{NDLJP|1187651/45}}</ref>。どちらの場所も早川第一発電所の取水口から発電所までの間にあたる<ref name="jea-33">[[#jea|『日本の発電所』東部日本篇]]33-37頁。{{NDLJP|1257046/55}}</ref>。
[[ファイル:Tashirogawa I power station and Hayakawa III power station.jpg|thumb|田代川第一発電所(左)と早川第三発電所(右)。手前は早川第一発電所取水堰堤。<br />(2010年撮影)]]


旧早川電力最初の発電所として「大島発電所」の名で建設され、[[1921年]](大正10年)1月に完成、2月より運転を開始した<ref name="jitsugyo192107"/>。翌1922年時点での発電所出力は最大2,100kWで、電業社製フランシス水車と芝浦製2,500キロボルトアンペア発電機各1台を備える<ref>[[#yoran14|『電気事業要覧』第14回]]70-71頁。{{NDLJP|975007/62}}</ref>。発生電力は榑坪(早川第一)発電所の工事に用いられたほか<ref name="jitsugyo192107"/>、地元の身延電灯にも送電された<ref>「早川電力株式会社第6回報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。その後1923年7月に榑坪発電所が運転を開始したのと同時に運転を休止した<ref name="reportH11"/>。
[[大井川]]上流部から取水し、[[分水嶺]]を貫いてその水を富士川水系早川に流して発電する、という計画は、[[1906年]](明治39年)より設立計画が進められていた[[日英水電|日英水力電気]]が初めに取り上げた<ref>[[#oigawa|『大井川 その歴史と開発』]]372-374頁</ref>。その後、早川電力が大井川上流の田代川における水力開発を早川第一発電所の建設に続く第二期工事として計画し、別個に田代川水力電気株式会社を設立して事業を進めた<ref name="koron_192309"/>。当初の計画では、田代川の水を早川へと導水することで有効落差2,900尺余り(約800メートル)という大きな落差を得て4万馬力の発電力を得るとしていたが<ref name="koron_192309"/>、これを2段にわけて下段では早川支流の渓流からも取水して発電力を増加するのが有利とされて、上下2つの発電所を建設することとなった<ref name="ps-33">[[#ps|『日本の発電所』東部日本篇]]、30-37頁</ref>。このうち下流側に建設されたのが'''田代川第一発電所'''である<ref name="ps-33"/>。第二発電所とあわせ、日英水力電気の計画が形を変えて実現したものといえる<ref>[[#oigawa|『大井川 その歴史と開発』]]423頁</ref>。


逓信省の資料には、1927年時点では出力450kWで休止中<ref name="y19-235">[[#yoran19|『電気事業要覧』第19回]]235-236頁。{{NDLJP|1076946/144}}</ref><ref name="y19-298">[[#yoran19|『電気事業要覧』第19回]]298-301頁。{{NDLJP|1076946/176}}</ref>、東京電灯合併後の1939年時点では出力1,487kWで休止中とある<ref name="y31">[[#yoran31|『電気事業要覧』第31回]]724・726頁。{{NDLJP|1077029/377}}</ref>。早川第一発電所などと同様に日本発送電へと出資されるが<ref name="kanto-566"/>、[[1944年]](昭和19年)8月に廃止された<ref name="kanto-s89"/>。
[[1927年]](昭和2年)8月、田代川第一発電所は運転を開始した<ref name="kanto-338"/>。なお運転開始前年の1926年4月に田代川水力電気は東京電力に合併されており、東京電力の手で竣工している<ref name="kanto-338"/>。所在地は山梨県南巨摩郡[[三里村 (山梨県)|三里村]](現・早川町)で、出力は1万5,500キロワット<ref name="yoran20-115"/>。上流側にある田代川第二発電所から直接取水し、ほかに渓流からの取水もあわせて発電する<ref name="ps-33"/>。放水路は早川を挟んで対岸にある早川第三発電所の放水路と連絡し、下流の早川第一発電所取水口に繋がる<ref name="ps-33"/>。


=== 早川第三発電所 ===
1928年時点における田代川第一発電所の設備等は以下の通り<ref name="yoran20-302"/>。
[[ファイル:Tashirogawa I power station and Hayakawa III power station.jpg|thumb|田代川第一発電所(左)と早川第三発電所(右)。手前は早川第一発電所取水堰堤。(2010年撮影)]]

早川にて最後に建設された発電所が'''早川第三発電所'''({{ウィキ座標|35|29|16.0|N|138|19|43.0|E|region:jp|name=早川第三発電所|地図}})である。所在地は南巨摩郡三里村大字新倉<ref name="jea-30">[[#jea|『日本の発電所』東部日本篇]]30-32頁。{{NDLJP|1257046/52}}</ref>。旧早川電力第2期工事の一環として別会社・田代川水力電気によって着工され<ref name="koron192309"/>、東京電力による吸収後の[[1926年]]12月下旬に完成、翌[[1927年]](昭和2年)1月中旬に送電を開始した<ref name="report5">「東京電力株式会社第5回報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。

取水地点は南巨摩郡[[西山村 (山梨県)|西山村]]大字下湯島(現・早川町)にあり、ここから早川左岸に沿う約5キロメートルの水路にて発電所まで導水する<ref name="jea-30"/>。発電所の対岸(早川右岸側)に田代川第一発電所が立地するほか<ref name="jea-33"/>、すぐ下流には早川第一発電所の取水口があり<ref name="jea-26"/>、発電所放水路は川底に通された田代川第一発電所放水路と合流した上で早川第一発電所取水口に直結している<ref name="jea-33"/>。発電所出力は6,600kWであり周辺発電所に比べると小さいが、田代川第一・第二両発電所の発生電力を集め、自所の発生電力とあわせて昇圧し東京方面へと送電する役割を持つ<ref name="jea-30"/>。

1928年時点における早川第三発電所の設備等は以下の通り<ref name="y20-302"/>。
* 取水河川:富士川水系早川
* 使用水量:200立方尺毎秒(約5.57立方メートル毎秒)
* 有効落差:493.5尺(約149.55メートル)
* 水車:電業社製フランシス水車1台
* 発電機:芝浦製作所製三相交流発電機1台(容量7,400キロボルトアンペア)
* 変圧器:芝浦製作所製またはウェスティングハウス・エレクトリック製

早川第一発電所と同様1941年に東京電灯から日本発送電へ出資された<ref name="kanto-566"/>。戦後は東京電力に継承されている<ref name="kanto-s302"/>。

=== 田代川第一発電所 ===
[[大井川]]上流部(「田代川」という)から取水し、[[分水界|分水嶺]]を貫いてその水を富士川水系早川に流して発電する、という設計に基づく上下2か所の発電所のうち下段のものが'''田代川第一発電所'''({{ウィキ座標|35|29|12.5|N|138|19|44.0|E|region:jp|name=田代川第一発電所|地図}})である<ref name="jea-33"/>。上記の通り南巨摩郡三里村大字新倉の早川第三発電所対岸に位置する<ref name="jea-33"/>。田代川水力電気による建設中に東京電力へと引き継がれ、[[1927年]](昭和2年)8月に運転を開始した<ref name="kanto-338"/>。発電所出力は最大15,500kWである<ref name="y20-115">[[#yoran20|『電気事業要覧』第20回]]234-235頁。{{NDLJP|1076983/145}}</ref>。

そもそも大井川の水を早川に落として発電するという構想は、[[1906年]](明治39年)より設立計画が進められていた[[日英水電|日英水力電気]]が取り上げたのに端を発する<ref>[[#oigawa|『大井川 その歴史と開発』]]372-374頁</ref>。その後旧早川電力が早川第一発電所の建設に続く第2期工事として、大井川の水を早川へと導水することで2900尺余り(約800メートル)の大きな有効落差を得て発電するという計画を立て、別個に田代川水力電気を設立して事業に着手した<ref name="koron192309"/>。その中で、導水路を上下2段に分割し下段においては早川支流の渓流3か所からも取水して発電力を増加するのが有利と判断されたため、田代川第一・第二両発電所の建設となったのである<ref name="jea-33"/>。取水口・発電所位置は異なるが日英水力電気の構想が形を変えて実現したものといえる<ref>[[#oigawa|『大井川 その歴史と開発』]]423頁</ref>。

1928年時点における田代川第一発電所の設備等は以下の通り<ref name="y20-302"/>。
* 取水河川:大井川水系田代川
* 取水河川:大井川水系田代川
* 使用水量:毎秒217立方尺(約6.04立方メートル)
* 使用水量:217立方尺毎秒(約6.04立方メートル毎秒
* 有効落差:1,152尺(約349.09メートル)
* 有効落差:1,152尺(約349.09メートル)
* 水車:ボービング製ペルトン水車1台
* 水車:ボービング製ペルトン水車1台
* 発電機:[[ゼネラル・エレクトリック]]製三相交流発電機1台(容量20,000キロボルトアンペア)
* 発電機:[[ゼネラル・エレクトリック]]製三相交流発電機1台(容量20,000キロボルトアンペア)


1941年に田代川第発電所東京電灯から日本発送電へ出資された<ref name="kanpo_19410527"/>戦後は東京電力に継承され<ref name="kantoshiryo-302"/>、東京電力田代川第一発電所({{ウィキ座標|35|29|12.5|N|138|19|44.0|E|region:jp|地図}})となっている
東京電灯合併後の[[1929]](昭和4年)1月出力制限解除に伴う16,723kWへの最大出力変更が許可された<ref>[[#nenkan1930|『電気年鑑』昭和5年]]69頁。{{NDLJP|1139432/30}}</ref>。田代川第発電所とともに1941年に東京電灯から日本発送電へ出資されたのち<ref name="kanto-566"/>戦後は東京電力に継承されている<ref name="kanto-s302"/>。


=== 田代川第二発電所 ===
=== 田代川第二発電所 ===
[[ファイル:Tashiro Dam survey.jpg|thumb|[[田代ダム]]調整池空中写真(1976年度撮影)<br />{{国土航空写真}}。]]
大井川上流部の田代川における発電計画を2段に分割した際、上流側に設置されたのが'''田代川第二発電所'''である<ref name="ps-33"/>。所在地は山梨県南巨摩郡三里村(現・早川町)で、出力は2万862キロワット<ref name="yoran20-115"/>。田代川水力電気が建設していた発電所の1つで、東京電力への合併後の1927年11月に運転を開始した<ref name="kanto-338"/>。


田代川第一発電所と対になる上段側の発電所が'''田代川第二発電所'''({{ウィキ座標|35|29|15.5|N|138|17|56.0|E|region:jp|name=田代川第二発電所|地図}})である。所在地は南巨摩郡三里村大字新倉で<ref name="n1929">[[#nenkan1929|『電気年鑑』昭和4年]]8頁。{{NDLJP|1139383/57}}</ref>、早川本流から離れた田代川第一発電所西方に立地する<ref name="jea-33"/>。同発電所に続いて1927年11月に運転を開始した<ref name="kanto-338"/>。発電所出力は最大20,862kWである<ref name="n1929"/><ref name="y20-115"/>。
発電所自体は山梨県だが取水口は[[静岡県]]側に位置し、付近は田代川がU字型に蛇行した場所(通称・二軒小屋)になっている<ref name="ps-33"/>。U字型の蛇行部分の両端に堰堤([[田代ダム]])を設け、その間を調整池として使用しつつ、下流側の堰堤脇から取水する<ref name="ps-33"/>。また5キロメートル余りの水路の途中にも早川支流の渓流から取水できる地点がある<ref name="ps-33"/>。


大井川(田代川)の取水口は[[静岡県]][[安倍郡]][[井川村]]大字田代(現・[[静岡市]][[葵区]])に位置する<ref name="hydro-74"/>。周囲は川がU字型に蛇行する部分(通称「二軒小屋」)であり、この地形を活かしてU字型部分の両端に堰堤([[田代ダム]])を設けてその間を有効貯水量18万9000立方メートルの調整池として使用している<ref name="jea-33"/>。調整池に入らない余水は蛇行を短絡する形で開削された約21メートルの落差を持つ洪水路により放出される<ref name="jea-33"/>。取水口は下流側堰堤の左岸({{ウィキ座標|35|29|54.7|N|138|14|48.2|E|region:jp|name=田代川第二発電所取水口|地図}})に開いており、ここから県境の分水嶺を貫く約5キロメートルの導水路が伸びる<ref name="jea-33"/>。導水路の途中には早川支流の渓流(保利沢)から取水できる地点がある<ref name="jea-33"/>。また発電所放水路はそのまま下流・田代川第一発電所の取水路に繋がっている<ref name="jea-33"/>。
1928年時点における田代川第二発電所の設備等は以下の通り<ref name="yoran20-302"/>。

1928年時点における田代川第二発電所の設備等は以下の通り<ref name="y20-302"/>。
* 取水河川:大井川水系田代川
* 取水河川:大井川水系田代川
* 使用水量:毎秒191立方尺(約5.31立方メートル)
* 使用水量:191立方尺毎秒(約5.31立方メートル毎秒
* 有効落差:1,625尺(約492.42メートル)
* 有効落差:1,625尺(約492.42メートル)
* 水車:ボービング製ペルトン水車1台
* 水車:ボービング製ペルトン水車1台
* 発電機:ゼネラル・エレクトリック製三相交流発電機1台(容量26,000キロボルトアンペア)
* 発電機:ゼネラル・エレクトリック製三相交流発電機1台(容量26,000キロボルトアンペア)


=== 田島火力発電所 ===
田代川第一発電所と同様1941年に東京電灯から日本発送電へ出資された<ref name="kanpo_19410527"/>。戦後は東京電力に継承され<ref name="kantoshiryo-302"/>、東京電力田代川第二発電所({{ウィキ座標|35|29|15.5|N|138|17|56.0|E|region:jp|地図}})となっている。
東京電力では、需要地側にあたる[[神奈川県]][[川崎市]]に2か所の[[火力発電所]]を運転した。1か所目の'''田島火力発電所'''は旧群馬電力が計画したもので、1924年に着工<ref name="tajima-133"/>、東京電力発足後の1925年12月に竣工した<ref name="report3"/>。運転開始は翌1926年1月初旬である<ref name="report3"/>。所在地は川崎市田島町<!--川崎区桜本の桜橋変電所の位置か?-->、発電所出力は10,000kW<ref name="y20-115"/>。


水力発電事業においては、大正時代中頃より使用水量を河川の渇水量ではなく平水量(6か月流量)にあわせて設計するのが一般化した<ref name="zensho-77">[[#zensho13|『日本コンツェルン全書』13]] 77-78頁。{{NDLJP|1278498/48}}</ref>。その結果、単位当たり建設費が安くなる一方で季節により発電量に変動が生じる<ref name="zensho-77"/>。この差分を特殊電力といい、供給先は[[第一次世界大戦]]期においては通年操業を必要としない電気化学工業が定番であったが<ref name="zensho-77"/>、戦後は同方面の需要が減退したため、一般需要に振り向けるべく渇水期には火力発電所を運転し発電量を一定化するという操作(火力併用)が一般化していく<ref name="zensho-85"/>。田島火力発電所も同種の意図をもって旧群馬電力が計画したものである<ref name="tajima-133"/>。
=== 早川第三発電所 ===
早川第一発電所取水堰堤直上に建設されたのが'''早川第三発電所'''である<ref name="ps-26"/>。所在地は山梨県南巨摩郡三里村(現・早川町)で、出力は6,600キロワット<ref name="yoran20-115"/>。早川左岸にあり、対岸に田代川第一発電所があるが、同発電所と異なり早川より取水する<ref name="ps-30">[[#ps|『日本の発電所』東部日本篇]]30-32頁</ref>。取水口は早川のさらに上流にあり、ここから約5キロメートルの水路で導水して発電する<ref name="ps-30"/>。


1928年時点における設備等は以下の通り<ref name="y20-302"/>。
田代川水力電気が建設していた発電所の1つで、東京電力への合併後の1927年1月に運転を開始した<ref name="kanto-338"/>。出力は周囲の発電所に比べると小さいが、田代川第一・同第二発電所の発生電力を集め、自所の発生電力とあわせて変電の上東京方面へと送電する役割を持つ<ref name="ps-30"/>。
* [[ボイラ]]:エッシャーウイス製ボイラ6台(うち1台予備)
* 原動機:エッシャーウイス製[[蒸気タービン]]2台(うち1台予備)
* 発電機:[[ABBグループ|ブラウン・ボベリ]]製三相交流発電機2台(容量5,000kW、うち1台予備)


田島火力発電所の廃止時期は不詳<!--1940年か?-->。逓信省の資料には、1939年時点での東京電灯発電所一覧に出力8,000kWの予備発電所として記載がある<ref name="y31"/>。
1928年時点における早川第三発電所の設備等は以下の通り<ref name="yoran20-302"/>。
* 取水河川:富士川水系早川
* 使用水量:毎秒200立方尺(約5.57立方メートル)
* 有効落差:493.5尺(約149.55メートル)
* 水車:電業社製フランシス水車1台
* 発電機:芝浦製作所製三相交流発電機1台(容量7,400キロボルトアンペア)
* 変圧器:芝浦製作所製またはウェスティングハウス・エレクトリック製
* 送電線:神奈川県川崎市の川崎第一変電所へ田代線(送電電圧154キロボルト)を架設<ref name="yoran20-425"/>

早川第一発電所と同様1941年に東京電灯から日本発送電へ出資された<ref name="kanpo_19410527"/>。戦後は東京電力に継承され<ref name="kantoshiryo-302"/>、東京電力早川第三発電所({{ウィキ座標|35|29|16.0|N|138|19|43.0|E|region:jp|地図}})となっている。


=== 東京火力発電所 ===
=== 東京火力発電所 ===
336行目: 437行目:
[[ファイル:鶴見火力発電所 石碑.jpg|thumb|発電所跡地に建つ石碑]]
[[ファイル:鶴見火力発電所 石碑.jpg|thumb|発電所跡地に建つ石碑]]


田代などでの水力開発とわせて予備の火力発電所として建設されたのが'''東京火力発電所'''(後[[鶴見火力発電所]]へ改称<ref>[[#kantoshiryo|『関東の電気事業と東京電力』資料編]]85頁</ref>である<ref name="ps-81">[[#ps|『日本の発電所』東部日本篇]]81-96頁</ref>。[[1925年]](大正14年)7月より基礎工事に着手建築工事と機械の据付を同時並行かつ昼夜兼行で進めて完成を急ぎ<ref name="ps-81"/>、[[1926年]](大正15年)12月発電機1基がまず完成<ref name="kanto-338"/>、翌[[1927年]](昭和2年)1月より営業運転を開始し<ref name="ps-81"/>、5月は残1基も竣工した<ref name="kanto-338"/>。
崎市内にったもう一つの火力発電所が'''東京火力発電所'''である。これも渇水期おける水力発電量減少を補給するため所であり、旧早川電力によって計画された<ref name="kanto-308"/><ref name="kanto-338"/>。従って早川・田代川の水力開発に対応する関係にある<ref name="jea-81">[[#jea|『日本の発電所』東部日本篇]]81-96頁。{{NDLJP|1257046/103}}</ref>。[[京浜運河]]に面する埋立地川崎市川町{{ウィキ座標|35|29|44.8|N|139|42|56.9|E|region:JP|name=鶴見第一火力発電所跡|地図}})位置する<ref name="jea-81"/>。


工事は1925年2月設計開始、7月末基礎工事開始という手順で着手される<ref name="jea-81"/>。工事中は工期短縮のため昼夜兼行、建築工事と機械の据付を同時並行で施工された<ref name="jea-81"/>。1年半後の1926年12月中旬に発電機2台のうち1台がまず完成、月内に検査を終え<ref name="report5"/>、翌1927年1月より営業運転を開始した<ref name="jea-81"/>。残る1台の工事も同年5月末には完成、6月上旬に検査が完了している<ref name="report6"/>。当初の認可出力は35,000kW<ref>[[#nenkan1928|『電気年鑑』昭和3年]]18頁。{{NDLJP|1139346/57}}</ref><ref name="y20-115"/>。これに対し機械容量は70,000kWであり、最大140,000kWまでの拡張に対応する<ref name="jea-81"/>。
所在地は神奈川県[[川崎市]]大川町<ref name="ps-81"/>。発電所出力は3万5,000キロワット<ref name="yoran20-115"/>。1928年時点における設備等は以下の通り<ref name="yoran20-302"/>。

主要機器は[[東邦電力]]が[[名古屋市]]に建設した[[名古屋火力発電所]]と同種のものを備える<ref name="jea-81"/>。1928年時点における設備等は以下の通り<ref name="y20-302"/>。
* ボイラ:[[バブコック・アンド・ウィルコックス]]製ボイラ4台(うち1台予備)
* ボイラ:[[バブコック・アンド・ウィルコックス]]製ボイラ4台(うち1台予備)
* 原動機:ゼネラル・エレクトリック製蒸気タービン2台(うち1台予備)
* 原動機:ゼネラル・エレクトリック製蒸気タービン2台(うち1台予備)
* 発電機:ゼネラル・エレクトリック製三相交流発電機2台(容量35,000キロワット、うち1台予備)
* 発電機:ゼネラル・エレクトリック製三相交流発電機2台(容量35,000kW、うち1台予備)
* 変圧器:芝浦製作所製
* 変圧器:芝浦製作所製


1939年に東京電灯から日本出資された<ref>「日本発送株式会社法第五条規定る出資に関す公告」官報第3482号、1938811付。{{NDLJP|2959973/21}}</ref>戦後は東京電力に継承されたが<ref>[[#kantoshiryo|『関東の電気事業と東京電力』資料編]]312頁</ref>、同社よって廃止されており現存しない
東京電灯合併後は「鶴見火力発電所」称する<ref name="kanto-308"/>。東京灯時代[[1934年]](昭和9年)から[[1936年]](昭和11年)かけて大規模な増設工事が行われ発電機計4台を擁す最大力178,500kWの火力発電所となってい<ref>[[#kanto|関東の電気事業と東京電力]]434-435頁</ref>。[[1939]](昭和14年)4本発送電設立と同時に同社へと出資され<ref name="kanto-566"/>戦後は東京電力に継承されたが<ref>[[#kanto-s|『関東の電気事業と東京電力』資料編]]312頁</ref>、[[1965年]](昭和40年)1・2号発電機が廃止となり、[[1984年]](昭和59年)には残る設備も廃止された<ref>[[#kanto|『関東の電気事業と東京電力』]]933-934頁</ref>


=== 送電網の形成 ===
== 本社・営業所所在地 ==
東京電力では発電所建設とともに[[電線路|送電線]]・[[変電所]]の建設も順次進めた。主要な送電線には「群馬本線」・「早川本線」・「田代本線」があった。その概要は以下の通り。
1927年3月時点の本社および営業所所在地は以下の通り<ref>[[#nenkan1927|『電気年鑑』昭和2年版]]141頁。{{NDLJP|1139309/122}}</ref>。
* 本社:[[東京府]][[東京市]][[麹町区]][[大手町 (千代田区)|永楽町2丁目]]10番地([[永楽ビルディング]]<ref>[[#nenkan1927|『電気年鑑』昭和2年版]]巻末広告3頁。{{NDLJP|1139309/443}}</ref>)
* 川崎営業所:[[神奈川県]][[川崎市]]古河通
* 浜松営業所:[[静岡県]][[浜松市]]伝馬町


; 群馬本線
== 供給区域一覧 ==
: 群馬県下の金井・渋川両発電所に接続する送電線は「群馬本線」であった<ref name="y19-414">[[#yoran19|『電気事業要覧』第19回]]414-417頁。{{NDLJP|1076946/234}}</ref>。金井発電所と川崎第一変電所(神奈川県川崎市小川町<ref name="y19-476">[[#yoran19|『電気事業要覧』第19回]]476-483頁。{{NDLJP|1076946/265}}</ref>)を結ぶもので、送電電圧は110kV、亘長は132キロメートル<ref name="y19-414"/>。1922年12月に使用開始された<ref name="y19-414"/>。
=== 東京・神奈川 ===
: 金井発電所には[[上毛電力]]伏田発電所とを結ぶ110kV送電線「伏田線」が接続する<ref name="y19-414"/>。また途中の片山開閉所で分岐して東京市外を迂回し小松川変電所(東京府[[南葛飾郡]][[松江町]]<ref name="jigyo192608"/>)へと至る110kV送電線「南葛線」も存在した<ref name="report5"/><ref name="y19-414"/>。同線は1927年1月の使用開始である<ref name="y19-414"/>。
群馬電力が1923年5月に[[京浜電気鉄道]]より譲り受けた供給区域は以下の通り<ref name="keikyu-487"/>。いずれも電灯・電力供給区域である。
; 早川本線
: 早川第一発電所に関する送電線は「早川本線」である<ref name="y19-414"/>。早川第一発電所を起点に境川開閉所・三島開閉所を経て川崎第二変電所(神奈川県橘樹郡[[鶴見町 (神奈川県)|鶴見町]]<ref name="y19-476"/>)へと至る<ref name="y19-414"/>。送電電圧は66kV、亘長は163キロメートル<ref name="y19-414"/>。最初に使用開始された区間は境川開閉所までで、その先は島田変電所(静岡県[[志太郡]][[島田市|島田町]]<ref name="y19-476"/>)へと至る「島田線」に接続<ref name="y19-414"/>。1923年7月に早川第一発電所が運転を開始するとその電力はまず島田変電所へと送電された<ref name="reportH11"/>。翌1924年4月、境川開閉所から三島開閉所までの区間が使用開始となり<ref name="y19-414"/>、沼津変電所(静岡県[[駿東郡]][[大岡村 (静岡県)|大岡村]]<ref name="y19-476"/>)への送電が始まる<ref name="reportH12"/>。そして同年9月残る川崎第二変電所までの区間も使用開始された<ref name="y19-414"/>。
; 田代本線
: 田代川第一・第二両発電所おおび早川第三発電所に接続する送電線は「田代本線」である<ref name="y19-414"/>。早川第三発電所と川崎第一変電所を結ぶ亘長160キロメートルの送電線であり、社内で唯一154kVの送電電圧を採用する<ref name="y19-414"/>。早川第三発電所の運転開始後、1927年9月に全線使用開始となった<ref name="report6"/><ref name="y19-414"/>。
: なお早川第三発電所と早川第一発電所の連絡線として66kV送電線「新倉線」があった<ref name="y19-414"/>。同線は1927年1月の早川第三発電所送電開始とともに使用開始となっている<ref name="report5"/>。

また東京電力の自社設備ではないが、親会社の東邦電力により1925年7月[[名古屋火力発電所]](名古屋市)と浜松変電所(浜松市原島)を繋ぐ送電電圧77kVの浜松送電線が完成した<ref name="hama-92">[[#hamamatsu|「浜松地方電気事業沿革史」]]92-94頁</ref>。1927年5月時点では浜松変電所における東邦電力から東京電力への供給高は9,000kW(他地点で別に750kWも供給)で、これは東京電力社内では上毛電力からの受電に次ぐ規模の購入電力であった<ref name="y19-235"/>。

=== 合併による発電所取得 ===
これまで記述してきた9か所の自社建設発電所以外にも、東京電力は合併により引き継いだ発電所を群馬・山梨・静岡・[[愛知県|愛知]]の4県に構えた。当該発電所の一覧は以下の通り。

{| class="wikitable" style="font-size:small; text-align:center;"
|-
!colspan="7" style="background-color:#ddd;"|群馬県所在
|-
!発電所名
!種類
!出力<ref name="kanto-s89"/><br />([[キロワット|kW]])
!colspan="2"|所在地・河川名<ref name="kanto-s89"/>
!運転開始<ref name="kanto-s89"/>
!備考
|-
!四万
|水力
|17
|[[吾妻郡]][[沢田村 (群馬県)|沢田村]](現・[[中之条町]])<br />(河川名:[[利根川]]水系[[四万川]])
|
|1914年10月
|前所有者:[[吾妻軌道]]<ref name="kanto-s89"/><br />1940年代廃止<ref name="kanto-s89"/>
|-
!名久田
|水力
|75
|吾妻郡[[名久田村]](現・[[中之条町]])<br />(河川名:利根川水系名久田川)
|
|1912年5月
|前所有者:吾妻軌道<ref name="kanto-s89"/><br />1927年6月廃止<ref>[[#nenkan1928|『電気年鑑』昭和3年]]33頁。{{NDLJP|1139346/64}}</ref>
|-
!colspan="7" style="background-color:#ddd;"|山梨県所在
|-
!発電所名
!種類
!出力<ref name="kanto-s89"/><br />([[キロワット|kW]])
!colspan="2"|所在地・河川名<ref name="kanto-s89"/>
!運転開始<ref name="kanto-s89"/>
!備考
|-
!身延
|水力
|55
|[[南巨摩郡]]身延村(現・[[身延町]])<br />(河川名:[[富士川]]水系身延川<ref name="minobu">[[#minobu|『身延町誌』]]543-547頁</ref>)
|
|1913年4月<ref name="minobu"/>
|前所有者:[[静岡電力]]<ref name="kanto-s89"/><br />1940年代廃止<ref name="kanto-s89"/>
|-
!colspan="7" style="background-color:#ddd;"|静岡県所在
|-
!発電所名
!種類
!出力<ref name="chubu2-330">[[#chubu|『中部地方電気事業史』下巻]]330-333頁</ref><br />(kW)
!colspan="2"|所在地・河川名<ref name="y19-235"/><ref name="y19-298"/>
!運転開始<ref name="chubu2-330"/>
!備考
|-
!鳥並
|水力
|1,060
|[[富士郡]][[柚野村 (静岡県)|柚野村]](現・[[富士宮市]])<br />(河川名:富士川水系[[芝川 (静岡県)|芝川]])
|{{ウィキ座標|35|14|26.6|N|138|33|29.8|E|region:JP|name=鳥並発電所|地図}}
|1922年12月
|前所有者:静岡電力<ref name="chubu2-330"/><br />'''現・[[中部電力|中電]]鳥並発電所'''
|-
!大久保
|水力
|1,792
|富士郡[[芝富村]](現・富士宮市)<br />(河川名:富士川水系芝川)
|{{ウィキ座標|35|13|29.7|N|138|33|41.9|E|region:JP|name=西山発電所|地図}}
|1911年9月
|前所有者:静岡電力<ref name="chubu2-330"/><br />'''現・中電西山発電所'''
|-
!川合
|水力
|3,080
|富士郡芝富村(現・富士宮市)<br />(河川名:富士川水系芝川)
|{{ウィキ座標|35|12|0.9|N|138|33|45.8|E|region:JP|name=長貫発電所|地図}}
|1920年2月
|前所有者:静岡電力<ref name="chubu2-330"/><br />'''現・中電長貫発電所'''
|-
!朏島
|水力
|632
|富士郡芝富村(現・富士宮市)<br />(河川名:富士川水系芝川)
|{{ウィキ座標|35|11|35.6|N|138|34|5.6|E|region:JP|name=芝富発電所|地図}}
|1926年2月
|前所有者:静岡電力<ref name="chubu2-330"/><br />'''現・中電芝富発電所'''
|-
!小山
|水力
|1,400
|[[榛原郡]][[上川根村]](現・[[川根本町]])<br />(河川名:[[大井川]])
|{{ウィキ座標|35|8|29.1|N|138|8|40.2|E|region:JP|name=小山発電所跡|地図}}
|1912年6月<ref name="hama-81"/>
|前所有者:[[日英水電]]<ref name="chubu2-330"/><br />1936年11月廃止<ref name="chubu2-330"/>
|-
!瀬尻
|水力
|120
|[[磐田郡]][[龍山村 (静岡県)|龍山村]](現・[[浜松市]])<br />(河川名:[[天竜川]]水系不動沢川<ref name="hydro-80">[[#hydro|『許可水力地点要覧』]]80-81頁。{{NDLJP|1187651/48}}</ref>)
|
|1913年5月<ref name="hydro-80"/>
|前所有者:[[天竜電力]]<ref name="chubu2-330"/><br />1938年4月廃止<ref>[[#nenkan1939|『電気年鑑』昭和14年]]18頁。{{NDLJP|1115068/30}}</ref>
|-
!川瀬
|水力
|100
|磐田郡上阿多古村(現・浜松市)<br />(河川名:天竜川水系[[阿多古川]])
|
|1908年9月<ref name="hydro-80"/>
|前所有者:天竜電力<ref name="chubu2-330"/><br />1944年2月廃止<ref name="chubu2-330"/>
|-
!落合
|水力
|100
|磐田郡上阿多古村(現・浜松市)<br />(河川名:天竜川水系阿多古川)
|
|1913年12月<ref name="hydro-80"/>
|前所有者:天竜電力<ref name="chubu2-330"/><br />1944年5月廃止<ref name="chubu2-330"/>
|-
!静岡火力
|汽力
|2,000
|[[静岡市]]音羽町
|
|1924年12月
|前所有者:静岡電力<ref name="chubu2-330"/><br />1930年代廃止<ref name="chubu2-330"/>
|-
!中泉
|[[内燃力発電|ガス力]]
|150
|磐田郡[[中泉町]](現・[[磐田市]])
|
|1911年
|前所有者:天竜電力<ref name="chubu2-330"/><br />1920年代廃止<ref name="chubu2-330"/>
|-
!浜松
|汽力
|1,000
|浜松市野口町
|
|1913年9月
|前所有者:日英水電<ref name="chubu2-330"/><br />1936年9月廃止<ref>[[#nenkan1937|『電気年鑑』昭和12年]]55頁。{{NDLJP|1114997/47}}</ref>
|-
!colspan="7" style="background-color:#ddd;"|愛知県所在
|-
!発電所名
!種類
!出力<ref name="chubu2-330"/><br />(kW)
!colspan="2"|所在地・河川名<ref name="y19-235"/><ref name="y19-298"/>
!運転開始<ref name="chubu2-330"/>
!備考
|-
!巴川
|水力
|1,500
|[[東加茂郡]][[盛岡村]](現・[[豊田市]])<br />(河川名:[[矢作川]]水系[[巴川 (矢作川水系)|巴川]])
|{{ウィキ座標|35|5|25.6|N|137|19|15.9|E|region:JP|name=巴川発電所|地図}}
|1916年2月
|前所有者:日英水電<ref name="chubu2-330"/><br />'''現・中電巴川発電所'''
|-
!白瀬
|水力
|1,119
|東加茂郡[[松平町|松平村]](現・豊田市)<br />(河川名:矢作川水系巴川)
|{{ウィキ座標|35|4|30.0|N|137|14|17.0|E|region:JP|name=白瀬発電所|地図}}
|1920年1月
|前所有者:日英水電<ref name="chubu2-330"/><br />'''現・中電白瀬発電所'''
|}

== 供給の推移 ==
以下、沿革のうち供給の推移について詳述する。

=== 東京・神奈川での供給 ===
東京電力では、[[東京府]]と[[神奈川県|神奈川]]・[[群馬県|群馬]]・[[山梨県|山梨]]・[[静岡県|静岡]]・[[愛知県|愛知]]の5県に供給区域を有した。その中で事業規模が大きかったのは東京・神奈川方面における供給である。同方面の供給区域には、[[電灯]]用電力の供給が認められる電灯電力供給区域と、それが認められない電力供給区域の2種があった。

==== 電灯電力供給区域 ====
まず電灯電力供給区域については、旧群馬電力が[[1923年]](大正12年)5月に京浜電気鉄道(現・[[京浜急行電鉄]])より譲り受けた地域にあたる。京浜電気鉄道より譲り受けた供給区域は以下の通り<ref name="keikyu-487"/>。
{{col|
{{col|
* [[東京府]]
* 東京府
** [[荏原郡]](現・[[品川区]]域)
** [[荏原郡]](現・[[品川区]]域)
*** [[大井町 (東京府)|大井町]]
*** [[大井町 (東京府)|大井町]]
*** [[荏原区|平塚村]]
*** [[荏原区|平塚村]]
** 荏原郡(現・[[大田区]]域)
** 荏原郡(現・[[大田区]]域)
*** [[羽田町]]
*** [[蒲田町]]
*** [[六郷町 (東京府)|六郷村]]
*** [[矢口町|矢口村]]
*** [[大森町 (東京府)|大森町]]
*** [[入新井町]]
*** [[馬込町]]
*** [[馬込町]]
*** [[池上町 (東京府)|池上町]]
*** [[池上町 (東京府)|池上町]]
*** [[東調布町|調布村]]
*** [[東調布町|調布村]]
*** [[入新井町]]
*** [[大森町 (東京府)|大森町]]
*** [[羽田町]]
*** [[蒲田町]]
*** [[矢口町|矢口村]]
*** [[六郷町 (東京府)|六郷村]]
|
|
* [[神奈川県]]
* 神奈川県
** [[橘樹郡]](現・[[川崎市]]域)
** [[橘樹郡]](現・[[川崎市]]域)
*** [[川崎町 (神奈川県)|川崎町]](1924年より川崎市)
*** [[川崎町 (神奈川県)|川崎町]](1924年より川崎市)
*** [[大師町]](同上)
*** [[御幸村 (神奈川県)|御幸村]](同上)
*** [[御幸村 (神奈川県)|御幸村]](同上)
*** [[大師町]](同上)
*** [[田島町 (神奈川県)|田島町]](1927年川崎市に編入)
*** [[田島町 (神奈川県)|田島町]](1927年川崎市に編入)
*** [[中原村 (神奈川県)|中原村]](1925年より[[中原町 (神奈川県)|中原町]])
*** [[住吉村 (神奈川県)|住吉村]](1925年より[[中原町 (神奈川県)|中原町]])
*** [[住吉村 (神奈川県)|住吉村]](同上)
*** [[中原村 (神奈川県)|中原村]](同上)
*** [[橘村 (神奈川県)|橘村]]
*** [[橘村 (神奈川県)|橘村]]
** 橘樹郡(現・[[横浜市]]域)
** 橘樹郡(現・[[横浜市]]域)
386行目: 672行目:
}}
}}


上記範囲のうち荏原郡の全域と橘樹郡鶴見町・潮田町は[[東京電灯]]の電灯電力供給区域と重複している<ref name="y13-10"/><ref name="y19-109">[[#yoran19|『電気事業要覧』第19回]]109-110頁。{{NDLJP|1076946/81}}</ref>。荏原郡馬込町・池上町に限っては[[東京市営電気供給事業]]の電灯電力供給区域とも重なる<ref name="y19-115">[[#yoran19|『電気事業要覧』第19回]]115-117頁。{{NDLJP|1076946/84}}</ref>。なお橘樹郡のうち川崎・御幸・大師・田島・鶴見・潮田の6町村は京浜電気鉄道の事業を譲り受ける前から旧群馬電力の電力供給区域に含まれた<ref name="y13-40"/>。
早川電力が1921年7月に[[日英水電|日英水力電気]](未開業)より譲り受けた供給区域は以下の通り<ref name="zensho-288"/><ref>[[#yoran13|『電気事業要覧』第13回]]18-19頁。{{NDLJP|975006/39}}</ref>。いずれも電力供給区域である。
* 東京府
** [[東京市]]
** [[豊多摩郡]]
*** [[内藤新宿町]](1920年東京市に編入、現・[[新宿区]])
*** [[淀橋町]](現・新宿区)
*** [[中野町 (東京府)|中野町]](現・[[中野区]])
** 荏原郡
*** [[品川町]](現・[[品川区]])
*** [[目黒町 (東京府)|目黒村]](現・[[目黒区]])


京浜電気鉄道の兼営電気供給事業は、[[京急本線|大森・川崎間の電車]]を開通させたばかりの同社が[[1901年]](明治34年)8月より大井町・入新井町・大森町を供給区域として開業したものである<ref>[[#kanto|『関東の電気事業と東京電力』]]70-71頁</ref>。路線網の整備が一段落すると供給事業の拡大に乗り出して[[1909年]](明治42年)10月より蒲田町・川崎町などでも開業し、順次供給を拡大していった<ref>[[#kanto|『関東の電気事業と東京電力』]]162-163頁</ref>。旧群馬電力への移管後、1923年9月1日に[[関東大震災]]で被災。営業所や変電所の故障を生じたが、[[停電]]は短期間で電灯は6日、[[電動機|動力]]供給は8日には再開した<ref name="reportG9"/>。
東京電力が1926年5月に許可を受けた電力供給区域は以下の通り<ref name="kanto-342"/>。

* 東京府
==== 電力供給区域 ====
** [[北豊島郡]]
一方電力供給区域については、旧早川電力から継承した地域、旧群馬電力から継承した地域、東京電力発足後に許可を得た地域の3つがあった。
*** [[南千住町]](現・[[荒川区]])

** [[南足立郡]](現・[[足立区]])
第一の地域は旧早川電力が1921年7月に[[日英水電|日英水力電気]](未開業)より譲り受けた東京府内の区域である。これには1構内につき50[[馬力]]以上の電力供給に限るという条件がつく<ref name="chugai19260406"/>。該当区域は以下の通り<ref name="zensho-288"/><ref>[[#yoran13|『電気事業要覧』第13回]]18-19頁。{{NDLJP|975006/39}}</ref>。
** [[南葛飾郡]](現・[[葛飾区]]・[[江戸川区]]ほか)
* [[東京市]]
* [[豊多摩郡]]
** [[内藤新宿町]](1920年東京市に編入、現・[[新宿区]])
** [[淀橋町]](現・新宿区)
** [[中野町 (東京府)|中野町]](現・[[中野区]])
* 荏原郡
** [[品川町]](現・[[品川区]])
** [[目黒町 (東京府)|目黒村]](現・[[目黒区]])

第二の旧群馬電力から引き継いだ地域は、神奈川県[[横浜市]]内の一部が該当する<ref name="chugai19260406"/>。ここでは1構内につき100馬力以上の電力供給に限るという条件がつく<ref name="chugai19260406"/>。前身の京浜電気鉄道でも横浜市内において[[浅野造船所]]船渠部に供給していた(1921年6月時点・当時は供給区域外<!--群馬電力の事業報告書に1924年2月1日電気供給区域拡張許可の旨記述あり、地域名明記がないが横浜市か?-->)<ref>[[#yoran13|『電気事業要覧』第13回]]20-21頁。{{NDLJP|975006/40}}</ref>。

上記2地域を電力供給区域として発足した東京電力では、東京府・神奈川県の全域ならびに[[埼玉県]]の大部分を電力供給区域に追加する許可を申請した結果<ref name="chugai19260406"/>、1926年5月24日、東京府内の下記地域に限り1構内50馬力以上の電力供給区域とする許可を得た<ref name="jigyo192608"/>。これが第三の地域である。
* [[南葛飾郡]]全域(現・[[葛飾区]]・[[江戸川区]]ほか)
* [[南足立郡]]全域(現・[[足立区]])
* [[北豊島郡]][[南千住町]](現・[[荒川区]])

以上の電力供給区域についても全域が東京電灯の電灯電力供給区域と重複する<ref name="y13-10"/><ref name="y19-109"/>。加えて東京府内では東京市営電気や[[玉川電気鉄道]]・[[王子電気軌道]]の供給区域と重なる部分がある<ref name="y19-115"/>。

東京府下の地域では東京電力発足後に順次配電線工事が進められた。南部においては、1926年5月に目黒変電所(荏原郡[[大崎町 (東京府)|大崎町]]<ref name="y19-476"/>)が完成し、順次品川町内や東京市内[[芝区]](現・[[港区 (東京都)|港区]])の[[芝浦]]埋立地へ伸びる配電線が施工される<ref name="report3"/>。東部においては市内[[本所区]](現・[[墨田区]])・[[深川区]](現・[[江東区]])ならびに南葛飾郡[[大島町 (東京府)|大島町]](同左)に配電すべく、南葛送電線小松川変電所に連絡する本所(南葛飾郡[[亀戸町]]<ref name="y19-476"/>)・深川・大島の3変電所が建設され<ref name="report3"/>、1927年1月1日より変電所工事中の[[京橋区]](現・[[中央区 (東京都)|中央区]])[[月島]]とあわせた4地域で配電が始まった<ref name="report5"/>。

さらに1927年3月には南葛飾郡[[寺島町]](現・墨田区)にも変電所が追加され、同地での配電も開始まる<ref name="report5"/>。同年4月には寺島変電所から南葛飾郡[[亀青村]](現・葛飾区)の[[亀有]]方面への配電も開始されている<ref name="report5"/>。

==== 電気事業者への供給 ====
東京電力では他の電気事業者(電気供給事業者および[[電気鉄道]]事業者)に対しても積極的に電力供給を行った。

先に東京方面への進出を果たした旧群馬電力では、当初京浜電気鉄道に対し供給用・電鉄用として6,000kWを供給する契約を結んでいた<ref name="jitsugyo192108"/>。鉄道専業となった後の1927年5月時点でも同社に対しては電源のすべて(計2,500kW)を供給する<ref name="y19-236">[[#yoran19|『電気事業要覧』第19回]]236-238頁。{{NDLJP|1076946/145}}</ref>。旧群馬電力ではさらに[[東京都電車|市内電車]]と供給事業を経営する[[東京都交通局|東京市]]に対しても1924年2月から2,000kWの送電を開始した<ref name="reportG10"/>。市への供給は徐々に拡大し東京電力時代には最大9,000kWに達するが、市営事業の主電源である[[鬼怒川水力電気]]からの供給 (37,000kW) に比べると小さい<ref>[[#kanto|『関東の電気事業と東京電力』]]407-410頁</ref>。

1924年7月に東京方面への送電線を完成させた旧早川電力では、まず同年9月19日より[[東亜建設工業|東京湾埋立]]に対し3,000kWの送電を開始し、次いで川崎変電所の完成に伴い10月16日より旧群馬電力に対し3,000kWの送電を始めた<ref name="reportH13"/>。このうち東京湾埋立は橘樹郡田島町・潮田町両地先にて埋立事業を展開しており、自社埋立地に進出した[[デイ・シイ|浅野セメント川崎工場]]・浅野造船所・[[日本鋼管]]などの工場に対し[[酒匂川]]水系の落合発電所(出力7,000kW)を電源として供給していた<ref>[[#kanto|『関東の電気事業と東京電力』]]270-272頁</ref>。1927年5月時点でも東京湾埋立の電気事業を引き継いだ東京湾電気に対し引き続き3,000kWを供給している<ref name="y19-236"/>。

上で取り上げた事業者以外にも、1927年5月時点では[[富士電力]](4,000kW供給)、小田原急行鉄道(現・[[小田急電鉄]]、2,300kW供給)、[[目黒蒲田電鉄]](現・[[東急電鉄]]、1,100kW供給)といった大口需要家があった<ref name="y19-236"/>。


=== その他地域での供給 ===
東京電力の供給区域となった上記地域<ref name="yoran19-115"/>のうち、東京府の各市町村と神奈川県の一部(鶴見町・潮田町)は[[東京電灯]]の電灯・電力供給区域と重複していた<ref>[[#yoran19|『電気事業要覧』第19回]]109-110頁。{{NDLJP|1076946/81}}</ref>。
東京府・神奈川県以外の供給区域は群馬県の一部、山梨県南部、静岡県中部・西部、愛知県の一部にあった。以下、順に供給区域一覧と前身事業者の概要について述べる。


=== 群馬・山梨・静岡 ===
==== 供給区域一覧 ====
1926年12月末時点での、群馬・山梨・静岡県における供給区域は以下の通り<ref name="yoran19-115">[[#yoran19|『電気事業要覧』第19回]]115-117頁。{{NDLJP|1076946/84}}</ref>。いずれも電灯電力供給区域である
1926年12月末時点における群馬・山梨・静岡・愛知の4県における供給区域は以下の通りである<ref name="y19-115"/><ref>[[#kannai8|『管内電気事業要覧』第8回]]26-27頁。{{NDLJP|1145213/33}}</ref>。いずれも電灯電力供給区域で、電力供給区域はない


{| class="wikitable" style="font-size:small;"
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
|-
!style="white-space:nowrap;"|[[群馬県]]
!style="white-space:nowrap;"|[[群馬県]]
!style="white-space:nowrap;"|[[吾妻郡]]
!style="white-space:nowrap;"|[[吾妻郡]]<br />(1町2村)
|[[中之条町]]、[[名久田村]]・[[沢田村 (群馬県)|沢田村]](現・中之条町)
|[[中之条町]]、[[名久田村]]・[[沢田村 (群馬県)|沢田村]](現・中之条町)
|-
|-
!rowspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[山梨県]]
!rowspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[山梨県]]
!style="white-space:nowrap;"|[[南巨摩郡]]
!style="white-space:nowrap;"|[[南巨摩郡]]<br />(20村)
|[[万沢村]]・[[富河村]]・[[睦合村 (山梨県)|睦合村]](現・[[南部町 (山梨県)|南部町]])、<br />[[豊岡村 (山梨県)|豊岡村]]・[[身延町|身延村]]・[[下山村 (山梨県)|下山村]]・[[飯富村 (山梨県)|飯富村]]・[[伊沼村]]・[[八日市場村]]・[[曙村 (山梨県)|曙村]]・[[大須成村]]・[[静川村]]・[[西島村 (山梨県)|西島村]](現・[[身延町]])、<br />[[本建村]]・[[硯島村]]・[[都川村]]・[[五箇村 (山梨県)|五箇村]]・[[三里村 (山梨県)|三里村]]・[[西山村 (山梨県)|西山村]](現・[[早川町]])、<br />[[五開村]](現・[[富士川町]])
|[[万沢村]]・[[富河村]]・[[睦合村 (山梨県)|睦合村]](現・[[南部町 (山梨県)|南部町]])、<br />[[豊岡村 (山梨県)|豊岡村]]・[[身延町|身延村]]・[[下山村 (山梨県)|下山村]]・[[飯富村 (山梨県)|飯富村]]・[[伊沼村]]・[[八日市場村]]・[[曙村 (山梨県)|曙村]]・[[大須成村]]・[[静川村]]・[[西島村 (山梨県)|西島村]](現・[[身延町]])、<br />[[本建村]]・[[硯島村]]・[[都川村]]・[[五箇村 (山梨県)|五箇村]]・[[三里村 (山梨県)|三里村]]・[[西山村 (山梨県)|西山村]](現・[[早川町]])、<br />[[五開村]](現・[[富士川町]])
|-
|-
!style="white-space:nowrap;"|[[西八代郡]]
!style="white-space:nowrap;"|[[西八代郡]]<br />(13村)
|[[栄村 (山梨県)|栄村]](現・南部町)、<br />[[大河内村 (山梨県)|大河内村]]・[[下部町|富里村]]・[[共和村 (山梨県)|共和村]]・[[久那土村]]・[[古関村 (山梨県)|古関村]](現・身延町)、<br />[[鴨狩津向村]]・[[宮原村 (山梨県)|宮原村]]・[[葛籠沢村]]・[[落居村]]・[[岩間村]]・[[楠甫村 (山梨県)|楠甫村]](現・[[市川三郷町]])、[[山保村]](現・市川三郷町・身延町)
|[[栄村 (山梨県)|栄村]](現・南部町)、<br />[[大河内村 (山梨県)|大河内村]]・[[下部町|富里村]]・[[共和村 (山梨県)|共和村]]・[[久那土村]]・[[古関村 (山梨県)|古関村]](現・身延町)、<br />[[鴨狩津向村]]・[[宮原村 (山梨県)|宮原村]]・[[葛籠沢村]]・[[落居村]]・[[岩間村]]・[[楠甫村 (山梨県)|楠甫村]](現・[[市川三郷町]])、[[山保村]](現・市川三郷町・身延町)
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|-
!rowspan="11" style="white-space:nowrap;"|[[静岡県]]
!rowspan="11" style="white-space:nowrap;"|[[静岡県]]
!style="white-space:nowrap;"|市部
!style="white-space:nowrap;"|市部<br />(1市)
|[[浜松市]]
|[[浜松市]]
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!style="white-space:nowrap;"|[[浜名郡]]
!style="white-space:nowrap;"|[[浜名郡]]<br />(4町30村)
|[[曳馬町|曳馬村]]・[[富塚村]]・[[白脇村]]・[[蒲村]]・[[河輪村]]・[[五島村]]・[[新津村]]・[[笠井町]]・[[中ノ町村]]・[[和田村 (静岡県浜名郡)|和田村]]・[[豊西村 (静岡県)|豊西村]]・[[市野村]]・[[天王村 (静岡県)|天王村]]・[[飯田村 (静岡県浜名郡)|飯田村]]・[[芳川村 (静岡県)|芳川村]]・[[吉野村 (静岡県)|吉野村]]・[[神久呂村]]・[[入野村 (静岡県)|入野村]]・[[積志村]]・[[和地村 (静岡県)|和地村]]・[[伊佐見村]]・[[篠原村 (静岡県)|篠原村]]・[[北庄内村]]・[[南庄内村 (静岡県)|南庄内村]]・[[村櫛町|村櫛村]]・[[可美村]]・[[雄踏町]]・[[舞阪町]]・[[赤佐村]]・[[中瀬村 (静岡県)|中瀬村]]・[[北浜村 (静岡県)|北浜村]]・[[竜池村 (静岡県)|竜池村]]・[[浜名町|小野口村]](現・浜松市)、<br />[[新居町 (静岡県)|新居町]](現・[[湖西市]])
|[[曳馬町|曳馬村]]・[[富塚村]]・[[白脇村]]・[[蒲村]]・[[河輪村]]・[[五島村]]・[[新津村]]・[[笠井町]]・[[中ノ町村]]・[[和田村 (静岡県浜名郡)|和田村]]・[[豊西村 (静岡県)|豊西村]]・[[市野村]]・[[天王村 (静岡県)|天王村]]・[[飯田村 (静岡県浜名郡)|飯田村]]・[[芳川村 (静岡県)|芳川村]]・[[吉野村 (静岡県)|吉野村]]{{Refnest|group=注釈|1921年11月供給区域に追加<ref name="reportH7">「早川電力株式会社第7回報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。}}・[[神久呂村]]・[[入野村 (静岡県)|入野村]]・[[積志村]]・[[和地村 (静岡県)|和地村]]・[[伊佐見村]]・[[篠原村 (静岡県)|篠原村]]・[[北庄内村]]・[[南庄内村 (静岡県)|南庄内村]]・[[村櫛町|村櫛村]]・[[可美村]]・[[雄踏町]]・[[舞阪町]]・[[赤佐村]]・[[中瀬村 (静岡県)|中瀬村]]・[[北浜村 (静岡県)|北浜村]]・[[竜池村 (静岡県)|竜池村]]・[[浜名町|小野口村]](現・浜松市)、<br />[[新居町 (静岡県)|新居町]](現・[[湖西市]])
|-
|-
!style="white-space:nowrap;"|[[引佐郡]]
!style="white-space:nowrap;"|[[引佐郡]]<br />(3町6村)
|[[麁玉村]]・[[気賀町]]・[[中川村 (静岡県引佐郡)|中川村]]・[[金指町]]・[[井伊谷村]]・[[奥山村]]・[[伊平村]]・[[東浜名村]]・[[三ケ日町]](現・浜松市)
|[[麁玉村]]・[[気賀町]]・[[中川村 (静岡県引佐郡)|中川村]]・[[金指町]]・[[井伊谷村]]・[[奥山村]]・[[伊平村]]・[[東浜名村]]・[[三ケ日町]](現・浜松市)
|-
|-
!style="white-space:nowrap;"|[[磐田郡]]
!style="white-space:nowrap;"|[[磐田郡]]<br />(6町31村)
|[[見付町]]・[[中泉町]]・[[梅原村 (静岡県)|梅原村]]・[[西貝村]]・[[天竜村]]・[[御厨村 (静岡県)|御厨村]]・[[南御厨村]]・[[向笠村]]・[[大藤村 (静岡県)|大藤村]]・[[長野村 (静岡県)|長野村]]・[[岩田村 (静岡県)|岩田村]]・[[幸浦村]]・[[上浅羽村]]・[[東浅羽村]]・[[西浅羽村]]・[[福田町 (静岡県)|福田町]]・[[豊浜村 (静岡県)|豊浜村]]・[[於保村]]・[[掛塚町]]・[[十束村]]・[[袖浦村 (静岡県)|袖浦村]]・[[富岡村 (静岡県磐田郡)|富岡村]]・[[井通村]]・[[池田 (磐田市)|池田村]]・[[敷地村]]・[[広瀬村 (静岡県)|広瀬村]]・[[野部村]](現・[[磐田市]])、<br />[[袋井市|袋井町]]・[[笠西村]]・[[久努村]]・[[今井村 (静岡県)|今井村]]・[[三川村 (静岡県)|三川村]](現・[[袋井市]])、[[田原村 (静岡県)|田原村]](現・袋井市・磐田市)、<br />[[二俣町]]・[[上阿多古村]]・[[下阿多古村]]・[[光明村]](現・浜松市)
|[[見付町]]・[[中泉町]]・[[梅原村 (静岡県)|梅原村]]・[[西貝村]]・[[天竜村]]・[[御厨村 (静岡県)|御厨村]]・[[南御厨村]]・[[向笠村]]・[[大藤村 (静岡県)|大藤村]]・[[長野村 (静岡県)|長野村]]・[[岩田村 (静岡県)|岩田村]]・[[幸浦村]]・[[上浅羽村]]・[[東浅羽村]]・[[西浅羽村]]・[[福田町 (静岡県)|福田町]]・[[豊浜村 (静岡県)|豊浜村]]・[[於保村]]・[[掛塚町]]・[[十束村]]・[[袖浦村 (静岡県)|袖浦村]]・[[富岡村 (静岡県磐田郡)|富岡村]]・[[井通村]]・[[池田 (磐田市)|池田村]]・[[敷地村]]・[[広瀬村 (静岡県)|広瀬村]]・[[野部村]](現・[[磐田市]])、<br />[[袋井市|袋井町]]・[[笠西村]]・[[久努村]]・[[今井村 (静岡県)|今井村]]・[[三川村 (静岡県)|三川村]](現・[[袋井市]])、[[田原村 (静岡県)|田原村]](現・袋井市・磐田市)、<br />[[二俣町]]・[[上阿多古村]]・[[下阿多古村]]・[[光明村]](現・浜松市)
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|-
!style="white-space:nowrap;"|[[周智郡]]
!style="white-space:nowrap;"|[[周智郡]]<br />(1村)
|[[一宮 (周智郡森町)|一宮村]](現・[[森町 (静岡県)|森町]])
|[[一宮 (周智郡森町)|一宮村]](現・[[森町 (静岡県)|森町]])
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|-
!style="white-space:nowrap;"|[[小笠郡]]
!style="white-space:nowrap;"|[[小笠郡]]<br />(3町42村)
|郡内全町村(現・[[掛川市]]・[[菊川市]]・[[御前崎市]]ほか)
|郡内全町村(現・[[掛川市]]・[[菊川市]]・[[御前崎市]]ほか)
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|-
!style="white-space:nowrap;"|[[榛原郡]]
!style="white-space:nowrap;"|[[榛原郡]]<br />(3町13村)
|郡内全町村(現・御前崎市・[[牧之原市]]・[[島田市]]・[[吉田町]]・[[川根本町]]ほか)
|郡内全町村(現・御前崎市・[[牧之原市]]・[[島田市]]・[[吉田町]]・[[川根本町]]ほか)
|-
|-
!style="white-space:nowrap;"|[[志太郡]]
!style="white-space:nowrap;"|[[志太郡]]<br />(5町20村)
|[[島田市|島田町]]・[[大長村 (静岡県)|大長村]]・[[大津村 (静岡県)|大津村]]・[[六合村 (静岡県志太郡)|六合村]](現・島田市)、<br />[[藤枝町]]・[[高洲村]]・[[大洲村 (静岡県)|大洲村]]・[[青島町]]・[[稲葉村 (静岡県)|稲葉村]]・[[瀬戸谷村]]・[[葉梨村]]・[[岡部町 (静岡県)|岡部町]](現・[[藤枝市]])、[[広幡村 (静岡県)|広幡村]]・[[西益津村]](現・藤枝市・[[焼津市]])、<br />[[焼津市|焼津町]]・[[東益津村]]・[[豊田村 (静岡県志太郡)|豊田村]]・[[小川町 (静岡県)|小川]]・[[大富村 (静岡県)|大富村]]・[[和田村 (静岡県志太郡)|和田村]]・[[静浜村]]・[[相川村 (静岡県)|相川村]]・[[吉永村 (静岡県志太郡)|吉永村]](現・焼津市)、<br />[[徳山村 (静岡県)|徳山村]]・[[東川根村]](現・川根本町)
|[[島田市|島田町]]・[[大長村 (静岡県)|大長村]]・[[大津村 (静岡県)|大津村]]・[[六合村 (静岡県志太郡)|六合村]](現・島田市)、<br />[[藤枝町]]・[[高洲村]]・[[大洲村 (静岡県)|大洲村]]・[[青島町]]・[[稲葉村 (静岡県)|稲葉村]]・[[瀬戸谷村]]・[[葉梨村]]・[[岡部町 (静岡県)|岡部町]](現・[[藤枝市]])、[[広幡村 (静岡県)|広幡村]]・[[西益津村]](現・藤枝市・[[焼津市]])、<br />[[焼津市|焼津町]]・[[東益津村]]・[[豊田村 (静岡県志太郡)|豊田村]]・[[小川町 (静岡県)|小川]]・[[大富村 (静岡県)|大富村]]・[[和田村 (静岡県志太郡)|和田村]]・[[静浜村]]・[[相川村 (静岡県)|相川村]]・[[吉永村 (静岡県志太郡)|吉永村]](現・焼津市)、<br />[[徳山村 (静岡県)|徳山村]]・[[東川根村]](現・川根本町)
|-
|-
!style="white-space:nowrap;"|[[安倍郡]]
!style="white-space:nowrap;"|[[安倍郡]]<br />(4村)
|[[服織村]]・[[南藁科村]]・[[長田村 (静岡県)|長田村]]・[[豊田村 (静岡県安倍郡)|豊田村]](現・[[静岡市]])
|[[服織村]]・[[南藁科村]]・[[長田村 (静岡県)|長田村]]・[[豊田村 (静岡県安倍郡)|豊田村]](現・[[静岡市]])
|-
|-
!style="white-space:nowrap;"|[[庵原郡]]
!style="white-space:nowrap;"|[[庵原郡]]<br />(1町3村)
|[[内房村]](現・[[富士宮市]])、<br />[[小島村 (静岡県)|小島村]](現・静岡市)、<br />[[松野村]]・[[富士川町 (静岡県)|富士川町]](現・[[富士市]])
|[[内房村]](現・[[富士宮市]])、<br />[[小島村 (静岡県)|小島村]](現・静岡市)、<br />[[松野村]]・[[富士川町 (静岡県)|富士川町]](現・[[富士市]])
|-
|-
!style="white-space:nowrap;"|[[富士郡]]
!style="white-space:nowrap;"|[[富士郡]]<br />(1村)
|[[芝富村]](現・富士宮市)
|[[芝富村]](現・富士宮市)
|-
!style="white-space:nowrap;"|[[愛知県]]
!style="white-space:nowrap;"|[[東加茂郡]]<br />(1村)
|[[松平町|松平村]]{{Refnest|group=注釈|1921年10月大字白瀬を供給区域に追加<ref name="reportH7"/>。加えて1925年1月、[[産業組合]](松平電気利用組合)を通じて白瀬発電所より村内の未配電集落に供給開始<ref>[[#matsudaira|『松平町誌』]]649-650頁</ref>。}}(現・[[豊田市]])
|}
|}


==== 前身事業者の概要 ====
== 年表 ==
東京電力の供給区域は会社合併によって継承した地域がほとんどである。ここでは、旧早川電力・群馬電力時代も含めて東京電力が吸収した群馬・静岡方面の電力会社について改めて記述する。
* [[1918年]](大正7年)

** [[6月28日]] - '''早川電力株式会社'''設立<ref name="toasa_19180629"/>。
; [[吾妻軌道|吾妻軌道株式会社]]
* [[1919年]](大正8年)
: 旧群馬電力が1924年10月27日に合併。合併前の供給区域は群馬県吾妻郡中之条町・名久田村・沢田村・[[吾妻町 (群馬県)|原町]]・[[小野上村]](1921年6月時点)<ref name="y13-40"/>。
** [[7月5日]] - '''群馬電力株式会社'''設立<ref name="zaikei_192008"/>。
: 吾妻軌道は「吾妻温泉馬車軌道」の社名で[[1910年]](明治43年)10月17日に設立<ref name="aga">[[#agatsuma|『群馬県吾妻郡誌』]]925-926頁。{{NDLJP|1209825/493}}</ref>。[[馬車鉄道]]事業と電気事業を目的とする会社であり、馬車鉄道に先駆けて[[1912年]](明治45年)5月より中之条町への供給を開始した<ref name="naka">[[#nakanojo|『群馬県吾妻郡中之条町郷土誌』]]367-369頁。{{NDLJP|960661/226}}</ref>。翌[[1913年]](大正2年)7月に社名を吾妻軌道へと改めている<ref name="aga"/>。自社電源として名久田村と沢田村の2か所に水力発電所(出力計92kW)を持った<ref name="kanto-s89"/>。
* [[1920年]](大正9年)
; [[日英水電|日英水電株式会社]]
** 3月 - 早川電力、[[日英水電]]を合併<ref name="toho-187"/>。
: 旧早川電力が1920年3月15日に合併。合併前の供給区域は静岡県のうち浜松市・浜名郡・引佐郡と磐田郡・小笠郡・榛原郡・志太郡の各一部(1919年末時点)<ref>[[#yoran12|『電気事業要覧』第12回]]46-47頁。{{NDLJP|975005/48}}</ref>。
** 7月 - 群馬電力、吾妻電気(同年6月1日設立<ref name="yomiuri_19200603"/>)を合併<ref name="kabu1925-139"/>。
: 日英水電は[[1911年]](明治44年)2月20日東京に設立<ref>「商業登記」『官報』第8333号附録、1911年4月6日付。{{NDLJP|2951689/18}}</ref>。浜松の[[浜松電灯]]を吸収して開業したのち、志太郡島田町の島田電灯や引佐郡気賀町の気賀電気を統合しつつ供給区域を拡大した<ref name="hama-81"/>。電源面では1912年6月に[[大井川]]本流に出力1,400kWの小山発電所を建設、そこから島田・[[金谷町|金谷]](榛原郡)・[[川崎町 (静岡県)|川崎]](同)・浜松の4変電所へと送電する体制を築いた<ref name="hama-81"/>。その後は西に離れた愛知県の[[矢作川]]に水力地点を求めて2か所の水力発電所(出力計2,619kW)を完成させたが、[[大戦景気 (日本)|大戦景気]]下では恒常的な供給力不足に悩まされた<ref>[[#hamamatsu|「浜松地方電気事業沿革史」]]86-88頁</ref>。
* [[1921年]](大正10年)
; [[天竜電力|天竜電力株式会社]]
** 2月 - 早川電力、早川第二発電所運転開始<ref name="jitsugyo_192107"/>。
: 旧早川電力が1922年4月12日に合併。供給区域は静岡県磐田郡のうち二俣町ほか26町村<!--山名町は袋井町の旧称のため除外-->と周智郡一宮村(1921年6月時点)<ref name="y13-58">[[#yoran13|『電気事業要覧』第13回]]58-61頁。{{NDLJP|975006/59}}</ref>。
** 7月 - 早川電力、日英水力電気発起人より大井川の水利権および東京市近辺の電力供給権を譲り受ける<ref name="koron_192309"/>。
: 天竜電力は[[1907年]](明治40年)1月15日二俣町に設立<ref>「商業登記」『官報』第7118号、1907年3月26日付。{{NDLJP|2950463/13}}</ref>。翌[[1908年]](明治41年)9月に二俣町を供給区域として開業した<ref name="shizuoka">[[#shizuoka|『静岡県電気事業概要』]]2-4頁。{{NDLJP|976231/18}}</ref>。1911年には磐田郡中泉町に営業所を開設し、供給区域を拡大している<ref name="tenryu">[[#tenryu|『天竜市史』下巻]]698-701頁</ref>。二俣付近に3か所の水力発電所を建設したが、小規模で出力は計320kWに過ぎない<ref name="tenryu"/>。
* [[1922年]](大正11年)
; 福田電力株式会社
** 2月 - 早川電力、天竜電力・福田電力・東遠電気を合併<ref name="toho-187"/>。
: 旧早川電力が1922年4月12日に合併。供給区域は静岡県磐田郡福島村(後の福田町)・豊浜村のみ(1921年6月時点)<ref name="y13-58"/>。
** 11月 - 群馬電力、金井発電所運転開始<ref name="kanto-336"/>。
: 福田電力は1912年7月13日福島村福田に資本金3万5000円で設立<ref>「商業登記」『官報』第129号、1913年1月7日付。{{NDLJP|2952227/10}}</ref>。[[1916年]](大正5年)5月に開業した<ref name="shizuoka"/>。自社発電所は持たず、天竜電力からの受電を電源とした<ref name="y13-58"/>。
* [[1923年]](大正12年)
; 東遠電気株式会社
** [[5月1日]] - 群馬電力、[[京浜電気鉄道]]より電気供給事業を譲り受ける<ref name="keikyu-108"/>。
: 旧早川電力が1922年4月12日に合併。供給区域は静岡県榛原郡のうち[[相良町|相良]]・川崎・[[勝間田村|勝間田]]・[[坂部村|坂部]]・[[初倉村|初倉]]・[[吉田町|吉田]]の6町村<ref name="y13-58"/>。
** 7月 - 早川電力、早川第一発電所運転開始<ref name="koron_192309"/>。
: 東遠電気は1910年12月10日川崎町静波に資本金8万円で設立<ref>「商業登記」『官報』第8257号附録、1910年12月28日付。{{NDLJP|2951610/31}}</ref>。1912年6月に川崎町ほか2村を供給区域として開業した<ref name="shizuoka"/>。同社も自社発電所は持たず、早川電力からの受電を電源とした<ref name="y13-58"/>。
** [[12月25日]] - 群馬電力、[[東邦電力]]の傘下に入る。副社長に[[松永安左エ門]]就任<ref name="toho-192"/>。
; [[静岡電力|静岡電力株式会社]]
* [[1924年]](大正13年)
: 東京電力が1926年10月20日に合併。供給区域は静岡県磐田・小笠・榛原・志太・安倍・庵原・富士の7郡と山梨県南巨摩郡・西八代郡にまたがる(1925年末時点)<ref name="y18-48">[[#yoran18|『電気事業要覧』第18回]]48-51頁。{{NDLJP|1076898/52}}</ref>。
** 3月15日 - 早川電力、早川興業(12日設立)を合併。東邦電力の傘下に入り、31日社長に松永就任<ref name="toho-189"/>。
: 静岡電力は[[1920年]](大正9年)10月23日に設立<ref>「商業登記 株式会社設立」『官報』第2618号附録、1921年4月26日付。{{NDLJP|2954733/50}}</ref>。製紙会社[[四日市製紙]]が兼営した電気供給事業を、同社を合併した富士製紙が分離することで成立した<ref name="shinfuji-91"/>。その後1922年にかけて遠江電気・[[堀之内軌道|御前崎軌道]]・身延電灯の3社を合併・吸収し事業を拡大している<ref name="hama-92"/>。電源は[[富士川]]水系[[芝川 (静岡県)|芝川]]の水力発電所(4か所・総出力6,564kW)を中心とした<ref name="kanto-338"/>。
** 9月 - 群馬電力、[[吾妻軌道]]を合併<ref name="toho-192"/>。
: また四日市製紙時代の1911年から大口需要家に[[静岡市電気部|静岡市営電気事業]]が存在した<ref name="chubu2-243">[[#chubu|『中部地方電気事業史』]]243-235頁</ref>。市に対する供給契約は静岡電力時代に3,000kWとなっており<ref name="chubu2-243"/>、東京電力でも引き続き3,000kWを供給している(1927年5月時点)<ref>[[#yoran19|『電気事業要覧』第19回]]243頁。{{NDLJP|1076946/148}}</ref>。
* [[1925年]](大正14年)

** [[3月16日]] - 早川電力と群馬電力が合併し、'''東京電力株式会社'''設立。社長[[田島達策]]、副社長松永安左エ門<ref name="kanto-338"/>。
==== 備考 ====
** 4月 - 渋川発電所運転開始<ref name="kantoshiryo-90"/>。
東京電力を吸収した東京電灯は、合併から14年経った[[1942年]](昭和17年)4月、[[配電統制令]]に基づく国策配電会社[[関東配電]]へと吸収された<ref>[[#kanto|『関東の電気事業と東京電力』]]537-539頁</ref>。次いで同年10月に配電会社間の供給区域交換が行われた際、配電統制の過程で錯綜していた関東配電区域と西隣の[[中部配電]]区域の境界は静岡県内では[[富士川]]と定められ、元東京電灯区域であった静岡県内富士川以西の地域および愛知県東加茂郡松平村は中部配電へ移管された<ref>[[#kanto|『関東の電気事業と東京電力』]]576-577頁</ref><ref>[[#chubu|『中部地方電気事業史』上巻]]377-378頁</ref>。
** 12月 - 田島火力発電所運転開始<ref name="tajima-138"/>。

* [[1926年]](大正15年・昭和元年)
その後[[太平洋戦争]]後の[[1951年]](昭和26年)に[[電気事業再編成令|電気事業再編成]]が実施されると、関東配電区域を引き継ぎ[[東京電力ホールディングス|(新)東京電力]]が、中部配電区域を引き継ぎ[[中部電力]]がそれぞれ発足した<ref>[[#kanto|『関東の電気事業と東京電力』]]711頁</ref><ref>[[#chubu|『中部地方電気事業史』下巻]]4-5頁</ref>。従ってかつての東京電力の供給区域は、戦後は富士川を境に東が(新)東京電力、西が中部電力に分割されている。
** 4月 - 田代川水力電気(1922年8月設立<ref name="toho-206"/>)を合併<ref name="kanto-338"/>。

** 10月 - [[静岡電力]]を合併<ref name="kanto-338"/>。
=== 供給成績推移表 ===
* [[1927年]](昭和2年)
早川電力・群馬電力および東京電力の供給成績は下表の通り。決算期は3社とも毎年5月・11月であり上期は前年12月から5月までの6か月間、下期は6月から11月までの6か月間となる。
** [[1月1日]] - 東京送電開始<ref name="kanto-342"/>。
* 数字は各社の「報告書」「営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)に基づく。
** 1月 - [[鶴見火力発電所|東京火力発電所]]および早川第三発電所運転開始<ref name="ps-81"/><ref name="kanto-338"/>。
* 1[[馬力]]は0.746[[ワット|キロワット]] (kW) で計算されている。
** 8月 - 田代川第一発電所運転開始<ref name="kanto-338"/>。

** 11月 - 田代川第二発電所運転開始<ref name="kanto-338"/>。
{| class="wikitable" style="font-size:small; text-align:center;"
** [[12月14日]] - [[東京電燈|東京電灯株式会社]]との間で合併契約締結<ref name="kanto-344"/>。
|+ 早川電力の供給成績(1920年上期 - 1924年下期)
* [[1928年]](昭和3年)
|-
** [[4月1日]] - 東京電灯との合併成立、東京電力'''解散'''<ref name="kanto-344"/>。
!年度
!電灯点火数<br />(単位:個)
!電力供給高<br />(単位:馬力)
!備考
|-
!1920上
|111,378
| -
|
|-
!1920下
|118,825
| -
|
|-
!1921上
|128,278
| -
|
|-
!1921下
|137,038
| -
|
|-
!1922上
|178,704
| -
|
|-
!1922下
|196,783
| -
|
|-
!1923上
|210,368
|12,150
|
|-
!1923下
|218,298
|12,920
|
|-
!1924上
|223,459
|14,671
|他に東京方面で920kW供給<!--東京モスリン沼津工場・富士水電-->
|-
!1924下
|247,260
|14,164
|他に東京方面で6,570kW供給
|-
|colspan="4" style="text-align:right;"|電力供給馬力数は集計法が異なるため1922年分まで省略
|}

{| class="wikitable" style="font-size:small; text-align:center;"
|+ 群馬電力の供給成績(1923年上期 - 1924年下期)
|-
!年度
!電灯点火数<br />(単位:個)
!電力供給高<br />(単位:馬力)
!電熱供給高<br />(単位:kW)
!備考
|-
!1923上
|122,498
|6,615
|736.1
|
|-
!1923下
|134,192
|8,982
|821.6
|
|-
!1924上
|153,981
|7,734
|1,087
|他に電気事業者供給8,500kW
|-
!1925上
|189,403
|7,059
|1,209
|他に電気事業者供給9,500kW
|}

{| class="wikitable" style="font-size:small; text-align:center;"
|+ 東京電力の供給成績(1925年上期 - 1927年下期)
|-
!年度
!電灯点火数<br />(単位:個)
!電力供給容量<br />(単位:馬力)
!不定時電力<br />供給契約高<br />(単位:kW)
!電熱契約容量<br />(単位:kW)
|-
!1925上
|465,625
|39,387
|4,800
|1,740
|-
!1925下
|490,929
|42,329
|約10,100
|2,320
|-
!1926上
|523,686
|53,641
|約9,300
|3,310
|-
!1926下
|656,886
|67,655
|約7,800
|3,055
|-
!1927上
|684,247
|111,078
|約8,700
|4,504
|-
!1927下
|715,078
|131,583
|19,512
|4,040
|}

== 軌道事業について ==
{{See also|吾妻軌道}}

東京電力では、[[群馬県]]内において[[電気鉄道|電気軌道]]([[軌道法]]に基づく軌道)を兼業として経営していた。区間は[[群馬郡]][[渋川町]](現・[[渋川市]])から[[吾妻郡]][[中之条町]]までの間で<ref name="y19-115"/>、キロ程は21.30キロメートル(1927年度時点)<ref>[[#rail1927|『鉄道統計資料』昭和2年度第3編]]223頁。{{NDLJP|1022006/117}}</ref>。旧群馬電力が[[1924年]](大正13年)10月27日付で[[吾妻軌道|吾妻軌道株式会社]]を合併したことで兼営事業となったものである<ref name="reportG11"/><ref name="aga"/>。

前身は[[1912年]](明治45年)7月に開通した[[馬車鉄道]]である<ref name="aga"/>。吾妻軌道株式会社(旧称「吾妻温泉馬車軌道」)が建設したもので<ref name="aga"/>、当初は群馬郡[[長尾村 (群馬県)|長尾村]]大字吹屋字鯉沢(現・渋川市吹屋)の[[利根軌道]]分岐点を起点として中之条町大字伊勢町の[[林昌寺 (群馬県中之条町)|林昌寺]]前に至る18.04キロメートル<!--11マイル17チェーン-->の軌道であった<ref name="naka"/>。渋川・鯉沢間は利根軌道と共同使用とすることで渋川・中之条間の運行とされた<ref name="naka"/>。[[鉄道の電化|電化]]開業は8年後の[[1920年]](大正9年)11月である<ref name="aga"/>。

旧群馬電力が吾妻軌道を合併し軌道事業を直営化した目的は、金井・渋川両発電所の上流側を開発するにあたりその資材輸送に充てるためである<ref>「[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00101526&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA 東海道線電化具体案]」『[[時事新報|大阪時事新報]]』1924年5月10日付。神戸大学附属図書館「新聞記事文庫」収録</ref>。合併後の[[1925年]](大正14年)3月6日付で利根軌道(当時は東京電灯が経営)が廃線となったことから、共同使用であった渋川・鯉沢間を自社路線としている<ref name="wakuda">[[#wakuda|『日本の市内電車』]]159-160頁</ref>。次いで[[1927年]](昭和2年)には[[上越線]][[渋川駅]]前までの延伸工事が進められ<ref name="report6"/>、10月1日付で開業をみた<ref>[[#rail1927|『鉄道統計資料』昭和2年度第3編]]219頁。{{NDLJP|1022006/115}}</ref>。

軌道の[[軌間]]は馬車鉄道時代のまま[[2フィート6インチ軌間|762ミリメートル軌間]]を採用<ref name="wakuda"/>。軌道用の[[直流電化|直流]](550ボルト)を出力する[[変電所]]として群馬郡[[小野上村]](現・渋川市)に村上変電所を構えた<ref name="y19-476"/>。[[鉄道車両|車両]]は24人乗りの木造電車([[二軸車 (鉄道)|四輪単車]])4両と16人乗りの木造[[付随車]](同)6両、[[電気機関車]]3両、それに[[貨車]]を保有していた<ref name="wakuda"/>。1927年下期(6月から11月まで)の乗客数は4万9215人(1日平均269人)<ref name="report6"/>。同期の事業収入は1万9441円を挙げたが、これは総収入の0.25パーセントに過ぎず、収入利子・有価証券収益の金額よりも少ない<ref name="report6"/>。

渋川・中之条間の軌道は東京電力を合併した東京電灯も引き続き経営したものの、6年後の[[1934年]](昭和9年)9月30日付で廃線となっており、現存しない<ref name="wakuda"/>。

== 役員一覧 ==
=== 取締役 ===
東京電力では以下の14名が[[取締役]]を務めた。
* 就任日・社内役職については計6回の「営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)を典拠とする。
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
!取締役氏名!!就任日!!役職!!備考
|-
![[田島達策]]
|1925年3月16日
|代表取締役社長
|前群馬電力社長<ref name="reportG11"/><br />運送店[[ミツウロコグループホールディングス|三鱗合資会社]]元代表<ref>[[#tajima|『城山翁喜寿の賀』]]88-100頁</ref>
|-
![[松永安左エ門]]
|〃
|代表取締役副社長
|前早川電力社長・群馬電力副社長<ref name="reportH13"/><ref name="reportG11"/><br />[[東邦電力]]副社長と兼務<ref name="toho-yakuin"/>
|-
!宮口竹雄
|〃
|専務取締役
|前群馬電力専務<ref name="reportG11"/><br />[[東京大学大学院工学系研究科・工学部|東京帝大工科大学]]電気科出身の技術者<ref name="jinteki-348"/>
|-
![[結城安次]]
|〃
|常務取締役
|前早川電力取締役(1924年6月就任)<ref name="reportH13"/><br />元逓信大臣[[藤村義朗 (政治家)|藤村義朗]]秘書官<ref>[[#zaikai2500|『財界二千五百人集』]]382頁。{{NDLJP|1447438/214}}</ref>
|-
![[進藤甲兵]]
|〃
|常務取締役
|[[岐阜電力]](東邦系)常務から転任<ref>[[#zaikai2500|『財界二千五百人集』]]485頁。{{NDLJP|1447438/266}}</ref>
|-
!角田正喬
|〃
|
|前早川電力常務<ref name="reportH13"/><br />東邦電力常務と兼務<ref name="toho-yakuin"/>
|-
![[中村円一郎]]
|〃
|
|前早川電力取締役<ref name="reportH13"/><br />静岡県多額納税者・[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員<ref>[[#koshin8|『人事興信録』第8版]]ナ78頁。{{NDLJP|1078684/1144}}</ref>
|-
![[安田善五郎]]
|〃
|
|前群馬電力取締役<ref name="reportG11"/><br />[[安田財閥|安田保善社]]理事、安田家当主[[安田善次郎 (2代目)|善次郎]]弟<ref>[[#koshin8|『人事興信録』第8版]]ヤ34-35頁。{{NDLJP|1078684/1633}}</ref>
|-
![[高津仲次郎]]
|〃
|
|前群馬電力取締役<ref name="reportG11"/><br />群馬県選出[[衆議院]]議員<ref>[[#koshin8|『人事興信録』第8版]]タ115頁。{{NDLJP|1078684/958}}</ref>
|-
!高野省三
|〃
|
|安田保善社参事<ref>[[#koshin8|『人事興信録』第8版]]タ120頁。{{NDLJP|1078684/961}}</ref>
|-
![[佐竹義文 (内務官僚)|佐竹義文]]
|1926年10月20日
|常務取締役
|前[[熊本県]]知事<ref>[[#zaikai2500|『財界二千五百人集』]]602頁。{{NDLJP|1447438/325}}</ref>
|-
![[大川平三郎]]
|〃
|
|前[[静岡電力]]社長<ref name="y18-48"/><br />[[樺太工業]]・[[富士製紙]]社長<ref>[[#zensho9|『日本コンツェルン全書』9]] 197-198・202-203頁。{{NDLJP|1281124/132}}</ref>
|-
![[熊澤一衛]]
|〃
|
|前静岡電力専務<ref name="y18-48"/><br />三重県多額納税者・富士製紙取締役<ref>[[#koshin8|『人事興信録』第8版]]ク48頁。{{NDLJP|1078684/607}}</ref>
|-
![[三谷一二]]
|1927年6月29日
|
|[[三菱マテリアル|三菱鉱業]]会長<ref>[[#zaikai2500|『財界二千五百人集』]]169-170頁。{{NDLJP|1447438/108}}</ref>
|}

=== 監査役 ===
東京電力では以下の6名が[[取締役]]を務めた。
* 就任日については計6回の「営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)を典拠とする。
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
!監査役氏名!!就任日!!備考
|-
![[前田米蔵]]
|1925年3月16日
|1927年4月19日辞任<ref>「商業登記 東京電力株式会社変更」『官報』第157号附録、1927年7月8日付。{{NDLJP|2956617/25}}</ref><br />前早川電力取締役<ref name="reportH13"/>、東京選出衆議院議員<ref>[[#koshin8|『人事興信録』第8版]]マ25頁。{{NDLJP|1078684/1441}}</ref>
|-
![[田中徳次郎 (東邦電力)|田中徳次郎]]
|〃
|前早川電力常務<ref name="reportH13"/>、東邦電力専務と兼務<ref name="toho-yakuin"/>
|-
![[青木正太郎]]
|〃
|前群馬電力監査役<ref name="reportG11"/>、[[京浜電気鉄道|京浜電気鉄道]]社長<ref>[[#koshin8|『人事興信録』第8版]]ア39頁。{{NDLJP|1078684/88}}</ref>
|-
!田島庄太郎
|〃
|前群馬電力監査役<ref name="reportG11"/>、田島達策長男<ref name="jinteki-348"/>
|-
![[田中栄八郎]]
|1926年10月20日
|前静岡電力取締役<ref name="y18-48"/>、大川平三郎実弟<ref>[[#zensho9|『日本コンツェルン全書』9]] 235-239頁。{{NDLJP|1281124/151}}</ref>
|-
![[穴水要七]]
|〃
|前静岡電力取締役<ref name="y18-48"/><br />富士製紙専務・山梨県選出衆議院議員<ref>[[#koshin8|『人事興信録』第8版]]ア103頁。{{NDLJP|1078684/120}}</ref>
|}


== 脚注 ==
== 脚注 ==
503行目: 1,076行目:
== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
=== 企業史 ===
=== 企業史 ===
* {{Cite book|和書|author=関西地方電気事業百年史編纂委員会(編)| title=関西地方電気事業百年史 |publisher=関西地方電気事業百年史編纂委員会 |year=1987 |ref=kansai}}
* {{Cite book|和書|author=関西地方電気事業百年史編纂委員会(編)| title=関西地方電気事業百年史 |publisher=関西地方電気事業百年史編纂委員会 |year=1987 |ref=kansai }}
* {{Cite book|和書|author=京浜急行電鉄社史編集班(編) |title=京浜急行八十年史 |publisher=[[京浜急行電鉄]] |year=1980 |ref=keikyu }}
* {{Cite book|和書|author=京浜急行電鉄社史編集班(編)|title=京浜急行八十年史 |publisher=[[京浜急行電鉄]] |year=1980 |ref=keikyu }}
* {{Cite book|和書|author=新富士製紙百年史編纂委員会(編) |title=新富士製紙百年史 |publisher=[[王子エフテックス|新富士製紙]] |year=1990 |ref=shinfuji }}
* {{Cite book|和書|author=新富士製紙百年史編纂委員会(編)|title=新富士製紙百年史 |publisher=[[王子エフテックス|新富士製紙]] |year=1990 |ref=shinfuji }}
* {{Cite book|和書|author=大同電力社史編纂事務所(編) |title=大同電力株式会社沿革史 |publisher=大同電力社史編纂事務所 |year=1941 |ref=daido}}
* {{Cite book|和書|author=大同電力社史編纂事務所(編)|title=大同電力株式会社沿革史 |publisher=大同電力社史編纂事務所 |year=1941 |ref=daido}}
* {{Cite book|和書|author=大日本電力(編) |title=大日本電力二十年史 |publisher=大日本電力 |year=1940 |ref=dainihon }}
* {{Cite book|和書|author=[[大日本電力]](編)|title=大日本電力二十年史 |publisher=大日本電力 |year=1940 |ref=dainihon }}
* {{Cite book|和書|author=中部電力電気事業史編纂委員会(編)|title=中部地方電気事業史 |volume=上巻・下巻 |publisher=中部電力 |year=1995 |ref=chubu }}
* {{Cite book|和書|author=中部電力電気事業史編纂委員会(編)|title=中部地方電気事業史 |volume=上巻・下巻 |publisher=中部電力 |year=1995 |ref=chubu }}
* {{Cite book|和書|author=[[東京電力]](編) |title=関東の電気事業と東京電力 |publisher=東京電力 |year=2002 |ref=kanto }}
* {{Cite book|和書|author=[[東京電力]](編)|title=関東の電気事業と東京電力 |publisher=東京電力 |year=2002 |ref=kanto }}
* {{Cite book|和書|author=東京電力(編) |title=関東の電気事業と東京電力 |volume=資料編 |publisher=東京電力 |year=2002 |ref=kantoshiryo }}
** {{Cite book|和書|author=東京電力(編)|title=関東の電気事業と東京電力 |volume=資料編 |publisher=東京電力 |year=2002 |ref=kanto-s }}
* {{Cite book|和書|author=東邦電力史編纂委員会(編) |title=東邦電力史 |publisher=東邦電力史刊行会 |year=1962 |ref=toho }}
* {{Cite book|和書|author=東邦電力史編纂委員会(編)|title=東邦電力史 |publisher=東邦電力史刊行会 |year=1962 |ref=toho }}


=== 逓信省関連 ===
=== 官庁資料 ===
* {{Cite book|和書|author=[[逓信省]]電気局(編)|title=電気事業要覧 |volume=第12回 |publisher=逓信協会 |year=1920 |id={{NDLJP|975005}} |ref=yoran12 }}
* 逓信省電気局(編)
** {{Cite book|和書|author= |title=電気事業要覧 |volume=第13回 |publisher=逓信協会 |year=1922 |id={{NDLJP|975006}} |ref=yoran13 }}
* {{Cite book|和書|author=逓信省電気局(編)|title=電気事業要覧 |volume=第13回 |publisher=逓信協会 |year=1922 |id={{NDLJP|975006}} |ref=yoran13 }}
** {{Cite book|和書|author= |title=電気事業要覧 |volume=第19回 |publisher=電気協会 |year=1928 |id={{NDLJP|1076946}} |ref=yoran19 }}
* {{Cite book|和書|author=逓信省電気局(編)|title=電気事業要覧 |volume=第14回 |publisher=電気協会 |year=1922 |id={{NDLJP|975007}} |ref=yoran14 }}
** {{Cite book|和書|author= |title=電気事業要覧 |volume=第20回 |publisher=電気協会 |year=1929 |id={{NDLJP|1076983}} |ref=yoran20 }}
* {{Cite book|和書|author=逓信省電気局(編)|title=電気事業要覧 |volume=第18回 |publisher=電気協会 |year=1927 |id={{NDLJP|1076898}} |ref=yoran18 }}
* {{Cite book|和書|author=逓信省電気局(編)|title=電気事業要覧 |volume=第19回 |publisher=電気協会 |year=1928 |id={{NDLJP|1076946}} |ref=yoran19 }}
* {{Cite book|和書|author=逓信省電気局(編)|title=電気事業要覧 |volume=第20回 |publisher=電気協会 |year=1929 |id={{NDLJP|1076983}} |ref=yoran20 }}
* {{Cite book|和書|author=電気庁(編)|title=電気事業要覧 |volume=第31回 |publisher=電気協会 |year=1940 |id={{NDLJP|1077029}} |ref=yoran31 }}
* {{Cite book|和書|author=逓信省電気局(編)|title=許可水力地点要覧 |publisher=電気協会 |year=1931 |id={{NDLJP|1187651}} |ref=hydro }}
* {{Cite book|和書|author=名古屋逓信局(編)|title=管内電気事業要覧 |volume=第8回 |publisher=電気協会東海支部 |year=1928 |id={{NDLJP|1145213}} |ref=kannai8 }}
* {{Cite book|和書|author= |title=鉄道統計資料 |volume=昭和2年度第3編監督 |publisher=鉄道省 |year=1929 |id={{NDLJP|1022006}} |ref=rail1927 }}


=== その他書籍 ===
=== 自治体資料 ===
* {{Cite book|和書|author=駒村雄三郎 |title=電力界の功罪史 |publisher=交通経済社出版部 |year=1934 |ref=kozai }}
* {{Cite book|和書|author=群馬県吾妻教育会(編)|title=群馬県吾妻郡誌 |publisher=群馬県吾妻教育会 |year=1929 |id={{NDLJP|1209825}} |ref=agatsuma }}
* {{Cite book|和書|author=静岡県保安課・土木課 |title=静岡県電気事業概要 |publisher=静岡県 |year=1926 |id={{NDLJP|976231}} |ref=shizuoka }}
* {{Cite book|和書|author=静岡県保安課・土木課 |title=静岡県電気事業概要 |publisher=静岡県 |year=1926 |id={{NDLJP|976231}} |ref=shizuoka }}
* {{Cite book|和書|author=渋川市誌編さん委員会(編)|title=渋川市誌 |volume=第3巻通史編下 |publisher=渋川市 |year=1991 |ref=shibukawa }}
* {{Cite book|和書|author=渋川市誌編さん委員会(編)|title=渋川市誌 |volume=第3巻通史編下 |publisher=渋川市 |year=1991 |ref=shibukawa }}
* {{Cite book|和書|author=中部電力(編)|title=大井川 その歴と開発 |publisher=[[中部電力]] |year=1961 |ref=oigawa }}
* {{Cite book|和書|author=[[天竜市]]役所(編)|title=天竜市 |volume=下巻 |publisher=天竜市役所 |year=1988 |ref=tenryu }}
* {{Cite book|和書|author=電気友社(編)|title=電気年鑑 |volume=昭和2年版 |publisher=電気友社 |year=1927 |id={{NDLJP|1139309}} |ref=nenkan1927 }}
* {{Cite book|和書|author=[[中条町]]役場(編)|title=群馬県吾妻郡中之条町郷土誌 |publisher=条町役場 |year=1919 |id={{NDLJP|960661}} |ref=nakanojo }}
* {{Cite book|和書|author=[[日本経済新聞社]](編)|title=[[私の履歴書]] |volume=第21集 |publisher=日本経済新聞社 |year=1964 |ref=rirekisho }}
* {{Cite book|和書|author=松平町誌編纂委員会(編)|title=松平町誌 |publisher=豊田市教育委員会 |year=1976 |ref=matsudaira }}
* {{Cite book|和書|author=身延町誌編集委員会(編)|title=身延町誌 |publisher=[[身延町]] |year=1970 |ref=minobu }}
* 浜野栄一(編)

** {{Cite book|和書|author= |title=株式年鑑 |volume=大正14年度 |publisher=[[岩井コスモ証券|大阪屋商店]]調査部 |year=1925 |id={{NDLJP|986998}} |ref=kabu1925 }}
=== その他書籍 ===
** {{Cite book|和書|author= |title=株式年鑑 |volume=昭和3年度 |publisher=大阪屋商店調査部 |year=1928 |id={{NDLJP|1075356}} |ref=kabu1928 }}
'''戦前'''
* {{Cite book|和書|author=増田完五(編) |title=増田次郎自叙伝 |publisher=増田完五 |year=1964 |ref=masuda }}
* {{Cite book|和書|author=[[オーム社]](編)|title=全国大発電所一覧 |publisher=オーム社 |year=1933 |id={{NDLJP|1210456}} |ref=ohm }}
* {{Cite book|和書|author=駒村雄三郎 |title=電力界の功罪史 |publisher=交通経済社出版部 |year=1934 |ref=kozai }}
* 人事興信所(編)『人事興信録』
** {{Cite book|和書|author= |title=人事興信録 |volume=第5版 |publisher=人事興信所 |year=1918 |id={{NDLJP|1704046}} |ref=koshin5 }}
** {{Cite book|和書|author= |title=人事興信録 |volume=第8版 |publisher=人事興信所 |year=1928 |id={{NDLJP|1078684}} |ref=koshin8 }}
* 電気之友社(編)『電気年鑑』
** {{Cite book|和書|author= |title=電気年鑑 |volume=大正15年 |publisher=電気之友社 |year=1926 |id={{NDLJP|948322}} |ref=nenkan1926 }}
** {{Cite book|和書|author= |title=電気年鑑 |volume=昭和3年 |publisher=電気之友社 |year=1928 |id={{NDLJP|1139346}} |ref=nenkan1928 }}
** {{Cite book|和書|author= |title=電気年鑑 |volume=昭和4年 |publisher=電気之友社 |year=1929 |id={{NDLJP|1139383}} |ref=nenkan1929 }}
** {{Cite book|和書|author= |title=電気年鑑 |volume=昭和5年 |publisher=電気之友社 |year=1930 |id={{NDLJP|1139432}} |ref=nenkan1930 }}
** {{Cite book|和書|author= |title=電気年鑑 |volume=昭和12年(第22回)|publisher=電気之友社 |year=1937 |id={{NDLJP|1114997}} |ref=nenkan1937 }}
** {{Cite book|和書|author= |title=電気年鑑 |volume=昭和14年(第24回)|publisher=電気之友社 |year=1939 |id={{NDLJP|1115068}} |ref=nenkan1939 }}
* {{Cite book|和書|author=中西利八(編)|title=財界二千五百人集 |publisher=財界二千五百人集編纂部 |year=1934 |id={{NDLJP|1447438}} |ref=zaikai2500 }}
* {{Cite book|和書|author=西野入愛一 |title=日本コンツェルン全書 |volume=9 浅野・渋沢・大川・古河コンツェルン読本 |publisher=[[春秋社]] |year=1937 |id={{NDLJP|1281124}} |ref=zensho9 }}
* {{Cite book|和書|author=日本動力協会 |title=日本の発電所 |volume=東部日本篇 |publisher=工業調査協会 |year=1937 |id={{NDLJP|1257046}} |ref=jea }}
* {{Cite book|和書|author=[[岩井コスモ証券|野村商店]]調査部(編) |title=株式年鑑 |volume=大正8年度 |publisher=野村商店調査部 |year=1919 |id={{NDLJP|975421}} |ref=kabu1919 }}
* {{Cite book|和書|author=松下伝吉 |title=人的事業大系 |volume=電力篇 |publisher=中外産業調査会 |year=1939 |id={{NDLJP|1458891}} |ref=jinteki }}
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* {{Cite book|和書|author=日本動力協会 |title=日本の発電所 |volume=東部日 |publisher=工業調査協会 |year=1937 |id={{NDLJP|1257046}} |ref=ps }}
* {{Cite book|和書|author=[[三宅晴輝]] |title=日本コンツェルン全書 |volume=13 電力コンツェルン読本 |publisher=春秋社 |year=1937 |id={{NDLJP|1278498}} |ref=zensho13 }}
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'''戦後'''
* {{Cite book|和書|author=中部電力(編)|title=大井川 その歴史と開発 |publisher=[[中部電力]] |year=1961 |ref=oigawa }}
* {{Cite book|和書|author=[[日本経済新聞社]](編)|title=[[私の履歴書]] |volume=第21集 |publisher=日本経済新聞社 |year=1964 |ref=rirekisho }}
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=== 記事 ===
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* {{Cite journal|和書|title=群馬電力株式会社 |journal=財政と経済 |volume=4 |number=8 |publisher=財政経済社 |date=1920-08 |pages=21 |ref=zaikei_192008 }}
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2021年3月20日 (土) 15:22時点における版

東京電力株式会社
種類 株式会社
略称 東力
本社所在地 日本の旗 日本
東京市麹町区永楽町2丁目10番地
設立 1925年(大正14年)3月16日[1]
解散 1928年(昭和3年)5月18日[2]
東京電灯と合併し解散)
業種 電気
事業内容 電気供給事業電気軌道事業
代表者 社長 田島達策・副社長 松永安左エ門
公称資本金 6825万円
払込資本金 6825万円
株式数 136万5000株(額面50円払込済)
総資産 1億6678万6210円
収入 758万2926円
支出 456万7903円
純利益 301万5022円
配当率 年率8.0%
株主数 5256名
主要株主 東邦証券 (30.1%)、東邦電力 (11.0%)、安田保善社 (5.5%)、田島達策 (2.7%)、穴水要七 (1.3%)
決算期 5月末・11月末(年2回)
特記事項:資本金以下は1927年11月期決算時点[3]
テンプレートを表示

東京電力株式会社(とうきょうでんりょく かぶしきがいしゃ)は、1925年大正14年)から1928年昭和3年)にかけて存在した日本の電力会社である。当時の大手電力会社東邦電力東京進出を図るべく設立した。

前身は山梨県での水力開発を目的に設立された早川電力株式会社(はやかわでんりょく)と、群馬県での水力開発を目的に設立された群馬電力株式会社(ぐんまでんりょく)の2社。東京電力は両社の合併により設立され、東京において明治期より存在する東京電灯を相手として激しい需要家争奪戦、通称「電力戦」を展開した。

東京府内以外にも神奈川県静岡県・山梨県を中心に供給区域を広げたが、1928年、電力戦の末に競争相手の東京電灯との合併が成立、同社に吸収され消滅した。その後の再編で東京電力が経営した発電所や供給区域は東京電力(1951年設立)中部電力に継承されている。

概要

東京電力株式会社は、1925年(大正14年)3月に早川電力と群馬電力の2社が合併し成立した電力会社である。本社は東京府東京市麹町区(現・東京都千代田区)。明治時代から東京を地盤に営業する東京電灯が「東電」(とうでん)と通称されたのに対し、後発の東京電力は「東力」(とうりょく)と略される[4]

前身の早川電力は、社名にある早川富士川水系、山梨県を流れる)の開発を目的として1918年(大正7年)6月に設立。浜松市をはじめとるす静岡県西部に供給したほか、東京市などにおける電力供給許可を得ていた。一方の群馬電力は1919年(大正8年)7月に設立。群馬県を流れる利根川水系吾妻川を開発し、主として神奈川県川崎市一帯の京浜地区に電気を供給していた。この2社を結びつけたのは、戦前期の大手電力会社「五大電力」の一つ東邦電力である。1923年(大正12年)から翌年にかけて早川電力・群馬電力の双方を傘下に収め、1925年に両社の合併を主導して東京電力を成立させた。東邦電力が経営を握るとともに、安田財閥が金融面で後援していた。

供給区域は1926年(大正15年)に静岡県の電力会社静岡電力を合併したこともあり、最終的に東京府と神奈川・群馬・山梨・静岡・愛知の5県に拡大した。また供給事業以外にも、群馬県内において電源開発に関連して全長21キロメートルの電気軌道を経営した。群馬電力が1924年(大正14年)に吾妻軌道を合併したために兼営事業となったものだが、本業の電気供給事業に比べると事業規模ははるかに小さい。

東京電力の供給区域は、関東地方を地盤として五大電力の一角を占める東京電灯の供給区域と東京府内および神奈川県の一部において重複していた。同社との競合関係は群馬電力の時代から生じていたが、東京電力が東京市内とその郊外に広がる工業地域に対して1927年(昭和2年)1月より電力供給を始めると、大口の電力需要家を互いに奪い合う激しい「電力戦」へと発展した。東京電力では着実に供給を伸ばしたものの、投資額に見合う水準には達しなかった。対する東京電灯でも業績悪化に直面する。同年3月に昭和金融恐慌が発生したこともあり、両社の需要家争奪戦の行く末を危惧した金融機関の代表者が仲介に入り、1927年12月に合併契約の締結に至り電力戦は終結、翌1928年(昭和3年)4月に東京電力は東京電灯に合併されて解散した。

東京電力の供給区域や発電所はその後の再編を経て大部分が戦後東京電力(1951年設立)に継承されたが、静岡・愛知両県には中部電力に引き継がれた部分もある。一方、運営していた軌道路線は東京電灯によって廃止されており現存しない。

前身会社の東京進出

以下、東京電力の沿革のうち、前身会社早川電力・群馬電力の沿革について記述する。ただし両社の電源開発については下記#電源開発の推移にて別途詳述する。

早川電力の設立

早川電力株式会社
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
東京市麹町区永楽町1丁目1番地
設立 1918年(大正7年)6月28日[5]
解散 1925年(大正14年)3月16日[1]
(群馬電力と合併し東京電力を新設)
業種 電気
事業内容 電気供給事業
歴代社長 初代 窪田四郎(1919 - 1924年)
2代目 松永安左エ門(1924 - 1925年)
公称資本金 3000万円
払込資本金 1875万円
株式数 旧株:30万株(額面50円払込済)
新株:30万株(12円50銭払込)
総資産 3676万883円(未払込資本金を除く)
収入 182万7569円
支出 108万9685円
純利益 73万7883円
配当率 年率10.0%
株主数 1946名
主要株主 東邦電力 (56.8%)、三菱鉱業 (2.5%)、窪田四郎 (2.0%)
決算期 5月末・11月末(年2回)
特記事項:資本金以下は1924年11月期決算時点[6]
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東京電力の前身の一つ、早川電力株式会社は、1918年(大正7年)6月28日に創立総会が開かれ発足した[7]。設立時の資本金は800万円(うち200万円払込)[5]。設立の目的は、山梨県南部を流れる富士川支流早川の水力2万3000馬力を開発し、それらの水力発電所からの電力を静岡県内へ供給することにあった[8]

当初の社長は、富士製紙の社長でもあった窪田四郎である[9]。設立当初の早川電力は株式の過半数を富士製紙が保有していた[9]。同社は明治中期に設立された製紙会社で、富士川下流域の静岡県富士郡にて製紙工場を操業[10]。製紙工場への電力供給を目的として1907年(明治40年)11月に富士水電を設立[11]、後に進出した北海道でも電気事業を営み1919年(大正8年)10月に富士電気(後の大日本電力)を設立するなど[12]、各地で電気事業に関与していた。窪田は富士製紙の社長職を1919年5月に退き大川平三郎に譲った[12]。大川の下での富士製紙は北海道や樺太に事業の中心を移し、早川電力の株式も手放した[注釈 1]ため、早川電力に留まった窪田はその責任上その経営に集中することとなった[9]

社長以下の経営首脳として専務取締役に森田一雄が就任した[7]。森田は東京帝国大学出身の電気技術者で、九州水力電気技師長を務めたのち1915年より富士製紙電気部長兼技術部長であった[14]。その他の取締役には穴水要七(富士製紙専務[15])・伯爵副島道正久野昌一(元十五銀行支配人[16])・前田米蔵衆議院議員[17])らがいる[5]。本社は東京市[注釈 2]に設置[5]。1918年7月26日付で富士製紙・日英水電に対する電力供給ならびに電気化学工業を目的とする電気事業法準用事業の認定を逓信省より得ている[18]

設立なった早川電力では早川開発の第一期工事に着手するが、有利な供給区域を持たないため日英水電の合併に踏み切った[19]。日英水電は1911年(明治44年)に設立され、静岡県西部の浜松島田地区に供給していた電力会社で[20]、早川電力と取締役の一部が重なる(共通の取締役は副島道正・久野昌一[21])。1920年(大正9年)2月4日に逓信省から合併認可があり、同年3月15日の合併報告総会をもって手続きが完了した[22]。日英水電の資本金は300万円で、合併に際し同社株主に対し1株につき早川電力株式を1株ずつ交付したため、早川電力の資本金は300万円増の1100万円となっている[8]。さらに1922年(大正11年)2月25日合併認可・4月12日合併報告総会という手順で天竜電力・福田電力・東遠電気の3社を合併し[23]、静岡県西部での供給区域を拡大した[24]。3社合併後の資本金は400万円増の1500万円である[23]

群馬電力の設立

群馬電力株式会社
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
東京市麹町区永楽町2丁目10番地
設立 1919年(大正8年)7月5日[25]
解散 1925年(大正14年)3月16日[1]
(早川電力と合併し東京電力を新設)
業種 電気
事業内容 電気供給事業、電気軌道事業
代表者 初代社長 安田善三郎(1919 - 1920年)
2代社長 安田善五郎(1920 - 1923年)
3代社長 田島達策(1923 - 1924年)
副社長 松永安左エ門(1923 - 1924年)
公称資本金 1225万円
払込資本金 625万円
株式数 旧株:24万株(25円払込)
新株:5000株(額面50円払込済)
総資産 2647万7142円(未払込資本金を除く)
収入 144万863円
支出 118万6271円
純利益 25万4592円
配当率 年率7.5%
株主数 1096名
主要株主 安田保善社 (29.1%)、京浜電気鉄道 (12.2%)、東邦電力 (11.1%)、田島達策 (10.9%)
決算期 5月末・11月末(年2回)
特記事項:資本金以下は1924年11月期決算時点[26]
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もう一つの前身会社である群馬電力株式会社は、1919年(大正8年)7月5日に資本金700万円(うち175万円払込)で設立された電力会社である[25][27]群馬県を流れる利根川支流吾妻川における水力発電を目的とした[27]

吾妻川は、途中で白砂川(当時の呼称は「須川」、上流部に草津温泉がある)が流れ込む影響で水質が酸性を帯びており、工事への懸念から県内のほかの河川にて水力発電計画が浮上する中でも計画が立てられず取り残されていた[28]。群馬県出身の実業家田島達策ミツウロコ初代社長)はこの吾妻川に目をつけ、1906年(明治39年)に吾妻川下流の水利権を取得する[28]。開発にあたっては安田財閥が後援となり[29]、群馬電力の設立に際しては安田善三郎が2万株、善三郎が社長を務める京浜電気鉄道(現・京浜急行電鉄)が同じく2万株を持つ筆頭株主となった[30]。社長には安田善三郎、副社長には田島達策、専務には安田系の小倉鎮之助がそれぞれ就任[29]。安田家から社長が出されたのは同家の慣例によるもので、実際の仕事は田島や専務の小倉に任されていたという[29]。本社は東京市内[注釈 3]に置かれた[25]

群馬電力は吾妻川において金井発電所の建設を計画していたが、同発電所の放水を利用する発電所を別個に建設すべく吾妻電気株式会社という電力会社も設立されていた[34]。同社は資本金は500万円で1920年6月1日に設立[35]。安田善三郎が社長、小倉鎮之助が専務となり、田島達策らが取締役に名を連ねた[36]。株式払い込みの都合上別に設立された姉妹会社であり[27]、群馬電力では同年6月21日付で合併契約を締結し、11月5日合併報告総会を終えて合併手続きを遂げた[37]。合併後の資本金は500万円増の1200万円となっている[37]。なお合併報告総会後に経営陣の改選があり、安田善三郎に代わって安田善五郎が社長に就任した[37]

吾妻電気に続く合併は吾妻軌道株式会社であり、4年後の1924年(大正13年)4月29日付で合併契約を締結[33]、10月27日合併報告総会を終えた[26]。同社は吾妻川に沿う渋川中之条間の電気軌道事業と中之条地区の電気供給事業を兼営する会社である[38]。従って群馬電力も合併後は電気軌道事業兼営となっている(下記#軌道事業について参照)。合併後の資本金は1225万円であった[38]

東京進出の経緯

群馬電力初代副社長・3代社長田島達策
早川電力初代社長窪田四郎

前身2社のうち、先に東京進出を果たしたのは群馬電力であった。同社は当初から東京方面への送電を想定しており、東京方面と発電所周辺に供給しつつ発生電力の過半を京浜電気鉄道へ供給する計画を立てていた[34]。東京・横浜間の電気鉄道を営む京浜電気鉄道は群馬電力と同様安田財閥系の企業であり、電力供給を受けるのを前提に群馬電力設立時からその大株主であった[29]。役員も一部重複しており、群馬電力の役員に名を連ねる青木正太郎・小倉鎮之助・宮口竹雄は京浜電気鉄道の役員でもある[29][39]。この京浜電気鉄道の事業とは別に、群馬電力は1920年2月6日付で電気供給事業の許可を受け、神奈川県橘樹郡川崎町(現・川崎市)ほか5村に電力供給区域を設定した[40]

1922年7月4日、群馬電力は京浜電気鉄道との間で、同社が兼営する電灯・電力供給事業を譲り受けるという事業買収契約を締結した[26]。この事業は京浜電気鉄道が鉄道沿線の東京府荏原郡大森町蒲田町や神奈川県橘樹郡川崎町・鶴見町など計21町村にて経営していた事業で、その開業は1901年(明治34年)にさかのぼる[41]。このうち荏原郡側全域と橘樹郡側の一部は東京電灯の供給区域と重複しており[42]、従来供給用電力を購入していた桂川電力1922年(大正11年)2月に東京電灯へ吸収されると電力の購入先と供給が競合する状態になった[43]。鉄道事業への投資集中もあって京浜電気鉄道は供給事業の東京電灯への譲渡を一旦決定したが、これを安田財閥などの介在のため覆し群馬電力への譲渡に転換した[43]。譲渡価格は東京電灯との契約価格より50万円高い550万円である[30]。方針転換について一部株主・役員から強硬な反対運動があったものの、翌1923年(大正12年)5月1日付で事業譲渡が完了した[43]。この間の1922年12月、金井発電所の運転開始を受けて群馬電力は開業している[30]

一方早川電力は、日英水力電気の事業権利を継承することによって東京方面での供給区域を獲得した。この日英水力電気というのは1906年(明治39年)に計画された電力会社で、日英同盟の交誼から日本とイギリスの提携による大井川の共同開発を目論んだが実現せず、日本側が設立した先述の日英水電という別会社によって計画の一部が完成するに留まっていた[24]。日英水力電気は大井川水利権のほか東京市内や付近主要町村への電力供給権も保持しており、早川電力では1921年(大正10年)7月に日英水力電気株式会社発起人よりこれら水利権・電力供給権を譲り受けた[9]。前年の日英水電合併が日英水力電気からの供給権買収の前提であったという[44]

かくして東京方面への足がかりを得た早川電力は、早川における榑坪発電所(後の早川第一発電所)と静岡県下および東京方面への送変電設備建設を第一期工事とし、事業に着手[9]1923年(大正12年)6月、このうち発電所と静岡県下の送変電設備を完成させ、7月中旬より送電を開始した[9]。残る東京方面への送変電設備は、榑坪発電所から川崎(神奈川県)および東京郊外の戸越に設置する変電所まで約140マイルの66キロボルト (kV) 送電線を架設するという計画で同年10月の完成を目指したが[9]、9月1日に関東大震災が発生して行き詰った[45]

東邦電力の参入

松永安左エ門

東京方面への供給権を持つ早川電力・群馬電力の両社を関東大震災後に相次いで支配下に収めたのが東邦電力株式会社である。同社は愛知県名古屋電灯福岡県九州電灯鉄道などの電力会社の再編により成立した当時の大手電力会社(「五大電力」の一つ)で、本社を東京に置くが中京地方九州地方を供給地盤としていた[46]伊丹弥太郎が社長、松永安左エ門が副社長を務めていたが、実際には松永が主導する会社である(1928年社長昇格)[46]

東邦電力は成立の過程において天竜川に発電所を持ち浜松方面へと電力を供給する天竜川水力電気を合併し、日本楽器製造(現・ヤマハ)などの工場に対して供給しており[47]、浜松を含む静岡県西部に供給する早川電力とは一部で競合する立場にあった[45]。そこで東邦電力では早川電力ととの関係強化を試みたものの、関東大震災以前の段階では機が熟さず実現していなかった[45]。ところが震災で早川電力の事業が行き詰ると、早川電力側から取締役の前田米蔵が松永に話を持ち掛け、関係強化の話が具体化されていった[45]。そして1924年3月、東邦電力は早川電力について、早川電力側の内容整備を待って3年以内に吸収合併すると決定した[45]

1924年3月12日、資本金1500万円にて早川興業株式会社が設立された[45]。東邦電力の出資によるもので、これを早川電力に合併させて同社の株式を取得することが設立の目的であった[45]。早川電力側では同年3月31日の臨時総会にて早川興業の合併を決議する[48]。このとき前田米蔵ほか2名を残して役員が辞任[48]、東邦電力から新社長の松永安左エ門とその他3名が役員に送り込まれた[45]。同年6月27日、早川興業の合併が完了[49]。合併により早川電力の資本金は倍額の3000万円に増加するとともに、東邦電力が過半数の株式を保有する大株主となってその支配下に入った[45]。また同時に田中徳次郎角田正喬(東邦電力専務および常務[50])の2名が常務に就任している[6]

東京進出を狙う東邦電力は早川電力との交渉を進める一方、同社だけでは既存の東京電灯に対抗できないと見て、早川電力が安田銀行から融資されていた関係で安田系の群馬電力にも着目[38]。松永安左エ門が安田銀行副頭取結城豊太郎に直接交渉を持ちかけて群馬電力との提携を先に成立させた[38]。群馬電力は当時、京浜電気鉄道からの供給事業買収に失敗した東京電灯と対立し、料金値下げや送電方法改良などを実施した東京電灯に競争を仕掛けられており、資金を借り入れつつ抗戦したものの[30]、不況もあって業績が伸び悩み株式の払込金徴収も困難な状況にあった[51]。東邦電力との提携の結果1923年12月25日の株主総会にて松永と福澤桃介が群馬電力の取締役に当選、安田善五郎にかわって副社長の田島達策が社長に昇格、松永が後任副社長に就任した[38]。また病気辞任した小倉鎮之助に代わり宮口竹雄(東京帝国大学出身の電気技術者[52]、安田系の人物[51])が専務に就いている[33]

1924年4月、早川電力によって建設中の東京送電線が沼津(静岡県)まで完成[30]。7月には川崎までの全線が完成し、早川電力も東京方面への送電を果たした[30]。また早川電力から群馬電力への電力供給も開始された[30]

東京電力と「電力戦」

以下、東京電力の沿革のうち、会社設立から東京電灯の合併までの期間を中心に記述する。

東京の電気事業

東京電灯第8代社長若尾璋八

早川電力や群馬電力が進出を図った東京は、日本で最初の電力会社東京電灯の地盤であった。同社は1887年(明治20年)11月に東京市内での配電を開始した、日本における電気供給事業の先駆者である[53]

明治末期になると、水力開発の活発化と政府の電気普及促進政策により東京電灯以外にも複数の事業者が東京市内へ進出するようになる[54]。明治末期に許可を得て大正までに開業する鬼怒川水力電気桂川電力猪苗代水力電気利根発電などの会社が該当し、後に早川電力に引き継がれる日英水力電気も明治末期の1908年に事業許可を受けている[54]。これらの会社と東京電灯は市内供給について直接競合することはなかったが、電灯供給の許可を得て1907年に開業した市営電気事業および1913年(大正2年)に開業した日本電灯は東京電灯に対して攻勢を仕掛け、市内で激しい電灯需要家の争奪戦を展開した(いわゆる「三電競争」)[54]。3事業者の競争は1917年(大正6年)に停戦協定が交わされるまで続いた[54]

大正後期から東京電灯は積極経営を展開する[55]。かつての競合会社日本電灯や電力供給元の猪苗代水力電気などを相次いで合併し、東京市内に供給権を持つ電力会社を鬼怒川水力電気と未開業の日英水力電気を除いて統合したのである[55]。合併の結果、関東大震災前の時点で東京電灯の資本金は2億5800万円に達し、供給区域は関東地方一帯に拡大した[55]1923年(大正12年)9月の関東大震災では変電・配電設備および営業設備を中心に被災し、需要家の罹災で需要の激減を来たして特に電灯供給では震災前の水準に回復するまで2年余りを要した[56]。一方震災を機に工場電化が進んだことから電力需要はかえって増加し、震災から1年で震災前の水準に戻っている[56]

震災翌年から東京電灯は事業の拡張を再開、京浜電力富士水電を合併したほか1926年(大正15年)には帝国電灯を合併した[57]。帝国電灯の合併をもって資本金は3億4572万4000円に膨らみ、関東以外にも山陰地方北海道樺太にも供給区域を持つに至った[57]。大正後期からの拡張時代に経営を担ったのは社長の神戸挙一[58]。1922年には副社長に若尾璋八が就き、1926年に神戸が死去すると後任社長となった[58]。神戸・若尾ともに甲州財閥に属する実業家である[58]

五大電力の角逐

大同電力初代福澤桃介

大正後期、東京電灯が関東を中心に巨大化したのに並行して、中京地方九州北部では東邦電力関西地方では宇治川電気が勢力を拡大[59]。さらに電力の卸売り[注釈 4]を主体とする新興の大同電力日本電力とあわせ、電力業界では「五大電力」と呼ばれる大手5社の勢力が著しく伸長した[59]

1923年5月、京浜電力が梓川筋(長野県)の発電所と横浜変電所を繋ぐ200キロメートル超の長距離送電線を完成させた[56]。同線は送電電圧に戦前日本の最高電圧である154キロボルト (kV) を初めて採用した送電線である[56]。以後宇治川電気以外の五大電力各社により154kV送電線が相次いで新設され、日本アルプスを水源とする諸河川の水力発電所から京浜・中京・京阪の三大工業地帯に対して大量の電力が長距離送電されるようになる[56]。こうした大規模設備は第一次世界大戦下の大戦景気を背景とした電力不足の時代に立案され、1920年代半ばに続々と竣工する[61]。一定期限内の完成を義務付けられていたことからこの時期に完成が相次ぐものの、完成時には好景気は過ぎ去っており、発電力の増加に対し需要増加の速度は遅く、その差が余剰電力として堆積していった[61]

余剰電力を抱えた電力会社各社は、その消化に努めて時には同業他社の地盤への進出も狙った[61]。こうして生じた電力会社間の紛争を「電力戦」という[61][62]。この時期の紛争は、当時の逓信省が電灯供給および小口の電力供給については既存事業者の地域独占供給を認める一方で、大口の電力供給については独占の弊害を除去するためとして新規事業者の参入を許可したことから、大口電力需要家の争奪戦という形で展開された[62]。五大電力間の紛争で最初のものは中京地方における東邦電力・日本電力の紛争である[61]。1923年8月に日本電力が東邦電力の地盤である愛知県名古屋市とのその周辺を電力供給区域へ編入する許可を得たことが発端となり、一部で大口需要家の争奪戦を生じた[63]。しかし本格化を前に、東京進出を控える東邦電力側が妥協し1924年(大正13年)3月日本電力との間に最大10万キロワット (kW) を受電するという大規模受電契約を締結したことで対立は解消された[63]

一方京阪地方では、1922年に大同電力が大阪府下の大阪市堺市などに電力供給区域を獲得した[64]。両市を中心に一部区域が宇治川電気の既存電力供給区域と重複することから[65]、宇治川電気では大同電力の大阪進出を深刻な脅威ととらえ、大同電力の供給を制限するのと引き換えに同社から最大15万kWを受電するという大規模受電契約を締結した[66]。こうして大同電力の脅威を抑えた宇治川電気であったが、大同電力との契約締結以前から受電契約があった姉妹会社日本電力との関係が悪化する[67]。日本電力の電力供給区域も宇治川電気と重複することから[65]、対立の末に1926年(大正15年)9月末限りで受電契約が失効したのを機に激しい電力需要家争奪戦が始まった[67]

「電力戦」は、東京電灯の地盤であり、日本国内における電力需要の3割を占める巨大市場である関東地方にも及んだ[62]1925年(大正14年)5月、関西への送電を目的に起業された大同電力・日本電力の両社はともに東京送電線の建設を認可された[64][68]。うち大同電力は同時に東京市内および神奈川県橘樹郡を電力供給区域として抑えており、これを脅威とみた東京電灯では受電契約を従来の2倍近い5万kWに増加することで大同電力の東京進出を抑制した[69]。だが翌1926年5月、東邦電力が以下で詳述する新会社「東京電力」を擁して東京進出を図ったことで、東京電灯を相手とする「電力戦」が再び始まったのである[61]

東京電力の設立

東邦電力の東京進出を主導したのは、同社副社長の松永安左エ門である。東邦電力は本社を名古屋電灯時代からの名古屋市より東京市へと移し、関東大震災後には焼失した東京市内の商工業地区へと供給する「東京復興電気会社」の計画をまとめるなど、早くから東京進出を念頭に置いていた[70]。さらに復興電気会社の計画作成後の1923年10月、松永は新聞紙上において、震災復興のための電気事業は (1) 組織を根本的に改革し、(2) 低廉・豊富な電気を永久に供給する方法を攻究するならば、震災前の水準の電気を従前の半額の料金で供給でき近い将来には供給を5倍に増加させうるであろう、と述べて東京電灯への宣戦布告をしている[70]。松永が晩年(1964年)に執筆した『私の履歴書』によると、東京進出の動機は東京の電気事業(東京電灯)の是正のためもあるが、正直なところは理想実現を目指し自身の手で電気事業を統一したいという野心があったためであるという[71]。東京進出の体制を整えるため、松永は早川電力・群馬電力の2社を東邦電力の支配下に収めた[71]

1924年12月25日、早川電力と群馬電力はそれぞれ株主総会を開き、両社の間で交わされた合併契約を承認した[72]。合併比率は1対1[72]。両社の合併を推進したのは東京進出を目指す東邦電力で、早川電力社長と群馬電力副社長を兼ねる松永が仲介役となって合併を実現させた[72]。早川電力の株主総会において松永は、群馬電力は京浜電気鉄道から引き継いだ将来性のある有利な供給区域を持っており、この供給区域に対して早川電力も供給するならば有利であり、さらに将来の電源開発に際して群馬電力の送電網を活用して供給できるならば得策であるから、両社の合併は東京やその付近の開発にとって必須である、という旨を説明している[73]。監督官庁からの合併認可は翌1925年3月4日付で下りた[74]

東京電力常務進藤甲兵

1925年3月16日、両社合併による新会社東京電力株式会社の創立総会が開催された[72]。成立した東京電力の資本金は、早川電力の3000万円と群馬電力の1225万円をあわせた4225万円(うち2800万円払込)[72]。東邦電力はそのうち4割を出資し[72]、会社の経営を取り仕切った[75]。設立時、東邦電力との間に1928年を目処に合併するという了解があったという[75]。また安田保善社が第2の株主(出資比率8パーセント)で[72]、金融関係は安田財閥の後援を受けた[75]。社長は群馬電力社長の田島達策、副社長は松永安左エ門、専務は群馬電力の宮口竹雄、常務は東邦電力の進藤甲兵と早川電力の結城安次がそれぞれ就任した[72]。田島・宮口は安田関係の代表者で金融方面、結城は貴族院方面、1年遅れて常務に就任した佐竹義文は政党方面に対するいわば「看板」で、会社の実権は東邦電力の松永や進藤が握っていたという[51]

本店所在地は東京市麹町区永楽町2丁目10番地[1](現・千代田区大手町)。本社社屋は永楽ビルディングである[76]。そのほか神奈川県川崎市古河通に川崎営業所を、静岡県浜松市伝馬町に浜松営業所をそれぞれ構えた[76]

東京電力の積極経営

東京電力は設立直後から積極経営を展開した[72]。まず1926年(大正15年)4月9日合併認可・30日合併報告総会という手順で田代川水力電気株式会社を合併した[77]。同社は旧早川電力が株式の大部分を引き受けることで資本金500万円にて1922年8月4日に設立[78]。早川開発に続く早川電力の第二期工事として計画されていた田代川(大井川上流)の開発を担当していた開発会社であり[9]、合併時点では3つの発電所と川崎までの送電線を建設中であった[24]。合併比率は1対1で[24]、合併に伴う増資は500万円(うち125万円払込)である[79]

静岡電力社長大川平三郎

続いて1926年10月12日合併認可・20日合併報告総会という手順にて静岡電力株式会社を合併した[80]。同社は1920年に富士製紙から電気事業(旧四日市製紙の電気事業が起源[81])を譲り受けて開業した電力会社で、静岡県中部や山梨県南部に供給区域を持ち、他に静岡市営電気事業・富士製紙などへ電力を供給していた[72]。地方の会社としては成績が良く、これを東京電灯に取られるわけにはいかないということで松永が合併を希望したという[82]。静岡電力の資本金1500万円(うち750万円払込)に対し合併に伴う東京電力の増資幅は1.4倍の2100万円(うち1050万円払込)であり、合併後の東京電力の資本金は6825万円となっている[82]

東京電力が静岡電力を合併するのに先立ち、1926年5月に東京電灯が帝国電灯を合併した[83]。帝国電灯は関東を中心に散在的ではあるが広範な供給区域を持っており、東京電力でも関東進出の手段として合併を狙っていたことから、これを防ぐために東京電灯が先に合併したという[83]。その前年に東京電灯が静岡県下の東洋モスリン電気事業部・富士水電を吸収したのも、旧早川電力や大同電力・日本電力など同業他社に吸収されて東京進出の足掛かりとされるのを防ぐ意図があった[83]

東京電力では合併以外にも事業拡大策を矢継ぎ早に打ち出した。まず発足直後の1925年3月、大井川水系寸又川の開発を計画する寸又川電気株式会社の株式を取得し、松永が社長を兼任して経営を引き受けた[72]。同社は1924年6月に資本金150万円で設立されたもので、三重県出身の実業家熊澤一衛が発起人総代・初代社長であった[84]。次いで1925年12月に資本金1000万円で上毛電力株式会社が設立されると、役員を送って同社と提携した[72]。同社は事業に失敗した上毛製紙(1919年設立)を電力会社に転換すべく設立されたもので、上毛製紙を吸収の上[85]利根川水系片品川(群馬県)の開発に着手した[72]。社長は大川平三郎である[85]。翌1926年10月、東京電力では完成した上毛電力伏田発電所からの受電を始めた[72]

さらに1926年12月25日、株式の大部分を握る傍系会社として資本金1000万円の須川電力株式会社を設立した[86]。同社は東京電力と関東水力電気吾妻川電力の3社から水利権を集めて起業されたもので[86]、東京電力からは金井発電所の上流側にある吾妻川の未開発水利権3地点が提供された[87]。須川電力では開発計画を見直した上で翌1927年11月に松谷発電所を着工した[87]。また傍系会社にはほかに東京湾電気株式会社があった[72]。同社は1926年5月20日に資本金500万円で設立[88]。早川電力の時代から電力を供給していた浅野財閥系の東京湾埋立から電気事業を分離させて立ち上げた新会社であり、神奈川県下の東京湾埋立地のうち橘樹郡鶴見町田島町両地先に供給した[89]。この操作により東京電力は間接的に供給区域を拡大した形となっている[89]

「電力戦」開戦

東京電力の東京進出を許可した逓信大臣安達謙蔵

1926年(大正15年)5月24日[82][90]、東京電力は東京市郊外の南葛飾郡南足立郡および北豊島郡南千住町における大口(一構内あたり50馬力以上)の電力供給を許可された[91]。この地域への参入は、東京方面への本格進出を図るためのものである[91]

当時、上記地域は東京府内でも有数の工業地帯であり、大口需要が比較的密集して存在することから効率的な供給が可能で、その上紡績モスリンといった負荷の高い工場が集中するため、東京電灯にとっても収益を支える重要な地域であった[91]。実際に、1926年上期の時点における東京電灯の同地域内の電力供給契約は約4万5,000kWにのぼり、東京電灯全体の電力需要の約13%に相当していた[91]。東京電力がこの地域における電力供給許可を申請したのは、前年8月に時の加藤高明内閣憲政会単独内閣となってからで、許可を与えた逓信大臣は安達謙蔵である[90]。東京電灯は副社長の若尾璋八が立憲政友会総務であるなど立憲政友会系の会社と目されていたことから、東京電灯の重要地域への東京電力参入を許可したのは政友会と対立する憲政会の党略である、との指摘がある[92]

ともあれ南葛飾・南足立・北豊島3郡における大口電力供給権を獲得した東京電力は、供給体制の整備に着手。金井発電所(群馬県)から川崎へと至る既設11kV送電線(群馬本線)の途中から支線を分けて南葛飾郡松江町に変電所を設置し、さらに2次変電所を同郡大島町と東京市内本所区深川区の3か所に配置して、群馬県下金井・渋川両発電所からの電力と上毛電力からの受電をあわせた合計2万8,800kWをこの地域に供給することとした[82]。さらに渇水時の予備として3万5,000kWの出力を備える火力発電所の建設にも着手している[82]

実際の供給を始める前の1926年後半より、電力料金の引き下げや文書による勧誘などを伴う需要家獲得競争が東京電力・東京電灯の間で開始された[91]。東京電力では、以下の点を自社の優位性として挙げて営業活動に努めた[93]

  • 低料金 - 建設費の圧縮によって電力の原価が低いことによる。
  • 安定供給 - 各発電所に加え東邦電力とも広域に連系して故障や渇水に備えることによる。
  • 地下線供給 - 風雪に対して故障がなく工事費も安い地下配電線によって供給する。
  • 設備の単純化 - 配電設備を単純化することで安全度を向上する。
  • 無休送電 - 従来1か月に2日の送電停止(休電日)があったが1年を通じて昼夜無休の供給とする。

上記のうち電力料金については、東京電力は東京電灯よりも安い水準で販売するとした[91]。これに対し、東京電灯の側も料金の値下げに踏み切り、1926年6月1日から東京電力の料金と同等の水準で供給を始めたほか、優秀な社員を第一線に立てて顧客の維持に奔走した[91]

1927年(昭和2年)1月1日、東京電力は南葛飾・南足立・北豊島3郡および東京市深川区・本所区方面での電力供給を開始した[91]。この地域で最大の需要家である南葛飾郡の日清紡績への供給(供給電力2,700kW)を東京電灯から奪い取るなど需要家を相次いで獲得するが、一方で東京電灯の反撃にあって需要家を奪い返されるなど、同社との間で激しい需要家の争奪戦を展開する[91]。また群馬電力時代から競合していた京浜電気鉄道沿線地域でも、1924年6月に競争的行為を避けるという協定が締結されていたにもかかわらず競争が激しくなり、横浜船渠への供給 (1,700kW) を東京電力が奪うといったことが起きた[91]。こういった激しい「電力戦」について需要家側からは、東京電灯のみに頼ると無理を押し付けられるので競争会社は必要である、と歓迎する意見が出ている[91]

東京電力の進出は、工場電化の進展や電力利用の普及を促進したという面もあった[91]。東京電灯から奪った需要家も相当数あったが、全体の8割近くは新規の需要であったのである[91]富士製紙江戸川工場 (2,000kW) や日本電気 (1,715kW)、芝浦製作所 (1,600kW) などはそういった新規の需要家である[91]。京浜方面とあわせると、毎年3万kW以上の需要増加が見込まれる電力市場であったという[90]

電力戦の傍ら、1926年後半から建設中の発電所が相次いで竣工する。まず1926年5月、建設中の早川第三発電所から川崎第一変電所へ至る送電線(田代本線、送電電圧154kV[94])が完成[72]。翌1927年1月より早川第三発電所が運転を開始し、続いて田代川第一発電所が8月に、田代川第二発電所が11月にそれぞれ運転を開始した[72]。これらの水力発電所以外にも鶴見町の東京火力発電所が1926年12月に完成、1927年5月には発電機がもう1基完成して竣工している[72]

周辺への波及

東京電灯の中京地方進出を許可した逓信大臣望月圭介

東京電力対東京電灯の電力戦が行われていた当時、五大電力の一つで卸売り会社の日本電力も東京進出を目指し、東京への送電線を建設中であった[68]。東京電力はこの日本電力と提携して同社の東京進出に協力、相呼応して東京電灯を攻撃しようと企てた[82]。一方東京電灯は大同電力から電力を購入し東京方面へと供給していたことから、大同電力は東京電灯の側についた[82]。東京電力の親会社東邦電力と大同電力はともにかつての名古屋電灯を前身としており、大同電力は姉妹会社の競合会社に味方したことになる[61]

東京電力発足半年後の1925年12月、大同電力取締役に東京電灯副社長の若尾璋八が就任した[95]。大同電力が自社の株式を東京電灯に引き受けさせたため、大株主となった東京電灯を代表して若尾が入ることとなったものである[96]。ところが東邦電力もまた大同電力の設立の経緯から大株主であり、松永安左エ門も元から取締役に名を列ねていた[96]。当時大同電力副社長であった増田次郎によると、東京電力を設立したばかりの松永は若尾の大同電力入りに反対し、株主総会上でも大株主の立場をもって拒否しようと試みるほどで、先輩の福澤桃介(大同電力社長、松永の慶應義塾時代以来の先輩)に対して謀反を起こしたと騒がれたという[96]

東京電力が東京郊外3郡での電力供給を許可された直後の1926年5月29日、東京電灯の若尾ら幹部は大同電力と協議し、大同が当時愛知・岐阜両県における電力供給許可を申請していたところに東京電灯も加わり、両社協力して東邦電力の地盤である中京地方への進出を目指すことを申し合わせた[82]。若尾らはその足で名古屋へと向い、翌30日に名古屋逓信局に対して中京地方での電力供給許可を申請する[82]。申請内容は、名古屋市をはじめとする愛知・三重両県下を供給区域とし、建設中の奈川発電所(長野県)を起点とする154kV送電線を架設、同発電所などの余剰電力を電源として5万kWを供給する、というものである[97]。東京電灯のこの行動は東京電力の東京進出に対する報復とされる[98]。6月には名古屋営業所を設置し、需要家獲得に向けて予備勧誘を始めた[97]

しかしながら東京電灯の申請は翌1927年4月に当局より却下され、中京地方進出の目論みは潰えて5月に名古屋営業所は廃止された[97]。当時の内閣は憲政会の若槻礼次郎内閣で、申請を却下した逓信大臣は先に東京電力の申請を許可した安達謙蔵である[97]。だが同年12月5日、東京電灯は再度愛知・三重両県下における電力供給許可を申請する[97]。却下から再申請までの間に若槻内閣が退陣して立憲政友会による田中義一内閣が成立しており、新たに逓信大臣となった望月圭介は再申請を12月28日に許可した[98]。却下された申請が一転して許可となったのは、若尾と立憲政友会の太い繋がりが理由であるとされる[98]

終戦へ

三井銀行常務池田成彬
東京電灯会長郷誠之助(1927年就任)

1927年1月に東京への本格進出を果たした東京電力では、それ以来東京・川崎方面での供給成績を大きく伸ばし、1927年下期末(11月末)の時点では1年前の実績の約2.5倍にあたる約7万7,000kWの電力(数字は電熱用を除く)を供給していた[72]。会社全体での供給実績は、電灯供給71万5078灯・電力供給13万1583馬力(約9万8,000kW)に及ぶ[72]。事業の拡張に伴い1927年下期の電力料収入は前年同期比1.5倍の407万円に拡大し、総収入は758万円となった[99]。だが供給設備の相次ぐ拡充に伴う固定資産の増加率に比べて収入の増加率は伸び悩み、固定資産利益率についても東京電灯より低い4 - 5%で低迷した[99]。つまり積極経営の効果が収益面で現れておらず、好調な経営とは言い難い状況であった[99]配当率で見ても、発足時の年率8パーセントから1926年上期に年率9パーセントに増配されていたが、1927年上期に元の水準に減配となっている[99]。親会社東邦電力の配当率は同時期年率12パーセント(1927年下期より年率10パーセント)である[100]

一方東京電灯では、東京電力との電力戦の影響により1927年上期より電力料収入が減少に転じ[101]、同年下期の電力料収入は前年同期に比べ146万円少ない1665万円に低下した[102]。元々東京電灯の業績は利益率が低下して悪化傾向にあったが[101]、電力戦はさらなる利益率の低下をもたらしたのである[102]。東京電灯でも1926年下期から年率9パーセント配当であったが[101]、1927年下期より年率8パーセントに減配した[102]

電力戦による東京電力・東京電灯両社の経営悪化に、両社に対して巨額の融資をしていた金融機関が危機感を抱きはじめる[99]。1927年下期の時点で、社債・借入金・支払手形をあわせた負債額は東京電力が8947万円、東京電灯が2億4839万円に達しており、これらの資金は主に三井銀行三菱銀行安田銀行などの金融機関によるものであった[99]。さらに東京電灯の場合は外債米ドル英ポンド建て社債)の発行から国外にも債権者があった[99]。1927年3月に昭和金融恐慌が発生すると、電力戦の激化は金融機関を巻き込んで日本の金融システムそのものを危機に陥れる可能性も生じたため、金融機関のみならず大蔵省日本銀行などもこの問題を注視するようになる[99]

こうした状況を受けて、三井銀行筆頭常務池田成彬や安田銀行副頭取結城豊太郎が東京電力・東京電灯の和解・合併の斡旋に乗り出した[99]。特に東京電灯に対しては池田が人事にも介入し、1927年(昭和2年)7月に郷誠之助を会長に就任させ(社長は若尾が続投)、阪急電鉄創業者の小林一三を取締役として入れて経営改革にあたらせることとなった[103]。両社合併への動きは7月に始まるが、9月になっても両社の意見の隔たりが大きく合併への合意には達しなかった[99]

1927年12月になると、金融恐慌の影響により両社とも建設資金の調達に窮するようになったことから、合併に関して歩み寄りがみられた[99]。池田の斡旋もあり、12月13日には以下の合併条件に対し両社間の同意がおおむね得られた[99]

  • 東京電灯対東京電力の合併比率は1対0.9(10対9)とする。
  • 東京電灯は東京電力に対して解散手当110万円を支払う。
  • 東京電力の松永安左エ門と宮口竹雄を東京電灯に取締役として入社させる。

大詰めを迎えた段階での問題点として、東京電力の親会社東邦電力は、直前(5日)に東京電灯が中京地方への電力供給許可を申請していたことを取り上げ、東京電灯に対し申請を撤回するよう求めたが、同社は譲歩せず合併交渉は紛糾した[99]。また東京電力は取締役兼営業部長の進藤甲兵も東京電灯に引き継ぐよう求めたが、これも東京電灯側は拒否し、両社の関係は一時険悪なものとなった[99]

年末になると両社の歩み寄りが見られ、両社は合併実現まで攻撃的な行動をとらない、進藤については社員として引き継ぐが出社・執務させない、という妥協がなり、合併への手続きが進められた[99]。そして12月24日、東京電力社長田島達策と東京電灯社長若尾璋八の間で両社の合併契約が締結されるに至った[99]

東京電灯との合併とその後

東京電灯副社長(のち社長)に就いた小林一三

1927年12月24日付で東京電力と東京電灯の間に締結された合併契約の概要は以下の通り[104]

  • 合併に際して東京電灯を存続会社とし、東京電力は解散する。
  • 東京電灯は資本金を6142万5000円増加し(4億714万9000円とする)、増加に伴う新規発行株式を東京電力株主に交付する。その割合は東京電力の株式10株に対し新株9株。
  • 東京電力の従業員は新規採用の形で東京電灯が引き継ぐ。
  • 役員への功労金や従業員退職金など東京電力が解散に際して要する費用については東京電灯が支払う(別途協定により110万円と決定)。
  • 合併期日は1928年(昭和3年)4月1日とする。

翌1928年1月16日、両社はそれぞれ臨時株主総会を開き上記合併契約の承認を得た[105][106]。2か月後の3月22日には逓信省からの合併認可も得ている[105]。この認可に際し、需要家の便宜を図って独占的にならないこと、料金をすみやかに統一すること、という条件が付けられ、東京電灯は需要家に対する既存契約を料金を改定せずそのまま引き継ぐこととなった[99]。そして期日通りに1928年4月1日付で両社の合併は実行に移される[99]。同年5月18日付で東京電灯側にて合併報告総会が開かれて合併手続きが完了し[105]、同日をもって東京電力は解散した[2]

合併に伴い東京電灯では東邦電力の持株比率が高まり、同社系列の東邦証券が全株式のうち4.6パーセントを保有する筆頭株主となり、東邦電力本体も1.7パーセントの株式を持つ大株主となった(1929年下期時点)[107]。合併時の合意の通り、合併報告総会にて松永と宮口竹雄が東京電灯取締役に就任している[107][105]。合併により、水力93,247kW・火力48,150kWに及ぶ発電設備をはじめとする発送変電設備は東京電灯に引き継がれた[99]。東京電力の傍系会社については、東京湾電気は東京電灯傘下に入り[72]、関東地方の上毛電力と群馬水電(須川電力から改称)は東京電灯へ供給する発電会社として存続したが[108]大井川電力(寸又川電気から改称)は東邦電力の傘下に残った[109]

東京電灯社内では、合併手続き中の1928年3月に副社長となった小林一三によりさらなる経営改革が進められた[107]。東京電力の合併に伴い継承した諸設備によって電力の運用効率が改善されて供給コストの低減をもたらし、電力戦の終結による無理な料金値下げに歯止めがかけられたこととあわせて一時的に経営の安定に繋がった[99]。しかし1929年(昭和4年)9月、日本電力が南葛飾・南足立・北豊島3郡と横浜市鶴見区における電力供給を許可され、翌年より実際に供給を開始したことにより、今度は日本電力との間で需要家争奪戦を開戦した[68]。対日本電力の電力戦は東京電力のときとは異なって既存需要家の争奪戦が主体であり経営への影響はより大きく[68]、東京電灯の業績低迷は続いた[102]。日本電力との対立が終結するのは池田・結城や逓信省の斡旋で営業協定が交わされた1931年(昭和6年)7月のことで、これをもって全国的に「電力戦」が収まった[68]

また東京電灯は、東京電力を合併してから1年以上が経過した1929年10月、1927年12月末に電力供給の許可を受けていた中京地方進出へ動き出し、名古屋営業所を再設置した[98]。東京電力(東邦電力)との電力戦は終結していたにもかかわらず東邦電力への攻勢を仕掛けたのは、社長若尾璋八の強い意向のためという[98]。名古屋と知多半島岡田、三重県北部の富田の3か所に変電所を設置、白瀬発電所(愛知県、元早川電力所属)を起点に送電線を架設し、同年12月より中京地方での供給を開始した[97]。だが1930年6月、中京進出を主導した若尾が業績不振で社長を解任され、会長の郷誠之助が会長兼任で後任社長に就くと社内の状況は一変し、当時不況下であったこともあり、二重投資を避けるとして中京地方からの撤退が決定した[107]。1930年12月に東邦電力への事業譲渡認可があり、中京地方の事業は発電所を除いて同社へと譲渡された[107]。譲渡資産は総額348万8716円90銭[107]。供給実績は約800kW程度で、東邦電力と競争するほどにはなっていなかったという[107]

年表

早川電力

群馬電力

東京電力

電源開発の推移

以下、沿革のうち前身会社時代を含めた発電所の開発史について記述する。

金井発電所(吾妻川)

金井発電所(2013年撮影)

東京電力の発電所のうち群馬県に位置したものの一つが金井発電所北緯36度31分21.5秒 東経138度59分18.5秒)である。旧群馬電力が群馬郡金島村大字金井(現・渋川市)にて1920年(大正9年)4月に着工、2年半の工期を経て1922年(大正11年)11月に完成させた[113]。送電開始は12月26日付である[111]。発電所出力は10,800kWであり[113][114]、送電線は東京方面への群馬線が接続した[113]

利根川水系吾妻川を利用する水力発電所の一つで、吾妻川では下流寄り(利根川合流点寄り)にあり、上流側に群馬水電(旧・須川電力)が計画する箱島発電所[注釈 5]、下流側に下記の渋川発電所が立地する[87]。取水口位置は吾妻郡東村大字箱島(現・東吾妻町)で[116]、水路・発電所ともに吾妻川右岸(南側)にある[87]

この吾妻川は支流域に草津温泉があり、ここからの水が須川(現在名白砂川)を経て吾妻川に合流することから、水質が酸性を帯びるという特徴があった[28]。このため工事への懸念から水力発電計画が長年立てられないでいたが、旧群馬電力創業者の田島達策は放置されていた吾妻川の有効活用を志し、1906年(明治39年)に県内有志とともに吾妻川の水利権を申請した[28]。前後して浅野総一郎も出願しており競願となったが、県当局の調停によって妥協がなり、同年9月、須川合流点の下流2里にある松谷を境界として上流側は浅野側、下流側は田島側にそれぞれ水利権が許可された[28]。田島側は早期着工を目指すものの、浅野側発電所の放水路より取水する設計を採用したため浅野側が起工しないうちは着工できなかった[28]。しかしその間に吾妻川の各地を調査した結果、下流の金井・渋川地点であれば酸性の河水の影響による金属腐食のおそれはなく工事にまったく支障はない、との結論を得たため先行起工の運びとなった[28]。河川の特性上、完成した金井発電所の水車には耐酸性のものが採用されている[113]

1928年時点における金井発電所の設備等は以下の通り[117]

東京電灯への合併後、金井発電所は1941年(昭和16年)10月に東京電灯から日本発送電へと出資された[118]。続く太平洋戦争1951年(昭和26年)に行われた電気事業再編成では東京電力に継承されている[119]

渋川発電所(吾妻川)

金井発電所とともに群馬県に位置した発電所が渋川発電所北緯36度30分13.5秒 東経139度00分22.5秒)である。元は旧群馬電力の姉妹会社・吾妻電気が計画した地点だが、旧群馬電力がこれを吸収し[34]、金井発電所建設に続く第2期工事として1923年(大正12年)1月群馬郡金島村大字阿久津(現・渋川市)にて着工した[120]。2年後の1925年(大正14年)2月に落成し、2月22日より試運転を始めたところ渇水期にあたり電力不足が生じていたため直ちに送電が開始された[74]。完成後検査の終了は東京電力発足後の同年4月である[74]

利根川合流点に近い吾妻川最下流部の右岸に立地する[87]。金井発電所の放水を利用する発電所で[34]、日本で最初のサイフォン式水路を有するという特徴もある[120]。発電所出力は5,800kW[120][114]。1928年時点における渋川発電所の設備等は以下の通り[117]

  • 取水河川:利根川水系吾妻川
  • 使用水量:1,200立方尺毎秒(約33.39立方メートル毎秒)
  • 有効落差:72尺(約21.82メートル)
  • 水車:エッシャーウイス製フランシス水車2台
  • 発電機:ウェスティングハウス製三相交流発電機2台(容量4,250キロボルトアンペア)

金井発電所と同様に1941年東京電灯から日本発送電へ出資され[118]、戦後は東京電力に継承された[119]

早川第一発電所

早川第一発電所(2010年撮影)

山梨県を流れる富士川水系早川の名を冠する3か所の発電所で最大規模のものが早川第一発電所北緯35度25分37.0秒 東経138度24分15.5秒)である。所在地は南巨摩郡五箇村大字榑坪[121](現・早川町)。旧早川電力の第1期工事として「榑坪発電所」の名で建設されたもので[9]、1920年秋に着工[19]1923年(大正12年)6月末に完成し[9]、7月15日より運転を開始した[110]。1年後の1924年(大正13年)4月には4号発電機も完成している[48]

発電所は富士川本流との合流点から4キロメートルほど早川をさかのぼった場所の左岸側(北側)に位置する[122]。その取水口は早川をさらに約20キロメートルさかのぼった南巨摩郡三里村大字新倉(現・早川町)にあり、この間に約10キロメートルの導水路を通している[122]。導水路は完成後の改造により途中の渓流からも取水可能である[122]。導水路終端が繋がる上部水槽は調節池の機能を併せ持つ(有効貯水量5万2000立方メートル[122]。発電所出力は当初20,000kWであったが[114][122]。取水口の直上に下記の田代川第一発電所が建設されると水量増加によって早川第一発電所の出力も25,100kWに増加した[122]

1928年時点における早川第一発電所の設備等は以下の通り[117]

  • 取水河川:富士川水系早川
  • 使用水量:430立方尺毎秒(約11.97立方メートル毎秒)
  • 有効落差:738.5尺(約223.79メートル)
  • 水車:ボービング (Boving) 製ペルトン水車4台(うち1台予備)
  • 発電機:芝浦製作所製三相交流発電機4台(容量8,000キロボルトアンペア、うち1台予備)
  • 変圧器:芝浦製作所製

東京電灯への合併後の1928年(昭和3年)末、一部設備の改造により発生電力の周波数が50ヘルツから60ヘルツへと転換された[122]。1941年10月に東京電灯から日本発送電へ出資され[118]、戦後1951年に東京電力へと継承されている[119]

早川第二発電所

早川第一発電所に関連する発電所に早川第二発電所がある。これも早川から取水する発電所であり、南巨摩郡都川村大字保(現・早川町)に取水口、硯島村大字大島に放水口(発電所)をそれぞれ設ける[123]。どちらの場所も早川第一発電所の取水口から発電所までの間にあたる[124]

旧早川電力最初の発電所として「大島発電所」の名で建設され、1921年(大正10年)1月に完成、2月より運転を開始した[19]。翌1922年時点での発電所出力は最大2,100kWで、電業社製フランシス水車と芝浦製2,500キロボルトアンペア発電機各1台を備える[125]。発生電力は榑坪(早川第一)発電所の工事に用いられたほか[19]、地元の身延電灯にも送電された[126]。その後1923年7月に榑坪発電所が運転を開始したのと同時に運転を休止した[110]

逓信省の資料には、1927年時点では出力450kWで休止中[127][128]、東京電灯合併後の1939年時点では出力1,487kWで休止中とある[129]。早川第一発電所などと同様に日本発送電へと出資されるが[118]1944年(昭和19年)8月に廃止された[114]

早川第三発電所

田代川第一発電所(左)と早川第三発電所(右)。手前は早川第一発電所取水堰堤。(2010年撮影)

早川にて最後に建設された発電所が早川第三発電所北緯35度29分16.0秒 東経138度19分43.0秒)である。所在地は南巨摩郡三里村大字新倉[130]。旧早川電力第2期工事の一環として別会社・田代川水力電気によって着工され[9]、東京電力による吸収後の1926年12月下旬に完成、翌1927年(昭和2年)1月中旬に送電を開始した[131]

取水地点は南巨摩郡西山村大字下湯島(現・早川町)にあり、ここから早川左岸に沿う約5キロメートルの水路にて発電所まで導水する[130]。発電所の対岸(早川右岸側)に田代川第一発電所が立地するほか[124]、すぐ下流には早川第一発電所の取水口があり[122]、発電所放水路は川底に通された田代川第一発電所放水路と合流した上で早川第一発電所取水口に直結している[124]。発電所出力は6,600kWであり周辺発電所に比べると小さいが、田代川第一・第二両発電所の発生電力を集め、自所の発生電力とあわせて昇圧し東京方面へと送電する役割を持つ[130]

1928年時点における早川第三発電所の設備等は以下の通り[117]

  • 取水河川:富士川水系早川
  • 使用水量:200立方尺毎秒(約5.57立方メートル毎秒)
  • 有効落差:493.5尺(約149.55メートル)
  • 水車:電業社製フランシス水車1台
  • 発電機:芝浦製作所製三相交流発電機1台(容量7,400キロボルトアンペア)
  • 変圧器:芝浦製作所製またはウェスティングハウス・エレクトリック製

早川第一発電所と同様1941年に東京電灯から日本発送電へ出資された[118]。戦後は東京電力に継承されている[119]

田代川第一発電所

大井川上流部(「田代川」という)から取水し、分水嶺を貫いてその水を富士川水系早川に流して発電する、という設計に基づく上下2か所の発電所のうち下段のものが田代川第一発電所北緯35度29分12.5秒 東経138度19分44.0秒)である[124]。上記の通り南巨摩郡三里村大字新倉の早川第三発電所対岸に位置する[124]。田代川水力電気による建設中に東京電力へと引き継がれ、1927年(昭和2年)8月に運転を開始した[72]。発電所出力は最大15,500kWである[132]

そもそも大井川の水を早川に落として発電するという構想は、1906年(明治39年)より設立計画が進められていた日英水力電気が取り上げたのに端を発する[133]。その後旧早川電力が早川第一発電所の建設に続く第2期工事として、大井川の水を早川へと導水することで2900尺余り(約800メートル)の大きな有効落差を得て発電するという計画を立て、別個に田代川水力電気を設立して事業に着手した[9]。その中で、導水路を上下2段に分割し下段においては早川支流の渓流3か所からも取水して発電力を増加するのが有利と判断されたため、田代川第一・第二両発電所の建設となったのである[124]。取水口・発電所位置は異なるが日英水力電気の構想が形を変えて実現したものといえる[134]

1928年時点における田代川第一発電所の設備等は以下の通り[117]

  • 取水河川:大井川水系田代川
  • 使用水量:217立方尺毎秒(約6.04立方メートル毎秒)
  • 有効落差:1,152尺(約349.09メートル)
  • 水車:ボービング製ペルトン水車1台
  • 発電機:ゼネラル・エレクトリック製三相交流発電機1台(容量20,000キロボルトアンペア)

東京電灯合併後の1929年(昭和4年)1月に出力制限解除に伴う16,723kWへの最大出力変更が許可された[135]。田代川第二発電所とともに1941年に東京電灯から日本発送電へ出資されたのち[118]、戦後は東京電力に継承されている[119]

田代川第二発電所

田代ダム調整池空中写真(1976年度撮影)
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。

田代川第一発電所と対になる上段側の発電所が田代川第二発電所北緯35度29分15.5秒 東経138度17分56.0秒)である。所在地は南巨摩郡三里村大字新倉で[136]、早川本流から離れた田代川第一発電所西方に立地する[124]。同発電所に続いて1927年11月に運転を開始した[72]。発電所出力は最大20,862kWである[136][132]

大井川(田代川)の取水口は静岡県安倍郡井川村大字田代(現・静岡市葵区)に位置する[123]。周囲は川がU字型に蛇行する部分(通称「二軒小屋」)であり、この地形を活かしてU字型部分の両端に堰堤(田代ダム)を設けてその間を有効貯水量18万9000立方メートルの調整池として使用している[124]。調整池に入らない余水は蛇行を短絡する形で開削された約21メートルの落差を持つ洪水路により放出される[124]。取水口は下流側堰堤の左岸(北緯35度29分54.7秒 東経138度14分48.2秒)に開いており、ここから県境の分水嶺を貫く約5キロメートルの導水路が伸びる[124]。導水路の途中には早川支流の渓流(保利沢)から取水できる地点がある[124]。また発電所放水路はそのまま下流・田代川第一発電所の取水路に繋がっている[124]

1928年時点における田代川第二発電所の設備等は以下の通り[117]

  • 取水河川:大井川水系田代川
  • 使用水量:191立方尺毎秒(約5.31立方メートル毎秒)
  • 有効落差:1,625尺(約492.42メートル)
  • 水車:ボービング製ペルトン水車1台
  • 発電機:ゼネラル・エレクトリック製三相交流発電機1台(容量26,000キロボルトアンペア)

田島火力発電所

東京電力では、需要地側にあたる神奈川県川崎市に2か所の火力発電所を運転した。1か所目の田島火力発電所は旧群馬電力が計画したもので、1924年に着工[29]、東京電力発足後の1925年12月に竣工した[77]。運転開始は翌1926年1月初旬である[77]。所在地は川崎市田島町、発電所出力は10,000kW[132]

水力発電事業においては、大正時代中頃より使用水量を河川の渇水量ではなく平水量(6か月流量)にあわせて設計するのが一般化した[137]。その結果、単位当たり建設費が安くなる一方で季節により発電量に変動が生じる[137]。この差分を特殊電力といい、供給先は第一次世界大戦期においては通年操業を必要としない電気化学工業が定番であったが[137]、戦後は同方面の需要が減退したため、一般需要に振り向けるべく渇水期には火力発電所を運転し発電量を一定化するという操作(火力併用)が一般化していく[56]。田島火力発電所も同種の意図をもって旧群馬電力が計画したものである[29]

1928年時点における設備等は以下の通り[117]

  • ボイラ:エッシャーウイス製ボイラ6台(うち1台予備)
  • 原動機:エッシャーウイス製蒸気タービン2台(うち1台予備)
  • 発電機:ブラウン・ボベリ製三相交流発電機2台(容量5,000kW、うち1台予備)

田島火力発電所の廃止時期は不詳。逓信省の資料には、1939年時点での東京電灯発電所一覧に出力8,000kWの予備発電所として記載がある[129]

東京火力発電所

発電所跡地に建つ石碑

川崎市内にあったもう一つの火力発電所が東京火力発電所である。これも渇水期における水力発電量減少を補給するための発電所であり、旧早川電力によって計画された[62][72]。従って早川・田代川での水力開発に対応する関係にある[112]京浜運河に面する埋立地(川崎市大川町、北緯35度29分44.8秒 東経139度42分56.9秒)に位置する[112]

工事は1925年2月設計開始、7月末基礎工事開始という手順で着手される[112]。工事中は工期短縮のため昼夜兼行、建築工事と機械の据付を同時並行で施工された[112]。1年半後の1926年12月中旬に発電機2台のうち1台がまず完成、月内に検査を終え[131]、翌1927年1月より営業運転を開始した[112]。残る1台の工事も同年5月末には完成、6月上旬に検査が完了している[3]。当初の認可出力は35,000kW[138][132]。これに対し機械容量は70,000kWであり、最大140,000kWまでの拡張に対応する[112]

主要機器は東邦電力名古屋市に建設した名古屋火力発電所と同種のものを備える[112]。1928年時点における設備等は以下の通り[117]

  • ボイラ:バブコック・アンド・ウィルコックス製ボイラ4台(うち1台予備)
  • 原動機:ゼネラル・エレクトリック製蒸気タービン2台(うち1台予備)
  • 発電機:ゼネラル・エレクトリック製三相交流発電機2台(容量35,000kW、うち1台予備)
  • 変圧器:芝浦製作所製

東京電灯合併後は「鶴見火力発電所」と称する[62]。東京電灯時代の1934年(昭和9年)から1936年(昭和11年)にかけて大規模な増設工事が行われ発電機計4台を擁する最大出力178,500kWの火力発電所となっている[139]1939年(昭和14年)4月の日本発送電設立と同時に同社へと出資され[118]、戦後は東京電力に継承されたが[140]1965年(昭和40年)に1・2号発電機が廃止となり、1984年(昭和59年)には残る設備も廃止された[141]

送電網の形成

東京電力では発電所建設とともに送電線変電所の建設も順次進めた。主要な送電線には「群馬本線」・「早川本線」・「田代本線」があった。その概要は以下の通り。

群馬本線
群馬県下の金井・渋川両発電所に接続する送電線は「群馬本線」であった[142]。金井発電所と川崎第一変電所(神奈川県川崎市小川町[143])を結ぶもので、送電電圧は110kV、亘長は132キロメートル[142]。1922年12月に使用開始された[142]
金井発電所には上毛電力伏田発電所とを結ぶ110kV送電線「伏田線」が接続する[142]。また途中の片山開閉所で分岐して東京市外を迂回し小松川変電所(東京府南葛飾郡松江町[82])へと至る110kV送電線「南葛線」も存在した[131][142]。同線は1927年1月の使用開始である[142]
早川本線
早川第一発電所に関する送電線は「早川本線」である[142]。早川第一発電所を起点に境川開閉所・三島開閉所を経て川崎第二変電所(神奈川県橘樹郡鶴見町[143])へと至る[142]。送電電圧は66kV、亘長は163キロメートル[142]。最初に使用開始された区間は境川開閉所までで、その先は島田変電所(静岡県志太郡島田町[143])へと至る「島田線」に接続[142]。1923年7月に早川第一発電所が運転を開始するとその電力はまず島田変電所へと送電された[110]。翌1924年4月、境川開閉所から三島開閉所までの区間が使用開始となり[142]、沼津変電所(静岡県駿東郡大岡村[143])への送電が始まる[48]。そして同年9月残る川崎第二変電所までの区間も使用開始された[142]
田代本線
田代川第一・第二両発電所おおび早川第三発電所に接続する送電線は「田代本線」である[142]。早川第三発電所と川崎第一変電所を結ぶ亘長160キロメートルの送電線であり、社内で唯一154kVの送電電圧を採用する[142]。早川第三発電所の運転開始後、1927年9月に全線使用開始となった[3][142]
なお早川第三発電所と早川第一発電所の連絡線として66kV送電線「新倉線」があった[142]。同線は1927年1月の早川第三発電所送電開始とともに使用開始となっている[131]

また東京電力の自社設備ではないが、親会社の東邦電力により1925年7月名古屋火力発電所(名古屋市)と浜松変電所(浜松市原島)を繋ぐ送電電圧77kVの浜松送電線が完成した[144]。1927年5月時点では浜松変電所における東邦電力から東京電力への供給高は9,000kW(他地点で別に750kWも供給)で、これは東京電力社内では上毛電力からの受電に次ぐ規模の購入電力であった[127]

合併による発電所取得

これまで記述してきた9か所の自社建設発電所以外にも、東京電力は合併により引き継いだ発電所を群馬・山梨・静岡・愛知の4県に構えた。当該発電所の一覧は以下の通り。

群馬県所在
発電所名 種類 出力[114]
(kW)
所在地・河川名[114] 運転開始[114] 備考
四万 水力 17 吾妻郡沢田村(現・中之条町
(河川名:利根川水系四万川
1914年10月 前所有者:吾妻軌道[114]
1940年代廃止[114]
名久田 水力 75 吾妻郡名久田村(現・中之条町
(河川名:利根川水系名久田川)
1912年5月 前所有者:吾妻軌道[114]
1927年6月廃止[145]
山梨県所在
発電所名 種類 出力[114]
(kW)
所在地・河川名[114] 運転開始[114] 備考
身延 水力 55 南巨摩郡身延村(現・身延町
(河川名:富士川水系身延川[146]
1913年4月[146] 前所有者:静岡電力[114]
1940年代廃止[114]
静岡県所在
発電所名 種類 出力[147]
(kW)
所在地・河川名[127][128] 運転開始[147] 備考
鳥並 水力 1,060 富士郡柚野村(現・富士宮市
(河川名:富士川水系芝川
北緯35度14分26.6秒 東経138度33分29.8秒 1922年12月 前所有者:静岡電力[147]
現・中電鳥並発電所
大久保 水力 1,792 富士郡芝富村(現・富士宮市)
(河川名:富士川水系芝川)
北緯35度13分29.7秒 東経138度33分41.9秒 1911年9月 前所有者:静岡電力[147]
現・中電西山発電所
川合 水力 3,080 富士郡芝富村(現・富士宮市)
(河川名:富士川水系芝川)
北緯35度12分0.9秒 東経138度33分45.8秒 1920年2月 前所有者:静岡電力[147]
現・中電長貫発電所
朏島 水力 632 富士郡芝富村(現・富士宮市)
(河川名:富士川水系芝川)
北緯35度11分35.6秒 東経138度34分5.6秒 1926年2月 前所有者:静岡電力[147]
現・中電芝富発電所
小山 水力 1,400 榛原郡上川根村(現・川根本町
(河川名:大井川
北緯35度8分29.1秒 東経138度8分40.2秒 1912年6月[20] 前所有者:日英水電[147]
1936年11月廃止[147]
瀬尻 水力 120 磐田郡龍山村(現・浜松市
(河川名:天竜川水系不動沢川[148]
1913年5月[148] 前所有者:天竜電力[147]
1938年4月廃止[149]
川瀬 水力 100 磐田郡上阿多古村(現・浜松市)
(河川名:天竜川水系阿多古川
1908年9月[148] 前所有者:天竜電力[147]
1944年2月廃止[147]
落合 水力 100 磐田郡上阿多古村(現・浜松市)
(河川名:天竜川水系阿多古川)
1913年12月[148] 前所有者:天竜電力[147]
1944年5月廃止[147]
静岡火力 汽力 2,000 静岡市音羽町 1924年12月 前所有者:静岡電力[147]
1930年代廃止[147]
中泉 ガス力 150 磐田郡中泉町(現・磐田市 1911年 前所有者:天竜電力[147]
1920年代廃止[147]
浜松 汽力 1,000 浜松市野口町 1913年9月 前所有者:日英水電[147]
1936年9月廃止[150]
愛知県所在
発電所名 種類 出力[147]
(kW)
所在地・河川名[127][128] 運転開始[147] 備考
巴川 水力 1,500 東加茂郡盛岡村(現・豊田市
(河川名:矢作川水系巴川
北緯35度5分25.6秒 東経137度19分15.9秒 1916年2月 前所有者:日英水電[147]
現・中電巴川発電所
白瀬 水力 1,119 東加茂郡松平村(現・豊田市)
(河川名:矢作川水系巴川)
北緯35度4分30.0秒 東経137度14分17.0秒 1920年1月 前所有者:日英水電[147]
現・中電白瀬発電所

供給の推移

以下、沿革のうち供給の推移について詳述する。

東京・神奈川での供給

東京電力では、東京府神奈川群馬山梨静岡愛知の5県に供給区域を有した。その中で事業規模が大きかったのは東京・神奈川方面における供給である。同方面の供給区域には、電灯用電力の供給が認められる電灯電力供給区域と、それが認められない電力供給区域の2種があった。

電灯電力供給区域

まず電灯電力供給区域については、旧群馬電力が1923年(大正12年)5月に京浜電気鉄道(現・京浜急行電鉄)より譲り受けた地域にあたる。京浜電気鉄道より譲り受けた供給区域は以下の通り[41]

上記範囲のうち荏原郡の全域と橘樹郡鶴見町・潮田町は東京電灯の電灯電力供給区域と重複している[42][151]。荏原郡馬込町・池上町に限っては東京市営電気供給事業の電灯電力供給区域とも重なる[152]。なお橘樹郡のうち川崎・御幸・大師・田島・鶴見・潮田の6町村は京浜電気鉄道の事業を譲り受ける前から旧群馬電力の電力供給区域に含まれた[40]

京浜電気鉄道の兼営電気供給事業は、大森・川崎間の電車を開通させたばかりの同社が1901年(明治34年)8月より大井町・入新井町・大森町を供給区域として開業したものである[153]。路線網の整備が一段落すると供給事業の拡大に乗り出して1909年(明治42年)10月より蒲田町・川崎町などでも開業し、順次供給を拡大していった[154]。旧群馬電力への移管後、1923年9月1日に関東大震災で被災。営業所や変電所の故障を生じたが、停電は短期間で電灯は6日、動力供給は8日には再開した[32]

電力供給区域

一方電力供給区域については、旧早川電力から継承した地域、旧群馬電力から継承した地域、東京電力発足後に許可を得た地域の3つがあった。

第一の地域は旧早川電力が1921年7月に日英水力電気(未開業)より譲り受けた東京府内の区域である。これには1構内につき50馬力以上の電力供給に限るという条件がつく[75]。該当区域は以下の通り[51][155]

第二の旧群馬電力から引き継いだ地域は、神奈川県横浜市内の一部が該当する[75]。ここでは1構内につき100馬力以上の電力供給に限るという条件がつく[75]。前身の京浜電気鉄道でも横浜市内において浅野造船所船渠部に供給していた(1921年6月時点・当時は供給区域外)[156]

上記2地域を電力供給区域として発足した東京電力では、東京府・神奈川県の全域ならびに埼玉県の大部分を電力供給区域に追加する許可を申請した結果[75]、1926年5月24日、東京府内の下記地域に限り1構内50馬力以上の電力供給区域とする許可を得た[82]。これが第三の地域である。

以上の電力供給区域についても全域が東京電灯の電灯電力供給区域と重複する[42][151]。加えて東京府内では東京市営電気や玉川電気鉄道王子電気軌道の供給区域と重なる部分がある[152]

東京府下の地域では東京電力発足後に順次配電線工事が進められた。南部においては、1926年5月に目黒変電所(荏原郡大崎町[143])が完成し、順次品川町内や東京市内芝区(現・港区)の芝浦埋立地へ伸びる配電線が施工される[77]。東部においては市内本所区(現・墨田区)・深川区(現・江東区)ならびに南葛飾郡大島町(同左)に配電すべく、南葛送電線小松川変電所に連絡する本所(南葛飾郡亀戸町[143])・深川・大島の3変電所が建設され[77]、1927年1月1日より変電所工事中の京橋区(現・中央区月島とあわせた4地域で配電が始まった[131]

さらに1927年3月には南葛飾郡寺島町(現・墨田区)にも変電所が追加され、同地での配電も開始まる[131]。同年4月には寺島変電所から南葛飾郡亀青村(現・葛飾区)の亀有方面への配電も開始されている[131]

電気事業者への供給

東京電力では他の電気事業者(電気供給事業者および電気鉄道事業者)に対しても積極的に電力供給を行った。

先に東京方面への進出を果たした旧群馬電力では、当初京浜電気鉄道に対し供給用・電鉄用として6,000kWを供給する契約を結んでいた[34]。鉄道専業となった後の1927年5月時点でも同社に対しては電源のすべて(計2,500kW)を供給する[157]。旧群馬電力ではさらに市内電車と供給事業を経営する東京市に対しても1924年2月から2,000kWの送電を開始した[33]。市への供給は徐々に拡大し東京電力時代には最大9,000kWに達するが、市営事業の主電源である鬼怒川水力電気からの供給 (37,000kW) に比べると小さい[158]

1924年7月に東京方面への送電線を完成させた旧早川電力では、まず同年9月19日より東京湾埋立に対し3,000kWの送電を開始し、次いで川崎変電所の完成に伴い10月16日より旧群馬電力に対し3,000kWの送電を始めた[6]。このうち東京湾埋立は橘樹郡田島町・潮田町両地先にて埋立事業を展開しており、自社埋立地に進出した浅野セメント川崎工場・浅野造船所・日本鋼管などの工場に対し酒匂川水系の落合発電所(出力7,000kW)を電源として供給していた[159]。1927年5月時点でも東京湾埋立の電気事業を引き継いだ東京湾電気に対し引き続き3,000kWを供給している[157]

上で取り上げた事業者以外にも、1927年5月時点では富士電力(4,000kW供給)、小田原急行鉄道(現・小田急電鉄、2,300kW供給)、目黒蒲田電鉄(現・東急電鉄、1,100kW供給)といった大口需要家があった[157]

その他地域での供給

東京府・神奈川県以外の供給区域は群馬県の一部、山梨県南部、静岡県中部・西部、愛知県の一部にあった。以下、順に供給区域一覧と前身事業者の概要について述べる。

供給区域一覧

1926年12月末時点における群馬・山梨・静岡・愛知の4県における供給区域は以下の通りである[152][160]。いずれも電灯電力供給区域で、電力供給区域はない。

群馬県 吾妻郡
(1町2村)
中之条町名久田村沢田村(現・中之条町)
山梨県 南巨摩郡
(20村)
万沢村富河村睦合村(現・南部町)、
豊岡村身延村下山村飯富村伊沼村八日市場村曙村大須成村静川村西島村(現・身延町)、
本建村硯島村都川村五箇村三里村西山村(現・早川町)、
五開村(現・富士川町
西八代郡
(13村)
栄村(現・南部町)、
大河内村富里村共和村久那土村古関村(現・身延町)、
鴨狩津向村宮原村葛籠沢村落居村岩間村楠甫村(現・市川三郷町)、山保村(現・市川三郷町・身延町)
静岡県 市部
(1市)
浜松市
浜名郡
(4町30村)
曳馬村富塚村白脇村蒲村河輪村五島村新津村笠井町中ノ町村和田村豊西村市野村天王村飯田村芳川村吉野村[注釈 6]神久呂村入野村積志村和地村伊佐見村篠原村北庄内村南庄内村村櫛村可美村雄踏町舞阪町赤佐村中瀬村北浜村竜池村小野口村(現・浜松市)、
新居町(現・湖西市
引佐郡
(3町6村)
麁玉村気賀町中川村金指町井伊谷村奥山村伊平村東浜名村三ケ日町(現・浜松市)
磐田郡
(6町31村)
見付町中泉町梅原村西貝村天竜村御厨村南御厨村向笠村大藤村長野村岩田村幸浦村上浅羽村東浅羽村西浅羽村福田町豊浜村於保村掛塚町十束村袖浦村富岡村井通村池田村敷地村広瀬村野部村(現・磐田市)、
袋井町笠西村久努村今井村三川村(現・袋井市)、田原村(現・袋井市・磐田市)、
二俣町上阿多古村下阿多古村光明村(現・浜松市)
周智郡
(1村)
一宮村(現・森町
小笠郡
(3町42村)
郡内全町村(現・掛川市菊川市御前崎市ほか)
榛原郡
(3町13村)
郡内全町村(現・御前崎市・牧之原市島田市吉田町川根本町ほか)
志太郡
(5町20村)
島田町大長村大津村六合村(現・島田市)、
藤枝町高洲村大洲村青島町稲葉村瀬戸谷村葉梨村岡部町(現・藤枝市)、広幡村西益津村(現・藤枝市・焼津市)、
焼津町東益津村豊田村小川村大富村和田村静浜村相川村吉永村(現・焼津市)、
徳山村東川根村(現・川根本町)
安倍郡
(4村)
服織村南藁科村長田村豊田村(現・静岡市
庵原郡
(1町3村)
内房村(現・富士宮市)、
小島村(現・静岡市)、
松野村富士川町(現・富士市
富士郡
(1村)
芝富村(現・富士宮市)
愛知県 東加茂郡
(1村)
松平村[注釈 7](現・豊田市

前身事業者の概要

東京電力の供給区域は会社合併によって継承した地域がほとんどである。ここでは、旧早川電力・群馬電力時代も含めて東京電力が吸収した群馬・静岡方面の電力会社について改めて記述する。

吾妻軌道株式会社
旧群馬電力が1924年10月27日に合併。合併前の供給区域は群馬県吾妻郡中之条町・名久田村・沢田村・原町小野上村(1921年6月時点)[40]
吾妻軌道は「吾妻温泉馬車軌道」の社名で1910年(明治43年)10月17日に設立[163]馬車鉄道事業と電気事業を目的とする会社であり、馬車鉄道に先駆けて1912年(明治45年)5月より中之条町への供給を開始した[164]。翌1913年(大正2年)7月に社名を吾妻軌道へと改めている[163]。自社電源として名久田村と沢田村の2か所に水力発電所(出力計92kW)を持った[114]
日英水電株式会社
旧早川電力が1920年3月15日に合併。合併前の供給区域は静岡県のうち浜松市・浜名郡・引佐郡と磐田郡・小笠郡・榛原郡・志太郡の各一部(1919年末時点)[165]
日英水電は1911年(明治44年)2月20日東京に設立[166]。浜松の浜松電灯を吸収して開業したのち、志太郡島田町の島田電灯や引佐郡気賀町の気賀電気を統合しつつ供給区域を拡大した[20]。電源面では1912年6月に大井川本流に出力1,400kWの小山発電所を建設、そこから島田・金谷(榛原郡)・川崎(同)・浜松の4変電所へと送電する体制を築いた[20]。その後は西に離れた愛知県の矢作川に水力地点を求めて2か所の水力発電所(出力計2,619kW)を完成させたが、大戦景気下では恒常的な供給力不足に悩まされた[167]
天竜電力株式会社
旧早川電力が1922年4月12日に合併。供給区域は静岡県磐田郡のうち二俣町ほか26町村と周智郡一宮村(1921年6月時点)[168]
天竜電力は1907年(明治40年)1月15日二俣町に設立[169]。翌1908年(明治41年)9月に二俣町を供給区域として開業した[170]。1911年には磐田郡中泉町に営業所を開設し、供給区域を拡大している[171]。二俣付近に3か所の水力発電所を建設したが、小規模で出力は計320kWに過ぎない[171]
福田電力株式会社
旧早川電力が1922年4月12日に合併。供給区域は静岡県磐田郡福島村(後の福田町)・豊浜村のみ(1921年6月時点)[168]
福田電力は1912年7月13日福島村福田に資本金3万5000円で設立[172]1916年(大正5年)5月に開業した[170]。自社発電所は持たず、天竜電力からの受電を電源とした[168]
東遠電気株式会社
旧早川電力が1922年4月12日に合併。供給区域は静岡県榛原郡のうち相良・川崎・勝間田坂部初倉吉田の6町村[168]
東遠電気は1910年12月10日川崎町静波に資本金8万円で設立[173]。1912年6月に川崎町ほか2村を供給区域として開業した[170]。同社も自社発電所は持たず、早川電力からの受電を電源とした[168]
静岡電力株式会社
東京電力が1926年10月20日に合併。供給区域は静岡県磐田・小笠・榛原・志太・安倍・庵原・富士の7郡と山梨県南巨摩郡・西八代郡にまたがる(1925年末時点)[174]
静岡電力は1920年(大正9年)10月23日に設立[175]。製紙会社四日市製紙が兼営した電気供給事業を、同社を合併した富士製紙が分離することで成立した[81]。その後1922年にかけて遠江電気・御前崎軌道・身延電灯の3社を合併・吸収し事業を拡大している[144]。電源は富士川水系芝川の水力発電所(4か所・総出力6,564kW)を中心とした[72]
また四日市製紙時代の1911年から大口需要家に静岡市営電気事業が存在した[176]。市に対する供給契約は静岡電力時代に3,000kWとなっており[176]、東京電力でも引き続き3,000kWを供給している(1927年5月時点)[177]

備考

東京電力を吸収した東京電灯は、合併から14年経った1942年(昭和17年)4月、配電統制令に基づく国策配電会社関東配電へと吸収された[178]。次いで同年10月に配電会社間の供給区域交換が行われた際、配電統制の過程で錯綜していた関東配電区域と西隣の中部配電区域の境界は静岡県内では富士川と定められ、元東京電灯区域であった静岡県内富士川以西の地域および愛知県東加茂郡松平村は中部配電へ移管された[179][180]

その後太平洋戦争後の1951年(昭和26年)に電気事業再編成が実施されると、関東配電区域を引き継ぎ(新)東京電力が、中部配電区域を引き継ぎ中部電力がそれぞれ発足した[181][182]。従ってかつての東京電力の供給区域は、戦後は富士川を境に東が(新)東京電力、西が中部電力に分割されている。

供給成績推移表

早川電力・群馬電力および東京電力の供給成績は下表の通り。決算期は3社とも毎年5月・11月であり上期は前年12月から5月までの6か月間、下期は6月から11月までの6か月間となる。

  • 数字は各社の「報告書」「営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)に基づく。
  • 1馬力は0.746キロワット (kW) で計算されている。
早川電力の供給成績(1920年上期 - 1924年下期)
年度 電灯点火数
(単位:個)
電力供給高
(単位:馬力)
備考
1920上 111,378 -
1920下 118,825 -
1921上 128,278 -
1921下 137,038 -
1922上 178,704 -
1922下 196,783 -
1923上 210,368 12,150
1923下 218,298 12,920
1924上 223,459 14,671 他に東京方面で920kW供給
1924下 247,260 14,164 他に東京方面で6,570kW供給
電力供給馬力数は集計法が異なるため1922年分まで省略
群馬電力の供給成績(1923年上期 - 1924年下期)
年度 電灯点火数
(単位:個)
電力供給高
(単位:馬力)
電熱供給高
(単位:kW)
備考
1923上 122,498 6,615 736.1
1923下 134,192 8,982 821.6
1924上 153,981 7,734 1,087 他に電気事業者供給8,500kW
1925上 189,403 7,059 1,209 他に電気事業者供給9,500kW
東京電力の供給成績(1925年上期 - 1927年下期)
年度 電灯点火数
(単位:個)
電力供給容量
(単位:馬力)
不定時電力
供給契約高
(単位:kW)
電熱契約容量
(単位:kW)
1925上 465,625 39,387 4,800 1,740
1925下 490,929 42,329 約10,100 2,320
1926上 523,686 53,641 約9,300 3,310
1926下 656,886 67,655 約7,800 3,055
1927上 684,247 111,078 約8,700 4,504
1927下 715,078 131,583 19,512 4,040

軌道事業について

東京電力では、群馬県内において電気軌道軌道法に基づく軌道)を兼業として経営していた。区間は群馬郡渋川町(現・渋川市)から吾妻郡中之条町までの間で[152]、キロ程は21.30キロメートル(1927年度時点)[183]。旧群馬電力が1924年(大正13年)10月27日付で吾妻軌道株式会社を合併したことで兼営事業となったものである[26][163]

前身は1912年(明治45年)7月に開通した馬車鉄道である[163]。吾妻軌道株式会社(旧称「吾妻温泉馬車軌道」)が建設したもので[163]、当初は群馬郡長尾村大字吹屋字鯉沢(現・渋川市吹屋)の利根軌道分岐点を起点として中之条町大字伊勢町の林昌寺前に至る18.04キロメートルの軌道であった[164]。渋川・鯉沢間は利根軌道と共同使用とすることで渋川・中之条間の運行とされた[164]電化開業は8年後の1920年(大正9年)11月である[163]

旧群馬電力が吾妻軌道を合併し軌道事業を直営化した目的は、金井・渋川両発電所の上流側を開発するにあたりその資材輸送に充てるためである[184]。合併後の1925年(大正14年)3月6日付で利根軌道(当時は東京電灯が経営)が廃線となったことから、共同使用であった渋川・鯉沢間を自社路線としている[185]。次いで1927年(昭和2年)には上越線渋川駅前までの延伸工事が進められ[3]、10月1日付で開業をみた[186]

軌道の軌間は馬車鉄道時代のまま762ミリメートル軌間を採用[185]。軌道用の直流(550ボルト)を出力する変電所として群馬郡小野上村(現・渋川市)に村上変電所を構えた[143]車両は24人乗りの木造電車(四輪単車)4両と16人乗りの木造付随車(同)6両、電気機関車3両、それに貨車を保有していた[185]。1927年下期(6月から11月まで)の乗客数は4万9215人(1日平均269人)[3]。同期の事業収入は1万9441円を挙げたが、これは総収入の0.25パーセントに過ぎず、収入利子・有価証券収益の金額よりも少ない[3]

渋川・中之条間の軌道は東京電力を合併した東京電灯も引き続き経営したものの、6年後の1934年(昭和9年)9月30日付で廃線となっており、現存しない[185]

役員一覧

取締役

東京電力では以下の14名が取締役を務めた。

  • 就任日・社内役職については計6回の「営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)を典拠とする。
取締役氏名 就任日 役職 備考
田島達策 1925年3月16日 代表取締役社長 前群馬電力社長[26]
運送店三鱗合資会社元代表[187]
松永安左エ門 代表取締役副社長 前早川電力社長・群馬電力副社長[6][26]
東邦電力副社長と兼務[50]
宮口竹雄 専務取締役 前群馬電力専務[26]
東京帝大工科大学電気科出身の技術者[52]
結城安次 常務取締役 前早川電力取締役(1924年6月就任)[6]
元逓信大臣藤村義朗秘書官[188]
進藤甲兵 常務取締役 岐阜電力(東邦系)常務から転任[189]
角田正喬 前早川電力常務[6]
東邦電力常務と兼務[50]
中村円一郎 前早川電力取締役[6]
静岡県多額納税者・貴族院議員[190]
安田善五郎 前群馬電力取締役[26]
安田保善社理事、安田家当主善次郎[191]
高津仲次郎 前群馬電力取締役[26]
群馬県選出衆議院議員[192]
高野省三 安田保善社参事[193]
佐竹義文 1926年10月20日 常務取締役 熊本県知事[194]
大川平三郎 静岡電力社長[174]
樺太工業富士製紙社長[195]
熊澤一衛 前静岡電力専務[174]
三重県多額納税者・富士製紙取締役[196]
三谷一二 1927年6月29日 三菱鉱業会長[197]

監査役

東京電力では以下の6名が取締役を務めた。

  • 就任日については計6回の「営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)を典拠とする。
監査役氏名 就任日 備考
前田米蔵 1925年3月16日 1927年4月19日辞任[198]
前早川電力取締役[6]、東京選出衆議院議員[199]
田中徳次郎 前早川電力常務[6]、東邦電力専務と兼務[50]
青木正太郎 前群馬電力監査役[26]京浜電気鉄道社長[200]
田島庄太郎 前群馬電力監査役[26]、田島達策長男[52]
田中栄八郎 1926年10月20日 前静岡電力取締役[174]、大川平三郎実弟[201]
穴水要七 前静岡電力取締役[174]
富士製紙専務・山梨県選出衆議院議員[202]

脚注

注釈

  1. ^ 富士製紙の持株は三菱鉱業などで引き受けた[13]
  2. ^ 設立時の所在地は麹町区有楽町1丁目1番地[5]。1924年4月に麹町区永楽町1丁目1番地の東京海上ビルへ移転[6]
  3. ^ 当初の所在地は京橋区西紺屋町3番地[31]。関東大震災で事務所が全焼したため麹町区永楽町2丁目10番地の永楽ビルに仮移転ののち[32]、翌1924年5月正式に同地へ移転[33]
  4. ^ 一般の需要家に直接供給せず、発電送電変電設備を保有して大量の電力を他の電気事業者に供給することを電力の「卸売り」という。逆に一般需要家への配電設備を持ち電灯・電力の供給をなすことを「小売り」という[60]
  5. ^ 箱島発電所は戦後の東京電力によって1951年(昭和26年)11月に完成した[115]
  6. ^ 1921年11月供給区域に追加[161]
  7. ^ 1921年10月大字白瀬を供給区域に追加[161]。加えて1925年1月、産業組合(松平電気利用組合)を通じて白瀬発電所より村内の未配電集落に供給開始[162]

出典

  1. ^ a b c d 商業登記 株式会社設立・群馬電力株式会社変更・早川電力株式会社解散」『官報』第3887号附録、1925年8月7日付。NDLJP:2956036/20
  2. ^ a b c 「商業登記 東京電力株式会社解散」『官報』第494号、1928年8月18日付。NDLJP:2956955/10
  3. ^ a b c d e f 「東京電力株式会社第6回営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)
  4. ^ 一例として「東電と東力の合併決定す」『中外商業新報』1927年12月15日付(神戸大学附属図書館「新聞記事文庫」収録)。
  5. ^ a b c d e f g 「商業登記 株式会社(設立)」『官報』第1816号附録、1918年8月21日付。NDLJP:2953929/14
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  • 渋川市誌編さん委員会(編)『渋川市誌』 第3巻通史編下、渋川市、1991年。 
  • 天竜市役所(編)『天竜市史』 下巻、天竜市役所、1988年。 
  • 中之条町役場(編)『群馬県吾妻郡中之条町郷土誌』中之条町役場、1919年。NDLJP:960661 
  • 松平町誌編纂委員会(編)『松平町誌』豊田市教育委員会、1976年。 
  • 身延町誌編集委員会(編)『身延町誌』身延町、1970年。 

その他書籍

戦前

  • オーム社(編)『全国大発電所一覧』オーム社、1933年。NDLJP:1210456 
  • 駒村雄三郎『電力界の功罪史』交通経済社出版部、1934年。 
  • 人事興信所(編)『人事興信録』
    • 『人事興信録』 第5版、人事興信所、1918年。NDLJP:1704046 
    • 『人事興信録』 第8版、人事興信所、1928年。NDLJP:1078684 
  • 電気之友社(編)『電気年鑑』
    • 『電気年鑑』 大正15年、電気之友社、1926年。NDLJP:948322 
    • 『電気年鑑』 昭和3年、電気之友社、1928年。NDLJP:1139346 
    • 『電気年鑑』 昭和4年、電気之友社、1929年。NDLJP:1139383 
    • 『電気年鑑』 昭和5年、電気之友社、1930年。NDLJP:1139432 
    • 『電気年鑑』 昭和12年(第22回)、電気之友社、1937年。NDLJP:1114997 
    • 『電気年鑑』 昭和14年(第24回)、電気之友社、1939年。NDLJP:1115068 
  • 中西利八(編)『財界二千五百人集』財界二千五百人集編纂部、1934年。NDLJP:1447438 
  • 西野入愛一『日本コンツェルン全書』 9 浅野・渋沢・大川・古河コンツェルン読本、春秋社、1937年。NDLJP:1281124 
  • 日本動力協会『日本の発電所』 東部日本篇、工業調査協会、1937年。NDLJP:1257046 
  • 野村商店調査部(編)『株式年鑑』 大正8年度、野村商店調査部、1919年。NDLJP:975421 
  • 松下伝吉『人的事業大系』 電力篇、中外産業調査会、1939年。NDLJP:1458891 
  • 三宅晴輝『日本コンツェルン全書』 13 電力コンツェルン読本、春秋社、1937年。NDLJP:1278498 
  • 湯口昌(編述)『城山翁喜寿の賀』三鱗商道団、1934年。NDLJP:1032381 

戦後

  • 中部電力(編)『大井川 その歴史と開発』中部電力、1961年。 
  • 日本経済新聞社(編)『私の履歴書』 第21集、日本経済新聞社、1964年。 
  • 増田完五(編)『増田次郎自叙伝』増田完五、1964年。 
  • 和久田康雄『日本の市内電車―1895-1945』成山堂書店、2009年。ISBN 978-4-425-96151-1 

記事

  • 「群馬電力株式会社」『財政と経済』第4巻第8号、財政経済社、1920年8月、21頁。 
  • 「解剖と批判 早川電力の前途」『実業之日本』第23巻第17号、実業之日本社、1920年9月、79-80頁。 
  • 「会社近況 早川電力の前途」『ダイヤモンド』第9巻第18号、ダイヤモンド社、1921年6月21日、40-41頁。 
  • 「財界批判 早川電力」『実業之日本』第24巻第14号、実業之日本社、1921年7月、90-91頁。 
  • 「財界批判 群馬電力」『実業之日本』第24巻第15号、実業之日本社、1921年8月、92-93頁。 
  • 「早川電力株式会社の現況」『実業公論』第9巻第8号、実業公論社、1923年9月、143-145頁。 
  • 「東京電力は東京電灯を倒せるかどうか」『事業之日本』第5巻第8号、事業之日本社、1926年8月、42-46頁。 
  • 浅野伸一「浜松地方電気事業沿革史」『シンポジウム中部の電力のあゆみ』第9回講演報告資料集 静岡の電気事業史とその遺産、中部産業遺産研究会、2001年、70-99頁。 
  • 谷川竜一「電気技術者・森田一雄と水力発電―植民地挑戦の開発前史として―」(PDF)『土木史研究講演集』Vol.37、土木学会、2017年、229-234頁。